14
「リサさん、薬湯を3番の病室の方にお願いできますか」
朝の準備を終え台所へ向かう途中、その日もさっそく廊下の向こうからアオイさんの声がかかった。
「はい!」と返事をして、お盆を抱えながら歩けば、すれ違う三人娘が「いってらっしゃいませー」と笑ってくれる。
ここでの生活にも随分と馴染み、隊士の看病のお手伝いも少しずつだがお手のものになってきた。
病室へ薬湯を届け、空いた器を回収し、洗濯物の片付けなど朝の用事を一通り終える頃には、すっかりお日様も高く昇っていた。
「アオイさん、門の前の掃き掃除に行ってきますね」
「はい。お願いします」
声をかけて竹箒を手に取り、表の門へと向かう。一歩外へ出ると、ツンと尖った冷たい空気が容赦なく肌を刺した。
白い息を小さく吐き出しながら、昨晩の風で散った落ち葉を丁寧に一箇所へと集めていく。時折、遠くの通りから物売りの声がかすかに聞こえてくるくらいで、辺りは驚くほど穏やかで平和だ。
カサ、カサ、と竹箒を動かしていると、ふいに敷石を踏む足音が聞こえて視線を上げた。
「あ、冨岡さん……!」
気づいて声をかけると、冨岡さんはいつも通りの無表情な顔をこちらに向けた。そのまま見慣れた半々羽織を小さく揺らしながら、こちらへ向かって歩いてくる。
「こんにちは!」
嬉しくてつい大きめの声で挨拶をすると、冨岡さんは私の前でぴたりと足を止めた。そして、小さく山盛りに集まった落ち葉の山に視線を落とす。
「お前は、門の前をよく掃いているな」
「はい。落ち葉がすぐに溜まってしまうので、毎日の日課なんです」
箒を握り直して微笑むと、冨岡さんは「そうか」と短く頷いた。
「今日は、どういったご用件ですか?またしのぶさんにお薬をもらいに?」
「いや……今日は近くまで任務で来ただけだ」
相変わらず言葉数は少なくて、何を考えているのか分かりづらい。
けれどそんな彼のぶっきらぼうな返事を聞きながら、私は胸の内でそっと小さな疑問を浮かべていた。
少し前に尾崎さんから聞いた話だと、鬼殺隊の最高位である『柱』という存在は、信じられないほどに多忙を極める毎日を送っているらしい。
それぞれに担当している地区のようなものもあるらしく、任務から任務へと飛び回る日々で、こうして同じ人に何度も会えること自体、本来なら滅多にない稀なことなのだそうだ。
それなのにだ。あの日、鼻血を出した一件以来、なぜか冨岡さんが私の前に姿を現すことが明らかに増えていた。
近くの任務って、そんなに何回もあるものなのだろうか。もちろん、ただの偶然かもしれない。けれどそんな風に首を傾げつつも、彼の姿を見かけるたびに私の心がじんわりと温かくなるのは間違いなかった。
「お前は、息災か」
ふいに、冨岡さんがまっすぐ私を見つめてそう問いかけてきた。
「そく……?」
聞き慣れない言葉に一瞬頭の上に疑問符が浮かぶ。
息災。ええと、たしか病気をしないで元気に暮らす、という意味だったはずだ。
「あ、はい!元気です」
「ならいい」
私がなんとか意味を汲み取って笑顔で答えると、冨岡さんは小さく息を吐いて満足そうに頷いた。言葉選びが少しお堅いけれど、体調を気遣ってくれているのだと分かるとやっぱり嬉しい。
「冨岡さんこそお元気ですか?」
「……ああ。まだ動ける」
今度はこちらから尋ねてみたが、想像していた答えと斜め上に違っていて、私は少しだけ戸惑ってしまった。
ただ、普通に「元気だ」とか「変わりない」とか、そういう普通の答えが欲しかっただけなんだけど。
そんな最終地点みたいな過酷な基準を、さも当然のことみたいに淡々と言われてもこ困るなあ、と可笑しくなって小さく笑ってしまう。
「お前は、よくやっていると思う」
ふいに、冨岡さんが落ち葉の山を見つめたまま、ぽつりとそう呟いた。
「え……?」
あまりにも唐突な褒め言葉に、私は思わず箒を持つ手を止めてしまう。
な、何ですか急に。
「胡蝶からも聞いた。お前が毎日、屋敷の用事や隊士たちの看病を一生懸命に手伝っていると」
「あ、いえ、そんな……!私はここでただお世話になっているだけですし、できることをやっているだけで……」
まさかしのぶさんがそんな風に私のことを話してくれていたなんて。それ以上に、あの冨岡さんから直にそんな言葉を掛けられるなんて夢にも思わなくて、私はすっかり慌ててしまった。
けれど、冨岡さんは私の動揺など気にする様子もなく、静かな瞳をまっすぐに私へと向けてくる。
「褒めているんだ」
「な、なぜですか……?」
本当に、どうしてしまったのだろう。いつものぶっきらぼうな冨岡さんとは違って、今日の彼はどこか言葉を選びながら慎重に話そうとしてくれているような、不思議な柔らかさがあった。
冨岡さんは一度小さく視線を落とし、それから少しだけ決まずそうな、申し訳なさそうな色をその綺麗な瞳に滲ませる。
「以前、町でお前に、少しきついことを言った」
「え……」
「お前は隊士でもないのに。問題点などと。……すまなかった」
あ……。心臓が、トントンと不規則に脈打つ。
それは、私が路地裏で暴漢に絡まれたあの日、助けてくれた彼に言われた言葉だった。
『お前の問題点が分かった。一人で抱え込みすぎるところがある。それに、人に頼るのが致命的に下手だ。警戒心もまるで足りない』
あれは彼なりの、戦う術を持たない私への精一杯の警告であり気遣いだったのだと、ちゃんと分かる。
当の彼は、ずっとその時のことを気に病んでいたのだろうか。お前は警戒心が薄すぎると、そんな風に心配してくれていた彼が。
「ふふ、冨岡さん……あはは」
謝られるようなことなんて、本当に何もないのに。私があの言葉にどれほど救われたか。こうして今ここにいられるのも、あのやり取りがあったからこそなのに。
「なぜ、そんな風に笑うんだ」
私の反応が予想外だったのか、冨岡さんは少しだけ眉をひそめて、不思議そうにこちらを覗き込んできた。
「もちろん、嬉しいからです」
「嬉しい……?」
本当に分からない、といったふうに瞬きを繰り返すその姿が、なんだか新鮮で可笑しかった。
「たとえ、それが冨岡さんなりの気休めというか、偽りだったとしても、そうやって私のことを見て、褒めていただけるのは本当に嬉しいです。嬉しいですよ、とても」
「偽りではない。俺は、嘘は言わない」
すぐに真っ直ぐな反論が返ってくる。そのあまりの生真面目さに、私の胸の内はますます甘酸っぱい熱でいっぱいになっていった。
「ふふ、そうですね。冨岡さんはお世辞なんて仰らない方ですもんね。だからこそ、余計に嬉しいんです」
「嬉しい、のか」
まだどこか納得がいかないのか、冨岡さんは落ち葉の山へ視線を戻し小さく呟いた。そして、何かをじっと深く確かめるように、再びその端正な顔をこちらへ向ける。
「お前は、自分が思っている以上に肝が座ってる。道具の扱いも丁寧だ。それに、嫌な顔一つせずにこうして朝早くからよく働いている。お前が来てから、この屋敷の空気は明らかに柔らかくなった」
「え……っ?」
ぽつり、ぽつりと、淀みのない声で次から次へと紡がれる言葉。
「あ、えっと……」
あまりの怒涛の称賛に、私の思考は完全に真っ白になってしまった。
ただの気休めや、昔の小言を帳消しにするための社交辞令なら、こんなに具体的なことまで言えるはずがない。本当に、私のことを見てくれていなければ出てこない言葉ばかりだ。
それは…少し話が変わってくる。最初は「滅多に人を褒めない冨岡さんに褒められた」という珍しさに余裕があった。けれど、こんなに真っ直ぐにたくさんの「良いところ」を並べ立てられるなんて、聞いていない。
嬉しい、を通り越して気恥ずかしさで心臓の音がうるさくて堪らなくなってしまう。
冷たい冬の風が吹いているはずなのに、耳の裏までじわじわと熱くなっていくのが自分でもよく分かった。きっと今、私は林檎みたいに顔を真っ赤に染めている。
そんな私の様子を、冨岡さんは逃さずにじっと見つめていた。そして、ふっと微かに、本当に僅かだけれど、その形の良い唇の端を和らげたのである。
「……お前は、褒めるとそういう顔をするのか」
覗き込むようにして呟かれたその声は、どこか悪戯っぽく、けれど酷く優しく私の
*
冨岡さんがおかしい。おかしい気がする。
いや、本当のことを言えば、おかしなことになっているのは私の頭の方かもしれない、とも思う。
あの門前での一件があったあの日から、何かがずっと狂ったままだ。冨岡さんがただそこに佇んでいるだけで、私の心臓は勝手にうるさく脈打ち、以前のように普通に話すことさえ難しくなってしまった。
冨岡さんが私の前に現れるたびに、頭の中が真っ白になって視線のやり場に困るなんて、私の方こそどうかしている。
だけど、それを差し引いても、やっぱり最近の冨岡さんはどこか奇妙だった。絶対にそうだ。
なんだか妙に、きらきらと輝いて見えるし。なんだか妙に、良い匂いがするし。
あの切れ上がった涼しげな目元や、綺麗に整った鼻筋ばかりが、私の視線を吸い寄せるようになってしまった。
隊服の襟元から覗く首筋を見て、あ、肌がとても白いんだなとか。羽織を揺らして歩く後ろ姿を見て、あ、肩幅が広いんだなとか。細部まで信じられないほど鮮明に頭に焼き付いて離れない。
これは絶対におかしいのだ。これ以上正面から向き合えないと思う反面、次に彼はいつ来てくれるのだろうと、勝手口の戸に視線を向けてしまう自分が、どうしようもなく嫌だ。まさか、待っているとでもいうのか。多忙を極めた柱を。
そんな風に一人で悶々と悩んでいた、数日後のことだった。その日も、冨岡さんは何の前触れもなく、ふらりと屋敷の裏手に姿を現した。
その姿を認めた瞬間、やっぱり私の心臓はうるさく跳ねて、頭が真っ白になりかける。けれど、このまま理由も分からずに一人で勝手にドギマギしているのにも、いい加減限界だった。
私は意を決して、歩み寄ってきた冨岡さんへと思い切って尋ねた。
「それでですね。あの、冨岡さん。……その、お忙しくはないのですか?」
「忙しい?」
私の突飛な問いかけに、冨岡さんは不思議そうに首を傾げた。その切れ上がった美しい瞳に真っ直ぐ見つめられると、それだけで怖気づきそうになるけれど、私は必死に言葉を続ける。
「はい。その……人から聞いたお話なんですけど、柱の方というのは、信じられないくらいに多忙で、任務で毎日あちこちを飛び回っていると伺いました。なのに、最近はこうして前よりもよく冨岡さんのお姿をお見かけするので……。その、お姿を見られて、嬉しい、んですけど。もし、無理をなさっているのなら……」
最後の方は、自分の口から出た「嬉しい」という言葉の気恥ずかしさに負けて、どんどん声が小さくなってしまった。
けれど、冨岡さんは表情一つ変えないまま、ただじっと私を見つめている。耐えられなくなって俯きながら、私は自分のこれまでの行動をよくよく振り返ってみた。
――そうだ。よくよく考えてみれば、私は冨岡さんに対して、心配されるようなことしかしてない。
初めて出会ったあの冷たい夜、道端で凍えそうになっていたところを拾ってもらったのが最初だった。その後も、慣れない生活で高熱を出したときには部屋まで運んでもらったし、町で暴漢に絡まれたときにも絶体絶命のところで救ってもらった。極めつけは先日の、鼻から血を流して狼狽しているみっともない姿だ。
なぜ、そんな間抜けなところばかりを冨岡さんに見られてしまうのかは、自分でもさっぱり分からない。
けれど、だからだろう。きっと、彼は私のことを「放っておいたら何をやらかすか分からない、危なっかしい娘」として、ひどく心配してくれているのだ。
度重なる任務の合間を縫って、わざわざこうして様子を見に来てくれるのも、きっと優しさゆえの行動に違いない。
「その……申し訳ないというか、私のことはどうぞ放っておいていただいて大丈夫ですから……」
俯いたまま、私は絞り出すようにそう言葉を続けた。
「冨岡さんには、もう十分すぎるほど助けていただいていますし、今はこうして蝶屋敷の皆さんに温かく守られています。だから、どうか私の心配などはなさらずに、私にかけるお時間があるなら少しでもお家で休んでいただきたいなと……」
これ以上、彼の貴重な休息の時間を削らせてしまうわけにはいかない。それに、こんな風に何度も目の前に現れられたら、私の心臓のほうが本当にどうかなってしまう。
「私はもう、一人でちゃんとやっていけますから」
自分に言い聞かせるように、そう結んだ。冬の終わりの柔らかな風が、私たちの間を静かに吹き抜けていく。
言い切ってしまったあとの沈黙が怖くて、地面を見つめたまま竹箒の柄を握る指先にぎゅっと力を込める。
「……ひとつ、聞くが」
頭上から降ってきたいつもより低いに、私は思わず肩をびくりと跳ね上げた。
「俺は、そんなに仕事が遅そうに見えるか」
「め、滅相もありませんっ!」
予想の斜め上を突っ走る問いかけに、全力で首を横に振った。
な、なぜそんな話になってしまうのだろう。
「と、冨岡さんがお仕事が遅いだなんて、そんなことこれっぽっちも思っていません!むしろ、その逆です!」
むしろ仕事が早すぎて、常人の何倍もの速度で片付けてるようにしか見えない。
尾崎さんから聞いた、鬼の恐ろしさやそれを討つ柱の超人染みた強さ。それを考えれば、冨岡さんが無理をしているというより、驚異的な速度で任務を終わらせて、その余った時間でここへ来ていると考えるほうが、よっぽど自然だ。
「俺は、自分の任務を滞らせたことはない。割り振られた地区の巡回も、すべて定刻通りに終えている」
「は、はい。存じ上げてます……!」
「ならば、俺がここへ来ることに何の問題がある」
冨岡さんは大真面目な顔で、さも当然のことのようにそう言い放った。
その真っ直ぐすぎる正論――いや、正論なのかはもう私の頭では判断がつかないけれど――に、私は完全に言葉を詰まらせてしまう。
「それも、そう、ですね……」
確かに、任務を完璧に終わらせているのなら、そのあとの時間をどう使おうが完全に冨岡さんの自由だ。何も間違っていない。
――って。いやいや、そうじゃない。はっと我に返り、私は心の中で自分の頬を思い切り引っ叩いた。
いくら任務が早く終わるからって、その貴重な自由時間を、どうしてわざわざ私なんかのために使っちゃうの、っていう話で…。
「お前は一人でちゃんとやっていけると言ったが、暴漢に絡まれ、先日は鼻から血を出しておきながらよく言う」
「うっ……そ、それは、不可抗力というか、足がもつれてしまって……」
「危なっかしい。放っておけない」
どこまでも大真面目な顔で、まるでそれが義務でもあるかのように淡々と言い切られてしまう。
そんな当たり前のように言われてしまったら、こちらとしてはもう何も言い返せない。
「その……私としては、冨岡さんにご迷惑をおかけしたくなくて……」
「この際だから聞くが、お前の言うその『迷惑』とは、具体的に何を指しているんだ」
冨岡さんの言葉にぱちりと目を瞬かせた。
今までようにあっさりと流されると思っていたのに、冨岡さんから思いがけず問いかけられて、一瞬言葉が止まる。
私の言う、冨岡さんにかけている迷惑とは。
「……すごくお忙しいのに、こうして何度も私の様子を見に足を運ばせてしまっていますし。お会いするたびに何かと助けていただいてますし。それに、先日は鼻から血を流して大騒ぎして、余計な心配までおかけしてしまって……。そんな風に、私のことで何度も冨岡さんの手を煩わせてしまって申し訳ないです」
「それだけか?」
「はい?」
それだけ、か?私は今、結構な大真面目で自分の不甲斐なさを告白したつもりだったのだけれど、目の前の冨岡さんは少しも表情を変えないまま、ただじっと私を見つめている。
「お前が俺にかけたというその『迷惑』は、それだけか、と聞いている」
「……それだけ、と言われても、私にとってはどれも本当に申し訳ないことで……」
なおも視線を彷徨わせる私を、冨岡さんはじっと見つめていた。そして、ほんの少しだけ声音を低くして、核心を突くように呟く。
「お前は、俺に気を使っているのか」
「いえ、そういうわけでは……冨岡さんとお話するのは楽しいです」
「それと一緒だ」
は、と間の抜けた声が口から零れた。
「ならば、何の問題もない。巡回は終わっている。俺はここへ来る。お前はここで掃き掃除を続ける。それでいいはずだ」
それでいいはずだと、すっかり話を締めくくるように頷かれてしまい、私は今度こそ完全に言葉を失ってしまった。
完全に、この人の論理に丸め込まれてしまっている。迷惑ではない。来るのは自分の意思。不都合もない。
確かに、一つ一つの要素を分解していけば、私が引き下がる以外の選択肢なんてどこにも残されていなかった。
いや、絶対に何かおかしい。おかしいんだけどな…。
結局、何一つ解決していない気がするのに、これ以上言葉を重ねてもすべて冨岡さんの「何の問題がある」の一言で一蹴されてしまうのが目に見えていた。
隣に並び、集まった落ち葉の山をじっと見つめる半々羽織の横顔を盗み見ながら、私は小さくため息をつく。
「……分かりました。お仕事の邪魔になっていないのなら、もう何も言いません」
「それでいい」
満足そうに短く応じた冨岡さんを見て、私はもう一度だけ心の中で深くため息をついた。
この人に敵いそうもない。そう諦め半分に竹箒を握り直すものの、隣にいる冨岡さんの存在があまりにも近くて、やっぱり頬がじんわりと熱くなっていくのだった。
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