「ッ……!」

 アクマの爪に掠った脇腹から血が零れる。伸ばした指先も僅かに届かず、二人の体は砂の中に引き摺り込まれた。

「奴だ……!」

 刀を構えた満身創痍の神田の横に戻る。左手で右脇を押さえながら、対アクマ武器を抜刀した。

「──ごめん。反応できなかった」
「程度は」
「ちょっと脇腹抉れた。スリムになったかも」
「馬鹿が。トマといろ、『薄氷』はここだと面倒くせェ」

 数歩下がってトマの脇に控える。
 しばらくは砂の海を泳いでいたアクマだったが、やがてその姿を現すと、「イノセンスもーらいっ!」と嗤いながらその爪に刺さったイノセンスを掲げてみせた。
 腹部をアクマの爪が貫通したグゾル、そしてイノセンスを奪われただの人形と化したララが、粗雑にその足元へ振り落とされる。


「私は醜い人間だ……」
「ララをひとに壊されたくなかった……私が死ぬとき、私の手でおまえを壊させてくれ」
「はい、グゾル。私はグゾルのお人形だもの」

「最後まで一緒にいさせて」



 このホールに辿りついたとき耳にした、二人きりの痛切な願いが蘇る。
 こんな最期、彼らはおろか神田さえ望んでいなかったはずなのに。


レゾンデートル


戦火とイ長調  後篇




 対アクマ武器として科学班に加工してもらう装備型と違って、その身にイノセンスを宿す寄生型のエクソシストは、感情で武器を操ることができる。
 二人の最期を踏み躙ったアクマ、守れなかった自分たちへの怒りを募らせたアレンが、その感情の激しさを表すように左腕の形状を造り変えていった。
 エネルギー弾を連射する形態へと変化したイノセンスを操り、アレンがレベル2を圧倒していく。

「……ララとグゾルを救出する」
「気をつけろよ」

 アレンの攻撃に巻き添えになる危険のある位置に、二人は倒れている。
 見境なく撃ちまくっている様子はないが、あのままではアレンの攻撃を遮ることになりかねない。アクマとアレンの攻防の隙を縫って二人を両脇に抱え、トマの横まで離脱した。
 ララは完全に動きを止めてしまっている。
 グゾルの方も僅かに息はあるが──

「……神田。アレン危ないよ」
「…………」
「エクソシストとして新米でレベル2との戦いもこれが初めて。対アクマ武器が形状を変えるのも多分初めて。寄生型は武器の影響を直に受ける……体の方が耐えられない」
「解ってる」

 六幻を発動した神田が口元の血を拭う。
 アレンのレーザー砲と、彼の対アクマ武器を写し取ったアクマの右腕が真正面からぶつかり合った。爆風に砂が舞う。
 能力をコピーしたといえどイノセンスを扱えるのは適合者だけ、その性能は正しい使い手には遥かに劣る。
 アレン優勢のまま終わるかと思われたが、彼が突如吐血した。
 左腕の発動も解ける。

「──リバウンド!」

「もらった!!」アクマが嬉々として叫んだときには、隣にいた神田は地を蹴っていた。
 蹲って咳き込むアレンを襲うその爪を、神田が右手に構えた六幻一本で受け止める。

「こンの根性なしが土壇場でヘバってんじゃねェよ!! あのふたりを守るとかほざいたのはテメエだろ!!」

 神田の胸の傷から再び血が滲んだ。ああぁぁただでさえ死まっしぐらの大重傷人のくせにと内心はらはらしてしまう。あんなに直接攻撃を受け止めるなんて思わなかった。遠隔攻撃の手段がいくらでもあるくせにバ神田。

「お前みたいな甘いやり方は大っ嫌いだが、口にしたことを守らない奴はもっと嫌いだ!!」
「はは……どっちにしろ嫌いなんじゃないですか」

 怒濤の口撃に目を丸くしていたアレンは、やがて力が抜けたような笑みを浮かべた。

「別にヘバってなんかいませんよ」

「ちょっと休憩しただけです」「……いちいちムカつく奴だ」その応酬が合図だったかのように、神田がアクマの腕を斬り飛ばした。
 同時にアレンが再びイノセンスを発動する。

「「消し飛べ!!」」

 神田の六幻による界蟲一幻とアレンの左腕のエネルギー弾による猛攻を受けたアクマが、天井を突き破りマテールの上空へと吹き飛ばされていった。
 マテールは廃棄されて五百年を超える都市。
 あまり派手に戦うと町ごと崩れるのではとちょっぴり不安になったが、予想に反してどうにか持ち堪えている。少なくとも今すぐ崩れ落ちる様子はない。

 やがて、高い空から、アクマに奪われていたララの心臓が降ってきた。

 満身創痍で倒れ込んだアレンの傍に落ちてきたそれに、彼は朦朧とした意識の中で手を伸ばしている。

「生きてて、ください……」

 肺を病んだ老齢の体のど真ん中を、アクマの凶刃が貫いた。
 出血は多い。体力のないグゾルにどれほどの時間が残されているかは判らなかった。
 脇腹の傷は痛んだが、ここに倒れる男どもほど重傷ではない。まともに戦闘に参加しなかった身で今更アレンの意思を蔑にはできなかったから、立ち上がってイノセンスのもとへと向かう。

「もう一度……ララに……」

 しろく輝くイノセンスを拾い上げた。
 いつ見ても不思議な物質。無垢がそのまま形を得たような見た目をしているわりに、アクマを破壊し、エクソシストを戦場へと駆り立てる。
 希望そのもの。

 きっと神田は「余計なことをするな」と怒るだろうから、わたしが最後にこうしたことは内緒にしておいてもらわなくちゃ。


‥‥‥




『いいねぇ青い空──エメラルドグリーンの海──隣に可愛い女の子。ベルファヴォーレイタリアン!』
「だから何だ」
『「何だ」? フフン羨ましいんだい畜生めっ! アクマ退治の報告からもうもう三日、何してんのさ、ボクなんかみんなにこき使われて外にも出れないまるでお城に幽閉されたプリンセ』
「わめくなうるせーな。大体可愛い女なんてどこにいる──待て抜くなあこや」
『仲いいね。相変わらず』

 トマの背負った無線機で本部のコムイと通話しながらべりべりガーゼを剥がしていく神田を、病室の椅子に腰かけたまま眺める。

 ──あのあと、心臓を戻したララは動きだした。
 だがそれはもう「ララ」ではなく、グゾルに初めて出会った「人形」だった。

 五百年もの間ひとり動き続けた孤独も、八十年をともに過ごした記憶も持たず、砂の中に倒れる老人に向かって手を伸ばし「歌はいかが?」と訊ねた人形。
「ぼくのために歌ってくれるの?」──かつてと同じように答えた老人。
 永い眠りにつこうとしている老人に手を伸ばし、その身体に触れると、彼女はその安息と憩いを祈るように子守唄を歌い始めた。

 人形はそれからずっと歌い続けている。
 彼らの望む最期を──と願ったアレンは、自分が犠牲になると言ったあの甘やかな覚悟を示すように、マテールで彼らを見守り続けていた。
 あれから三日。
 任務で殉職した探索部隊の遺体の輸送手続きや遺品の収集は、トマと一緒に済ませた。遺体が残っていたのは二人だけ。あとは残された団服だけが、彼らの死を裏付ける。


「つかコムイ! 俺アイツと合わねェ」
『神田くんはあこやちゃん以外誰とも合わないじゃないの。で、アレンくんは?』
「まだあの人形と一緒にいる!」

 神田は舌打ちしながら乱暴に点滴の針を外す。包帯も適当なところから引っ張って解いていくので途中で絡まってこんがらがっていた。溜め息をつきながら手伝うと、きれいな肌が露わになる。
 アクマに受けたあの一撃も、跡形もなく治っていた。

 左胸に刻まれた梵字を指先でなぞる。
 神田の自覚のない自己犠牲の根拠となる忌々しい術式、それでもこれが彼の命を何度もつないでくれていることに変わりはない。

「オイ触んな」
「……くすぐったい?」
「服が着れねェだろ」
『え、何ナニあこやちゃんどこ触ってんの』
「神田って脇腹とか足の裏とか全然くすぐったくないタイプでつまんないよねって話!」

 コムイと通話しながらどんどん退院の手筈を整えていく神田を見て、ドクターとナースが慌てて駆け込んできた。
 当然だ。全治五ヶ月と診断された重傷人が三日で退院しようとしているのだ。
 わたしの方は出血のわりに大したことがなく、傷口の縫合はしたが動けないこともない。サポートとしてだけなら次の任務にも行ける程度の負傷だ。

「ちょっとちょっと何してんだい!?」
「帰る。金はそこに請求してくれ」

 流れるように教団の名刺を差し出すトマ。
 神田との任務を何回かこなしている人なので彼のテンポを知っているのだ。いい感じに合わせてくれるので多分神田もトマを気に入っている。
 ……だからあのとき、わたしたちもトマを疑えなかったんだよなぁ。
 アレンの左眼がなければ取り返しのつかないことになっていたかもしれない。反省。

「世話になった」

 つかつかと病室を出て行く神田と、無線機でつながっている都合で一緒に早歩きしなければならないトマ、その後ろで病院関係者にぺこぺこしながらあとを追った。

「で、何の用だ。イタ電なら切るぞコラ」
『ギャ───ちょっとリーバーくん聞いた!? 今の辛辣な言葉!!』

 本題は今後についての指示だったらしい。
 わたしと神田はこのまま次の任務地へ直行し、アレンはトマとともにイノセンスを持って本部へ帰還。新人くんとは一旦ここでお別れだ。
 二人がいる建物の前で膝を抱えて項垂れているアレンにそれを伝えると、彼は顔を上げないまま「わかりました」と小さく反応した。

 それを無言で眺めた神田が、珍しくアレンに話を振る。

「辛いなら人形止めてこい。あれはもう『ララ』じゃないんだろ」
「ふたりの約束なんですよ。ララを壊すのはグゾルさんじゃないとだめなんです」
「……甘いなお前は」

 神田が視線を落とした。


「俺たちは『破壊者』だ。『救済者』じゃないんだぜ」


 かつて彼は自分自身の力で、自分自身のために、彼の最も大切なものを破壊しなければならなかった。
 その破壊を、犠牲を、正当化しなければ耐えられなかった──その苦悩を、教団内の誰よりも傍で見てきた。
 破壊者であることを自らに課す、この不器用な男を、見てきたのだ。


 荒野に乾いた風が吹く。
 アレンの白髪が、神田の漆黒の髪が翻る。


 その風に乗ってどこか遠くへ飛んでいくように、子守唄はついえた。
 ……グゾルが息を引き取って三日目の夜のことだった。


 人形からイノセンスを回収するため、アレンが建物の中に向かう。
 その後ろ姿を見送った神田の横で小さく息を吐いた。

「……なんで神田とアレンが合わないのかちょっと解った」
「は……?」
「似てる。今のとこ共通点なんて全然ないのにね。まるで鏡みたい」
「……馬鹿言うんじゃねぇよ」

 いつもの反論にも勢いがない。
 神田は神田で何かしら思うところがあったのかもしれないな。

「遅いね、アレン」

 アレンのあとを追って階段を上り、入口から中を覗き込む。
「おい? どうした……」神田の問いは途中で途切れた。

 膝の上に倒れ込んだララの体を抱くアレンが、腕で顔を隠しながら泣いている。

「神田……それでも僕は……誰かを救える破壊者になりたいです」

 そうだね、アレン、と胸の裡で零す。

 きっと神田もそうだったんじゃないかと思うんだよ。
 傍らに立つ不器用な男を見上げると、彼はどこか遠くに心を遣ったような面持ちで、アレンとララを見つめていた。


「ごめん……、……俺は生きたい」
「お前を破壊してでも……!」