17


翌朝。カーテンの隙間から差し込む光が、部屋をやわらかく照らしていた。
私は寝台から体を起こすと顔を洗い、着物を整えたあと、ふと棚の上に目をやる。そこには、昨夜尾崎さんと一緒に買った首飾りが置かれていた。
…昨日、楽しかったな。口に出さなくても、胸の奥がじんわりと膨らんでいく。
にぎやかな町の通り、香ばしい匂い、甘い蜜の味、二人で食べ歩いた団子や最中。
そして、豪快に笑いながら「別腹!」と胸を張る尾崎さんの姿。一緒に歩くだけで、どんな景色も明るく見えた。

少し迷ったけれど、私はそれを手に取ると紐を首にかけて括る。群青の石は喉もとにひんやりと触れ、その感触が一日の始まりを告げる合図のようだ。
鏡代わりに水面を覗くと、石が朝の光を受けて小さく輝き、胸のあたりに光の粒を落としていた。
胸が不思議と引き締まり、同時に弾むような気持ちがこみあげてくる。

「……よし」

小さく息を整えて、私は首飾りを襟の中にしまい、巾着を手に持って部屋を出た。








「まあ、ありがとうございます。きちんと買ってきてくださったのですね」

私は畳の縁に沿って膝をつき、正座でしのぶさんと向かい合って座っていた。彼女は机の上に開かれた帳面から顔を上げ、静かに微笑む。

「はい。しのぶさんの頼みなので、忘れるわけにはいきません」

頼まれていた和紙とお金の入った巾着を差し出すと、しのぶさんは受け取りながら小さく微笑んでくれた。
その仕草のひとつひとつが丁寧で、背筋が自然と伸びる。

「あの……それと。これも、どうぞ」

少し緊張しながら、私はもうひとつの小包を両手でおずおずと差し出した。
小箱に包まれた、昨日町で買ったカステラだ。ふわふわの生地が香ばしく、昨日の甘い余韻を思い出させる。

「これは……?」
「昨日、尾崎さんと食べて美味しかったので。その、お礼に……少しだけですが」

言葉を添えると、しのぶさんは目を丸くしてから、小包と私の顔を見比べる。それから、小さく目を瞬かせ、控えめに笑った。

「別にそんな、お気遣いしてもらわなくてもよかったのに」
「い、いえ。しのぶさんのおかげで素敵な時間を過ごせたんです。…その、お小遣いも、ありがとうございました」
「…あれは余ったお金を渡しただけですよ」

そう言いながらも、白い指が包みをそっと受け取る。箱の感触を確かめるように、指先でなぞり、香りをふわりと鼻先に寄せた。

「でも、嬉しいです。ありがとうリサさん」

その声音は、ふわりと湯気のように柔らかく、部屋の空気を優しく包み込む。
彼女の視線が自然と動き、次に私の胸元へと移った。

「…その首飾り、綺麗ですね。尾崎さんと?」

群青の石が、着物の襟の間からわずかに光をのぞかせている。
頬が熱くなるのを自覚しながら、私は頷いた。

「はい。昨日、町で一目惚れをして……尾崎さんとお揃いなんです」

そう言うだけで、なんだか気恥ずかしくなる。
しのぶさんはその答えを聞くと、目尻にやわらかな笑みを浮かべて言った。

「ふふ。本当に、すごく楽しめたみたいですね。良かったです」
「……はい」

その言葉に、心の奥がふわりとほどけた。
自然に声が弾んでしまう。自分でも抑えきれない余韻。
障子越しに射す朝の光が、群青の石を照らす。
そのきらめきの中に、昨日の笑顔と夕暮れの町並みが、鮮やかに息を吹き返すようだった。

「…あっ、でも、今日からまたやるべきことは抜かりなくやりますので。ご心配なく…!」
「ふ、ふふ。頼もしいこと。では、今日もよろしくお願いしますね」
「はい!」

明るい返事をして頭を下げると、しのぶさんも軽やかに肩を揺らして笑った。
私もつられて笑い、胸元の首飾りにそっと指を添える。
今日からまた、忙しい日々が始まる。でも、この小さな輝きがあれば、なんでも頑張れるような気がした。









昼下がり。
台所では、きよ・なほ・すみちゃんの三人娘が、アオイさんに頼まれた買い出しの準備をしていた。
小麦粉、味噌、油、野菜――必要なものを書き出す紙を前に、三人は顔を寄せ合っている。
食料や日用品の在庫を記録して、次に誰が町へ買い出しに行くかを決める――それも屋敷の大事な仕事の一つだった。

「えっと……小麦が二斤だから、銭にしたら……いくらだっけ?」
「わ、わかんない!いつもアオイさんがやってるから……」

困り顔のきよちゃんの隣で、すみちゃんが慌てて算盤をいじるも、玉が指に引っかかってガラガラと音を立てる。
思わず笑ってしまいながら、私は手元の布巾を畳んで声をかけた。

「見せて?……うーん、小麦が二斤で八銭、お味噌が五銭、野菜が三銭……合計十六銭だね。小麦をもう一斤追加したら二十四銭。……この予算で収まりそう」

つい癖で、私は頭の中で簡単に計算しながら帳面に指を滑らせた。
三人が一斉にこちらを見て、ぽかんと目を丸くする

「リサさん、計算が早いですね……!」
「すごい、算盤なしでわかるなんて!」
「え?そ、そんなことないよ。ただの暗算。ほら、“十”のまとまりで考えたら楽だから……」

慌てて笑って手を振るけれど、三人は尊敬の眼差しを向けたままだ。
どうやらこの時代では、まだ算数がきちんと学べる環境が限られているらしい。
私は頭が特別いいわけではない。けれど、この時代の女の子たちが受ける教育の少なさを思えば、自分が知っている当たり前が、ここでは珍しいことなのかもしれない。
なほちゃんが頬を染めて、両手を胸の前でぎゅっと握った。

「リサさん、すごいです。……私もそんなふうにぱっと計算できたら、買い出しの時に困らないのに」
「お釣りを間違えたらといつも不安なんです」
「わたし、九九は三の段から苦手で……」

きよちゃんが困ったように笑い、なほちゃんとすみちゃんがうなずく。
その小さな肩が並ぶ光景が、なんだか愛おしく思えた。

「…じゃあ、今度一緒に暗算の練習してみる?ちょっとずつなら、きっとすぐ慣れると思うし……」
「ほんとに!?」
「う、うん。台所でも使えるし、覚えておくと便利だから」

そう言うと、三人が同時にぱあっと顔をほころばせた。
その笑顔があまりに眩しくて、思わずこちらまで頬が緩んでしまう。

「じゃあ決まりですね!夕方の片付けが終わったら、居間で待ち合わせましょう」
「やったー!」

みんながあまりに嬉しそうにするものだから、何だか私まで嬉しくなってしまう。大したことではないけれど、少しでもみんなの役に立てるのなら私だって光栄だ。
「しのぶ様に自慢しなくちゃ」とみんながはしゃぐ側で、私は微笑みながら帳面を閉じた。
どうやって三人に暗算を教えようかな。すみちゃんも九九が苦手だと言ってたし、まずはそれを覚えるところから…。多少割り算もできた方がいいよね。
さっそく勉強会の計画を頭の中で立てていたちょうど時、開いていた窓からふわりと風が入り込んでくる。その風がわずかに三人娘のワンピースを揺らして、思わず私も身震いした。

「ひゃー、寒いですね。もうすぐ春だっていうのに」
「本当だね。いつになったら暖かくなるのかなあ」
「そういえば、にゃー吉は大丈夫かな。寒くなってからほとんど姿を見てないよね」
「にゃー吉?」

三人の会話に耳慣れない名前が聞こえて、私は布巾を片しながら思わず聞き返していた。

「あ、リサさん知りませんか?このお屋敷に出入りしている三毛猫ですよ」
「名前はないんですけど、みんなでそう呼んでるんです」
「カナヲさんにとっても懐いてる子ですよ」
「…あ。そういえば一度見たことあるかも。撫でさせてもらったよ」

そう言うと、三人は驚いたように目を見開いた。

「本当ですか?にゃー吉、カナヲさんにしか心を許してないのに、リサさんも動物に好かれるみたいですね」
「そ、そうなの?」

そんな感じはなかったような…。
お腹をごろんと向けて、警戒心のかけらもないように見えた気がしたんだけどな。
カナヲさんが隣にいたからかな。やっぱり、あの子猫はカナヲさんに一番懐いてたのは間違いなかったみたいだ。

「"にゃー吉"ってことは男の子?三毛なのに珍しいね」
「そうなんです。しのぶ様も嫌々ながらに教えてくださいました」
「…嫌々ながら?」
「はい。しのぶ様、動物がお嫌いなんです。母猫とはぐれて痩せ細ってるにゃー吉を拾ってきた私たちに、それはそれは嫌そうな顔をして…」

その言葉に思わず笑ってしまう。
しのぶさん動物が嫌いだなんて意外だな。でも、最初私がここに冨岡さんに連れられて来た時、確かに言っていた。
「野良猫拾ってくるあの子たちの方がまだマシです」って。
そう考えると私はにゃー吉以下ってことになるのだが。いや、しのぶさんがそんなつもりで言ってないのは分かっているんだけど。冨岡さんに対する皮肉だったのだろうけど。
なんだか複雑な気持ちだ。

「にゃー吉もきっと温かいところで暖をとってるよ」
「そうだといいなあ」

三人の笑い声につられるように笑うと、今にも雪が降り出しそうな空に視線を向けた。




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