20
「水の呼吸、弐の型・水車!」
気迫のこもった掛け声とともに、庭に鋭い風が吹き抜けた。
蝶屋敷で療養中の隊士が勢いよく宙を舞い、全身を大きな円を描くようにして木刀を振り下ろす。冬の間は体を動かすのもしんどそうにしていたのが嘘のように、その太刀筋はしなやかでのびのびとしていた。
「すごい、その調子です!」
「足元の踏み込みも、昨日よりずっと力強いですよ!」
少し離れた芝生の上で三人娘がパタパタと手を叩きながら、そんな彼に向かって大きな声で応援を送る。
「はぁ、はぁ……っ。ありがとう、みんな!」
額に汗を浮かべた隊士が、木刀を引いて真っ直ぐに立ち上がった。
「みんなが毎日一生懸命に看病してくれたおかげだよ。あともう少しで、完璧に本調子に戻れそうだ!」
その表情はとても晴れやかで、もうほとんど完治に近い状態まで戻ってきているのが一目で分かった。
彼は深く息を吸い込むと、再びぎゅっと木刀を握り直す。先ほどまでの激しい跳躍から一転し、今度は水流のように滑らかな足捌きで地面を滑り、鋭く木刀を振り下ろした。
──水の呼吸。参ノ型・流流舞い
「わあっ、本当にすごい……」
私はその流れるような美しい剣技に見惚れて、庭を横切ろうとした足のままその場に立ち止まった。
この世界に来てから「呼吸」という言葉自体は何度も耳にすることがあったけれど、こうしてちゃんとその技を目にするのは初めてかもしれない。
鬼を倒すための剣術のはずなのに、一瞬の無駄もないその軌跡はどこか舞踊のようでもあり、息を呑むほどに美しい。
木刀を振り抜き、ふうっと長い息を吐き出した隊士の姿を見届けたあと、私は少し離れた芝生の上にいる三人娘のところへと足を進めた。
「ねえねえ、きよちゃん。今のあれは何ていう技なの?」
私が尋ねると、三人は一斉にこちらを振り返ってにっこりと微笑んだ。
空から差し込む光はぽかぽかと私たちの足元を照らし、庭の隅では小さな野花が顔を覗かせ始めている。すっかり春だ。
「今のは『水の呼吸』の技ですよ、リサさん!」
「水の呼吸は基本の五つの呼吸のうちの一つで育てる人が多いから、鬼殺隊の中でも使う人が多い呼吸なんです」
皆が競い合うようにして熱心に教えてくれる。
なるほど、使う人が多いからこそ、こうして身近で目にする機会も多いということらしい。
「そうそう!ちなみに、アオイさんも『水の呼吸』を使われるんですよ」
「えっ、アオイさんも?」
なほちゃんが人差し指を立てて、ちょっぴり得意げに教えてくれた。思わぬ名前に私が目を丸くすると、きよちゃんとすみちゃんも楽しそうに頷く。
そういえば冨岡さんも水の呼吸を使っているって、前に尾崎さんが言っていたっけ。
「アオイさんの型もとっても綺麗なんです!」
三人が楽しそうにアオイさんのことを話す声を心地よく聞きながら、私はもう一度木刀を構え直した隊士の姿に目を向けた。
大勢の隊士たちがその呼吸を使い、同じように必死で剣を磨いている。その中で一番強い最上位の存在が、あの冨岡さん、ということになるのだろうか。
やっぱり、とんでもなく凄い人だったんだ。
「水の呼吸、か……」
私は小さくそう呟いて、その隊士の技をしばらく眺めていた。
*
「冨岡さんの水の呼吸が見たいんです!」
「……は?」
それから数日後の、のどかな昼下がり。
約束通りに冨岡さんのお屋敷を訪れ、帳簿の整理が終わりに差し掛かったところで私は切り出した。案の定ぽかんとした顔をされてしまったが、一度気になってしまった好奇心はどうしても抑えきれない。
「冨岡さんの水の呼吸が見たいです!」
思い切ってもう一度言葉をぶつけてみる。しかし冨岡さんは相変わらず困惑顔のまま、向かい側で静かに目を通していた書類からピタリと手を止め、顔を上げた。
「どうした、急に」
「この前、蝶屋敷の庭で療養中の隊士が鍛錬されているのを見かけたんです。水の呼吸の技がすごく綺麗で……!だから、その最上位にいる冨岡さんの型はどんなに凄いんだろうって、どうしても気になってしまって!」
あの日から、私の頭の中はずっと「水の呼吸」のことでいっぱいになのだ。
大勢の隊士たちが必死に磨き上げているあの美しい剣技。そのすべての使い手の頂点、最上位に立つ人の技は、一体どれほど凄まじいものなのだろうかと。
「見てどうする」
「すごいですねえ……って言います」
「断る」
断る。やはり、そう簡単にいくわけない。予想通りといえば予想通りのにべもない返事に、私は内心でがっくりと肩を落とした。
じっと見つめても、冨岡さんはすでに視線を机の上の書類へと戻してしまい、もうその話題は終わりだと言わんばかりの雰囲気だ。いつも通り淡々としていて、頑なな。
「一目だけでも駄目ですか?」
すがるようにそう呟いてみたものの、返ってきたのは無言だけ。
いや、冨岡さん相手にこんなに食い下がるなんて私らしくない。いつもなら「そうですか」とすぐに引き下がるところなのに、今の私は妙にしつこい。
それもそうだ。あの日以来、私はすっかり「呼吸」という未知の技術に魅せられてしまっているのだから。
気になりすぎて、ここ数日は蝶屋敷の書庫にこもり、呼吸に関する様々な書物を引っ張り出しては読み漁る毎日を送っていた。基本の五つの流派のこと、それぞれの特性、そして技が繰り出される仕組み。文字を追えば追うほどに、その奥深さと神秘性に胸が躍った。
知識を得れば、今度はそれを実際に見てみたくなるのが世の常というもの。
だからこそ、どうしても気になって仕方がないのだ。書物の中に書かれていた、水の呼吸の「極み」とも言える存在が、今まさに私の目の前に座っているのだから。
「冨岡さん……」
「駄目だ」
ガードが、とても固い。けれど、ここで引き下がってしまっては、せっかくここまで膨らんだ好奇心の行き場がなくなってしまう。
書物に書かれていた、水の呼吸の『流麗にして、あらゆる攻撃をいなす柔軟な刃』という一節が、私の頭の中でぐるぐると回る。
「ほんの一振りだけでも駄目ですか?」
「……俺の技など見ても、何も面白くはない」
「そ、そんなことありません!」
私がなおも食い下がると、冨岡さんは困ったようにわずかに眉をひそめた。
「見たところでお前には何の得もないはずだ」
それを言われれば、確かにその通りなんだけど…。
「俺は普段、滅多に他人に稽古をつけない」
「は、はい……」
「誰かと馴れ合うつもりもないし、群れることも嫌いだ」
「……はい」
「他人に俺の剣を詮索されるのも、好まない」
だからお前には見せない。彼はそう言いたいのだろう。
分かる。分かるけど。そこまで徹底して拒絶の言葉を重ねられると、こう、胸にくるものがある。
だけど、私の胸の中で膨らんでしまった憧れは、そんな正論だけで簡単に諦められるようなものじゃなかった。
それは、ただの好奇心だけではないのかもしれない。この間のお手伝いの日から、気づけばいつも考えてしまう。いつも淡々としているのに、ふと優しさを滲ませるこの人のことを。
任務へ向かうと知れば、無事に帰ってくるのか心配になる。柱という立場が、どれほど危険なのかを想像するたびに、胸がぎゅっと押し潰されそうになる。
そう。たぶん私は…。
「私、冨岡さんのことが知りたいんです」
手元に落としていた視線をぐっと上げて、私は冨岡さんの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「私にとって、冨岡さんはまだ分からないことだらけの、大きな謎みたいだから……」
もちろん、助けてくれた彼の力になりたいとか、少しでも恩を返したいとか、そういう気持ちはある。
でも、それよりも――。
「それって、ご迷惑ですか……?」
言葉足らずで、何を考えているのか分からない。それでも誰よりも優しい背中をしているその人を、もっと知りたいと願うのは、いけないことなのだろうか。
上気したまま必死に訴えると、冨岡さんはまたしても言葉を詰まらせた。視線を泳がせながら、手元にあった書類を引き寄せると、それを整えるように机の上でトントンと静かに叩く。
「俺に言わせてみれば、お前の方が謎だ」
「そう、ですか……?」
「ああ。世間知らずのように思えば、案外肝の据わった顔をする」
「それは……」
「もちろん、無理に聞き出そうとは思ってない。それくらいの事情があることくらい、俺にでも分かる。……だが」
長い指が紙の端を揃えるように静かに撫で、そのまま少しだけ止まった。
「お前にそう言われて悪い気はしない」
「じゃあ……!」
「見せない」
「な、なんでですかあ!」
どうして。今の、絶対に見せてくれる流れだったのに。
期待でパッと胸を躍らせたぶん、あまりにもあっさりと叩き落とされた落差が大きい。思わせぶりに「悪い気はしない」なんてボソッと言っておきながら、最後の最後で拒否の壁を崩さないなんて、一体どういう意図なのだろう。
いつも通り、冨岡さんの言葉は読めない。
でも、確かにちょっとしつこかった自覚はある。
鬼殺隊の最高位である「柱」の技だ。血のにじむような鍛錬を重ね、いくつもの死線を潜り抜けて辿り着いたその領域を、剣すら持たない一般人の私が「見たいから」というだけの理由でねだるなんて、本当はおこがましいにも程がある。
きっと、冨岡さんの『水の呼吸』を一目見たいと願う隊士なんて、それこそごまんといるはずだ。そんな中で、何の力もない、戦いとも無縁な私が特別に見せてもらうわけにもいかないのだろう。
第一、私には刀の扱いも、呼吸の凄さの本当の価値も分からない。
膨らみすぎていた好奇心が、しゅうしゅうと萎んでいく。
「……すみませんでした。調子に乗りすぎました」
肩を落としながら、私は机の上に散らばっていた万年筆やインク瓶を引き寄せ、片付けを始めた。
「見ても何も面白くはない」
「そんなことないですよ……」
あまりにも落ち込んでいる私を見かねてか、冨岡さんがさらに言葉を重ねてくれるが、そういうことじゃない。
面白いとか、面白くないとか、そういうことではないのだ。
「俺は、お前が思っているような立派な男ではない」
「そんなこと――、」
「ある。それに、俺の剣は誰かを救うためだけにある綺麗なものではない。今まで救えなかったものの方が、ずっと多い」
「え……?」
そのあまりに冷え切った声に思わず顔を上げると、冨岡さんが淡々と目の前の書類を片付けていた。
なんだろう。今一瞬、冨岡さんがすごく苦しそうに見えた。どうして、そんな悲しいことを言うのだろう。
何も知らない私にだって、分かる。柱という称号を得るまで、彼がどれだけの血を吐くような努力を重ねてきたのか。どれほど自分を叱咤し、追い詰めながら登り詰めてきたのか。
そうやってたゆまぬ努力を惜しまず、必死に戦い続けてきた人が。どうして自分のことを、そんな風に切り捨てるように言えてしまうのだろう。
「水の呼吸もそうだ。俺よりもその理を深く理解し、昇華できる者が他にいる。俺の役割はただそれまでの間、この呼吸を繋ぐことに過ぎない。だから、お前が過度な幻想を抱く必要はない」
冨岡さんは淡々と言葉を重ねる。
彼は、自分の生み出す光を一切認めようとしないのだと分かった。その言葉は呪詛のようにがんじがらめで、彼自身を縛っている。
何が彼をそこまで頑なにさせているのか、私には分からない。私が踏み込んでいい領域でもない気がする。それでも、自分をそんな風に卑下する言葉を彼にこれ以上重ねてほしくなかった。
「そんなこと……ないですよ。冨岡さんが自分のことをどう思っていようと、私を助けて居場所をくれたのは事実です。誰も冨岡さんのことをそう呼ばないのなら、私が何度でも言います。冨岡さんは、すごく優しくて強い人です」
一気に捲し立てるように言うと、急に目頭が熱くなった。
この世界に来て、明日をも知れぬ恐怖の中で震えていた私を掬い上げてくれたのは、他ならぬこの人なのだ。彼がどれほど自分を否定しようとも、私にとっての救いは彼の存在そのものだった。
その感謝と、彼が抱える切なさが胸の奥で爆発して、涙となって溢れそうになる。
冨岡さんは完全に不意を突かれたように目を見開いたが、私の様子に気づくとまた座卓越しに手を伸ばしてきた。
前みたいに頭を撫でてくれるのだろうか。そう思って身を固くしていると、彼の大きな手のひらが今度は後頭部へと回される。
「とみ岡さん……?」
そのままぐっと手のひらで圧され、顔を強制的に上に上げさせられた。
困惑に、思わず瞬きを繰り返す。私の表情を確かめるようにしばらく見つめていた冨岡さんは、やがてふっと小さく息を吐き出した。
「驚いた。また泣いているのかと思った」
「な、泣いてないです……っ」
彼の指先が、私の目尻に溜まった涙の膜をそっと拭うように触れる。
「嘘を言うな。今にも零れそうだった」
「それは……冨岡さんが、そんな悲しいことばかり言うからです。私は、本当のことを言っただけなのに」
これ以上顔を近づけられたら心臓が破裂してしまう。そう思うのに、後頭部を支える彼の大きな手は微動だにせず逃げることも許されない。
「なぜそうやって俺のために必死になる」
「必死にもなります。私を助けてくれた冨岡さんが、自分のことをそんな風に言うのが、私は一番悲しいんですから……」
上気したまま真っ直ぐに訴えると、冨岡さんはしばらくの間黙って私の瞳を見つめていた。その深い青の瞳に、私一人の姿が映り込んでいる。
やがて彼は観念したように手を離すと、今度はその手が私の頬へと滑り、親指の腹で目尻に残った熱をそっと拭った。
「分かった。お前の前ではもう言わない」
「え……?」
「だから、もう泣くな。お前にそんな顔をされるとどうしていいか分からなくなる」
少しだけ困ったように眉根を寄せた彼のその表情は初めてで、私の胸はさらにきつく締め付けられる。
「……すみません、子どもみたいに」
そう言って熱くなった顔を隠すように俯くと、冨岡さんは「いや」と短く呟き、静かに手を引き戻した。触れられていた頬に、彼の熱い温もりだけがいつまでも残っている。
慌ててインク瓶の蓋を閉め、それらを巾着袋に仕舞い込む手元が、情けないくらいに震えていた。
気まずさと申し訳なさで胸がいっぱいになりながらも立ち上がり、深々と頭を下げる。
「では……今日はこれで失礼します」
「ああ。気を付けて帰れ」
背中に届いた彼の低い声に小さく頷き、私は逃げるように冨岡さんのお屋敷をあとにした。
山道を下る足取りは、どこか重く覚束ない。
新緑を揺らす風が頬を掠めていくけれど、胸の奥に広がった重苦しい痛みに息が詰まりそうだった。
耳奥で繰り返される彼の声。
「救えなかったものの方が、ずっと多い」と吐き捨てたときの、あの冷え切った声と、苦しそうに歪んだ瞳。
「お前にそんな顔をされるとどうしていいか分からなくなる」
そう言って少しだけ困ったように眉根を寄せた、あの切なく苦しげな表情が、頭から離れてくれない。
自分を責め続け、どれだけ傷ついてもなお己を殺して戦い続ける彼。
その深い孤独と痛みの端っこに触れてしまった気がして、胸がぎゅっと潰されそうなほどに締め付けられた。
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