18


――明日から、という約束通り、私たちの日課となった小さなお勉強会は、夕暮れ時の居間でひっそりと開かれていた。

「うーん……七足す八は、十五だから……一を上に書いて……」

火鉢のすぐ横で、なほちゃんが小さな手に握った筆を動かしながら、熱心に帳面と睨み合っている。
夕下がりの居間には、火鉢の中で赤々とおこるる炭の爆ぜる音が、パチリ、パチリと心地よく響いていた。鉄瓶の口から立ち上る白い湯気が、冬の終わりのひんやりとした空気を優しく潤し、そこはかとなく炭の香ばしい匂いが部屋を満たしている。

「あ、なほちゃん、そこ凄くおしい。一の位は合ってるから、十の位の繰り上げをもう一度だけ見てみて?」
「あ、本当だ!ここに一を足すのを忘れてました!」

私が横からそっと指し示すと、なほちゃんはパッと顔を輝かせて文字を直していく。その隣では、きよちゃんとすみちゃんが「できた!」と言って、誇らしげに自分たちの帳面をこちらに突き出してきた。

「リサ先生、見てください!今日のお豆腐とお大根の引き算、そろばんなしで全部できました!」
「私も!頭の中で数字をひっくり返さないように、ちゃんとお魚の数を確かめながらやりました!」
「わあ、二人とも大正解!すっごく早くなったね」

花が咲いたように笑う二人の頭を、私は愛おしさを込めて順番になでてあげる。
「リサ先生」なんて呼ばれるのにはまだ少し気恥ずかしさがあったけれど、教えたコツを一生懸命に吸収していく三人の姿を見ていると、私まで嬉しくなってくる。
こうしてみんなの「分かった!」という笑顔に出会えるお勉強会は、私にとっても一日のうちで何より愛おしい時間になりつつあった。

「よし、じゃあ次はちょっと応用編ね。ここに並べた大豆、全部で二十粒あるんだけど、きよちゃん、すみちゃん、なほちゃんの三人で同じ数ずつ分けたら、一人何粒になって、何粒余ると思う?」
「ええっと、三人だから……三、六、九……」

手元に転がした丸くて小さな大豆を指先でつつきながら、三人が真剣に考え込み始めたそのときだった。

「……豆か」
「ひゃっ!!?」

すぐ耳元で、唐突に、低く深く響く声音が鼓膜を震わせた。
心臓が文字通り口から飛び出すかと思うほど驚き、私は悲鳴を上げてその場を飛び退く。

「と、冨岡……さん……っ?」

慌てて振り返った私のすぐ目と鼻の先に、いつの間にか上体を深く折り曲げ、私の耳元に顔を寄せていた冨岡さんの横顔があった。
澄ました表情のまま、彼はただじっと手元の大豆を見つめている。そのあまりの距離の近さに、私は完全にフリーズしてしまった。

「み、水柱様!」
「お疲れさまです!」

いつもはめったに居間に姿を見せない寡黙な柱の登場に、三人も驚きながらも、ちょこんと正座をし直してぺこりと頭を下げる。

「い、いつからそこにいたんですか!?」
「今だ」

私がまだ震える声で尋ねると、彼はいつもと変わらず短くそう答えた。
全く、本当に、微塵も気配がしなかった。衣の擦れる音も、畳を踏みしめる足音さえも一切なく、彼は幽霊のようにいつの間にか私の真後ろに立っていたのだ。
しのぶさんもよく背後から音もなく声をかけてくるけれど、それにしてもこの不意打ちの登場の仕方は、全く心臓がもたない。これは、もしかして柱の人たちの特性なのだろうか。
バクバクと狂ったように鳴らし続ける胸を押さえながら、私は冨岡さんを恨めしげに見つめる。

「け、気配を、消して背後に立つのは……やめていただきたいです……」

彼に悪気がないことくらい分かっているけれど、突然驚かされたショックで、私の目にはじわりと涙が浮かんでしまっていた。

「まだ、心臓がばくばくしてます……」

せめて足音くらいは立てて歩いてほしい。
そう思いながらぐっと涙を堪えていると、冨岡さんはようやく自分の行動に気づいたようで、姿勢を戻すとなぜか明後日の方向に視線を逸らした。

「…すまない」

全く悪びれる様子から一転、ほんの少しだけきまり悪そうだ。
その姿に、三人娘がぽかんと目を丸くしていたが、次の瞬間くすくすと笑いをこらえ始めた。

「水柱様は、今日はしのぶ様の定期の検診ですよね?」
「もう、終えられたのですか?」
「…ああ」
「無事に終わったのなら良かったです!」

どうやら冨岡さんは、しのぶさんによる検診の帰りだったらしい。なるほど、だからここにいたのかと、私はようやくいつもの調子を取り戻して深く息を吐くことができた。

「お、お久しぶりですね」
「息災か」
「は、はい、おかげさまで……。毎日元気に過ごしています」

私がそう尋ねると、冨岡さんは瞳を落とすようにして、私たちの囲んでいる木机の上へと視線を向けた。
そこには、先ほどまでみんなで囲んでいた、大豆がいくつも転がった帳面が広げられたままだ。
冨岡さんは机の上をじっと見つめたまま、少しだけ不思議そうに首を傾げる。

「お前は、手習いを見てやっていたのか」

その静かな問いかけに、私は「あ、はい」と頷いて、顔を上げた。

「手習いというか、買い出しの金額の計算なんですけど……こうして夕方にちょっとしたお勉強会をしていて……」
「そうなんです!リサ先生、そろばんなしでパパッと計算しちゃうんですよ!」
「とっても格好よくて、教え方もすごく分かりやすいんです!」

きよちゃんとなほちゃんが待ってましたとばかりに、嬉しそうに身を乗り出して言葉を重ねる。

「おまけに、リサさんは帳簿をまとめるのもとっても上手なんですよ!」
「アオイさんがいつも書いている難しい帳簿を見ながら、こうして書くと見やすくなりますよって、格好いい表を教えてくれたんです!」
「えっ、ちょっと、みんな……?」

私はたまらずに手をパタパタと振って、三人の言葉を遮ろうとした。
帳簿をまとめるのが上手だなんて、冨岡さんの前で言うほどそんな大層なことではない。ただ、こちらの世界の縦書きで延々と数字と品名が羅列された帳簿が、あまりにも計算しづらそうに見えたから、未来の世界で誰もが使っているような、項目ごとに線を引いて分けた簡単な表の作り方に変えただけなのだ。

「算盤なしで、か」

しかし冨岡さんは三人の話を聞いて、どこか関心した様子で相槌を打った。

「はい!そうなんです!冨岡様もご覧になりますか?」

きよちゃんが待ってましたとばかりに、座卓の上に広げられていた帳面を両手で持ち上げ、嬉々として冨岡さんの前へと差し出す。

「あっ……!」

止める間もなかった。
私の静止の声も虚しく、差し出された帳面は、すんなりと冨岡さんの大きな手へと受け渡されてしまう。

「………」

そして冨岡さんは無言のまま、私の拙い未来の知恵が詰まったその頁をじっと見つめ、それから長い指先でぺらぺらと紙を捲り始めた。
カサリ、カサリと、居間に紙の擦れる音だけが響く。その様子を横で見つめながら、私は次第にいたたまれない気持ちになっていく。
どうしよう、すごく真剣に見てる…。改めて考えてみれば、冨岡さんは佇まいからしてとても育ちが良さそうだ。着ている羽織の仕立てだって上品だし、言葉数は少なくても、その端正な一挙手一投足からは教養の高さが滲み出ている。きっと私なんかよりもはるかに計算も速くて、正確に決まっているのだ。
一度そう思い至ると、不安は雪だるま式に膨らんでいく。何か、おかしなことを書いたかな。それとも、私の知らないこの世界の決まり事とかに、思いっきり引っかかってるとか…。
一向に動く気配のない冨岡さんの手元を見つめながら、私は衣の膝をきつく握りしめ、恐る恐る声を絞り出した。

「あ、あの冨岡さん。な、何か気になることでも……?」
「いや、」

もし「余計なことをするな」と怒られたらどうしよう。
不安を押し殺して尋ねると、冨岡さんは捲っていた手を止め、ゆっくりと帳面を机の上に戻す。

「他意はない。ただ、お前の底が知れないと思っているだけだ」
「え?私ですか?これはただの私の故郷の知恵、というか……」
「算盤も使わず、これほど細かな数字を正確に弾くのは、容易なことではない。俺には到底真似できない」
「え……」

そうなの?私より計算が速そうな冨岡さん言われて、私はぱちくりと目を丸くしてしまった。

「お前がただの故郷の知恵だと言うそれは、とても優れたものだと思う」

…そっか。そうなんだ。私にとっては当たり前だったけど、ここでは当たり前じゃないんだな。
未来では義務教育として誰もが通る道で、大したことのないものだと思っていたけれど、この時代、この場所を生きる彼らの目には、それは全く新しく価値のあるものとして映っている。
そんな私の気付きをなぞるように、冨岡さんはじっと帳面を見つめたまま、ふいに問いかけてきた。

「桁がもっと増えても、算盤なしで弾けるのか」
「え?あ、はい。時間は少しかかるかもしれませんけど、頭の中で筆算すれば、百の位でも千の位でも基本的にはできます」
「では、複雑な割り算や掛け算もか」
「はい。一応、一通りの計算の方式は、子供の頃に叩き込まれましたから……」

私の答えを聞くたび、冨岡さんの濃紺の瞳がわずかに熱を帯びるように真剣さを増していく。

「文字は。読み書きは、どれほどできる」
「あ……崩した筆文字はまだ完璧には読めないものもありますけど、普通の読み書きなら問題ないです。ここに置かれている本は大体なら読めます」

矢継ぎ早に投げかけられる質問に、私は戸惑いながらも一つずつ答えていく。
そのやり取りを、横で正座したまま見守っていたきよちゃんたちも、ごくりと息を呑んで私たちの顔を交互に見つめていた。
冨岡さんは私の言葉をすべて聞き終えると、腕を組んだまま、しばらく何かを深く考え込むように黙り込んでしまった。
居間に流れる、静かで張り詰めたような沈黙。何を考えているのだろうと、彼の横顔をじっと伺っていると、ふいに冨岡さんが腕をほどき、その涼やかな瞳を私へと向けた。

「丁度いい。お前に頼みたいことがある」
「えっ?」

頼みたいこと、と言葉を返すよりも早かった。
冨岡さんがなぜか、躊躇なく私の手首をそっと掴む。

「あの?」

驚きに目を見開くが、ぐい、と腕を引かれ、抗えないまま私は畳の上から半ば弾かれるようにして立ち上がらされた。

「水柱、さま……?」

突然のことに三人娘が驚いて声を上げる中、冨岡さんは私の腕を引いたまま居間の障子へと歩き出す。

「と、冨岡さん!?どこに行くんですかっ?」

慌てて声をかけるけれど、彼は前を向いたまま「ついて来い」と低く口にして廊下へ出るだけ。

「だ、だめです水柱様!リサさんを連れて行かないでください!」
「お戻しください〜っ!」

三人の必死な声が響くが、冨岡さんは振り返らない。私の歩幅に合わせるように少しだけ速度を落としながらも、どんどん廊下を進んでいく。
待って欲しい。一度止まって欲しい。何が『丁度』で、何が『いい』のかだけせめて教えて欲しい。一体どこへ連れていかれるのか、そして一体何を頼まれようとしているのか。
いきなり有無を言わさず連れ出されるなんて、いくらなんでも唐突すぎる。
やがて、冨岡さんの足がぴたりと止まったのは、見慣れた廊下の奥――いつもお薬の匂いが漂っている、しのぶさんの診察室の前だった。




「胡蝶、入るぞ」

冨岡さんは返事を待つことなく、静かに扉をすっと開ける。
開け放たれた扉の向こうでは、机に向かって熱心に万年筆を走らせていたしのぶさんが、不思議そうにこちらへと首を傾げた。

「あら、冨岡さん。まだ何か?」

いつもの穏やかな微笑みが、彼女の美しい顔に浮かぶ。
けれどその視線が、冨岡さんの手に引かれるようにして部屋に入ってきた私へと移った瞬間、しのぶさんはほんの少しだけ瞳を見開いた。

「あら、リサさんまで?」

驚きを隠さないその呟きに、私は申し訳なさで身がすくむ。
突然部屋に押しかけてしまったけれど、私も何が何だか分かっていないんです。
しのぶさんの視線が、今もなお私の手首をしっかりと掴んでいる冨岡さんの手元へ、そして私の困惑しきった顔へと順番に落とされた。

「どうされました?他人の部屋に入るときはまずノックをしてから返事を待つものですよ、冨岡さん。何度お教えしたら覚えていただけるんでしょうか」

しのぶさんは万年筆を静かに机へと置くと、椅子をくるりとこちらに回し、私たちの方へと体を向けた。

「それとも何か、命に関わるような一刻を争う重大なご用件で?」

ほら、いきなりだからやっぱり怒ってる。ちくちくと、的確に冨岡さんを突きにかかってる。
けれど冨岡さんはいつもと変わらない、感情の読めない無表情のまま。それどころか、ただ真っ直ぐに彼女を見据え、驚くほど堂々とした声でこう告げた。

「胡蝶。しばらく、貸してもらえるか」

…と。部屋の中に、ぽつり、ぽつりと奇妙な時間が流れていく。
貸す、って…一体何を?私もしのぶさんも固まったまま、冨岡さんを呆然と見つめる。

「貸す?何をです?」
「高月を。少しの間借りたい」
「へっ……?」

まさか自分の名前が挙げられるとは思わず、素っ頓狂な声を上げてしまった。
ちょっと待って欲しい。冨岡さんは、一体さっきから何を言っているのだろう。私を「借りたい」だなんて、あまりにも主語が抜けていて誤解を招きすぎる。
しのぶさんはしばらく黙っていたが、やがて、にっこりと完璧な笑顔を作って冨岡さんを見つめた。

「嫌です」

驚くほどきっぱりとした、一ミリの慈悲もない拒絶だった。

「なぜ」

そう問い返した冨岡さんは、あからさまに不満げな表情を浮かべている。

「なぜ、ではありませんよ。リサさんは物ではありません。それに、彼女は今ここで一生懸命に屋敷の手伝いをしてくれているんです。それを、あなたの私用で連れ回すなど許可できるはずがないでしょう」
「私用ではない。高月に、帳簿の整理を任せたい。算盤なしで計算ができると聞いた。読み書きも申し分ない」
「あら、そんな素晴らしい特技が」

帳簿の整理?
しのぶさんは少しだけ驚いたように私に視線を向けたものの、すぐにまた冨岡さんへと向き直り、チクリと笑顔で釘を刺した。

「ですが、それなら尚更お断りです。そんなに優秀な人材なら、なおのこと蝶屋敷で大活躍していただかなくてはなりません。あなたに貸し出す余裕など、微塵もありませんね」

再びきっぱりと突き放され、冨岡さんはまたしても心外だと言いたげに顔をしかめた。
しかし、彼は諦めるどころか、今度は少しだけ声音を落として、より具体的な事情をぽつり、ぽつりと零し始めた。

「……俺の、屋敷の経費の帳簿だ」
「はい?」
「任務や屋敷の補修にかかった費用を記してあるが、しばらく放っていたら数が合わなくなった。俺ではもう手がつけられない」

あまりにも堂々としたお手上げ宣言に、診察室が一瞬奇妙な静寂に包まれる。
しのぶさんは微笑みを貼り付けたまま、ぴくりと片眉を動かした。

「なるほど。つまり、自分でやるのが面倒になったと」
「違う。やってみたが、数が合わなかった」
「………」
「経理の者に提出したら、『数字が違う』と突き返された」
「あら、それは大変。よほどずさんな計算をされたのですね」

ちくちくと、棘を刺すのをしのぶさんはやめない。
…でも意外だ。冨岡さんは何でも上手く、そつなくこなしそうなのに。まさか経費の計算で行き詰まっていただなんて。
そんな格好つかない話を堂々とぶっちゃけてしまうあたり、本当にこの人は言葉通り「他意がない」のだろう。

「それはあなたの都合でしょう?だいたい、そんな大切な書類の作成を、鬼殺隊でないリサさんに丸投げしようだなんて、柱としての怠慢が過ぎますよ。少しはご自分で筆を握る努力をなさったらどうです?」
「俺も、横で一緒に書く」
「そういう問題ではありませんよ」

二人の間で目に見えない火花がパチパチと飛び散っているのが分かって、私は掴まれた手首を握りしめたまま、ただただ縮こまることしかできないかった。
それに、この手はいつまでこうされるのだろう。冨岡さんの体温がじわじわと皮膚に染み込んでくるようで、妙に熱い。

「そもそも彼女は、『私が』このお屋敷で保護すると決めたんです。そう易々と明け渡す筋合いはないと思いますが」

しのぶさんはぴしゃりと言い放った。まるで我が子を頑なに守る母親のような振る舞いに、私の胸は少しだけきゅっと温かくなる。
けれど冨岡さんはしのぶさんの言葉に、何か腑に落ちないものでも感じたようだった。ふいっと、私を自分の背後へと引き寄せるように位置をずらす。

「元々は、俺のものだった」
「ひぇ…」

そして堂々と言い放った。耳を疑うような単語に、頭の芯がカッと熱くなる。

「……リサさん?」

すかさず、しのぶさんからひやりとした声が飛んでくる。
でも、だって、そんな心臓に悪い。ただの暗算から始まったはずなのに、なぜ私の所有権を巡るような、とんでもない話に発展してしまっているのだろう。
確かにこの世界に迷い込んで、身寄りのなかった私をこの屋敷まで連れてきてくれたのは冨岡さんだ。それは間違いないのだけれど。

「……冨岡さん。一度頭の硬さを測ってもらった方がよろしいですよ」

しのぶさんはふぅ、と深くこれ以上ないほど重い息を吐き出すと、片肘を机について額を押さえるようにして頭を抱えてしまった。
私は繋がれた手首の熱さに身を焦がしながら、あたふたとしてしまう。
どうしよう。どうするべきなんだろう。つまり、冨岡さんは私に、彼の帳簿の整理を手伝って欲しいと思ってる。でも、しのぶさんはそれを許可したくない。
蝶屋敷の手伝いとして、ここでしのぶさんたちの役に立ちたい気持ちは本当だ。けれど、あの冨岡さんがわざわざ私の手を引いてまで「助けてほしい」と訴えてくれている。それもそれで、放っておけないような気持ちにもなるわけで…。
私が二人の間で視線を泳がせていると、しのぶさんは額に当てていた手を離し、椅子の背もたれに体を預けた。

「……リサさんは、どうされたいですか?」
「えっ?」
「選ぶ権利はあなたにあります。嫌なら嫌と、はっきり仰って構いませんからね」

しのぶさんの言葉は優しかったけれど、その背後から立ち上る無言の圧力に、私はごくりと息を呑む。
私。私はどうしたいか。ここで「嫌です」と言えば、しのぶさんは全力で私を匿ってくれるだろう。
でも、彼が"適任だ"と思ってくれた、その信頼も嬉しい。

「私は……」

口ごもる私の手首を、冨岡さんの手がほんの少しだけ強く握り直した。

「あの、しのぶさん。私、やってみたいです」
「……え?」
「せっかく私の知っていることが誰かの役に立てるなら……一度、お手伝いしてみたいです。いつも皆さんにはお世話になりっぱなしですし、冨岡さんにも、その、最初に助けていただいた御恩がありますから」

そこまで一気に言うと、しのぶさんは意外そうに目を見開いた。隣の冨岡さんも、ほんの少しだけ驚いた様子で私を見つめている。

「リサさんがそう仰るなら、私は止めませんけれど……」
「助かる」
「い、いえ……!お役に立てるなら私も、嬉しいです」

とはいえ、どんな帳簿なのかまだ何も見ていないから、本当に私にできるか分からないけれど。
でも、これでやっと冨岡さんに恩返しができる。身寄りのない私を救い、この温かい蝶屋敷へと繋いでくれたあの日から、ずっと何かできることはないかと考えていたのだ。
しのぶさんには少し申し訳ないけれど。

「まったく。帳簿を頼むだけの話なのに、大袈裟なんですから」

確かに、それもそうだ。いきなりここへ連れて来られる前に、一言説明が欲しかったかもしれない。私の腕もすでに限界を迎えている。

「あ、あの、冨岡さん。その……それでですね、そろそろ手を、離していただけると嬉しいのですが……」

恐る恐る告げた私に、冨岡さんはハッとしたように私の方を見た。
今になってようやく、自分がずっと私の手首を掴みっぱなしだったことに気づいたらしい。

「すまない」

少し決まり悪そうに視線を逸らしながら、手を解放してくれる。

「……まったく。いつ頃からうちのリサさんを奪うおつもりで?」
「いつ頃…。俺は普段、任務で屋敷を空けていることが多い。だから今度の昼に鴉を――」

けれど、解放された手首に残る、大きい手のひらの余韻。そこだけが妙にじんじんと熱を持ったままで、私は真っ赤になっていく顔を隠すように俯くしかなかった。





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