21


「水の呼吸、弐の型・水車!」

気迫のこもった掛け声とともに、庭に鋭い風が吹き抜けた。
蝶屋敷で療養中の隊士が勢いよく宙を舞い、全身を大きな円を描くようにして木刀を振り下ろす。冬の間は体を動かすのもしんどそうにしていたのが嘘のように、その太刀筋はしなやかでのびのびとしていた。

「すごい、その調子です!」
「足元の踏み込みも、昨日よりずっと力強いですよ!」

少し離れた芝生の上で三人娘がパタパタと手を叩きながら、そんな彼に向かって大きな声で応援を送る。

「はぁ、はぁ……っ。ありがとう、みんな!」

額に汗を浮かべた隊士が、木刀を引いて真っ直ぐに立ち上がった。

「みんなが毎日一生懸命に看病してくれたおかげだよ。あともう少しで、完璧に本調子に戻れそうだ!」
 
その表情はとても晴れやかで、もうほとんど完治に近い状態まで戻ってきているのが一目で分かった。
彼は深く息を吸い込むと、再びぎゅっと木刀を握り直す。先ほどまでの激しい跳躍から一転し、今度は水流のように滑らかな足捌きで地面を滑り、鋭く木刀を振り下ろした。
──水の呼吸。参ノ型・流流舞い

「わあっ、本当にすごい……」

私はその流れるような美しい剣技に見惚れて、庭を横切ろうとした足のままその場に立ち止まった。
この世界に来てから「呼吸」という言葉自体は何度も耳にすることがあったけれど、こうしてちゃんとその技を目にするのは初めてかもしれない。
鬼を倒すための剣術のはずなのに、一瞬の無駄もないその軌跡はどこか舞踊のようでもあり、息を呑むほどに美しい。
木刀を振り抜き、ふうっと長い息を吐き出した隊士の姿を見届けたあと、私は少し離れた芝生の上にいる三人娘のところへと足を進めた。

「ねえねえ、きよちゃん。今のあれは何ていう技なの?」
 
私が尋ねると、三人は一斉にこちらを振り返ってにっこりと微笑んだ。
空から差し込む光はぽかぽかと私たちの足元を照らし、庭の隅では小さな野花が顔を覗かせ始めている。すっかり春だ。

「今のは『水の呼吸』の技ですよ、リサさん!」
「水の呼吸は基本の五つの呼吸のうちの一つで育てる人が多いから、鬼殺隊の中でも使う人が多い呼吸なんです」

皆が競い合うようにして熱心に教えてくれる。
なるほど、使う人が多いからこそ、こうして身近で目にする機会も多いということらしい。

「そうそう!ちなみに、アオイさんも『水の呼吸』を使われるんですよ」
「えっ、アオイさんも?」

なほちゃんが人差し指を立てて、ちょっぴり得意げに教えてくれた。思わぬ名前に私が目を丸くすると、きよちゃんとすみちゃんも楽しそうに頷く。
そういえば冨岡さんも水の呼吸を使っているって、前に尾崎さんが言っていたっけ。

「アオイさんの型もとっても綺麗なんです!」

三人が楽しそうにアオイさんのことを話す声を心地よく聞きながら、私はもう一度木刀を構え直した隊士の姿に目を向けた。
大勢の隊士たちがその呼吸を使い、同じように必死で剣を磨いている。その中で一番強い最上位の存在が、あの冨岡さん、ということになるのだろうか。
やっぱり、とんでもなく凄い人だったんだ。

「水の呼吸、か……」

私は小さくそう呟いて、その隊士の技をしばらく眺めていた。









「また読んでるんですか?」
「あっアオイさん!……はいっ」

それから数日後の、のどかな昼下がり。
縁側に座って大きな書物を膝の上に広げていた私は、通りかかったアオイさんの呆れ混じりの声に慌てて背筋を伸ばした。

「そんなに面白いですか?」
「とっても面白いです!」

あの日以来、私はすっかり「呼吸」という未知の技術に魅せられてしまっているのだから、仕方がなかった。
庭で目にしたあの流れるような美しい太刀筋と、冬の寒さを撥ね退けるような生命力の眩しさ。あの一瞬の光景が頭から離れず、気になりすぎて、ここ数日は蝶屋敷の書庫にこもりきりだ。
埃っぽい書庫から呼吸に関する様々な古い書物を引っ張り出しては、夢中で頁をめくる毎日を送っている。

「ここ数日そればかりですね」

手にした盆の上に茶器を載せたアオイさんが、小さな溜息をつきながら私の隣に腰を下ろす。

「はい!だって、すごく不思議で、かっこいいんです。文字を追えば追うほど、信じられないような世界で」

私は膝の上の書物に視線を落とし、そっとその頁をなぞった。
基本の五つの流派——水、炎、風、岩、雷。それらがどのように派生し、どのような特性を持っているのか。そして何より、ただの人間が身体能力を限界まで引き出し、鬼と対峙するための仕組み。
身体中の血の巡りを限界まで高め、肺を大きく広げて心拍数を上げることで、人を超える力を得る。
書物に記された原理はどれも過酷で、けれどどこか途方もなく神秘的で、胸が高鳴ってしまう。

「かっこいい、ですか……。まあ、確かに鬼を斬るための特別な技術ではありますけど」
「アオイさんも『水の呼吸』を使われるんですよね?きよちゃんたちが教えてくれたんです」
「……はい、まあ。一応は学びましたけれど」
「じゃあ、実際にアオイさんから見ても、やっぱり冨岡さんってすごく強いんですか?」

私が密かに抱いていた疑問を口にすると、アオイさんはぱちりと瞬きをして、それからどこか遠くを仰ぐような表情になった。

「水柱様、ですか……。比べるのもおこがましいですけど次元が違いますよ」

やっぱり——。
書物をめくるたびに感じていた、あの途方もないまでの隔たり。大勢の隊士たちが血を吐くような思いで鍛錬を重ね、それでも届かない高み。知れば知るほど、すごい人なのだと痛感する。
知識を得れば、今度はそれを実際に見てみたくなるのが世の常というもの。書物に書かれていた、水の呼吸の『流麗にして、あらゆる攻撃をいなす柔軟な刃』という一節が、私の頭の中でぐるぐると回る。
頭に浮かんだ思いを抑えきれず、私は思わずアオイさんに向かって身を乗り出していた。

「もし……もしですよ?冨岡さんに『呼吸を見せてください』ってお願いしたら見せてくださると思いますか?」

案の定ぽかんとした顔をされてしまったが、一度気になってしまった好奇心はどうしても抑えきれない。
アオイさんは数秒間固まったあと、半目になって深々と息をついた。

「…無理でしょう」
「やっぱりですか?」

心の中で苦笑する。冨岡さん、自分の強さを見せびらかしたり、誰かに誇示したりするような人では絶対にないもんなあ。
彼が私の個人的な好奇心のためだけに刀を振るってくれる姿なんて、どれだけ想像を膨らませても全く思い浮かばない。
でも、気になるんだけどな。大勢の隊士たちが必死に磨き上げているあの美しい剣技。そのすべての使い手の頂点、最上位に立つ人の技は、一体どれほど凄まじいものなのだろうかと。

水の呼吸だけじゃない。
長きにわたる鬼殺の歴史の中で剣士たちが磨き上げてきた、基本の五つの流派。
激しく燃え盛る炎のように、一撃の威力を極限まで高めて敵を圧倒する「炎の呼吸」。
大地を揺るがすほどの重撃を誇り、いかなる攻撃をも跳ね返す「岩の呼吸」。
縦横無尽に吹き荒れる突風の如く、絶え間ない猛攻で敵を切り刻む「風の呼吸」。
そして、予測不能な速度と一瞬の瞬発力で、稲妻の如く敵の首を狩る「雷の呼吸」。

書物に記された文字をなぞるたび、それぞれの呼吸が持つ特性や、それを操る剣士たちの姿がありありと脳裏に浮かんでくるようだった。
知識として頭に入れるだけでも、この世界がどれほど命がけの、そして洗練された技術の上に成り立っているのかが痛いほどによく分かる。

けれど、呼吸の歴史というものは、そこで終わりではない。剣士たちの体格や資質、それぞれの戦い方に合わせて、呼吸はさらに独自の進化を遂げ、枝分かれしていくのだ。

水の呼吸から派生した、華やかでありながらも鋭い踏み込みを持つ「花の呼吸」。
そして、その花の呼吸からさらに派生し、毒の技術を融合させてしのぶさんが編み出した「蟲の呼吸」。

複雑に絡み合う系譜を頭の中で整理しながら、私はふといつも優しく微笑んでくれるしのぶさんの姿を思い浮かべていた。
けれど、この時の私はまだ知る由もなかった。自分がただの知識として、文字の羅列として眺めていたその「呼吸」を巡って、この蝶屋敷で、あんな出来事が起こるなんて――。









「……カナヲが、行方不明?」
 
廊下の向こうから聞こえたしのぶさんの声に、私は咄嗟に足を止めた。洗濯籠を抱えた状態で固まる。
ただ事ではない気配に息を呑み、壁に背をつけて隠れるようにしてその様子を窺うと、しのぶさんと向かい合っているアオイさんの肩が小さく震えていた。その表情はどこか深刻で、ひどく張り詰めている。

「部屋には?いつもいる中庭にもいなかったのですか?」
「どこにもいません。今、なほたちにも頼んで屋敷中の心当たりのある場所を全部探してもらってます。でも……おかしなことはそれだけじゃないんです」
「どういうことですか?」

しのぶさんの鋭い視線がアオイさんに注がれる。アオイさんはギュッと自分の拳を握りしめると、顔を青ざめさせたまま、意を決したように言った。

「嫌な予感がして、刀を見に行ったんです。そしたら……花の呼吸の……カナエ様の刀が一振、無くなってて……」

しのぶさんは言葉を失ったように、ふっと目を見開いた。いつも絶やすことのないあの柔らかな笑みが、その時ばかりは完全に消え失せる。

「あの子……!まさか最終選別に!」

最終選別。その言葉が、私の頭の中で鋭く弾けた。
この世界に来てから、アオイさんに聞いたことがある。それは、鬼殺隊の隊士になるために、誰もが必ず通らなければならない、命懸けの試験のことだ。藤襲山という、鬼が閉じ込められた山の中で七日間も生き残らなければならないという、あまりにも過酷な…。
まさか、それにカナヲさんが行ってしまったと?どうして。頭の中が、一瞬で大混乱に陥った。
アオイさんたちの手伝いをしている私は、蝶屋敷にいるカナヲさんの姿を何度も見ている。でも、彼女が刀を持って鍛錬をしているところなんて、私はただの一度も見たことがないのだ。いつも物静かに、中庭の縁側に座って綺麗に微笑んでいるだけの、あのか弱い女の子が…。

「そんな……っ!」

驚きのあまり、私は自分が隠れていることすら忘れて、がばっと壁の陰から飛び出してしまっていた。
突然の大きな声に、アオイさんがびくりと肩を跳ね上げてこちらを振り返る。

「リサさん……聞いていらしたんですか」

動揺に目を丸くするアオイさんの言葉も耳に入らないくらい、私の心臓は早鐘を打っていた。そのまま二人の元へ駆け寄り、縋り付くようにして質問を浴びせかける。

「それってどういうことですか!?カナヲさんが行方不明って……!本当にその、最終選別というのに行ってしまったんですか!?」
「それ、は……」
「カナヲさんはずっとここにいるんじゃ……?どうしてそんな危険な場所に?カナヲさん、まさか鬼狩りになるんですか?」

矢継ぎ早に繰り出される私の問いに、アオイさんは顔をさらに青ざめさせ、きつく唇を噛みしめた。

「今から、今から追いかけて連れ戻すことはできないんですか!?まだ、間に合うんじゃ……っ!」

すがるようにアオイさんと、そしてしのぶさんを交互に見つめる。しかし、しのぶさんはいつもの微笑みを完全に消し去ったまま、悔しそうに、きつく拳を握りしめていた。

「……いいえ、もう間に合いません」

しのぶさんの口から零れ落ちたのは、冷徹な現実だった。彼女が視線を向けた廊下の窓の向こう、遠くの空はすでに白み始めている。

「見てごらんなさい。もう、夜が明けています。藤襲山での最終選別は、昨夜の内に始まっているでしょう」
「そんな……」

頭を強く殴られたような衝撃に、私はその場に立ち尽くすことしかできなかった。あのか弱いカナヲさんが、今まさに、本物の鬼がうごめく山の中にたった一人でいるなんて。

「……許可を出さない私に痺れを切らして、強行突破に出ましたね。カナエ姉さんの刀まで持ち出して……本当に、困った子です」

しのぶさんはぽつりと呟くと、顔を半分覆うようにして深くため息をついた。その横顔には、自分の指導が行き届かなかったことへの悔しさと、妹のように育ててきた少女を危険な戦場へ送り出してしまったという、張り裂けそうなほどの焦燥が滲んで見えた。

「あの子、まともに鍛錬もしてこなかったのに……!基礎体力だって、実践の剣技だって、何一つ身についていないはずです!」

アオイさんが耐えきれなくなったように、激しい焦燥を乗せて叫んだ。その瞳には、今にも零れ落ちそうなほどの涙がたまっている。
しかし、しのぶさんはそっと顔を上げると、どこか冷徹とも言えるほどに冷静な、けれど酷く痛々しい眼差しで窓の外を見つめた。

「いいえ。カナヲは、私たちの鍛錬をずっと『見て』いましたよ」
「え……?」
「あの子は、異常なほどに『目』が良いですから。…おそらく、私やカナエ姉さんの技も、見ているだけでその仕組みを理解してしまっていたのでしょうね」

しのぶさんは一度言葉を区切ると、痛みを堪えるように奥歯を噛みしめた。

「……まあ、仕組みを理解していることと、その動きに自分の身体がついていけるかどうかは、完全に別問題ですが」

その言葉の裏にある「生きて戻れる保証はない」という残酷な響きに、私の全身から血の気が引いていくのが分かった。
取り返しのつかないことが、今、この瞬間に進行している。あんなに大人しくて、感情を表に出すこともなくて、コインを投げなきゃ自分の意思で動くこともできなかった、あのか弱い女の子が。
どうして…?どうして、そこまでして鬼狩りになりたいなんて思ったの…?
戦うことの恐ろしさも、命を落とすかもしれない危険も、すべて分かった上で彼女は強行突破を選んだのだ。
そのしのぶさんのお姉さんだというカナエさんという人の、遺した刀をその手に握りしめて。

何も知らない私の頭の中で、数日前に読んだばかりの「花の呼吸」の系譜が、そしてカナヲさんのあの物静かな笑顔が、ぐるぐると激しく渦巻いて離れなかった。









その一週間は、まるで地獄のようだった。
藤襲山での最終選別が行われる七日間、蝶屋敷を包む空気は、これまでに経験したことがないほど重く、冷たく冷え切っていた。
いつもならテキパキと屋敷を仕切り、大きな声で隊士たちを叱咤しているアオイさんは、あの日を境に目に見えて口数が少なくなった。
なほちゃん、きよちゃん、すみちゃんの三人娘も、お互いの服の裾を握り合うようにして、不安げな表情で身を寄せ合っている。

そして、誰よりもその心を張り裂けさせているであろうしのぶさんは、いつもと変わらない微笑みをその顔に貼り付けたまま、以前にも増して目まぐるしく動き回っていた。
朝から晩まで薬の調合に没頭し、少しの休息も取ろうとしない。
夜、静まり返った屋敷の廊下で、しのぶさんが一人、月明かりの下で拳を血が滲むほど固く握りしめている姿を私は見てしまった。その背中は、見ているこちらが息苦しくなるほどに孤独で、張り詰めていた。

カナヲさんが今、どんなに恐ろしい目に遭っているか。本物の鬼に襲われ、あのか弱い身体で、命のやり取りをしているのか。想像するだけで、夜もまともに眠れなくなる。
どうして私がもっと早く異変に気づけなかったんだろう。どうして引き止められなかったんだろう。
そんな、考えても仕方のない後悔ばかりが頭をぐるぐると駆け巡り、胸をかきむしりたくなるような罪悪感に苛まれていた。

そんな折、冨岡さんの屋敷からいつものように帳簿の手伝いを要請する短い手紙が届いたのだが、とてもじゃないけれど、今週はこんな状態でお手伝いに行けそうになかった。
私は蝶屋敷が今とても大変な状況にあり、伺うことができないという旨を、何度も頭を隠すような気持ちで謝罪の言葉とともに手紙にしたためた。そして、それを彼の鎹鴉の脚へと託し、送り出した。

すぐに返ってくるなどとは思っていなかった。けれど、その日の夕方には、あの漆黒の鴉が再び蝶屋敷の縁側に舞い降りた。
急いで解いた手紙には、いつもの事務的な業務連絡ではなく、彼独特のどこまでも実直な筆跡で、こう記されていた。

『春寒の折、蝶屋敷の皆様にはくれぐれもご自愛専一にてお過ごしくださいますよう。

お手紙、しかと受け取りました。手伝いのことは一切気にしなくて構いません。
あなたがそこにいなければならない大事があること、察しております。
心をすり減らし、体を壊すことのないよう、どうかご自愛ください。
                冨岡義勇』

難しい言葉で書かれていたけれど、簡単に要約するとこう書いてあった。
きっと、事情を詳しくは知らないはずの冨岡さん。それでも、文字の端々から、私や蝶屋敷の異変を彼なりに察し、深く案じてくれているのが痛いほどに伝わってくる。
どこまでも定型文のような、それでいて最後の一行にだけぽつりと添えられた彼らしい無骨な言葉に、張り詰めっぱなしだった私の心が、ほんの少しだけ救われたような気がした。





「……今日で、ちょうど一週間ですね」

誰に言うでもなくぽつり、と呟いたきよちゃんの声に誰もがハッとして動きを止めた。
夕暮れ時の蝶屋敷。いつもなら一番慌ただしく夕飯の支度をしている時間帯だというのに、台所に集まった私たちの空気は、まるで行き場を失ったように淀んでいた。
外を見れば、空はすでに茜色からじわじわと濃い群青色へと染まり始めている。

「うん……。最終選別は七日間だから、今日がその最後の日、だよね」

私がアオイさんの様子を窺いながら言葉を繋ぐと、アオイさんは握りしめていたお玉を持ったまま、視線を激しく彷徨わせた。

「……もし、無事に生き残れていれば、もう麓に下りてきているはずの時間ですよ。藤襲山からここまで、カナヲの足ならどんなに遅くても夕方には……」

そこまで言って、アオイさんは言葉を詰まらせた。
夕方になっても、屋敷の門が叩かれる気配は一切ない。

「な、なに言ってるんですかアオイさん!カナヲさんですから、ちょっと途中で寄り道でもしてるんです!」
「そうですよ!綺麗なお花でも見つけて、ぼんやり眺めてるんです!」

なほちゃんとすみちゃんが、無理に作った明るい声でアオイさんの言葉を打ち消そうとする。けれど、その小さな手は不安を隠しきれずにぎゅっとお互いの割烹着を掴んでいて、今にも泣き出しそうに震えていた。
誰もが、最悪の結末だけは口にすまいと必死だった。暗くなっていく空を見上げるたびに、恐ろしい想像が頭をもたげ、胸が押し潰されそうになる。

「……待つしかないわ。私たちは、ここで待つしかないのよ」

アオイさんは、最終選別を生き残った鬼殺隊の隊士だ。きっと今、アオイさんの脳裏には、あの藤襲山の恐ろしい光景が鮮明に蘇っているに違いない。
その時だった。がたん、と、静まり返った屋敷の表門のほうから、何かが擦れるような鈍い物音が響いた。

「「「っ……!」」」

全員の身体が、弾かれたようにびくりと跳ね上がる。
アオイさんは手に持っていたお玉を危うく落としそうになりながら目を見開き、三人娘も息を呑んで一斉に入り口のほうへと顔を向けた。

「ま、まさか……っ」

アオイさんが声を震わせた瞬間、もう誰もじっとしてなどいられなかった。
夕飯の支度も、すべてその場に放っぽり出して、私たちは言葉を交わす暇すら惜しむように一斉に廊下へと駆け出した。

「カナヲ!?」
「カナヲさん……っ!」

冷たい廊下をただがむしゃらに走る。
心臓が口から飛び出そうなくらいに激しく脈打ち、祈るような、すがるような気持ちで、私たちは表門へと続く玄関の扉を勢いよく押し開けた。









それから数日後のこと。蝶屋敷はこれまでの一週間の静けさが嘘だったかのように、慌ただしくも賑やかな日常を取り戻していた。

「カナヲさん!出来立てのふかし芋がありますよ、一緒に食べますか!?」
「カナヲ!お茶のおかわりは?まだ喉乾いてない!?」
「あれ、カナヲさんどこですか?あ、いたいた!ちょっと日差しが強いですから、こっちの日陰に入りましょう!」
「カナヲさん!」

中庭の縁側に座るカナヲさんの周りには、今や常にアオイさんや三人娘の誰かがつきまとっている状態だった。
藤襲山から、桜色の刀をしっかりと握りしめ、自分の足で帰ってきた彼女を屋敷の皆はこれでもかというほどに泣いて出迎えた。
それからというもの、何かとカナヲさんを甘やかし、過保護に囲い込んでいる。
 
当のカナヲさんはといえば、相変わらず手元でコインをパチンと弾いては、いつも通りにこにこと微笑んでいるだけなのだけれど、その穏やかな空気はどこか以前とは違って見えた。
何も喋らなくても、何も選択できなくても、彼女の胸の奥には確かに、あの日自ら刀を取って地獄へ飛び込んだという、強く、気高い「自分の意志」の火が灯っている。
そして何より大きな変化は、彼女としのぶさんとの関係だった。

「――カナヲ。その踏み込みでは、まだ少し無駄な力が入っています。蟲の呼吸とは違って、あなたの『花の呼吸』は、しなやかな跳躍と鋭い足捌きが命。もう一度、最初からやってごらんなさい」
「……はい、師範」

道場から聞こえてくる二人の声に、私は廊下を通りかかった足のまま、そっと中を窺った。
カナヲさんは、しのぶさんのことを「師範」と呼ぶようになっていた。姉の形見である刀を持ち出し、勝手に選別へ行ったカナヲさんに対して、しのぶさんは帰ってきたあの日、激しく怒ることも、泣いて責めることもしなかった。
ただ、泥だらけの妹をきつく、きつく抱きしめたあと、静かに「私の継子になりなさい」と告げたのだという。

正式にしのぶさんの『継子』となり、鬼殺隊の隊士として歩み始めたカナヲさん。
よかった…。本当に、本当によかった…。胸の奥から、温かいものがじわりと込み上げてくる。
あの生きた心地のしなかった一週間、私は自分の無力さにただ涙を流すことしかできなかったけれど、こうしてまた、みんなで笑い合える日々が戻ってきた。それだけで、奇跡のようだと思う。

文字の羅列でしかなかった「花の呼吸」の歴史。それが、カナエさんからしのぶさんへ、そして今、こうしてカナヲさんへと確かに繋がれたのだ。
誰かを守るために、命を懸けて磨き上げられる刃の美しさを、私はこの蝶屋敷でまた一つ深く知ることになった。
 




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