19


インク瓶。万年筆。そして、計算を書き留めるための真っ新な帳面。念のために予備の替え芯と吸い取り紙も重ね、指先でインクの残量を確かめる。
うん。足りないものはない、かな。あ、そうだ。
ふと思いついて、私は小さなお包みを隣に並べた。中身は、アオイさんにお願いして分けてもらった干菓子だ。長時間の数字仕事は絶対に頭が疲れるから、甘いものがあった方が絶対に捗るはず。
これでよし。忘れ物はないはず。心の中でそう呟いて、満足げに頷いたそのときだった。

「え?本当にリサ、毎週冨岡さんのお屋敷に通ってるの?」

背後からお煎餅をバリッと噛み砕く音と一緒に、驚いたような声が降ってくる。そこには、いつものように任務の合間に蝶屋敷へ寄ってくれた尾崎さんが、座卓越しに目を丸くしてこちらを見ていた。
彼女が動くたび、その首元で以前一緒に買ったのと同じ青色の石がきらりと揺れる。

「うん。そうだよ」

私は手元を片付けながら、何でもないことのように返事をした。

「あの冨岡さんのお屋敷に?」
「うん。冨岡さんが私の計算が速いって見初めてくれたみたいで……出納帳の整理を手伝いに」

あくまで淡々と、事実だけを伝えるようにそう答える。

「へぇ……。見初めて、ねぇ」
「帳簿のことだよ?」

苦笑しながら言うと、尾崎さんは楽しそうに肩をすくめた。
尾崎さんの言う通り、あれから私は時々冨岡さんの屋敷へ通うようになっていた。今のところは、二週間に一回ほど。しのぶさん経由で鴉から手紙を受け取り、帳簿の整理を手伝いに向かう。
最初は間違えたらどうしようと緊張してばかりだったが、今では少しずつ形になってきている。バラバラだった数字も数が合うようになり、冨岡さんからも「助かった」との言葉をもらった。

「それで、本当なの?だから明日も水柱の屋敷まで行くって?」
「そうだよ」
「屋敷に?」
「うん。いつも通り、午前中だけ」

冨岡さん自身、決して計算ができないという訳ではない。算盤をとても速く弾いて使っているのを見たし、なんなら得意な方に入るのではないかと思う。
だけど任務の費用だの、屋敷の生活費だの、そういう細かい数字の作業がどうやら嫌いみたいだ。
冨岡さんのお屋敷は彼の印象そのままの場所で、人里離れた場所にぽつりと建っている。とても静かで、穏やかで、落ち着いた場所だ。
そこにいるとまるで、水の流れの中に身を置いているような――そんな感覚になる。
人の出入りもほとんど感じず、蝶屋敷とは大きく違っていた。おそらく、常駐している女中さんなどもいないのだろう。そのせいもあって、彼の暮らしぶりは謎に包まれたままだ。
そんな静けさを好む冨岡さんだから、経理のようなこざかしいものが嫌いなのも理解できる。

「水柱の屋敷がどこにあるのか知らないけど、ここからけっこう距離あるんじゃない?」
「そこまで遠くないし、慣れたよ。道ももう覚えたし」

それにしても、冨岡さんも物好きだ。私じゃなくても、もっと適任の人がいただろうに。
頼まれたからには全力で手伝うつもりだが、どうして私にお願いしてくれたのか、未だに分からない。
私が座卓の上の道具を巾着へと仕舞い始めると、尾崎さんはお煎餅の最後の一欠片を口に放り込み、ふいに対座する私の顔をじっと覗き込んできた。

「……ねぇ、それってさ、そのお屋敷には冨岡さんしかいないの?」
「え?う、うん。隠の方とかもほとんど見かけたことないし、いつも静かだよ」
「それってどうなの?」
「どう、とは……?」

驚いたように言う尾崎さんに、私は苦笑を返す。
冨岡さんしかいない、と言っても冨岡さんは必要なこと以外はほとんど喋らない。私にして欲しいことの要点だけ伝えると、自身も座卓の向かいのに座り込み、別の書類仕事をしている。
私が帳簿を書き終え確認のために声をかけると、その時にやっと目が合うくらいだ。ほとんど会話はない。

「へぇ。……じゃあ、明日もその広いお屋敷に二人きりになるんだ?」

尾崎さんはわざとらしく声を潜め、机に肘をついて顔を近づけてくる。
唐突に突きつけられた言葉の響きに、指先がピクリと跳ねた。巾着の紐を結ぼうとしていた手が、一瞬だけ不自然に止まる。

「う、うん。そうだよ。何か気になる?」

私は極めて冷静を装って、平然とした声を意識しながら答えた。

「ううん。ふふ、なんでもない。ただ、そんなに柱と顔を合わせてたら気も張るだろうなって」
「確かに最初はそうだったけど、今は慣れたかな」

"慣れた"というより、緊張が解けてきたって感じだ。
ただ、やっぱり時々、ふとした瞬間に何とも言えないそわそわ感を覚えてしまう。以前のような、もうこちらを見ないで欲しいというような動揺はしなくなったが、だからといって平気な顔でいられるわけでもない。
いや、むしろ、緊張をしすぎていて何も感じられていないのかも。
すると尾崎さんがなぜか、ふふ、と喉の奥で楽しそうに笑った。

「でも、良かったね」
「え?良かった……?」

投げかけられた温かい言葉に、私はぱちくりと瞬きをする。尾崎さんは机についた肘に顎を乗せ、首元の青い石を指先で揺らしながら優しく目を細めた。

「だってリサ、なんだか嬉しそうなんだもん」
「そ、それは……嬉しいよ。だって、やっと冨岡さんに恩返しができるんだから」

だから、頼られたからには全力で手伝いたいし、彼の力になれる今の状況が純粋に誇らしくて嬉しい。それは間違いない。

「私、いつも皆さんにお世話になりっぱなしだから、こういう形でも誰かの役に立てるのが、ただありがたいの」
「……リサは本当に真面目で健気ねぇ」
「そんなことないよ」

そう。頼ってもらえたことが純粋に嬉しくて、その期待に応えたくて、一生懸命になっているのだ。冨岡さんだって、私の計算の速さを買って書類を任せてくれている。
だから、そんな仕事の場で勝手にそわそわして、変な動揺を抱いてしまうことは間違いだと私でも分かる。
私は気持ちを切り替えるように、座卓の上に残された巾着の紐をきゅっと結んだ。

「そ、それより尾崎さん!また今度の休暇、もし予定が合えばこの前みたいにどこか一緒に出かけない?」
「今度の休暇?」
「う、うん!この間一緒に見た反物屋、春になったら新しい品が入るって言ってたし、また一緒に行きたいなって」
「ふふ、分かった。今度の休暇の日程がわかったら、すぐ睡蓮で知らせるね」
「ほんとう?私待ってるからね」

“睡蓮”――それは尾崎さんの鎹鴉の名前だ。薄い灰色の艶やかな羽を持つ鴉で、鳴き声がほかの鴉より少し静かだから、彼女の落ち着いた印象によく似ている。
任務の伝令だけでなく、時折私宛の手紙まで運んでくれる、少し気の利く使い。

「あ、もう時間だ。…それじゃ、私はそろそろ戻るね。明日気をつけて行ってきてね」
「う、うん、ありがとう。尾崎さんも任務、気をつけてね」

そう言って、お茶を飲み干した尾崎さんはひらひらと手を振りながら、軽やかな足取りで居間を出て行く。
遠ざかっていく彼女の足音を見送りながら、私はそっと小さく息を吐きだした。









カサ、と紙が擦れる音さえ響くとても静かな空間。私の万年筆が小さく紙を擦るたびに、筆の音がそれを追うように続く。それ以外に聞こえるのは、障子の向こうで風が竹を揺らす音だけ。
えっと。ここまでは計算が合ってる。一の位を足して、十の位を繰り上げて…。
心の中でそう呟きながら、黙々と万年筆を動かす。
手元を見つめたまま、視線だけをほんの少し上に動かしてみた。目の前には、端正な顔で黙々と書類に向き合う冨岡さんの姿がある。

「……冨岡さん。あの、終わりました」
「ああ」

私の呼びかけに、冨岡さんは持っていた筆を置きゆっくりと顔を上げた。

「今回は項目ごとに少し分けて書いてみたのですが……確認していただけますか?」

緊張しながら私は手元の帳面を机の上で滑らせ、彼の前へと差し出す。冨岡さんはそれを受け取ると、じっと頁を見つめ始めた。

「……どう、でしょうか。数字、合っていますか?」
「合っている。以前よりも、随分と見やすくなった」
「本当ですか?良かった……。今回は少し表の書き方を変えてみたんです。これなら、どの任務でどれくらい費用がかかったか一目で分かるかなと思って」
「そうだな。助かる」

そう言って、冨岡さんは大きな手で帳面の頁をぺらぺらと捲りだす。その様子をじっと見つめながら、私は心の内でそっと安堵の息を吐き出した。
二週間に一度、こうして冨岡さんのお屋敷に通うようになってからそれなりの時間は経っているけれど、やっぱり彼に書類を差し出す瞬間だけは、毎回どうしても小さく緊張してしまう。ちらり、と冨岡さんを見つめてみると、外から差し込む陽光が、彼の涼やかな顔立ちを優しく照らし出していた。
本当に綺麗な顔立ちをしている人だな、と思う。切れ長の瞳や、影を落とす長い睫毛、そしてすっと通った高い鼻筋。唇の動きひとつにも、ふと目が離せなくなる。
駄目だ。静かすぎると、余計なところが気になっちゃうな。慌てて視線を落とし、万年筆のフタを閉じる音で私は気持ちを誤魔化した。

「お前は、筆よりもそれの方が扱いやすいのか」
「え……?」

唐突な質問に、一瞬言葉に詰まってしまう。冨岡さんはゆっくりと顔を上げると、私が今しがた座卓に置いた手元をじっと見つめてきた。

「いつもそれで文字を書いているだろう」
「あ……これですか?」

私は座卓の上の万年筆を指差した。冨岡さんは小さく「ああ」と頷き、興味深そうにその黒い軸を見つめている。

「は、はい。筆より、こっちの方が使い慣れてて……。先が細いので、細かい数字を潰さずに書くのにもすごく便利なんです」

本当のことを言うと、ただ私が筆と墨に慣れていないだけだ。
文字を書くといえばペンや鉛筆が当たり前。こちらの世界に来てから、アオイさんたちに教わりながら筆の持ち方や墨のすり方を習ってはみたものの、どうしても手が震えてしまって上手く書けないかったのだ。
生まれ変わった先が、この万年筆のある大正時代で本当に助かった。しのぶさんも万年筆を使っていることが多いし、この時代の最先端の文具でもある。
けれど冨岡さんは…、なぜか筆を好んで使っている印象があった。

「冨岡さんは、いつもその筆を使っていらっしゃいますよね?さっきも、お仕事をされている手元が少し見えたんですけど……冨岡さんの字ってもの凄く達筆ですよね」
「そうか?」

意外そうな顔をして顔を上げた冨岡さんに、私は何度も細かく頷いた。

「はい!こうして逆さ側から見ても、すごく綺麗な文字だってすぐに分かります。羨ましいくらいです」

お世辞でも何でもなく、本当に惚れ惚れするような美しい文字だった。よく『字は人柄を表す』なんて言うけれど、それはきっと本当だ。彼の紡ぐ文字には、彼の生き方そのものが滲み出ているような気がする。
けれど当の本人は、褒め言葉が少しもピンときていない様子で一度目を瞬かせた。

「任務の記録は後から他人が読む。だから見やすく書いているだけだ」
「それだけであんなに綺麗な字が書けるなら、やっぱり凄いです」

流れるようで、どこか静かで、芯がすっと通っていて。少し笑って見せると、冨岡さんはしばらく私の書いた帳簿を眺め続けた。

「お前の字も、なかなか個性的で良いと思う」
「個性的、ですか?も、もしかして読みにくかったですか?」

やっぱり、無意識に昔の書き方の癖が出ていたのだろうか。できるだけ、この時代のものに寄せて書くようにはしているのだけれど。

「あの……見にくいところは直すので教えてください。私、幼い頃にちゃんと筆を習ったことがなくて」

綺麗な文字を書くことなんて、今までの人生でなんとなくでしか意識してこなかったから…。

「だから、ですかね……。冨岡さんみたいに、芯の通った達筆にはどうしても書けなくて。ところどころ、線はぐにゃぐにゃに歪んでますし」

冨岡さんの手の中にある自分の書いた帳簿を見つめながら、視線が下がっていく。
万年筆と言えど、ペンに比べれば慣れてないから書きにくい。習字を習っておけば良かったと、これほど後悔した日はない。こちらの世界の人たちの流麗な筆跡とは明らかに違う私の文字に、戸惑わせてしまったのだろう。
それは計算が合うか合わないか以前の問題だ。いくら内容が正確でも、彼がそれを読み解くのに一瞬でも眉をひそめるようなら、それは手伝いとして失格なのだ。

「すみません……」

申し訳なさに俯く。
冨岡さんは帳簿をそっと机の上に置くと、そんな私を真っ直ぐに見つめてきた。

「高月」
「……はい」
「そうは言ってない」
「……でも」
「違う」

冨岡さんは私の言葉を遮るように言った。そしてどこか呆れたように、小さくため息を吐く。

「どこをどう取ったら、そういう話になる」

あれ、なんかまた私怒られてる?
そんなつもりはなかったんだけどな。ただ、彼の綺麗な文字に比べて自分の字があまりにも拙いから、素直に申し訳ないと思っただけなのだ。私はこちらの世界にまともな基盤を持たないから。

「読みにくいとは言ってない」
「でも、個性的だって……」

少しだけ拗ねたように言うと、冨岡さんは視線を落とし、手元の帳簿へと手を伸ばした。そして一箇所を、長い指先でトントンと軽く叩く。

「違う。俺が『個性的』だと言ったのは、読みにくいからではない。…ここだ」
「え?」
「ところどころ、俺の見たことのない漢字が混じっている」

言われて、反射的に身を乗り出して自分の書いた帳面を覗き込んだ。
書き違えた記憶はない。何度も確かめた。それとも、他に何かミスを…。

「ど、どれですか」
「ここと、ここと……」

冨岡さんが指先で示したのは、たとえば「経」や「価」、「数」や「収」などの文字。私にとっては当たり前のように日常で使ってきた漢字だったけれど――。

「……見たこと、ない、ですか」

自分の声がわずかに震えているのが分かる。冨岡さんの視線が怖くて、身体がサアッと冷えるような心地になった。
そこには、私が無意識のうちに書いてしまった、未来の略字の漢字が刻まれていたのだ。こちらの時代の複雑な旧字体ではなく、画数の少ない簡略化された現代の漢字。

「無いな」

どうしよう。やってしまった。気をつけていたつもりだったのに、これも略字だったなんて知らなかった。
いくら言い訳をしようにも、まともな説明が何も思いつかない。まさか「未来の漢字なんです」なんて言えるはずもない。

「えっと、それは……あの……」

言葉がうまく紡げず、私の視線は帳面と冨岡さんの手元の間を何度も激しく泳ぐ。
動揺する頭で思い返してみれば、それは一度や二度ではなかった。私は今日だけでなく、今までの書類仕事でもその漢字を何度も書き連ねてしまっていた。
不審に思わせてしまったはずだ。もし『お前は一体何者だ』って追及されたら、私はなんて答えたらいいんだろう。嘘が下手な私のことだから、絶対にすぐボロが出て、ここに居られなくなってしまうかもしれない。
最悪の想像が頭の中をぐるぐると駆け巡り、目の前が真っ暗になりかける。今さら何を言っても手遅れな気がして、ぎゅうっと瞳を閉じて下を向く。彼から下されるであろう拒絶の言葉を待つように、ただじっと身を硬くしていたその時だった。

「地方によって、書き方が違うのか?」
「え?」

ぽつりと降ってきた穏やかな問いかけに、私は弾かれたように顔を上げた。おそるおそる冨岡さんの顔を盗み見てみれば、ただ純粋にその文字を見つめている。

「……地、方?」
「ああ、方言なのか」

地方。方言。
瞬間、張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れて、私は内心で盛大に安堵の息を吐き出した。

「そ、そうなんです……!地方!えっと、地方によって、その、書き方が違ったりしますよね……!それです!」

ここぞとばかりに食いつき、上ずった声を抑えながら必死に頷いた。嘘をつくのは本当に心苦しいけれど、これしか乗り切る方法がない。
私の必死な弁明を聞いた冨岡さんは、なるほど、と納得したように一度だけ深く頷く。

「読めないことはない。珍しいが、形は整っている」
「わ、……そ、そんなに見ないでください……!」

思わず身を乗り出して、片手で帳簿を押さえ込んだ。
本当に、危なかった。今回はたまたま冨岡さんが「地方の書き方の違い」と都合よく解釈してくれたから助かったけれど、もしこれが他の人だったら、もっと深く追及されていたかもしれない。
このままのんびりと過ごしていたら、またいつ、どんな形で致命的なボロが出るか分からない。その前に、早く間違いを正してしまわないと。

「べ、勉強します……!こちらの漢字も、ちゃんと勉強するので……!私にも、冨岡さんの書くような文字を教えてもらえませんか……?」
「このままで構わない。変える必要もない」
「で、でも……っ」

予想外の拒絶に、私の言葉は途中で詰まってしまった。断られるとは思っていなかったから、なんだか急に突き放されたような気がして、しゅんとしぼんでいく。
いや、でも忙しい柱の冨岡さんにそんな手間をかけさせようとするなんて、少し図々しかったかもしれない。分からないものは自分で調べる、当たり前だ。

「そうですよね。すみません、やっぱり自分で勉強します――」

いたたまれなさに顔を伏せ、無理に笑顔を作って言葉を濁そうとした、その時だった。

「これがお前の故郷のものなんだろう」

冨岡さんは静かに、けれど揺るぎのない声で言った。

「無理に変える必要はない」

え?と、私の口から小さな疑問符が溢れる。意味が上手く頭に届かなくて、私はただじっと冨岡さんを見つめ返すことしかできない。

「その字も、お前の一部だろう」

字も、私の一部…。突き放されたのだと思い込んでいた私の心に、その言葉はあまりにも優しく、そしてあたたかく響いた。
そんな風に考えたことなんて、今まで一度もなかった。ただ、自分はここでは普通ではないから、早くこっちの世界に馴染まなければとそればかり考えていた。未来のことも隠し通さなければ、見つかってしまえば不審がられるしかないのだと。

「本当に……このままで、いいんですか……?」
「ああ。そもそも、慣れ親しんだ故郷の言葉を無理に捨てる必要などない」

じっと私を見つめる冨岡さんの澄んだ瞳と視線がぶつかって、視界がじわじわと滲み始める。
あれ、どうして私、泣きそうになってるんだろう…。ただ「このままでいい」と言われたくらいで、胸が痛いくらいに震えてる。
言葉の意味としては、冨岡さんはただ文字を肯定してくれただけだ。…それでも、私にとっては、自分が今まで生きてきた時間も、未来の私も、すべて丸ごと受け止めてもらえたような気がして、堪らなくなってしまった。
この人は。私が駄目だと思い込んで捨て去ろうとしていたものを、全く違う形にして目の前に差し出してくれたのだ。

「なぜ、また泣きそうな顔をする」

冨岡さんが、少し困ったように眉を寄せてこちらを見つめる。

「俺がまた、お前の嫌がるようなことを言ったか」
「ち、違います。違うんです、冨岡さん……」

私は慌てて首を横に振り、涙がこぼれないように下を向いてパチパチと瞬きをした。
だって、駄目だと思っていたところを、そんな風に言ってもらえるなんて思わなかったから。皆と違うことは悪いことなんかではなくて、そのまま置いておいていいんだって。

「嬉しかったんです……。私、ありのままでいいんだなって思って……」
「?ああ、お前はそのままでいい」

きょとんとしたまま私を見つめている冨岡さんを見つめながら、私は心がじんわりと満たされていくのを感じた。
ぎゅうと胸が苦しくなって視界が歪む。苦しいのに、甘くて温かい。

「ふふ、はい。ありがとうございます……」

また、冨岡さんの言葉に救われてしまった。彼はいつもこうして何気ない真っ直ぐな言葉で、自分でも気づいていなかった悩みを綺麗にほどいてくれる。

「このままでいます」

本人はどれだけ凄い救いをくれたのか、ちっとも分かっていないのだろうけれど。

「話が逸れた。続きを終わらせるぞ」
「あ、はい!そうですね。すみません、私のせいで手を止めさせてしまって」

私はにじんだ涙を袖口でそっと拭い、再び座卓へと身を乗り出した。すぐ向かいで、冨岡さんが筆を持ち直す。
書類に向き直る彼の静かな横顔を、私はそっと見つめ、小さく微笑んだ。



前へ   次へ


目次へ戻る

Back to top

48851 views