17


「まあ、ありがとうございます。きちんと買ってきてくださったのですね」

しのぶさんの部屋の、柔らかな畳の上。お互いに正座で向き合って座る。
お部屋の片隅では、まあるい硝子の水槽のなかで一匹の赤い金魚がひらひらと尾鰭を揺らして気持ち良さそうに泳いでいた。

「はい。しのぶさんの頼みなので、忘れるわけにはいきません」

私はそう言って、昨日老舗の和紙屋で丁寧に包んでもらった和紙の束と、まだ少しだけ硬貨の重みが残るあの巾着袋を、畳の上で滑らせるようにして両手で差し出した。

「お小遣いありがとうございました」

しのぶさんは「助かりました」と微笑みながら、それらを受け取ってくれる。
それから、少しだけ緊張で強張る指先を膝の上で握りしめ、もう一つの小さな贈り物を差し出すタイミングを窺う。
喜んでくれるといいな…。ちょっと子供っぽいお礼になっちゃったかもしれないけれど。
深く息を吸い込み、私はたもとから、もう一つの薄紙に包まれた小さな小箱を取り出した。

「あの……それと。これも、どうぞ」

少し緊張しながら、私はその小包を両手でおずおずと差し出す。

「おや、これは何ですか?」

しのぶさんは少しだけ驚いたように小首を傾げた。私は少し照れくささを隠すように、ぽつりぽつりと昨日の一幕を話し始める。

「昨日、尾崎さんと一緒に町を歩いていたら、すごく人気のあるカステラ屋さんを見つけたんです。尾崎さんが、卵がたっぷりでしっとりしてて美味しいんだって、お腹いっぱいなはずなのにあまりにも美味しそうに食べていたので……」

その食べっぷりがあまりにも凄くて、見ているこちらまで幸せな気持ちになってしまったのだ。
どうせならと、お土産にしのぶさんにも持ち帰ってきたのだ。

「お小遣いをいただいたお礼と言ってはなんですが、しのぶさんにも美味しいカステラをぜひ食べていただきたくて……買ってきちゃいました」

いつも自分のことは後回しにして、屋敷のことや患者さんのことばかり考えて忙しく動き回っているしのぶさん。この甘いお菓子を食べているときだけでも、ほんの少し肩の力を抜いて、お茶の時間を楽しんでほしかった。
私の言葉をじっと聞いていたしのぶさんは、ゆっくりと両手でそれを包み込むように受け取ってくれる。

「嬉しいです、リサさん。わざわざ買ってこなくていいと遠慮したいところですが、お茶を淹れて大切にいただきますね」
「はい!」

しのぶさんの嬉しそうな表情を見つめていると、こちらまで照れくさくなってくる。
良かった、受け取ってもらえて。普段お世話になっている分のお礼には全然足りないけれど、少しずつでも彼女に返していきたいと思う。

「その首飾りも、昨日のお出かけで見つけられたのですか?」
「あ、はい。気づきましたか?あまりにも綺麗な色だったので、つい目が留まってしまって……」
「本当に、吸い込まれそうなほど深い青ですね。とてもよくお似合いですよ」

しのぶさんは優しく包み込むように、ふふ、と喉を鳴らして微笑んだ。

「尾崎さんとお揃いなんです。同じものが、形違いで二つ並んでいて、それで二人で一つずつ持ち合うことにしました」
「お揃いですか。素敵ですね」
「ありがとうございます」

勝手にお小遣いで買ってきたものを怒らず、そうやって自分のことのように共感してくれるしのぶさん。本当に優しい。
それに、普段は離ればなれで、それぞれの場所で必死に生きている私たち。けれど、この胸元にある青い石が、確かに繋がった絆の証として私を支えてくれる。

「はい。大切に、ずっと身につけておきます」

私は胸元の石をそっと指先で包み込み、愛おしさを噛み締めるように微笑んだ。









昼下がりの台所には、勝手口から差し込むうららかな陽光が白い格子模様を描いていた。
そこでは、アオイさんが無事に終えた買い出しの品を三人娘――きよちゃん、すみちゃん、なほちゃん――が、大きな木机を囲んで食材や日用品の整理に追われている。

「ええっと、お醤油が一升と、お塩が二袋。それに、大根が三本……」
「なほちゃん、こっちの椎茸の分も忘れないでね」

三人は小さな額を寄せ合い、帳面を広げて金額の計算をしていた。こうして細々とした出納をきっちり管理するのも、立派な仕事のひとつ。
私は少し離れた流し台の前で、洗い立ての木皿を布巾で一枚ずつ丁寧に拭き上げていく。楽しそうに、けれど真剣に数字と格闘している三人の背中を、私は微笑ましく眺めていた。
みんな、本当にしっかり者だ。未来だと、きっとまだ学校に通って、お友達と遊んでいるような年齢だ。それなのに、この屋敷のために一生懸命に働いている。

「…あれ?おかしい。数字が合わないよ?」

ふいに、きよちゃんの困ったような声が聞こえ、なほちゃんもすみちゃんも首を傾げた。

「えっ、どこどこ?お塩の分はちゃんと足した?」
「足したよ。でも、アオイさんから預かったお財布の中身と、残ったお金の計算がどうしても合わないの。……三十銭も足りない」

机を覗き込んだすみちゃんとなほちゃんも、帳面を見つめたまま「うーん…」と小さな唸り声を上げる。
三人はそろって小さな手で頭を抱え、眉間に可愛いシワを寄せて、完全に固まってしまっていた。

「おかしいなぁ、何度も計算したのに……」
「もう一回最初から足してみようか」

万年筆を握り直して必死に数字を追いかけるけれど、だんだんと三人の頭から煙が出そうなほど、どんよりとした空気が漂い始める。
さすがに見かねて、私は手元の布巾を一度置くと三人の間へとそっと足を進めた。

「みんな、どうしたの?」
「あ、リサさん!それが、収支の計算がどうしても合わなくて」

なほちゃんが、涙目になりながら帳面を私の方へと差し出してくる。

「どれどれ、ちょっと見せてね」

私は三人の肩越しに、ぎっしりと数字が並んだ帳面を覗き込んだ。
大正時代の文字の書き方には少しコツがいるけれど、蝶屋敷での暮らしの中で私もずいぶんと見慣れてきている。何より、未来の世界で嫌というほど算数や数学、実生活での計算をこなしてきた身だ。
これくらいの出納帳なら、構造はいたってシンプルに見える。縦に並んだ数字の列を上から下へ、すうっと視線でなぞっていく。
お醤油がこれで、お塩がこれ。大根をここで足して……あ、ここだ。

「みんな、ここを見てみて」

私は指先で、帳面の真ん中あたりに書かれた数字を優しくトントンと叩いた。

「これ、椎茸の値段を足すときに、一の位と十の位が逆になっちゃってない?本当は六十三銭なのに、三十六銭で計算しちゃってるみたい」
「えっ……あ!」

きよちゃんがハッと目を見開く。

「本当だ……!六十三と三十六、ひっくり返っちゃってました!」
「それなら差額はちょうど二十七銭……あっ、でもまだ三銭足りないです」

すみちゃんが不安そうに私を見上げる。私は微笑むと、頭の中でさらに残りの数字を弾き答えを導き出した。

「この一番最後の、お豆腐のの数。二丁買ったのに、一丁分の値段しか引かれてない気がする。ほら、ここを二倍にして、さっきの二十七銭に足してみたら……」

「あ!」と、三人が同時に声を上げた。
私の言葉に従ってきよちゃんが帳面の端に筆を走らせると、そこには、お財布の残りのお金と寸分違わぬ正しい数字が導き出されていた。

「ほら、これでぴったりアオイさんから預かったお金と残高が合うはずだよ」

私が微笑むと、三人はまるで魔法でも見せられたかのように目を丸くして私を見つめてきた。

「すごいです、リサさん!計算がとってもとっても速いですね」
「本当に!そろばんなしで目で見ただけで分かっちゃうなんて」

三人はきらきらと目を輝かせながら、私の周りに一斉に集まってきた。小さな手をパチパチと叩きながら、これでもかというほど真っ直ぐな賞賛の言葉を投げかけてくれる。
そんなふうに手放しで褒められると、なんだか急に恥ずかしさに襲われてしまう。

「そ、そんなことないよ。ただ、学校でちょっと習っただけで……」

学校で習った、というのは嘘ではない。けれど、彼女たちが思うようなこの時代の寺子屋や女学校のそれではなく、私がいた未来の世界の、義務教育の賜物だ。
毎日当たり前のように算数や数学のドリルを解かされ、買い物に行けば消費税や割引の計算を頭の中でしてきたから…。

「でも、そろばんを使わずに頭の中だけでパパッと直せちゃうなんて本当に凄いです」

すっかり尊敬の眼差しを向けてくれる三人。
未来ではただの当たり前だった退屈な勉強が、この場所では大切なみんなを笑顔にするためのお手伝いになることもあるみたいだ。

「もしよかったら、今度みんなに計算のコツ教えてあげようか?」
「えっ!いいんですか!?」

私が少し照れながらもそう提案すると、三人は一瞬だけ驚いたように動きを止め顔を見合わせた。

「もちろん。この屋敷のこと手取り足取り教えてくれたみんなのためだもん。それに、慣れたらすぐ皆もできるようになるよ」

せっかくなら私にもできることで、少しでもこの屋敷の役に立てたり、みんなの助けになれるなら。未来の知識なんて大層なものではないけれど、こんな風にみんなに喜んでもらえるならお安い御用だ。
それに、こういった知識は覚えておいて損はないし、買い物中にも役立つ。

「じゃあ、毎日の夕方の空き時間にお勉強会をするのはどうですか?」
「名案です!」
「私も参加します!」

すみちゃんが名案を思いついたように、ぽんと手を叩くとあとの二人も賛同してくれる。
思った以上に乗り気になってくれてよかった。よく考えたら、みんな本当ならもっと遊んだり、当たり前に学校で勉強したりしていてもおかしくない年齢なのだ。
そんな彼女たちが、こうして新しいことを学ぶことに目を輝かせてワクワクしてくれているのが、なんだかとても嬉しい。

「毎日夕方だね。分かった!」

そうだよね。学べる環境があるって、素晴らしいことなんだ。
私はどちらかと言えば、嫌々勉強していたタイプだったから。もっと彼女たちみたいに一生懸命に取り組んでいたら、教えられることももっと多かったんだらうな。
そんな微笑ましい光景のなか、きよちゃんが何かに気づいたように「はっ!」と動きを止めた。

「あ!忘れてました!にゃー吉にご飯をあげておいてって、カナヲさんに頼まれてたんです!」
「あ、もうすぐいつもの時間になっちゃう」

きよちゃんの焦った声に、すみちゃんとなほちゃんも慌てて棚の上の小さなお皿を取り出し始める。
突然飛び出した聞き馴染みのない名前に、私は帳簿を閉じると首を傾げた。

「……にゃー吉?」
「あ、リサさんはまだ知りませんか?このお屋敷によく出入りしている、三毛猫のことですよ」
「名前はないんですけど、私たちがみんなでそう呼んでるんです」
「カナヲさんにとっても懐いてる子ですよ」

三人が交互に教えてくれるその特徴を聞きながら、私は記憶の引き出しを探った。
お屋敷の裏庭、縁側、そして、いつも物静かで微笑みを絶やさないカナヲさんの姿。

「……あ。そういえば一度、裏庭で見かけたことがあるかも。すごく可愛い三毛猫さんで、撫でさせてもらったよ」

私が何気なくそう言うと、三人は驚いたように一斉に丸い目を見開いた。

「本当ですか!?にゃー吉、カナヲさんにしか心を許してなくて、私たちでもたまに引っ掻かれちゃうのに……」
「リサさんも、動物に好かれる性質たちなんですね!」
「そうなの?」

動物に好かれるだなんて、そんな風に自覚したことは一度もなかったような気がする。思い返してみても、あの時の三毛猫は私を見上げると同時に、ふにゃあ、と気の抜けた声で鳴いて、お腹をごろんと上に向けていたのだ。
警戒心なんて欠片もなくて、むしろ自分から「撫でて」と甘えてきているようにしか見えなかったのだけれど…。
あ、でも、あの時は確か、すぐ隣にカナヲさんがいたんだった。大好きなカナヲさんが隣にいたから、にゃー吉も安心していたのかもしれない。優しいカナヲさんの佇まいは、人間だけでなく、言葉の通じない小さな生き物をも包み込む不思議な安心感があるのだろう。

「そういえば、"にゃー吉"ってことは男の子?三毛猫なのに、珍しいね」

未来の世界の雑学で、三毛猫のオスは遺伝子の関係で滅多に生まれない、とても希少な存在だと聞いたことがあった。この時代でもそれは同じなのだろうかと尋ねると、すみちゃんとなほちゃんが深く頷いた。

「そうなんです!しのぶ様も、嫌々ながらに教えてくださいました」
「……嫌々ながら?」
「はい。しのぶ様、実は動物がお嫌いなんです。母猫とはぐれて、お屋敷の裏で痩せ細って鳴いていたにゃー吉を私たちが拾ってきたとき、それはそれは嫌そうな顔をされて……」
「『衛生面がよろしくありません。早く元の場所に戻しなさい』って、ものすごく怒られました」

なほちゃんが当時のしのぶさんの真似をして、眉間にちょこんと皺を寄せてみせる。いつも完璧で非の打ち所がないしのぶさんが、小さな子猫を前にして本気で嫌悪感を露わにしていた様子があまり想像できなくて、私は思わず吹き出してしまった。
しのぶさんが動物嫌いだなんて、なんだか少し意外な気もする。けれど、その話を聞いているうちに、かつてこの屋敷へやってきたばかりの日の記憶がよみがえってきた。

冨岡さんに連れられて初めて蝶屋敷の門を叩いた、あの日。
私を置いていこうとする冨岡さんに対して、しのぶさんはあの美しい笑顔を浮かべながら、確かにこう言っていたのだ。

『野良猫拾ってくるあの子たちの方がまだマシです』

点と点が頭の中でカチリと繋がる。
あの子たちが拾ってきた野良猫というのは、まさに今三人が話している、このにゃー吉のことだったのだろう。
ということは私って、しのぶさんにとってにゃー吉以下ってことになるのでは…。
いや、そんなつもりで言ったんじゃないことは分かっているけれど。なんだか、複雑な気持ちだ。

「リサさん?どうしたんですか?」
「ううん、なんでもないよ。……にゃー吉、お腹を空かせて待ってるだろうから、早く行ってあげて」
「はい!じゃあ行ってきます!」

お魚のほぐし身が入った小さなお皿を大切に抱えて、三人は小走りで勝手口から裏庭へと駆けていった。





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