11
翌朝、それはそれは色んな人に心配をかけた。
目が覚めた瞬間から、蝶屋敷の中はちょっとした騒ぎになっていたのだ。左手首に包帯を巻いた状態の私の姿は、お屋敷の皆にとって相当な衝撃だったらしい。
「もう!本当に馬鹿なんじゃないですか、リサさんは!」
開口一番、そう言って激しい剣幕で私を怒鳴りつけてきたのはアオイさんだった。
いつも通りきっちりと結ばれたツインテールを揺らし、両手を腰に当てて、般若のような恐ろしい顔で私を睨みつけている。だけどその切れ上がった瞳の奥が、うっすらと涙で潤んでいるのを私は見逃さなかった。
彼女は朝一番に私が台所へ顔を出すなり、私の肩や背中を何度も叩いた。
「ただの買い出しですよ!?なんでそんな怪我をして帰ってくるんですか!」
「は、はい!ごめんなさいアオイさん……」
「謝って済む問題じゃありません!」
彼女の怒声は、お屋敷の静かな朝の空気にワンワンと響き渡る。でも、彼女がどれほど最悪の事態を想像して胸を痛めていたのかが痛いほど伝わってきて、私は返す言葉もなくただ縮こまるしかなかった。
そして、三人娘に至っては泣かれた。
「ひぐっ、え、ええぇぇん!ご無事でよかったですぅ……!」
小さな体を震わせながら、しゃくり上げて泣きじゃくる三人。
こんなに私のことを大切に想い、心配してくれる温かい人たちがいるのに。守るべき日常が、ここにこんなにも溢れているのに、私は一体なんて不甲斐ないことをしてしまったのだろう。
こんな幼い三人にこんなにも心配をかけてしまって、自分のしでかした事の重大さを私はようやく本当に理解した。
そして、これほど温かい場所にいながら、元の世界への未練や寂しさから「心細さ」ばかりに目を向けていた自分の浅はかさを、心の底からより一層深く猛省したのだった。
*
その日の午前中、私は病室での隊士たちの手当てや、蝶屋敷のちょっとしたお手伝いをひと通り手際よく済ませた。ようやく一息つける時間がやってきたのは、お昼を少し過ぎた頃のことだ。
冬特有の突き刺さるような冷気は相変わらずそこかしこに満ちているけれど、お屋敷の長い廊下だけは、遮るもののないぽかぽかとした柔らかな陽だまりに包まれている。
あまりの心地よさに誘われて、私は手元にある小さな硝子瓶を抱えたままその縁側にそっと腰を下ろした。
「引くな!」
「もう一本!」
刀と刀が激しくぶつかり合う乾いた音。広く開けた庭の片隅では、数人の鬼殺隊士たちが木刀を手に熱心に打ち込み合っている。
そんな彼らの熱い鍛錬をぼんやりと眺めながら、私は手元の硝子瓶に視線を落とした。瓶の中には、琥珀色をした丸いべっこう飴がいくつも詰まっている。これは昨日、冨岡さんが私の手に握らせてくれたものだ。
蓋を開けて一粒つまみ、口の中に放り込んだ。途端に素朴で優しい、どこか懐かしい甘さがじわりと舌の上に広がる。
「がんばれ、がんばれー!」
口の中で飴を転がしていると庭の隅にある植え込みの影から、きよちゃん、すみちゃん、なほちゃんの三人が身を乗り出すようにして一生懸命に隊士たちを応援している声も聞こえてきた。
そんな賑やかな庭を眺めながら、私は抱えていた硝子瓶を何気なく冬の澄んだ太陽にかざしてみる。透明な硝子越しに日の光をいっぱいに浴びた琥珀色の飴玉たちは、きらきらとまるで宝石のように綺麗だ。
「綺麗ね。それ、べっこう飴?」
ふいに上から降ってきた優しい声に、私はぱっと顔を上げて振り返った。
「尾崎さん……!」
彼女の顔を見た瞬間、パッと胸の奥が明るくなるような嬉しさが込み上げてくる。
「久しぶり」
「久しぶり!もしかして任務帰り?」
「ううん、今日は胡蝶さんの定期検診。怪我がちゃんと完治してるか診てもらいにね。それで、終わったあとにちょっとだけ体動かさせてもらってたの」
「そうなんだ…!もう、なんともなかった?」
「もちろん。完治だって」
「良かったあ!」
尾崎さんはふんわりと微笑みながら、私の隣にすとんと腰を下ろした。動いていたと言っていたけれど、回復訓練に行っていたのだろう。ほんの微かに尾崎さんから薬湯の匂いがする。
「実は私、ちょうど尾崎さんに会いたいなって思ってたところだったんだ」
昨日からずっと心細いことや目まぐるしいことばかりが続いていたから、気の置けない彼女の顔を見て本当にホッとした。そんな私の言葉に尾崎さんは嬉しそうに目を細める。
「私もだよ。…聞いたんだ、昨日のこと。なほちゃんから」
「……えっ」
その言葉に、思わず顔を引き攣らせてしまった。
昨日の今日とはいえ、あの出来事がもう尾崎さんにまで話がいっているなんて、あまりにも伝達が早すぎはしないだろうか。いや、なほちゃんは心配してわざと彼女に話してくれたのかな。
「そんなに驚かなくても。鬼殺隊の情報網、舐めない方がいいよ?」
「うぅ、恥ずかしいです……」
私は両手で顔を覆って小さく身を縮めた。
自分の警戒心の薄さがこんなに大ごとになるなんて。なんだか恥ずかしいし、やっぱり少し情けない。
そんな私を見て尾崎さんはふっと優しく目を細めた。けれど次の瞬間には彼女の視線が、私の左手首に巻かれた白い包帯へと落ちる。
「……まだ痛む?」
尾崎さんはそっと指先を伸ばすと、傷口を刺激しないように細心の注意を払いながら布の上をなぞるように撫でた。
その指先から伝わってくる温もりに、私は小さく首を振る。
「ううん、全然」
「……そっか。怖い思いをしたね」
私の心に寄り添うように言われて、私は昨日起きた出来事を頭の中で少しだけ思い返した。たしかに怖い思いをしたはずなのに不思議だ。なぜか、穏やかな気持ちにしかならない。それもこれも全部、冨岡さんと胡蝶さんのおかげだ。
どうやら、あの男たちは町では少々知られた質の悪い存在だったらしい。その詳細は、昨日に手当てをしてもらった際、胡蝶さんから聞かされた。
普段は大人しくしているものの、祭りや市の日など人が多くて紛れ込みやすい日になると決まって現れては、一人でいる女の子に狙いを定めて声をかけてくるのだと言う。
ただ一年前、ちょうど買い出し中だった胡蝶さんにも同じようにちょっかいをかけて以来、彼らは一転して怯えきり、蝶屋敷の女の子には一切手を出さなくなったそうだ。
…胡蝶さん、一体彼らに何をしたんだろう。私は色々と想像しかけて考えるのをやめた。
でも、だからこそ冨岡さんが言い放った「この娘は蝶屋敷の家の者だ」という言葉にも男たちは怯えて逃げて行ったし、私は助かったのだ。
二人の作り出してくれた温かい盾のおかげで、私は今こうして怪我だけで済んで五体満足でいられている。
「あ……ごめん。思い出させちゃったね」
突然私が黙り込んでしまったからだろうか。
隣にいた尾崎さんが、ハッとしたように心配そうな顔をしてこちらを覗き込んでくる。
「ううん、違うよ大丈夫。ありがとう尾崎さん」
「本当に無理しちゃ駄目だよ。生身の人間だもの。怖いものは怖いし、傷つけば痛いし」
尾崎さんは前を見つめ、庭で木刀を振るう隊士たちに視線を投げながら静かに言葉を続けた。
「だから、何かあったら何でも言ってね。いつもは一緒にいられないし、大したこともできないかもしれないけれど……」
「そんなことないよ!尾崎さんがいてくれるだけでとっても心強い。…もう本当に大丈夫なんだ。この手首だって胡蝶さんが大袈裟に包帯を巻いてるだけだし。それに……」
言いかけて、私は咄嗟に言葉を濁した。
頭に浮かんだのは昨日の出来事のすべて。屋敷まで送り届けてくれたときの優しさや、今も口の中でまろやかに溶けているべっこう飴の優しい甘さだ。
そんな私を尾崎さんは一瞬だけきょとんとした目で見つめていたけれど、私の視線が手元の硝子瓶に泳いだのを見て、すぐに「ははん」とすべてを察したような笑みを浮かべる。
「良かった。リサすごく落ち込んでるんじゃないかって心配して見にきたんだけど、顔色も悪くないね」
「それは……」
「何かいいことでもあった?」
尾崎さんは悪戯っぽく首を傾げて、私の顔を覗き込んでくる。
いいこと、なんて言えるような大層なものじゃない。ただ、昨日からずっと目まぐるしくて、色々考えてしまうだけ。
「それ、どうしたの?」
「こ、これ?冨岡さんが昨日……」
そこまで言いかけて言葉を濁す私の様子を尾崎さんはじっと見つめ、すべてを悟ったように「へえ」と短く返した。
「……ひとつ、食べる?」
照れ隠しとこの高鳴る鼓動をごまかすために、私は思わず抱えていた硝子瓶を尾崎さんの方へと差し出していた。
尾崎さんは一瞬だけ差し出された瓶を見て躊躇うような素振りを見せたけれど、けれどすぐにふわりと首を横に振る。
「ううん。大切なものでしょ?それに……リサがもらったからこそ意味があるんだよ」
尾崎さんのその一言に、私の頬はさらに温度を上げじわじわと強い熱を帯びていくのを感じる。
「尾崎さん、そんな目で見ないで……」
「ふふ、どんな目?昨日、何かあったの?ちょっとくらい教えてくれたっていいのに」
「なんにもないよ!本当に、ただ助けてもらっただけ……!」
「そのあとの話を聞いてるのよ」
尾崎さんはニヤニヤとした笑みを崩さないまま、さらにぐいっと肩を寄せて覗き込んでくる。その距離の近さに、私はますます逃げ場をなくしてジタバタしてしまう。
「普通にお屋敷まで送ってもらっただけ!」
「へえ、冨岡様が『送ってくれた』んだ」
必死になって早口でまくしたてる私を見て、尾崎さんはどこか楽しそうに声を上げて笑う。
「そんなにムキになって言い訳しなくてもいいのに。でも真っ赤になって動揺するなんて、やっぱり可愛いねリサちゃんは」
「うう、尾崎さん人が悪いよ……」
完全に手のひらで転がされている自覚があって、私は抱えた腕に顔を埋めるようにして小さくため息をついた。
どれだけ尾崎さんにからかわれても、どんなにありふれた理由を並べて言い訳しようとしても、昨日あった事実だけは動かせない。
男たちに追い詰められてパニックになっていたはずの昨日の記憶は、いつの間にかすっかりあの人のこと一色に塗り替えられている。
「ごめんごめん、ちょっとからかいすぎちゃった」
尾崎さんは笑うのをやめると、ふっと優しいいつものお姉さんのような表情に戻って私の頭をぽんぽんと叩いた。
「でも、本当に良かった。冨岡様のおかげでリサに何もなくて。
尾崎さんの真っ直ぐな言葉に、私は両手で顔を覆い視界を遮断する。
「それはそうだけど。でも私、迷惑をかけてばっかりだよ。胡蝶さんにも冨岡さんにも……。昨日だって屋敷に戻ったあと、足が痺れるまでずーっとお説教されて……」
思い出すだけで、まだじんわりと足の裏が疼くような気がする。情けなさと申し訳なさが一気に押し寄せてきて、私はさらに身を縮めた。
すると隣から「あはは!」と、尾崎さんのカラッとした楽しそうな笑い声が聞こえてきた。私の深刻な凹み具合がツボに入ったらしい。
「それは災難だったね。胡蝶様は怒ると本当に怖いからねえ」
本当にその通りだ。初めて会った時から顔と声の温度が一致しない人だなあ、と思うことは度々あったが。
「普段優しい人が怒ると一番怖い」というのは、どの世界でもあながち間違いではないらしい。昨日のあの張り詰めた空気感を思い出すだけで、私の胃のあたりは未だにキュッと縮みそうになる。
「それにね、しばらく一人での外出は禁止になっちゃったの。あの町にも当分の間は行くの駄目だって言われて……」
ため息混じりに私がそう付け足すと、尾崎さんは驚いたように目を丸くした。
「えっ、そうなの!?」
「うん。お買い物のお手伝いも、次からは必ずアオイさんか誰かと一緒じゃないと駄目って」
私がそう言うと尾崎さんはあからさまに肩を落とし、眉を下げてひどく残念そうな顔をした。
予想以上に落ち込んでいる彼女の様子に、私は少しだけ不思議に思う。だって、外出禁止は尾崎さんではなく私のことなのに。それに、私も取り返しのつかないことをしかけた反省から、しばらくはその方が良いだろうと納得もしている。
「……惜しいなあ」
「え?」
不思議に思って顔を上げると、彼女はどこか悪戯っぽい眼差しでこちらを見つめていた。
「今度、一緒に町へお出かけしたいって思ってたの。せっかく誘おうと思ってたのに」
「えっ……!!」
頭が真っ白になった。
口の中で転がしていた飴の素朴な甘さも、縁側を包み込むぽかぽかとした陽射しも、すべてが一瞬で遠のいてしまう。
「な、何を……」
耳までカッと赤くなって言葉に詰まった私を見て、尾崎さんはわざとらしく肩をすくめてみせる。
「……残念。しばらくはおあずけかなあ」
「お、おあずけって……!」
わざとらしく大きなため息までついてみせるその仕草に、何とも言えないもどかしさが胸の奥から湧き上がってくる。
だって、私――友達と外に出かけるなんて、この時代に来てからまだ一度もないのだ。今までは生きることに必死で、屋敷の手伝いをこなすだけで精一杯だった。
でも、もし尾崎さんと一緒に町へ行けたら。小さくて賑やかな出店を二人で覗き込んだり、美味しそうなものを買って半分こにして分け合ったり。そんな夢のような光景を想像するだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。尾崎さんと一緒なら、ただの買い出しだってきっと何倍も楽しいはずだ。
行きたい。絶対に、尾崎さんと一緒に町へ行きたい。
「胡蝶さんに……聞いてみる!絶対、行けるようにお願いしてみせるから!」
気がつけば、私は両手を握りしめて勢い任せに叫んでいた。私の凄まじい勢いに、尾崎さんは一瞬だけ呆気に取られたように目を丸くし、それから耐えかねたようにふっと吹き出した。
「ふ、ふふ。ああ可笑しい。そこまで言ってもらえるなんて光栄ね」
「だ、だって……本当に一緒に行きたいんだもん」
「可愛いね、リサちゃん」
「か、可愛いって……!」
必死な私を子ども扱いするように笑うので思わず抗議の声を上げたけれど、尾崎さんはますます愛おしそうに笑みを深める。
「そんな真剣な顔で"絶対行くから!"だなんて、こっちがやられちゃった。そんなに私とお出かけしたいなんて言ってくれるの、リサくらいだよ」
「私は本気で真剣なのに……」
「違うよ。からかってるんじゃなくて、本当に素直でいいなって思っただけ」
「尾崎さんの方がずっと綺麗だし、私なんかよりお出かけに誘いたい人なんてたくさんいるよ……」
恥ずかしさをごまかすようにごにょごにょと呟くと、尾崎さんははにかむように微笑んだ。
庭からは相変わらず隊士たちの威勢のいい声と木刀の音が響いている。だけど、尾崎さと私の二人の間に流れる沈黙は不思議と心地よくて、どちらからともなく顔を見合わせ、自然にくすくすと笑い合ってしまった。
「尾崎さん、また外出許可が出たら本当に一緒に行ってくれる?」
「もちろん。その時はお手紙送ってね」
「お手紙?……あ、そっか。わかった!」
そうか。この時代の連絡はそうやって取り合うんだな。
スマートフォンも、一瞬で届くメッセージアプリもない世界。だけど誰かを誘うために慣れない筆を執り、便箋を選び、手紙に想いを託す。その不便さが今はなんだかとても愛おしく感じられた。
「リサと行きたいところがあるんだ」
「ほんとう?」
私を選んでくれた。この過酷な世界の中で、私と時間を共有したいと思ってくれる友達ができた。その事実だけで、この見知らぬ時代に対する不安がすべて淡い光の中に溶けていくような気がする。
けれど。
目の前の幸せしか見えていなかった私は、この先訪れる数々の哀しみを想像することすらしていなかった。
本当は今この瞬間も、ゆっくりゆっくりとその歯車は回っているのに。楽しい日々に、暖かなぬくもりに、見えない暗闇はすっかり隠れてしまっていた。
時代の残酷さ――そんな言葉で簡単に片づけられてしまうほどに、哀しく、苛烈なものが迫っていることも知らずに。
「おいしい洋菓子のお店を知ってるの。今度一緒に行こうね」
「うん!絶対に」
冬の柔らかな陽だまりの中で、二人で交わしたささやかな約束。それはきっと、この時代にとっては、いつ破れてもおかしくないガラス細工のような約束だったのかもしれない。
それでもいつか。私の、この"当たり前じゃなかったはずの当たり前"が、静かに消える時が来る。
朝が来るなら、等しく夜が来る。
笑顔があれば、その裏には必ず涙がある。
出会いがあるなら、いつか別れがやってくる。
始まりがあれば――そう、どんなに抗っても、必ず終わりがやってくる。
それはきっと、どの時代、どの世界であっても変わらない摂理だからこそ、これほどまでに美しくて儚いのだ。
そして、その終わりが訪れたとき、私は一体何を思うのだろう。口の中で残り少なくなった飴玉の甘いぬくもりを感じながら、私はまだその答えを知らなかった。
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