22
それからさらに月日が流れ、蝶屋敷にはすっかり本格的な春が訪れていた。
ふと足を止め、お世話になっているお屋敷の中庭を見渡す。その中央には、ひときわ存在感を放つ大きな木が一本、どっしりと佇んでいた。
見上げれば、枝の先という先に小さな薄紅色の蕾がこれでもかと身を寄せ合っていて、開花まであと少し、といったところまで膨らんでいる。
大きな木だなぁとはずっと思ってたけど、桜の木だったとは。
春は出会いと別れの季節だと言うけれど、この蝶屋敷にも、確かにその季節が巡ってきている。
つい先日のこと、正式に隊士となったカナヲさんが、初めての任務へと向かっていった。
この屋敷にも、少しずつ、新しく前向きな風が吹き始めている。
「ただいま戻りました……」
蝶屋敷の玄関をくぐると、ふわりと出汁の利いたお料理の良い香りが鼻腔をくすぐった。ちょうど昼餉の支度が済んだ頃合いなのかもしれない。少しだけ足りなかった材料を急遽町まで買いに走ったのだけれど、なんとかお昼の時間に間に合ったみたいでほっと胸をなでおろす。
持っていた籠を抱え直し、草履を脱いで玄関に上がった、その時だった。
「あら、おかえりなさい。リサさん」
パタパタと廊下を歩く軽い足音と共に、たまたま通りかかったしのぶさんが、いつもの優しい微笑みを浮かべて私を迎えてくれた。
「あ、しのぶさん!ただいま戻りました」
「ありがとうございます。急に頼んでしまってごめんなさいね。アオイたちも大助かりです」
しのぶさんはそう言って、私の持つ籠を気遣うようにしながら、一緒に奥へと歩き出してくれた。
隣を歩く彼女の横顔を、それとなく盗み見る。カナヲさんが最終選別に行っていたとき、しのぶさんは寝る間も惜しんで、ずっと研究や治療に当たり続けていた。
今、こうしていつもの穏やかな笑みを浮かべてくれているけれど、まだ無理をしているのではないかと、どうしても心配になってしまう。
私は彼女の顔色をそれとなく窺いながら、何気ない話を振ってみた。
「そういえば、来る途中に中庭の大きな木が見えたんですけど、あれ、桜の木だったんですね!もう蕾が今にも咲きそうなくらい膨らんでいました」
「ええ、毎年綺麗に咲きますよ。みんなで少しだけお花見ができたら良いのですけれど。……カナヲも初めての任務へ向かいましたし、今年はどうでしょうね」
お花見、か。もし本当にそんな機会があったら、どんなに良いだろう。
「あの、しのぶさん。治療や診察のほうは、少しは落ち着きましたか?ここ最近、ずっとお忙しそうだったので心配で……」
「リサさんは優しいですね。大丈夫ですよ。ただ、季節の変わり目ですから風邪をひく方が多くて少しバタバタとしてしまって」
そう言って、いつものようににっこりと微笑む。
「リサさんも気をつけてくださいね」
なんだろう…。いつも通りの、優しいしのぶさんなのに。お礼を言って頷きながらも、私の胸の奥に小さな違和感が引っかかった。
なんだか、どこかいつもと違う気がする。何が違うんだろう。顔色、だろうか。元々透明感のある綺麗な白い肌が、今はいつも以上に白く、どこか血の気が引いているように見えてしまう。あのカナヲさんの時の疲れが、まだ残っているのかもしれない。
いつも完璧で、綻びを見せないしのぶさんだからこそ、その僅かな変化がどうしても気になって、私は思い切って言葉を口にした。
「あの、しのぶさん……。もしかして、どこか体調が悪かったりしませんか?」
しのぶさんは「え?」と驚いたように目を見開いた。いつも完璧な微笑みを崩さない彼女が、一瞬だけ、本当に一瞬だけ、素の表情を覗かせたような気がした。
「す、すみません急に。でも、いつもより顔色が……その、悪い気がして。私の気のせいかもしれないんですけど心配で……」
そう、ただ心配なのだ。
しのぶさんはいつも笑っているけれど、誰より忙しくて、誰より人を気遣って、誰よりも自分を後回しにする人だ。見ていれば、誰にだって分かること。だからつい口にしてしまった。
しのぶさんがいくら体に気を遣っていようと、体を鍛えている柱だろうと、人間なのだから体調を崩すことだってあるはずだ。けれど。
「しのぶ、さん……?」
目の前で、しのぶさんがぴくりとも動かなくなってしまった。
やってしまった、かもしれない。なんとなく、そういうのを気付かれたくない人なのかなとも思う。踏み込んではいけないところに、気付かぬうちに足を入れてしまったのかもしれない。
「余計なことをすみません……ただ、私、その……」
「リサさん、違いますよ」
そこで一度言葉を区切ると、しのぶさんはふぅ、と小さく息を漏らした。
「なんでしょうね。本当に」
「え?やっぱり私、余計な心配をしましたよね。ごめんなさい、柱のしのぶさんにそんな――」
「いいえ」
しのぶさんは私の言葉を遮るように首を横に振ると、少しだけ困ったように、けれどどこか愛おしむような目を私に向けた。
「リサさんは時々、扱いづらいときがあるなあと」
「えっ」
「何も知らないまま、守られていてくれればいいものを。変なところで鋭いのですね」
はて、と首が自然に傾いた。
わかったような、わからないような。守られる、なんて。たしかに、ここのみんなに守られて私は生活ができている訳だけれど。しのぶさんが言う"守る"は、なんだかそういうことではない気がする。
誰に――いや、何から?
目を向けると、しのぶさんはほんのわずかに私から視線を逸らしていた。その横顔が、なぜだかひどく遠く感じる。
「いいえ。こちらの話です」
それきりその話題を打ち切るように、しのぶさんはいつもの完璧な微笑みを顔に貼り直した。
「体調は大丈夫ですよ。ただ、最近寝不足でそう見えただけだと思います」
「……本当ですか」
「ええ、本当です。それよりも、私はリサさんのことが気になりますよ」
急に話の矛先を向けられて、私はパチパチと瞬きを繰り返した。
「私……?」
「ええ。冨岡さんのお屋敷でのお手伝い、その後はいかがですか?上手くいっていますか?」
急に飛び出してきたその名前に、心臓がどきりと跳ね上がる。
「は、はい……。順調、です。この間は合間に水の呼吸を見せていただいて……」
「あらあら」
しのぶさんはそう言って、くすくすと鈴を転がすような声で笑うと、どこか意味深な笑みをその唇に浮かべた。細められた瞳が、じっと私を見つめてくる。
な、なんだろう…。なんだかすごく、居心地が悪くなる。
書いた帳簿を褒められたむず痒い気持ちや、彼と向き合うときの胸の高鳴りをすべて引きずり出されてしまいそうで、私は思わず身を固くした。
「あの冨岡さんが、わざわざ自分の呼吸を人に見せるなんて。リサさんは特別なんでしょうね」
特別。
しのぶさんの口から零れたその甘い響きが、なぜだか耳の奥で何度も反芻する。ただの言葉のはずなのに、まるで熱を持ったみたいに、私の胸の真ん中へすとんと落ちてきた。
「どういう、ことですか?」
思わず、縋るようにその先を問いかけていた。けれどしのぶさんは、私の動揺を見透かしたように人差し指をそっと自分の唇に当てると、「さあ?」と悪戯っぽく微笑むだけだった。
核心には一切触れてくれないまま、彼女はどこか遠くを見つめるような、少しだけ真剣な眼差しをこちらに向ける。
「そうですね、ひとつだけ言うならば、リサさんの方がうっかり足を取られてしまわないか、そこが心配ですね」
「足……?」
言葉を繰り返すと、しのぶさんが小さく微笑んだ。
「ええ。例えて言うなら、穏やかな川は見た目よりも流れが速いのですよ」
穏やかな川――。
たしかに聞いたことがある。川は穏やかに見えても、ふと目を離した隙に流れが急に変わる、と。
小さい頃、危ないから川辺では遊ばないようにと、近所の人や大人たちによく言われたものだった。表面がどれだけ静かに見えても、底のほうの流れは力強く、速いのだと。
けれど、しのぶさんの言う"穏やかな川"が、文字通りの意味ではないことくらい私にだって分かる。何気ない当たり障りのない話をしながらも、その言葉の下にもう一枚、本当の意味を隠しているみたいな、そんな独特の言い回し。
本当の意味を深く訊き返す勇気は、今の私には出なかった。聞いたところで、きっと彼女はまた、あの完璧な笑顔で「こちらの話です」と、するりと流してしまうのだろう。
「……気をつけます」
「ふふ。ええ、気をつけて」
やっとの思いでそれだけ言うと、しのぶさんは満足げに目を細めた。どうやら私のこの返答で合っていたらしい。
「さあ、アオイたちが待っていますよ。早くそれを届けてあげてください」
「は、はい……」
手を振って走っていくしのぶさんを見送り、彼女が角を曲がって見えなくなっても、私はしばらくその場から動けなかった。
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