14
朝の光が、まだ少し冷えを残した廊下を静かに照らしていた。布団を畳み、洗い場で顔を清め、簡単に髪を整える。この一連の流れも、もうすっかり手慣れたものだ。
「リサさん、薬湯を3番の病室の方にお願いできますか」
朝の準備を終え、調理場へ向かう途中、廊下の向こうからアオイさんの声がかかった。
「はい!」と返事をして、急須を抱えながら歩けば、すれ違う三人娘が「いってらっしゃいませー」と小さな声で囁き合って笑ってくれる。
こうして隊士の看病のお手伝いも、少しずつだかできるようになってきた。
急須の中で湯が小さく鳴り、茶葉の香りがふわりと立ちのぼる。その香りを胸いっぱいに吸い込みながら、私は廊下を曲がった。
それから昼下がり。いつものように門の前の石畳を竹箒で掃き清めていた。乾いた砂利の音と、竹箒が地面に擦れる音が繰り返される。
風が吹くたびにまだ冷たい空気が頬に触れるが、手を動かしているとそこまで寒さも気にならない。
いつも通りの日常。
変わったことと言えば――。それは冨岡さんが以前よりもよく、私の前に姿を現し、声をかけてくれるようになったことだ。
鼻に紙を詰めたみっともない姿も、氷を押さえてもらったことも…できることなら忘れて欲しいのに。
結果的に距離は近づいた気がする。冨岡さんがほのかに笑った顔も見れたことだし、今回はよしとしよう。
アオイさんや三人娘も、冨岡さんが頻繁に私に言葉をかけている様子に、驚いて小さく目を見張ってたくらいだ。彼が誰かと話しているのはそんなに珍しいことなのかと思うが、確かに私も冨岡さんが誰かと話してるのを見たことがないから、そうなのかもしれない。
物思いにふけながらざっ、ざっ、と落ち葉を掃き寄せていると、背後で砂利がわずかに鳴った。
「高月」
名を呼ぶ誰かの声。
はっとして振り返る。
「と、冨岡さん…!」
驚いた。噂をすれば、だ。門の影から、静かに冨岡さんが姿を見せていた。太陽を背にして立つその佇まいはいつもと変わらないのに、胸の奥が妙に騒ぎ出す。
「こ、こんにちは……」
いつの間に来ていたんだろう。
また気配に気づけなかった。
「お前は、門の前をよく掃いているな」
冨岡さんは私の挨拶に頷きだけを返すと、ぽつりとそれを口にした。
褒め言葉というより、ただ気づいたことを口にしただけ――そんな素っ気なさだったけれど、不思議と心に残る。
「は、はい。落ち葉がすぐ溜まってしまうので」
返事をしながら、声が少し上擦ってしまう。
この前も姿を見たばかりなのに、また顔を見せに来てくれたのかな。優しいな。
別に深い意味のある会話じゃないのに、なんだか落ち着かない。もっと自然に話せたらいいのに。いつも心の中でそう思うくせに、いざ目の前に立たれると緊張でまともに呼吸さえできなくなる。
「……あの、えっと」
言葉を探しながら、そっと視線を上げた。
彼の羽織の赤が、風でわずかに揺れる。
「息災か」
「そ、そく?……あ、はい。元気です。ちゃんと無事にしてます」
「ならいい」
冨岡さんは時々、とても難しい言葉を使う。けれどそれは、大体私の容態を気遣ってのことが多い。
自分の行動をよくよく振り返ってみれば、冨岡さんには道端で凍えてたところを拾ってもらったり、暴漢から救ってもらったり、鼻血を出してるところを助けてもらったりと、確かに心配されるような行動ばかりしている気がする。
なぜそんなところばかり見られてしまうのかは分からないが、悪い気はしない。なんとか意味を汲み取って返事をすると、彼は満足そうに頷いた。
「冨岡さんこそお元気ですか?」
「……ああ。まだ動ける」
…まだ動ける、とは何なのか。想像していた答えと違って少し戸惑う。私はただ、普通に“元気です”って答えが欲しかっただけなんだけど。
彼は動けなくなるまで動くつもりなのだろうか。そんな最終地点みたいな基準、さも当然みたいに言われても困るなあ、と少し笑った。
「お元気なら良かったです。冨岡さんは今から任務に?」
「……そうだ」
そうなのか。だから、そんな返事だったのかもしれない。そこで、動けなくなるまで頑張るつもりなのだろうか。
冨岡さんに限って、そのようなことにはならないと思うけれど、そんな覚悟を当たり前みたいに抱えている顔を、私はまだちゃんと理解しきれない。
少し胸がきゅっとするけれど……それは心配からなのか、それともまたしばらく会えなくなる寂しさからなのか、自分でもよくわからない。
「そうですか……。毎日お忙しいですね」
「…いや、今回は長引く任務ではない。ただの獣の可能性が高いが、様子を見に行くだけだ。終わればまたすぐここに戻る」
「ここに?本当ですか?」
思わず前のめりみたいな声になってしまって、恥ずかしくなった。
「そ、そうなんですね。よかった……いえ、その……皆も安心しますね」
慌てて言葉を整えるけれど、思っていたのとは違う温度が声に混ざってしまう。
“皆も”なんて口にしたのに、真っ先に安心しているのが自分だと、気づかれたくなかった。
でも、だって、心配もしてしまう。任務に向かうときの冨岡さんは、いつもより一層静かに見えるし、どこか冷たい緊張感が漂っている。
「怪我もしなくて済みそうですね」
当然と言えば、当然なのかもしれない。鬼を退治しに行くのだから。私が心配したところでどうしようもない。
それでも、喉の奥に残ったざらつきだけは、どうにも追い払えなかった。
「…わかりました。待ってます。任務、気をつけて行って来てくださいね」
そう告げた瞬間、冨岡さんはふと視線を落とした。何かを今、飲み込んだようなそんな表情。少し悲しそうに見えたのは気のせいだろうか。
思わず、自分の指先が竹箒の柄をきゅっと握りしめていた。
「…お前も無理はするな。前のように、鼻血も出すな」
「なっ……!」
まさか今、そこをぶり返されるとは。一瞬で頬に熱がのぼる。
そのせいで、さっきまで感じていた彼の表情の陰りは、意識の端からするりと滑り落ちた。
「そ、それはもう忘れて欲しいです……!!」
大きな声を出してしまって余計に恥ずかしいが、これはしっかりと言っておかなければならない。
そんな私に冨岡さんはほんのわずかにふっと息を吐く。気のせいじゃなければ、今のは若干笑ったのだと思う。
「忘れない。ああいうのは…」
言いかけてそこで言葉を切り、冨岡さんの視線がほんの少し伏せられた。
何を思い出しているのだろう。その含みが、また頬の内を熱くさせる。
「そ、そんな何回も鼻血なんか出しません……っ!」
思わず、ぷいっと顔を背けていた。
そこまでして刻まなくてもいいじゃないか。けれどこうして揶揄ってくるくらいには、しっかりと冨岡さんの記憶に刻み込まれているということだ。
「……すまない」
「…あ、いや、謝って欲しいわけじゃ……。その、ちゃんと気をつけますから。だから冨岡さんも気をつけて任務に行って来てくださいね。待ってます」
謝られたことに少し戸惑って、自分でも驚くような言葉が飛び出た。けれど嘘ではない。彼の無事を、本当に心から願っている。
冨岡さんはしばらく黙ってはいたが、今度こそ私の言葉にゆっくりと頷いてくれた。ちゃんと伝わったみたいで良かった。
「……最近、忙しそうだが」
「え、っと?」
思いがけない話の転換に、自分の声が宙を舞った。
今度は一体なんの話だろうと返す言葉を探していると、冨岡さんは少し目を伏せて続ける。
「…蝶屋敷に隊士がたくさん運び込まれているだろう。お前も手伝いをしているんじゃないのか」
「あ、えっと……一応……」
「眠れているか。前より、顔色が悪い」
そう、かな…。自分でも気が付かなかった。でも確かに、冨岡さんに言われて目の奥がずきりと痛むことを自覚する。
毎日眠れていないわけではない。昨日は少し遅くなってしまったけれど——。
顔色が悪いと言われて、思い当たる節が一つ。昨夜、運ばれてきた隊士のことだろう。
「たまたま昨日は眠れなかったんですけど、いつもはちゃんと寝てますよ」
「本当か」
「は、はい。寝てはいます。でも……」
言ってから、妙に頼りない言い方になってしまったと気づいた。冨岡さんの眉が少し寄せられる。
思い当たること。それは……昨夜運び込まれてきたその隊士が今朝、亡くなってしまったのだ。
昨夜みんなで治療を施したが間に合わずに、今朝静かに息を引き取ったのだという。
アオイさんが悲しそうに声を落としながら教えてくれた。昨夜初めて会った人だったが、それでも息が止まったように胸がざわついた。
“死”というものが急に手の届く距離に現れて、体温の奪われ方を知らない心だけが、うまく追いつけなかったのだ。
この世界に来てから、怪我や血を見ることたくさんはあったけれど、“戻ってこられなかった人”の話を聞いたのは初めてで。
その事実が、薄く冷えた膜のように胸にまだ残っていたのかもしれない。
「あの、昨夜、運び込まれた隊士の方が亡くなったみたいなんです…。面識はない方だったんですけど、はじめて人の死を間近に感じて少し動揺してるのかもしれません。……でも、冨岡さん鋭いですね。私、自分でも気付いてなかったのに」
口にしてみると、胸の奥の冷たさがほんの少しだけ形になる。
でも、残った寂しさや痛みはまだ指先の奥に溶けきらずに居座っていて、自分の弱さを彼に見せてしまったようで、少し後悔した。
本当はもっと強くありたい。誰かの死を前にしても揺るがない心でいたい。でもまだ、私はそれを受け止めきれるほど大人ではない。
目を伏せかけたとき、冨岡さんの声が落ちた。
「ここへお前を連れて来たのは俺だ。もし、辛いようなら……」
言葉の終わりが風に紛れる。
“無理をしなくていい”という道をそっと差し出す声。きっと彼は、私をここから逃がそうとしてくれている。
「辛い時だって、もちろんあります。でも」
言葉を遮るように顔を上げる。冨岡さんの澄んだ瞳が、思ったよりも近くにあった。
「私、ここのみんなと居るのが好きですよ。とても温かい場所で安心します。だから、冨岡さんにとても感謝してるんです。私をここに連れて来てくださったこと」
「本当か」
「はい、本当です」
短い言葉。でも、それで十分だった。言い切った瞬間、胸の奥の冷たい膜がようやく溶けていく。
冨岡さんがここに連れて来てくれたおかげで、私はこうして生き永らえているのだ。どう考えても、感謝しかない。
最初こそ、自分はここにいてもいいのだろうかと悩むこともあったが、もうここから離れられないくらいには、みんなのことが大好きになってしまった。
しばらくの沈黙。風が木を揺らす音と、落ち葉の乾いた匂い。
冨岡さんが、ほんのわずかに眼差しを柔らかくする。そして、ゆっくりと目をそらしながら言った。
「……なら、よかった」
私にも、ようやく笑みがこぼれる。
ここにいたいのなら、この現実から目を逸らしてはいけない。この場所にいるなら、私もきっと何かを覚悟しなくてはならない。
「…行く。戻ったらまた顔を出す。お前も早く屋敷に入るんだ」
冨岡さんはそう言うと、私が返事をするより早く歩き出してしまった。羽織の裾が揺れ、背中が少しずつ遠ざかっていく。振り返ることもなく、ただ確かな足取り。
なのに、その姿を見ているだけで、なぜか胸の奥が満たされた。竹箒を持ち直しながら、私はそっと息を吐く。
――優しい人だ。どうかご武運を。口には出さなかったけれど、そう祈る気持ちは、風より確かにそこにあった。
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