12
「もう、ひとりで着付けられそうですね。良かったです」
背後から柔らかな声が降ってきた。
振り返れば、胡蝶さんが穏やかな眼差しでこちらを見ている。朝の光がカーテンを透かして差し込み、床の上に淡い模様を描いていた。
私は胸の前で手をぎゅっと握りしめて、深く息を吐く。
「…はい。本当にありがとうございました」
この三ヶ月。毎朝のように、胡蝶さんやアオイさんに手伝ってもらいながら着物の袖に腕を通し、帯を締めてもらっていた。
一人でやろうとすると、すぐに裾がずれてしまったり、帯がゆるゆるになってしまったり。
その度に胡蝶さんは「もう一度、やってみましょう」と根気よく教えてくれて、細い指で布を整えながら「ここをこう引くんですよ」と優しく囁いてくれた。
だから、今こうして一人で着付けを終えた瞬間、胸がいっぱいになった。少し誇らしくて、でもほんの少しだけ寂しい。あの温かな手が背中に触れなくなることを思うと、ぽっかり心に穴が開いたような気持ちになる。
けれど胡蝶さんは、そんな私の心の揺れをすべて見抜いているように、にこりと微笑んだ。
「帯の位置も綺麗ですね。鏡を見てみますか?」
「えっ…あ、はい!」
案内されるままに姿見の前に立つ。
そこに映るのは、たどたどしくも整った姿の自分。少しだけ大人びて見える気がして、胸がくすぐったくなる。
「……すごい、本当にできてる」
思わず呟いた声に、胡蝶さんがまた小さく笑った。
「ふふ。最初は袖を通すのも一苦労でしたよね。でも、諦めずに続けた甲斐がありましたね」
「はい。胡蝶さんが “焦らずにひとつずつ覚えていきましょう” って言ってくださったから……」
鏡の中の自分と、隣に立つ胡蝶さんの姿が重なる。
その横顔は柔らかいけれど芯があって、寄りかかりたくなるような安心感があった。
「えらいですよ、リサさんは。慣れない暮らしの中で不安も多いでしょうに」
「…いえ。でも、ここにいると安心して、何だか…頑張りたいって思えるんです」
自分でも不思議だった。
鬼を倒す刀を振るうわけでも、特別な修行をしているわけでもない。
ただ、掃除をしたり、洗濯物を干したり、台所で手を動かしたり……そんな日々の小さな作業を重ねているだけ。
けれど、少しずつみんなにも頼れるようになってきて。その積み重ねが確かに自分を強くしてくれている気がする。
「ここにいてもいいんだ」と思える場所を、自分の手で守っている――そんな感覚。
「その気持ちを忘れなければ、きっとこれからも大丈夫ですよ」
胡蝶さんの声音は、どこまでも穏やかで心強い。
胸の奥にあたたかい灯がともったような気がして、私は深く頷いた。
「さて……では、私もそろそろ次の支度に向かいますね」
胡蝶さんが袖を整えながら軽く踵を返す。
その背が扉の方へ向かうのを見て、胸がきゅっと縮んだ。
――そうだ。いま言わなきゃ。もう一度きっかけを待っていたら、ずっと口にできないかもしれない。
「あ、あの。胡蝶さん……」
「はい?」
私の呼びかけに、胡蝶さんの足が止まる。
振り返った彼女の紫紺の瞳に射抜かれ、心臓がどきりと跳ねた。
どうしよう。だけど、この機会を逃したらきっともう一生言えない。今しかないと、私は意を決した。
「私も……その、胡蝶さんのこと“しのぶさん”って、お呼びしても……いいですか?」
言っておきながら耳まで熱くなり、思わず床の木の目に視線を落とす。返事を聞くだけで緊張してしまうなんて。
でも、本当は――ずっと羨ましかったのだ。アオイさんが、きよちゃんが、なほちゃんが、すみちゃんが。そして、カナヲさんが。
自然に“しのぶ様”と呼んで、笑って、ちゃんと信頼で結ばれている姿が。
私はここに来て、まだ三ヶ月。他の誰よりも遅れてこの場所に加わった。その距離の分だけ、呼び方ひとつにも線を引いてしまっていた。
みんなと同じにはなれない、信頼も浅い――そんな風に言い訳しながら。
でも。こうして、毎日少しずつできることが増えて、叱られたり褒められたり、誰かの役に立てるようになって。
気づけば、心の中で勝手だけど“家族みたいだ”と思えるほどに、この場所が大切になっていた。だからこそ、勇気を出して踏み込みたかったのだ。
「……リサさん」
名前を呼ばれて顔を上げると、しのぶさんは驚いたように瞬きをしてから、花のように柔らかな笑顔を浮かべた。
「もちろん。そう呼んでください。そう言ってもらえて私も嬉しいですよ」
「……ほんとですか」
なぜか視界が滲む。
胸が熱くなり、嬉しいのに、恥ずかしくて、どうしていいのかわからず私は視線を落とした。
「ふふ。リサさんは私より年上のはずなのに、なんだかとても可愛らしく見えますね」
「それは……しのぶさんが大人っぽすぎるんですよ」
「あら、そうでしょうか」
いつも思っていたことを真剣なトーンで伝えると、しのぶさんは楽しげに目を細めた。
けれどその笑みさえ嬉しくて、唇がむずむずとしながら私は瞬きを繰り返す。
「それと――」
しのぶさんは軽く指先を顎に添え、何かを思い出したかのように続ける。
「この間、あなたが言っていたお話。今のリサさんなら大丈夫でしょう。…もう、町へ行ってもいいですよ」
「ほ、本当ですか……!」
「はい。リサさんが心配で。少しの間、窮屈な思いをさせてしまってごめんなさいね」
「そんな…!それは胡蝶さんが私を想って言ってくれたことだって、知ってます……」
そう言いながら、語尾がどんどん小さくなってしまった。
でも、嬉しい。思わず両手をぎゅっと握りしめる。
――この間、思い切って「尾崎さんと町へ行きたい」としのぶさんへ伝えたときのことだ。声が震えて、言葉もたどたどしくて。しのぶさんは静かに聞いてくれたけれど、すぐに首を縦には振らなかった。
「だめではありませんが……」と、やわらかく言葉を選びながら「もう少し様子を見ましょう」と微笑んでいた。
それは優しい拒絶であり、同時にきちんと気にかけてもらえている証でもあった。
「ただし……」
けれど、しのぶさんは人差し指を軽く立てて、柔らかに続ける。
「約束してください。前みたいに路地裏へは行かないこと。危ないところへは絶対に行かないこと」
「……はい!絶対に」
力強く頷いた。
尾崎さんと一緒に町へ出られる。ついにだ。想像するだけで胸が高鳴って、頬が緩むのを抑えられない。
じゃあ、早速尾崎さんに知らせないと。
「あの…しのぶさん。余っている便箋はありますか」
「便箋ですか?」
「はい。尾崎さんにお手紙を書きたくて」
声も自然と弾む。
部屋を出るのに押し入れの中を整えているしのぶさんに声をかけると、驚いたように目を瞬かせ、それからふわりと目尻を和らげた。
「ええ、ありますよ。あとで私の部屋にいらしてください。そのとき差し上げますね」
「…ありがとうございます!」
着物をひとりで纏えたこと。
しのぶさんに「頑張った」と認めてもらえたこと。名前で呼んでもいいと言ってもらえたこと。そして、尾崎さんと町へ行ける未来を手にしたこと。全部が重なって、私の心を羽のように軽くしていく。
――よし。いつもよりずっと綺麗な字で、丁寧に。尾崎さんに「楽しみにしてます」と伝えられるようにお手紙を書かなくては。
胸の奥でそう繰り返しながら、私は新しい一歩を踏み出す準備をしていた。
*
その日の用事を終える頃には、外はもう薄暮に包まれていた。庭の木々の枝先には白い霜が光り、吐く息がかすかに霞となって漂う。
凛と張りつめた空気の中で、屋敷の奥からは夕餉の支度を知らせる湯気の匂いがほのかに流れてきた。
私は部屋の隅に腰を下ろし、書き終えたばかりの手紙を両手で包みこむ。
"尾崎さんへ――"
万年筆を置いたあとも、胸の奥はずっとそわそわしている。
手紙なんて、いつぶりに書いたのだろう。現代ではメールや電話ばかりだった。
指先ひとつで気持ちを伝えられた時代では、相手の顔を思い浮かべながら文字を選ぶことなど、ほとんどなかった気がする。
でも今は、たった一文字書くたびに心が小さく跳ねる。筆の跡に自分の呼吸が残るようで、消すことのできない気持ちまで滲んでしまいそうだった。
「大丈夫かな……」
紙を前にして、何度も見直し、ようやく整えた言葉たち。
でも、ここからどうすればいいのだろう。手紙を出す方法なんて分からないし、考えてもいなかった。
封筒を手にしたまましばらく悩んだあと、私は意を決して立ち上がった。
このまま机に置いておくだけでは、何も始まらない。どうにかして出さなければ――そう思いながら、廊下へ出る。
台所のほうから、野菜を刻む音と味噌の香りが漂ってくる。
あの辺りに行けば、きっとアオイさんがいるはず。
曲がり角をのぞき込むと、案の定、手ぬぐいを肩にかけたアオイさんが空の盆を持って歩いていた。
私は小走りで駆け寄る。
「あのっ、アオイさん!」
「リサさん?」
呼びかけに気づいた彼女が足を止め、目を丸くしながら振り返ってくれる。
「どうされましたか?」
「すみません、今大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ。何かありましたか?」
彼女の軽やかな声にほっとして、胸の前でそっと封筒を抱きしめる。
「あの…手紙を出したいんです。尾崎さんに」
「尾崎さんに?いいですね。きっと喜ばれると思います」
アオイさんはそう言って穏やかに笑ってくれたが、私は眉をひそめたままだった。
それより先に、「どうすればこの気持ちを届けられるのか」という現実的な疑問のほうが勝ってしまう。
「でも……どうやって出せばいいんでしょう。ポストも、郵便屋さんも見かけたことないし……。尾崎さん、今どこにいるのかもわからなくて……」
現代の常識が頭の中でぐるぐると回る。
この時代では、当たり前だと思っていた仕組みが一つも通用しない。
宛先も住所もない手紙なんて、どうやって届くというのだろう。まるで夢の中で郵便を出そうとしているような心地がした。
けれど、アオイさんはまったく困った様子を見せず、にこりと頬を緩める。
「大丈夫です。鬼殺隊には、ちゃんとした伝令の仕組みがありますから」
「え……?」
アオイさんに連れられるがまま中庭へやって来ると、夕暮れの名残が空の端にわずかに漂っていた。
西の空は茜から群青へとゆるやかに溶け合い、雲が淡い金色に縁どられている。
「一体、どこに……」
そう尋ねた矢先、ばさり、と風を裂くような音がして肩が跳ねた。その音のほうへ顔を向けると、黒い影がひとすじ夕陽を背にして降りてくる。
思わず「わっ」と声が出そうになり、慌てて口を押さえた。影は風を巻き込みながら、するりと屋敷の塀にとまった。
「……カ、カラス……?」
声が裏返る。
それは一羽の大きなカラスだった。つややかな黒羽が夕陽を弾き、青みを帯びた光を散らしている。夕方の光の中で、その姿がやけに大きく見えて少し後ずさった。
アオイさんはそんな私の驚きをよそに、どこか慣れた様子で微笑む。
「はい。鎹鴉といって、鬼殺隊員に付き添う伝令役です。私の鴉に、リサさんの手紙を託しましょう」
アオイさんは、まるで日常の一場面でも話すように穏やかに言った。
私は戸惑いに目を瞬かせる。
「えっ……え?このカラスに、ですか?」
思わず指さしてしまった。
カラスは少し首を傾げ、まるで人間の言葉が分かっているかのように、黒曜石のような瞳で私を見つめ返してくる。
アオイさんは微笑みながら、封筒を私の手から受け取った。そして懐から細い紐を取り出し、手際よく手紙をくるりとまとめる。
その間、私は声をかけるタイミングを逃したまま、ただ目で追うことしかできなかった。
――ほんとにカラスに託すの?信じられない、でも、アオイさんの所作には一切の迷いがない。
胸がそわそわして、なんだか現実感がなくなっていく。
「尾崎隊士のところまでお願いします」
アオイさんがカラスに向かって、そう柔らかく言った。その声が合図だったかのように、カラスがひときわ大きく羽を震わせる。
「心得タッ!尾崎隊士ノモトへ、スグサマ飛ビ立ツッ!」
「……しゃ、喋った!!」
思わず素っ頓狂な声が出た。
目を白黒させる私をよそに、アオイさんは全く驚いた様子もなく、淡々とカラスの足に手紙を結びつけている。
「はい、これでよし……っと。さあ、お願いします」
ぱっと手を離すと、カラスは翼を大きく広げ、夕陽を背にして高く舞い上がった。
羽ばたくたびに、朱色の空を切り裂くような風が吹き抜け、私とアオイさんの髪をふわりと揺らす。
「……い、今の、本当に……喋りましたよね?!」
「はい、喋りますよ?」
アオイさんは首をかしげ、まるで“そんなの当然です”というような顔で言い放った。
いやいや、ちょっと待ってほしい。私を置いていかないでほしい。
「任務の報告や伝言を伝えるために特別に訓練されているんです。とても賢い子たちなんですよ」
「か、賢いどころじゃ……!この時代のカラスって、喋れるんですか!?」
「この時代……?」
「……い、いえ、なんでもありません」
口に出してはいけない言葉が滑りそうになって、慌てて飲み込む。自分でも何を言っているのか分からない。
ただ、驚きと混乱が一度に押し寄せて、頭の中がぐるぐると回っていた。
――だって、喋ったのだ。カラスが。しかも、かなり流暢に。いや、気のせいかも。空耳かもと思うが、あれは幻聴なんかじゃない。聞き間違いでもない。
きっぱりとした声で“心得タッ!”と言っていた。
思わず、さっきまでいた縁側の塀の近くを振り返る。けれど、そこにはもう羽音も影もない。残っているのは、ただひんやりとした冬の空気と、どこまでも平然としたアオイさんの横顔だけ。
「……無事に届きますかね」
信じられない。
どこまでが普通で、どこからが異常なのか。
ついていけないのは私だけなのだろうか。
「すぐに返事が届くと思いますよ」
「だ、だと嬉しいんですけど……」
「さて…そろそろ夕餉の時間ですね。準備に向かいましょうか」
「……はい」
カラスが飛び去った空をもう一度見上げる。遠くの空は金から藍へと色を変え、雲の端がゆっくりと夜の帳に溶けていく。
あの向こうに、尾崎さんがいるのだろうか。そんなことを考えながら、アオイさんの後ろをついて廊下を歩き出した。
「…アオイさんも、こうやって手紙を出すこと、よくあるんですか?」
「もちろん、あります。しのぶ様に送ることが多いですが、時々隊士の方にも薬の効能のこととかで送りますね。……ただ、返ってこないことも多いですけど」
その言葉の最後に、少しだけ影が落ちた。私は胸の奥がちくりと痛んで、何も言えなくなる。
けれどアオイさんはすぐに笑顔を取り戻し、軽い調子で言った。
「でも、リサさんの手紙なら大丈夫。尾崎さんは強い方ですし、きっと読んだ瞬間すぐに戻ってきますよ」
「……そうだといいな」
他愛もない話をしながら、食堂へ向かう道のり。
湯気の立つお味噌汁の香りが、廊下の奥から漂ってきた。
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