……方舟が蘇ったとき、手を握ったまま呆気に取られるあこやが横にいて、思えば随分と胸を撫で下ろしたものだった。


 消滅したはずの大地が足元に戻り、わざわざ神田のために引き返してきた彼女がそこにいる。きょとんとした顔でこちらを見て、何はともあれ生きていることを理解して。嬉しそうな色を目に浮かべたと思ったら、次の瞬間には口の端を引き攣らせて顔を背けた。
「言うつもりなんてなかった」ことを発言した自分を思い出したのだろう。

 ちなみに胸を撫で下ろしたというのは別に、あこやが無事でよかったとかいう意味ではない。
 戦場で死んで当然のあこやが、自分のために無意味な最期を迎えずに済んだ。そういう安堵だ。
 戦士であるあこやが神田のもとに戻ってきて、しかも扉が壊れた瞬間、神田は至極真面目に「景政に合わせる顔がない」と考えた。彼にとって彼女はそれ以上ではなかったが、決してそれ以下でもない。


 ゆっくりと再生していく自分の体を見下ろし、生きている、と意外な気持ちになった。
 だが今回はひとりだ。



 生きている。



 エクソシストになるために生み出されたこの自分が、アルマとともに教団から逃げ、誰も知らない地の果てで最期を迎えて、イノセンスを失ってなお生きている。
 不思議な気持ちだった。やりようによっては、このままただの人間として生きていくこともできるかもしれない。
 いまのこの体なら死ぬことも容易い。

「…………」


「あなたに大切な人がいることは解っているんだけど、お父さんが死んだあの日から、わたしはあなたがいないと息もできない」


 ふと胸に過ぎった声に、小さく溜め息をついた。

「……俺が生きてんだから、まだアクマにはなれてねぇだろうな」

 こうなることが解っていたから、彼女はあの秘密を暴露してしまった自分を恥じていたのか。
 あのときはまたこいつ面倒くさいことを色々考え込んで本当に面倒くさい奴だな……としか思っていなかったのだが。成る程、「神田以上に神田のことを知っている」と豪語するだけのことはある。

 仕方ない。
 他にも気にかかることはあることだし、あの強がり上手な泣き虫がアクマになぞならぬよう、いまはとにかく生き延びてみるか。


 アレン・ウォーカーと市村あこや。
 生きる理由も目的もなくなった神田ユウが、安らかに死ぬには心残りなふたつの足枷。



 こんなときくらい泣き顔が思い返されそうなものだが、それでも思い浮かぶのは笑顔ばかりだった。
 最早呪いだな。



レゾンデートル


それでも海を臨む理由、逆




 南イタリアの地下都市を出た神田は、自分でもよく解らない流れでジーナという老女の自宅に世話になっていた。

 団服のポーチの中に残っていた金でとりあえず衣服を整えたはいいが、当面の食費や宿賃には足りない。さすがにその辺を歩く一般市民から奪うわけにもいかなかったので、締め上げて財布を奪っても問題なさそうな破落戸を捜していたところ、お誂え向きに路地裏で暴行現場に遭遇した。どうやら酔っ払いが老女と少年に絡んでいるらしい。よし、丁度いい。
 ということで酔っ払いを締め上げて財布を頂戴したところ、結果的に助けるかたちになった二人からいたく感謝され自宅に招かれ、流れで宿も金もないことがバレて「じゃあ好きなだけうちでお過ごしなさいな」となったのであった。

「ユウおはよー!」

 孫のカルロは九歳。なんの因果か、神田やアルマやあこやが悲劇に見舞われたのと同じ年。
 名前を訊かれて「神田だ」と答えると「カンダダ? 変な名前。それファーストネーム?」とキラキラした目で見つめられ、うっかり下の名前を零したところ、そっちのほうが呼びやすかったらしい。

「……ああ」
「ああ、じゃなくて。おはよー!」

 しかもこいつ、執拗に挨拶させたがる辺りがあこやに似ている。

 ジーナが住んでいるのはマテールから少し離れた海沿いの町だ。潮風と潮騒に包まれた、静かで穏やかな場所。
 長年黒の教団で寝起きしていた神田にとっては、造り物の世界かと思えるほど平和で、どこか嘘くさい。

 隙間風の吹き込むこの家に彼らは二人きりで暮らしている。
 もともとはジーナの息子夫婦、つまりカルロの両親も一緒に暮らしていたが、半年前に病で死んだそうだ。以来、祖母と孫とで過ごしてきた。
 暫く男手のなかったこの家で、神田は重宝された。
 壁や屋根の補修だの、高いところの拭き掃除だの、重い荷物の運搬役だの。
 ……戦闘以外で重宝されたのは初めてかもしれない。

 カルロの父親が着ていたという服を借りて、ジーナの作った朝食を、カルロと一緒に食べる。
 神田やあこやの知らない『普通の家族』とは、きっとこういう感じなのだろう。

「ユウ今日は何すんのー?」
「……隣のバーさん家の屋根、直しに行く」

 全体的に老人の多い町だったので、神田は隣近所に呼ばれるようになっていた。



「フランスに行きたいんですって? 今日はありがとうね、これ足しにして」

 お人好しの多い土地なのかなんなのか。
 神田はいつの間にか、『フランスの友人に会いに行くため資金を貯めている無一文の旅人』ということになっていた。
 こうして色々な家の補修やら力仕事やらに呼ばれると、頑張ってね、と些少の金を渡される。最初はなんだか後ろめたかったものの、町の人々の「助かった」という言葉には裏がないらしいので、正当な給金だと無理やり納得することにした。

 黒の教団に戻るなら、方舟ゲート付近で張るのが一番手っ取り早い。
 恐らく神田は逃亡者として中央庁から手配されているだろう。ルベリエの手の者に捕まるなんて真っ平御免だから、話の通じる顔見知りが通るのを待つ。イタリアにもゲートはあるが、そこからマテールが知られるのは避けたい。そういうわけでフランスの国境付近、プロヴァンスを目指すことに決めた。

 ジーナの家に戻る途中、遥か西に広がる海を臨む。
 後ろにひっついてきて神田の作業を眺めていたカルロは、「ユウってさー」と顔を覗き込んできた。

「いっつも海眺めてるけど、なに考えてんの?」
「……何も」
「うっそだー。ジーナ言ってたぜ、『きっと大事な人が海の向こうにいるのよ』って!」

 なんだそれは。
 海を眺めているのは、それ以外に何も見るものがないだけだ。

 それでも、何の衒いもない純粋な眸でこちらを見上げてくる少年に、一人の面影を感じている自分に気づいた。
 その眼差しが彼女によく似ていたから。


 真っ直ぐで、屈託がなくて。
 よく泣くけれどそれ以上によく笑う。
 教団を憎む自分を、それでもわたしにとっては大切な家族だと言った、とびきり哀れな聖戦の贄。


「別に。……最後に交わした言葉がなんだったか、思い出せねぇだけだ」


 神田は暈けた記憶を一つずつ辿った。
 まだ北米支部が建物として残っていたとき、いつものように軽口を叩いていたような記憶はある。
 その直後、ターバンのノアの変な能力で過去の出来事を巡った。アルマを破壊し続ける悪夢から覚めてみれば、北米支部が壊滅しようとするところだった。咄嗟に、まだ気がついていないあこやの体を、掴んで。

 そして、目を覚ました彼女を置き去りにした。

 九年前の出来事を俯瞰的に追体験し、知らなかった第二使徒計画の全貌もアルマの悲壮な決意も神田の捜していた『あの人』の正体も全て、無理やり知らされて怯えるあこやを。

「そっかー、ユウにも会いたい人がいるのかぁ。ってことは、フランスに行けば会えるわけ?」

 カルロのなかでは完全に、フランスの友人=ユウの会いたい人=大事な人、という恐ろしく安直な図式が出来上がってしまったようだった。
 しかし訂正するのも面倒くさい。

 そもそもあこやがフランスにいるかどうかなんて知らん。
 別に会いたいわけでもないし。

「どうだろうな」
「またそうやって誤魔化す! 秘密の多い男はモテないって父ちゃんが言ってたぞ!」
「知らねえよ」



 その晩は嵐になった。
 夕方から降り始めた雨が、大地を抉る勢いで町を叩く。暴風はまるで女の甲高い悲鳴のように、あるいは男の野太い絶叫のように吹き荒んだ。

 間借りしている寝室の枕元に灯りを入れ、寝台の上で片膝を抱える。

 神田が黒の教団本部に入ったばかりの頃は、あこやにもまだ可愛げがあって、暴風雨や雷に怯えては神田に助けを求めに来ることがあった。もちろん景政が本部にいれば彼を訪れていたが、任務で空けているときは隣の神田の部屋に突撃してきたのだ。
 ゴンゴンゴンゴンゴン、と勢いよくドアをノックして「神田ぁぁぁ開けてぇぇぇ」なんて、この世の終わりみたいな声を上げて。
 思わずふっと鼻で笑ってしまった。

 すると、思い出よりはいくらか控えめにだが、扉がノックされた。
 そっと顔を覗かせたのは案の定カルロ。こんなとこまであいつに似てんのか、と若干呆れる。

「……ユウ〜、風がうるさくて寝れない」
「嵐が怖くて寝れねぇんだろ」
「そうとも言うけど! そうではない!」

 毛布を被ってぽてぽて歩み寄ってきたカルロは、神田の足元に丸まった。
 確か、眠れない夜はホットミルク、だったか。……いやそれは面倒くさい。
 毛布の塊になっているカルロを引き摺りだして寝かせると、神田はその隣で横になった。灯りを消すとカルロが「うぅ」と唸る。

「数字かぞえろ」
「数字?」
「百から逆に。目つむって黙って数えてりゃ、八〇くらいで寝てる」
「ユウはいつもそうするの?」
「俺じゃねえ。聞いた話だ」
「それってユウの大事な人?」
「窓から放り出すぞ」

 ごめんなさい放り出さないでください。カルロはがばっと毛布を頭の上まで引き上げて、そして静かになった。



 死にたいほど世界が憎かった夜、小さな手が差し伸べられた。
 何度も、何度も。
 懲りることなく。



 本部に入ってから再発した悪夢に苛まれるたび、隣の部屋からノックが聞こえた。
 ねえ神田、だいじょうぶ。神田の痛いの痛いの、あこやの膝までとんでこい。そんな声が聴こえてくるような、ささやかで、けれど確かな『ことば』が。


 ……ああ、全く。
 本部にいた頃は特に気にしていなかったのに、あこやと遠く離れた途端に、どうでもいいことばかり思い出す。


 カルロを寝かせた手前起き上がることはしなかったものの、すっかり目が冴えてしまっていた。九年分の記憶が、意思や望みに拘わらず、なぜか勝手に降り積もる。
 罪悪感かもしれなかった。
 斬り捨てて、吹っ飛ばして。一瞥も一言も残さず置いてきたことへの。

「……ユウ〜〜どこまで数えたかわかんなくなった」

 カルロの情けない声が、ざわつく胸を一掃する。

「もう一回数え直せ」
「う〜〜……。おやすみ、ユウ」


「やっぱりわたし神田におはようって言いたいし、行ってきますも、行ってらっしゃいも、おかえりもただいまも言いたい」
「一緒にいただきますとごちそうさまって言って、おやすみって言ってから眠りにつきたいよ」


「……さっさと寝ろ」


 吐き捨てるように言いながら瞼を閉じる。
 おやすみ、とは口にできない。あこや相手にだってほとんど言ったことがないのだから。


 外は嵐。神田を含めた多くのものを喪ったばかりの彼女は、ちゃんとひとりで眠れているだろうか。