12


「もうひとりで着付けられそうですね。良かったです」

背後から降ってきたその声に、私は着物の帯をきゅっと結び直していた手を止めて振り返った。
部屋の入り口に佇む胡蝶さんが、いつも通りの優しい微笑みを浮かべて私を見つめている。彼女の瞳が私の着こなしを上から下まで、まるで我が子の成長を確かめるように温かく見届けてくれていた。

ここに来てから、二ヶ月と少し。
元の世界では簡素な洋服しか着てこなかった私にとって、この大正時代の着物という文化はあまりにも高すぎるハードルだった。
最初の頃なんてどこにどの紐を通せばいいのかさえ分からず、ただ布の塊に溺れるようにして部屋の真ん中で途方に暮れていたっけ。
そんな私のために毎朝のように胡蝶さんやアオイさんが部屋を訪れては、手取り足取り着付けを教えてくれたのだ。

慣れない手つきで右往左往する私を、胡蝶さんは一度だって急かしたり、呆れたりすることはなかった。
崩れてしまった着崩れを見ては、いつも「もう一度やってみましょうか」と根気よく私が覚えるまで何度も付き合ってくれた。

『ここをこう引くんですよ。そうすれば動いても着崩れしませんから』

そう耳元で優しく囁いてくれたあの温かい声が、今も心地よく残っている。
そして今日、私は誰の手も借りず、ついに最初から最後まで自分の力だけで着付けを終えることができた。
姿見に映る自分の姿を見る。裾の長さはきれいに揃っているし、おはしょりも真っ直ぐだ。何より、あれだけ苦戦した帯も自分の手できちんと固く結べている。

「私、ちゃんと着られてますか?」
「ええ、とっても綺麗です。どこに出しても恥ずかしくない立派な娘さんですね」
「良かった……。胡蝶さんが"焦らずにひとつずつ覚えていきましょう"って言ってくださったからです。それに毎朝、胡蝶さんやアオイさんに付き合わせちゃって、本当に申し訳ないなってずっと思ってたんです。だから、やっと合格点をもらえたみたいですごく嬉しいです!」

ほっと胸をなでおろしながらそう言うと、胡蝶さんは少しだけ目を細めて、私の頭を愛おしそうになでてくれた。

「えらいですよ、リサさんは。慣れない暮らしの中で不安も多いでしょうに」
「いえ……!私、ここが本当に大好きになっちゃいましたから」

最初は本当にどうなることかと思ったし、毎日が目まぐるしくてんてこ舞いだったけれど。
胡蝶さんも、アオイさんも、カナヲさんも、三人娘も、みんなが私をあんなに温かく迎えてくれて、毎日を一緒に過ごしてくれたおかげだ。
こんなに温かくて居心地がいいと、もうここを離れられなくなってしまいそうで困る。
そんな私の内心を見透かしたのか、胡蝶さんは嬉しそうに目を細めると、「ずっとここにいてくださって構わないんですよ?」と悪戯っぽく微笑んだ。

「……あ、そう言えばリサさん」

胡蝶さんは何かを思い出したようにポンと手を打つと、懐から一通の小さな書状を取り出した。

「さきほど、リサさん宛てに手紙が届きましたよ」
「えっ、私に……?」

手渡された薄い和紙の書状を開くと、そこには一本芯の通った綺麗な文字が並んでいた。

『怪我の具合はいかがですか。もし外出許可が出たら、前にお話ししていたあの洋菓子のお店へ、次の非番の日に一緒に行きませんか』

「……尾崎さんからだ」

胸が、一瞬でぽかぽかと温かいもので満たされていく。

「あら、尾崎さんからですか。ずいぶんと仲良くなられたのですね」
「はい!今度、一緒に町へお出かけしようねって約束していたんです。あの、胡蝶さん……」

私は期待を込めて、上目遣いで胡蝶さんの顔を覗き込んだ。手首の包帯を完全に外せるようになってから、まだ数日しか経っていない。おそるおそる伺いを立てる私を見て、胡蝶さんは困ったように息を吐き出した。

「もう怪我は完治していますし、一人で着付けができるくらいですからね。尾崎さんが付き添うのであれば、日中に少しだけ外出を許可しましょう」
「本当ですか!?ありがとうございます……!」

嬉しさのあまり飛び上がりそうになる私を、胡蝶さんは「ただし」と人差し指を立てて遮った。

「くれぐれも、帰りは遅くならないこと。それから……」

一瞬だけ胡蝶さんの微笑みの奥にある温度が、すっと真剣なものに変わる。

「もし、万が一にでも何かおかしな気配を感じたらすぐに屋敷に戻る。いいですね?」
「はい!絶対に約束します!」

先日の反省は、もう十分すぎるほど胸に刻みつけてある。あの時のアオイさんの怒りも、三人娘の泣き顔も二度と繰り返したくはない。
私の強い返事に、胡蝶さんは「よろしい」といつもの柔らかな表情に戻ると、ふっと肩の力を落とした。

「そうだ。あの……胡蝶さん」
「どうしました?まだ何か気になることでも?」
「その、……あ、あの……。もうひとつだけ、お願いというか、お聞きしたいことがあって」

私の少し改まった声に、胡蝶さんは不思議そうに小首を傾げる。
いざ彼女の瞳と真っ直ぐに向き合うと、途端に言葉が喉の奥でつかえてしまう。きゅっと、今しがた自分で綺麗に結べたばかりの着物の袖を強く握りしめた。

本当は、ずっとずっと羨ましかったのだ。
アオイさんが、きよちゃんが、なほちゃんが、すみちゃんが。そして、カナヲさんが。
みんながごく自然に"しのぶ様"と呼んで、寄り添って笑って、目に見えない確かな信頼で固く結ばれている姿が。
もちろん私はみんなのように辛い過去を共有しているわけでもないし、ここにいる月日だって圧倒的に短い。信頼だってまだまだ浅い。それは分かっている。
でも。毎日少しずつできるお手伝いが増えて、失敗して叱られたり、今日みたいにひとりで着付けができて褒められたり、誰かの役に立てるようになって。
そうやって少しずつみんなと日々を重ねていくうちに、それが私にとってかけがえのない大切なものになっていた。
だからこそ、一歩勇気を出してこの温かい輪の中に踏み込みたかったのだ。

「私も……これからは『しのぶさん』って、お呼びしてもいいですか……?」

勇気を振り絞って紡いだ言葉は、思いのほか小さく震えていた。
沈黙が部屋に落ちる。急に我に返って、我が儘だっただろうかと顔から火が出るほど恥ずかしくなり、視線を落とそうとした。
すると、私の視界に胡蝶さんの羽織の裾がすっと近づいてくるのが見えた。私の目の前まで来ると少し屈んで、下を向きかけた私の顔を覗き込んでくる。
その表情はいつものどこか一線を画した微笑みではなく、まるで妹の背伸びを愛おしむような、本当のお姉さんの顔のようで。

「おかしな子ですね、リサさんは。そんなことを、そんなに決死の覚悟で切り出すなんて。… もちろんですよ。むしろ、私の方からそう呼んでくださいと言えば良かったですね。寂しい思いをさせてしまってごめんなさい」
「そんなこと……っ」
「これからは、お屋敷のみんなと同じように呼んでください。私たちはもう、あなたを大切な家族だと思っていますから」

快く、そして私の心を全て包み込むようにそう言ってくれたしのぶさんの言葉が、じわりと胸の奥に染み渡っていく。
視界が涙で優しく滲んで、私は何度も何度も大きく頷いた。

「はい……!ありがとうございます、しのぶさん!」

その名前を口にした瞬間、自分の手できゅっと結んだ帯の感触が、さっきよりも少しだけ誇らしく、そしてより一層しっかりと私をこの世界に繋ぎ止めてくれたような気がした。









その日の夕方。昼間のぽかぽかとした陽気が嘘のように、お屋敷の廊下にはまた冬の冷たい空気が満ち始めていた。
夕食前のお手伝いをひと通り終えた私は、自分の部屋に戻ると、机の前に座って小さな小さな和紙の書状を広げていた。
手元にあるのは慣れない手つきで扱い、ようやく書き終えたばかりの尾崎さんへのお返事だ。

"尾崎さんへ――"

ふぅ、と小さく息を吐きながら、まだ乾ききっていないインクの文字を愛おしく見つめる。
手紙なんて、いつぶりに書いたのだろう。現代ではいつもメールや電話ばかりだった。指先ひとつで気持ちを伝えられた時代では、相手の顔を思い浮かべながら文字を選ぶことなどほとんどなかった気がする。
でも今は、たった一文字書くたびに万年筆に消すことのできない気持ちまで滲んでしまいそうだった。

「大丈夫かな……」

何度も何度も見直し、ようやく整えた言葉たち。
でも、ここからどうすればいいのだろう。手紙を出す方法なんて分からないし、考えてもいなかった。そもそも、尾崎さんからの手紙はどのようにして届いたのだろうか。
私は書状を手にしたまましばらく悩んだあと、意を決して立ち上がった。このまま考えているだけでは何も始まらない。

廊下に出ると、台所のほうから野菜を刻む音と味噌の香りが漂ってきていた。あの辺りに行けば、きっとアオイさんがいるはず。
曲がり角をのぞき込むと、案の定手アオイさんが空の盆を持って歩いていた。私は小走りで駆け寄る。

「あのっ、アオイさん!」
「リサさん?」

呼びかけに気づいた彼女が足を止め、目を丸くしながら振り返ってくれた。

「どうされましたか?」
「すみません、今大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ。何かありましたか?」

彼女の軽やかな声にほっとして、胸の前でそっと封筒を抱きしめる。

「あの……手紙を出したいんです。尾崎さんに」
「尾崎さんに?いいですね。きっと喜ばれると思います」

アオイさんはそう言って穏やかに笑ってくれたが、私は眉をひそめたままだった。
それより先に、「どうすればこの気持ちを届けられるのか」という現実的な疑問のほうが勝ってしまう。

「でも、どうやってお手紙って出せばいいんでしょう。ポストも、郵便屋さんも見かけたことないし……。尾崎さん、今どこにいるのかもわからなくて……」

現代の常識が頭の中でぐるぐると回る。
この時代では、当たり前だと思っていた仕組みが一つも通用しない。宛先も住所もない手紙なんて、どうやって届くというのだろう。まるで夢の中で郵便を出そうとしているような心地がした。
けれどアオイさんはまったく困った様子を見せず、にこりと頬を緩める。

「大丈夫です。鬼殺隊には、ちゃんとした伝令の仕組みがありますから」
「伝令の、仕組み……?」




アオイさんに連れられるがまま中庭へやって来ると、夕暮れの名残が空の端にわずかに漂っていた。西の空は茜から群青へとゆるやかに溶け合い、雲が淡い金色に縁どられている。

「一体、どこに……」

郵便受けらしきものも見当たらない庭を見回し、そう尋ねた矢先のことだった。
――ばさり。頭上から、風を鋭く裂くような重い羽音が響いて肩が跳ねた。驚いて音のした方へ顔を向けると、大きな黒い影がひとすじの矢のようにまっすぐ降ってくる。
思わず「わっ」と短い悲鳴を上げた私のすぐ目の前、屋敷の木塀の上にそれは鋭い爪をかけた。

「カ、カラス……?」

それは元の世界で見かけるものよりも一回りも二回りも大きな、立派なカラスだった。つややかな黒羽。ガラス玉のような黒曜石の瞳が、じっと私を見つめている。
その圧倒的な佇まいに、私は気圧されて思わず一歩後ずさる。
しかしアオイさんはそんな私の動揺など気にも留めない様子で、どこか誇らしげに淡々と微笑んだ。

「はい。鎹鴉かすがいがらすといって、鬼殺隊員に付き添う伝令役です。私の鴉に、リサさんの手紙を託しましょう」
「えっ……え?このカラスに、ですか?」

信じられなくて、思わず無作法に指をさしてしまった。
アオイさんは、まるで「ポストに切手を貼って投函する」とでも言うかのように平然と言ってのけたけれど。私は戸惑いに何度も目を瞬かせる。

「それって……そのカラスが私の代わりに尾崎さんのところまで飛んでいってくれるってことですか?」
「はい、そうですよ。ですからそう言っているじゃないですか」
「でも、住所とか、尾崎さんが今どこにいるかとか分からないですけど……」

アオイさんは私の混乱を「いつものこと」と受け流すように小さくため息をつくと、少しだけ呆れたように微笑んだ。

「さあ、早くお手紙を貸してください」

アオイさんは私の手から手紙を受け取ると、懐から細い麻紐を取り出し、手紙を手際よくくるりと丸めてまとめた。
その間私は声をかけるタイミングすら見失ったまま、ただ呆然とその所作を目で追うことしかできなかった。
本当に、本当にカラスに手紙を託すのだろうか。伝書鳩ならまだ理解できる。けれど、街のごみ置き場を荒らすイメージの強いあのカラスが、手紙を運ぶなんて。

「尾崎隊士の元へこの手紙を届けてちょうだい」

アオイさんがカラスに向かって、凛とした声をかけた。その言葉が合図だったかのように、カラスがひときわ大きく両翼を羽ばたかせ鋭い声をあげる。

「カァーッ!承知仕ッタ!尾崎ノ元ヘ、急ギ申スッ!急ギ申スッ!」
「……しゃ、喋った!!」

今度こそ、我慢できずに素っ頓狂な声をあげてしまった。
自分の耳を疑う。目を白黒させて固まっている私をよそに、アオイさんは眉一つ動かさず、至極当然といった様子で手際よくカラスの脚に手紙を結びつけている。

「はい、これでよし……。さあ、気をつけて行ってね」

アオイさんが優しくその黒い背中を押し、ぱっと手を離すと、カラスは夕闇が迫る空へと力強く舞い上がった。
そのまま遠く、遠くへと飛び立っていく。

「……い、今の、本当に……喋りましたよね!? 私の空耳じゃないですよね!?」
「ええ、喋りますよ。何をそんなに驚いているんですか?」

いやいや、ちょっと待ってほしい。
まるで犬がワンと鳴いたとでも言うような顔で言うけれど。

「彼女たちは人語を解するように、特別な訓練を受けているんです。鬼殺隊の大切な情報網を担う、とても賢くて名誉ある子たちなんですよ」
「か、賢いとか、そういう次元じゃなくないですか……?この時代のカラスって、みんな普通に喋れるんですか!?」
「この時代……?さっきから変なことを言いますね」

危うく口にしてはいけない境界線を踏み越えそうになって、私は慌てて言葉を飲み込んだ。それを言っても誰も信じてはくれないだろうから。
でも、だって、喋ったのだ。それも、お芝居の武士みたいな、きっぱりとした格好いい口調で…。幻聴なんかじゃない。聞き間違いでもない。
思わず、さっきカラスが飛び立っていった辺りの空を振り返る。けれど、そこにはもうカラスの姿は見えなくなっていた。

「無事に、届きますかね……」
「すぐにきっと良いお返事が返ってきますよ。…さて、お喋りはここまでです。そろそろ夕餉の時間ですね。みんなが待っていますから準備に向かいましょう」
「あ、はい」

鴉が吸い込まれていった夜空を、私はもう一度だけ見上げた。
あの暗闇のどこかに今も鬼と戦いながら、私の手紙を待ってくれている尾崎さんがいる。そう思うだけで、ぎゅっと胸が熱くなるのを感じた。
アオイさんの後ろ姿を追いかけながら、私はふと気になっていたことを口にする。

「アオイさんも、こうやって誰かに手紙を出すことよくあるんですか?」
「もちろん、ありますよ。基本的にはしのぶ様への定時の安否確認や報告が多いですが……時々は前線にいる隊士の方へ、調合した薬の効能を伝えるために送ることもありますね」

そうなんだ…。私にとってはファンタジーでしかないけれど、ここに生きる彼女たちにとっては、それが本当に当たり前のことなんだな。
そこまで一気にまくしたてたアオイさんだったが、ふとその言葉の最後にほんの少しだけ、冷たい影が落ちる。

「まあ、お返事が返ってこないことも、多いですけれど」

その静かな呟きに、私の胸はちくりと刺されたように痛んだ。
返ってこない。それは、手紙が迷子になったという意味ではない。この世界における「返事がない」ということが何を意味するのか、私にももう痛いほど理解できてしまう。
返す言葉が見つからず、私はただ俯いて歩調を緩めることしかできない。

「でも!リサさんの手紙なら絶対に大丈夫です。尾崎さんはとてもお強い方ですし、きっと読んだ瞬間すぐに鴉を追い返してくれますよ」

けれど、アオイさんはすぐに自らの暗い雰囲気を振り払うように、パッと明るい笑顔を取り戻して私の肩を小突いた。

「そう、だといいな……」

ガラス窓越しに見つめる夜空の果てに、ただただ私は祈りにも似た視線をいつまでも静かに送り続けるのだった。



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