13
翌朝、その瞬間は驚くほどあっけなく訪れた。
屋敷の裏手にある縁側で、きよちゃんたちと一緒に干し終わった真っ白な包帯を丁寧に畳んでいたときのことだ。
――バサバサバサッ!
昨日、中庭で聞いたものとよく似た軽やかな羽音が頭上から降ってきた。驚いて顔を上げると、縁側のすぐ近くにある柿の木の枝に、一羽の黒い影が飛び込んでくるのが見えた。
「カァーッ!尾崎ヨリ御返事ッ!尾崎ヨリ御返事ッ!高月リサハドコダッ、高月リサハドコダッ!」
「ひゃっ、わ、私です……!」
なんとか今回は腰を抜かさずに済んだ。けれど、まさか半日でお返事が戻ってくるなんて思ってもみなかった。
驚く私をよそに、鴉は器用に枝から縁側の高欄へと飛び移ると、ツンと片脚を突き出してきた。その細い脚には、昨日アオイさんが結んだのと同じ麻紐で、小さな和紙の筒がしっかりと括り付けられている。
「……本当に、届いたんだ」
きよちゃんたちが「わあ、よかったですね!」「尾崎さんからですよ!」と自分のことのように歓声をあげる中、私は震える指先でその紐を解いた。
鴉は任務を果たしたと言わんばかりに「カァッ!」と一声高く鳴くと、そのまま夕暮れの空へと再び羽ばたいていった。
私ははやる気持ちを抑えきれないまま、和紙を広げる。
『お手紙、本当に嬉しかったです。リサが無事に一人で着物を着られるようになったと聞いて、自分のことのように誇らしい気持ちになりました。
私は今、南の山の中で任務中です。次の非番の日、喜んでご一緒させてください。洋菓子のお店、ずっと楽しみにしていたんです。当日はとびきりお洒落をして来てね。
蝶屋敷の皆さんにも、くれぐれよろしくお伝えください。』
文はそれだけだったが、一行一行に尾崎さんらしい優しさと、任務の合間に急いで筆を取ったような息づかいが感じられた。
インクの線が少し滲んでいて、それすらも愛おしく思える。空を見上げれば、鎹鴉が遠ざかる黒い影を残して小さく一声鳴いた。
そのあとは穏やかな朝が続いた。霜が溶けて陽が差し込み、屋敷の中には炊事の音や三人娘たちの笑い声が広がる。
何もかもが、のどかで平和で――まさか数刻後、自分の鼻から血を流すことになるとは想像もしていなかった。
「いやー、体張りますね。リサさんも」
アオイさんの言葉に、私は鼻を押さえながら情けなく眉を寄せた。
「張りたくて張ったわけじゃ……」
「冗談ですよ。早くしのぶ様に言って、冷やすものをもらってください」
小さな声で「ちり紙は足りてますか?」と気遣ってくれるアオイさんに頷いて、そろそろと立ち上がる。
顔に走る痛みと、じんわりと滲む血の感覚。寒さでかじかんだ指先が冷たく、心細さまで募っていた。
どうして、こんなことになってしまったのか。
今日は朝から格段に冷え込んでいた。吐く息が白く漂う中、アオイさんや三人娘と一緒に庭で洗濯をしていたが、あまりの寒さに手がかじかんで仕事にならなかった。
そんな時、「動けば温まるよ」と誰かが言い出し、手毬で体をほぐそうということになったのだ。
笑い声に混じって毬を追いかけるうち、私は寒さで思うように体を動かせず足をもつれさせ……。結果、近くの木の幹に顔をぶつけ……いや、突進してしまった。その瞬間の四人の焦った声は見事だった。
本当、どこまでも間抜けすぎる。
痛みと羞恥を抱えたまま私は廊下を歩き、診察室の前で足を止めた。普段ほとんど立ち入らない場所だから自然と緊張する。
僅かに戸を開けた時、私はそのまま固まった。
「ちょっと……誰か来たらどうするの」
「来ないって」
「あっ、やだもう……」
くぐもった声。笑い混じりの吐息。
何か絶対に怪我をしていない方がいらっしゃる…!?
ただならぬ雰囲気に、思考が完全に止まってしまう。あれは、絶対に怪我人のうめき声ではない。
診察室の奥には重症患者用の寝台が並び、分厚い布で仕切られた
どうしよう。こういう時、どうすればいいのだろう。端的に言えば、鼻を強打して血を出しただけ。冷やすために氷をもらえれば済む話。
しのぶさんもいないのだから、入口すぐに置かれている氷箱の中からさっと取ればいい。
音を立てなければ大丈夫だろうと、戸を静かに閉め、氷箱の前に膝をつく。呼吸さえもはばかられるような沈黙の中、指先が箱に触れた瞬間だった。
「ん……もっとして」
どっ、と心臓が一際大きく脈打った。
甘えるような女の子の声。
「なに、嫌だったんじゃないの?興奮してるんだ?誰かに聞かれるかもしれないって?」
「ばかっ……違う……」
全く関係ない自分まで恥ずかしくて堪らない。生々しくて、酷くて、顔は熱いのに背筋は凍ったようだ。
な、なんでこんなところで。それに、しのぶさんが知ったら激怒するのでは!?
心の中で悲鳴を上げながら、ここを無音で突破するのはかなり難しいな、と尻込みしていた時だった。
「胡蝶」
スパン、と乾いた音を立てて戸が開いた。心臓が口から飛び出すんじゃないかと思うほど驚き、肩が派手に震える。
恐る恐る見上げた先で、淡い光を背にした冨岡さんが立っていた。姿を見るのは久しぶりだな、とかそんなことを考える暇もなく。
「ちょ、ちょっと……誰か来た!」
「おい、嘘だろ!」
帳の向こうでは、途端に慌てた声が聞こえ出す。
「え、と……」
冨岡さんと目が合い、なぜか瞳が潤んでしまった。結果的に盗み聞きしてしまった罪悪感と、羞恥と、情けなさで頭がごちゃごちゃだ。
ただでさえ冷えた顔面に木が当たってじんじん痛むのに、どうしてこんな精神攻撃を食らわなきゃいけないのか。
そういえば鼻血を止めるためにちり紙の栓もしたままだし、本当にみっともなさすぎる。
「………」
冨岡さんの瞳が帳の方へ一瞬だけ流れ、それからすぐに私へ戻ってきた。そこで何が起きていたのかを察したのだろう。
いつも表情をほとんど崩さない冨岡さんだけど、気まずそうに一度視線を彷徨わせると、ふっと息を吐き出した。
「……氷だな」
短くそう言うと、彼は氷箱の蓋を片手で持ち上げ、指先で氷片を数個つまみ取る。近くの棚から手拭いを抜き取り、手早く包んで
そして腰を屈めた冨岡さんが、そっと私の手を取る。
「はやく冷やした方がいい。こっちだ」
「えっ」
しかし、促されて立ち上がったその拍子に、ちり紙がずれそうになって慌てて押さえる。
みっともない。どうしてこんな姿ばかり彼に見られてしまうのか。
「も、申し訳ありませんっ!これには、その、深い訳が……!」
その時、沈黙に耐えかねたのか、涙声に近い女性隊士が帳の隙間から這い出てきた。
怖いもの見たさで振り返って目に入ってきた光景に、私の顔はカッと一瞬で沸騰する。隊服の胸元が大きくはだけて、白い肌が露わになっていた。敷布も激しく乱れていて、今まさに何をしていたのかが、初心な私にだって一目で分かってしまうほど生々しかった。
恥ずかしさのあまり咄嗟に目を逸らしたけれど、隊士の二人にとってはそれどころではない。
「み、みず……水柱、様……っ!?」
彼女の顔からみるみるうちに血の気が引き、ガタガタと震え始める。その隣からそっと覗いた男性隊士も、冨岡さんの姿を認めた途端に絶望の表情を浮かべて硬直していた。
柱に見つかった。それも、一切の冗談が通じそうにないこの冨岡さんに。
その張り詰めた最悪の空気の中、冨岡さんは私の肩にぽんと手を置いた。そのまま私を促して出口へと一歩踏み出し、パタンと戸を閉めるその寸前。
「邪魔をして悪かった。続けろ」
彼は表情ひとつ変えないまま、二人へ向かってそう言い放ったのだ。嫌がらせとしての高度な皮肉なのか、それとも本気で言っているのか。
どちらにせよ、柱にあんな台詞を残された二人が続きをできるはずがない。
私は呆然と冨岡さんを見上げるが、冨岡さんは大真面目な顔でこちらを振り返る。そして私の耳まで真っ赤になった顔を一瞬だけじっと見つめると、小さく息を吐いた。
「ここは騒がしい。…部屋を借りるぞ」
冨岡さんは私の肩にそっと手を置いたまま、診察室のすぐ近くにある、普段はあまり使われていない小さな病室の戸を静かに開けた。
***
目の前で女に大粒の涙を流されたら、どのように振る舞うのが正解なのか。
気の利いた慰めの言葉をかけるなど勿論できない。見なかったことにして、その場を立ち去ることが正しいのか。
俺にできたのは、せめてもの抵抗として周囲の目から彼女の身を庇うことくらいだった。
では。目の前で女が鼻にちり紙を詰め、涙目になりながら顔を真っ赤にして狼狽しているとき。
それは一体どのように振る舞うのが正しいのだろうか。
数週間に及ぶ任務を終え、俺は久々に蝶屋敷へと足を運んでいた。隠を介さず自ら蝶屋敷へ薬を取りに来るなど、俺らしくもない行動だということは分かっている。ただ、その足の向きをあえて変えようとも思わなかった。
しかし、門をくぐっても、玄関に入り声をかけるも、肝心の胡蝶の姿は見えない。
待てども現れないので中庭まで進むと、草花の傍らに青い蝶の髪飾りをつけた少女と、三人の小柄な少女たちが立っていた。
洗濯の手を休めた彼女らに声をかけると、四人は一様に目を丸くし、神崎が「診察室ではないでしょうか」と小さく答えた。
頷いて、診察室へと足を向ける。
胡蝶は他人の気配に聡い。俺が屋敷に入り、声をかけ、ここまで歩いてくるまでの気配を、彼女が察知していないはずがないのだ。気配に気づいていながら出てこないということは、中で何か動けないほどの重篤な急患の処置でもしているのではないか。
もしそうであるなら、声をかけて集中を乱すのは悪手だ。状況をこの目で確かめ、間が悪ければ去る。それが最も確実であると判断し、俺は引き戸に手をかけた。
「胡蝶」
スパン、と乾いた音を立てて引き戸を引く。
だが、開け放った視界の先、入り口すぐに近くに小さな背中が一つ不自然に丸まっていた。
「……っ」
驚いたように派手に肩を震わせ、恐る恐るこちらを見上げてきたのは、他でもない高月だった。
「え、と……」
彼女はかなり驚いた様子で、呆然と俺を見つめていた。そしてこわごわと視線を彷徨わせる。
そんな彼女の鼻には紙がねじ込まれていて、根元が真っ赤に染まっていた。
…鼻血?なぜ?いや、それはいいとして、その赤さに負けないくらい、彼女の頬は恥ずかしそうに火照っている。
これは一体どういう状況なのか。黙って見下ろしていると、彼女の瞳がきらきらと揺れる。目尻の下がった目に涙の雫を溜めて、瞳を潤ませて。
その瞬間、かっと体が熱くなり、俺は咄嗟に視線を逸らしていた。
「………」
何だ?なぜ今、ぐっときた?自分のものではないはずの羞恥が、妙に伝染してくる。
それに、また泣いている。今回はあの時のように叫んではいないが、なぜかひどく狼狽した様子だ。
その視線を奥の帳へ向けると、何やら息を潜めた男女の声が聞こえてきて、一瞬でそこでなにが行われているのかを察した。
不順、だな。他人の秘め事を暴く趣味など俺にはないが、このような場所ですることではない。
高月が泣いている理由が鼻の痛みによるものか、この状況の羞恥によるものかはわからないが、まずはこの可哀想な怪我人をここから連れ出さなければならない。
「……氷だな」
短くそう告げ、氷箱から氷嚢をこしらえると、彼女の手を引いて立ち上がらせる。
「早く冷やした方がいい。こっちだ」
彼女がこくりと頷く。
帳への奥で凍りついたように動けない隊士の二人を、これ以上怯えさせる必要もないだろう。彼らは治療の最中(と解釈することにした)なのだから、邪魔をするのも本意ではなかった。
そのまま戸口へ向かうが、
「も、申し訳ありませんっ!これには、その、深い訳が……!」
沈黙に耐えかねたのか、引きつった声と共に一人の女隊士が
「み、みず……水柱、様……っ!?」
しかし、すぐに驚いた声をあげる。隣では彼女の顔が、カッと一瞬で沸騰したように赤く染まっていった。
…なぜ出て来るのだろうか。そのまま息を潜めてやり過ごしていれば、気づかないふりをしてこの場を立ち去るくらいの間は、俺にだってあった。
このような痴態を、よりによって俺のような男に見られて良かったはずがないだろう。
だが問題は、俺の隣で呼吸を忘れたように固まっている高月の方だ。
まずは、この頭から湯気が出そうなほどに混乱している彼女を、早くこの空間から連れ出す。それが最優先だ。
パタンと戸を閉めるその寸前、俺は背後の二人へと視線を戻した。柱として、居合わせた者への最低限の配慮。この屋敷の規律を裁くのは俺の役目ではないし、彼らが"治療の最中"であるならば、それを中断させてしまったことへの、俺なりの真っ当な挨拶のつもりだった。
「邪魔をして悪かった。続けろ」
適当な空き部屋を見つけ戸を閉めると、彼女を寝台へ座らせた。俺は向かいにあった椅子を引き寄せ、腰を下ろす。
しばらくはどうしてやるべきか分からず、彼女の気まずそうな顔を眺めていたが、視線の先にある鼻の下で真っ赤に染まった紙片を見て、ようやく手を動かした。
「まず、紙だな」
鼻にねじ込まれた紙は先端まで赤く滲んでいて、このままではいくらなんでも惨めに見える。そう思って手を伸ばすと、彼女が慌てて体を退けぞらせた。
「いや、あの……!自分でやります、大丈夫です!」
「痛くはしない。心配するな」
「そ、そういう問題ではなくてですね……」
鼻に紙を詰めたまま、あたふたと両手を振る。声は鼻にかかってこもり、身振りも大げさで、ますます滑稽に見えた。
その不恰好さがおかしくて、ふっと息が漏れる。笑った自覚があった。自分でも驚くくらい、自然に。
「……冨岡さんが笑ったところ、初めて見ました」
ぽつりと零れた言葉に、彼女が頬を赤らめて目を丸くする。その顔は、鼻に詰め物をしている間抜けな姿であるにもかかわらず、不思議と目を離せなかった。
先ほどのことが蘇る。彼女が診察室の薄暗がりで潤んだ瞳をこちらに向けた時。一瞬だけ、心臓が妙に熱を持った。
暴漢に絡まれていた彼女を助けに入ったあの日もそうだ。目に涙を浮かべ、ただ必死に腕を振り払おうとしていたその姿は記憶に新しい。
あの二人の男が彼女を手にかけた理由も、今ならわかる。どうやら彼女の泣き顔には、ただの弱者を哀れむだけでは済まない妙な引力があるようだ。
「どうしてそうなった」
自分の懐から新しいちり紙を取り出し、無造作に差し出す。言葉は短く切り捨てるような調子になったが、それ以上に余計なものを添えるのが苦手なだけだ。
ただ、理由を知りたかった。
「え、えっと……とにかく、相手に鞠を返さなきゃと思って……」
彼女はちり紙を替えながら、途切れ途切れに説明をする。
寒さを紛らわせるためにみんなで鞠を打ち合っていたが、足がもつれて木に顔をぶつけた。
それが真相らしい。言い訳のような説明を聞きながら、少し呆れた。どうやら、彼女は運動というものがてんで駄目らしい。だが、そのくせ鼻に紙を詰めたまま澄まし顔でいるのだから、ある意味では図太い。
初めて出会った時の彼女や、路地裏で絡まれていたときの彼女は、もっと口数が少なくておどおどした印象ばかりが残っている。
だがこうして話してみると拍子抜けするくらい、印象が変わっていた。どうやら、こちらが本当の彼女の姿らしい。
「ど、どうされましたか?」
ふいに距離を詰めた俺に高月が目を瞬かせる。驚きと戸惑いがないまぜになった瞳。その反応が、また可笑しい。
「ちゃんと冷やした方がいい」
「で、でも、さっき自分でやるって……」
彼女は慌てて口を開くが、その声は弱々しい。そっと手を伸ばし、氷を当てる位置に視線を落とす。
さっきよりも近い距離で、互いの息が触れ合いそうになる。白い頬は血の気を失って冷たそうなのに、肌理は細かく滑らかそうで。
耳にかかる横髪がふわりと揺れた瞬間、わずかに甘い匂いがした気がした。
「触れるぞ」
そう言って氷嚢を当てると、彼女が落ち着かないように身じろぎをする。
「ほ、本当に、自分でやりますから……」
「じっとしていろ。余計に血が出る」
遠慮がちにそう言って俺の手を取ろうとするが、短く告げただけで彼女は肩の力を抜いた。あれほど抵抗していたのに、言われればすんなりと従ってしまう。
「ありがとう、ございます…」
やはり、この娘は警戒心が薄すぎる。すぐにそれを解いてしまう彼女を見ていると、いつも胸に妙なざらつきが残るのだ。
「冷たい……けど、気持ちいいです」
氷嚢を当てていると小さな声でそう呟かれ、俺は視線を彷徨わせた。何かを言葉にすれば、余計なものまで表に出そうだったからだ。
部屋に、氷が軋む音が響く。
彼女はおとなしく座っていて、先ほどまで慌てていた面影はすっかり消え妙な落ち着きがあった。
「……あっ、そういえば。この前、冨岡さんにいただいた飴玉、ちゃんと大事に食べてますよ。べっこう飴、すごくおいしかったです。お礼をちゃんと言い損ねてました。ありがとうございます」
高月は思い出したようにそう言って、鼻に氷嚢を当てられたままにこにこと嬉しそうに笑った。
「そうか」
あれは、あの路地裏の一件のあと、震えの止まらない彼女をどう扱えばいいか分からず、これでも与えておけば少しは気が紛れるだろうかと思って適当に買い与えたものだった。
思いつきに過ぎなかったが、どうやらあれは正解だったらしい。
「まだ半分以上残ってるんです!もったいなくて毎日ちょっとずつ食べてるんですよ。ほら、あの金色、日に当たるときらきらして綺麗ですよね」
「………」
「冨岡さんも食べたことありますか?あそこのお店、有名な飴屋さんなんでしょうか?他にも種類が色々あったのに、もっとよく見とけば良かったです」
よくもまあ、そんなに次から次へと話が出てくるものだ。だが言葉を並べるたびに、彼女の顔に少しずつ明るさが戻っていく。
よく回る口だな、と思いながら氷嚢をそっとずらし鼻筋の上へ位置を変えると、高月の肩がぴくりと跳ねた。
「すまない、痛かったか?」
「い、いえ。大丈夫です」
そう言って、彼女はまた少しだけ頬を赤くした。
さっきまで飴玉の話をして子供のように笑っていたくせに、ふいに黙り込んで視線をきょろきょろと彷徨わせ始める。
「……冨岡さん」
「なんだ」
「あの、本当にもう手が冷たくなってしまうので、代わります。冨岡さんにこんなことまでさせてしまって……」
高月はそう言いながら、俺の手首のあたりを遠慮がちにそっと指先で押し返そうとしてきた。
力比べをすれば、俺が指一本動かさずとも勝てる。それほどに圧倒的な体格の差があるというのに、なぜかその微かな拒絶に俺の腕は力を失う。
「……すみません。でも冨岡さんがあまりにもお優しいから。このままだと私、つい甘えっぱなしになってしまうんです」
優しい、だと…?そんな風に俺を評した人間が、これまでにいただろうか。
いつも言葉が足りず、他人に誤解され、忌避されることの多いこの俺を、彼女は「優しい」と言って笑うのだ。
自分の胸の奥が、妙に騒がしくなるのを感じる。他人は俺をそうは呼ばない。お前は何か勘違いをしているのではないか。その問いをそのまま口にした。
「……俺の、どこが優しいんだ」
「どこがって……全部、ですよ。初めて会ったあの夜に、行くあてのない私に冷たいおにぎりをくれたところも。暴漢から助けてくれたところも……」
「それは俺じゃなくてもそうする」
すぐにそう反論したが、彼女は「それだけじゃありません」と小さく首を振る。
「今だって、私を驚かせないようにゆっくり触れてくれましたし」
「……あとは?」
「あとですか?いつもぶっきらぼうな口調ですけど、言葉の裏にちゃんと温かい気遣いがあるところ……とか。あ、あと、私が返事を言うまで、じっと待っててくれる忍耐強いところも」
「それから?」
俺が短く促すと、彼女は少しだけ恥ずかしそうに視線を泳がせ、それから意を決したように俺を真っ直ぐに見つめてきた。
「……それから、私が困っているときに、何も聞かずにただ静かに隣にいてくれるところです。世界中で私一人になっちゃったみたいに心細かったとき、冨岡さんの手が本当に温かくて……」
「うん」
彼女の話に静かに相槌を打つ。言葉を並べるたびに、彼女の白い頬がまたぽうっと赤く染まっていく。
鼻に氷嚢を当てられたまま、一生懸命に俺の「優しさ」を数え上げているその姿が、どうにもたまらなくなってしまった。
「だから、そんな冨岡さんだから、私は信じてついていこうって思えたんです。あの夜、私に手を差し伸べてくれたのが冨岡さんで、本当に良かった……」
最後に祈るようにそう小さく呟いた高月は、もう俺から視線を逸らさなかった。真っ直ぐで一片の濁りもない瞳が、俺の姿を映している。
「あ。あと、思い出しました!冨岡さんは瞳がとっても綺麗です!」
「……それはもう関係ないな」
そう述べると、高月は「本当ですね」と愉快そうに声を震わせた。
笑うほどの余裕ができた彼女を見て、俺は胸の内で、すとんと腑に落ちるものがあった。
脆く、真面目で純粋で、今にも消えてしまいそうなほどか細く見えていたけれど、彼女は決してただそれだけの娘ではない。
人がどうでもいいと捨てたものを、綺麗に埃を払って差し出してくる。俺がいらないと言っても、そうするのが当然みたいに、大事にする。
それに、すぐ泣くくせに妙に物怖じしないところがある。鼻に紙をねじ込んだまま澄ましていたり、不審な男たちに一人で立ち向かおうとしたり、危なっかしいことを平気でやらかす。
その何もかもが、ちぐはぐだった。危ういのに図太く、おどおどしているのに真っ直ぐで。
そんな彼女の不可解な姿に、気を抜けばつい目を向けてしまっているのだと。
「そうだ!冨岡さん。私、少し前にしのぶさんに冨岡さんへの伝言をお願いされたんです。お伝えするのをすっかり忘れてました」
「伝言?なんだ」
「あの、それがですね、よく思い出せなくて」
「………頑張って思い出せ」
「は、はい。すみません」
彼女はそう言われてから視線を斜め上に彷徨わせ、ぽつぽつと言葉を探しはじめた。
よく思い出せない、とはどういうことだ。胡蝶からの伝言であれば、それなりに重要な任務に関わることかもしれないというのに。前言は撤回だ。この娘はどこまでも抜けている。
「たしか……『そんなに気になるのならご自分で様子を──』とか、そんな感じだった気がするんですけど……」
そこで言葉を区切り、こちらの出方を伺うようにそっと目を細めて覗き込んできた。
「……心当たり、ありますか?」
ぴくり、と自分の指先が僅かに反応するのが分かった。
――そんなに高月の様子が気になるのなら、自分で様子を見に来い。胡蝶が言いたいのは、そういうことだろう。
気にしている、だと。俺が、彼女のことを。そんなつもりは毛頭なかった。これはただ、行き場を失くした娘を拾った者としての責任であり、任務の延長線上に過ぎないはずだった。現に今日も、薬を自らもらいに来ただけにすぎない。
だが、胡蝶の言葉によって鏡を突きつけられたかのように、己の行動の異常さが浮き彫りになる。隠を介さず足を運んだのも、神崎にわざわざ居場所を尋ねたのも、すべては俺自身の意思だ。
「……ない」
短く、突き放すように答えた。動揺を悟られまいとしたせいで、声は思った以上に冷たく響いてしまう。
それだけで彼女は「あ……」と小さく声を漏らし、しゅんと肩をすくめた。
「そ、そうですよね……ごめんなさい。私がちゃんと覚えていれば……」
「いい。お前が気にすることじゃない」
慌てて謝る彼女の言葉を、思わず強めの口調で遮った。
"気にしていない"と思いながら、来ている。その事実の方が、よほどみっともない。だが、そのみっともなさを知られたくないと思っている自分が、さらに癪だった。
「冷えたか」
と、わざと話題を変えてみる。
まだ少し心許ない顔。けれど、さっきの怯えはもうどこにもない。そんな彼女を見て、ほっと息をついた束の間。
「……まあまあ。冨岡さんが手当てをしているなんて、珍しい光景ですね」
背後から軽やかな声が降ってきて、俺は思わず彼女の鼻筋から当てていた氷嚢を離した。
「し、しのぶさん……!」
高月が驚いたように声を上げる。
戸口に立つ胡蝶の、すべてを見透かしたようなその
「ふふ。なるほど……状況は聞かなくても大体わかりましたが、鼻に紙を詰めた女性に氷まで当てて差し上げるなんて。冨岡さんも案外お優しいんですね」
「別に……」
言葉を濁し、俺は胡蝶から目を逸らした。
言い訳の余地などどこにもなかったからだ。
「ねえリサさん?冨岡さんにここまでしていただけるなんて、なかなか無いことですよ」
「……え?そう、なんですか……?」
鼻を抑えたまま、思わずといった風に漏れた彼女の声は驚きそのものだった。
俺を「全部が優しい」と言い切った娘だ。俺が誰にでも同じように手を差し伸べ、こうして傍に寄り添うのだと本気で信じていたのだろう。
「そうですよ?……ふふ。いいものを見せてもらいました。アオイに聞いて心配して来ましたが、私がいなくても大丈夫そうですね。…では、これで。私の診察室で少々お行儀の悪い隊士がいたようで、締め上げてこなくてはなりませんので」
くすりと笑うと、胡蝶は軽やかに踵を返し部屋を出ていく。ぱたん、と戸が静かに閉じられ、部屋には再び二人きりの空間が戻った。
残されたのは林檎のように顔を赤くしている彼女と、黙したまま二度と視線を合わせられなくなってしまった俺の、ひどく居心地の悪い沈黙だけだった。
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