10
薬屋の店主に胡蝶さんの使いであることを伝え、渡されたメモを差し出した。代金を支払って店主が店の奥に薬を取りに行くのを待つ。
その一連のやりとりのあいだ、冨岡さんは入り口近くで腕を組み、一歩も動かずに私を見守っていてくれていた。
「ありがとうございました」
包みを受け取り、深く礼を言って薬屋を出る。
そのまま二人、並んで帰路を歩いた。
「……」
「……」
特に会話はない。というより、今の私には、まともに言葉を紡ぐ余裕なんて一ミリも残っていなかった。
さっきの出来事を思い出すだけで、また足元がすくみそうになる。
『一人でも大丈夫です』
そう言って胡蝶さんに背中を押してもらった時の、あの高揚感はどこへ行ったのだろう。
みんなの役に立ちたかった。ここに居ていいんだと、自分の存在を許したかった。
なのに現実はこの有様だ。結局、こうして誰かに守られ、冨岡さんの貴重な時間まで奪ってしまっている。
アオイさんや三人娘たちが、忙しなく蝶屋敷を駆け抜けていく姿が脳裏をよぎる。彼女たちのひたむきさに比べて、私はなんて……なんて無力で、惨めなんだろう。
「……っ、」
袖口を、引きちぎらんばかりに握りしめた。爪が手のひらに食い込み、鋭い痛みが走る。そうでもしないとこの足の震えが止まらない。
情けなくて、視界が滲んで。隣を歩く冨岡さんにこの醜い顔を見られたくなくて、顔を背けた。
「少しいいか」
ふいにぴたりと足を止めた冨岡さんの声に、私も釣られるように足を止める。恐る恐る顔を上げると、彼はどこか遠くにある屋台の灯りを見つめていた。
「ここで待っていろ」
「え、冨岡さん……っ?」
戸惑って呼びかけるが、彼は返事も待たずに踵を返した。向かった先は、夕餉の買い出しで賑わい始めた屋台の雑踏。
一人、道の端に取り残された私は、遠ざかっていく彼の背中を必死に目で追った。
え……どこへ行くんだろう。今は、一瞬でも一人になりたくなかった。立ち並ぶ屋台の影や、すれ違う見知らぬ人影が、すべてあの路地の男たちに見えてしまう。
でも、ただでさえ任務の帰りで疲れているだろうに、こんなことにまで付き合わせてしまったのだ。きっと、彼にしかわからない急用ができたのだろう。
私はギュッと唇を噛み、言われた通り彼が帰ってくるのを待つことにした。
「はぁ……」
小さく、けれど重い溜息が白く消えていく。
情けない。情けなさすぎて、どこを向いていいのか分からない。やっとこの世界に馴染めてきたと思ったんだけどな。…どうやら全部、私の気のせいだったみたいだ。
現実を見れば、一人で町を歩くこともできず、またこうして道の端で震えている。私はやっぱり、守られるだけの存在でしかないのだろうか。
視線を落とすと、自分の影が夕闇に溶けかかっているのが見えた。まるで自分の存在そのものが、この世界から浮き上がって消えてしまいそうな、そんな心細さに襲われる。
「高月」
呼ばれて、無意識に深く俯いていたことに気付いた。はっとして顔を上げると、冨岡さんが片手に何か丸いものを持ってこちらに戻ってきていた。
あれ、今……私の名前を……。
「……何、ですか、これ」
冨岡さんは私の戸惑いを知ってか知らずか、手元にある小さなガラス瓶を差し出してくる。その中には、まあるい金色の飴玉がいくつも入っていた。
急用というのは、これのことだったのか。
「受け取れ」
冨岡さんは短く言うと、戸惑って固まっている私の手をそっと取り、その冷え切った掌にガラス瓶を乗せた。そのまま、瓶を包み込むように私の手を握らせる。
「え?ど、どうしてこれ……」
「そうやってお前が気に病むことはない」
……見透かされてる。胸の奥を直接覗かれたような衝撃に、息が止まる。
自分が無力で、惨めで、誰かの時間を奪うだけの足枷なんじゃないかって。そんなふうに自分を責めて、消えてしまいたいと思っていた真っ黒な感情を、彼はたった一言で暴いてしまった。
でも、どうして。
どうして、そんなふうに言ってくれるんだろう。私はただ助けられただけで、結局何もできなかったのに。
差し出された瓶の中、金色の飴玉がキラキラと夕陽を反射している。その温かな輝きが、私の卑屈な心を「そんな必要はない」と優しく拒絶しているみたいで。
「……情けない、ですよ」
俯いたまま、消え入りそうな声でこぼしてしまった。
「一人でお買い物もできなくて……。あんなに皆さんに親切にしてもらっているのに、結局、こうして冨岡さんの手を煩わせてばかりで。もし、冨岡さんが来てくれなかったらと思うと……」
視界がじわりと歪み、冨岡さんの顔が滲んで見える。
せっかく助けてもらったのに、いつまでも沈んだ顔をしていてはいけない。そう思えば思うほど、自分の無力さが重たくのしかかってくる。
冨岡さんにも呆れられたに違いない。だって、いかにも、 "何を言ってるんだ"って目をしてる。
誰にも見られたくなかった弱さを、よりによって彼に晒してしまった。面倒くさいって思っただろうな。
そんなことをぐちゃぐちゃと考えていたら、冨岡さんが小さく息を吐くのに気付いて、私はびくりと肩を揺らした。
「…あの状況で、自分を情けないと思う奴がどこにいる」
なぜか諭すようにそう言われる。
私は否定すればいいのか、謝ればいいのか分からなかった。どちらを選んでも違っていそうだったから。
「お前は人に頼るのが下手だな」
「そう、でしょうか…」
…下手。あまりにも直球すぎやしないだろうか。
でも、なんだろう。その言葉を言われるのは、これが初めてではないような気がする。
思い出されるのは、いつだって私を気にかけてくれる人たちの顔。
――「頼るのも信頼の証ですよ」
――「もっと誰かに甘えてもいいんだよ」
胡蝶さんにも、尾崎さんにも、同じようなことを言われていたっけ。
まさかそれを、口数の少ない冨岡さんにまで指摘されるなんて思わなくて、一番痛いところを突かれた気分になる。
「人を頼ることは、弱さではない」
一拍置いて、また短い言葉が降ってくる。それは彼自身が自分に言い聞かせているようにも、あるいは誰かから教わった大切なことを私に分け与えてくれているようにも聞こえた。
「……でも、私は皆さんに何も返せません。助けてもらってばかりで、何も……」
「それでいいんじゃないのか」
「……え?」
あまりにあっさりした返事に少し面食らう。
だって、返せないのなら、もらう資格はない。ずっとそう思ってきた。
突然この時代に放り出され、居場所をくれた人たちに、私は負債ばかりを積み上げているような気がしてならなかった。だからこそ、早く一人前にならなければ。早く役に立たなければと、考えていたのだ。
「胡蝶も言っていた。……お前は少し、気を張りすぎだと」
「胡蝶さんが……?」
「ああ。俺も今、その意味を理解した」
そう言って、冨岡さんは私の頭にふわりと手を置く。大きくて、温かな掌。
どこか不器用なその仕草と共に、彼の冷徹だったはずの表情が、ふっと和らぐのを私は間近で見た。
「高月。守られることを恥じる必要はない」
一瞬、呼吸の仕方を忘れてしまう。
「胡蝶や俺が、何のためにいると思っている。…頼れ。お前が少しくらい我儘を言っても、誰も怒りはしない」
続けて放たれた言葉が、私の心のいちばん奥にある、固く閉ざされた扉に触れた。
奥歯を噛み締めても、胸の鼓動が激しく打ち付けて、吸い込んだはずの空気が肺に届かず途中でつかえてしまう。
「わた、し……」
何を伝えたいのか、自分でも分からなかった。
「任務の帰りで疲れている冨岡さんに申し訳ない」とか、「彼にはじめて名前を呼ばれたな」とか、「そもそも何で私の名前を知っていたんだろう」とか。「こんなに話してくれる彼を見るのははじめだな」とか。
頭の片隅にはいくつもの雑念が浮かんでいるのに、それら全てを押し流すように感情がぶわりと膨れ上がる。
……ああ、そうか。気づいてしまった。
私はこの時代に来てからずっと、ずっと、緊張してたんだ。
失敗してはいけない。迷惑をかけてはいけない。何者でもない私が、ここに置いてもらうための"対価"を払わなきゃいけないって、自分を追い込んでいた。
知らない常識、知らない言葉、知らない世界。
その全てを当たり前の顔で受け入れて、平気なふりをして、ひたすら気を張り詰めて――。
「……っ」
ぽろり、と。こぼれ落ちた一雫が、石畳に小さな染みを作った。それを合図にしたように、堰を切った感情が両目からぼろぼろと溢れ出して止まらなくなる。
「……、」
何かを言いかけた冨岡さんが、ぎょっと目を見開いた。彼が、見たこともないほどに動揺しているのがわかる。
突然泣き出されて困らせている自覚はあるのに、一度切れてしまった糸はもう元には戻らない。
「……っ、……ふ、……っ」
袖で何度も、乱暴に涙を拭った。けれど、拭うそばから新しい温もりが頬を伝う。
怖かった。本当は、ずっと。
家族も友人もいない、昨日までの常識が何一つ通じないこの世界で、一人きりで立っているのが、死ぬほど怖かった。
でも、その弱音を吐いたら、私はこの世界に本当に一人になってしまいそうで。だからずっと、笑っていた。馴染もうとしていた。
でも、冨岡さんが言ってくれた。「守られることを恥じるな」と。その不器用で、身勝手なまでの全肯定が、張り詰めていた私の心を内側から粉々に砕いてしまった。
「……こっちだ」
冨岡さんはそう短く呟くと、震える私の腕を優しく自分の正面へと引き入れた。
大通りの賑わいから私を切り離すように、その広い背中が壁となって周囲の視線を遮ってくれる。
「……う、……っ、ごめんなさ……い……」
嗚咽が漏れるのを防ごうと、必死に口元を押さえる。けれど、一度溢れ出した本当の自分はもう止まってはくれなかった。
未来の家族への未練、この時代の孤独、今日感じた恐怖。それらすべてが涙となって、彼の隊服の胸元を濡らしていく。
「泣きたいだけ泣けばいい」
その一言に甘えるように、私は顔を伏せた。
彼は私に触れることも、慰めることもせず、ただ一筋の風も通さないほど確かな盾となって、そこに居続けてくれた。
*
すっかり落ち着いた頃には、空はほとんど暗くなっていた。結局もう涙なんか出ない、というところまで泣き腫らし、目も鼻も真っ赤になっているであろう私は、冨岡さんから隠すようにしばらく顔を伏せていた。
冷静になってみて、顔の整った人の前でみっともない泣き顔を晒していたことが大分しんどい。できれば、あまりこちらを見ないで欲しい。
それでも不思議と、胸の内は軽かった。ずっと張りつめていたものが、涙と一緒に外へ流れ出たのだろう。どこかすっきりもしている。
人間、どこかで力を抜かなければいけないのだ。自分では大丈夫だと思って踏ん張っていたつもりだったけど、冨岡さんに今日それを教えてもらった。
ぐす、と鼻を啜りながら私は視線を上げる。
「高月」
冨岡さんはじっとこちらを見つめていたのか、手に持っていたハンカチを静かに差し出してくれた。
「……あ、ありがとうございます」
戸惑いながらも両手で受け取ると、そっと目元に当てる。少しひんやりした布にどこか安心を覚え、冨岡さんのその自然な優しさに胸がきゅっとなった。
気恥ずかしさを隠すように、拭き終えたハンカチを素早く指先で畳んだところで、冨岡さんが片手を差し出してきた。
それを返せ、という意味だ。けれど、さすがにそれはできない。濡れたままの布をその手に戻すなんてこと。
「あの、洗って返します……!」
「構わない」
「あっ…!」
けれど、冨岡さんはためらいもなく私の手からハンカチを取り上げた。そのまま懐へと直してしまう。
私はぽかん、と口を開けたまま固まった。速すぎて手から奪われたのが見えなかった。どういう技を使ったのだろうか。
さすがに鼻水はつけないようにしたけど、私が濡らしたものをそのまま返却するのはどうなのだろう。せめて洗って返したかったのに、冨岡さんは特に気にした様子もなく、ただ周囲の暗さを確かめるように空を見つめた。
「…そろそろ帰るぞ。胡蝶が心配する」
「あ、はい……」
確かに、もう辺りはすっかり暗くなっているし、一刻も早く帰らなければ胡蝶さんが心配して町にまで降りてきそうだ。私はしぶしぶ頷き、歩き出した冨岡さんの後を追った。
歩きながら手の中のガラス瓶に視線を落とす。瓶の中でころころと転がる飴玉。
私のために買ってくれた…ってことでいいんだよね。胸の奥が、またひとつだけ温かくなる。少し歩いてから、私はそっと冨岡さんを見上げた。
「あの、ひとつ食べてもいいですか…?」
「……ああ」
その言葉に、気づけば口元がゆるんでいた。
瓶の蓋を開けて口を傾けると、飴玉がころんと掌に転がり出る。透き通る金色。
それをそっと口に含むと、淡い甘さが舌の上に広がった。
「……美味しい」
べっこう飴だ。歩きながら、溶けていく味をゆっくり確かめる。
小道の先で、揺れる影がふたつ。街灯の明かりに照らされながら、ゆっくりと帰り道を歩く。
さっきまで胸を押し潰していた罪悪感は、今は静かな温もりに変わっていた。
**
「…まったく。なぜ路地裏なんかに入ったんですか」
「おっしゃる通りです……」
その夜。私の情けない謝罪の声が、蝶屋敷に響きわたることとなった。
胡蝶さんはいつも穏やかな姿からは想像できないくらい、恐ろしい顔でこちらを見下ろしている。
「何かあれば“蝶屋敷の者だと言いなさい”と、何度も申し上げましたよね?」
「……はい」
「それなのに、何が"何かあったら走れる"ですか。言っていたことと全然違いますよ」
怒っている。彼女はとても怒っている。
普段穏やかな人が怒ると一番怖いと言うのは、あながち間違いではないらしい。あの穏やかな微笑みの下に、こんな恐ろしさが隠れていたなんて。
「心配が現実になるとは思いませんでした。あれほど念を押したのに」
「……ごもっともです……本当に、すみません……」
顔を上げることができないまま、私は何度も頭を下げた。玄関にめり込むように正座をしていて、まるで親に説教を受ける子どもそのものである。
そして、真横でそれを見ている冨岡さん。一体どういう状況なのか。
もちろん、自分に原因があるのはわかっているが、ただ見ていないで助けてほしい。
やってしまった感が半端なく強い。
さっきも、不安を抱えたまま蝶屋敷の門をくぐると、案の定、胡蝶さんが腕を組み玄関に仁王立ちしていた。
「……おかえりなさい」
冷えた声に、まるで帰りを見計らって待ち伏せしていたかのような完璧なタイミング。背筋をすっと伸ばし立つその姿は、小柄ながらも圧倒的な威圧感を放っていた。
…あ、ぜんぶバレている。とそのとき私は心の中で観念したのだ。
「こ、胡蝶さん…ただいまです…」
声が勝手に小さくなる。胡蝶さんはそんな私に、にこりと笑みを深めた。背中にじわりとにじむ汗。
「おかえりなさい。まずはそこに座っていただけますか?」
「……はい」
素直に玄関に上がると、言われた通りその場に正座した。まるで、これから裁きを受ける罪人みたいな気分だ。
視線を上げると、胡蝶さんは腕を軽く組み、にっこりとしたまま私を見下ろしている。その笑みが怖い。いや、笑っているのに怖いってどういうことだろう。
「お使いを頼んだのは、ほんの少しの距離だったはずですが」
「……はい」
「いま何時だかわかりますか?」
「え…っと、……外が真っ暗な、時間…です」
「そうです。とっくに日が落ちてることなんか見て分かりますよね?」
「……はい」
ひたり、と近づかれる。たった一歩なのに、背筋がぴんと伸びる。頬が引きつるのが自分でもわかった。
「暗くなる前には帰ってくるよう言ったはずですが、どこで道草を食っていたのですか?」
「…えっと、そういうわけでは……その、ちょっとしたトラブルが、ありまして……」
「とらぶる?」
「も、問題が……」
か細い自分の声。この角度で見上げる胡蝶さんは、なんだかとても恐ろしい。
「と、途中で……その………」
焦って言葉がもつれる。
私の言葉を遮るように、胡蝶さんが息を吸う気配がした。ふっと顔に影が落ちる。
「途中で?」
ひぃ、と思わず息を呑んだその空気の中で、胡蝶さんのこめかみに青筋がぴりりと浮かび上がった。怯えて私はそれ以上言葉を紡げなくなる。
どうしよう、何て言おう。と口をぱくぱくさせていると、突然冨岡さんが動いた。
まるで胡蝶さんから私を庇うように立ちはだかり、まっすぐに彼女を見据える。ようやっと彼が助け舟を出してくれるのだと、私は期待の眼差しを向けたのだが。
その期待は淡く散ることとなる。
「男二人に絡まれていて俺が間に入った。怪我は手首だけだ」
「えっ……」
淡々とした言葉に、その場がしーんと静まり返った。
…と、冨岡さん?!一体何を言い出すんだと、私は目をひん剥く。
そんなふうに包み隠さず言ってしまったら、胡蝶さんがどうなるかわかるだろう。もっとも、彼女の笑顔が目に見えてすうっと薄くなった。もう、恐ろしくて私は胡蝶さんの顔が見れない。
ほんのりオブラートに包むとか、ぼかすとか、そういう選択肢はなかったのだろうか。
“ちょっと寄り道を”とか、“道が混んでて”とか…もっとこうあったはずだ。
「……男、二人?」
その声の低さに、肩がびくりと跳ねる。
胡蝶さんの声色が一段階落ちている。怖い。すごく怖い。視界の端では、冨岡さんは特に気にした様子もなく黙って前を見据えていた。
思わず振り返って、その石のように動かない表情をキッと睨んでしまう。余計なことを言わないでくださいと目で訴えるが、冨岡さんは意に返さないように視線をしれっと逸らした。
むしろ「ここで一度叱られておけ」と言わんばかりの顔。ひどい、さっきはあんなにも慰めてくれたのに。
「……リサさん」
そのあとの流れは、想像できるだろう。
そして冒頭に戻る。
「何もなくて良かったものの、もし冨岡さんが側を通ってなかったら、あなた今ごろどうなっていたかわかりますか?」
「……はい……すみません……」
胡蝶さんは畳みかけるように言葉を続ける。
「無事で帰れたからこそ、今こうして話せているんです。けれど、それは“たまたま”です。運が良かっただけ。次は、同じように助けてもらえるとは限りませんよ」
「ごめんなさい……」
「あなたが世間に疎いのは理解していますが、もう少し警戒心を持たれてはいかがです?」
一言一言が正論で、逃げる余地がない。
この時代の治安を甘く見ていた。まさか、路地裏に入ってはいけない、それが常識だなんて。未来の感覚でふらふら生きていると危ないということだ。全くその通りである。
それに、男が女を"蕎麦屋に誘う"のは、そういう意味もあるのだとさっき一緒に教えてもらった。
この時代の常識をまだよく知らない私でも、胡蝶さんがなぜこんなにも怒っているのかすぐ理解した。もしあのまま流されていたらと思うと、ひやりとする。
「本当になんともないのですね?」
「だ、だいじょうぶです……!」
心配するような声色に、思わず両手をぶんぶんと振って否定した。
私の涙の跡を見て何かを言いかけた胡蝶さんだったが、一度ふうと長く息を吐く。
「…本当に怪我は手首だけなんでしょうね」
「はい!ちょっとだけです!かすり傷みたいなもので…!」
「“ちょっと”でも怪我は怪我です」
「はい。すみません……」
さっき冨岡さんにもそう言ったとき不服そうな顔をされたが、そのわけをここで理解した。
そういえば、初めてこの屋敷にやって来た日も似たような感じだった気がする。
冨岡さんに連れられ、今と同じように胡蝶さんに玄関先で出迎えられて…。その時も、彼女の笑顔の下に潜む尖った気配に怯えてしまったんだっけ。
なんだかそう思うと懐かしくて、このお説教もとても温かいものに思えてきた。思わずふっと笑みが溢れる。
「……リサさん。聞いていますか?」
「は、はいっ……聞いてます……!」
ぴしりと声が響いて、慌てて姿勢を正した。思考が彷徨っていたのがバレてしまった。
胡蝶さんは呆れたように息をつき、腕を組んだままこちらを見据える。
「まったく……」
そう言いながら片手で眉間を揉み出すからなんだか申し訳ない。その一方で、私はちらりと視線を横に向けた。
冨岡さんと目が合う。今度こそ気の利いたことを言ってくれるのではと期待の眼差しを送るが、彼はただ静かにこちらに瞳を落とすだけだった。
「…ちゃんと聞いておけ。お前はもう少し警戒心を持った方がいい」
ぽつり、と便乗して怒られてしまう。そしてまた視線を逸らされるのだから解せない。
てっきり味方をしてくれると思っていたのに。さっき「頼れ」って慰めてくれたのに。理屈ではわかるけれど、拗ねたような気持ちが広がっていく。
でもたしかに、最初出会ったときも似たようなことを言われた気がする。
その後もしばらく胡蝶さんの説教は続き、終わった頃にはすっかり足が痺れていた。
立ち上がれるようになるまでしばらく時間を要したが、最後は冨岡さんが私の腕を引き上げてくれた。
そのまま何も言わずに去っていく背中。本当に不思議な人だ。助け舟を出してくれることはないのに、こうして最後まで付き合ってくれたのだから。
気づけば空の色は群青から夜へ。風も冷たく変わっていた。手首を手当てしてもらうために、胡蝶さんと一緒に診察室へ向かう。
でも、きっとこれでいい。心配して、叱ってくれる人がいるのはとても有難いことだ。見放されるよりも、しっかりと言葉にして伝えて貰える方がいい。
それが今の私には必要な気がする。渡り廊下を歩きながらそう思ってへらりと笑うと、胡蝶さんに「笑い事じゃありません」とまた怒られてしまった。
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