9
その日、私は胡蝶さんに初めておつかいを頼まれた。
「暗くなる前には帰ってくるんですよ。寄り道はせずに」
玄関から差し込む光に照らされながら、胡蝶さんがやわらかい声で念を押してくる。
その表情は笑っているのに、細い眉尻はどこか心配そうに下がっていた。
「場所はわかりますね?」
「は、はい」
「変な輩に絡まれたら?」
「"私は蝶屋敷でお世話になっている者です"って言う、ですよね?」
「そうです」
こくりと頷く胡蝶さん。けれど視線はまだ不安を拭いきれないまま、私の顔を探っている。
やっとこの屋敷に馴染んできた今日この頃。隊士の看病で手が離せないアオイさんの代わりに、私は胡蝶さんからおつかいを頼まれることとなった。
けれど、たかが"おつかい"だ。何度かアオイさんと一緒に町へ食材の買い出しに行ったことはあるし、道に迷うほど方向音痴でもない。
たしかに一人で町へ行くのは初めてだが、今日の用事はすぐ近くの藤堂さんという方がやってる薬屋で、胡蝶さんが書いてくれたメモを渡して、調合に必要な材料を買ってくる。
それだけだ。手順は至って簡単。なのに、どうして胡蝶さんはこんなに心配そうに見送ろうとするんだろう。
「やっぱり、アオイあたりに同行を頼んだ方が……」
「だ、大丈夫ですよ。アオイさんも今は看病で忙しいですし。あの、私だって何かあったら…走れますから!」
思わず胸を張ってみせたが、まるで理屈になってないなと自分で自分を心の中でつっこんだ。
…それよりも、転んで荷物をぶちまける姿のほうが容易に浮かんでしまう。
「そうですか?でも、お祭りの時は変な輩が湧きやすいんです。それに、転んだりでもしたら――」
…うっ。
まさに今、頭の中で思い描いていた情けない姿を、胡蝶さんに見透かされたみたいでどきりとした。
思わず笑って誤魔化したけれど、胡蝶さんの心配は優しさからくるものだと知っている。
それにしても、年下の少女にここまで気を揉ませる自分って、一体どうなんだろう。
「胡蝶さん…ありがとうございます。ちゃんと、気をつけますから」
真っ直ぐにそう伝えると、胡蝶さんはふわりと目を細めた。その優しい表情に、胸の奥がじんわりと温まる。
この心配を無駄にしないためにも、無事にお使いを済ませて帰ってこなくちゃ。
「迷子になったら、とりあえず女性に場所を聞いてくださいね。男性はだめですよ」
「は、はいっ」
念を押すような声に、私はコクコクと頷いた。
「くれぐれも気をつけてくださいねー!」
「はい……!」
胡蝶さんの声が背中にかかる。玄関から見送られるなんて、なんだか幼子になった気分だ。
でも、嫌じゃなかった。こんなふうに気にかけてもらえるのは、やっぱり心のどこかで嬉しい。手を振る胡蝶さんに、私も大きく腕を振って返した。
変な輩に絡まれる心配よりも、正直なところ、これを落とさないようにする方がよっぽど不安だ。歩くたびに、巾着の重みが揺れる。
――大丈夫。行って帰るだけ。そう自分に言い聞かせて、私は蝶屋敷の門をくくった。
*
町に降りてからは、言われた通りまっすぐ薬屋を目指して歩いた。
けれど、足を運ぶたびに目に飛び込んでくる景色がすべて新鮮で、視線は自然と左右に揺れてしまう。
木造造りの家、赤や青に染められた暖簾、道端に積まれた籠いっぱいの大根や白菜。どれも時代劇でしか見たことがなかったようなものばかりで、まるで物語の中に入り込んでしまったみたいだと思う。
「さぁいらっしゃい!ウチ自慢の煎餅だよ!」
「お嬢ちゃん、枝豆はどうだい?安うしとくよ!」
客を呼ぶ店主、商品を売り付けては客寄せをする子供、立ち止まる町人。
往来には着物や袴姿の人々が行き交い、手をつないだ子供が飴をねだって駄々をこねる。
炭火で焼かれた団子の香ばしい匂いが風に乗って鼻をくすぐり、どこかで拍子木の音が軽やかに響いていた。
みんな顔が生き生きとしていて、ここは温かい空気に包まれている。
文明が大きく発展する時代とはいえ、未来と比べればまだ不便も多いだろうに、誰も不満そうな表情を浮かべていない。
未来は便利で何でも手に入るけれど、きっとそれだけが幸せではないのだろうと、ふとそんなことを思った。
しばらく歩いていくと、大通りに差しかかった。けれど、異様な人混みに足が止まる。屋台が並び、賑やかな声が飛び交うそこでは、どうやら祭りごとの準備をしているらしい。
そういえば、胡蝶さんもそんなことを言っていた気がする。
冬なのにお祭りなんて珍しいな、と歩いていくも、布を張った屋根や飾りが道を狭め、人と荷とで前に進むのもやっとになってしまった。
「…どうしよう」
人波に呑まれるように押され、薬屋のある方向すら見えなくなる。
しばらく迷った末に、私は横の細い路地へと足を向けていた。
けれど道筋は細かく入り組んでいて、今自分がどこにいるのかさっぱり分からなくなる。さっきまで目印にしていたはずの店も見失ってしまった。
「……ええと、薬屋は……こっち?」
半ば自分に言い聞かせるように呟き、細い路地へ足を向ける。表通りに比べて暗く、石畳も少し湿った場所。
それでも胡蝶さんに一応、と手渡された地図をなぞれば、この道を抜ければ目的地に出られるはずだと信じて歩みを速めた。
「ねえ、そこのお嬢さん」
そのとき、ふいに背後から声がかかった。
「そこの薄紅色の着物のお嬢さん」
「え、私……?」
思わず振り返ると、そこには二人の男が立っていた。
片方は浅い色の羽織を身にまとい、もう片方は手ぬぐいで髪を束ねている。年の頃は二十歳前後だろうか。見た目はごく普通の町人だ。
けれど、その口元に浮かぶ笑みと、じり、と距離を詰めてくる歩幅に、胸の奥がなぜがざわりと揺れた。
けれど、そこまで考えてすぐに思い直す。もしかしたら、この道は彼らの私有地で、入ってはいけない場所だったのかもしれない。
「そう、君。こんな路地に一人?迷子?」
「あ、いえ…その、少し道を間違えたみたいで。すみません…!すぐ戻ります」
怒られる前に慌てて踵を返そうとするが、なぜか男の一人が私の行く手を遮るようにひょいと前に回った。
「まあまあ、そう急ぐなって。良かったら俺たちが案内してやろうか」
「え?だ、大丈夫です……」
「初めて見る顔だし、きっとこの町の子じゃないよな」
「あ、え、その急いでるので……」
私がこの町に来て日が浅いことを、どうしてこの人たちは分かったのだろう。
きっぱりと拒絶したつもりだったけれど、その言葉は彼らにとっては何の抑止力にもならなかったらしい。伝わらなかったのか、あるいは最初から聞く耳を持っていないのか。
「本当?随分と長い時間迷ってるみたいだけど」
「……っ、」
じりじりと男たちが距離を詰めてくる。
私はどうすれば良いかわからず固まっていると、男たちは互いに目を見合わせて笑った。
「はは、そんなに警戒しなくても。俺たち、この辺りには詳しいんだ。いい近道だって知ってるよ」
「ほ、本当に結構ですから……」
慌ててその場を立ち去ろうと、男たちの横をすり抜けようとした。
けれど、伸ばされた腕が壁を叩き、私の逃げ道を塞ぐ。乾いた音が路地裏に響いて、心臓が跳ね上がった。
…待って、これ、おかしい。親切どころか、明らかに悪意が透けて見えている。
胡蝶さんが街へ送り出してくれるとき、私の手を握って言っていた。
『この町は平和そうに見えますが、それは光が当たっている場所だけの話です。…日が暮れる前に、必ず戻ってきてくださいね』
あの時の少し真剣な眼差しが脳裏をよぎる。胡蝶さんの忠告を甘く見ていたわけじゃないけれど、迷った焦りから一番やってはいけない選択をしてしまった。人目がなくて、逃げ場のないこんな場所へ自分から入り込んでしまうなんて。
一刻も早く、ここを離れないと…。薬屋へ行くことよりも、まずは安全な大通りへ。人の声が聞こえる場所へ戻れば、きっとこの人たちも手出しはできないはず。
「あの、本当に連れを待たせているので、失礼します……っ!」
強引に男の脇をくぐり抜けようと一歩踏み出した。けれど、もう一人の男が私の肩を掴み、乱暴に引き戻す。
「せっかく親切に言ってやってるのに、つれないな」
「そうだぜ。少し遊んでくくらい良いだろ?」
掴まれた肩に指が食い込み、鈍い痛みが走る。今まで経験したことのない、直接的な悪意を向けられて、頭の中が真っ白になった。
本格的に危なくなってきたかもしれない。逃げ道を探して慌てて視線を泳がせるが、二人に挟み込まれているせいで前にも後ろにも引けない。
「ね?甘いもの買ってあげるからさ」
「近くに甘味処があったな。…まあ、蕎麦屋でもいいけど」
一人の男がそう言うと、もう一人がくすくすと笑い出す。その笑い声に、全身の毛穴が逆立つような悪寒が走った。
…私は、馬鹿だ。平和な現代の感覚を捨てきれず、自分の置かれた立場の危うさも自覚せず、「おつかい一人で頑張るぞ」なんて、子供の冒険ごっこみたいな気分でいて。ここは、理不尽な悪意が剥き出しで転がっている世界なのに。
自分の浅はかさが招いた絶望に、視界がじわりと歪んでいく。涙が頬に零れ落ちそうになるのを必死に堪えるが、それがかえって男たちの嗜虐心を煽ったらしい。目の前の男の口元が、いらやしく吊り上がる。
「おい見ろよ、こいつ泣きそうだぜ」
「君、いい顔するね。もっとよく見せておくれよ」
拒絶の声を上げる暇もなかった。男の太い指が私の顎を強引に掴み上げ、無理やり顔を正面に向けさせる。
目の前に迫る男の濁った瞳と酒の匂い。必死に身をよじって逃れようとしたその瞬間、男の大きな手が私の肩を掴み、そのまま背後から石畳の上へと強く突き飛ばされた。
「い……っ」
背中を冷たい石畳に打ちつけ、肺から空気が力任せに押し出される。
衝撃で火花が散る視界のなか、逃げようともがく私の体に、男の重苦しい体温がのしかかった。膝で押さえつけられ、逃げ場を完全に塞がれる。
押し倒されては、逃げられない。頭のどこかで、冷え切った理解が突き刺さる。
「抵抗するなって言ってんだろ」
さっきまでとは変わり、どこか苛ついた声で男は言うと、懐から小さな紙包みを取り出した。包みが開かれ、現れたのは得体の知れない濁った色の粉末。
まさか、その「何か」を無理やり体に入れられるのだろうか。とパニックで思考がぐちゃぐちゃになる。
毒だろうか、それとも意識を奪うための薬だろうか。嫌々と必死で顔を左右に振るが、男たちの力に敵うはずもない。
「やめっ、やめて……っ!」
「嫌がれば嫌がるほど、俺たちも手荒な真似をしなきゃいけなくなるんだ」
「は、離して……っ!」
どうしよう。どうしたらいいの。
こんなの知らない。少なくとも未来では、こんな目に遭ったことなんて一度もなかった。夜道を歩くときの不安や、心細さなら覚えがある。
けれど今感じているこれは、その比ではない。
「そうそう。そうやって静かにしてれば痛いことはしないさ」
何をされるかわからない恐怖で、全身の震えが止まらなかった。男の汚れた指先が、その粉をつまんで私の唇に押しつけようとする。
パニックを通り越して、頭の中が絶望で埋まっていく。それを飲まされたら、私はどうなってしまうんだろう。
意識を失って、どこか知らない場所に売り飛ばされるのかもしれない。あるいは、もっとひどいことをされるかもしれない。
胡蝶さんやアオイさんたちの顔が浮かんで、胸が締め付けられる。あんなに優しくしてもらったのに、私はこんな路地裏で、自分勝手な油断のせいで、すべてを失おうとしているのか。
助けて……誰か、助けて……。声にならない叫びを心の中で上げ、ぎゅっと目を閉じた。男の指が私の唇を割ろうと力を込めた、その瞬間。
「う、うわあああっ!?」
「ぎゃあああっ!?」
突然、頭上で男たちの短い悲鳴が上がった。
重くのしかかっていた圧迫感が一瞬で消え去り、何が起きたのか分からず、私はおそるおそる目を開いた。
涙で滲む視界に真っ先に飛び込んできたのは、石畳の上に転がって悶絶する男たちの姿。そしてその中心に、静かな威圧感を纏って立っている人影があった。
路地の暗がりにあっても、それが誰なのかはっきりと分かった。だって、あの見慣れた左右で柄の違う羽織は…。
その人はすぐさま私のそばに膝をつき、壊れ物を扱うような慎重さで身体を起こしてくれる。
背中に伝わってくる体温と、清らかな石鹸の匂い。
「大丈夫か」
彼は私の返事を待たずに、力が抜けてしまった身体を支えながらゆっくりと地面に座らせてくれた。
冨岡、さん…?
目の前にいるのが彼だという実感が、追いついてこない。私は何度も何度も瞬きをし、呆然と彼を見上げた。
そんな私たちをよそに、倒れ込んでいた男たちが呻き声を上げながらよろよろと立ち上がる。
「んだよ、お前…!いきなり何しやがる!」
「邪魔するんじゃねえ、失せろ!」
怒鳴り散らす男たちの声は、先ほどまでの余裕を失いひどく苛立っている様子だった。けれど、冨岡さんはそんな罵声に返事一つ返さなかった。
彼は冷静な動作でゆっくりと立ち上がると、私の前に立ちはだかるようにして、その背中で私の視界から男たちを遮る。
「……名を名乗れ、この野郎!」
男の一人が、震える拳を振り上げて凄む。
対する冨岡さんは、ただ静かな瞳で彼らを見据え冷淡に言い放った。
「お前たちに名乗るような名は持ち合わせていない」
その、相手を同じ人間とも思っていないような言葉に男たちの顔がさらに屈辱で赤く染まる。
「ふざけるな!黙って聞いてりゃただで済むと思うなよ!」
「そうだ、その女をこっちへ渡せば見逃してやるって言ってんだ!」
「この娘は蝶屋敷の家の者だ。その名くらい、この界隈の者なら知っているだろう」
蝶屋敷。
冨岡さんのその言葉を聞いて、私はハッとした。町へ送り出される前、胡蝶さんに何度も念を押されていたのだ。「何かあれば、蝶屋敷の者だと名乗りなさい」と。
それなのにいざ恐怖を目の前にした途端、そんな大切なことも頭から抜け落ちて。私は一体何をしていたんだろう。
男たちはその言葉に目に見えて表情を変えた。広がる動揺は、瞬く間に恐怖へと変わる。
「な、なんだよ…!蝶屋敷の女なら最初からそう言えよ!」
「厄介ごとは御免だ行くぞ…!」
男たちは吐き捨てるようにそう言い残すと、私への執着をあっさりと捨てて逃げるように走り去っていった。
静まり返った路地裏。私は解放された手首を抱えたまま、しばらく茫然とその場に座り込んでいた。
もし、冨岡さんが来てくれなかったら、私は今頃どうなっていただろう。手はまだ小刻みに震えたまま。手首は男の手型に赤く腫れ、爪が刺さっていたところからは血が滲んでいる。
「大丈夫か」
冨岡さんは逃げていく男たちを追うこともせず、再び私の隣にしゃがみ込んだ。
返事を、しなきゃ…。そう思うのに、喉の奥が固くこわばって、言葉がひとかけらも出てこない。
さっきまで私を支配していた恐怖に、呼吸をするだけで精一杯だった。
「す、すみませ、ん……わた、し……っ」
情けない。情けなくてたまらない。
がくがくと震える私に、冨岡さんは一瞬だけ迷ったが、私の背中に手を回してくれた。ぽん、ぽんと優しく撫でるような仕草に思わず肩を震わせる。
「呼吸を合わせろ」
そっと引き寄せられ、私の額が彼の胸元に触れた。布越しに確かな体温と、規則正しい心音が伝わってくる。
「吸え。…今。…吐け」
短い指示に合わせて、必死で息を吸って吐く。そうすると最初は浅く、途切れ途切れだった息が少しずつ長くなってきた。
「そうだ。落ち着くまで側にいる」
その一言で、ようやく肺に空気が入る。
怖、かった……。自分でも驚くほど、その言葉が心の中にストンと落ちてきた。
怖かった。本当に、怖かった。男の太い指が口に触れたときのあの気持ち悪さ、地面に押し倒されたときの重み。
「嫌だ」と思っても抗えない力にねじ伏せられるのが、あんなに恐ろしいことだなんて知らなかった。
「っ、ごめんなさい私……」
「謝らなくていい」
胡蝶さんに言われた言葉も忘れ、一人でできると意地を張って、結局こうして彼に二度も命を救わせて。
必死に息を整えようとしてるのに、もう何が何だかわからなくて、すべてが情けなくて申し訳ない。
こらえきれずに震える私の肩を、冨岡さんの大きな手が包み込むようにさらにぐっと引き寄せる。
「大丈夫だ」
そう言って背中を優しく撫でる仕草。まるで落ち着かせるように、優しく。とん、とん、とん。
顔を上げようとしたけれど、彼は私の後頭部にそっと手を添えて、そのまま自分の胸元へと顔を埋めさせる。
はじめて出会った時と変わらない優しさになんだか泣きそうになって、私は無意識のうちに彼の羽織の裾をぎゅうっと握りしめていた。
それから、どれくらいそうしていたのだろう。背中に触れる規則正しいリズムに身を任せているうちに、激しく乱れていた呼吸もようやく落ち着いてきた。
「落ち着いたか」
頭上から降ってきた声に、私は彼の胸元に顔を埋めたまま小さく頷いた。すると、彼はそっと私を支えていた力を緩め、私の右手を自分の手の中に取る。
「赤くなっているな」
「あ……」
言われて自分の手首に目を向けると、そこには男に力任せに掴まれた跡が、さっき以上にくっきりと浮かび上がっていた。
「痛むか」
「あ、いえ……今はもう、そんなに……」
「帰ったら胡蝶に手当てしてもらえ。大したことがなくてもだ」
「……はい」
どこか不服そうに冨岡さんにそう言われ、私もしぶしぶ頷いた。
手当て、か。胡蝶さんにどんな顔をして会えばいいんだろう。心配をかけて、任務中の冨岡さんにまで手間を割かせて。
「冨岡さん、すみません。私……」
また謝りそうになった私の言葉を、冨岡さんは立ち上がることで遮った。そのまま目の前に彼の手が差し出される。
「立てるか」
「あ……は、はい」
私は躊躇いがちに自分の手を伸ばし、彼の手に重ねた。ごつごつとして、硬くて、でも驚くほど温かくて。
私がその手を握り返すと、冨岡さんは少しだけ力を込めて、グイッと私の身体を引き上げてくれた。
まだ力の入らない膝がガクンと折れそうになったけれど、冨岡さんは私が完全に立ち上がるまでしっかりと手を握り続けてくれる。
「あの、冨岡さんはどうしてここに……?」
「胡蝶に、お前の様子を見てくるよう頼まれた」
「え?胡蝶さんが?いつ……」
「さっき、任務帰りに蝶屋敷へ寄ったときに」
「あ、そうだったんですね……。お忙しいのにすみませんでした……」
「構わない。まさか暴漢に絡まれていたとはな。来て良かった」
…胡蝶さん、そうだったんだ。やっぱり心配をかけていたんだなあ。わざわざ蝶屋敷へ訪れた冨岡さんに、私の様子を見に行ってほしいと頼み込むくらいには。
せっかく、こうして仕事を任せてもらえたのに。その信用を自分で台無しにしてしまった気分だ。
「お前はどこに向かっていたんだ」
問いかけられ、私は静かに足元を眺めた。男たちに押し倒されたときに手から離れてしまった、あの地図が泥にまみれて落ちている。
「ええと、藤堂さんのところの……薬屋さんに。胡蝶さんから調合に使う材料を買ってくるように言われていて……」
震える指で、泥だらけの地図を拾い上げた。
もう、どこをどう歩けばいいのか、今の私にはさっぱりわからない。
「地図があっても迷ってしまいました。薬屋さんは、この先にあるはずなんですけど……」
俯きながら小さく答えると、冨岡さんは私の手からその汚れた地図をひょいと奪い取った。彼はそれを一目見ると、迷いのない足取りで路地の出口に向かって歩き出す。
「……冨岡、さん?」
「行くぞ」
「え……?」
驚いて顔を上げると、彼は振り返ることなく言葉を続けた。
「案内する。一人で行かせれば、またどこかで迷うだろう」
案内、してくれるんだ。正直、今は一人になりたくなかったからすごく有り難い。
私が小走りで彼の隣に並びお礼を言うと、冨岡さんは前を向いたまま、短く「気にするな」とだけ言った。
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