景政の手引きでアジア支部から逃亡した神田とマリは、道中待ち構えていたティエドール元帥と合流した。
 元帥から教団各所へ第二使徒計画に対する厳重な抗議を入れ、その回答を待つ間、広大な中国を旅する。絵描きの元帥は美しいものが好きで、神田たちをそういう場所に連れ回しては「御覧」と微笑んだ。

「どうだ? 神田」

 盲目のマリはその度に、神田に訊ねた。
 最初の頃の返事はほとんど「興味ねぇ」とか「どうでもいい」だった。本当に、これっぽっちも興味がなかった。
 けれど時間が経ち、自分の生まれた研究所の外の世界に触れるにつれて、その景色をマリに伝える努力くらいはできるようになっていった。

「水がとうめいだ」
「へぇ。どのくらい?」
「中で泳いでる魚が見える」
「風で葉が擦れる音がする。ここは山の中だろう?」
「ああ」

 湖底がはっきりと見えるほどの透明度。その中に生きている魚。水面には悠然と広がる山々が映し出されていた。
 頬を緩く打つ風、それに乗って薫るみどりの匂い。木々に身を潜めている生き物の気配、声。
 世界はこれを「美しい」というらしい。

「あこやにも見せてやりたいなぁ」

 マリは穏やかに微笑んだ。

「そういうもんか」
「そういうものさ。そう思えるようになった。……神田や元帥や、景政さんやあこやのおかげだな」

 無意識のうちに、うなじで一つに結んだ髪の毛に触れていた。アジア支部を出たあの夜、あこやが結んでくれた髪紐。

「それじゃあ、あこやのために絵を描いていこうかな」

 元帥はいそいそと場所取りをして、画板に紙を広げた。いつもの鉛筆スケッチじゃない。荷物の中から顔料や筆まで出てきた。色まで塗るつもりだ、このオッサン。
 その気配を察したマリが静かに微笑む。

「長くなりそうだな」
「……ああ」


レゾンデートル


それでも海を臨む理由、裏




 そういえば一度だけ、景政と酒を飲んだことがある。
 そんなことを思い出したのは、先日の嵐で屋根が飛んだという老人の家を直してやった礼にと、酒をもらったからだった。
 ちなみに酒はジーナに渡した。料理に使うと喜んでいた。

「あっ、神田が飲んでもいいのよ。お酒は好き?」
「いや」

 ダイニングのテーブルに頬杖をつきながら、夕食の準備をするジーナの後ろ姿をぼんやりと眺める。
 神田の中では料理といえばジェリーの印象だ。そういえば長らく蕎麦を食べていない。ジェリーの作った蕎麦を初めて食べた日からしばらく、神田の食事が三食蕎麦になって、あこやが烈火のごとく怒り狂ったうえ食堂で大ゲンカになったことを思い出した。
「蕎麦が美味しいのは解るし神田の体が普通より適当な食事でも持つのも知ってるけど三食ザル蕎麦は勘弁して」と言われたので、掛け蕎麦や天ぷら蕎麦を混ぜたところ、「そういう問題じゃないでしょうが!!」と竹刀を振り回されたのだ。
 …………。

 頭を抱える。

「……くそ」
「どうかした?」
「なんでもねえ」

 またあこやのことを考えている。なんだか腹が立ってきた。
 そうじゃなくて、酒。景政だ。
 あれは確か、あこやが任務でいなかった夜のこと。



「私は神田に一つだけ嘘をついたことがある」

 どうしても眠れなかった神田が興味本位で酒に手を出すところを見咎められて、説教され、結局なぜか二人で乾杯した。景政は「こちらの酒にはやはり慣れないなぁ」とぼやきながら、科学班特製の義手で器用に手酌していた。

「嘘?」
「ああ。実は日本に『神田』という苗字の友人はいない」
「……?」

 なんだそりゃ、と首を傾げた神田に、彼はゆるりと口角を上げた。
 神田、というファミリーネームは景政が適当につけたものだ。友人の苗字だと確かに言っていたかもしれない。別にたいした嘘ではなかったけれど、わざわざ嘘をついた意味もわからなかった。

「なんで今更そんな話すんだよ」
「矮小な自分に嫌気が差したからだ」

 珍しく……本当に珍しいことに、景政は自嘲するような笑みを口の端に浮かべた。
 景政ほどの人間でも自分を小さいと思うことがあるのか。十四歳当時の神田にはそれが意外だった。
 彼はいつでも泰然としていて、世界をありのままに受け入れているような印象があった。教団にいる大人の中では間違いなく一番まともで、そして強い。

「カゲマサは小さいか?」
「私は小さい人間だよ」
「よくわからねぇ」
「解らないままでいてくれると嬉しい」

 そして。
 翌日、あこやが任務から帰ってくるのと入れ違いに、景政はルーマニアへ旅立っていった。

 その二日後に、神田はあこやとフランスに出発して。イノセンスはなかった。アクマが数体いたのであこやとともに殲滅し、本部へ戻ろうかと駅舎で汽車を待っていた。
 探索部隊の背負っている通信機で、本部に帰還の連絡を入れる。
 普段は通信班が了解してすぐに切るのに、この日はなぜか、わざわざ本部室長のコムイに代わった。続けざまに任務でも入ったのだろうか。

『神田くん、あこやちゃんも一緒にいるよね。二人とも怪我はないかい?』
「ない」
『キミには先に言う。……カゲマサさんが、亡くなった』
「…………」


 今。

 今、なんて。


『任務先のルーマニアで……。今日の午後にも、遺品が本部に届く手筈だ。あこやちゃんに代わってくれる?』


「遺体」ではなく「遺品」。
 景政の遺体は残らなかったのだ。


 受話器を耳から離し、あこやを振り返る。機嫌よさそうに鼻歌を唄う横顔が、これから一体どんな表情になるのか。想像もつかなかったし、したくもない。


「あこや」


 いつもの神田なら「おい」と声をかけたはずだった。
 その僅かな異変を感じ取ったのか、あこやは受話器を受け取りながら、神田の団服に縋るように手を伸ばしてきた。


 ……そんな感じだったから結局、景政が神田という苗字を与えた本当の意味はよく解らないままだ。
 別段、興味もなかった。九年もずっと名乗っているのでそれなりに馴染んだし、ユウと呼ばれるよりは余程マシだと思っている。

 ただ、いつだったか景政はアジア第六研究所を『御戸代』と表現したことがあった。
 ミトシロって何だ、と訊ねた神田に彼はこう答えた。言語や宗教観の違いがあるから厳密には訳せないけれど、と前置きしたうえで。


「神に捧げるための稲を作る田、という意味だ」


 そう考えるとなんとも皮肉な命名のようにも思えたが、あの師は、単純に神田を苦しめるためにそんな苗字を与えたわけではないのだろう。
 多分、忘れるな、と言いたいのだ。
 生まれた場所を。生きる選択を。アルマを破壊した理由を。『あの人』を捜すことを。でなければあのとき『YU』は生きられなかったから。

「……ジーナ」

 独り言のような声にも、彼女は「なぁに」と振り返った。

「呼びました?」
「半年前」

 スープを混ぜる手を止めて、ジーナがきょとりと目を丸くする。
 自分でも言葉が足りないのは解っていたが、さすがに彼女に対して無遠慮な質問をするのは気が引けた。だからといって遠回しに優しく言葉を選べるほど、コミュニケーション能力に長けてもいなかったが。

「会いたいとは思わなかったのか」
「息子と義娘が亡くなったときね? えぇ、会いたかったですとも」

 ジーナもカルロもアクマではない。
 当たり前のことだけれど、今までずっとアクマと戦ってきた神田には不思議でならなかった。

 この世界には確かに、家族を亡くしてなお千年伯爵の魔の手に堕ちず、人間のまま生きていく人々もいるということ。
 一体それとこれと何が違うのか。何が彼女たちを生きさせたのか。

 彼女は神田の質問に腹を立てることもなく、静かに目を細めた。

「でもねぇ。私には、カルロがいましたからね」
「……そういうものか」
「ふふ。そういうものですよ」

 そういえば、景政を亡くしたあこやの隣には、自分がいた。
 団員を家族だと思っているあこやの世界から夥しい数の家族が喪われても、頑丈だった第二使徒の肉体は彼女の隣で生きていた。
 アルマとの戦いで散々酷使したこの体では、もう軽々と「俺は死なねえ」なんて言えないけれど。


 人は理由を求めるものだ。
 自分に自信がないから、ただ生きるだけでも理由が要る。


*     *



 ジーナの家に世話になりだしてひと月も数えないうちに、神田はその町を出た。
 男手が少なく困っていたという家にあらかた手を貸して、「フランス旅費の足しに」と金を渡される。そうして貯まった資金の何割か、食費や滞在費のつもりでジーナに渡すと、彼女はゆっくりと首を横に振った。
 そして取り出した巾着袋を神田の首にかける。
 そのうえ中には小銭が入っていた。

「おい。いらねぇ」
「いいから持って行って」

 にこりと笑う老女の体は神田より二回りも小さく見えるのに、なぜか敵う気がしない。

「カルロと仲良くしてくれて、ありがとうね。父親と母親をいっぺんに亡くして寂しかったはずだけど、神田がうちに来てくれて、あの子とっても嬉しそうだったわ」
「別に何もしてねえよ」

 しわくちゃの手が、神田の手を包み込む。
 骨と皮だけの乾いた皮膚。今この瞬間にも千年伯爵が世界に終末を呼ぼうとしていることを、欠片も知らない呑気な手だ。

「神田が助けてくれなかったら、わたしもカルロもきっと殺されていたでしょう」
「…………」
「あなたの迷いのなさに命を救われた。これくらいさせて頂戴」

 お人好しにもほどがある。ジーナもカルロも、この町のどいつもこいつも。

 だが、本来黒の教団は、こういう何も知らない幸せな人々を救うために在ったはずなのだ。少なくとも、現場で必死に戦うエクソシストや探索部隊、本部で連日連夜働いていた科学班や医療班──彼らはそのつもりだった。

 ジーナがジーナであるために。陰惨な聖戦など知らないまま、穏やかに死んでいけるように。
 そのためのイノセンス。そのための使徒。

「フランスのお友だちによろしくね」

 ついぞ神田は、フランスに友人などいない、と打ち明けることはできなかった。

 彼女たちは何も知らないままでいい。

「ユウもう行っちゃうのー? もっといればいいのに」
「のんびりしてても意味ねぇからな」
「またおいでよ。今度はユウの大事な人も連れてさ」
「いねぇっつってんだろ」

 最後まで懲りないカルロの額を、手の甲でゆるく叩く。
 へへ、となぜか嬉しそうに笑った彼の眦には、ほんの少しだけ涙が浮いていた。

「行ってらっしゃーい! ユウ!」

 二人の住む家を離れても、町を出ていくまでの間、神田は隣近所からやたら声をかけられた。
 行ってらっしゃい、気をつけてね、無事でね、またね。再会を信じてやまない、ぬるま湯のような優しさに似た言葉たち。
 若干ぐったりしながら、海沿いにイタリアを北上していく。



 次の町に到着する直前、街道の端に座り込んで絵を描いている男を見つけた。
 ぎくりとしてしまったのはティエドール元帥を思い出したからだ。似ても似つかない若い青年だったが、画板に敷いた紙に筆を滑らせる、丸まった背中がそっくりだった。

 つい足を止めて、その絵を眺めてしまった。
 神田の気配に気づいた男は顔を上げる。

「なにか?」
「……いや」
「……海をね、描いているんです。妹が病弱で、あまり外に出られないものですから、せめて絵だけでも海を見せてあげたくて」

 言葉少なな神田を意にも介さず、彼は顔料を水で溶き、白い紙を染めていく。
 ぼんやりとその様子を見下ろしていると、暫くしてから「もしかして」と再びこちらを見上げた。

「誰か見せてあげたい人でも?」


 ……この辺りにいる人間というのは、どうしてどいつもこいつも、お人好しで。
 そしてやたらと察しがいいのか。


 苦い顔で黙りこくる神田に微笑みかけた男は、また視線を紙面に戻す。

「もう少しで描き終わりますから、これ、あげますよ。僕はまた描けばいいし」


 ジーナが当たり前にジーナでいられる世界。
 カルロが当たり前に、家族にあいさつできる世界。
 この青年が当たり前に、こうして道端に座り込んで絵を描いて、今日も明日も明後日もその先も、妹の待つ家に帰っていく世界。


 教団が、あこやが、守ろうとしているもの。


「きれいなものを見せてあげたい相手がいるって、幸せなことですよねぇ」


 神田が喋らないのをいいことに、彼は勝手に色々解釈したらしい。
 否定するのも面倒だし、どのように訂正するのがいいのかも解らなかったので、黙っておくことにした。