18
――明日から、という約束通り、私たちの日課となった小さなお勉強会は、夕暮れ時の居間でひっそりと開かれていた。
「うーん……七足す八は、十五だから……一を上に書いて……」
火鉢のすぐ横で、なほちゃんが小さな手に握った筆を動かしながら、熱心に帳面と睨み合っている。
「あ、そこ惜しいかも。十の位の繰り上げが……」
「あ、本当だ!ここに一を足すのを忘れてました!」
私が横からそっと指し示すと、なほちゃんはパッと顔を輝かせて文字を直していく。
その隣では、きよちゃんとすみちゃんが「できた」と言って、誇らしげに自分たちの帳面をこちらに差し出してきた。
「リサ先生、見てください!今日はそろばんなしで全部できました!」
「頭の中で数字をひっくり返さないように、ちゃんと確かめながらやりました!」
「わあ!みんなすごいねえ」
嬉しそうに笑う二人の頭を、私は愛おしさを込めて順番になでてあげる。
「リサ先生」なんて呼ばれるのにはまだ少し慣れないけれど、教えたコツを一生懸命に吸収していく三人の姿を見ていると、私まで嬉しくなってくる。
こうしてみんなの「分かった」という笑顔に出会えるお勉強会は、私にとっても一日のうちで愛おしい時間になりつつあった。
「よし、じゃあ次はちょっと応用編ね。ここに並べた大豆、全部で二十粒あるんだけど。きよちゃん、すみちゃん、なほちゃんの三人で同じ数ずつ分けたら、一人何粒になって何粒余ると思う?」
「ええっと、三人だから……三、六、九……」
手元に転がした丸くて小さな大豆を指先でつつきながら、三人が真剣に考え込み始めたその時だった。
「……豆か」
「ひゃっ!?」
すぐ耳元で聞こえた声に、心臓が文字通り口から飛び出すかと思うほど驚き、私は悲鳴を上げてその場を飛び退いた。
慌てて振り返った私のすぐ目と鼻の先に、いつの間にか上体を深く折り曲げ、私の耳元に顔を寄せていた冨岡さんの横顔があった。澄ました表情のまま、彼はただじっと手元の大豆を見つめている。
「水柱様!」
「お疲れさまです!」
いつもはめったに居間に姿を見せない寡黙な柱の登場に、三人も驚きながらもちょこんと正座を直して頭を下げる。
「冨岡さん!?いつからそこにいたんですか!?」
「今だ」
全く、本当に、微塵も気配がしなかった。衣の擦れる音も、畳を踏みしめる足音さえも一切。
しのぶさんもよく背後から声をかけてくるけれど、それにしてもこの不意打ちの登場の仕方は全く心臓がもたない。これは、もしかして柱の人たちの特性なのだろうか。
「け、気配を、消して背後に立つのはやめていただきたいです」
ばくばくと狂ったように鳴らし続ける胸を押さえながら、私は冨岡さんを恨めしげに見つめる。
彼に悪気がないことくらい分かっているけれど、突然驚かされたショックで、私の目にはじわりと涙が浮かんでしまっていた。
「すまない」
せめて足音くらいは立ててほしい。
そう思いながらぐっと涙を堪えていると、冨岡さんはようやく自分の行動に気づいたようで、姿勢を戻すと明後日の方向に視線を逸らした。
私は胸元を両手でぎゅっと押さえ込み、ほうと息を吐き出す。
ああ、でも。相変わらず言葉足らずで、いつも通りの冨岡さんだ。
ちゃんと、ここにいる。私の目の前に。無事に、戻ってきてくれた。生きていてくれた。
冨岡さんはあんな噂をこれっぽっちも知らないのかもしれないけれど。こうして実際に自分の目で無事を確かめることができた。
飛び跳ねた心臓が落ち着きを取り戻すと同時に、胸の奥からじわりと温かいものが込み上げてくる。
「……冨岡さん」
「なんだ」
視線を逸らしたまま、ボソリと問い返してくる横顔を見上げる。
「無事で、よかったです。本当によかった」
心からそう呟くと、冨岡さんは逸らしていた視線をゆっくりとこちらに戻した。
そして、何を言われたのかさっぱり分からないといったふうに、青い瞳を瞬かせてきょとんと首を傾げるのだった。
_______
「水柱様は、今日はしのぶ様の定期検診でしたよね?」
「ああ」
「お変わりなかったですか?」
「……ああ」
「良かったです!」
相変わらず言葉の少ない冨岡さんと、その二言三言だけで事足りてしまう皆のやり取りがなんだか微笑ましい。
いつもなら用が終わるとすぐに立ち去ってしまう人だが、今日は違うみたいだ。彼の視線はやがて、座卓の上に散らばった大豆へと落とされる。
「それはなんだ」
「あ、これは算術の勉強に使っていた大豆で……」
「豆まきか」
「違います」
即座に突っ込むと、冨岡さんはどこか心外そうにほんの少し眉を寄せた。
「リサさんに暗算を教えてもらっているんです」
「暗算?」
「はい!リサさん、そろばんなしでパパッと計算しちゃうんですよ」
「水柱様もご覧になります?」
きよちゃんが座卓の上に広げられていた帳面を嬉々として冨岡さんの前へ差し出すと、彼はそれを受け取った。
「あっ、別にそんなに大したものじゃなくて……!」
慌てて手を伸ばして制したものの、冨岡さんはすでに真剣な面持ちで帳面に落とした視線を動かそうとしない。そのまま長い指先で、ぱらぱらと頁をめくりはじめる。
小さくなって静観する私を余所に、彼は何度か視線を往復させると、ぽつりと呟いた。
「……よく、まとめられている」
「そうなんです!」
すみちゃんたちが待ってましたとばかりに声を揃える。
「この出納帳も前のが少し見にくかったので、リサさんが新しく格好いい表に書き変えてくれました」
「項目ごとに分かれていて、とっても見やすくなったんです!」
「い!いえ!私はただ収支を分けて整理しただけで……!」
み、みんな?誇らしげな三人の言葉が嬉しい反面、なんだかすごく恥ずかしくなってくる。そんなにも穴が開くほどじっと眺めるものでもない。
しかし、この時代において、計算といえば算盤を使うのが当たり前で、頭の中だけで計算を完結させる「暗算」という技術はまだまだ一般的ではないみたいだ。専門的な教育を受けた人か、一部の商人くらいしか馴染みがない。
だから、彼女たちの目にはちょっとした特技のように映っているのだ。
「大したものだ」
ふいに、帳面から目を離した冨岡さんが静かにそう告げた。
「使う者の手間までよく考えられている」
「え……」
ぼっ、と熱が一気に頬へと駆け上がる。
冨岡さんだって、これくらいの計算や処理なんて容易くこなせてしまいそうなのに。
「あ、ありがとうございます……」
「お前の底が知れなくて驚いてる」
「い、いえ!ただの故郷で学んだ知恵なので、本当に大したものではないんです」
でも、彼に認めてもらえて素直に嬉しい。
私にとっては、ただ日常で当たり前に身につけていた、生活の知恵のようなものだ。特別な勉強をしたわけでも、立派な学問を修めたわけでもない。
「お前がただの故郷の知恵だと言うそれは、とても優れたものだと思う」
けれど、冨岡さんにはっきりと言われて私は考えを改めた。
…そう、だよね。そう、なんだよね。誰もが当たり前のように学校へ通い、読み書きや計算を教えてもらえる未来の世界。
だけど、この時代はそうじゃない。誰もが均等に教育を受けられるわけではなく、今日食べるものや生きることに精一杯な子どもたちだっているのだ。
未来の当たり前をそのまま持ち込んで、ただの知恵だなんて言ってしまった自分の浅はかさに恥ずかしくなってくる。知識や技術を学ぶということは、とても貴重で、価値のあることなのに。
当たり前のように学校に通えていた自分。そして、さっきまで目を輝かせて計算を頑張っていた三人の姿が頭に浮かぶ。
彼女たちにとって、読み書きや計算を覚えることは、すごく特別で嬉しいことなんだと思う。
「……ありがとうございます。みんなも、ありがとう」
私は照れくささと少しの反省を込めて、ぺこりと頭を下げた。三人の顔を順番に見つめると、「えへへ」と嬉しそうな声が返ってくる。
「桁がもっと増えても、算盤なしで計算できるのか」
「…あ、はい!時間は少しかかるかもしれませんけど、基本的にはできます」
「複雑な計算もか」
「はい。一応、一通りの計算の方式は子供の頃に叩き込まれましたから」
冨岡さんが帳簿を手渡してきたのを、私は受け取りながら笑顔で答えた。
「文字は。読み書きは、どれくらいできる」
「崩した筆文字はまだ読めないものもありますけど、普通の読み書きくらいなら……」
ただの世間話にしては、いつも言葉少なな冨岡さんが矢継ぎ早に質問してくるのが少し不思議だった。
暗算ができるかとか、文字がどれくらい読めるかとか、まるで私の能力を細かく確かめているみたいだ。
理由の掴めない彼の問いかけに首をかしげつつ、散らばった豆を集めていると。
「丁度いい。お前に頼みたいことがある」
「えっ?」
間髪を入れずに落ちてきた声に、私は手を止めて顔を上げた。
次の瞬間、私の返事を待つこともなく冨岡さんの手が伸びてきて、私の手首を掴み取る。
「え、ちょっ……!?」
ぐいっと強い力で引かれ、勢いよくその場に引き起こされた。
冨岡さんはそのまま一切の迷いもない足取りで廊下へと向かって歩き出してしまう。
「冨岡さんっ!?」
「水柱様!だめです!リサさんを連れて行かないでください!」
「お戻しくださいーっ!」
なほちゃんたちが必死に引き止めようと声を上げるけれど、冨岡さんは振り返る素振りすら見せない。長い脚でぐんぐんと歩を進め、私を連れたまま部屋をあとにしようとしている。
突然のことに混乱した頭のまま、私は必死に足をもつれさせながら彼の背中を追いかけた。
*
やがて冨岡さんの足が止まったのは、いつもお薬の匂いが漂っているしのぶさんの診察室の前だった。
私の心臓は不意打ちの出来事にどくどくと跳ね上がりっぱなしだ。
診察室に連れてこられたことと、私の計算や読み書きの能力を確かめていたことは、何か関係があるのだろうか。
「胡蝶、入るぞ」
理由も告げずに私をここまで連れてきた当の本人は、涼しい顔で呼びかけると扉をすっと開け中に入った。手を引かれたまま、私も中へと足を踏み入れる。
「あら、冨岡さん。まだ何か?……あら、リサさんも?」
机に向かって熱心に万年筆を走らせていたしのぶさんは、顔を上げて驚いたように目を見開いた。
突然部屋に押しかけてしまった申し訳なさで、私は身がすくむ。
「どうされました?部屋に入るときはまずノックをしてからと、何度お伝えしたら覚えていただけるのでしょうか」
しのぶさんは万年筆を静かに机へ置くと、椅子をくるりと回しこちらに体を向けた。
ほら、いきなりだからやっぱり怒ってる。ちくちくと、的確に冨岡さんを突きにかかってる。
けれど冨岡さんはいつもと変わらないすまし顔のまま。どういう感情の顔なのだろうか、これは。
彼は真っ直ぐにしのぶさんを見据え、驚くほど堂々とした声で告げた。
「胡蝶。しばらく、貸してもらえるか」
…と。
部屋の中に、ぽつり、ぽつりと奇妙な時間が流れていく。
「……貸す?何をです?」
「高月を。少しの間借りたい」
「へっ?」
まさか自分の名前が挙げられるとは思わず、素っ頓狂な声を上げてしまった。
ちょっと待って欲しい。冨岡さんは、一体さっきから何を言っているのだろう。私を「借りたい」だなんて、あまりに主語が抜けていて誤解を招きすぎる。
しのぶさんはしばらく黙っていたが、やがてにっこりと笑顔を浮かべて冨岡さんを見据えた。
「嫌です」
「なぜ」
そう問い返した冨岡さんは、あからさまに不満げな表情を浮かべる。
「あなたの私用でリサさんを連れ回すなど許可できるはずがないでしょう」
「私用ではない。高月に、水柱邸の帳簿の整理を任せたい。算盤なしで計算ができると聞いた。読み書きも申し分ない」
「…あら、そんな素晴らしい特技が」
しのぶさんは感心したように私へと視線を向けた。
手首を掴んでまで強引に連れてこられた理由が、まさか「帳簿の整理」だなんて、一体誰が想像できただろう。
柱の人たちって、そういう屋敷の会計管理みたいな事務仕事も自分たちでやってたりするのだろうか。
「そんなに優秀な人材なら、なおのこと蝶屋敷で活躍していただかなくてはなりませんので却下ですね」
再びきっぱりと突き放され、冨岡さんはまたしても心外だと言いたげに顔をしかめる。
「話の前提が色々と跳び越えている気がするのですが。リサさんにはもう承諾を得たのですか?」
「いや、」
「まさか強引にこちらまで?」
「………」
冨岡さんの言葉足らずな振る舞いには少しずつ慣れてきたつもりでいたけれど、物静かな見た目に反して、意外にも思い立ったらすぐに行動へ移してしまう人らしい。
判断が早いというか、良く言えば決断力があるというか。
「あの、冨岡さん。私そんな大事な帳簿の整理はちょっと……」
柱の重要機密かもしれない帳簿に触れるなんて、私には少し荷が重かった。万が一にも書き間違えたり、機密を漏らしたなんて疑われたりしたら一大事だ。
そう思って、やんわり断りの言葉を挟んだつもりだったのだが。
「任務や屋敷の補修にかかった費用を記してある帳簿だ。そんなに気負わなくていい。しばらく放っていたら数が合わなくなったから、お前に見て欲しい」
…そうも、真っ直ぐに言われると断るにも断りにくくなる。そんなふうに綺麗なお顔でこちらを見ないでほしい。
冨岡さんの説明を聞く限り、どうやら隊の重大な機密情報というわけではなく、単に個人的に放置して計算がズレてしまった帳簿の修正をしてほしいだけのようだ。
理由が分かって少し拍子抜けしたものの、だからといって「それなら大丈夫です」と安易に頷けるものでもない。
「なるほど。つまり、自分でやるのが面倒になったと」
「違う。やってみたが、数が合わなかった」
「………」
「経理の者に提出したら『数字が違う』と突き返された」
「あら、それは大変。よほどずさんな計算をされたのですね」
冨岡さんとしのぶさんはじっと見つめ合っていて、その空気は決して穏やかではない。というか、かなりピリピリというか…バチバチというか…なんというか。とても気まずい。
それに、この手はいつまで握られているのだろうか。
「だいたい、そんな書類の作成を鬼殺隊でないリサさんに丸投げしようだなんて、柱としての怠慢が過ぎますよ」
「もちろん俺も横で一緒に書く」
「そういう問題ではありませんよ」
しのぶさんは呆れたようにため息をつく。
「そもそも、リサさんのことは『私が』このお屋敷で預かると決めたんです。そう易々と渡すわけがないじゃないですか」
「……いや」
しのぶさんのその言葉に、冨岡さんは何か腑に落ちないものでも感じたようだった。
突然手を掴まれたまま、ぐいっと彼の背後へと引き寄せられる。
「もともとは俺のものだった」
ひぇ、と間抜けな声が漏れた。自分の耳を疑う。
思わず掴まれたままの手首に力を込めて引っ張ろうとしたけれど、びくともしない。それどころか、彼は私の手を握ったまま、まるで自分の所有物を後ろに隠すみたいに、少しだけ前に踏み出してみせる。
「……『俺のもの』、ですか」
案の定、正面に座るしのぶさんの声が一段と低くなった。
「俺が見つけ、ここに連れてきた。だから道理は通っているはずだ」
「通っていませんよ、何一つ」
確かに、最初にこの時代へと落ちてきた私を見つけて、保護してくれたのは冨岡さんだ。
合ってる。合ってはいるのだけれど。どうして私の所有権を巡るような、とんでもない話に発展してしまっているのだろう。
「あ、あのお二人とも……」
「ちょっとリサさんは黙っててください」
「えっごめんなさい」
ぴしゃりと言われてしまえば口を噤む他ない。
冨岡さんがこうもしてまで私に頼ませたい理由もよくわからないし、普段ならさらりと受け流しそうなしのぶさんが敢えて言い返していることにも驚いている。
これ以上二人のバチバチを見守っているわけにもいかないし、手首は掴まれたままで落ち着かないし、何よりこのままじゃ永遠に話が進まない。
要は私がちょっと水柱邸に行って帳簿の計算を手伝ってくれば全部解決するのだ。掴まれたままの手首にぐっと力を込め、私は覚悟を決めて二人に向かって声を張り上げた。
「わ、わかりました!やります!私、帳簿のお手伝いやりますから!」
しのぶさんも冨岡さんも、同時にパチクリと目を丸くしてこちらを見る。
「リサさん?無理に引き受ける必要はありませんよ」
「胡蝶の言う通りだ」
いや、冨岡さんが頼んできたんじゃ…。
でも一度やると腹を括った以上、ここで「じゃあやめます」と退くのもなんだか違った。
「いえ!冨岡さんには助けていただいた恩もありますし、簡単な計算の確認くらいなら私にもできます!やらせてください!」
なぜ私の方から頼み込む形になっているのか。色々とずっとおかしい気がするが致し方ない。これでこの場を収拾できるなら。
勢いで言い出してしまったけれど、困っている冨岡さんの力になりたいという気持ちに嘘はなかった。最初に助けてくれた命の恩人だし、私の能力を評価して頼りにしてくれたことが、素直に嬉しかったのも事実だ。
「本当に大丈夫ですか?」
まだどこか心配そうに眉をひそめるしのぶさんに、私は「はい!」と力強く頷いてみせた。
かくして、私と冨岡さんの奇妙なお手伝いの時間が始まったのである。
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