14


「リサさん、薬湯を三番の病室の方にお願いできますか」

朝の準備を終え台所へ向かう途中、その日もさっそく廊下の向こうからアオイさんの声がかかった。

「はい、すぐ行きます!」

返事をして小走りで歩み寄ると、湯気の立つお盆をそっと受け取る。

「温度、熱すぎないか確認してあります。よろしくお願いします」
「かしこまりました」

ふわり、と香る薬湯独特の匂い。冷めないうちに早く届けてあげよう。
落とさないよう注意しながら廊下を歩けば、すれ違う三人娘から「いってらっしゃいませー」と朗らかな笑顔で見送られた。

ここでの生活にも随分と馴染み、看病の手伝いも少しずつだがこなせるようになってきた。最初は薬草の名前も効能もさっぱり分からなかったが、今では頼まれた薬を間違えずに準備できるのはもちろんのこと。隊士たちの顔色を見て「痛みが強くて眠れていないかもしれない」といった変化にも、自分から気づけるようになってきている。
何より変わったのは、自分の気持ちだ。
この時代に対して抱いていた見えない恐怖は、いつの間にか薄れ、どこか昔懐かしいこの世界感を楽しむ余裕さえ生まれつつあった。

言われた通りに病室へ薬湯を届け、空いた器を回収し、洗濯物の片付けなど朝の用事を一通り終える頃には、すっかり日は高く上っていた。

「アオイさん、私次は門前の掃き掃除に行ってきますね」
「ありがとうございます。助かります」

時間があるし、できることはできるうちに終わらせてしまった方がいいだろう。
用具入れから竹箒を取り出して表の門へ向かうと、冷たい冬の風がひゅっと頬を撫でて思わず肩をすくめた。

「わ、寒い」

ふう、と白い息を吐き出すと、空からちらちらと白い粉雪が降ってくる。
…道理で寒いわけだ。本格的に降り出す前に、早く終わらせてしまったほうがいいだろう。
竹箒を構えて、カサ、カサと敷石の上の落ち葉を集め始める。こうしてのどかに落ち葉を掃いていると、ここが鬼のいる世界だなんて、今でもふと信じられなくなる。人の手で丁寧に紡がれる、静かな暮らし。穏やかな日々。
本当に、死んで過去に戻るなんて不思議なことがあるものだ。人生なんて、一体何が起こるか分からない。かつての私には想像もできなかったような変化が、毎日のように起こっている。
そして、もうひとつ。私の中で他にも大きく変わったことがあった。

敷石を踏み鳴らす静かな足音が聞こえて、ふと門の外へと視線を向ける。ちらつく雪の向こう、見慣れた人影が遠ざかっていくのが見えた。
…噂をすれば、だ。

「冨岡さん!」

慌てて駆け寄ると、冨岡さんが私に気づいて立ち止まってくれた。少しだけ身体をこちらへ向けてくれる。

「よ、よかった。間に合いました」
「…転ぶぞ」

思わず、といった風に降ってきた短い注意にも私は気に留めず、乱れた息のままぱっと顔を上げた。

「すみません、冨岡さんの姿が見えたのでつい……。あの、今日はどうされたんですか?お怪我をされたんですか?」

自分でも隠しきれていないと分かるほど、声に嬉しさが溢れ出てしまう。
そう。変わったこと。それは、冨岡さんの存在だ。
あの『鼻血事件』があってから、何かが変わった。格好悪いところも見せてしまったし、迷惑をかけたけれど、彼の不器用な優しさを知ることができた。
あの一件を経てから、私はほんの少しだけ、冨岡さんと仲良くなれたんじゃないかと思っている。図々しい自惚れかもしれないけれど、あれ以来姿を見かけるだけで心が跳ねて、どうしようもなく嬉しくなってしまうのだ。
こうして屋敷の周りで彼の姿を見かけると、私はなりふり構わず駆け寄ってしまうようになっていた。

「薬の補充に来ただけだ」

冨岡さんはいつも通りの無表情で淡々と答え、そっと一歩後ろへ退がった。さりげなく間合いを取られたことに気づいたけれど、今の私にはそんなことは関係ない。

「そうだったんですね。次はいつ蝶屋敷に来られますか?」
「しばらく来ない」
「そ、そうですか」

「来ない」って、すごくはっきり言うなあ。
冨岡さんは少しだけ眉をひそめ、静かで綺麗なその瞳でじっと私を見つめてくる。すると、私の後ろに小さく山盛りに集まった落ち葉に目を向けた。

「お前は、何をしていたんだ」
「あ、落ち葉がすぐに溜まってしまうので、掃き掃除を。毎日の日課なんです」

こうして話すようになって、分かったことがある。
冨岡さんは少し言葉選びがお堅くて、言葉そのものが極端に少ないけれど、実は周りのことを恐ろしいほどよく見ているということだ。
私の表情や些細な動作を見逃さず、淡々と必要な問いだけを投げかけ、確認が終われば深追いもせずにすっと引いていく。

「冨岡さんはお元気ですか?」
「……ああ。まだ動ける」

今度はこちらから尋ねてみたが、想像していた答えと斜め上に違っていて、私は少しだけ戸惑ってしまった。
ただ、普通に「元気だ」とか「変わりない」とか、そういう普通の答えが欲しかっただけなのだが。
そんな最終地点みたいな基準を、さも当然のことみたいに言われてもこ困るなあ、と可笑しくなって小さく笑ってしまう。

「そうだ。冨岡さん、何か温かいものでも召し上がって行きませんか?ほら、雪が降り始めてますし」
「必要ない。仕事に戻る」
「あ、そう、ですよね。お忙しいのにすみません。……あの!それなら怪我の具合は、もう大丈夫なんですか?前に三針縫ったって仰ってたので……」
「治った」
「そうですか!良かったです。あ、冨岡さんって冬でも隊服の上に羽織が一枚だけですけど、寒くはな……、」
「お前は」

ぽつり、と冨岡さんが私の言葉を遮るように口を開いた。

「問いが多いな」
「あ……ご、ごめんなさい」

それはそうだ。せっかく会えたのが嬉しいからって、舞い上がってあれもこれも質問を重ねてしまったら、冨岡さんだって困るに決まってる。
もともと多くを語るような人ではないから、話すこと自体あまり好きではないのかもしれない。

「お引き留めしてしまってごめんなさい。お気をつけて帰ってください」
「……ああ」
「また立ち寄られるのを待ってます」

短く返事をされて、私はへらりと笑った。
寂しくないと言えば嘘になるけれど、それでもどこか心が軽やかだったのは、私がこの屋敷にいる限り、彼とは絶対にまた会えるという確信があったから。怪我をすれば、あるいは薬の補充が必要になれば、彼は必ずここへ戻ってくる。
けれど、冨岡さんはすぐに踵を返そうとしなかった。その様子に首を傾げると、彼の視線が私の箒を握る手に落ちる。

「耳と手が赤い」
「あ、襟巻きもせずに出てきたので……」
「お前も早く中に入れ」
「はい。掃き掃除が終わったら、すぐに入ります」

門前を掃くだけだったから、防寒具はいらないかと思って。それに毎日のことだから。

「でも、繰り返しやってると寒さにも慣れてくるんですよ」

へらりと笑いながら答えると、冨岡さんは「それだ」と短く言った。

「それ?」
「そこまで手が赤くなるほど、しなければならないことでもないだろう」
「いえ、私はここでお世話になっている身なので、できることをやりたいです」

アオイさんやなほちゃんたちは毎日の看病や家事で忙しそうだから、彼女たちの手が回りきらない細かい作業を、私が率先して終わらせておきたいと思うのはごく自然な気持ちだった。
でも……。

「ふふ、冨岡さん……あはは」
「なぜ笑う」
「もちろん、嬉しいからです」

だって、それは私を気遣ってくれたということだから。
無用な苦労をしなくていいと、わざわざ足を止めて、手が赤くなるほど冷え切った私を案じて言葉をかけてくれたのだ。
冨岡さんは自分を優しくないと言うけれど、私から見ればすごく優しい人だ。

「今、私を心配してくださったんですよね?」

少しだけ首を傾げてそう尋ねると、冨岡さんはどこか気まずそうにほんの僅か視線を泳がせた。
彼の反応からするに、どうやら図星だったらしい。

「……お前は何かと危なっかしいからだ」

冨岡さんは居心地悪そうに片手で眉間を揉みながら、肩を落とす。
まあ、確かに。よくよく思い返してみれば、私は冨岡さんに対して心配されるようなことしかしてない。
初めて出会った夜、道端で凍えそうになっていたところを拾ってもらったのが最初だった。その後も、慣れない生活で高熱を出したときには部屋まで運んでもらったし、町で暴漢に絡まれたときにも絶体絶命のところで救ってもらった。極めつけは先日の、鼻から血を流して狼狽しているみっともない姿だ。
なぜ、そんな間抜けなところばかりを冨岡さんに見られてしまうのかは、自分でもさっぱり分からない。でも、不思議と嫌ではなかった。

「やっぱり冨岡さんは優しいです」
「俺をそんなふうに言うのはお前くらいだ」

私にとっての冨岡義勇という人は、間違いなくあの夜からずっと温かい人なのだ。
彼がどれだけ自分の優しさを否定しようとも、その言葉の裏にある温情を、私はもう知っている。

「それでも、私はそう思っていますよ」









そして私のまたすぐに会える、という予感は、案の定外れなかった。

「冨岡さん!」
「……またお前か」
「はい!今日はどういったご用件ですか?」

夕刻。取り入れたばかりの衣服を胸いっぱいに抱えながら廊下を歩いていると、見慣れた羽織を見つけ私は駆け寄っていた。
黄色と緑の幾何学模様。『毘沙門亀甲』柄と言うらしい。
駆け寄ると、冨岡さんは少しだけ眉根を寄せたが、そのまま足を止めて私の問いかけを待ってくれる。

「今から任務ですか?」
「そうだ」
「そうなんですね。任務前にお会いできてよかったです」

任務に向かう前にここへ立ち寄るということは、しのぶさんから傷薬や毒消しの類を受け取りに来たのだろう。
これから鬼の潜む闇の中へと足を踏み入れる直前だというのに、彼はいつものように気負う様子もなく、ただ淡々とそこにある。

「私はちょうど、取り入れた洗濯物を運んでいたところです」
「見れば分かる」
「あ、本当ですね」

真顔で指摘されて、私はへらりと笑う。
わざわざ言葉にしなくても一目瞭然なことを得意げに報告してしまった。けれど、冨岡さんは間の抜けた私の言葉にも、なんやかんやつき合ってくれる。

「……前が見えていないだろう」

冨岡さんは私の腕の中にうずたかく積まれた洗濯物の山を、どこか微妙な眼差しで見つめていた。私の鼻先まで覆い隠さんばかりの量で、正直なところとても重い。

「冨岡さんのことに気づけたので見えてますよ。それに一度に運んだ方が、何往復もするより楽なんです」

得意げに胸を張ってみせると、冨岡さんは返事代わりに深いため息をひとつ落とした。
いくら一回で終わらせたいからと言っても、少しみっともなかっただろうか。この時代の女の子らしくなかった?
以前、尾崎さんにも似たような横着をした際に「誰かに頼ってもいいのに」と笑い混じりに言われたのを思い出す。
でも、冨岡さんの前で格好悪いところを見せるのはこれが初めてではない。あの鼻血事件よりは随分とましだ。だからきっと大丈夫、なんて言ったらまた呆れられてしまうだろうか。

「今回はどちらまで行かれるんですか?」
「北の山だ。二日ほどかかる」
「そんなに遠くまで?お忙しいですね……」

行くのだけでもそれだけの時間がかかるということは、移動や調査を含めればしばらくの間ここには立ち寄れないということだ。
鬼の被害は全国に及んでいるのだから、遠方への任務も致し方ないのかもしれない。特に冨岡さんたち「柱」と呼ばれる剣士となれば、どこでも駆けつけなければならないのだろう。
そういえば、しのぶさんも一度遠出をすると数日から一週間ほど帰ってこないことがあるのを思い出す。
でも、分からないや。本当のところは何も。私はまだ、鬼殺隊という組織の仕組みをぜんぜん知らないから。

「気をつけて行ってきてくださいね」

道中の無事を願って頭を下げた、その時。お辞儀をしたことで腕の角度が変わり、胸元に積まれていた洗濯物の山がバランスを崩した。

「あ」

ぎりぎりの均衡感覚で積み上げていたそれは、こうして角度を変えれば崩れるのは道理だった。
隊服が数着、はらりと廊下の床へ落ちてしまう。しかし、冨岡さんが無言のまま屈み込み、床に落ちた衣類を大きな手でさっと拾い上げてくれた。

「す、すみません。ありがとうございます」

冨岡さんは何も言わずに、その隊服を私の腕の中の洗濯物の山の一番上へ、ぽんと重ねて乗せてくれる。
ただでさえ限界だった視界が完全に塞がり、目の前は一面の布地になった。

「冨岡さん、前がまったく見えなくなりました」
「落ちたから乗せた」

布の隙間から顔を覗かせて冨岡さんを見ると、彼は相変わらず無表情のままだ。けれど、言葉に出さずとも何を考えているかが伝わってくる。
「横着して一度に運ぶからだ」冨岡さんは今、絶対にそう思っているはずだ。分かる。彼のその整ったお顔に、はっきりとそう書いてある。

「一回で持っていった方が効率がいいんです!」
「……」
「あ、いま私のこと間抜けだって思いましたね?」
「……」

どこまでも無表情を貫こうとする冨岡さんだったけれど、視線をほんの少しだけ明後日の方向へ逸らしたのが、私には答え合わせのように思えてならない。

「そうだ、冨岡さん次はいつ蝶屋敷に来られるんですか?」

落ちそうになっている手ぬぐいの一端を、顎で押さえつける。
任務や怪我の具合によって予定は変わるのだろうけれど、いつものように問いかけた。冨岡さんは少しだけ視線を上に向けるような仕草をしたあと、変わらない静かな声で答える。

「しばらく来ない」
「はい!分かりました」

満面の笑みを浮かべて私は頷いた。

「ご武運を!」

何だかんだまた顔を出してくれることを、私はもう知っている。
風に揺れる羽織とともに歩み去っていく背中。どれだけ「来ない」と言われようと、彼が帰ってくる場所のひとつにここがあるのだという揺るぎない安心感が、私の胸を温かく満たしていた。



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