10
人混みを避け、冨岡さんの後ろをついて歩くこと数分。ようやく目的地である薬屋の看板が見えてきた。
このあとほんの少しの距離を自分一人でたどり着けなかったなんて、本当に情けない。
「いらっしゃい……おや、蝶屋敷のお嬢さんじゃないか」
暖簾をくぐると店の奥から顔を出してきたのは、白髪混じりの穏やかな店主藤堂さんだった。以前アオイさんと来たときのことを覚えていてくれたらしい。
私は震える手で懐からメモを取り出し、台に置く。
「お久しぶりです。これ、胡蝶さんからお願いされていた材料です」
「ああ、承っているよ。しのぶさんの頼みだから、とびきり良いのを揃えないとね」
藤堂さんは眼鏡の奥の目を細めて笑い、メモに目を通す。その何気ない日常のやり取りに、張り詰めていた肩の力が少しだけ抜けた。
ふと入り口の方へ視線を向けると、冨岡さんが陳列棚の前で足を止めていた。腕を組みながら、棚に並んだ薬草の瓶や乾物をひとつひとつ静かに眺めている。
「お嬢さんお待たせ。はい、これだね」
「あ…ありがとうございます藤堂さん。早いですね」
「準備は済んでたからね」
奥から戻ってきた藤堂さんから、丁寧に包まれた薬の束を受け取る。代金を支払い、包みを抱きかかえるようにして私は冨岡さんのもとへ歩み寄った。
「冨岡さん、お待たせしました。終わりました」
「…ああ」
声をかけると、冨田さんは見ていた棚からゆっくりと視線を外した。一度店主の方をちらりと見つめると、私が暖簾をくくるのを待ってから彼も外に出る。
そのまま二人で蝶屋敷を目指して歩いた。
夕暮れ時。道はすでに茜色に染まりかけていて、周りの屋台では提灯に火が灯り始めている。
ぽーっと流れる景色を眺めていると、なんだか頭がふわふわしてくる。結局、胡蝶さんにも冨岡さんにも多大な心配と迷惑をかけてしまった。現代にいた頃は、おつかいなんて子供でもできることだと思ってたのに。今の私はその当たり前のことさえ、誰かの助けなしには完遂できない。
この世界で生きていくって、こういうことなんだ。お祭りを楽しむ町の人たちと、その影に潜む悪意。さっき、路地裏で震えていただけの自分を思い出すと、とてもとても情けない。
隣を歩く冨岡さんは何も言わない。彼にしてみれば任務でもないのに、おつかいで迷子になった私の世話を焼かされているわけで。きっと呆れているに違いない。文句の一つでも言われたほうが、まだ気が楽だったかもしれない。
けれど彼は私の歩幅が少しでも遅れると、さりげなく自分の足を緩めてくれる。…そんなに気を遣わなくたっていいのに。
「…少しいいか」
その時、ふいに冨岡さんが足を止めた。彼は私の返事を待たずに、通りに並ぶ屋台の方へと歩いていく。
「え?は、はい。もちろん…」
その背中に向かって遅れた返事を投げかけながら、私は彼の後ろをトコトコとついて行った。
冨岡さんが立ち止まったのは、色とりどりの瓶詰めの飴が並ぶ飴玉の屋台だった。
意外すぎる光景に、私は目を丸くしてしまう。失礼ながら、甘いものを買い食いするようなイメージが全くなかったからだ。
少し離れた場所で眺めていると、冨岡さんは店主と何やら言葉を交わし、懐から財布を取り出しお会計まで済ませる。
お腹が空いていたのだろうか。いや、誰かへの贈り物?そんなことを考えている間に、冨岡さんは小さな小瓶を手にこちらへ戻ってくる。
「待たせた」
「あ、いえ……」
そのまま冨岡さんは私の目の前に小瓶を差し出してきて、私は軽く首を傾げた。
「あ、あの、これは……?」
夕陽を反射してキラキラと輝くその瓶の中には、淡い琥珀色の飴玉がいくつか詰まっている。戸惑って問いかければ、冨岡さんはじっと私を見つめてきた。
「甘いものは気分を落ち着かせると聞いた」
「えっ、と……」
「受け取れ」
「えっこれ、私にですか?」
「お前以外に誰がいる」
驚いた。冨岡さんは至極真面目な顔で、瓶をさらに私の手元へと近づける。
冗談を言っているようには見えないし、そもそもこの人が冗談を言うところなんて想像もつかない。
「どうして……」
「お前の手がまだ震えていたからだ」
言われて自分の手元を見ると、指先がまだ小刻みに揺れていた。自分ではもう大丈夫だと思っていたのに、体はまだあの路地裏の冷たさを鮮明に覚えていたらしい。
なんとなくその手を背後に隠そうとしたけれど、それよりも早く冨岡さんの大きな掌が私の指先をふわりと覆った。驚いて顔を上げると、彼は無表情のまま、私の震える手を上に向かせ、そこに飴の小瓶を置く。
「あ、ありがとうございます……。すみません、こんなことまで気を遣わせてしまって」
「謝るな。お前はさっきからそればかりだな」
冨岡さんは私が受け取った小瓶から手を離すと、そのまま私の目をじっと覗き込んできた。
逸らそうとしても、その深く澄んだ青い瞳に絡め取られて動けない。まるで、私の心の中に溜まっている「何か」を、無理やり引きずり出そうとしているみたいで。
「……何を考えてる」
何を、考えてる。それは言葉にするのも恥ずかしい感情ばかりだった。
自分の不甲斐なさとか、申し訳なさとか、情けなさとか、色々。
「そんな大したことは別に……」
言えなかった。お使いもまともにできない自分が情けなくて、消えてしまいたいだなんて。こんなに強い人の前で曝け出せるはずがなかった。
鬼殺隊の最高位だという冨岡さんからすれば、私の悩みなんて子供のわがままのように聞こえるだろう。これ以上、弱音を吐いて彼を呆れさせるようなことはしたくない。
「お前は、嘘をつくのが下手だな」
口を結んで視線を逸らしても、冨岡さんは私の答えを待つように足を止めたまま。
そうだった、この人には隠し事は通用しないのだった。何を言っても見透かされるのなら、いっそ自分から白状してしまった方が早い。
「自分が……役に立たなかったことを悔やんでました。おつかいを頼まれただけなのに、道に迷って怖くて動けなくなって、結局冨岡さんに助けていただいて。一人では何もできない自分が、とても情けないなと……」
期待に応えられなかった自分への苛立ちと、彼の手を煩わせてしまった罪悪感。
こんな話をしても、彼はきっと困るだけだ。あるいは、戦場に生きる彼からすれば「命があるだけ幸運だ」と切り捨てられる話だろう。
「俺は言ったはずだ。胡蝶に頼まれて様子を見に来たと。お前が一人で何かを完璧に成し遂げることなど、最初から誰も期待していない」
「そう……ですよね」
期待されていない。
やっぱりそうだった。私はただの足手まといなんだと、その事実に胸を抉られたような気がして視界が滲む。
「私は何もできないですから。結局、皆さんのお手を煩わせるばかりで……」
「違う。そうは言ってない。お前の役目は、誰かを助けることではないと言ってるんだ」
「え……?」
自嘲気味に呟いた私の言葉を冨岡さんは強い語調で遮り、私は顔を上げる。
「無事に帰り、あいつに顔を見せること。それが今日お前に課せられた唯一の仕事だった。……違うか?」
仕事。無事に帰ること。
――暗くなる前には帰ってくるんですよ。寄り道はせずに。
――迷子になったら、とりあえず女性に場所を聞いてくださいね。
――くれぐれも気をつけてくださいねー!
そうだった。胡蝶さんが何度も何度も、くどいほどに繰り返していたのは、すべて私自身を案ずる言葉だった。
薬を無事に買ってくることなんて、きっと彼女にとっては二の次で。本当は私が傷つくことなく、迷うことなく、笑って玄関をくぐることだけを願っていてくれたのだ。
「おつかい」という名目で私を外へ送り出したのも、きっと屋敷にこもりきりの私を気遣ってのことだったのかもしれない。
それなのに私は、表面上の役割を完璧にこなせなかったことばかりに執着して、彼女が一番大切にしていたはずの私の安全を、自分自身で蔑ろにしようとしていた。
「……はい。その通り、です」
喉の奥が熱くなる。
でも、私はどうすれば良かったんだろう。迷ったら女性に聞く、蝶屋敷の者だと言う。教わったはずの知識も、あの恐怖の前では何の役にも立たなかった。
心構えが足りなかったのか、それともこの世界で生きていくための強さが、私には根本的に欠けているのか。
どれだけ反省しても、どれだけ次は気をつけようと誓っても、また同じような理不尽に直面したとき、私は今日より上手く振る舞える自信がない。
「……冨岡さん。私は、どうすれば良かったんでしょうか」
情けない自覚はあったけれど、縋るような思いで目の前の彼に問いかけていた。
この人は、私とは違う。刀一本で鬼と戦えてしまうような、圧倒的に強い人だ。そんな彼なら、どうしようもない恐怖に直面したとき、何を道標にして足を前に進めるのかを知っているはずだと思った。
だからこそ、彼に教えてほしかった。この世界で生きていくための「答え」を。
「頼れ」
しかし、彼から帰ってきたのは鍛錬の仕方でも、心の持ちようでもなかった。
「……頼る、ですか?」
「そうだ。一人で抱え込もうとするな。次からはもっと早くに人を頼れ」
「でも皆さんはお忙しいですし、私なんかのために手を止めていただくわけには……。自分一人で解決できないなんて、それは……」
「高月。人に頼ることは弱さではない」
ふいに名前を呼ばれ、私は小さく息を呑んだ。
初めて名前を呼ばれた驚きと、その声のあまりの真剣さに、言葉の続きが喉の奥に引っ込む。
「お前は、自分ひとりで完結することを強さと履き違えている。戦う術を持たないお前が、守る側の手を借りることは正当な手段だ」
予想外の指摘に戸惑う私を置いて、冨岡さんは淡々と言葉を紡ぐ。
「お前の問題点が分かった」
「もんだい、てん……?」
「ああ。一人で抱え込みすぎるところがある。それに、人に頼るのが致命的に下手だ。警戒心もまるで足りない」
下手。あまりにも直球すぎやしないだろうか。
でも、なんだろう。不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
むしろ、ずっと誰にも覆されなかった私の凝り固まった考えを、その一言があっさりと打ち砕いてしまったような気がする。
胡蝶さんにも、尾崎さんにも、同じようなことは何度も言われてきた。優しく諭されたことも、心配されたこともある。そのたびに分かったようなつもりで、それでも結局私は「迷惑をかけたくない」という気持ちから抜け出せずにいた。
だけどこの人は「下手だ」と断じることで、私の抱えていた遠慮を"美徳"から"間違い"へと引きずり下ろしたのだ。
「お前が少しくらい我儘を言っても誰も怒りはしない。……頼っていい、高月。周りの人間はそのためにいる。もちろん俺もだ」
あまりに真っ直ぐな、濁りのない言葉。
これまで自分を縛り付けてきた呪いが、冨岡さんによってさらさらと砂のように崩れていく。
この人は私がどれだけ無力でも、どれだけ不甲斐なくても、最初から見捨てたりしないと決めてくれていたのだ。
その事実に触れた瞬間、堪えていた何かが決壊した。
「あ………」
ぽろり、と。こぼれ落ちた一雫が石畳に小さな染みを作る。それを歯切りにしたように、溢れ出した感情が両目からぼろぼろと止まらなくなってしまった。
突然声も出さずに泣き始めた私を見て、冨岡さんはぎょっと目を見開く。
情けない、恥ずかしい、そう思うのに一度溢れた涙はもう私の制御をきいてはくれなかった。喉の奥からしゃくり上げるような音が漏れ、やがてそれは嗚咽へと変わる。
「……っ、ふ……っ、…ぅ……っ」
ああ、そうか。気づいてしまった。私はここに来てからずっとずっと、緊張していたんだ。
失敗してはいけない。迷惑をかけてはいけない。ここに置いてもらうためには、役に立つという対価を払わなきゃいけない。
知らない常識、知らない言葉、知らない世界。その全てを当たり前の顔で受け入れて、平気なふりをして、ひたすら気を張り詰めて――。
そのすべてが今、冨岡さんの言葉でぜんぶ弾けてしまった。本当はずっと怖かったし心細かった。家族も友人もいない、昨日までの常識が何一つ通じないこの世界で、一人きりで立っているのが死ぬほど怖かった。
でもそんなことを言うのは、せっかく親切にしてくれている人たちに申し訳なくて言えなかった。だからずっと笑っていた。馴染もうとしていた。
でもこの人はそんな私の頑なな虚勢を、何の気負いもなく正論だけであっさりと溶かしてしまったのだ。
「す、すまない言い過ぎたか」
「ち、ちが……っ、ひぐ……っ、ちがいます……!」
あなたのせいじゃない。そう言いたいのに、喉が激しくせり上がって言葉にならない。
そうじゃない、そうじゃないのに。
「…っ、う、わあああああんっ!」
ついに堪えきれず、子供のように大きな声を上げて泣き出してしまった。一度決壊した涙腺はもう、機能すらしていない。私は顔を覆い、その場に
「ねえ、お母ちゃん。あそこでかっこいい兄ちゃんが女の子を泣かせてるよ」
「こら。あまり見ないの」
「さては痴話喧嘩か?」
「ひどいねぇ、あんなに泣かせちまって」
晩御飯の買い出し時。祭りで人がさらに多くなった通りを歩く人々が、足を止めてこちらを伺い始める。
呆然と立ち尽くす冨岡さんと、人目をはばからず号泣する私。その構図は端から見ればどう考えても冨岡さんが私を泣かせているものでしかない。
「ごめっ、ごめんなさっ……すぐになきやみます……っ」
冨岡さんは何も悪くないのに。彼は私を助けてくれて、飴までくれようとして、優しい言葉をかけてくれただけなのに。好奇の目に晒される彼を庇いたいのに、体が言うことを聞かない。
これまでずっと張り詰めていた緊張と、さっき死にかけた恐怖。それらが全部混ざり合って、私の涙腺はすっかり壊れてしまったみたいだった。
「な、泣き止まなくていいから、一旦落ち着け」
「ふぇ…っ、…ぅぐすっ……」
狼狽えた冨岡さんの声が聞こえてくる。
泣き止まなくていいのに落ち着けとは、一体どうすればいいのだろう。涙が止まらない場合に、どうやって「落ち着き」だけを取り戻せばいいのか。そんな高度な技術を私に求めないで欲しい。
「高月、一度場所を変えるぞ」
見かねた冨岡さんが私の腕をそっと引いた。人混みのど真ん中で泣きじゃくっていた私を、彼は促すようにして通りの端、建物の影になっている場所へと連れて行ってくれる。
そのまま、冨岡さんは私を壁際に隠すようにして、その広い背中で外からの視線を遮るようにして立った。
はからずも彼の胸に顔を埋めるような形になってしまい、私の視界はその羽織の柄でいっぱいになる。
「……ず、みま……せん……っ、うう……」
「泣きたいだけ泣けばいい」
冨岡さんがそう言ってくれたから、私はもう一度子供みたいに泣きじゃくった。
これまで独りで抱えてきた不安も、死ぬほど怖かった孤独も。彼の羽織をぎゅっと握りしめて、その不器用な優しさに甘えるように。
*
泣き止んだときには、すっかり日が沈んでしまっていた。
冷静になると、色々あったとはいえ、顔の整った人の前でみっともない泣き顔を晒していた事実が大分しんどい。あまりにも無様に泣きすぎた。今の私の顔は、きっととても酷いことになっているだろう。腫れ上がった瞼が重くて、視界がさっきよりもずっと狭い。
けれど、不思議と気持ちはすっきりしている。きっと思いっきり泣いたことで何かが吹っ切れたのだと思う。
こらえきれずにズビ、と鼻を啜ると、私の二歩前を歩いてた冨岡さんが足を止めた。そのまま目の前にすっと小さな布が差し出される。
「使え」
「す、すみません……」
青いハンカチ。それを受け取ると、顔を隠すようにして目元を押さえた。ふわりと彼と同じ清い石鹸のような香りが鼻をくすぐる。
また歩き始めた冨岡さんの後ろを、私はそのままトボトボとついていった。
蝶屋敷へ続く人もまばらな山道。足元を照らすのは月明かりだけ。
はあ、足取りが重いなあ。胡蝶さん、怒るだろうなあ。すっかり暗くなっちゃってるんだもん。冨岡さんと一緒でも、これは屋敷の規律を破ったことになるのだろうか。
にこにことした笑顔の裏で、静かに怒っている胡蝶さんの姿が容易に想像できてしまって、胃のあたりがキュッなる。
「冨岡さん」
「なんだ」
「……胡蝶さん、やっぱり怒りますよね?」
「怒るだろうな」
「そうですよね……門限過ぎてますし」
「規律を破ったのなら仕方がない」
ど正論をあまりぶつけないでいただきたく。
わかっている。わかっているけれど、もう少しだけ「俺が一緒にいるから大丈夫だ」的な、根拠のない気休めでもいいから欲しかった。
絶望してがっくりと肩を落としながら、目に当てていたハンカチをそっと折りたたむ。すると前を歩いていた冨岡さんが足を止めずに、スッと後ろに手を差し出してきた。無言だけれど言われなくてもわかる。それを返せ、という意味だ。
「あ、あの!洗ってからお返しします……!」
慌ててハンカチを背後に隠すようにして言うと、冨岡さんはようやく足を止めてこちらを振り返った。相変わらずの無表情だけれど、差し出された手は引っ込められる気配がない。
でもこのハンカチには今私の涙と鼻水が……いくら石鹸のいい香りがするからといって、こんな状態のまま返せるわけがない。
「構わない。貸せ」
「いえ、よ、汚れてますから!後日綺麗にしてから必ずお持ちします」
「構わないと言っている」
そう言うなり、冨岡さんは拒否する間もなく私の手元からひょいっとハンカチを取り上げてしまった。
あっ、と思ったけれどもう遅い。彼は汚れていることなんてこれっぽっちも気にする様子もなく、それを無造作に懐へと仕舞い込む。
「冨岡さん、本当にすみません。……あの、不潔じゃないですか?」
「……不潔?お前が泣いただけだ」
さらりと、あまりにも当然のように返されて私は言葉を失った。
羞恥心で顔がカァァッと熱くなる。さっきまで泣いて赤かった顔が、今は別の意味で真っ赤になっている自信がある。
「行くぞ。胡蝶が心配する」
「……はい。……ありがとうございます」
歩き出した冨岡さんの背中を追いかけながら、私は自分の顔がこれ以上赤くならないように夜風に冷やされるのを待った。
不器用なのか、それともただの無頓着なのか。けれど、汚れたハンカチをあんなに迷いなく受け取ってくれるなんて。やっぱり彼は優しいのだと思う。
なんだかさっきよりも少しだけ、胡蝶さんのところへ帰る勇気が湧いてきた気がした。
「おかえりなさい。まずはそこに座っていただけますか?」
「はい……」
しかし、そんな勇気は玄関の戸を引いたときにぼろぼろに砕け散ることとなる。逃げ場を塞ぐように玄関の真ん中に立ち、こちらを見下ろす胡蝶さん。
怒っている。彼女は、とても怒っている。もちろん抗えるはずもなく、私は言われた通り板張りの床にちょこんと正座した。
胡蝶さんが腕を組み、にっこりとした顔でこちらを見つめているその横で、冨岡さんが平然とした顔で立っているのが今の私には少しだけ恨めしい。
「お使いを頼んだのはほんの少しの距離だったはずですが」
「……はい」
「いま何時だかわかりますか?」
「え……っと、外が真っ暗な、時間……です」
「そうです。とっくに日が落ちてることなんか、見て分かりますよね?」
「……はい」
蚊の鳴くような声しか出ない。
胡蝶さんがひたり、と一歩近づいてくる。その微かな圧だけで肩が跳ねる。
「暗くなる前には帰ってくるよう言ったはずですが、どこで道草を食っていたのですか?」
「そういうわけでは……その、ちょっとしたトラブルがありまして……」
「とらぶる?」
「も、問題が……」
焦れば焦るほど言葉が出てこない。パニックになった脳内では、カタカナ混じりの不適切な語彙ばかりがぐるぐると回り出す。
「えっと、その、つまり、アクシデントというか……」
「あくしでんと?」
「あ、いえ……!不慮の、その、事故のような出来事が重なりまして……っ」
またやってしまった。胡蝶さんが小首を傾げるたびに、背中を冷や汗が伝う。この時代に通用しない言葉を使って、余計変に思われただろうか。
必死の思いで隣の冨岡さんに視線を送るけれど、彼は相変わらずの石像のような佇まいで、一向に口を開く気配がない。
胡蝶さんの笑顔の圧は、一分一秒ごとにその濃度を増していく。
「それで?その"あくしでんと"とやらのせいで、泣き腫らしたようなお顔で帰ってきたわけですね?」
「うっ……」
「どんな問題が起きて、こんなに真っ暗になるまで外にいたのか、詳しく伺ってもよろしいでしょうか?」
図星を突かれ、私は言葉に詰まって俯くことしかできなかった。
嘘なんて一つもついていないのに、まるで悪いことをして隠し事をしている子供のような気分だ。
「と、途中で……その………」
「途中で?」
胡蝶さんの声が一段と低くなり、ひぃ、と思わず息を呑んだその刹那、彼女の顔にふっと深い影が落ちた。
すごく笑ってる。にこにこしてる。いや、笑ってるのに怖いってどういうことだろう。笑顔のまま背後の空気だけが凍りついている。
どうしよう、なんて言えばいいの。何を言っても怒られるのはもう目に見えてる。
極限状態に追い込まれた私は、もはや自分の語彙力ではこの場を切り抜けられないと悟り、縋るような想いで隣の冨岡さんに視線を向けた。
「頼れ」って言ったのはあなたですよね。今です。今こそ、その柱としての絶大な発言力を使って、この場をいい感じに収めてください。お願いします、冨岡さん。
私の必死な視線にようやく気づいたのか、冨岡さんは「はあ…」と、こちらまで聞こえるほどの重たい息を吐いた。そして、ようやく一歩前に出て胡蝶さんの正面に立つ。
私は救世主を見上げるような、期待に満ちた眼差しを冨岡さんに送った。彼ならうまく丸め込んでくれるはず。事情を汲み取って、私の失態はさらっとぼかしつつ、不可抗力だったってふうに説明して…。
「路地裏で男二人に絡まれていた。腰を抜かして動けなくなっていたところに俺が間に入ったまでだ。怪我は手首だけで、大事には至っていない」
「と、冨岡さん?」
あまりにも。あまりにもストレートすぎる言い回しに、私は口をあんぐりと開けて固まった。
嘘、でしょう。そうじゃない。そんなことを求めていたんじゃない。ぼかすとか、オブラートに包むとか、そういう概念はこの人の辞書には一文字も載っていないのか。
案の定、胡蝶さんの背後から立ちのぼる冷気が一気に絶対零度まで下がったのがわかった。彼女の視線が、冨岡さんから再び私へと戻ってくる。
「リサさん」
「ひぇ……」
そのあとの流れは想像できるだろう。
それはもうこっ酷く叱られた。
「…まったく。なぜ路地裏なんかに入ったんですか」
「おっしゃる通りです」
「何かあれば"蝶屋敷の者だと言いなさい"と、何度も申し上げましたよね?」
「……はい」
「それなのに、何が"何かあったら走れる"ですか。言っていたことと全然違いますよ」
「……すみません」
「心配が現実になるとは思いませんでした。あれほど念を押したのに」
「ごもっともです……本当に、申し訳ありません……」
ぐうの音も出ないほど正論すぎて、何も言い訳できない。顔を上げることができないまま、私は何度も何度も頭を下げる。
床板にめり込む勢いで正座をしていて、そろそろ足の感覚も怪しくなってきた。痺れがじわじわとふくらはぎを侵食していて、この説教がこれ以上続けば、私は立ち上がる瞬間に転ぶことになるだろう。
真横でこの惨状を黙って見ている冨岡さんは、一体どういう心境なのか。そもそもこうなった原因の半分は冨岡さんのせいなのだから、ただの傍観者でいないで少しは助けてほしい。
「何もなくて良かったものの、もし冨岡さんが側を通ってなかったら、あなた今ごろどうなっていたかわかりますか?」
「はい……すみません……」
「無事で帰れたからこそ、今こうして話せているんです。けれどそれは"たまたま"です。運が良かっただけ。次は同じように助けてもらえるとは限りませんよ」
「ごめんなさい……」
「あなたが世間に疎いのは理解していますが、もう少し警戒心を持たれてはいかがです?」
本当におっしゃる通りです。この時代の治安を甘く見ていた。未来の感覚でふらふら生きていると危ないということだ。本当に情けない。
だけど、そろそろ足の痺れが限界だ。今日何度目か分からない、助けてサインを胡蝶さんの隣の冨岡さんへと送るが。
「ちゃんと聞いておけ。お前はもう少し警戒心を持った方がいい」
便乗して一緒に怒られる始末。
これはもうどうにもならないと察した今の私にできることは、ただひたすらに小さくなってこの嵐が過ぎ去るのを待つことだけだった。
「本当に、なんともないのですね?」
「だ、だいじょうぶです……!」
「本当に怪我は手首だけなんでしょうね」
「はい!ちょっとだけです!かすり傷みたいなもので……!」
「ちょっとでも怪我は怪我です」
「はい。すみません……」
さっき路地裏でも冨岡さんに「なんともない」と言ったとき、彼もなんとも不服そうな顔をしていたが、その理由をここで理解した。
そして、ふとこの光景に既視感を覚えはじめる。初めて私がこの屋敷にやって来たあの日と一緒だ。一つだけ違うことといえば、怒られる対象が冨岡さんから私になったことだろうか。
当の冨岡さんは、今は怒る側に回って涼しい顔をしているけれど。
「……分かりました。これ以上は反省しているあなたの様子に免じて後回しにしましょう」
しばらくしてようやく胡蝶さんから解放を宣言され、私はほっと息を吐き出した。
や、やっと終わった。こんなに心配をかけてしまって本当に申し訳なく思っているけれど、今はとにかく痺れた足を解放してあげたい。
「手首を手当てしますから、このまま診察室にいらしてください。……それから、冨岡さんもありがとうございました」
「…ああ」
とりあえず立ち上がって、胡蝶さんと冨岡さんにもう一度ちゃんと謝罪を…。そう思って腰を上げようとした時だった。
「いっ……」
ぴりりとした強烈な電気がふくらはぎを走り、すとんと元の正座の格好に戻ってしまった。
痛い。感覚がない。立てない。想像以上に痺れた足の感覚に、思わず泣きそうになりながら助けを求めて視線を上げる。
けれど二人は大人の会話を続けていて、床で行き倒れそうになっている私には気づいていない。
「俺はこれで失礼する。次の任務地が遠方で、夜明けまでには着いておきたい」
「そうですか、道中お気をつけて」
あまりの激痛に耐えかねて、私はもぞもぞとせめて正座の姿勢だけでも崩そうと試みた。足を横に崩そうとした瞬間、今度は太ももの裏までビリビリとした衝撃が突き抜ける。
「薬が必要であればまた連絡をください。ちゃんと睡眠は摂っていますか?」
「……善処はしてる」
痛い。本当に痛い。
姿勢を崩すことすらできず、床に突っ伏し完全にフリーズする。
「善処ではなく行動に移していただきたいのですが……」
「問題ない。夜の移動には慣れている」
「少しは私の苦労も考えてくださいね」
しかし、必死の抵抗も虚しくびりびりとした痺れはついに腰のあたりにまで到達しようとしていた。あまりの情けなさと痛みに耐えかねて、小さく「うぅ……」と声を漏らした、まさにその時だった。
冨岡さんが何も言わずにすっと私の二の腕に手を回す。そのまま胡蝶さんの方を見つめたまま、真上に引き抜くように引き上げてくれた。
そんなさりげない優しさに、なぜか頬が熱くなる。
「お前は、次から一人で町に出るな」
短く、淡々と。
私が「あ…はい」と小さく頷くのを見届けると、冨岡さんはそのまま振り返ることなく夜の闇へと消えていった。
…次の任務地、遠方って言っていたな。
さっき帰ってきたばかりなのに、休む間もなく、もう次の場所へ向かうなんて。この人はいつ眠っているのだろう。
少しだけ胸の奥が締め付けられるような感覚になる。
「リサさん、行きますよ。ぼーっとしていないで」
「あ、はい……!すみません」
廊下の先から私を呼ぶ胡蝶さんの声に、現実に引き戻された。生まれたての小鹿のような心許ない足取りで、びりびりと震える足を宥めながら彼女の背中を追う。
「冨岡さんの言葉に私も賛成です。しばらくの間、一人で町へ降りるのは禁止にします。いいですね?」
「……はい、承知しました」
だけど門限を過ぎて本気で叱ってくれる人がいること。不器用ながらも、誰も気づかないところでそっと手を差し伸べてくれる人がいること。
それはこの見知らぬ時代に迷い込んだ私にとって、何物にも代えがたいほど有り難くて、幸せなことなのだと思う。
「…胡蝶さん、ありがとうございます」
振り返った胡蝶さんの柔らかな笑顔を見て、私は自分の新しい居場所を愛おしく思いながら小さく微笑み返した。
前へ 次へ
目次へ戻る