13


翌朝、その瞬間は驚くほどあっけなく訪れた。
屋敷の裏手にある縁側で、きよちゃんたちと一緒に干し終わった真っ白な包帯を丁寧に畳んでいたときのことだ。

――バサバサバサッ!
昨日、中庭で聞いたものとよく似た軽やかな羽音が頭上から降ってきた。驚いて顔を上げると、縁側のすぐ近くにある柿の木の枝に、一羽の黒い影が飛び込んでくるのが見えた。

「カァーッ!尾崎ヨリ御返事ッ!尾崎ヨリ御返事ッ!高月リサハドコダッ、高月リサハドコダッ!」
「ひゃっ、わ、私です……!」

なんとか今回は腰を抜かさずに済んだ。けれど、まさか半日でお返事が戻ってくるなんて思ってもみなかった。
驚く私をよそに、鴉は器用に枝から縁側の高欄へと飛び移ると、ツンと片脚を突き出してきた。その細い脚には、昨日アオイさんが結んだのと同じ麻紐で、小さな和紙の筒がしっかりと括り付けられている。

「……本当に、届いたんだ」

きよちゃんたちが「わあ、よかったですね!」「尾崎さんからですよ!」と自分のことのように歓声をあげる中、私は震える指先でその紐を解いた。
鴉は任務を果たしたと言わんばかりに「カァッ!」と一声高く鳴くと、そのまま夕暮れの空へと再び羽ばたいていった。
私ははやる気持ちを抑えきれないまま、和紙を広げる。

『お手紙、本当に嬉しかったです。リサが無事に一人で着物を着られるようになったと聞いて、自分のことのように誇らしい気持ちになりました。
私は今、南の山の中で任務中です。次の非番の日、喜んでご一緒させてください。洋菓子のお店、ずっと楽しみにしていたんです。当日はとびきりお洒落をして来てね。
蝶屋敷の皆さんにも、くれぐれよろしくお伝えください。』

文はそれだけだったが、一行一行に尾崎さんらしい優しさと、任務の合間に急いで筆を取ったような息づかいが感じられた。
インクの線が少し滲んでいて、それすらも愛おしく思える。空を見上げれば、鎹鴉が遠ざかる黒い影を残して小さく一声鳴いた。

そのあとは穏やかな朝が続いた。霜が溶けて陽が差し込み、屋敷の中には炊事の音や三人娘たちの笑い声が広がる。
何もかもが、のどかで平和で――まさか数刻後、自分の鼻から血を流すことになるとは想像もしていなかった。





「いやー、体張りますね。リサさんも」

アオイさんの言葉に、私は鼻を押さえながら情けなく眉を寄せた。

「張りたくて張ったわけじゃ……」
「冗談ですよ。早くしのぶ様に言って、冷やすものをもらってください」

小さな声で「ちり紙は足りてますか?」と気遣ってくれるアオイさんに頷いて、そろそろと立ち上がる。
顔に走る痛みと、じんわりと滲む血の感覚。寒さでかじかんだ指先が冷たく、心細さまで募っていた。

どうして、こんなことになってしまったのか。
今日は朝から格段に冷え込んでいた。吐く息が白く漂う中、アオイさんや三人娘と一緒に庭で洗濯をしていたが、あまりの寒さに手がかじかんで仕事にならなかった。
そんな時、「動けば温まるよ」と誰かが言い出し、手毬で体をほぐそうということになったのだ。
笑い声に混じって毬を追いかけるうち、私は寒さで思うように体を動かせず足をもつれさせ……。結果、近くの木の幹に顔をぶつけ……いや、突進してしまった。その瞬間の四人の焦った声は見事だった。

本当、どこまでも間抜けすぎる。
痛みと羞恥を抱えたまま私は廊下を歩き、診察室の前で足を止めた。普段ほとんど立ち入らない場所だから自然と緊張する。
僅かに戸を開けた時、私はそのまま固まった。

「ちょっと……誰か来たらどうするの」
「来ないって」
「あっ、やだもう……」

くぐもった声。笑い混じりの吐息。
何か絶対に怪我をしていない方がいらっしゃる…!?
ただならぬ雰囲気に、思考が完全に止まってしまう。あれは、絶対に怪我人のうめき声ではない。
診察室の奥には重症患者用の寝台が並び、分厚い布で仕切られたとばりが置かれている。その向こうで間違いなく何かが行われている。
どうしよう。こういう時、どうすればいいのだろう。端的に言えば、鼻を強打して血を出しただけ。冷やすために氷をもらえれば済む話。
しのぶさんもいないのだから、入口すぐに置かれている氷箱の中からさっと取ればいい。
音を立てなければ大丈夫だろうと、戸を静かに閉め、氷箱の前に膝をつく。呼吸さえもはばかられるような沈黙の中、指先が箱に触れた瞬間だった。

「ん……もっとして」

どっ、と心臓が一際大きく脈打った。
甘えるような女の子の声。

「なに、嫌だったんじゃないの?興奮してるんだ?誰かに聞かれるかもしれないって?」
「ばかっ……違う……」

全く関係ない自分まで恥ずかしくて堪らない。生々しくて、酷くて、顔は熱いのに背筋は凍ったようだ。
な、なんでこんなところで。それに、しのぶさんが知ったら激怒するのでは!?
心の中で悲鳴を上げながら、ここを無音で突破するのはかなり難しいな、と尻込みしていた時だった。

「胡蝶」

スパン、と乾いた音を立てて戸が開いた。心臓が口から飛び出すんじゃないかと思うほど驚き、肩が派手に震える。
恐る恐る見上げた先で、淡い光を背にした冨岡さんが立っていた。姿を見るのは久しぶりだな、とかそんなことを考える暇もなく。

「ちょ、ちょっと……誰か来た!」
「おい、嘘だろ!」

帳の向こうでは、途端に慌てた声が聞こえ出す。

「え、と……」

冨岡さんと目が合い、なぜか瞳が潤んでしまった。結果的に盗み聞きしてしまった罪悪感と、羞恥と、情けなさで頭がごちゃごちゃだ。
ただでさえ冷えた顔面に木が当たってじんじん痛むのに、どうしてこんな精神攻撃を食らわなきゃいけないのか。
そういえば鼻血を止めるためにちり紙の栓もしたままだし、本当にみっともなさすぎる。

「………」

冨岡さんの瞳が帳の方へ一瞬だけ流れ、それからすぐに私へ戻ってきた。そこで何が起きていたのかを察したのだろう。
いつも表情をほとんど崩さない冨岡さんだけど、気まずそうに一度視線を彷徨わせると、ふっと息を吐き出した。

「……氷だな」

短くそう言うと、彼は氷箱の蓋を片手で持ち上げ、指先で氷片を数個つまみ取る。近くの棚から手拭いを抜き取り、手早く包んで氷嚢ひょうのうをこしらえた。
そして腰を屈めた冨岡さんが、そっと私の手を取る。

「はやく冷やした方がいい。こっちだ」
「えっ」

しかし、促されて立ち上がったその拍子に、ちり紙がずれそうになって慌てて押さえる。
みっともない。どうしてこんな姿ばかり彼に見られてしまうのか。

「も、申し訳ありませんっ!これには、その、深い訳が……!」

その時、沈黙に耐えかねたのか、涙声に近い女性隊士が帳の隙間から這い出てきた。
怖いもの見たさで振り返って目に入ってきた光景に、私の顔はカッと一瞬で沸騰する。隊服の胸元が大きくはだけて、白い肌が露わになっていた。敷布も激しく乱れていて、今まさに何をしていたのかが、初心な私にだって一目で分かってしまうほど生々しかった。
恥ずかしさのあまり咄嗟に目を逸らしたけれど、隊士の二人にとってはそれどころではない。

「み、みず……水柱、様……っ!?」

彼女の顔からみるみるうちに血の気が引き、ガタガタと震え始める。その隣からそっと覗いた男性隊士も、冨岡さんの姿を認めた途端に絶望の表情を浮かべて硬直していた。
柱に見つかった。それも、一切の冗談が通じそうにないこの冨岡さんに。
その張り詰めた最悪の空気の中、冨岡さんは私の肩にぽんと手を置いた。そのまま私を促して出口へと一歩踏み出し、パタンと戸を閉めるその寸前。

「邪魔をして悪かった。続けろ」

彼は表情ひとつ変えないまま、二人へ向かってそう言い放ったのだ。嫌がらせとしての高度な皮肉なのか、それとも本気で言っているのか。
どちらにせよ、柱にあんな台詞を残された二人が続きをできるはずがない。
私は呆然と冨岡さんを見上げるが、冨岡さんは大真面目な顔でこちらを振り返る。そして私の耳まで真っ赤になった顔を一瞬だけじっと見つめると、小さく息を吐いた。

「ここは騒がしい。…部屋を借りるぞ」

冨岡さんは私の肩にそっと手を置いたまま、診察室のすぐ近くにある、普段はあまり使われていない小さな病室の戸を静かに開けた。





***




目の前で女に大粒の涙を流されたら、どのように振る舞うのが正解なのか。
気の利いた慰めの言葉をかけるなど勿論できない。見なかったことにして、その場を立ち去ることが正しいのか。
俺にできたのは、せめてもの抵抗として周囲の目から彼女の身を庇うことくらいだった。

では。目の前で女が鼻にちり紙を詰め、涙目になりながら顔を真っ赤にして狼狽しているとき。
それは一体どのように振る舞うのが正しいのだろうか。



数週間に及ぶ任務を終え、俺は久々に蝶屋敷へと足を運んでいた。帰路に着くついでに持ち運び用の薬と包帯を取りに来たのだ。
しかし、門をくぐっても、玄関に入り声をかけるも、肝心の胡蝶の姿は見えない。
待てども現れないので中庭まで進むと、青い蝶の髪飾りをつけた少女と、三人の小柄な少女たちが洗濯をしている姿が見えた。
声をかけると四人は一様に目を丸くし、神崎が「診察室ではないでしょうか」と小さく答えた。

頷いて、診察室へと足を向ける。
これほど探しても胡蝶が出てこないということは、中で何か重篤な急患の処置でもしているのではないか。もしそうであるなら、声をかけて集中を乱すのは悪手だ。
状況をこの目で確かめ、間が悪ければ去る。それが最も確実であると判断し、俺は引き戸に手をかけた。

「胡蝶」
 
だが、開け放った視界の先、入り口すぐに近くに小さな背中が一つ不自然に丸まっていた。
驚いたように派手に肩を震わせ、恐る恐るこちらを見上げてくる。

「え、と……」

高月、か…?
彼女はかなり驚いた様子で、こわごわと視線を彷徨わせる。鼻には紙がねじ込まれていて、根元が真っ赤に染まっていた。

…鼻血?なぜ?
いや、それはいいとして、その赤さに負けないくらい、彼女の頬は恥ずかしそうに火照っている。
…これは一体どういう状況なのか。
黙って高月を見下ろしていると、彼女の瞳がきらきらと揺れる。目尻の下がった目に涙の雫を溜めて、瞳を潤ませていた。
その瞬間、かっと体が熱くなり、俺は咄嗟に目を逸らしていた。

「………」

何だ?なぜ今、ぐっときた?自分のものではないはずの羞恥が、妙に伝染してくる。
それに、また泣いている。なぜかひどく狼狽した様子だ。
疑問に思って彼女の視線を辿れば、帳の奥で何やら息を潜めた男女の声が聞こえてきた。一瞬でそこでなにが行われているのかを察した。
この娘にはまだ早かったのだろう。他人の秘め事などどうでもいいが、これほどまでに羞恥に震えているのを見るのは、どうにも座りが悪い。

「……氷だな。早く冷やした方がいい」

素早く氷箱から氷嚢をこしらえると、彼女の手を引いて立ち上がらせた。そして、戸口の向こうへと連れて行く。
しかし扉に手を掛けたところで、背後から名を呼ばれた。

「も、申し訳ありませんっ!これには、その、深い訳が……!え、水柱様!?」

少し振り返ると、帳の奥から隊服を少しはだけさせた女の隊士が立っていた。
だが問題は、俺の隣で呼吸を忘れたように固まっている高月の方だ。まずは、この頭から湯気が出そうなほどに混乱している彼女を、早くこの空間から連れ出すべきだろう。
戸を閉めるその寸前、俺は背後の二人へと視線を戻した。
同じ鬼殺隊として、居合わせた者への最低限の配慮。この屋敷の規律を裁くのは俺の役目ではないし、彼らが治療の最中であるならば、それを中断させてしまったことへの、俺なりの真っ当な挨拶のつもりだった。

「邪魔をして悪かった。続けろ」





適当な空き部屋を見つけ戸を閉めると、彼女を寝台へ座らせた。俺は向かいにあった椅子を引き寄せ、腰を下ろす。

「まず、紙だな」

そう提案したのは、何もふざけていたわけではない。鼻にねじ込まれた紙は先端まで赤く滲んでいて、このままではいくらなんでも惨めに見えた。
そう思って手を伸ばすと、彼女が慌てて体を退けぞらせる。

「いや、あの……!自分でやります、大丈夫です!」
「痛くはしない。心配するな」
「そ、そういう問題ではなくてですね……」

鼻に紙を詰めたまま、あたふたと両手を振る。声は鼻にかかってこもり、身振りも大げさで、ますます滑稽に見えた。
その不恰好さがおかしくて、ふっと息が漏れる。笑った自覚があった。自分でも驚くくらい、自然に。

「……冨岡さんが笑ったところ、初めて見ました」

そう言って、彼女が頬を赤らめて目を丸くする。その顔は、鼻に詰め物をしている間抜けな姿であるにもかかわらず、不思議と目を離せなかった。
先ほどのことが蘇る。彼女が診察室の薄暗がりで潤んだ瞳をこちらに向けた時。一瞬だけ、心臓が妙に熱を持った。
暴漢に絡まれていた彼女を助けに入ったあの日もそうだ。目に涙を浮かべ、ただ必死に腕を振り払おうとしていたその姿は記憶に新しい。
あの二人の男が彼女を手にかけた理由も、今ならわかる。どうやら彼女の泣き顔には、ただの弱者を哀れむだけでは済まない妙な引力があるようだ。

「どうしてそうなった」

自分の懐から新しいちり紙を取り出し、無造作に差し出す。言葉は短く切り捨てるような調子になったが、それ以上に余計なものを添えるのが苦手なだけだ。
ただ、理由を知りたかった。

「え、えっと……とにかく、相手に鞠を返さなきゃと思って……」

彼女はちり紙を替えながら、途切れ途切れに説明をする。
寒さを紛らわせるためにみんなで鞠を打ち合っていたが、足がもつれて木に顔をぶつけた。それが真相らしい。
言い訳のような説明を聞きながら、少し呆れた。どうやら、高月は運動というものがてんで駄目らしい。だが、そのくせ鼻に紙を詰めたまま澄まし顔でいるのだから、ある意味では図太い。
初めて会った時の高月は口数も少なく、おどおどしてる印象があった。だが意外に、ずぼらで物怖じしない。

「ど、どうされましたか?」

突然距離を詰めた俺に、彼女は目を瞬かせた。

「ちゃんと冷やした方がいい」
「で、でも、さっき自分でやるって……」

無視をして手を伸ばし、氷を当てる位置に視線を落とす。
さっきよりも近い距離で目が合う。白くて滑らかそうな肌だ。耳にかかる横髪がふわりと揺れた瞬間、わずかに甘い匂いがした気がした。

「触れるぞ」
「ほ、本当に、自分でやりますから……」
「じっとしていろ。余計に血が出る」

遠慮がちにそう言って俺の手を取ろうとするが、短く告げただけで彼女は諦めたように肩の力を抜いた。
あれほど抵抗していたのに、言われればすんなりと従ってしまう。やはり、この娘は警戒心が薄すぎる。

「冷たい……けど、気持ちいいです」

氷嚢を当てていると小さな声でそう呟かれ、視線を彷徨わせた。何かを言葉にすれば、余計なものまで表に出そうだったからだ。



部屋に、氷が軋む音が響く。
彼女はおとなしく座っていて、先ほどまで慌てていた面影はすっかり消え妙な落ち着きがあった。

「……あっ、そうだ冨岡さん。この間、冨岡さんにいただいた飴玉、ちゃんと大事に食べてますよ。べっこう飴、すごくおいしかったです。お礼をちゃんと言い損ねてました。ありがとうございます」

高月は思い出したようにそう言って、にこにこと嬉しそうに笑った。
あれは、あの路地裏の一件のあと、震えの止まらない彼女をどう扱えばいいか分からず、これでも与えておけば少しは気が紛れるだろうかと思って適当に買い与えたものだった。

「まだ半分以上残ってるんです!もったいなくて毎日少しずつ食べてるんですよ。ほら、あの金色、日に当たるときらきらして綺麗ですよね」
「………」
「冨岡さんも食べたことありますか?あそこのお店、有名な飴屋さんなんでしょうか?他にも種類が色々あったのに、もっとよく見とけば良かったです」

よく回る口だな、と思いながら氷嚢をそっとずらすと、高月の肩がぴくりと跳ねた。

「すまない、痛かったか」
「い、いえ。大丈夫です」

そう言って、彼女はまた少しだけ頬を赤くした。
さっきまで飴玉の話をして子供のように笑っていたくせに、ふいに黙り込んで視線をきょろきょろと彷徨わせ始める。

「……冨岡さん」
「なんだ」
「あの、本当にもう手が冷たくなってしまうので、代わります。冨岡さんにこんなことまでさせてしまって……」

高月はそう言いながら、俺の手首のあたりを遠慮がちにそっと指先で押し返そうとしてきた。

「すみません。冨岡さんがあまりにも優しいから。私、つい甘えっぱなしになってしまって」

優しい。
不意に投げかけられたその言葉に、どう返事をすればいいのか分からなくなった。これまでに他人に「優しい」などと言われた記憶はないし、自分がそんな人間だと思ったことも一度もなかったさらだ。
居心地が悪くなって、視線をわずかに逸らす。

「俺はそんな人間じゃない」
「そんなことないです。初めて会ったあの夜に、行くあてのない私に冷たいおにぎりをくれましたし、暴漢から助けてくれましたし。…ほら、今も手当てをしてくださってます」
「それは俺じゃなくてもそうする」

即座に言葉を返したが、彼女は「それだけじゃありません」と小さく首を振った。

「今だって、私を驚かせないようにゆっくり触れてくれましたし」
「……あとは?」
「あとですか?いつもぶっきらぼうな口調ですけど、言葉の裏にちゃんと温かい気遣いがあるところ……とか。あ、あと、私が返事を言うまで、じっと待っててくれる忍耐強いところも」
「それから?」

俺が短く促すと、彼女は少しだけ恥ずかしそうに視線を泳がせ、それから意を決したように俺を真っ直ぐに見つめてきた。

「……それから。私が困っているときに、何も聞かずにただ隣にいてくれたところです。世界中で私一人になっちゃったみたいに心細かったとき、冨岡さんの手が本当に温かかったから……」

鼻に氷嚢を当てられたまま、一生懸命に俺の「優しさ」とやらを並べていく。
その顔はどこまでも真面目で、ぽうっと赤くなった頬がなんだか熱そうだ。
おにぎりを渡したのは、震える彼女をどう扱えばいいか分からなかったからだ。黙っていたのも、ただ言葉に詰まっていただけに過ぎない。
俺の不器用さや無口さを、この娘は全部「優しさ」という綺麗であたたかいものに変換して受け取ってしまう。
お前が見ている俺は買いかぶりだと打ち消してしまえば楽なのに、その真っ直ぐで疑いを知らない瞳で見つめられると、何ひとつ言葉を返せなくなるから厄介だ。
怒りでもない、鬱陶しさでもない、ただどうにも収まりが悪い。

「そんな冨岡さんだから、私は信じてついていこうって思えたんです。あの夜、私に手を差し伸べてくれたのが冨岡さんで、本当に良かった……」

最後に祈るようにそう小さく呟いた高月は、もう俺から視線を逸らさなかった。真っ直ぐで一片の濁りもない瞳が、俺の姿を映している。

「あ。あと、思い出しました!冨岡さんは瞳がとっても綺麗です!」
「……それはもう関係ないな」

そう述べると、高月は「本当ですね」と愉快そうに声を震わせた。
…信じる、か。自分すら自分を信じ切れていないというのに。彼女の言葉は、どうにもこちらの気を弛緩させる。
危ういくせに図太く、怯えるくせに物怖じしない。人がどうでもいいと捨てたものを綺麗に拾い上げ、大事そうに抱え込む。
この娘の言動のすべてが、俺の理解の及ばないところにあった。だからこそ、気を抜けばつい目を向けてしまい、自分の中にいらない波風が立つ。

「そ、そうでした冨岡さん!私、少し前にしのぶさんに冨岡さんへの伝言をお願いされたんです。お伝えするのをすっかり忘れてました」
「伝言?」
「はい!それがですね……。あな、本当に申し訳ないのですが、よく、思い出せなくて……」
「……頑張って思い出せ」
「は、はい。すみません」

彼女はそう言われてから視線を斜め上に彷徨わせ、ぽつぽつと言葉を探しはじめた。
やはり、苦手だ。このように真っ直ぐで、濁りがなくて、どこまでも疑いを知らない。
自分には到底持ち得ない、その眩しすぎる存在感が。
 
「冷えたか」

伝言の中身などどうでもよくなり、俺は小さく息を吐いて話題を変えた。

「あ……大丈夫、みたいです。血、止まりました」

鼻筋から氷嚢を外すと、彼女はまた、あの眩しすぎる笑みを浮かべてこちらを見つめてくる。

「冨岡さんのおかげです。本当にありがとうございます」

そんなものをつつがなく直視しているわけにもいかず、俺は椅子から立ち上がった。
手当てが済んだのなら、もうここに留まる理由はない。

「次からは鼻血を出すな。俺は行く」

背を向けて戸口へと歩みを進める俺の背中に、彼女の「あ、冨岡さん…!」という慌てたような声が追いかけてきたが、足を止めることはしなかった。
廊下へ出ると、ひんやりとした空気が頬を撫でる。その冷たさで、思考を切り替えようとした矢先のことだった。

「……あら。珍しいこともあるものですね、冨岡さん」

廊下の曲がり角から、すっと姿を現したのは胡蝶だった。
胡蝶は薄く唇を笑みの形に歪めながら、俺の横を通り過ぎ、今出てきたばかりの部屋の方向へと視線を滑らせる。

「あなたにしては随分と、丁寧なお見舞いだったようですね」
「怪我の手当てをしただけだ」
「ええ、もちろん。そう思い込んでいらっしゃるうちは、それでいいのではないでしょうか」

…何が言いたい。
まるで俺が自分自身に言い訳をして、何かから目を背けているとでも言いたいようなその態度に、胸の奥が不快に波立つ。
ただの手当てに深読みなど要らないだろう。

「アオイに聞いて心配して来ましたが、私がいなくても大丈夫だったみたいですね。冨岡さんのお薬は玄関に置いてありますよ。……私はこれで失礼しますね。診察室でお行儀の悪い隊士がいたようで、締め上げてこなくてはなりませんので」

遠ざかる足音を聞き送りながら、静かに息を吐き出した。
振り払おうとすればするほど、自分の中の静かな間合いが狂わされていくようだ。わけのわからない熱を残し、無防備に胸の内を波立ててくるあの娘の存在が、やはりどうしようもなく、苦手だった。



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