18


薄明かりの居間には、火鉢の炭がぱちぱちと小さく弾ける音が続いていた。
行灯の火がゆるく揺れ、畳の模様や障子の縁をやわらかく照らし出す。
その淡い光の中、火鉢の前に座る三つ並んだ影が、こじんまりと寄り添っていた。

「九、八……ええと……七十二?」
「正解!」
「やったぁ!」

小さな声が弾み、三人の顔がいっせいに明るくなる。
私は正座を崩しながら、座卓の上に並べた豆の数を整えた。そして「九九」の表を指さす。
普段はみんな立派に負傷した隊士の世話をこなし、屋敷の中を駆け回っているが、こうして豆を並べて笑っている今の彼女たちは、ただのあどけない子どもにしか見えない。
笑い声が重なるたび、屋敷の空気までやわらかくなるようで、私も思わず頬がゆるんだ。

「じゃあ六かける三は?」
「えっと……十八っ!」
「正解。すごい、きよちゃん早いね」

ぱっと花のように笑うきよちゃんの頬が、行灯の光に照らされて赤く染まる。
この時代では、算盤を弾いて計算するのが当たり前のようだった。数字を頭の中で扱う「暗算」という考え方は、まだ一部の商家や学者にしか馴染みがない。
だから、九九を声に出して覚えるのも、こうして豆を使って数を目で確かめるのも、皆にとってごく自然な勉強法になった。

「じゃあ、次はお釣りの計算をしてみようか」

私は豆を三つ指で摘んで、机の上に並べる。

「一つ二銭の団子を八本買いました。あわせていくらになる?」
「にはち……十六銭」
「そう。じゃあ、二十銭出したらお釣りはいくら?」

私の問いかけに、三人が同時に指折り数え始める。

「十から六を引いて……四銭!」
「正解!みんなすごいね。…じゃあ次、もう少し難しくしてみようかな」
「は、はいっ…!」

ぱっと笑い声が広がり、三人の顔が同時にほころぶ。
指を折りながら一生懸命に考える姿はどこか可愛らしくて、ひとつひとつ答えを導き出すたびに、豆の転がる音が小さな歓声のように響く。
この調子だと、暗算ができるようになるのもすぐだろう。

「それにしても、リサさんってやっぱり頭がいいんですね」
「ううん、そんなことないよ。私のところではみんな学校で習うだけで…」
「へえ…いいなあ。あたしたちも通ってみたいね」

すみちゃんが目を丸くしてつぶやくと、あとの二人もうんうんと頷く。私はその笑顔を見つめながら、胸の奥が少しきゅっとなった。
教育を受けることが当たり前ではないこの時代で、彼女たちは働きながらも新しいことを吸い取るように覚えていく。
だからこそ、豆の数を数えて「できた!」と笑うその瞬間が何より尊く思えた。

「リサさんが私たちの先生ですね」
「せ、先生なんて。そんな大層なものじゃないよ。…ふふ、でも嬉しい」

気付けば、彼女たちに勉強を教えるのが小さな日課になっていた。洗濯や炊事の合間、短い時間を見つけては、豆や石を使って足し算や引き算、九九の練習する。
そんな穏やかな時間が、私も日々の楽しみになりつつあった。

「そろそろ夕餉の時間だね。アオイさんのところに向かおうか」
「そうですね。あ、リサさん。今日の献立はなんだと思いますか?」
「え、なにかな?」

すみちゃんの一言で、そこから夕餉の献立予想が始まった。
みんなで、ああでもないこうでもないと言いながら豆を片付けていると、廊下の障子の向こうからかすかに冷たい空気が流れ込んでくる。
その時はとくに気に止めなかった。木造建築は隙間風なんて日常茶飯事。もうすぐ春なのにまだまだ寒いなあと考えていた、その時だった。

「……豆か」
「ひゃっ…!?」

耳元すぐの低い声に、大きく肩が跳ねた。
慌てて左耳を押さえながら振り返る。

「と、冨岡さん…!?」

そこにいたのは、冨岡さんだった。
背後で腰を曲げるようにして顔を寄せられていて、ふわりと息が顔の近くを掠める。
どうやら気配を消して近づいてきたらしい。しのぶさんもよくするし、それに前にもあったが、これは柱の特性なのだろうか。心臓に悪すぎる。

「……あっ、水柱様!」
「み、水柱様っ……!」

三人も驚いたようで、声がいっせいに上がる。
きよちゃんとすみちゃんが慌てて立ち上がり、なほちゃんも目を丸くして正座を正した。
一方で私は、まだびくびくして手で耳を押さえたまま、涙目で彼を見上げる羽目になっていた。

「……け、気配を、消して背後に立つのは……やめてください……!」

声が情けなく震える。
冨岡さんは、ようやく自分の行動に気づいたように目を瞬かせ、姿勢をすっと戻すと、なぜか明後日の方向に視線を逸らした。
そして珍しく、少し狼狽えたような声で口を開く。

「……すまない」

あの冨岡さんが、目をそらし気味に謝っている。
その姿に、三人娘がぽかんと目を丸くして、次の瞬間くすくすと笑いをこらえ始めた。
なほちゃんが口元を押さえて「びっくりしたよね……」と小声で囁く。
本当にそうだ。こっちの心臓の鼓動はまだ落ち着いていない。こんな静かな夜に、突然こうして現れるとは。

「……と、冨岡さんはっ」

慌てて姿勢を正し、私はできる限り平静を装って口を開いた。

「任務……から、お戻りですか?」

声が少し上ずったのが自分でもわかる。
けれど冨岡さんは特に気にする様子もなく、静かに頷いた。

「…ああ。さっき、胡蝶の診察を受けてきたところだ」

その一言を聞いた途端、なぜか胸の奥がふっと緩んだ。
――本当に、無事に帰ってきたんだ。頭では任務なんて日常の一部だとわかっているのに、姿を見るまで、心のどこかで不安があったのかもしれない。
あの時の隠の人たちの会話も気になっていたから、こうして元気そうな姿を見れて良かった。

「高月は…手習いを見てやっていたのか」

唐突に話題を戻すその調子も、いつもの冨岡さんだ。私は未だどぎまぎしながら、なんとか声を絞り出した。

「……は、はい。少しだけ……」

冨岡さんの視線が卓上の豆に移る。
無表情なのに、なぜかその沈黙が気になって仕方がない。

「算盤がないが、お前は頭の中で勘定が立つのか」

その言葉の意味を掴めず、私はきょとんとしたまま小さく瞬きを繰り返した。

「え?えっと……はい」

声が少し上ずる。
その途端、三人娘が顔を見合わせ、うれしそうに声を弾ませた。

「リサさんは複雑な計算も早いんですよ」
「それに帳面をまとめるのも上手なので、アオイさんもすごく助かってるんです!」
「冨岡様もご覧になりますか?」

途端に、場の空気が明るくなる。
きよちゃんが私の書いた帳面を差し出すと、冨岡さんはそれを片手で受け取った。
そして、静かにぱらぱらと中を確認する。その仕草に私はどこか不安を覚えた。

「あの……もしかして、何かいけませんで───」

なにか、間違いでもあったのだろうか。
冨岡さん見るからに育ちが良さそうだし、私よりも計算も速そうだけど…。
それとも、女が子どもに算術を教えるなんて、この時代ではよくないことだったのだろうか。女性が教育を受けられるようになったのは、現代に近い頃だと学校で習った記憶がある。
身分も定まらぬ身で、出しゃばった真似をしてしまったのかもしれない。
胸の奥がひやりと冷たくなる。しかし、その問いかけの途中だった。

「ちょうどいい、頼みたいことがある」
「え?」

気付けば、冨岡さんの影がすっと目の前に近づいていた。戸惑う間もなく、彼の手が私の右手首をとらえる。

「えっ……!?」

ぐい、と軽く引かれた拍子に座布団が後ろへ滑った。そのまま立ち上がると、なぜか冨岡さんは私の腕を引いて歩き出す。
「水柱様……?」と三人の戸惑う声が背中に追いかけてくるが、彼は止まる気配がない。

「と、とみおかさん……!?」

私も驚いて思わず声をあげる。
どうして急にこんな──?怒っているわけじゃないよね?
さっきまで皆と一緒に笑っていた空気が、遠くの部屋に置き去りになったようで、温度が追いつかないまま身体だけが前へ進んでいく。

「だ、だめです水柱様っ!リサさんを連れて行かないでください!」
「お戻しください〜っ!」

三人の必死な声が響くが、冨岡さんは振り返らない。
片手に帳面、片手に私を。彼の指が手首を包む温度だけがやけに鮮明で、その静かな力に私は言葉を持っていかれた。
戸口の影がすぐそこまで迫り、私は息をのみながら、そのまま廊下へと連れ出された。








冨岡さんは、どこへ向かっているんだろう…。
足音がふたつ、静かに重なる。私の歩幅より少しだけ大きくて、遅れまいとついていくだけで心臓が忙しい。
声をかけるタイミングなんて掴めないまま、冨岡さんの背中ばかりを追いかけていた。
時々、彼の羽織の端が揺れて私の指先にかすかに触れそうになる。

やがて、冨岡さんの足がふっと止まった。引かれていた手首の力が少し緩む。
顔を上げた先にあったのは、隙間から灯りが漏れる診察室の扉だった。
どうしてここに――その疑問が胸の奥で膨らむ。
けれど、訊ねる前に、冨岡さんはゆっくり扉へ手を伸ばしていた。

「……胡蝶。入るぞ」

それだけ言って、返事を待つこともなく扉をすっと開けてしまう。
音もなく開いた扉の向こうには、机に向かって何か書き物をしていたしのぶさんの姿があった。

「あら、冨岡さん」

万年筆を手に持ったしのぶさんの顔が上がる。

「まだ何か……あら、リサさんも?」

薄紫の瞳がこちらを振り返り、驚いたように目を瞬かせた。そして、一拍おいてゆるやかに笑みを作る。

「…どうされました?診察室は、まずノックをしてから入るものですよ。それとも、命に関わるご用件でしょうか?」

柔らかい声色のまま、棘を含ませる調子はいつものしのぶさんらしい。
その視線がすぐ私の手首に落ちる。冨岡さんの手が、まだしっかりと私を掴んでいるそれを見て、どこか意味ありげに目を細めた。
私は心臓をばくばくさせながら、二人の会やり取りを眺める。普段のしのぶさんはとっても穏やかなのに、冨岡さんと話す時だけ少し温度が変わるのはなぜだろう。
そろりと冨岡さんを見上げるが、彼は眉一つ動かさない。意外と気にはしていないのかもしれない。いや、気に…している?

「しばらく、貸してもらえるか」

その時、唐突に発せられた冨岡さんの言葉に、場の空気がしーんと静まり返った。
しのぶさんも私も、一拍どころか三拍くらい思考が硬直する。
えっと…?何かを、今、貸す話だっただろうか。いや、そもそも話の流れが飛躍しすぎていてついていけない。
困ったときの私の視線は、どうしてもしのぶさんを探してしまう。けれど、しのぶさんもまた、わずかに瞬きをしているだけでしばらく固まっていた。そして万年筆を机の上に置くと、くるりとこちらに椅子を回す。

「…貸す?何を、です?」

にっこりと笑顔を崩さず聞き返した。
私は内心怯えてしまう。その表情の裏に、隠しきれない棘の気配が滲んでいたからだ。

「高月を。少しの間、借りたい」
「……へ?」

思わず変な声が出てしまった。
言葉の意味がまったく追いつかず、口が半開きのまま固まる。
今、彼はなんと…?

「……え、あの、借りるって……えっ、私を?」

爆弾発言になりかねない言葉に、大きく動揺してしまう。揺れる私の声の裏で、さすがのしのぶさんも呆れたように深く息を吐いた。
もし扇子でも持っていたなら、間違いなく今、顔の前でぱたぱたと仰いでいたに違いない。

「…冨岡さん。理由もなく“人を貸せ”とはずいぶん乱暴なお話ですね。どういったご用件でしょうか?」

声の柔らかさが、ここで完全に消えた。
それでも冨岡さんは表情を変えず、静かに答える。

「高月に、帳簿を見てほしい」
「帳簿、ですか?」
「屋敷の経費の帳簿だ。任務や補修の費用を記してあるが……しばらく放っていたら、数が合わなくなった。俺では手がつけられない」

その言葉は冗談ではないようだった。
淡々とした声なのに、どこか焦りの色が滲んでいる。

「…なるほど。つまり、自分でやるのが面倒になったと」
「違う。やってみたが、合わなかった」
「……」
「経理の者に提出したら、数字が違うと返された」
「……あら、それは大変。よほどずさんな計算をされたのですね」

ぴたりと張り付いた笑みの裏で、しのぶさんの瞳がほんの一瞬だけ細められる。
火花が散るような無言の空気が、二人の間に広がった。
横を見る勇気もないのに、手首だけは相変わらずしっかりと掴まれていて、逃げ場がふさがれている感じが余計に心臓を掻き立てる。

「それでリサさんを……」

しのぶさんが軽く息をつき、肩をすくめる。

「隠の方にやっていただいたらどうです?」
「隠では、ここまできれいに整理できない。数字も追いきれない」

即答。ためらいの欠片もない。
そう言いながら、右手に持った帳面をしのぶさんの前に差し出した。まるで「これを見れば分かるだろう」とでも言うような仕草で。

「これを?」

しのぶさんは少し目を瞬かせ、帳面を受け取った。さっき、私が書いたものだ。
手元に視線を落としたその瞬間から、ふっと表情が変わるのが分かる。帳面に並んだ数字と計算の跡を、静かに指先でなぞりながら小さく息を吐いた。

「……なるほど。確かに、これは“隠”には難しいでしょうね」

しのぶさんの指先が帳面の上をすべるたび、胸の奥がそわそわと落ち着かなくなる。
何が、だろう。そんなに特別なこと、したつもりはないんだけど。
ただ計算して、整理して、揃えただけ。
現代では誰でもやっていることだったのに――この時代では“できるほう”になるのだろうか。

「おまけに計算が速いとさっき聞いた。適任がここにいる」

それだけを言うと、冨岡さんはちらりとこちらを見やった。視線が触れ合う。

「……え、えっと……」

目を泳がせながら口を開くが、腕に残る力が思考の邪魔をする。
あそに書いた何かで、数字に強いと見初められたってことだろうか。嬉しくもあるが、それよりも戸惑いの方が大きい。
冨岡さんはそれ以上説明する様子もなく、ただじっとこちらの返事を待っている。
しのぶさんは帳面を閉じて、小さく息を整えた。

「リサさんはすでに蝶屋敷の大切な手伝い人なのですが…困りますね」
「……頼む」

しのぶさんは「困りますね」と言いつつも、どこか唇の端が楽しげにゆるんでいた。
本当に困っている人の顔ではない。
それもそのはず。私がいなくてもこの屋敷はちゃんと回る。

「どのくらいの頻度をお考えで?」
「週に一度。屋敷に来て出納帳の整理を見てもらえれば、それでいい」
「……あら、そうですか。リサさんが良いと言うなら、止めはしませんが。リサさん自身はどうしたいですか?」

そこで、決定権を私に委ねられた。
しのぶさんの穏やかな瞳と目が合う。私は視線を落とし、いまだ離されない手首を見つめた。
その時、冨岡さんの指がほんの少しだけ力を緩める。さっきまであんなにぎゅっと握っていたくせに、その仕草はまるで“断りたければ、断ってもいい”とでも言っているように感じた。

「え、っと……」

――本当に、私でいいのかな。
私はもともと、勉強が得意なわけでも、計算に長けているわけでもない。学生の間にただ、与えられた数字を解いて、それをノートにまとめていたいただけに過ぎない。それの応用で、帳簿を書いているだけだ。
この時代の出納帳なんて、きっと見たこともない形式だ。書き損じたらどうしよう。彼の顔に泥を塗ることになるんじゃないか――そんな不安が胸の奥で静かに泡立つ。
けれど、彼が“適任だ”と思ってくれた、その信頼も嬉しい。これなら、私を助けてくれた冨岡さんの役に少しでも立てるかもしれないとも思う。
二人の視線がこちらに向いているのを感じながら、私は深く息を吸い込む。胸の奥の小さな緊張が、ゆっくりと決意に変わっていくのがわかった。

「その……えっと……私でお役に立てるなら……」

声が自然と掠れる。
目の前で二人の視線がぶつかり合っているのを見ていると、なぜか逃げ出したいような、でも目を離せないような不思議な気分になった。

「……リサさん。手を取られたままでは困るでしょう」

その時、しのぶさんは微笑みを絶やさぬまま、私たちの手元へと視線を移した。

「冨岡さんもいい加減、離してあげたらどうですか?わざとですか?」

ぴくり、と冨岡さんの手が動きを止めた。
一拍ののち、指先の力が静かに抜ける。解放された手首に、かすかに温もりが残っていた。
私は思わずそこをもう片方の手で押さえたまま、どうしていいかわからず立ち尽くす。

「……すまない」

短くそう呟くと、冨岡さんは視線を逸らし、そっと息を吐いた。

「まったく。帳簿を頼むだけの話なのに、大袈裟なんですから」

しのぶさんは肩をすくめ、机の上の万年筆を取り上げた。

「…まあいいでしょう。後日、改めて正式に日取りを決めましょう」
「わかった」

それだけ答えると、冨岡さんは軽く頷き、静かに診察室を出ていった。
戸が閉まると同時に、部屋の空気がふっと緩む。
その瞬間、胸の奥で張りつめていた何かがはじけたように、鼓動がどっと押し寄せた。

び、びっくりした……。
ずっと息を止めていたことに、ようやく気づく。思わず手を胸に当てて深呼吸をしていると、しのぶさんが机の上のカルテをまとめながら、ちらりとこちらを見やった。

「……まったく、リサさんも災難でしたね。冨岡さんは毎回ああいう方ですから」

しのぶさんが小さく笑いながら言う。その声音に苦笑を返しつつ、私は俯いた。
――災難、ではなかった気がする。
確かにびっくりしたけど、腕を掴まれたときのあの真剣な眼差しを思い出すと、胸の奥がまだ少しざわつく。
何かを言葉にできずにいるような……そんな不器用な真っ直ぐさが、指先から伝わってきた。
“必要とされる”という感覚を、あんなふうに感じたのは初めてだ。それを思うと、災難なんて言葉は、少し違う気がした。
顔を上げると、しのぶさんが静かにこちらを見つめていた。その瞳は、まるで心の奥をすべて見透かされているようで思わず息を呑む。

「……でも今回は、少し違ったみたいですね」
「え……?」

首を傾げた私に、しのぶさんはふっと微笑んだ。
心の内側を覗かれたような気がして、思わず視線をそらしてしまう。
言葉にならない感情が胸の奥でゆっくり渦を巻く。

「……」

頬に残る熱は、もうさっきの緊張のせいではない。何かを言い訳のように笑おうとしても、声が喉の奥でほどけてしまう。
そんな私を見て、しのぶさんは帳面を静かに閉じた。

「きっと、冨岡さんもリサさんに感謝してますよ」

言葉の意味をうまく受け止めきれないまま、穏やかなその声が、胸の奥にじんわりと染みこんでいった。



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