11


翌朝――。
昨夜は布団に潜るなり、心地よい疲労と共に眠りに落ちてしまった。けれど、その余韻はまだ残っていて、胸の奥がむずむずと落ち着かない。
ふと目を向けると、寝台の横の小さな棚に置いたガラス瓶が朝日にきらきらと照らされていた。
透き通った瓶の中で、金色の飴玉がひとつ、ふたつ、光を弾く。視界に入っただけで胸がじんと温かくなり、昨日の言葉や気配が自然に私を笑顔にさせた。

「んー……」

小さく息を吐き、重かった体を引きずるようにして布団から抜け出す。まだ少し眠気は残っているけれど、なんだか目覚めのいい朝だ。
そうして自分でできる範囲で簡単に着替えを済ませると、調理場へ向かった。

引き戸を開けると、かすかに火のはぜる音と湯気の匂いが鼻をくすぐる。
その場にいたのは、アオイさんときよ、なほ、すみちゃん。みんなも来たばかりらしく、割烹着かっぽうぎを着込み、それぞれの持ち場につき始めたところだった。
私が入ってくるのを見るなり、ぱっと目を輝かせる。

「あ、リサさん!おはようございます!」
「おはようございます!リサさん」
「……昨日、大丈夫でした?」

三人の声が重なり合って飛んでくる。
私はすぐに首を縦に振って答えた。

「あ、ありがとう。みんなにも心配をかけてしまってごめんなさい…。でも、もう大丈夫です。しばらく一人でのお使いは禁止になっちゃいましたけど…」

そう答えると、三人はほっとしたように笑みを浮かべ、アオイさんも小さく頷いた。

「しのぶ様がああやって叱るのは、本当に珍しいんですよ。普段は滅多に表情を崩されたりしませんから。…それだけリサさんのことを心配していたんだと思います」
「そうなんですか……」

なんだか、胸の奥に温かいものが広がった。
昨日の鋭い眼差しや強い言葉の奥に、そんな気持ちが込められていたのだと思うと、じんわり涙がにじみそうになる。

「うんうん、私たちも何度かありますよ!」

きよちゃんがそう言って、勢いよく頷いた。

「遅くまで働きすぎて寝不足になったときとか」
「夜遅く勝手に出歩こうとしたときとか」

なほちゃんとすみちゃんも次々に口を挟んで、みんなが口々に“怒られエピソード”を披露し始める。

「仁王立ちされると、本当に心臓が止まりそうになりますよね」
「わかります!笑ってるのに怖い!」
「でも、叱られたあとってなんだか安心して」

三人が顔を見合わせてころころと笑う。私もつられて笑いながら、胸の奥までぽかぽかと温まっていくのを感じた。
――ああ、私もちゃんと、この屋敷の中に居場所をもらえているんだな。
誰かが私を気にかけてくれて、無茶をすれば叱ってくれる。心配して声をかけてくれる仲間がいる。
もっと早くに、その心強さに気づいていれば良かったのに。

「でも、良かった。リサさんすごく落ち込んでるんじゃないかって皆で心配してたんです。でも…顔色も悪くないですね」
「それ、は……」
「もっと言えば、これまでよりもずっとずっと元気そうに見えます!」

アオイさんときよちゃんの言葉に、思わず瞬きをした。
元気になれた理由なんてひとつしかない。
きっとそれは…冨岡さんのおかげだろう。

「……そう、見えますか?」

頬に残った熱をそっと確かめる。
昨日、冨岡さんの言葉に堪えていたものが全部あふれて、どうしようもないほどみっともなく泣いてしまったけれど。
その時、胸の奥で絡まっていた大きなわだかまりがふっとほどけたのだ。怖さが全部なくなったわけじゃない。
でも、“もう大丈夫だ”って自分で思えるくらいには、抱えていた不安が吹っ切れてしまった。

「はい!リサさんは笑顔が似合うので、ずうっと笑ってて欲しいです」
「リサさんが笑うと心がぽかぽかするんです」
「み、みんなありがとう…」

きよちゃんとなほちゃんの言葉に、頬が熱くなる。そんなことを言ってもらえるなんて、とても幸せだ。
すみちゃんが「本当によかったぁ」と胸の前で手をぎゅっと握った。
そのやわらかな空気の中で、私はそっと目を伏せる。

台所には炊き立てのご飯の甘い香りと、味噌汁の湯気が漂っていて。
食器がぶつかる軽い音、アオイさんが指示を出す声、三人のはしゃぐ声――。
そのすべてが調和して、一枚の絵のように私を包み込む。

「リサさん、これお願いできますか?」

アオイさんに声をかけられ、私は「はい!」と返事をして器を受け取った。
名前を呼ばれて、頼られて、応えて――そういう小さな積み重ねが、確かに自分をこの場所に繋ぎとめている。
そうだ。ここでなら、私も変われるかもしれない。
与えられることに慣れていいと言われたこと。
頼っていいと、甘えていいと言われたこと。
誰かの役に立てるように、少しずつでも前に進めるように。
昨日までの自分を少しずつ脱ぎ捨てて、新しい自分になれるだろうか。









朝餉の片づけが一段落すると、屋敷の空気は一気に緩んだ。
私はひとり、庭に面した縁側へ腰を下ろす。青空に白い雲がゆっくり流れ、頬に触れる陽射しは眠気を誘うほど心地よかった。
指先でガラス瓶を転がすと、からん、と軽やかな音が鳴る。瓶の中で、昨日もらった金色の飴玉が光を反射していた。
私はそれを口に含み、舌の上でころころと転がした。じんわり広がる甘さに胸の奥がくすぐったくなる。ほんの一粒なのに、不思議と心までほどけてしまいそうだ。

「──ここにいたんだ」
「…あ!尾崎さん!」

声に振り返ると、尾崎さんが縁側の柱の影から姿を現した。
久しぶりに見るその姿に、ふわりと心が軽くなってとても嬉しくなる。陽射しを受けて艶めく黒髪と凛とした立ち姿が、一瞬にして場の空気を引き締めた。

「久しぶりだね」
「うん…!久しぶり!この近くの任務だったの?」
「ううん、今日は胡蝶さんの診察に来ただけ……ってそれはそうなんだけど。昨日のこと。なほちゃんから聞いたよ?」
「……えっ」

思わず飴を転がしたまま顔が引き攣った。まさか尾崎さんにまでそのことをつっこまれるなんて。
もうそこまで噂が回ってるの?と内心叫んだのが顔に出てしまったのか、尾崎さんは小さく吹き出し、私の隣に腰を下ろした。

「そんなに驚かなくても。鬼殺隊の情報網舐めない方がいいよ」
「うぅ……恥ずかしいです」

両手で頬を覆い顔を赤らめる私に、尾崎さんはふっと目を細めた。
彼女の視線が、私の左手首に巻かれた白い包帯へと落ちる。どこか痛ましそうな表情を浮かべ、指先を伸ばすと布の上をなぞるように撫でた。

「…まだ痛む?」

低く優しい声。
私は小さく首を振った。

「ううん、全然」
「……そっか。怖い思いをしたね」

胸の奥をそっと撫でるような響きに、思わず言葉に詰まった。
昨日の光景がふと蘇る。土壁に押し付けられた背中、骨ばった指の痛み、逃げられなかった足――それが一瞬で蘇り、心臓がざわつく。
どうやら、あの男たちはあの町では知られた存在らしいとあとから胡蝶さんから聞いた。祭りや市の日、人が増えると決まって現れて、ひとりでいる女の子に声をかける。逃げにくい場所に追い込んで、じわじわと距離を詰める。いつもそういうやり方らしい。
だから、あんなにも胡蝶さんは心配そうに私を見送ったのだと理解した。その心配を私は見事現実にしてしまった訳だけど。
昔、彼らは胡蝶さんやアオイさんもちょっかいをかけたことがあるらしい。けれど、胡蝶さんと二度目に対面してからは蝶屋敷のみんなには手を出すことがなくなったのだと言う。
…胡蝶さん、一体何したの。どんな方法で彼らを打ちのめしたのか、想像しようとしてやめた。でも、だからこそ冨岡さんの「この娘は蝶屋敷の家の者だ」って言葉にも怯えるように逃げて行ったのだ。

冨岡さんや胡蝶さんのおかげで、その記憶に蓋をすることはできたとはいえ、まだ思い出すとひやりとしてしまう。
突然私が黙り込んでしまったからか、尾崎さんが心配そうにこちらを覗き込んだ。指先が一瞬包帯を押さえてから、優しく包み込まれる。

「リサ…」
「…で、でも、胡蝶さんに手当てしてもらったらすぐに痛みがなくなったの。本当にすごいね。胡蝶さんってまるで女神様みたい」

さらりと違う話題にすり替えるみたいに。
小さな声になってしまったけれど、言ってしまえば不思議なもので。昨日の叱責や鋭い眼差しが、確かに温もりとなって胸を満たしていく。
まるで自分の弱さに蓋をするための言葉が、いつの間にか支えのように姿を変えてくれるみたいだった。

「ふふ、確かにそうだね」

尾崎さんはあえて何も言わず、ただ穏やかな笑みのまま受け止めてくれる。そしてそっと私の手首から指を離すと、その手が自然に私の膝の上に置かれた瓶へと滑った。

「それ……どうしたの?」
「あ、これ?冨岡さんが、昨日……」

そこまで説明しかけたところで、自分でも少し照れくさくなる。
尾崎さんは目を細め、「へえ」と短く返した。その声音には、からかうような色も詮索するような響きもなく、ただ少し意外そうで優しい。

「……ひとつ、食べる?」

私は思わず瓶を差し出していた。
尾崎さんは一瞬ためらい、けれどすぐに首を横に振る。

「ううん。大切なものでしょ?それに…リサがもらったからこそ意味があるんだよ」

その一言に、頬がまた熱を帯びていくのを感じた。恥ずかしくなって、思わず目を伏せてしまう。
しばらく二人で風に耳を澄ませていると、尾崎さんがふいに口を開いた。

「そういえば、しばらく町へ行くの禁止になったんだってね。きよちゃんから聞いたよ」
「あ、うん……絶対じゃないんだけどしばらくは…って胡蝶さんが」

苦笑まじりに答えると、尾崎さんはなぜか残念そうに小さく肩を落とした。

「……惜しかったなあ」
「え?」

不思議に思って顔を上げると、彼女はどこか悪戯っぽい眼差しでこちらを見ている。

「今度、一緒に町へお出かけしたいって思ってたの。せっかく誘おうとしてたのに」
「えっ……!!」

思いもよらなかった言葉に、頭が真っ白になった。飴玉の甘さも、陽射しも、すべてが一瞬で遠のいてしまう。
尾崎さんの声は穏やかで、からかっているようには聞こえない。けれど、私はまだ意味を掴みきれなくて、目を大きく開いて彼女を見つめ返した。

「な、なにを……」

耳まで赤くして言葉に詰まらせる私に、尾崎さんはわざと肩をすくめてみせる。

「……残念。しばらくはおあずけだね」
「お、おあずけって……!」

わざとらしく大きなため息までついてみせるその仕草に、胸がむず痒くなる。
…そんな。だって私、友達と外に出かけるなんて、ここに来てからまだ一度もない。小さな店を覗き込んだり、何かを買って分け合ったり、そんな光景を想像するだけで胸の奥があたたかくなる。尾崎さんと一緒なら、きっときっと楽しいはずだ。
それを思うと、どうしても行きたいという思いが抑えきれなくなった。

「胡蝶さんに……聞いてみる!絶対行けるようにお願いしてみせるから!」

勢いに任せてそう言った瞬間、尾崎さんが目を丸くし、そしてふっと吹き出した。

「ふ、ふふ。ああ、おかしい。そんなに力込めて言わなくても。…でも、そこまで言ってもらえるなんて光栄だね」
「……だ、だって……」
「可愛いね、リサちゃん」
「か、可愛いって……!私は真剣に行きたいの!」

抗議の声を上げたのに、尾崎さんはますます笑みを深める。
そして両手を床につくと、こちらを覗き込むようにしてひとつくくりの髪を揺らした。

「そんな顔で“絶対行くから!”なんて、こっちがやられちゃった」
「うぅ……私は真剣なのに」
「違うよ。本当に、素直でいいなって思っただけ」

不意に真顔で言われて、胸がどきりと跳ねる。以前から思っていたが、彼女は同性から見てもとてもモテると思う。
照れくさくなって視線を逸らすと、冬の空気に乗って早咲きの梅の香りが漂ってきた。
尾崎さんと私、二人の間に流れる沈黙は不思議と心地よくて、自然にくすくすと笑い合っていた。

「だって…尾崎さんと一緒に出かけられたら、知らない町もぜんぶ楽しそうだもん」
「そう言われちゃ、私も頑張って胡蝶さんに頼んでみたくなるね」
「ほ、本当……?」
「うん。でも約束ね。行けることになったら私の荷物持ち、ちゃんとしてもらうから」
「もちろん任せて……!」
「……冗談よ」

勢いよくそう言い切ると、尾崎さんが本気にするなとでもいうように苦笑いした。
冗談半分のやりとりなのに、私は胸がぽかぽかしてどうしようもない。
尾崎さんと並んで座っているだけで、とても楽しくて幸せだった。

けれど。
目の前の幸せしか見えていなかった私は、この先訪れる数々の哀しみを想像することすらしていなかった。
本当は今この瞬間も、ゆっくりゆっくりとその歯車は回っているというのに。
楽しい日々に、暖かなぬくもりに、見えない暗闇はすっかり隠れてしまっていた。
時代の残酷さ――とでもいうのだろうか。そんな言葉で簡単に片づけられてしまうほどに、哀しく、苛烈なものが迫っていることも知らずに。

「へへ、楽しみだなあ」
「おいしい洋菓子のお店知ってるの。一緒に行こうね」
「ほんとう?行きたい!」

二人で交わした言葉は、風に溶けるように軽やかだった。
それでもいつか。私の“当たり前じゃなかった当たり前”が、静かに消える時。そんな背中を支えてくれる誰かはいるのだろうか。
朝が来るなら夜が来る。
笑顔があれば涙がある。
出会いがあるなら別れがやってくる。
始まりがあれば、必ず終わりがやってくる。
――それはきっと、どの時代も変わらないからこそ、美しくて儚いのだ。
そしてそれが訪れたとき、私は何を思うのだろう。胸の奥で甘く転がる飴玉のぬくもりを感じながら、私はまだその答えを知らなかった。




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