16


「あっちの角にあるお店はね、西洋帰りの人が開いた洋食屋なんだよ。あとで行ってみる?」

その声に、私はつい顔を向けていた。
今日は、待ちに待った尾崎さんとのお出かけの日。何度か手紙でやり取りをし、隣町で待ち合わせをしてこの日を迎えた。
屋敷を出るときから、胸の奥がそわそわして落ち着かなかった。朝の空気は少しひんやりとして、吐く息が白い。けれどその冷たささえ心地よく感じられるほど、気持ちは高揚していた。
アオイさんと三人娘にも「いってらっしゃいませ!」と揃って送り出され、なんだか特別なお姫様にでもなったような気持ちになった。

『お待たせしました……!』
『ううん、私も今来たところ。あ、髪、きれいに結えたね。私も今日は着物なんだ』
『だよね、とっても綺麗でびっくりしちゃった……!』

そう言って現れた尾崎さんは、普段の隊服とはまるで印象が違っていた。
淡い藍色の着物に落ち着いた羽織を重ね、いつもひとつくくりの黒髪をすっきりと結い上げている。
凛とした雰囲気はそのままに、どこか柔らかな華やぎをまとっていて、私は思わず息を呑んでしまった。



通りを歩けば、露店からは焼き魚の香ばしい匂いが漂い、行き交う人々の笑い声が重なって聞こえる。
木造の家々の軒には色とりどりの暖簾が揺れ、どこを見ても新しい発見ばかりだ。

「あそこの甘味処はね、蜜で煮た栗が名物で昼過ぎにはいつも売り切れちゃうの」
「へえ…人気店なんだね。いつか私も食べてみたい」

歩き出すと、尾崎さんは町のあちこちを指さしながら、楽しそうに教えてくれた。
行き交う人々の羽織の柄や、商家から漂う炭火の香り。どれもが鮮やかで、通りを歩くだけで胸が高鳴る。

「それから、向こうには反物屋が並んでるの。少し値は張るけど、珍しい柄も多くて見ているだけでも楽しいから……あとで寄ってみようか」

「うん!」と返事をしながら、心の奥に小さな熱が灯っていくのを感じる。
こうして誰かと連れ立って町を歩くのは、本当に久しぶりだ。賑やかな人通りも、白い息を吐きながら行き交う人々の声も、全部が眩しく見える。

「それで、胡蝶さんには何を頼まれたんだっけ?」

私の少し前を歩く尾崎さんがふと振り返る。

「あ…和紙なんだけど…」
「和紙ならあそこだよ。昔から続いてる老舗だから、質も間違いないはず」
「あ、本当?先に寄っちゃっていいの?」

尾崎さんが指先で示した先、通りの奥に古い木造の建物が見えた。
暖簾の端には墨の染みが残り、煤けた木の看板には達筆な文字で「和紙・墨」と記されている。
格子戸の中には、年配の女性が腰を下ろしており、その周囲には巻物や帳面、分厚い和紙の束が丁寧に並べられていた。
老舗らしい落ち着きと気品を感じさせる店構えだ。

「もちろん。私は生まれも育ちもこの町なんだから、任せて」
「…ふふ、頼もしい」

尾崎さんが胸を張る。その表情に、思わず笑みがこぼれた。
和紙の店を目にした瞬間、自然と記憶がよみがえる。

――屋敷を出る直前、羽織を手に持ち最後の準備をしているとき、私はしのぶさんに呼び止められた。

『リサさん。町に出るついでに、和紙を買ってきてくださいますか?』

そう言って差し出された小さな巾着袋。
受け取った瞬間、ずしりとした重みが手のひらに伝わった。中をそっと覗けば、和紙一束を買うには明らかに多すぎる額が入っていて。
戸惑う私に、しのぶさんは柔らかく目を細めて答えたのだ。

『…残りは好きに使ってください』

きっと、わざとお使いを口実にして、私に自由に使えるお小遣いをくれたのだ。余計な気を遣わせないように、自然な形で。
そうでなければ、私はきっと「頂くなんて」と首を振ってしまっただろう。
そのさりげない優しさが嬉しかった。

『……しのぶさん、ありがとうございます』


あの時そう小さく呟いた自分を思い出しながら、私は店先に並ぶ白い和紙に視線を落とした。
真新しい紙の白が日に照らされて、淡く光を帯びている。

「おばちゃん、この子が和紙を欲しいんだって。一束ください」

尾崎さんが声を掛けると、腰を下ろしていた年配の女性がにこやかに応じて、すぐに一束を整えて差し出してくれる。

「はい、ありがとうございます」

私も軽く頭を下げ、巾着から代金を支払った。
和紙を大事に抱えて店を出ると、通りにはすでに夕暮れの匂いが漂っていた。
軒先からは湯気の立つおでん鍋の香り、甘味処からは蜜の甘い匂い、反物屋の軒に吊るされた布が風に揺れて色彩を見せている。

「さて任務完了。ねえ、リサ。お腹減らない?」
「え?あ……そういえば、お昼食べ損ねちゃったしね」

確かに、昼に屋敷を出てからあれこれ歩き回って、もうすっかり夕方だ。
町のあちこちから漂ってくる香りに、胃の奥がきゅうっと鳴った。

「うどんでも食べに行こうか?あっちの角を曲がったところに、有名なお店があるの」
「いいね。でも、この前言ってた洋菓子を食べたいんじゃなかったの?」

私が首をかしげると、尾崎さんは目を細めてにやりと笑う。

「もちろん食べるよ?うどんでお腹を満たしてから」
「えっ、両方食べるの……?!」

思わず声が裏返ってしまう。

「当たり前でしょ?せっかく町に出て来たんだから。こういう時ぐらい、好きなだけ食べないと損だよ」

自信満々に胸を張る尾崎さんに、つい笑ってしまった。
通りを抜け、灯りのともり始めた軒先を横切りながら、うどん屋に入る列に並ぶ。
私たちの前にはすでに3組が待っていて、人気店というのに間違いはなさそうだった。

「……素敵な町だね」

辺りを見渡しながら、思わず口にしていた。
夕暮れの橙に染まる屋根瓦や、軒先の灯籠の揺れる光。それを眺めているだけで胸の奥が温かくなる。

「ふふ。でしょう?私はこの町が大好きなんだ。任務の帰りに時々、こうして寄るの。人が生きてる匂いがして安心するんだよ」

尾崎さんは、羽織の袖を軽やかに揺らして笑った。自慢げというより、心から誇らしげに。
その横顔に見惚れていた時、不意に尾崎さんがこちらを見やる。

「ねえ、リサの故郷はどういうところなの?」
「……え?わ、私?……わたしの故郷は……」

どう答えればいいのかわからず、ほんの一瞬、言葉に詰まった。
ここにいる誰もが持っている当たり前の場所。けれど、私には……。未来から来てしまった自分に、この場所に「故郷」は存在しない。

「ここと…あまり変わらないかな。街があって、四季がきれいで……」
「なんだ、そうなんだ」

なんとか言葉を紡ぐと、尾崎さんはあっけらかんと笑ってまた前を向いた。

「でもいつか、私も行きたい。その時はリサが案内してね」
「うん……。いつか一緒に行こうね」

自分でも驚くほど自然に、その言葉が口をついた。
ありもしない未来の約束――けれどその瞬間だけは、本当にそんな日が来る気がして、胸の奥が温かくなった。
尾崎さんは満足そうに頷き、前の人との距離を詰める。私もその背中を追いながら、自然と笑みがこぼれた。








「…食べた食べた!次はどこいく?」

尾崎さんが大きく伸びをしながら、満足そうにお腹を撫でた。
私もお腹を押さえながら苦笑する。
彼女の食べっぷりはすごかった。うどん屋で麺を大盛りにした上に、天ぷらを追加。
そのあと通りを歩きながら串団子や最中まで平らげ、まだ何かを食べようとしている。
一緒に食べ歩きをして、私だって普段よりだいぶ食べたはずなのに――さすがに尾崎さんの食欲には驚かされた。
きらきらした目で屋台の団子を頬張る姿や、店先で香ばしい和菓子に迷わず手を伸ばす仕草は、普段の凛々しい隊士姿からは想像できないほど豪快で、けれど不思議と似合っていて。
毎日厳しい鍛錬をして、身体を酷使しているからこそ、こんなふうに驚くほどよく食べられるのかもしれない。
むしろそれくらいの食欲がなければ、厳しい日々を生き抜くことはできないのかも――。

「……カステラ、食べたいなぁ」

ぽつりと漏らした尾崎さんの声に、思わず吹き出しそうになった。

「まだ食べるの?カステラってけっこう重たいけど……」

自分で口にしながら、彼女が食べてきた量を思い返して呆れてしまう。
尾崎さんは肩を揺らして笑った。

「ちがうの!これからまた歩いてお腹を空かせるの!」
「食べすぎも体に悪いと思うよ?」

そう言いながらも、どこか楽しげに笑い返していた。
ゆったりとした歩幅で先を行く。
夕暮れの町は橙の灯りが一つ、また一つと灯り始めていた。往来を行き交う人々の息は白く、道端の行灯が揺らめいて、通り全体がどこか幻想的に映る。
私も彼女の横に並んで歩いていたけれど、ふと視線が横に逸れた。
装飾店の前に並べられた品々。格子戸を押し開けた店先に、ずらりと簪や帯留め、首飾りが飾られている。
金糸や螺鈿で彩られた細工は、夕方の灯りを受けてほのかに輝き、ひときわ鮮やかに見えた。

「───わぁ……きれい……」

無意識のうちに足が止まり、喉の奥から小さな吐息がこぼれていた。

「気になる?入って見てみる?」
「え、でも……高そうだし」

尾崎さんが笑みを浮かべて、私の横顔を覗き込んだ。私は慌てて視線を逸らす。
並んだ品々はどれも精巧で、私のような身の上が軽々しく手を伸ばすには場違いに思えた。
けれど次の瞬間、尾崎さんにぐいと腕を引かれ、私は店の中の真ん前に立たされてしまう。

「遠慮しないの。せっかくなんだから、見て楽しむくらい自由でしょ?」

真正面から煌めく簪や髪留め、櫛や首飾りに囲まれると、胸がふわりと浮き立つ。光を受けて反射する石や硝子玉がとても鮮やかで、視線が次々と吸い寄せられた。
そして――ひとつの首飾りに目が止まる。
黒い紐の先に、大粒の石がぶら下がったもの。石は淡い群青色をしていて、角度によっては透明感のある水色にも見えた。
この時代の首飾りとしてはやや派手めかもしれない。けれど、夕陽を受けて深く輝くその色が、不意に胸の奥をざわつかせる。
……どこかで見たような、澄んだ瞳の色。思考の先に浮かんだ顔を、私は慌てて心の奥に押し込めた。
その一瞬の揺らぎを、尾崎さんは見逃さなかったらしい。にやりと口角を上げ、店の奥に声をかける。

「すみません。この首飾り、いくらですか?」
「えっ、お、尾崎さん…!?」
「それかい?…おや、お嬢ちゃんたちお目が高いね。この店限定の二点ものでね、ひとつ五十銭だよ」

帳場に座っていた年配の女性が、笑みを浮かべながら答えてくれた。

「五十銭……よし、リサ。これ買おう。お揃いでつけたい」
「えっ!?」

唐突に差し出された言葉に、胸が大きく跳ねた。

「で、でも……そんな、大金……」

思わず声を詰まらせる。
確かに、しのぶさんは「残りは好きに使ってください」と言ってくれた。けれど、それはせいぜい菓子や小物に使う程度の意味だと思っていた。
首飾りなんて、許されるとは思えない。掌の中の巾着が途端に重みを増す。

「気に入ったんでしょ?」
「い、いや……別に……」

慌てて否定しかけた言葉は、喉の奥でほどけていく。確かに、目を奪われたのは事実だった。

「リサが何かを欲しがるなんて珍しいじゃん。それに、今日の記念に二人でお揃いのもの持てたら嬉しくない?」

笑いながらも、どこか真剣な表情で尾崎さんは私の手首を軽く引いた。
"お揃い"。まっすぐにそう言われて、私の心も揺らいでくる。

「二つしかない限定品だって。私たちにちょうどいいよ」

尾崎さんは、包まれる前の首飾りを手に取り、光に透かしてみせた。群青の石が傾けるたびに光を含んで、きらきらと光を放つ。

「これをつけたら私、リサを思い出してどんな任務でも頑張れる気がするなあ」

冗談めかして笑ったはずの尾崎さんだったが、その言葉の最後、ほんの一瞬だけ表情が引き締まった。
軽口ではなく、本当にそう思っているのだと伝わる真剣さ。その真顔に、私の胸がふっと揺さぶられる。
けれど次の瞬間には、いつもの快活な笑みを取り戻して「だから奮発して買おうよ」と軽やかに言い添える。その落差がかえって、彼女の言葉の重みを確かなものにしていた。
断る理由を探していたはずなのに、言葉が出てこない。彼女と同じものを身に着けること。それは、この一日の楽しさを形にして残すようでもあって、どうしようもなく嬉しくなった。

「……じゃあ……」

小さな声で答えると、尾崎さんはぱっと表情を明るくして、満足げに頷く。

「よし、決まり。…すみません、おばさん!これひとつずつ包んでください」

それぞれお金を払い、店の奥から差し出された小さな包みを受け取る瞬間、指先に伝わったのは冷たい石の感触ではなく――これから自分が大事に抱えることになる「絆」の重みのように思えた。

「……尾崎さん、ありがとう。実はね、こういうの誰かとお揃いで持つのは初めてだからとっても嬉しい」

言葉にした途端、頬が熱を帯びる。
少し照れくさくて、けれどそれ以上に、今この瞬間の喜びをどうしても伝えたかった。
尾崎さんは一瞬きょとんとしたあと、ふっと表情を和らげて笑う。

「うん……私も嬉しい」

そう言いながらも、彼女の耳のあたりがわずかに赤くなっているのを見てしまい、胸の奥がくすぐったくなる。

「今日のこの日を、ちゃんと形に残せた気がする」
「うん。私もこれをつけるたびに尾崎さんのこと思い出すね」
「……うん」

尾崎さんの穏やかな笑顔。
その表情に、頬の裏側がふわりとゆるむのを感じて、私も笑みを返した。




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