13
アオイさんの言った通り、手紙の返事は翌日の朝にはもう届いた。
門の前で掃き掃除をしていたとき、ひゅう、と風を切る音がして顔を上げると、一羽の鎹鴉が降りてきたのだ。嘴にくわえられていたのは、昨日自分が出したものとそっくりな封筒。封を切ると、中には流れるような筆跡で短い言葉が綴られていた。
“リサへ
お手紙をありがとう。
元気に過ごしているようで安心しました。
町へ行く許可が下りたと聞いて、私も嬉しいです。
この間話した甘味処、一緒に行きたいなあ。
私は今、北の村での任務の途中です。
もうじき片がつくから、そのときはまた鎹鴉で知らせます。楽しみにしていてね。
蝶屋敷の皆さんに、くれぐれもよろしく伝えてください。”
文はそれだけだったが、一行一行に尾崎さんらしい優しさと、任務の合間に急いで筆を取ったような息づかいが感じられた。インクの線が少し滲んでいて、それすらも愛おしく思える。空を見上げれば、鎹鴉が遠ざかる黒い影を残して、小さく一声鳴いた。
そのあとは、穏やかな朝が続いた。霜が溶けて陽が差し込み、屋敷の中には炊事の音や三人娘たちの笑い声が広がる。
何もかもが、のどかで平和で――まさか数刻後、自分の鼻から血を流すことになるとは、想像もしていなかった。
「いやー、体張りますね。リサさんも」
アオイさんの言葉に、私は鼻を押さえながら情けなく眉を寄せた。
「張りたくて張ったわけじゃ……」
「冗談ですよ。早くしのぶ様に言って、冷やすものをもらってください」
小さな声で「ちり紙は足りてますか?」と気遣ってくれるアオイさんに頷いて、そろそろと立ち上がる。
顔に走る痛みと、じんわりと滲む血の感覚。寒さでかじかんだ指先が冷たく、心細さまで募っていた。
――どうして、こんなことになってしまったのか。
今日は朝から格段に冷え込んでいた。吐く息が白く漂う中、アオイさんや三人娘と一緒に庭で洗濯をしていたが、あまりの寒さに手がかじかんで仕事にならなかった。
そんな時、「動けば温まるよ」と誰かが言い出し、手毬で体をほぐそうということになったのだ。笑い声に混じって毬を追いかけるうち、私は寒さで思うように体を動かせず、足をもつれさせ――結果、近くの木の幹に顔をぶつけ…いや、突進してしまった。
その瞬間の四人の焦った声は見事だった。
……ほんと、どこまでも間抜けすぎる。
痛みと羞恥を抱えたまま、私は廊下を歩き、診察室の前で足を止めた。
普段ほとんど立ち入らない場所だから、自然と緊張する。戸口に手をかけ、そっと扉を開けた瞬間――その場に固まった。
「ちょっと……誰か来たらどうするの」
「来ないって」
「あっ、やだもう……」
くぐもった声。笑い混じりの息。
……え。何か絶対に怪我をしていない方がいらっしゃる……!?
ただならぬ雰囲気に、思考が完全に止まってしまう。あれは、絶対に怪我人のうめき声ではない。
診察室の奥には重症患者の寝台が並び、分厚い布で仕切られた
どうしよう。こういう時、どうすればいいのだろう。
端的に言えば、鼻を強打して血を出しただけ。冷やすために氷をもらえれば済む話。
しのぶさんもいないのだから、入口すぐに置かれている氷箱の中からさっと取ればいい。
音を立てなければ大丈夫だろうと、戸を静かに閉め、氷箱の前に膝をつく。呼吸さえもはばかられるような沈黙の中、指先が箱に触れた瞬間――
「ん……もっと」
どっ、と心臓が一際大きく脈打った。
甘えるような女の子の声。
「なに……嫌だったんじゃないの?興奮してるんだ?誰かに、聞かれるかもしれないって?」
「ばかっ……違う……」
全く関係ない自分まで恥ずかしくて堪らない。
生々しくて、酷くて、顔は熱いのに背筋は凍ったようだ。
な、なんで…こんなところで…!しのぶさんが知ったら激怒するのでは…!?
と胸の奥で悲鳴を上げながら、氷を手に取る足は動かない。ここを無音で突破するのはかなり難しいな、と尻込みしていた時だった。
「胡蝶」
スパン、と乾いた音を立てて戸が開いた。
心臓が口から飛び出すんじゃないかと思うほど驚き、肩が派手に震える。
恐る恐る見上げた先で、淡い光を背に冨岡さんが立っていた。姿を見るのは少し久しぶりだな、とかそんなことを考える暇もなく、彼の感情の見えない表情が、この部屋の空気感と相まって凛として見えた。
「え、と……」
冨岡さんと目が合い、思わず瞳が潤んでしまう。
結果的に盗み聞きしてしまった罪悪感と、羞恥と、情けなさで頭がごちゃごちゃだ。
ただでさえ冷えた顔面に木が当たってじんじん痛むのに、どうしてこんな精神攻撃を食らわなきゃいけないのか。
そういえば鼻血を止めるためにちり紙の栓もしたままだし、本当にみっともなさすぎる。
奥の寝台の帳の向こうでは、衣擦れの音がぴたりと止まった。
「ちょ、ちょっと……誰か来た……!」
「う……嘘だろ……!」
女の人の慌てる小さな声、続いて男の低い舌打ち。
空気がひゅうっと引き締まって、薬草と
「……」
冨岡さんの瞳が、帳の奥へ一瞬だけ流れ、それからすぐに私へ戻る。そこで何が起きていたかを察したのだろう。
いつも表情をあまり崩さない冨岡さんだけど、気まずそうに一度視線を彷徨わせると、ふっと息を吐き出した。
「…氷だな」
短くそう言うと、彼は氷箱の蓋を片手で持ち上げ、指先で氷片を数個つまみ取る。近くの棚から手拭いを抜き取り、手早く包んで
腰を屈めた彼の手が、そっと私の手を取る。
「はやく冷やした方がいい。こっちだ」
「えっ、」
促され、立ち上がった――その拍子に、ちり紙がずれそうになって慌てて押さえる。
みっともない。どうしてこんな姿ばかり彼に見られてしまうのか。
「み、水柱様……!あの、このことは……」
彼女の視線が私と冨岡さんを行き来し、気まずい気配が部屋いっぱいに広がった。
――きっと、恋人のお見舞いで来ていたのだろう。誰かのためにここへ足を運んで、少しの慰めを分け合っていた。その延長で、いけないことだとわかりつつも心を寄せ合っていたのかもしれない。
そう考えれば説明はつくのに、耳まで赤くなってしまう自分の反応を止められなかった。まるで私が覗き見してしまったみたいで、胸の奥がちくりと痛む。
冨岡さんはそこでようやく、静かに言葉を置いた。
「…邪魔をして悪かった。続けろ」
「えっ」
思わず声が漏れる。
――続けろ、って。そんなことできる訳がないじゃないか。場の空気はもう完全に凍りついているし、彼女も私の方を見て固まっている。それに、しのぶさんが知ったら絶対に怒るやつだ。
そう思いながらも、ぐっと手を引かれる。戸惑う間もなく歩き出すその背中に、私はただ導かれるまま、冨岡さんに連れられて診察室を後にした。
***
「胡蝶」
診察室の引き戸を開け、俺はそう口を開いていた。
冷え込みの激しい朝。数週間に渡る任務を終え、蝶屋敷へと足を運んだ。
特に最近は、ここを訪れることが多くなった。治療や診察のためとはいえ、門を潜るたびに胸の奥にわずかな居心地の悪さが残る。
──「様子が気になるのなら、いっそご自分で蝶屋敷まで足を運べばどうですか」
かつて胡蝶にそう言われたその言葉が、ふと脳裏を過った。
もちろん、気になったから足を運んでいるわけではない。わざわざ確かめに来るほど暇でもないし、ただ薬を受け取りに来ているだけだ。
そうして心の中で言葉を重ねながらも、ふと胸裏に浮かんでくるのは――今日のように骨身に沁みるほど冷え込んでいた、あの夜に彼女と出会った光景。
しかし、門をくぐっても、肝心の胡蝶の姿は見えない。
待てども現れないので中庭まで進むと、陽の光を浴びて揺れる草花の傍らに、青い蝶の髪飾りをつけた娘と、三人の小柄な少女たちが立っていた。
洗濯をしている彼女らに声をかけると、目を丸くしてから「診察室ではないでしょうか」と小さく答えた。
頷いて、足を向ける。気づけば戸の前に立ち、手を掛けていた。
しかし、そこに胡蝶の姿はなく、部屋は何やら妙な気配に包まれていた。
奥の寝台から物音がする。閉め切られた帳の向こうで、何やら息を潜める二人の男女の声。その一瞬で、そこでなにが行われているのか察した。
思わず視線を下げると、2つの大きな瞳と目がかち合う。
「え、と……」
か細い声が狭い空間に響いた。部屋の隅にちんまりとしゃがみ込んでいる、見知った顔。まさか先客がいるとは。
彼女もかなり驚いた様子で、呆然と俺を見つめていた。そしてこわごわと顔を上げると、その視線を彷徨わせる。彼女の鼻には紙がねじ込まれていて、根元が真っ赤に染まっていた。
…鼻血?なぜ?それはいいとして、その赤さに負けないくらい、彼女の頬は恥ずかしそうに火照っている。
…いや、これは一体どういう状況なのだろうか。
黙って見下ろしていると、彼女の瞳がきらきらと揺れる。目尻の下がった綺麗な目に涙の雫を溜めて、瞳を潤ませていた。
その瞬間、かっと体が熱くなり、咄嗟に目を逸らした。
「……」
何だ?自分のものではないはずの羞恥が、妙に伝染してくる。気づけば視線を逸らし、息をひとつ整えるしかなかった。
「…氷だな」
ついそう口に出し、氷箱を開けていた。勝手に触ると胡蝶は怒るだろうが、今は関係ない。
指先で氷片を数個つまみ取り、近くの棚から手拭いを抜き取ると、手早く包んで氷嚢をこしらえる。
そして彼女の右手を引く。そのまま立ち上がらせると、触れた掌が冷え切っていて、思ったより細いことがわかった。
「はやく冷やした方がいい。こっちだ」
彼女がこくりと頷く。鼻のちり紙がずれそうになり慌てて押さえる様子が、ひどくみっともないはずなのに、不思議と胸の奥に残った。
その時、背後から声が飛ぶ。
「み、水柱様……!あの、このことは……!」
振り返れば、帳の影から女が現れていた。
隊服の襟は慌てて整えたらしく、まだ乱れが残っている。視線がこちらと彼女を行き来し、気まずさを隠せていない。
彼女――高月は、不安そうにその女を見ていた。
「……邪魔をして悪かった。続けろ」
間を置いてそう言うと、女の瞳が揺れた。高月の顔はさらに赤くなり、戸惑いの気配が全身から伝わってくる。
だが、これ以上ここに留まる理由はない。俺は一方的にそう告げると、彼女の手を引いて診察室を後にした。
適当な空き部屋を見つけ、戸を閉めると、彼女を寝台へ座らせた。
古い木の床が小さく鳴り、空気はひんやりとしている。こうして何もない時間に蝶屋敷を歩くのは初めてで、静けさにかえって落ち着かない。
俺は向かいにあった椅子を引き寄せ、腰を下ろす。しばらく黙っていたが、視線の先にある彼女の鼻の下で真っ赤に染まった紙片を見て、ようやく口を開いた。
「…まず、紙だな」
鼻にねじ込まれた紙は先端まで赤く滲んでいて、このままではいくらなんでも惨めに見える。そう思って手を伸ばすと、彼女が慌てて体を退けぞらせた。
「いや、あの……!自分でやります、大丈夫です!」
「痛くはしない。心配するな」
「そ、そういう問題ではなくて……!」
鼻に紙を詰めたまま、あたふたと両手を振る。声は鼻にかかってこもり、身振りも大げさで、ますます滑稽に見えた。
その不器用さがおかしくて、不意にふっと息が漏れる。笑った自覚があった。自分でも驚くくらい、自然に。
「……冨岡さんが笑ったところ、初めて見ました」
ぽつりと零れた言葉に、彼女が頬を赤らめて目を丸くする。
その顔は、鼻に詰め物をしている間抜けな姿であるにもかかわらず、不思議と目を離せなかった。
さっきのことが蘇る。診察室の薄暗がりで、潤んだ瞳をこちらに向けていたとき―― 一瞬だけ、心臓が妙に熱を持った。
暴漢に絡まれていた彼女を助けに入った、あの日もそうだ。声も出せず、目に涙を浮かべ、ただ必死に腕を振り払おうとしていたその姿は記憶に新しい。あの二人の男がすぐに彼女を手放さなかった理由も、今ならわかる。
彼女の泣き顔には、ただの弱者を哀れむだけでは済まない妙な引力があるようだ。
「どうしてそうなった」
自分の懐から新しいちり紙を取り出し、無造作に差し出す。言葉は短く切り捨てるような調子になったが、それ以上に余計なものを添えるのが苦手なだけだ。ただ――理由を知りたかった。
「え、えっと……とにかく、相手に鞠を返さなきゃと思って……」
彼女は言葉を選ぶように途切れ途切れに説明する。
寒さを紛らわせるためにみんなで鞠を打ち合っていたが、足がもつれて木に顔をぶつけた――それが真相らしい。言い訳のような説明を聞きながら、胸の奥で小さく溜息が漏れる。
どうやら、彼女は運動というものがてんで駄目らしい。だが、そのくせ鼻に紙を詰めたまま澄まし顔でいるのだから、ある意味では図太い。
初めて出会った時の彼女や、路地裏で絡まれていたときの彼女は、もっと口数が少なくておどおどした印象ばかりが残っている。
だが、こうして話してみると――拍子抜けするくらい、印象が変わっていた。
どうやら、こちらが本当の彼女の姿らしい。
初めて会った時は、冷え込む月明かりの下、道端に座り込んでいて。力なく肩を落とし、行き場のない視線を彷徨わせていた。
あの時――俺は理由もなく歩み寄り、声をかけ、手を取った。思えば、放っておけなかったのはその「弱さ」ゆえだけではない。
差し出した手にすがりつくように指を重ねた、その手。怯えと戸惑いに揺れながら、それでも必死に立ち上がろうとした姿。
それが妙に胸に残り、記憶から消えなかった。
今日また、同じように涙を滲ませてこちらを仰ぐ顔を見て――ようやく気づく。
彼女はただ脆い存在ではない。真面目で純粋で、か細く見えて妙に物怖じしない。危なっかしいことを平気でやらかしそうな。
そのちぐはぐな姿に、気を抜けばつい目を向けてしまうのだと。
「ど、どうされましたか?」
ふいに距離を詰めた俺に、彼女が目を瞬かせる。驚きと戸惑いがないまぜになった瞳。
その反応が、また可笑しい。
「ちゃんと冷やした方がいい」
「で、でも、さっき自分でやるって……」
彼女は慌てて口を開くが、その声は弱々しい。そっと手を伸ばし、氷を当てる位置に視線を落とす。
さっきよりも近い距離で、互いの息が触れ合いそうになる。白い頬は血の気を失って冷たそうなのに、肌理は細かく滑らかそうで。
耳にかかる横髪がふわりと揺れた瞬間、わずかに甘い匂いがした気がした。
「……触れるぞ」
そう言って氷嚢を当てると、彼女が落ち着かないように身じろぎをした。
「ほ、本当に、自分でやりますから……」
遠慮がちにそう言って、俺の手を取ろうとする。
「じっとしていろ。余計に血が出る」
短く告げただけで、彼女は肩の力を抜いた。あれほど抵抗していたのに、すんなりと従ってしまう。
「ありがとうございます……」
やはり、この娘は警戒心が薄すぎる。ほんの少し声をかければ、簡単に気を許す。その無防備さが、いつか命取りになるかもしれない。
頭ではそうわかっているのに、すぐにそれを解いてしまう彼女を見ていると、胸の奥に妙なざらつきが残った。
「冷たい……けど、気持ちいいです」
氷嚢を当てていると、小さな声でそう呟く。
俺は何も返さなかった。言葉にすれば、余計なものまで表に出そうだったからだ。
それから、しばしの静寂。薄明かりに照らされる部屋に、氷が軋む音だけが響く。
彼女はおとなしく座っていて、俺はその顔を無意識に目で追う。
氷嚢の下で、彼女の呼吸が静かに上下しているのが見える。先ほどまで慌てていた面影はすっかり消え、肩の力も抜けて、妙な落ち着きがあった。
こうしていると、鼻血を押さえている最中だということを忘れそうになる。
頬のあたりで溶けた水滴が一粒、つっと指先に伝った。それを軽く拭う動作の間も、言葉は交わさない。
ただ、朝の静けさと氷の音と、彼女の柔らかな吐息が、淡く空間を満たしていた。
「……あっ、そういえば」
そのとき、突然彼女がぱっと顔を上げる。それまで水面のように穏やかだった空気が、小さく揺らいだ。
「この前、冨岡さんにもらった飴玉、ちゃんと大事に食べてますよ。べっこう飴、すごくおいしかったです。…ありがとうございます」
思い出したようにそう言って、鼻に氷嚢を当てられたまま、にこにこと嬉しそうに笑った。
何の脈絡もない話なのに、その声は少し弾んでいる。
「…そうか」
俺の口から出たのは、それだけだった。
けれど、彼女は満足したらしく、さらに畳みかけるように話を続ける。
「まだ半分以上残ってるんです!もったいなくて……。毎日ちょっとずつ食べてるんですよ。ほら、あの金色、日に当たるときれいですよね」
「……」
「冨岡さんも食べたことありますか?あそこのお店、有名な飴屋さんなんですかね?他にも種類が色々あったのに、もっと見とけば良かったです」
よくもまあ、そんなに次から次へと話が出てくるものだ。言葉を並べるたびに、彼女の顔に少しずつ明るさが戻っていく。
――よく回る口だな、と思いながらも俺自身が言葉を重ねる必要がないことに、どこか心地良ささえ感じる。
氷嚢をそっとずらし、鼻筋の少し上へ位置を変える。その瞬間、彼女の肩がぴくりと跳ねた。
「すまない、痛かったか?」
「い、いえ。大丈夫です……」
ほんの少し前まで血を流していたのが嘘のように、今の彼女の表情は穏やかだ。ふと、彼女がまた口を開く。
「……あ、冨岡さん。そういえば私、だいぶ前しのぶさんに、冨岡さんへの伝言をお願いされたんですけど……」
言い淀む声。
俺は氷嚢を押さえたまま少し視線を下げた。
「なんだ」
「…それが、よく思い出せなくて」
少し情けないような表情で眉が寄る。
どうやら本当に思い出せないらしい。そういうところだけは、やはり抜けているなと思った。
「頑張って思い出せ」
「は、はい……すみません」
彼女はそう言われてから、ぽつぽつと言葉を探しはじめる。
「たしか……“そんなに気になるのなら自分で様子を──”……とか、そんな感じだった気がするんですけど……」
そこで一度こちらをうかがう目。
「……心当たり、ありますか?」
ぴくり、と自分の指先がわずかに止まった。胸の内でその言葉が引っかかる。
…心当たりしかない。産屋敷邸で交わした、あの会話だろう。
──様子が気になるのなら、いっそご自分で蝶屋敷まで足を運べばどうですか。
そうやって気にしていないと心の中で言いながら、足が勝手にこの屋敷へ向かっていた。“薬をもらいに来ただけだ”と自分で自分に言い訳をして。
…滑稽だ。怪我した鼻を押さえて座り込む娘の前に腰掛け、氷を当て、言葉を選んでいる自分。
その全部が胡蝶に見透かされていたかのようで、喉の奥でひっそり苦笑が漏れる。
「……ない」
短く答えた。それだけで、彼女はしゅんと肩をすくめる。
「そ、そうですよね……ごめんなさい。私がちゃんと覚えていれば……」
「いい。お前が気にすることじゃない」
思わず言葉で遮った。謝られる筋合いはない。
“気にしていない”と言いながら、来ている。その事実の方が、よほどみっともない。
だが、そのみっともなさを知られたくないと思っている自分が、さらに癪だった。
「……冷えたか」
と、わざと話題を変える。まだ少し心許ない顔。けれど、さっきの怯えはもうどこにもない。そんな彼女を見て、胸の奥にほっとしたものが滲んだ。――その時。
「…まあまあ。冨岡さんが手当てをしているなんて、珍しい光景ですね」
軽やかな声とともに、戸が静かに開いた。
振り向けば、そこに胡蝶が立っていた。黒髪に光を含み、口元に柔らかな笑みを浮かべている。
「…っ!し、しのぶさん……!」
彼女が慌てふためいてずれた氷嚢を押さえ直す。その必死さに、胡蝶の笑みはいっそう深まった。
「ふふ。なるほど……状況は聞かなくても大体わかりましたが、鼻に紙を詰めた女性に氷まで当てて差し上げるなんて。冨岡さんも案外お優しいんですね」
「別に……」
言葉を濁し、俺は目を逸らす。
あの言葉のあとだ。何を言ってもからかわれるのは目に見えている。
「ねえリサさん?冨岡さんにここまでしていただけるなんて、なかなか無いことですよ」
「……え?そう、なんですか……?」
思わず漏れた彼女の声は、驚きそのものだった。
俺は誰にでも同じように手を差し伸べるのだと、彼女は信じていたらしい。
その思い込みが崩れ、わずかに揺れた瞳に――戸惑いと一緒に、かすかな喜びの色が差す。
「そうですよ?隊服の裾が逆さまにはためくくらい、珍しいんですから。…ふふ。いいものを見せてもらいました」
胡蝶は悪戯っぽい笑みを浮かべて、扇のように手をひらりと振る。
「アオイに聞いて心配して来ましたが……、私がいなくても大丈夫そうですね。では、これで。私の診察室で少々“お行儀の悪い”隊士がいたようで、締め上げてこなくてはなりませんので」
言葉とは裏腹に、声音はどこか楽しげだった。くすりと笑うと、軽やかに踵を返す。
戸が静かに閉じられ、残されたのは、まだ氷嚢を押さえたまま赤らむ彼女と、黙したまま視線を逸らす俺の居心地の悪い沈黙だった。
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