21


夕方の風は、昼よりも少し冷たかった。
アオイさんと私は、無言のまま物干し竿の乾いた洗濯物を取り入れていた。
いつもなら、どちらからともなく他愛ない話をしていた時間。けれど今日は、口を開くたびに何かが崩れてしまいそうで、どちらも言葉を選びあぐねていた。
風が吹くたびに、洗い立ての布がはらりとはためく。アオイさんがふと、小さく息を吐いた。その吐息には、焦りとも諦めともつかない重さがある。

「……もう、今日で一週間ですね」

なんとなく声に出してみて、言わなければよかったと後悔した。その事実があらためて現実として胸に落ちてくる。
――最終選別が始まってから、一週間。
その間、何の知らせもない。
最初の三日は希望を信じ、四日目からは不安を押し殺し、そして今は、みな恐怖と覚悟の狭間に立たされている。

「みんな、ずっと待ってるのに……」
「……リサさん。私、やっぱり……近くまで探してきます。帰ってくるなら、きっとすぐそこまで来てるはずだから」

アオイさんがぽつりと呟いた。
彼女の手にした敷布が、指の中で皺をつくるほど強く握られている。

「アオイさん……」

思わず名前を呼ぶ。けれど、それ以上の言葉が続かない。慰めの言葉なんて出てこない。
“無事でいてほしい” その祈りしか、もう残っていないから。
アオイさんの瞳の奥には、焦燥が痛いほど浮かび上がっていて。もし、私が止めたところで彼女の心は走り出しているだろう。
風に白布が揺らされる。そのはためきが、アオイさんの揺れる心を映しているように見えた。

その時。
カタン、と門の方から小さな音が聞こえた。一瞬、風に押された木戸が軋んだだけかと思った。けれど次の瞬間――耳の奥に、かすかな足音が続く。砂利が擦れる音。ゆっくりと、ためらうような歩み。
まさか。二人同時に勢いよく顔を上げる。
夕陽が門の木枠の隙間を透かして、影がひとつ浮かび上がった。
現れたのはひとりの少女の姿。桃色の袴の裾がふわりと風に持ち上がる。

「……カナ、ヲ……?」

最初に声を上げたのは、アオイさんだった。
私は両手から力が抜け、手に持っていた洗濯物をぱさりと取り落としてしまう。
汚れるとか、洗い直さなきゃとか、今そんなことはどうでもよかった。

「カナヲ、さん……?」

そこにいたのは、間違いなく彼女。
肩から大きな袋を提げて立っている。
見たところ、顔や腕に怪我はない。髪の端が乱れて、少し埃をかぶっているが、それでも瞳はまっすぐに澄んでいる。
その姿は、まるで春の風と一緒に帰ってきたようだった。

「カナヲ……っ!」

アオイさんの声が震え、すぐに涙に変わる。
次の瞬間、彼女はそのままカナヲさんに駆け寄り、抱きついていた。
抑えていた感情が一気に溢れ出すように、大声で泣きながら。

「う、うわああん!もう…もうっ、何も言わずになんで選別になんか…!みんながどれだけ心配して…!……でも良かった無事で……!本当に良かったあ……!」

カナヲさんは驚いたように瞬きをし、少し戸惑いながらもそっとアオイさんの背に手を添えた。

「……ごめんなさい」

小さな声。その一言で、場の張り詰めていた空気がほどける。
気づけば、縁側から騒ぎを聞きつけた三人娘たちが飛び出してきていた。

「か、カナヲさん……!」
「帰ってきたー!」
「みんな!カナヲさんが帰ってきましたーっ!」

泣き笑いの声が響き、次々と抱きつく小さな体に、カナヲさんは困ったように微笑む。
私は足元が覚束ないまま、その輪に近づいた。胸の奥が熱くて、涙が勝手に滲んでくる。

「……よかった、本当に……」

声にならない声が漏れた瞬間、屋敷の方からもう一つ駆けてくる大きな足音。
振り向くと、しのぶさんが息を切らせて玄関先から現れた。
その目に映るものを確かめるように、しばらく立ち尽くし、次の瞬間。勢いよく駆け寄ってくる。

「カナヲっ!!」

しのぶさんの声が、中庭に響いた。
普段の落ち着いた調子ではなく、張り裂けそうなほどの感情を孕んでまま。
彼女は駆け寄るなり、輪から外れていた私を引き込むと、皆んなまとめてカナヲさんを力いっぱいに抱きしめた。

「心配したでしょう!貴女って子は本当に……!」

その腕は細いのに、まるで離すまいとするように強く締めつけている。
カナヲさんは少し息を詰まらせたように肩を揺らし、静かにその胸の中でまばたきをしていた。

「なぜ選別を受けたの…!答えなさい!」

しのぶさんの声が震える。
けれど、怒鳴っているわけではない。
言葉の端々から滲むのは、怒りよりも恐怖――もう二度と失いたくないという、強い感情のような。
しのぶさんの問いに、カナヲさんは少しだけ視線を落とした。長い沈黙のあと、小さく唇が動く。

「……蝶屋敷で、お世話になっているけれど……」

一語一語、慎重に選ぶように。
掠れた声が、静かな庭に溶けていく。

「……私は家事も、怪我人の治療も、何もうまくできなかったから…です。行く前は銅貨を投げて…決めました……」

空気が一瞬で凪いだ。
鳥の声も、風の音も、すべてが遠のく。
カナヲさんの“意志”を、初めて聞いた気がした。
今まで彼女は、誰かの言葉に頷き、指示に従うだけの少女だったのに。
けれど今、その瞳の奥には確かな光が宿っている。

「カナヲさん……」

思わず名前を呼んでいた。
隣でアオイさんも涙を拭いながら頷く。

「心配したん、だから……っ」
「ご無事で、本当に……よかった……」

三人娘も泣きながら口々に叫ぶ。
しのぶさんはそんな皆の声を聞きながら、そっと腕の力を緩めた。
その頬に光を受けて涙がきらりと光る。

「……そう。貴女はそう考えて……」

その声はもう叱責ではなく、震える優しさに変わっていた。
抱きしめる腕が再び伸び、今度はゆっくりと、カナヲさんひとりを温かく包み込む。

「よく、帰ってきましたね…」

その一言に、張りつめていたすべてがほどけた。
カナヲさんは目を閉じ、静かに頷く。

「もう、咎めるつもりはないわ。無断で行ったのは軽率だったけれど……それでも、生きて帰ってきた。そして自分の意思で立った。それは、何よりも尊いことです」
「……はい」

春風が、庭を渡っていく。
洗濯物の白が揺れ、落ちた布の上に梅の花びらがひとつ舞い降りた。
一週間分の涙と安堵が、ようやく静かに溶け合っていった。









その日の台所は、いつもより遅い時間なのに随分と明るかった。
行灯の火に加えて、かまどの赤がぱちぱちと音を立て、鍋の湯気が天井近くで白くほどけていく。昆布と生姜の匂いが混ざって、胸の奥までやわらかく満たした。

「塩むすび、これで何個目?」
「えっと……十五、十六、十七個です!」
「すごい、きよちゃん早い」

三人娘は袖をくくって、せっせと小さな三角を握っていく。すみちゃんは手のひらに薄く塩をのせ、なほちゃんが水気を調えて、きよちゃんが仕上げる。
私は漬物の小皿を並べながら、鍋の様子を何度も確かめた。
鍋の中身は、たくさん食べられるように用意した大きな寄せ鍋。豚肉と生姜、野菜、それからきのこを入れて。
酷使した体に、まずは栄養のあるものを。アオイさんが「お腹に優しいものからにしましょう」と言い、迷わず決まった献立だった。

「リサさん、器を温めておいてもらえますか」
「あ、はい」

アオイさんは、いつも以上に手際がいい。
指示は簡潔で、声は静か。
「熱いから気をつけてください」と言いながら、私は器を受けわたす。

「お膳、運びます!」
「こぼさないように二人で持ってね」
「はい!」

アオイさんの注意喚起に、三人娘が嬉しそうに声を重ねる。その明るさは、この一週間、屋敷中に張り付いていた重たい影を少しずつ薄くしてくれる。
座敷の方からざわめきが聞こえた。人が集まる音。足音、衣擦れ、畳の上の小さなすり足。
私は鍋蓋をいったん少しずらして、湯気の具合を確かめる。出汁の匂いがふくらんで、胸の奥がほっと緩んだ。

「アオイさん、準備できました」
「うん、持っていきましょう」

お盆を手に、座敷へ向かう。
襖をくぐると、温もりがふわりと体を包んだ。
座卓の周りにはすでに人数分の座布団が円を描いている。端には湯呑み、湯気の立つ鉄瓶。
そして輪の真ん中に、カナヲさんがいた。少し借り物のような表情で、背筋を伸ばして座っている。
髪は梳かれて、埃もきれいに落とされ、薄桃の袴は夕方よりも整って見えた。頬にほんのり色が差している。

「熱いから、気をつけてください」

器を手渡すと、眉尻が少しだけ柔らいだ。
皆に器が行き渡るのを見届け、しのぶさんが座卓の端に手を置く。

「いただきましょう。今日はたくさん食べてくださいね。みんなも準備をありがとう」

「いただきます」と声が重なり、匙の触れる音がいっせいに鳴る。
米粒のやわらかな感触、出汁のやさしい熱、鼻に抜ける生姜。
誰かが小さく「おいしい」と零す。すぐ横で、三人娘が顔を見合わせてはにかむ。

「……温かい」

カナヲさんがぽつりと呟いた。声は小さいのに、座敷の中心をまっすぐ通っていく。

「たくさん食べてね。お腹が驚かないように、少しずつ」

アオイさんの声は、やっぱりどこか鼻にかかっている。泣きはらした目の赤みは引ききっていないけれど、口調はしっかりいつもの調子だ。

「……うん」
「塩むすびもありますよ!」
「高菜と梅も!」
「こっちは海苔です!」

三人娘が大皿をずらずらと並べる。座卓が一気に賑やかになった。
「梅は酸っぱいから、あとでにしてね」とアオイさんが釘を刺し、すみちゃんが「はい」と返事をしながら自分の分に手を伸ばす。なんだか、アオイさんお母さんみたいだ。
私は小さな海苔むすびをひとつ手に取り、向かいのカナヲさんの方へと差し出した。

「…カナヲさん、どうぞ。一週間分たくさん食べてください」

彼女は一瞬だけ迷って、それから受け取った。
握りこぶしほどの、その小さな三角に、ぎゅっと歯形がつく。
その瞬間、きよちゃんが顔を輝かせた。

「あ!カナヲさん、それ私が握ったやつです!」
「あら、上手に三角になってますね」
「えへへ……」
「あ、ずるいです…!カナヲさん、私が握ったのも食べてください…!!」

しのぶさんの褒め言葉に、笑いが座敷の隅々まで波紋みたいに広がる。
どこか遠くに行ってしまいそうだった日常が、ようやく戻ってきてくれた。ここに座って、みんなと同じものを食べて、同じ景色を見る。
そのただの当たり前が、あと一歩で奪われてしまうところだった。

「……山は、寒かったですか?」

問うたのは、なほちゃん。お椀を両手で包み込むように持って目を丸くしている。

「夜は、少し………」
「こわくはなかったですか?」
「……こわい……?」

カナヲさんの声が、ほんのわずかに揺れた。まるで知らない単語を口にした子どものようで、私は思わず胸が締め付けられる。
“怖い”という感情を自分の中から探して、確かめるようなそんな間。
座敷の空気が一瞬だけ静まり返った。匙の音も、息を飲む音さえ消える。
その沈黙をアオイさんがふっと破った。

「……とにかく、無事でよかったです。あんな山の夜なんて寒くて仕方なかったでしょう」
「本当に。あの山の夜は冷えますから、今日は湯槽で肩まで温めた方がいいわね」

しのぶさんもすぐに応じ、あたかも何事もなかったように話の舵を静かに切り替える。

「ぬるめにして長く入るといいですよ」
「……はい」

さりげないやり取りに、座敷の空気がまた緩んでいく。アオイさんの声音は優しく、しのぶさんの言葉はいつも通り落ち着いていた。
誰も“怖い”の続きを問わない。ただ、自然に次の話へと移っていく。
私は膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめながら、心の奥でひとつ息を吐いた。
――この屋敷の人たちは、本当に強い。そして誰よりも優しい。誰も無理に踏み込まない。
抱えたものに手を伸ばす代わりに、そっとそばに椀を置いてただ見守る。そういう温度で、ここはいつだって満ちている。

「…でも、すごいです。カナヲさん、見よう見まねだけで呼吸を習得したのに。私が言うのもなんですけど、きっと才能があるんですね」

私もそっと息を吐いてから、思わず声を上げていた。
カナヲさんは目をぱちぱちと瞬かせ、わずかに視線を伏せた。

「……ありがとう、ございます」

俯いたその横顔が、火の明かりに照らされてほんのり赤く染まる。
……か、かわいい。恥ずかしそうに指先を少し握る仕草も、全部が可愛らしい。
ここだけ見ると、こんな少女が鬼の頸を斬って帰ってきたなんてとても信じられない。
その小さな表情の変化に、すみちゃんたちも顔を見合わせくすくすと笑った。

「――じゃあ、お祝いもしないとですね」

アオイさんが調理場の方をちらりと見て、目を輝かせる。

「実は、今日は特別なものがあるんです。少し待っていてください」

そう言って調理場の方へ向かうと、やがて両腕いっぱいに抱えた青い瓶が座卓に並べられる。
ラムネ――その懐かしい瓶を見た瞬間、私の胸の奥がじんと熱を帯びた。

「わあ……きれい!」
「わたし、はじめて見ます!」
「良かったですね!カナヲさんの好物ですよ!」

三人娘が歓声を上げ、カナヲさんも小さく目を見開いた。

「頂きものなんです。今日は特別ですよ」

しのぶさんが誇らしげに言うと、きよちゃんが瓶を覗き込み、すみちゃんがビー玉を指でつついては「これ、どうなってるの?」と首をかしげる。

「こうするんです」

アオイさんが瓶の口に栓を押し当てると、ポンッと軽やかな音が弾けた。炭酸の泡がぱあっと立ち上り、甘い香りが座敷に広がる。

「わあ〜!」

歓声と笑い声。カナヲさんの目も、それに引き寄せられるように大きく見開かれていた。

「はい、カナヲ」

アオイさんが差し出した一本を受け取り、カナヲさんは両手でそっと瓶を包んだ。
栓の口元を傾けると、細かな泡が口に触れて流れていく。

「……おいしい」

その一言に、みんなの顔がぱっと笑顔になる。

「ほんとだ!」
「シュワシュワする!」
「なんかくすぐったい!」

三人娘も次々と瓶を開けては、喉を鳴らして飲んでいる。小さな炭酸の泡が弾ける音と、笑い声が重なった。
――懐かしいな。私も瓶を目にしながら、過去の日常を思い返していた。
未来では、夏の縁日や放課後のコンビニで当たり前のように飲んでいたラムネ。
けれどこの時代では、“ハイカラな新しいもの”だ。みんなの顔が、まるでお祭りのように嬉しそうに輝いている。

「リサさんも飲んでくださいね」
「は、はい…!すみません、ありがとうございます」

しのぶさんがこちらを見上げて、瓶の栓を開けたあと、私に差し出してくれた。
受け取った瓶の口から、炭酸の泡がはじける音がする。
口に含むと、しゅわしゅわと喉を通って落ちていく。懐かしい甘さが、まるで時を越えて戻ってきたみたいだ。
みんなが楽しそうに笑うその光景を眺めながら、私も頬を緩めた。










それから数週間が経った。
屋敷には、ようやく穏やかな日常が戻っていた。
薬草を干す匂い、廊下を走る小さな足音。
どれも以前と変わらない、静かな日々の音。
ふとした瞬間に感じる空気の柔らかさが、季節の変わり目を教えてくれる。
庭に出れば、木々の枝先には小さな新芽が顔をのぞかせ、花も綻びはじめていた。
陽の光も冬よりも少しだけ長く、やわらかくて、とても心地がいい。

台所では、三人娘が張り合うように笑い声をあげ、アオイさんの指示をする声がそれに続く。
あの騒がしかった数日が嘘のように、屋敷の隅々にまで穏やかさが満ちていた。
けれど、その静けさの奥に――誰もが少しだけ誇らしさを混ぜた「新しい日常」が流れていた。




その朝、屋敷の上空を一羽の鎹鴉が舞い、しのぶさんの部屋の前に降り立った。
伝令を受けたのはカナヲさん。内容は、初めての任務だった。
消息を絶って戻ってきたあの日から、ようやく与えられた“初の現場”だ。
その知らせを聞いた時、屋敷に一瞬だけ静けさが降りた。それは、喜びと、少しの不安が入り混じった静けさ。

いよいよだなと玄関に出ると、庭の奥に立つカナヲさんとみんなの姿。
肩までの黒髪が陽に透けて、蝶の髪飾りがかすかに光る。洗い立ての隊服と、腰には新しい日輪刀が下がっていた。
その姿はもう、かつて屋敷でシャボン玉を持っていた少女のものではない。
背筋を伸ばし、静かに息を整えるその横顔に、確かな意志が宿っている。

「……もう、行くんだね」

アオイさんがそっと声をかける。
カナヲさんは振り向き、短く頷いた。それだけの返事。中庭から、三人娘が慌てて駆けてくる。

「待って、カナヲさん!荷物です、これ!」

両手で差し出された少し大きな包みを、カナヲさんは受け取り携えた。
包みの中には、みんなで握ったおにぎりが詰められている。

「道中食べてくださいね……!どうかお気をつけて……!」
「怪我、しないでくださいね……!」
「帰ってきたら、また一緒にごはん食べましょう!」

泣き笑いのような声が重なった。
小さな肩が震えているのに、誰もそれを笑おうとはしなかった。それは、蝶屋敷の家族みんなの心からの言葉だったから。
カナヲさんは、そんな三人をゆっくり見渡し、ほんのわずかに口角を上げる。
その短い仕草だけで、三人の涙が一斉にあふれる。私も胸の奥がじんわりと熱くなった。

門の方では、しのぶさんが待っていた。朝の光を背にして立つ姿は、いつもより少し厳しく見える。
カナヲさんが一礼すると、しのぶさんも静かに頷いた。

「気をつけて行きなさい。とにかく迷わず、考えず、鬼の頸を切ること。そして、必ず帰ってくるのですよ」
「はい……師範」

――“師範”。
カナヲさんはしのぶさんのことを、そう呼ぶようになった。
選別から帰ってきた日、しのぶさんが正式にカナヲさんを継子として迎え入れたからだ。
継子――それは、柱が自らの技や思いを継がせるために直接育てる弟子のことらしい。
選ばれるのは、並の隊士ではありえない。強さだけでなく、信頼と覚悟が必要になるのだという。
そんな胡蝶さんに選ばれるのだから、カナヲさんはやっぱりとてもすごいのだと思う。

朝の静かな空気の中、静しのぶさんの目がわずかにやわらぐ。
何も言わずに頷くその仕草は、言葉よりもずっと強い約束のようだった。

「行って参ります」

カナヲさんが門から外へ歩き出す。白い羽織が風に揺れ、蝶の髪飾りが陽を受けて光った。
その背中を見送りながら、私は胸の前で手を組んだ。
“どうか、無事で”――。
誰も言葉にはしなかったけれど、その祈りだけは、屋敷の中の全員が同じ想いで抱いていたはずだ。
彼女は立ち止まらず、一度だけ振り返り、静かに微笑むと再び歩き出した。

その姿が見えなくなるまで、誰も動けなかった。




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