15


洗いたての水分を含んだ隊服は、驚くほどに重い。
鬼殺隊の隊服は、特別な繊維で織られているのだとアオイさんから聞いたことがある。下級の鬼の爪や牙なら通さないほど頑丈に作られているらしく、生地がとにかく分厚くて、しっかりとしているのだ。
けれどその頑丈さは、洗濯する身にとってはなかなかの強敵だった。

「んしょ、……っ」

冷たい水で満たされた木桶に隊服を沈め、ごしごしと力を込めて押し洗いをする。
冬の終わりの井戸水は容赦なく体温を奪っていき、冷たいのを通り越して、指先がじんじんと痺れるように悴んでいく。それでも、命懸けで戦う隊士たちの汚れを少しでも落としたい一心で、私は何度も息を吹きかけて手を温めながら、一生懸命に手を動かし続けた。
ザブ、ザブ、と水音を響かせていると、ふいに井戸の裏手にある物置の影から、見知った声が風に乗って聞こえてくる。

「……後藤さん。そういえば、聞きましたか?」

それは現在蝶屋敷で療養中の、まだ年若い新人の隊士の声だった。
どうやら、事後処理部隊である『隠』の後藤さんと一緒に、何か用事で物置に荷物を取りに来たらしい。二人の位置からは、ちょうど大きな井戸の枠が死角になっていて、こちらに気づいていないようだった。

「あぁ?何がだよ」

少し低くて、いつも気苦労が絶えなそうな後藤さんの声が応じる。

「いや、その……水柱様の、冨岡さんの噂なんですけど」

思わず、心臓がトクンと跳ねた。動かしていた手を、自覚もないままぴたりと止めてしまう。

「水柱?」
「はい。最近、あの冨岡さんが、任務の合間にやたらと蝶屋敷に出入りしてるって、他の隊士たちの間でも密かに話題になってるんですよ」

若い隊士くんは、周囲を気にするように少し声を潜めながらも、興味津々といった風に言葉を続けた。

「それが、最近じゃ自分の担当地区の巡回を超人的な速度で終わらせて、そのまま蝶屋敷に向かってるらしくて。何か特別な用事でもあるんじゃないかって。まさか、胡蝶さんと恋仲なんじゃ、とか……」

冷たい水に浸かったままの私の手が、微かに震える。
任務を、超人的な速度で……巡回を、定刻通りに……。
だから言ったのに。噂話になってしまってるじゃないか。「何の問題がある」なんて堂々と言い放っていたけど、問題は大ありだった。
しっかり他の方々に不審がられて、噂にまでなってしまっている。柱である人が最近やたらと蝶屋敷に出没するとなれば、それは隊士や隠の皆さんだって「一体何事だ」と不審に思うに決まってる。
何が『それでいいはずだ』だ!全然よくないです。しっかり怪しまれてますよ、冨岡さん…!
もしこれが、私のようなただの居候の様子を見るためだと知られたら、それこそどんな目で見られるか分かったものではない。

「ばっ、お前、滅多なこと言うんじゃねぇよ!」

その時、後藤さんの焦ったような、鋭い叱咤の声が飛んだ。

「胡蝶様と水柱なわけねぇだろ。あの二人が揃うと、大体いつも胡蝶様が笑顔でチクチク攻撃して、水柱が無言で受け流すっていう不毛な時間しか流れねぇんだから。……それにここは蝶屋敷だぞ!誰が話を聞いてるか分かんねえから、発言には気をつけるんだな!」

後藤さんは荷物を整理するようなガサゴソとした音を立てながら、ふぅと深い溜め息をついた。

「これだから最近の新人はよ……。柱の方々のことを、そこらの近所の兄ちゃん姉ちゃんみたいに噂すんじゃねぇ。任務の間を縫ってわざわざ足を運ばれてるんだから、それ相応の重大な密談なり何なりがあるに決まってんだろ」
「は、はい……そうですよね!すみません。俺、つい……」
「分かったらさっさと手を動かせ。胡蝶様に睨まれたら、お前らの回復訓練が今の三倍は厳しくなるぞ」

後藤さんの容赦のない、どこか現実味を帯びたお説教に、若い隊士くんは「うぇっ」と小さく情けない声を漏らしていた。
物置の影から聞こえるやり取りを耳にしながら、私は木桶の縁を握る指先に、さらにぎゅっと力を込める。
彼がここに来ている理由がまさか、ただの居候が「先日鼻から血を出していたから」なんていう、危なっかしい娘を心配するためだけの私的な理由だなんて、口が裂けても言えない。
もしそんなことが世界の皆さんに知られたら、私はきっと、世界中の申し訳なさを集めたって足りないくらいに縮こまってしまう。

「あ、でも、後藤さん」

お説教が終わって静かになるかと思いきや、若い隊士くんが、今度は少し声を弾ませて別の話題を切り出してきた。

「じゃあもう一つ、別の噂は知ってます?最近、隊士たちの間で密かに持ちきりの、『蝶屋敷の天使』の噂なんですけど」
「あん?何だそりゃ」

後藤さんの声には、明らかにめんどくさそうな、少しだけ訝しむような響きが混ざっていた。

「天使って、お前、ここは神聖な教会か何かかよ。アオイちゃんや三人娘ならいつもいるだろ」
「違いますよ!アオイさんたちとは別で、少し前からここに新しく入った隊士ではない子のことです。なんでも、朝早くから一生懸命に屋敷の仕事を手伝ってくれて、怪我人にもすごく細やかに優しく声をかけてくれる、とんでもなく健気で可愛い子がいるって、療養病棟の奴らの間でめちゃくちゃ噂になってるんですよ!」

…え。新しく入った、隊士ではない、とんでもなく健気で可愛い女の子。
…あ、もしかして、カナヲさんのことかな?私の頭に、真っ先に浮かんだのはその名前だった。
カナヲさんはいつも物静かで可憐で、まるでお人形さんのように綺麗な女の子だ。最近はアオイさんたちと一緒に屋敷の用事を手伝っている姿もよく見かけるし、あの澄んだ瞳でじっと見つめられたら、どんなに手負いの隊士くんたちだって心が洗われるに決まっている。
少し前にアオイさんから彼女の生い立ちについて少しだけ聞いたけれど、それを思えば「健気」という言葉もこれ以上ないほどぴったりだ。
なるほど、あんなに素敵で綺麗な女の子なら、隊士の皆さんが『天使』なんて呼びたくなる気持ちも本当によく分かる。

「へぇ、そんな噂がな……」

後藤さんは心底面倒くさそう声を漏らした。

「まぁ、確かに?日々死闘を繰り広げてる隊士なら?そういう噂の一つや二つないとやってけないだろうな」
「そうなんですよ!だからみんな、少しでも長くその子と話したくて、無駄に病室の呼び鈴を鳴らしたりしてるらしいんです」

そんな微笑ましい噂話に、私は木桶に手を浸したままふふ、と心の中で小さく微笑んでしまった。
まさか当のカナヲさんが、そんな風に裏で熱烈に崇拝されているなんて夢にも思っていないだろう。
次に見かけしたときは、ちょっとだけ声をかけてみようかな、なんて呑気なことを考えたその時だった。
これ以上冷たい水に指先を浸していられなくなって、私は隊服を絞ろうと一気に力を込めて持ち上げたのだが。水分をたっぷりと吸い込んだ生地は、想像以上の重さでずしりと腕にのしかかる。

「――わ、っ」

悴んだ指先が、濡れた布地の上でつるりと滑った。
バランスを崩した拍子に、私の肘が大きな木桶の縁を思い切り押し出してしまう。がしゃん、と派手な音を立てて桶が傾き、冷たい水が勢いよく地面へと溢れ出した。
やってしまった、という絶望とともに、井戸の裏手からの気配もぴたりと、静まり返ったのが分かった。

「あ……」
「あ、」

おそるおそる視線を向けると、物置の影から後藤さんと若い隊士くんが揃ってぬっと顔を覗かせるところだった。
完全に、目が合ってしまった。盗み聞きをしていた気まずさと、盛大に水を溢した恥ずかしさで、私は嫌な汗をかく。
向こうの二人も、まさかすぐ近くに人がいたとは思わなかったようで、目を見開いたまま完全に固まっていた。

「も、もしかして、て、てん――むぐっ!?」
「馬鹿野郎お前は静かにしてろっ!!」

言いかけるより早く、後藤さんが般若のような恐ろしい形相で、隊士くんの背後からその口をがっしりと手で塞ぎ込んだ。
ごふっ、ごふっと呻く隊士くんを後藤さんは全力の力で羽交い締めにしながら、視線をどこか私の後ろへと向ける。

「あ、いや!今のはその、こいつの寝言っていうか、ただの妄想でして!他意はねぇんです、決して他意は……!」

後藤さんは大慌てで言い訳を並べ立てながら、ジタバタと暴れる隊士くんを引きずるようにして、ずるずると物置の影へと引っ込んでいく。その時だった。
ぽん、と私の両肩に軽い手のひらが乗る。驚いて振り向くと、そこにはいつもの穏やかな笑みを浮かべたしのぶさんの姿があった。

「あ、しのぶさん……」
「こんにちは」

淡い蝶の柄の羽織が、冬の空気の中でふわりと揺れる。

「なんのお話をされていたんですか?私も混ぜてください」

にこり、と微笑む彼女の声は穏やかそのものなのに、後藤さんと隊士くんの二人はわかりやすく慌て出した。

「い、いや、なんでもないっす……!」
「その、俺らまだやることがあるので……で、では……!!ほら、行くぞ!!」

そのまま、ほとんど逃げるような足取りで去っていってしまった。
私は桶のそばに立ったまま、ぽかんとその背中を見送る。彼らの反応といい、しのぶさんの登場といい、なぜかどこか取り残されたような気分だ。

「しのぶさん……お戻りでしたか」

問いかけるとしのぶさんはにっこりと笑い、私の肩から手を離した。
風が通るたび、しのぶさんから藤の花の匂いがする。近くの薬屋から戻ってきたのかな。

「どうしてこちらに?」
「虫除けですよ」
「……え?」
「簡単に言い寄られては困りますから」
「……言い寄る?」

何の虫?言い寄られたら困るって?まだ冬だから虫が湧く季節でもないような…。
頭の中にいくつもの疑問符が浮かぶが、しのぶさんはそんな私の困惑などあらかじめ知っているみたいに、淡々と話を続けた。

「お洗濯お疲れさま。指先真っ赤ですね。風邪を引かないように、早めに屋敷へ入りましょうね」
「は、はい……」
「それにしてもリサさん。最近少しずつみんなと仲良くなってきましたね。……悪い虫も、そろそろつき始める頃かしら」
「虫?」

さらりとした声色で、また虫の話を始める。また首を傾げた私に、彼女は洗濯物に落ちた落ち葉の欠片を指先で払いながらふわりと笑った。
その笑みはいつもと同じ、優しくて穏やかなのに、なぜだろう。背筋がひやりとするのは。

「悪い虫……って、えっと……」
「ふふ。特に意味はありませんよ。ただ――」

彼女は一歩だけ私に近づいて、声を少し落とす。ふいに、視界いっぱいにしのぶさんの顔が浮かび上がって、その圧倒的な美しさに胸がどきりとした。

「心配なんです。あの朴念仁でさえ、つい気を取られているみたいですし」
「ぼ、ぼく……?」
「はい。だから、虫除けです」

そう言って、まるで当たり前のように微笑む。けれどその瞳の奥には、どこか静かで、鋭い何かが潜んでいる気がした。
何かを聞き逃した気がしてならない。聞き返したいのに、でも聞き返してはいけないような。
迷っているその間に、しのぶさんはくるりと踵を返して行ってしまう。

「さ、戻りましょう。風邪を引くとアオイに叱られてしまいますよ」
「えっと。は、はい……!」

結局、最後までしのぶさんの言葉の真意はよくわからないまま。彼女の軽やかな足音を私は追いかけた。








西の空が茜色から次第に深い紫へと溶けていく、そんな夕暮れ時のことだった。ちいさな畳の一室に、行灯の柔らかな光が灯る。
私はアオイさんと向かい合わせに座り、隊士たちが戦いで破いてきた隊服や、屋敷で使う寝着のほつれを、一針一針丁寧に縫い合わせていた。
パチリ、と静かに行灯の爆ぜる音が響く。外からは冷えぶかくなった風が木々を揺らす音が聞こえ、私は思わず小さく肩をすくめた。

「……すっかり夕方になって、また冷え込んできましたね」
「そうですね。冬の終わりは油断するとすぐに体調を崩すから、部屋を暖かくしておかないと」

アオイさんは慣れた手つきで手元の針を動かしながら、きびきびとした口調で応じる。
その横顔を見つめながら、私は先ほど井戸端で耳にした、後藤さんたちの会話を思い返していた。

「……こうして寒い日も、鬼殺隊の皆さんは外で任務をされているんですよね」
「はい。冬は特に夜が長いから大変なんです」

本当にそんな過酷な夜を越えて、あの人は私の前に平然と姿を現していたのだろうか。
私は小さく息を吸い込み、手元に落としていた視線をアオイさんへと向けた。

「あの、アオイさん。鬼殺隊の任務って、普段はどんなふうに行われているんですか?」
「……リサさんからそんなことを聞いてくるなんて、珍しいですね」
「あ……すみません、急に。でも、みなさんがどんなふうに働いているのか、ふと気になってしまって」

慌てて取り繕うように笑みを浮かべたけれど、嘘ではない。
知りたいのだ。あの端正な顔に一切の疲労を見せず、「無理はしていない」と淡々と言い切ったあの人の、その言葉の裏側にある本当の重さを。
アオイさんは少しだけ表情を和らげると、再び布地に針を刺した。シュッ、と糸が擦れる小気味いい音が、部屋に優しく響く。

「そうですね……基本的には、鎹鴉から伝令が来ます。鬼の目撃情報や被害の知らせを受けて、任務に向かうんです。数人で向かうこともあれば、一人で行くこともあります」
「一人で行くこともあるんですか?」
「はい。鬼が出る場所はまばらで、対応できる隊士が限られていることも多いですから。だから、どうしても単独行動になりがちです」

――単独行動。
尾崎さん、大丈夫かな。同じ女の子でありながら、命懸けで戦線へ赴く彼女のことは、友達としていつも本当に心配だった。
普通の隊士でさえ、怪我を負い、命を削りながら必死に戦っている過酷な世界。
そのさらに頂点に立つ人は、どのように任務をこなしているのだろう。

「……じゃあ、柱の方々も、同じように任務を?」

気づけば、私は焦燥感に急かされるようにして、アオイさんへと言葉を重ねて問いかけていた。

「柱の方々は少し違います」

アオイさんは手元を見つめたまま、声音を少し落とした。そのトーンの変化に、私は知らず知らずのうちに息を呑む。

「彼らには担当地区が割り当てられていて、警備する範囲は普通の隊士よりもずっと広いです。当然、鬼と遭遇する可能性も高くて、十二鬼月の情報が出たときには必ず駆り出されます」
「……じゅうに、きづき?」

聞き慣れない不穏な言葉だ。何だろう、響きだけでなんだか背筋がぞっとする

「鬼の中でも特別に強い、上位の存在です。上弦の鬼だった場合、柱は最低二人以上必要となります」

柱が、最低でも二人…。尾崎さんたちが遠く及ばないほどの圧倒的な実力者であるはずのあの人たちが、たった一体の鬼を相手に、二人以上でかからなければならないなんて。それはどんなに強い鬼なのだろう。
戦う術を持たない私の想像を絶するような、天災のような化け物が、この世界の闇には本当に潜んでいるのだ。
そんな世界の命運を背負うような人たちが、休める時間など、一体どこに残されているのだろう。

「柱って……やっぱりすごい方々なんですね」
「はい。しのぶ様もつい近くにいるから忘れがちですけど…。だから柱は皆に尊敬され、畏れられているんです」

アオイさんは静かに、けれど誇りを滲ませるようにそう言った。
しのぶさん、冨岡さん。私に見せてくれる彼らの姿は、あまりにも優しくて温かい。けれど、その薄皮を一枚めくった先には、私のような一般の人間には決して踏み込んでいけない、漆黒の深淵が広がっている。
命をいつ奪われるかも分からない世界。彼らが背負う傷の深さも、その覚悟の重さも、私がどれだけ想像力を働かせたところで、何一つ分かり得ない。
踏み込んではいけない領域が、はっきりとそこにある。

「鬼殺隊の皆さんがそんなに大変だなんて、知りませんでした」
「そう、ですね。でもリサさんがそんなことを気にかけるなんて、やっぱり珍しいですね」
「……そう、ですか?」
「はい。普段は日常のことに一生懸命なのに……なにか気になることでも?」

その言葉に、私は上手く言葉を探すことができず、ただ曖昧に微笑みを返すことしかできなかった。

「……気に、なってるんですかね。私」

柱。住む世界の違う人。
あまりにも遠い、雲の上の存在。
戦場。任務。鬼。十二鬼月。

そう。私が気になっているのは、あの人の言葉の意味?それともあの人の…安否が?


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