20


今日は、朝から空気がどこか柔らかかった。庭に出ると、風の匂いがもう冬のそれとは違う。
洗い立ての敷布を両腕に抱え、物干し竿にかけながら、私はひとつ深呼吸をした。どこかで鳥がさえずり、梅の花びらが風に乗ってふわりと舞う。
――春だ。こんなふうに穏やかな朝を感じるのは、いつぶりだろう。胸の奥までほんのりと温かい。

すみちゃんたちによると、庭の奥には一本の大きな桜の木があるそうだ。まだ蕾は固いけれど、もうじきに咲くだろうとアオイさんも言っていた。
みんなでお花見ができたら、きっと楽しいだろうな。そんなことを考えていると、春風が頬を撫でる。
暖かくなるまで、そう時間もかからないだろう。

「…もうちょっと、陽に当てたほうがいいかな」

風で揺れる白布の端を整えて、布と布の隙間に手を滑り込ませる。
あ、そうだ。きよちゃんたちに頼まれてたんだった。これを干し終えた後に、腰紐の洗い張りをして――それから台所に立ち寄って、お茶請けの干菓子が余っていないか聞いてみよう。
小さな予定をひとつずつ胸の中で並べるだけで、今日はなんだかやさしく満たされる。

「…ふんっ」

気づけば、鼻歌が漏れ出していた。最近自然と口をついて出る。
ここ数日、心がぽかぽかしているのだ。彼のあの言葉を思い出すと余計に。

布の角を軽く叩いて整えたとき。ふいに、廊下のほうからわずかな駆け足の音がした。
この時間、屋敷の中はだいたい落ち着いているのに、どうしたんだろうと思いながらも、特に気には留めなかった。
けれど、ひとつの足音がふたつに増え、それがやがて、遠くのほうで交わる声に変わっていく。
三人娘の足音にしては大きい。

「……?」

布の端をつまんだ手が自然と止まった。
揺れる白布の向こうで、誰かの呼ぶ声。言葉までは聞こえない。ただ、声の色だけがいつもと違う。

……なにか、あった?
しのぶさんの言葉が蘇る。ここ最近、鬼の出現頻度が増えていると。それに、この前の隊士のこともあったばかりだ。
胸の鼓動が、少しだけ早くなる。
風が干した布をぱた、と打った。その控えめな音がやけに大きく感じるほど、周りが急に静まった気がした。

「リサさん…っ!」

その時、縁側の方から息を切らしたアオイさんの声が飛んできた。
振り向くと、彼女が廊下の角からこちらを見下ろしていた。頬は青ざめ、額に細かな汗が浮かんでいる。

「アオイさん?どうしたんですか、なにか……」
「カナヲを見ませんでしたか!?」

食い気味に放たれた言葉に、私は瞬きをした。

「か、カナヲさん……?いえ。今朝はまだ会ってませんけど……」

答えた瞬間、アオイさんの表情がさらに強張った。唇が震え、何かを言おうとして、喉の奥で言葉が詰まる。
普段冷静な彼女がここまで取り乱すなんて、ただ事ではない。

「何か…あったんですか?カナヲさん、どこかお出かけに?」
「わからないんです…!起きたら部屋にも訓練場にもいなくて…!朝餉も食べに来ないからおかしいなと思って探したら、姿が見当たらないんです!それで今、みんなで探してて……!」

言葉がそこで途切れた。
焦りと恐怖が混じったような表情を浮かべたまま、アオイさんは何かを思い出したように踵を返し、廊下の奥へと駆け戻っていく。
私はしばらくその背を見つめていた。
春の光の下にいるはずなのに、背筋のあたりが妙に冷える。
手の中の布の感触が現実へ引き戻した。風にあおられて揺れるそれを見ている余裕はもうない。
私は洗濯物を干しかけのままにして、縁側へと駆け出していた。









廊下を駆け抜けると、屋敷の中はすでにざわついていた。
誰もが落ち着かず、あちこちでカナヲさんの名前を呼ぶ声が響く。
階段の下できよちゃんたちが泣きそうな顔をして、別の方向を指さしていた。

「……いないの、どこにも……!」

その声を背に、私は廊下を奥へと進む。
胸の鼓動が早い。何が起きているのか、まだ何もわからないのに、ただ嫌な予感だけが足音を押し出すように強くなる。
角を曲がった瞬間、ちょうど前方からアオイさんが駆けてきた。肩で息をしていて、額にはうっすらと汗が滲んでいる。

「リサさん……!一緒に来てください!」

問う間もなく腕を取られ、私はその勢いのまま廊下を走り出していた。
足音が板張りに響く。

「あ、あの、アオイさんどこへ……?」
「しのぶ様のところです!早く、行かないと……!」

ただならぬ声音に、それ以上の質問はできなかった。
何かが起こった――そう感じながらも、まだ何も掴めないまま。
二人で角を曲がり、襖の並ぶ長い廊下を抜ける。

「しのぶ様!!!」

アオイさんの声が、部屋の前で張り裂けるように響いた。
障子を勢いよく開けると、しのぶさんが金魚鉢の前でしゃがみ込み、小さな餌をつまんでいた。
静かな水面が光を受けて揺れる。
その動きの中で振り返ったしのぶさんの表情が、一瞬できゅっと固まった。

「どうしました?アオイ」

柔らかな声色の奥に、わずかな緊張が混じる。アオイさんのただならぬ気配を感じ取ったのだろう。
アオイさんは息を整える間もなく続ける。

「カナヲが……!カナヲが、いないんです!」

その言葉に、金魚鉢の中の水がわずかに波打った。しのぶさんの手から、餌の粒がこぼれ落ちる。

「……カナヲが?」

繰り返した声は落ち着いて聞こえるのに、わずかに震えていた。しのぶさんは静かに立ち上がり、目を細める。

「部屋には?いつもいる中庭にもいなかったのですか?」
「どこにもいません。今、皆で探してます。でも……」

アオイさんの声が途切れた。
唇を噛み、視線が揺れる。
しのぶさんはその沈黙を見逃さず、さらに一歩近づいた。

「でも?」

その言葉に、アオイさんの表情が苦しげに歪む。

「嫌な予感がして、刀を見に行ったんです。そしたら……一振、無くなってて……」

部屋の空気が一瞬で変わった。
息をするのも忘れて、私はアオイさんを見つめた。
刀を――持っていった?たしか、この屋敷に置かれている刀は、鬼を斬るためだけに作られたものだ。ただの散歩や外出で携えるようなものではない。
胸の奥で、冷たいものがじわりと広がっていく。
何か、よくないことが起きている。その確信が、言葉にならないまま喉の奥で重く沈んだ。
しのぶさんの表情も、目に見えて変わっていく。

「――あの子っ!」

その声が、震えるように跳ねた。なにか思い当たる節でもあったのか、落ち着いていた表情からすっかり変わって、焦りが滲む。
アオイさんは唇を噛みしめ、うつむいたまま小さく続けた。

「まさかあの子……今日の選別に行ったんじゃないでしょうか……」

その言葉が落ちた瞬間、私は息が止まった。
選別――以前、アオイさんに教えてもらったことがある。それは、命を賭して鬼に挑む場所。鬼殺隊士に、なるための試験。
まさか、そこにカナヲさんが…。

「しのぶ様!どうしましょう……」

アオイさんの声が震える。指先をぎゅっと握りしめながら、今に泣き出しそうな顔をしていた。
私は慌てて一歩近づき、その背にそっと手を添える。その震えは思った以上に強い。
けれど、それもそのはず。選別に無断で行くなんて、正気の沙汰ではない。

「……アオイさん」

自分に言い聞かせるように声を落とし、背中を撫でる。
それでも震えはなかなか収まらない。空気がぴんと張り詰め、廊下の向こうのざわめきが遠くで滲んで聞こえた。

「どうして誰にも言わずに……昨日まで、何も変わった様子なんてなかったのに……」

その言葉に、しのぶさんは一度、ゆっくりと目を閉じた。けれどその呼吸の浅さが、落ち着きを取り繕っているだけだとすぐに分かる。

「…行くつもりだったのでしょう。最初から」
「そんな……しのぶ様、止めなきゃ……!」

アオイさんの声が高まる。
しのぶさんはその肩に両手を置き、静かに首を振った。

「焦っても仕方ありません。もう、手遅れだわ」

手遅れ――その言葉が、鋭く胸の奥を抉るように響く。
何かを言いかけて、アオイさんは小さく息を呑んだ。その先の言葉を飲み込んでしまうほど、事態の重さを理解しているのだろう。

「……手遅れ……」

頭の中で繰り返すたび、足の裏からじわりと冷たいものが這い上がってくる。
でも――しのぶさんがそう言うのなら、それが現実なのだろう。もう、選別は始まっているのかもしれない。
誰よりも冷静で、誰よりも多くの現場を見てきた人だ。彼女の言葉に、余地や希望が残っていないのなら、他の選択肢があるはずがない。

「帰りを、みんなで待つしかありません」

私は二人の横顔を見つめながら、胸の奥が冷えていくのを感じた。
屋敷のどこを探してもいない、刀が一振り消えている。それだけで、もう十分だった。
あの子は、本当に行ってしまったのだ。鬼がいると分かっている場所へ、鬼狩りになるために、自分の足で。
今朝まであんなに穏やかだった屋敷の空気が、もう戻らないような気がしてならなかった。









その一週間は、まるで地獄のようだった。
次の日、朝日が昇っても屋敷の中にあったはずの活気が戻ることはなかった。
誰もが口数を減らし、笑うことを忘れてしまったかのように。
いつもなら洗濯物を干すときに聞こえていた談笑も、今はただ風の音だけが広がっている。
柱の影で小さく泣いている子がいれば、誰も咎めず、ただ静かに背を撫でるだけ。

アオイさんはほとんど眠っていないようで、顔色は悪く、いつ見ても何かを探すように目を泳がせていた。
食事の支度の手もぎこちなく、味噌汁をよそう手が時折止まる。
あの時の自身の選別の光景が、彼女の中で何度も繰り返されているのかもしれない。

しのぶさんはいつも通りを装っていた。患者の診療も欠かさず、声の調子も変わらない。
けれど、廊下の奥に佇むその背中は、どこか遠くを見ているようで。
夜更けに彼女の部屋の明かりが消えることはなく、障子の向こうにうっすらと灯る光が、誰よりも早く朝を迎えていた。

私はというと、何をしていても心が上の空だった。
縫い物をしても針の先が震える。桶の水を替えても、手に残る冷たさが消えない。
カナヲさんの姿が、いつものように廊下の向こうからふと現れないことに、胸の奥が軋む。
とてもじゃないけど、今週はこんな状態で冨岡さんのお手伝いに行けそうになかった。気持ちが落ち着かないままでは、数字の一つもまともに書けないだろう。
その旨を謝罪とともに手紙にしたためて、鎹鴉に託して送った。
返事は思いのほか早く届いた。冨岡さんらしい達筆で簡潔な了承の返事。その短い文の中には、屋敷の皆を気遣う言葉も入っていた。

"春寒の折、蝶屋敷の皆様にはくれぐれもご自愛専一にてお過ごしくださいますよう。"

まだ、カナヲさんは帰ってこない。
当然だ、最終選別は一週間もあるのだから。みんな、それが分かっているからこそ苦しい。
今もその山で、ひとりで、鬼と向き合っている。そう思うたび、何もできない自分が嫌になる。
風に乗って春の匂いがまた屋敷に戻ってきた。けれど、あの暖かさを感じ取る心だけが、どこか遠い場所に置き去りにされたままだった。





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