19


昼餉の片付けが一段落した頃、私は居間に訪れていた。机の上に紙束を並べ、明日の準備を始める。帳簿をつけるための万年筆と紙、インク、そして一応小さな算盤。
いつもより少し念入りに確認してしまうのは、明日、冨岡さんの屋敷へ行く予定があるからだ。包みを整えていると、隣に座っていた尾崎さんがお煎餅をかじる手を止め、驚いたように息を飲み込んだ。

「え?本当にリサ、毎週水柱様の屋敷に通ってるの?」
「うん。そうだよ」

振り向きながら答える。
尾崎さんはいつものように、しのぶさんの検診帰りに私の元へ立ち寄ってくれていた。お土産のお煎餅と共に。
私は机の上に視線を戻し、必要な物の最終確認を続ける。
万年筆、紙束、紐、布袋。
足りないものはない。

尾崎さんの言う通り、あれから私は週に一度、冨岡さんの屋敷へ通うようになっていた。
大体は週末に、一、二時間ほど。帳簿の整理を手伝うだけの短い時間。
最初は間違えたらどうしようと緊張してばかりだったが、今では少しずつ形になってきている。
数字も合うようになり、冨岡さんからも「助かった」との言葉をもらった。

「あの水柱様の屋敷に?」
「うん。冨岡さんが、私の計算が速いって見初めてくれたみたいでね。出納帳の整理を手伝いに」

自分で言っておきながら、少し照れくさい。
けれどそれは冗談めかしたつもりで、特に深い意味はなかった。

「へぇ……。見初めて、ねぇ」
「帳簿のことだよ?」

苦笑しながら言うと、尾崎さんは肩をすくめた。
冨岡さん自身、計算ができないという訳ではないが、どうやらそういった細かい作業が苦手みたいだ。
冨岡さんの屋敷は、彼の印象そのままの場所だった。人里離れた場所にぽつりと建っていて、とても静かで、穏やかで、落ち着いている。
そこにいると、まるで、水の流れの中に身を置いているような――そんな感覚になる。
人の出入りもほとんど感じず、蝶屋敷とは大きく違っていた。
おそらく、常駐している女中さんなどもいないのだろう。そのせいもあって、彼の暮らしぶりは謎に包まれたままだ。
そんな静けさを好む冨岡さんだから、経理のようなこざかしいものが嫌いなのも理解できる。

「それで、本当なの?だから明日も水柱様の屋敷まで行くって?」
「そうだよ?」
「屋敷に?」
「うん。いつも通り、午前中だけ」

尾崎さんは目を丸くしたまま、足を組み直す。
なぜそんなに驚くのか分からない。けれど、アオイさんや三人娘に話したときも、似たような反応をされたのを思い出す。
それにしても、冨岡さんも物好きだ。私じゃなくても、もっと適任の人がいただろうに。頼まれたからには全力で手伝うつもりだが、どうして私にお願いしてくれたのか今もわからない。

「水柱様の屋敷がどこにあるのか知らないけど、ここからけっこう距離あるんじゃない?」
「そこまで遠くないし、慣れたよ。道ももう覚えたし」

筆を布袋にしまいながら言うと、尾崎さんが急に声を潜めた。

「毎週?屋敷に二人きりで?」
「え?う、うん…そうだけど……」

二人きり、と言っても、冨岡さんは必要なこと以外はほとんど喋らない。
私にして欲しいことの要点だけ伝えると、自身も近くの机の前に正座で座り込み、別の書類仕事をしている。
私が帳簿を書き終え、確認のために声をかけると、その時にやっと目が合うくらいだ。
ほとんど会話はない。

「それってどうなの?」
「どう、とは……?」

苦笑いする。
けれど、私はその沈黙は不思議と嫌じゃなかった。
筆が紙を滑る音、風で障子がかすかに揺れる音。その中にただ二人で座っていると、時間が穏やかに流れていく。
そんな時間が私は少しずつ楽しみにもなっていた。

「ううん。なんでもない。ただ、毎週柱と顔を合わせてたら、気も張るだろうなって」
「うん……最初はそうだったけど、今は慣れたかな」

“慣れた”というより、緊張が解けてきたって感じだ。
それでも、屋敷に足を踏み入れるたびに空気の密度が変わるような気がして、背筋がすっと伸びる。
静かな場所ほど、自分の心の音がよく聞こえる――そんな気がして。
あの屋敷で過ごす時間は、ただ帳簿を書くためのものなのに、不思議と帰るころには胸の奥が少し整っているのだ。

「ふぅん……なんだか、不思議な関係ね」
「そう?普通だと思うけど」

尾崎さんがにやりと笑いながら、砕けた調子で言った。お煎餅をもう一枚取り出し、ぱりりと音を立てて割る。
私は苦笑しながら筆を筆巻にしまい、布袋の口を結んだ。

「…ねえ、尾崎さん。それより、今度の休みにまた一緒に町へ行きたいな」
「え?」
「ほら、前に話してたでしょ?反物屋、まだ一緒に見てないから…。あのお店、春になったら新しい品が入るって言ってたし」
「ああ、あれね。うん、覚えてる」

尾崎さんがぱっと表情を緩めた。

「ふふ、わかった。今度の休暇の日程がわかったら、すぐ睡蓮で知らせるね」
「えっ、ほんと?私待ってるからね」

嬉しさが思わず声ににじんで、自分でも少し照れくさくなる。
尾崎さんはお煎餅の袋を片付けながら、「約束よ」と軽く笑った。その声が春の光に溶けるようで、ふっと胸の奥が温かくなる。
“睡蓮”――それは尾崎さんの鎹鴉の名前だ。薄い灰色の羽を持つ小柄な鴉で、鳴き声がほかの鴉より少し静かだから、彼女の落ち着いた印象によく似ている。
任務の伝令だけでなく、時折私宛の手紙まで運んでくれる、少し気の利く使い。

包みを抱え直しながら、私は障子の外の光に目を向けた。
縁側の方から風が吹き抜けて、紙束が小さく揺れる。遠くで誰かの笑い声がして、日常がまた穏やかに流れていく。
とても穏やかな日々だ。私も机の上に残ったお煎餅の欠片を一つ摘まみながら、自然と笑みがこぼれた。









筆の先が紙を滑る音だけが、部屋に満ちるほど静かな空間。
私の万年筆が小さく紙を擦るたびに、冨岡さんの筆の音がそれを追うように続く。
それ以外に聞こえるのは、障子の向こうで風が竹を揺らす音だけだった。

「……冨岡さん。あの、終わりました」

書き終えた帳簿を丁寧に揃え、そっと斜め前にいる彼の方へ差し出す。
冨岡さんは筆を置いて、無言でそれを受け取った。
ページを一枚ずつ、静かにめくっていく。その指先が紙を滑るたびに、胸の奥が妙にざわついた。

「……数字は合ってる。前回よりも速いな」
「ほんとですか?」
「助かった」

それだけの言葉なのに、体の奥がふっと温かくなる。彼の声は相変わらず低く、抑揚が少ないのに、不思議と優しく響くのだ。
ちらり、と冨岡さんを見つめる。差し込む陽の光が、障子越しにやわらかく彼の頬を縁取っていた。
…本当に、綺麗な顔をしている。整っているとか、そういうレベルじゃない。
すっと通った鼻筋。余白のないすっきりとした輪郭。薄い唇の動きひとつにも、ふと目が離せなくなる。
見ていると胸の奥が静かにざわつくから不思議だ。慌てて視線を落とし、万年筆のフタを閉じる音で気持ちを誤魔化した。

いつものように、週末。
こうして冨岡さんの屋敷へやって来た私は、お座敷にある大きな座卓を挟み、向かい合って座っているのだが。

「筆より、お前はそれの方が扱いやすいのか」
「あ、はい。…こっちの方が慣れてて」
「そうか」

冨岡さんが、私の手元の万年筆に視線を落としながら問うた。
興味があるのかないのか分からない調子だが、その小さな問いかけがなぜか嬉しい。
――彼の言う通り、私は筆と墨がどうしてもうまく扱えない。
この時代に来てから何度か挑戦してみたけれど、筆では字をきれいに書けないのだ。習字を習っておけば良かったと、これほど後悔したことはない。
だから結局、私は手に馴染んだこの万年筆を使うのがいちばん合ってる。それでも書きにくいのに変わりはないが、筆よりはずっとマシだ。
生まれ変わった先が、万年筆のある大正時代でよかったと心底思った。しのぶさんも万年筆を使っていることの方が多いし、この時代の最先端の文具でもある。
けれど冨岡さんは…、なぜか筆を好んで使っている印象があった。

「それにしても冨岡さんって、すごく達筆ですよね…」
「……いや」
「逆さから見ても、綺麗だってわかります」
「…ただ見やすく書いているだけだ」

――そう、なのかな。
私にはとてもそうは思えなかった。
斜め前に置かれた帳簿をそっと覗くと、墨の線がすっと伸び、形の整った文字が並んでいる。力みも乱れもなく、どの一文字も凛としていて美しい。
そのきれいに整った文字は、几帳面さだけじゃなく、言葉を選ぶときの慎重さや、乱れを嫌う性格まで滲んでいる気がする。
字は人柄を表すというけれど、きっとそれは本当だ。

「…でも、こんなに整った字なかなか書けないと思います」

少し笑って言うと、冨岡さんは何も答えず、しばらく私の書いた帳簿を眺め続けた。

「…お前の字もなかなか個性的でいいと思う」
「えっ、個性的、ですか。も、もしかして下手ってことですか……?」
「いや」

思わずむ、として聞き返してしまう。
「個性的」なんて、どう考えたって褒め言葉じゃない。下手な字を前に、無理やり言葉を探してくれただけとしか思えない。

「私、字を習ったことも、筆を習ったこともないんです。だから、ですかね。冨岡さんみたいに達筆には書けなくて…」

自分でも少し、拗ねたような声になっていた。
冨岡さんの手の中にある自分の帳簿を見つめながら、視線が下がっていく。
きれいな字を書くことなんて、今までなんとなくでしか意識してこなかったから。彼の綺麗な字を見たあとだと、余計に自分の拙さが浮き彫りになる。紙に落とした万年筆のインクの線は、ところどころ震えていて頼りない。

「筆のときなんてもっとひどいですよ。滲むし、歪むし、とてもお見せできるものにもならないです…」

少し下を向いて言うと、すぐに正面から小さな沈黙が落ちた。
冨岡さんが帳簿をそっと机の上に置く。
ちらり、と視線を上げると彼は眉をわずかに寄せて、私の手元をじっと見つめていた。

「…汚くはない」

低く、きっぱりとした声で言われた。

「自分で読めて、相手も困らないのならそれでいい。…俺はそう思う」
「……でも、冨岡さんの字が綺麗すぎて説得力がないというか…」
「違う。俺が"個性的"だと言ったのは、ところどころ見たことのない漢字が混じっていたからだ。汚いからじゃない」
「え?」

思わぬ言葉に、心臓が一拍跳ねた。反射的に身を乗り出して自分の書いた帳簿を覗き込む。
書き違えた記憶はない。何度も確かめた。それとも、他に何かミスを……。

「ど、どれですか…」
「ここと、ここと……」

冨岡さんが指先で示したのは、たとえば「経」や「価」、「数」や「収」などの文字。
私にとっては当たり前のように日常で使ってきた漢字だったけれど――。
もしかしてこの時代の人にとって、まだ馴染みのない字が混じっていたのだろうか。

「……見たこと、ない、ですか」

自分の声がわずかに震えているのがわかる。
冨岡さんの視線が怖くて、体が冷たく冷えるような心地になった。
うっかり…いや、何も考えていなかった。字が昔と未来で違うなんて分からなかった。
どうしよう、そこまで考えが及んでいなかった。新字体と旧字体の違いなんて詳しいことは知らない。どうしよう。なんと説明すれば。

「えっと、それは……あの……」

冨岡さんはがじっと私の帳簿を眺めているせいで、視線が泳ぐ。
しかも、一度じゃない。これまでずっとその書き方で書いてきた。それなのに冨岡さんはずっと不思議に思いながらも、わざと触れないでいてくれたんだ。
冨岡さんらしいと言えばそうなのだけれど、それを見てどう思っていたのだろう。
否定するのも肯定するのも怖くて、私はただ唇を噛む。

「…地方によって、書き方が違うのか?」
「えっ?」

ふと、落とされた言葉に目を瞬かせた。
冨岡さんはただ、不思議そうに首を傾げているだけ。その表情に、心の中で派手にひとつ息を吐く。

「そ、そうなんです!地方!地方によって、えっと……字、違ったりしますよね……!」

若干声が裏返っていたけれど、なんとか笑顔を貼りつけた。
冨岡さんは一度だけ瞬きをして、それ以上詮索する様子もなく「…そうだな」と短く返す。
よ、良かった。未来のものだとは気付かれてないみたいだ。

「まあ、読めないことはない」

そう言って筆を取り上げ、冨岡さんはその“知らない漢字”を見つめたまま、さらさらと自分の筆跡で写していく。
初めて見る字なのに、迷いなく形を写し取るその手元に妙な感心すら覚えた。

「珍しいが、形は整っている」
「わ、……そ、そんなに見ないでください……!」

じっくりと覗き込まれて、思わず身を乗り出して片手で帳簿を押さえ込んでしまう。
万年筆で書いた文字なんて、ただでさえ不恰好なのに、よりによって未来の字を見られてしまうなんて。

「……べ、勉強します…!勉強するので…!私にも、冨岡さんの書く字を教えてもらえませんか……?」

恐る恐る顔を上げて、そう言った。さっきよりも近くで冨岡さんと目が合う。
危なかった。冨岡さんはそう解釈してくれたから良かったけれど、他の人はそうとは限らない。
このままではまたいつボロが出るかわからないから、その前に早くこの時代のものに馴染まないと。
冨岡さんは少しだけ目を瞬かせて、筆先を持った手を止める。

「…このままで構わない。変える必要もない」

しっかりとした否定の言葉だった。いつもの調子で、淡々と告げられる。
突き放すようなその響きに、一瞬、胸の奥が沈んだ。

「で、でも……」

しゅん、と声が落ちる。そんな、教えてもらわないとわからないのに…。
それに、これでは冨岡さんに余計な手間をかけることになるだろう。わざわざ私の書いた“ややこしい字”を読み取って、頭の中で旧字に置き換えながら帳簿を整理して…そんなの、きっと面倒くさいに決まってる。
しぶしぶ元の位置に座り直しながら、私はもう一度冨岡さんを見据えた。

「あの、それでも教えてくださいませんか…?冨岡さんにお手間をかけさせる訳にもいかないですし、私が勉強するので…」

胸の奥に、じわりと焦りがにじむ。
このままでは駄目だ。やっぱり私はこの時代の人間じゃないからこそ、帳簿の字ひとつでさえどこか浮いてしまうんだ。
ここに来てやっと人に頼ることを覚えて、少しずつだけど自分を出せるようになってきたのに。
このままでは、永遠に皆に馴染むことができない。そんな不安が生まれた。

「これがお前の故郷のものなんだろう」
「え……?」

そんな思考の底に、冨岡さんの声がすっと落ちてきた。
まっすぐな視線が、私の指先と帳簿と、私自身をまるごと見つめている。

「無理に変える必要はない」
「……わ、私……でも……」

淡々とした言葉だった。
震える声が途切れ、私は二の句をつげなくなる。言葉の代わりに、胸の奥がきゅうっと締め付けられた。

「その字も、お前の一部だろう」

そう言われて、思わず目を瞬かせる。
字も、私の一部…。そんなふうに考えたこともなかった。
そういえば、ここに来てからそういった私の“もともと持っていたもの”がどこかへ置き去りになっていたような気がする。
皆に合わせようとして、必死に塗り重ねてきた日々。それはこの世界で生きるために必要だと思っていたけれど——。
そうして塗り重ねていくうちに、自分の元の色がどこまで残っているのか、時々わからなくなる瞬間があったように思う。
現代に残してきた生活の記憶が、日に日にぼやけていたのもそのひとつだ。

「俺はそれで困ってない。そのままでいい」

たぶんそれは、ほんの些細な気付き。
けれど、冨岡さんのその言葉が妙にすとんと落ちて。穏やかな波が胸の奥にしみ込んでくるような感覚がした。
そんな考え方があるなんて。

「……わたし、」

手のひらが少し汗ばんでいるのを感じながら、そっと顔を上げた。視線がぶつかり、とくりと心臓が跳ねる。

「…それでも…いいんでしょうか……」

言葉が見つからず、視線が机の端に沈んでいく。胸の奥がぎゅっと縮まった。

「皆さんみたいに、強くもないし……知らないことばかりで……言葉も、考え方も、常識も……どこかずれてますけど」

ぽつり、ぽつりと落ちていく声は、自分で聞いても頼りない。
言いながら、どこかで気づいてしまった。
馴染みのない世界の中で、皆についていこうと必死だったけれど。心の奥底では、本当の自分を誰かに曝け出したいと願っているのだと。

「みんなに合わせようとして、必死にやってきたけれど……そのままの私を曝け出してしまって、いいんですかね……。皆驚いてしまうんじゃ…」

言ってから、小さく息がこぼれた。
こんな面倒くさいことを言ってしまっている自分に、内心で少しだけ呆れる。
けれど、未来から来たなんて誰にも言えるはずがない。言っても、信じてもらえるとも思えない。
——きっと、誰もそこまで気にしてない。そう言われたら、きっとその通りなんだろう。
皆にはそれぞれの“今日”があって、私がどんな人生を歩んできたかなんて、その大きな流れの中に自然と紛れてしまうはずだ。
それでも。自分の中では、その“小さな不安”が意外と重くて、ふとした瞬間に足を引っ張ることがある。
皆と同じになりたい気持ちと、本当の自分を隠しておく苦しさ。どちらも中途半端に胸の中にあって、どちらも捨てきれなくて、厄介に絡まってしまう。

すこし肩が落ちる。
こんな面倒な感情、わざわざ冨岡さんの前で口に出すほどのことじゃないのに。
ただ静かに息を吐くと、そっと目の前に置いた万年筆へ手を伸ばした。

「……ごめんなさい。変なこと言って」

顔を上げられないまま、私はぎゅっとそれを握りしめた。

「あの……その、今日のところは、もう帰ります。えっと、片付けたらすぐ……」

万年筆のキャップを閉め直し、インク瓶の蓋をそっと締める。指先がわずかに震えているのが、自分でもわかった。
私は早く立ち上がって、ここから離れた方がいい気がした。変なことを言ってしまった後の空気に耐えられなくて、焦りにも似た感情が胸の奥で弾んでいる。
けれど。手元を片付けようとした瞬間、座卓越しに影が動いた。

「…お前は、そのままでいい」

低い声だった。けれど、その響きはまっすぐに耳へ落ちてくる。
手が止まる。インク瓶を持ち上げていた指先が、そこでふっと重力をなくしたみたいに力を失った。

「……え……」

思わず顔を上げてしまう。
冨岡さんは、いつもと変わらぬ表情でこちらを見ていた。責めているわけでも、慰めようとしているわけでもない。
ただ本当に、その一言だけを伝えるために言葉を発したような。

「驚かない」
「……本当、ですか」
「あたりまえだ」

あまりにもあっさりと言われて、胸の奥が少しだけざわつく。
——“驚かない”。
きっと冨岡さんは、私が言おうとしていることの中身なんて知らない。未来から来たことも、元の世界でどうやって死んだのかも、何ひとつ。
それでも、そう言い切ってしまうのか、と。
喉の奥に、言葉の欠片が引っかかったまま動かなくなる。一度飲み込もうとして、それでもどうしても消えてくれなくて。

「……じゃあ」

息を整えるように、ひとつ小さく吸い込んでから、口を開いた。

「じゃあ……いつか、本当に全部を話したら……その時も、驚かないでいてくれますか」

「全部」と言いながら、心の中では別の言葉を並べている。
未来から来たこと。
本当はここに生まれていないこと。
もともとの“私”のこと。
もちろん、今すぐ打ち明けるつもりはない。言ったところで信じてもらえるとも思えない。
それでも、いつかどこかで、自分で抱えきれなくなる日が来るかもしれない。
そのときに、ひとりで立っていられる自信がないから——今、聞いておきたかった。
冨岡さんは、すぐには答えなかった。一度だけ視線を落とし、机の上の帳簿と万年筆と、私の指先を順に見てからゆっくりと息を吐く。

「…驚くかどうかは、わからない」

正直な言葉だった。
一瞬、胸がきゅっと小さく縮む。
やっぱり——と思う自分と、それでも嘘をつかないでいてくれたことに、ほっとしてしまう自分と。
相反する感情が、胸の奥で静かにぶつかり合う。けれど、そのすぐあと。

「…それでも」

と、冨岡さんは言葉を継いだ。

「それでも、お前のことは俺が見てる」

淡々としているのに、不思議と心に残る言い方だった。
慰めでも約束でもなく、ただ“そう決めている”と告げられたような、まっすぐな響き。
胸の中心を、ゆっくりと何かが締めつける。痛いわけじゃないのに、息が少しだけ吸いづらくなる。

「見て、る……」

思わず、その言葉を小さくなぞってしまってから、慌てて口をつぐんだ。
変なところを復唱してしまった気がして、頬がじわりと熱くなる。
でも、目はどうしても逸らせなかった。自分でも面倒くさいと思うくらい厄介な気持ちを抱えている私を、「そのままでいい」と言い、「それでも見てる」と言ってくれた人が、目の前にいる。
喉の奥まで上がってきた何かを、ぐっと飲み込んだ。

「……はい。ありがとう、ございます」

かろうじて絞り出した声は、ほとんど消えそうだった。
それでも、ちゃんと届いたのか。冨岡さんは、ほんのわずかにまぶたを伏せて頷いたように見えた。
何かを証明されたわけでもないのに、絡まり合っていた糸が静かにほどけていく。焦っていた気持ちも、ぎゅっと縮こまっていた不安も、すこしずつ、すこしずつ呼吸の隙間に溶けて消えていくような。
…大丈夫、なのかもしれない。全部を話す日はまだ遠くても。まだうまく馴染めなくても。
それでも、今はこの言葉の上にそっと腰を下ろしてもいい気がした。

視線をあげて、ちらりと冨岡さんを見る。何も変わらない姿なのに、ひとつだけ違う。
“私の心”のほうが。
ばれないように、息をこぼさないように、袖の中でそっと指先を握る。
この時間が終わってしまうのが、惜しい――そんなことを、初めて思った。



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