9


数日が過ぎた頃には手首の怪我はすっかりなおり、屋敷の手伝いにもまた本格的に参加できるようになっていた。
けれど、その日の蝶屋敷は、そんな悠長なことを言っていられないほど朝からひときわ慌ただしかった。

「痛っ、痛いってば、やめてくれ!」
「暴れないでください!動くと余計に傷が開きますよ!」

病室から聞こえてくるのは訓練の活気…ではなく、阿鼻叫喚の治療風景。
今日は朝から、任務帰りの隊士たちが数人運び込まれてきていた。

「すぐに終わりますから、じっとなさってください!そんなんじゃいつまで経っても治りませんよ!悪化しても知りませんからね……!」
「痛いもんは痛いんだよお!アオイちゃんの処置、容赦ないんだもん!」
「まったく……子どもじゃないんですから、少しくらい我慢してください!」

アオイさんは眉を吊り上げながらも、包帯を巻く手を決して止めない。その様子を、少し離れた場所で胡蝶さんが穏やかな微笑みを浮かべて見守っている。

「リサさん、こっちは大丈夫です。次の部屋をお願いしてもいいですか?」
「あ、はい!すぐに行きます」

私は手元の桶を抱え直し、胡蝶さんに指示された隣の部屋へ急いだ。
医療の知識なんてゼロに近い私にできるのは、汚れた布を洗ったり、お湯を運んだり、処置が終わった後の隊士の顔を拭いたりするくらいだ。
それでも、一人でも多くの手が欲しいと言わんばかりの忙しさに、私は必死で食らいついていた。

「失礼します……」

なほちゃんらがいる隣の部屋では、一人の青年が肩から血を滲ませて横たわっていた。
アオイさんのところのような騒がしさはなく、ここはとても静かだった。私は桶から手拭いを固く絞り、なほちゃんに差し出す

「……俺、やりました。あいつの、首……ちゃんと、斬れたんです」
「えらいですよ。よく頑張りました」

そう言ってなほちゃんが、少年の手の上にそっと自分の手を重ねた。
その穏やかな肯定を聞くと、青年は糸が切れたように安心した顔をして深い眠りへと落ちていく。

…すごいな、みんな。本当に、命を懸けてるんだ。
今まで「鬼」という存在を、どこか物語の遠い出来事のように思っていたのかもしれない。けれど、これは現実だ。この人たちは、本当にそれと戦っている。
彼らをこんなボロボロにしてしまう鬼が怖い。この屋敷の温かな空気の中でさえ、一歩間違えれば「死」が隣り合わせなのだと、初めて肌で理解した。

「急がないと……」

自分に言い聞かせるように呟き、私は廊下に出た。不器用でもいい。知識がなくてもいい。この場所の一員として、今の自分にできることを全部やる。
重い桶をぐっと持ち直し、次の病室へ足を踏み出しそうとした時。忙しなく走り回る私の視界に、長い影が落ちた。

「わっ……!」

目の前に現れた人影に気づくのが遅れ、勢いでぶつかってしまった。
そのまま後ろにひっくり返り、床に尻もちをつく。手の中の桶を必死で死守したおかげで水を全被りする最悪の事態は免れたけれど、波打った水面から溢れた水が床に少しだけ散らばる。

「す、すみません……っ!」
「ごめんなさい!大丈夫ですか?」

慌てて謝罪の言葉を口にすると同時に、頭上からも凛とした声が降ってきた。
 
「いえ、私は全く……!それよりもあなたは……」

痛む腰をさすりながら顔を上げると、そこにはすらりと背の高い女性が立っていた。
詰め襟の隊服を着こなしている彼女の姿に、私は一瞬圧倒されて言葉を失う。女性の鬼殺隊士を見るのは、胡蝶さん以外にこれが初めてだった。

黒髪をきっちりと後ろにまとめたその顔立ちは驚くほど整っていて、彼女はすぐさま膝をつくと、呆然としている私の手をしっかりと握り、力強く引き上げてくれる。

「怪我はありませんか?痛むところは?」
「だ、大丈夫です。私の方こそ、前をよく見ていなくて……本当にすみません」
「いえ、私こそ不注意でした。少し考え事をしていて……」

お互いに何度も、頭を下げて謝り合う。
彼女の腰には、隊士の証である日輪刀が差されていた。

「あの、これ……床、すぐに拭きますね!」

私が溢れた水を拭こうと袖をまくると、彼女は「いえ、私が」と制するように手をかざした。

「私がぶつかったせいです。それよりも貴女は帯が……」

彼女が視線を落とした先を見て、私は凍りついた。
ぶつかった衝撃のせいか、それとも朝から無理に動き回っていたせいか、着物の帯がずるりと緩み無惨に解けかかっていたのだ。

「あ……」

慌てて手で押さえたけれど、一度崩れた着付けは私の手に負えるものではなかった。
いつもは胡蝶さんやアオイさんが見かねて手伝ってくれて、ようやく形にできているような状態なのだ。
どうしよう。今すぐ直さなければいけないのに…。
廊下の向こうからは今も隊士たちのうめき声と、必死に立ち働くアオイさんたちの声が聞こえてくる。あんな忙しさの中にいる二人のところへ、「帯が解けたので直してください」なんて言いにいけるはずがない。
いくらできることはやろうとしていたとしても、自分の役立たずぶりに鼻の奥がツンとしてくる。視界がじわりと滲みかけたその時、目の前の彼女が私の肩にそっと手を置いた。

「大丈夫ですよ。私に任せてください」

彼女は素早い動作で懐から手拭いを取り出すと、床の水を拭き取った。そして、流れるような動作で私の手首を優しく取る。

「少しお部屋をお借りしましょう」

彼女は近くにあった空き部屋の障子を静かに開け、私を中へと促した。

「さ、背筋を伸ばしていてください。すぐに直しますから」

彼女は私の前に膝をつくと、手際よく解けた布を整え始めた。布をたぐり寄せ、結び目を引き締める。

「……すごく、慣れていらっしゃるんですね」
「ええ。昔、母に厳しく仕込まれましたから」
「すみません。私、着物の扱いがどうにも下手で……。いつも胡蝶さんやアオイさんのお手を煩わせてしまってて」
「いいえ、誰だって最初はそうです」

彼女は最後に帯の結び目を整えると、満足そうに手を腰に当て立ち上がった。
鏡もない部屋だけれど、手触りだけで先ほどまでの乱れが嘘のように整っているのが分かる。

「はい、これで大丈夫です」
「わ、すごい。本当にありがとうございます……!」
「それならよかった」

ふっと和らぐように向けられた微笑み。
本当に優しい人だと思った。

「あの……!もしよろしければ、お名前を伺ってもいいですか?」

名を尋ねる声が心許なく震えたのは、こんなに素敵な人の前でもっとしっかりした人間に見られたい、という背伸びしたい気持ちの表れだったのかもしれない。





これが、私と尾崎さんとの最初の出会いだった。
歳が近かったこともあるけれど、あっという間に私たちは仲良くなった。
何より彼女の纏う優しい空気が、私の心を解きほぐしてしまったからだと思う。
いつの間にか会話から敬語が消え、私にとって彼女は、この異世界で初めてできた「友達」のような存在になっていた。

「重そうだね、ひとつ貸して」

その日も、廊下で私が大きな木箱をいくつも重ねて運んでいると横から頼もしい手が伸びてきた。

「あ、尾崎さん……!来てたんだ」
「うん。胡蝶さんの検診の帰り」
「そうなの?怪我の具合、大丈夫だった?」
「もちろん。もう任務に戻っても大丈夫だって」
「良かった……!」

隣に並んだ尾崎さんが、私の腕から一番上の箱をひょいっと奪い取る。

「うわ、これ結構重たいね。よく一人で運んでたよ」
「そうかな?」

木箱を軽々と抱え直した尾崎さんが、驚いたように目を丸くする。
言われてみれば、確かに一回で運ぶような量ではなかったかもしれない。二往復するのが面倒で、ついつい一度に済ませようと横着してしまう。

「リサってさ、本当に頑張り屋さんだよね」
「え、違うよ?往復するのが面倒なだけだよ?」

照れ隠しでそう返したけれど、尾崎さんは「ううん、違うよ」とくすりと笑って、私の言葉を優しく遮った。

「一人でどうにかしようとしてたでしょ?普通はね、一人で持てないと思ったら誰かに『手伝って』って頼むものなんだよ。……もっと誰かに甘えてもいいのに」
「あ、それ……胡蝶さんにも言われたかも」

尾崎さんは「やっぱりね」と可笑しそうに笑い、私の不器用な足取りに合わせて歩き出す。
屋敷に来たばかりの頃、胡蝶さんにも同じようなことを言われた。
でも、なんど違うよ、と諭すように言われても、私にはそれが一番難しい。

「私はここに置いてもらってるから、せめて役に立ちたいんだ」
「頼ることもぜんぜん悪いことじゃないと思うけどなあ」
「でも、できることはやりたいよ」
「誰かに頼られるって、それだけで嬉しい時もあるけどね」
「……そうかな?」
「うん、私はそう。だから、次に限界だと思ったら私に一番に言ってほしいな。……『手伝って』って」
「ふふ、うん。尾崎さん。ありがとう」

優しい言葉に泣き笑いのような声を上げると、尾崎さんは「よし!」と満足げに声を上げ、軽く肩をぶつけてきた。
コツン、と伝わってきた彼女の体温が、驚くほど温かくて心強い。



尾崎さんは任務でこの近くを通ると必ず蝶屋敷に顔を出してくれるようになったし、困っている私を見つけると当たり前のように手を貸してくれるようになった。疲れて座り込んでいたら、何も言わず飴玉を差し出してくれることもあった。
そうやって少しずつ、互いのことを知っていった。
人懐こさと芯の強さを併せ持った人だ。明るくて、でも表情の奥にほんの小さな翳りを抱えていて――それでも前を向こうとする姿が、私にはとてもまぶしく見えた。
彼女と出会ってから、蝶屋敷で過ごす日々がより心強いものになった気がする。



「はい、これ」

荷物を運び終わったあと、庭に面した縁側に尾崎さんと並んで腰を下ろした。
目の前には風に揺れる梅の枝があり、まだ花は芽吹いていないけれど、ほのかに良い香りが漂ってくる気がする。

「いただきものなんだ、二人で食べよう」

そう言って尾崎さんが差し出してくれたのは、竹皮に包まれた色鮮やかな三色団子。甘いものなんて、この世界に来てからほとんど口にしていなかった。
「いいの?」と聞き返しながら、私は子供みたいに目を輝かせてしまう。尾崎さんはくすくすと笑いながら、ひとつを手渡してくれた。
口に含むと、もちもちとした食感素朴で優しい甘さが口の中に広がり、それだけでさっきまでの疲れがどこかへ飛んでいく気がする。

「おいしい……!」
「でしょう?頑張った後の甘いものは格別だよ」

隣で尾崎さんが楽しそうに笑う。
冬の終わり、少しだけ春の気配を孕んだ風が、私たちの間を通り抜けていく。

「ねえ尾崎さん」
「ん、なあに?」
「その……冨岡さん、って人知ってる?鬼殺隊の人なんだけど……」

もし、この鬼殺隊という組織が何千人もいるような大きなものだったら、一人の名前を出したところで分からないかもしれない。
けれど、私の問いに尾崎さんは団子を食べる手を止めて、少しだけ意外そうに目を見開いた。

「……冨岡さん?それって、もしかして水柱様のこと?」
「あ、たぶんその人……。アオイさんたちもそう呼んでた気がする」
「知らない人はいないよ。リサが言ってるのは冨岡義勇様のことだね」

――義勇、さん。
そうか。冨岡さんのお名前は、義勇さんというのか。ただの名前を知れただけなのに、急にその人の存在が近くなった気がする。

「会ったことあるの?」
「うん。私を助けてここに連れてきてくれたのがその人だったから……」
「へえ。水柱様が……」
「ねえ、尾崎さん。その水柱ってなに?」

尾崎さんは三色団子の串をくるりと回しながら、私の問いに小さく瞬きをした。
あ、皆が知ってる当たり前だったのかな。不思議に思わせてしまったのもしれない。
でも柱といえば建物にある柱くらいしか知らない。普通は、人につけられる呼び名だなんて思わないだろう。

「柱っていうのはね、鬼殺隊の中で最高位の剣士たちのことだよ。今いる九人の内の一人が冨岡さん。で、ここの胡蝶さんは蟲柱」
「え、そんなにすごい人だったの……!」

日々、あの二人が纏っている空気は他の隊士の人たちとは何かが決定的に違うとは感じていた。でも、まさか組織のトップに立つような人たちだったなんて思わない。

「冨岡さんは『水の呼吸』を極めた人。……正直、私たちみたいな一般隊士とは、住んでいる世界が違うっていうか、雲の上の存在なんだけどね」

雲の上の存在。尾崎さんの言葉を聞いて、私は手の中の空になった串を見つめた。
何度か冨岡さんと会話を交わす機会はあったけれど、それも本当はあまりないことだったのかな。

「急にどうしてそんなこと聞くの?」

尾崎さんが、少しいたずらっぽく私の顔を覗き込んでくる。女子特有の鋭い好奇心が透けて見えて、私は慌てて視線を泳がせた。

「え?えっと、その、どんな人なのかなって気になっただけで……」
「ふうん、そっか」

全然、納得してない。尾崎さんはニヤニヤしながら、わざとらしく深く頷いてみせる。

「……そういえば、村田先輩が冨岡さんと同期だって言ってた気がする。今度こっそり詳しく聞いてきてあげようか?」
「いい!大丈夫!本当に、ただの好奇心だから!」
「そう?」

私が真っ赤な顔をして黙り込むと、尾崎さんは「あはは!」と愉快そうに笑って、空になった竹皮を片付け始める。

「わかった。今度村田先輩に会った時、さりげなく、あくまでさりげなーく聞いてきてあげるから」
「えっ……い、いいってば!」
「いいのいいの。同期しか知らない意外な一面があるかもしれないしね」

尾崎さんは片目をつぶって、悪戯っぽく笑う。
私が止めようとするのも聞かず、彼女はそのまま軽やかな足取りで屋敷の中へと歩き出してしまった。

「楽しみにしてて。じゃあ、私もそろそろ行くね!」
「あ、待って尾崎さん……!」

呼び止める声も虚しく、彼女はひらひらと手を振って去っていった。
一人残された縁側で、私は火照った頬を手で押さえた。
村田さんという人が何を話すのか、怖いような、でもやっぱり知りたいような…。

「意外な一面、か」

ぽつりと呟いて、私はまだ蕾のままの梅の枝を眺めた。




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