22


それからさらに月日が流れ、蝶屋敷にはすっかり本格的な春が訪れていた。
ふと足を止め、お世話になっているお屋敷の中庭を見渡す。その中央には、ひときわ存在感を放つ大きな木が一本、どっしりと佇んでいた。
見上げれば、枝の先という先に小さな薄紅色の蕾がこれでもかと身を寄せ合っていて、開花まであと少し、といったところまで膨らんでいる。
大きな木だなぁとはずっと思ってたけど、桜の木だったとは。

春は出会いと別れの季節だと言うけれど、この蝶屋敷にも、確かにその季節が巡ってきている。
つい先日のこと、正式に隊士となったカナヲさんが、初めての任務へと向かっていった。
この屋敷にも、少しずつ、新しく前向きな風が吹き始めている。

「――よし」

と小さく気合を入れ、私は草履を履き直した。




今日は久しぶりに、冨岡さんのお屋敷へ向かう日だった。向かう途中、私は少しだけ遠回りをして、賑わう町の通りへと足を向けた。
目当ての店で、丁寧に美しく包んでもらった小包をそっと抱え、今度こそあの静かなお屋敷へと足を速める。
町の喧騒が遠ざかり、辺りに笹の擦れ合う音が響き始める頃、見慣れた冨岡さんの屋敷の門が見えてきた。
深く息を吸い込み、胸の高鳴りを鎮めるようにして、私はゆっくりと門を叩いた。

「と、冨岡さん、お久しぶりです。高月リサです。入ってもよろしいですか?」

カンカン…と、中からは何かと何かを硬く打ち付けるような音が聞こえていたのだけれど、私の声に反応するように、それがぴたりと止んだ。
一呼吸おいて、すうっと静かに門が開かれる。

「よく来た」

そう言って現れた冨岡さんは、いつも羽織っているあの左右非対称の羽織を脱いでいて、黒い隊服だけの姿だった。
彼のそんな着こなしを見るのは初めてで、なんだか新鮮な気持ちになる。しかも右手には木刀を握っているから、もしかしたら一人で打ち込みの稽古でもしていたのかもしれない。ちらりと視線を彼の後ろの庭へと向けると、綺麗に整えられた真砂の上に、激しく動いたような足さばきの跡が幾つも残っていた。

「もしかして冨岡さん、鍛錬中でしたか……?すみません、私お邪魔をしてしまいましたよね。終わるまで中で待たせてもらいますので、私のことは気にせず続けてください」
「構わない。任務の帰りがけに、少しだけ体を動かすつもりだった。もう終わりにする」
「本当に大丈夫ですか……?」
「ああ。それより、お前の方こそもう良いのか」

じっと私を見つめる彼の瞳は、いつものように淡々としてはいるけれど、どこか気遣う優しさが滲んでいた。
あの手紙の最後の一行が頭をよぎり、胸の奥がじんわりと温かくなる。

「はい、お陰様で元気です。手紙、本当に嬉しかったです。……あの時は本当にありがとうございました。色々と、ご心配をおかけしてしまって」
「……いや。お前が変わりないならそれでいい」

そう言って私を屋敷の中へと迎え入れてくれる。

「井戸で顔を洗ってくる。先にいつもの部屋で待っていてくれ」
「は、はい!わかりました」

私がペコリと頭を下げると、冨岡さんは小さく頷いてそのまま中庭のほうへと去っていった。
その彼が背を向けた瞬間、黒い詰襟の布地に、どん、と大きく浮かび上がる白い「滅」の文字。
いつもなら羽織に隠れて見えないはずの背中が、今は完全に剥き出しになっていた。初めて間近で見るその一文字に、なんだか妙にどきりとする。

それと同時に、羽織を着ていない冨岡さんは、私の思っていたよりもずっと細身に見えた。もちろん最高位の剣士だから、肩幅は広くて、服の上からでも分かるくらいに逞しい筋肉がしっかりついている。
それなのに、ベルトで締められた腰のあたりが、驚くほどに細くきゅっと引き締まっているのだ。その綺麗なラインを無意識に目で追ってしまい、頭の芯が急に熱くなって、思わずくらりと目眩がした。
な、何をじろじろ見てるのだろう私は…。自分の不躾な視線に信じられないくらい恥ずかしくなって、私は慌ててぶんぶんと頭を振り、強制的に視線を逸らす。
私は逃げ込むように、いつもの帳簿の部屋へと大急ぎで足を運んだ。

「し、失礼します……」

誰もいない静かな居間の襖を開け、そっと中に入る。トタトタと畳の上を進み、いつも帳簿を広げる定位置に腰を下ろした。
落ち着け、私。落ち着くんだ…。ただ、感謝を込めてこれをお渡しするだけなのに。どうしてこんなに緊張しているのか。
もし、受け取ってもらえなかったら、その時はその時。自分で全部食べちゃえばいいんだし。
そんな風に、半分やけくそな言い訳を心の中で並べていた、その時だった。
すうっと静かに襖が開き、水に濡れて少し色が変わった黒髪を揺らしながら、冨岡さんが入ってきた。

「……待たせた」
「っいえ、全然待ってません。……あ」

いつの間にかあの左右非対称の羽織をきちんと羽織り直していて、いつもの雰囲気に戻っている。ほんの少しだけ、ほっとしたような、なんだか残念なような、複雑な気持ちになりながら私は背筋を正した。

「あの……冨岡さんは、いつもこの時間帯に鍛錬をされているんですか?」
「……日による。任務のない日は、大体この刻限だ」
「そうだったんですね。いつもお邪魔する時間と重ならなくてよかったです。お忙しいのに、いつも帳簿の手伝いを入れさせてもらってしまって……」
「気にするな。こちらが頼んでいることだ」

冨岡さんはそう言って、いつものように私の対面に静かに腰を下ろした。
目の前に彼が座ると、急に膝の上で抱えている小包の存在が大きく感じられて、途端に言葉に詰まってしまう。今すぐ渡すべきか、それとも手伝いが全部終わってからの方がいいのか。ぐるぐると思考が空回りして、なんだか私の挙動が怪しくなっている気がする。

「どうかしたか」

じっと私を見つめる冨岡さんの瞳が、私の様子の異変を察したようにわずかに細められた。その視線に背中を押されるようにして、私は意を決して小包を両手でそっと差し出す。

「あの、冨岡さん。お手伝いを始める前に、その……これを受け取っていただけますか?」
「何だ、これは」
「あ、ええと……カステラです。あ、もし、もし甘いものが苦手でしたら、その、私が引き取りますので……っ」
「カステラ?」

冨岡さんは、私の手から受け取った小包を不思議そうにじっと見つめた。

「そ、その、は、はい。少しだけですけど……」

言葉を口にしながら、自分でも少し恥ずかしくなってきた。わざわざ細かく言うことでもないのに、なぜか説明せずにはいられない。

「以前、しのぶさんにも差し上げたことがあって……良ければ、召し上がってください。その……以前、出納帳のお手伝いができなかった時のお詫びと、水の呼吸を我が儘言って見せてもらったお礼と、いつもお世話になっているお礼、です。今日、ここに来る前に町で買ってきて……」

一気に捲し立てるように説明すると、自分の顔がどんどん熱くなっていくのが分かった。言い訳みたいにたくさんの理由を並べてしまったけれど、ただお礼をしたかっただけなのだ。
冨岡さんはしばらく気圧されたように、黙ってカステラの包みを見つめていた。

「……気にするなと言ったはずだ」
「いっ、いえ!いつも本当にお世話になってますので!」

慌てて手を振る私を見て、冨岡さんは少しだけ眉をひそめ、真面目な顔のまま静かに言った。

「本来なら、こうして手伝ってもらっている俺が送る側だろう」
「え?そうなんですか…?でも、私の方がお世話になってると思いますし…。それに、」
 
それに、あの心細かった一週間、冨岡さんのあの手紙にどれだけ救われたか。そんなことまで口にするのは流石に恥ずかしくて、私はふいっと顔をを落とした。

「カステラ、嫌い、ですか……?」

視線だけ上げて恐る恐る尋ねると、冨岡さんは少しだけ目を見開いたあと、ふっと視線を和らげてカステラの包みを自分の隣へと置いてくれた。

「嫌いではない。ありがたく貰う」
「よ、良かった……!」

そっか、良かった…。冨岡さん、甘いもの嫌いじゃなかったんだ。ほっと胸をなでおろした私の姿を、冨岡さんはじっと見つめていた。

「……町へは、誰と行ったんだ」
「え?一人ですけど……」

するり、と何も考えないまま言葉が流れ出ていた。
言ってから、自分の大失言に気付く。そうだ、忘れていたわけじゃない。あの件以降、私は一人で町に降りることをしのぶさんや冨岡さんから禁止されていたのだ。

「……一人で?」

いつもより低い冨岡さんの声に、ひぃと小さく悲鳴を上げる。

「行ったのか」
「あ、え、あ、すみません……」





「以前の件を忘れたわけではないな」
「す……すみません……」




修正中








朝の陽が少し傾き始めたころ、私は小さな包みを手に、冨岡さんの屋敷を訪れていた。
風はまだ冷たいが、空気は完全に春の匂いになっている。胸の奥も、なぜか少しそわそわして落ち着かない。
門の前に立ち、一度深呼吸をする。

「と、冨岡さん。高月リサです…!参りました…!」

戸を叩くとそっと呼びかけた。
しばしの沈黙のあと、木戸の向こうから気配がする。やがて戸がゆっくり開き、冨岡さんが出迎えてくれた。

「よく来た」

そう言って現れた冨岡さんは、いつもの羽織を脱いでいて、隊服だけの姿。
軽く会釈をしながら、一歩中へと足を踏み入れると、自然と彼を見上げる形になった。
額にはうっすら汗が滲み、こめかみの髪が少しだけ肌に貼りついている。右手に木刀を持っているから、もしかしたら打ち込み稽古をしていたのかもしれない。
ちらりと庭を覗くと、真砂の上に足さばきの跡が残っていた。

「もしかして冨岡さん、鍛錬中でしたか…?すみません、邪魔をしてしまって…。終わるまで待つので、私のことは気にせず続けてください」
「構わない。帰りがけに、少しだけのつもりだった」

冨岡さんは木刀を持ったまま、少し目を細めた。
帰りがけ…ってことは夜の任務や見廻りを終えたあとということだ。
もしかして、眠ると私が来てしまうからわざと起きて待っていてくれたのだろうか。疲れてないのかな。

「井戸で顔を洗ってくる。先にいつもの部屋で待っていてくれ」
「は、はい」
「すぐ行く。茶を淹れる」
「あ、それは私が――」
「いい。お前は来たばかりだろう」

短くそう言って、冨岡さんは木刀を壁に立てかけると、庭の端にある井戸へ向かった。背を向けたその瞬間、黒の布地に浮かび上がる、白い「滅」の文字。
普段、羽織に隠れて見えなかったその文字を目にして、どこか新鮮な気持ちになる。
冨岡さんは思っていたより細身だ。肩は広く、筋肉もしっかりとついているのに、腰のあたりが細くきゅっと引き締まっている。
目がそこに吸い寄せられて、思わずくらりとした。慌てて頭を振って、視線を逸らす。

「失礼します……」

そう言って戸口に手をかけ、いつもの座敷へ。
草履を脱いで、敷居を跨ぐと木が足裏にひやりと触れた。
廊下を通り抜ける風が、頬を撫で気持ちいい。
庭の方に目を向けると、一本の小さな桜の木があった。枝先には淡い蕾がいくつも膨らんでいて、陽を受けてかすかに透けている。
蝶屋敷のような立派な桜ではないが、若い木がこれから花を咲かせようとしている姿に、心が少しだけ温かくなる。

座敷へ足を踏み入れると、座卓の上には薄い埃ひとつなく、書類の束と筆巻きが端に寄せて置かれてあった。いつも通り、余計なものが何ひとつない空間。
私はそっといつもの場所に腰を下ろし、手にしていた包みを膝の上に置いて冨岡さんを待った。

「待たせた」
「い、いえ……」

ほどなくして、廊下側で衣擦れの音がして冨岡さんが入ってきた。もう汗は引いていて、髪も整っている。いつもの羽織姿に戻っていて、なんだか少し残念に思う。
冨岡さんが二人分の湯のみを盆に載せ、机に置いてくれる。受け皿に手を添える所作が綺麗で、思わず視線を奪われた。

「……あの」

自分の声が思ったより小さくて、喉がくすぐったくなる。
けれど、冨岡さんが静かにこちらを見たのを確認して、今しかないと私は両手でその包みを差し出した。

「冨岡さん、あの……よかったら、これを」

冨岡さんの眉がわずかに動く。
視線が一瞬だけそれに留まった。

「これは?」
「えっと……その、カステラです。以前、しのぶさんにも差し上げたことがあって……」
「カステラ?」

短く呟いた彼の声音には、微かに驚きが混じっていた。

「は、はい。ほんの少しだけですけど……」

口にしながら、自分でも少し恥ずかしくなってきた。わざわざ言うことでもないのに、なぜか説明せずにはいられない。

「その、良ければ、召し上がってください…。以前、出納帳のお手伝いができなかった時のお詫びと、いつもお世話になっているお礼、です。今日ここに来る前に町で買ってきて…」

言葉を重ねるうちに、だんだんと声が小さくなる。
冨岡さんは包みを見つめたまま、何も言わない。
良かれと思ってしたことだったけれど、もしかして冨岡さん、甘いものは苦手だっただろうか。それとも、こんな贈り物をするのが図々しかった?
沈黙に不安が胸をよぎる。

「あ、あの、甘いものが苦手だったらすみません。持って帰って私が……」
「気を遣うな」

沈黙に耐えられなくて、思わず早口でまくしたてた時、冨岡さんが視線を落としてから丁寧に包みを受け取ってくれた。

「……い、いえ、いつもお世話になってるので」
「本来なら、こうして手伝ってもらっている俺が送る側だろう」
「え?そうなんですか?…でも、私の方がお世話になっているし、この間、心配をかけてしまったお詫びのつもりでもあるので……」
「心配?」

その言葉に、冨岡さんはきょとんと目を瞬かせると、少しだけ眉を寄せた。

「そ、その……この前カナヲさんが、最終選別に行ってしまったと手紙を送ったとき……冨岡さんがお返事をくださったじゃないですか」
「あれは……」
「と、冨岡さんにとっては社交辞令みたいなものだったかもしれませんが……でも、私はそのお手紙の言葉で心が軽くなったから、これは……その、お礼だと思ってください」

そう言いながらも、顔を合わせられなくなって、どんどん視線が下がっていってしまう。
冨岡さんは、しばらく黙って私を見ていた。その視線が静かすぎて、なんだか不安になる。
やがて彼はひとつ息を吐いて、私の目の前に珍しく胡座をかいて座った。

「……甘いものは、嫌いじゃない」
「え……?」
「いただく。ありがとう」

その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
安堵と同時に、どうしようもなく照れくささが込み上げてきた。
……そっか。
冨岡さんも、甘いものも食べられるんだ。
うん、それなら……よかった。
胸の内でそっと言葉がほどけていく。声にはしないまま、俯いた私の唇に自然と小さな笑みがにじんだ。








ただいま戻りました――と、蝶屋敷の敷居をまたいだ瞬間、いい匂いがふっと上がった。
炊き立ての米の甘い香りと、醤油の焦げるような香ばしさ。
昼餉の支度がちょうど済んだ頃なのかな。
廊下の奥では、すみちゃんたちの甲高い笑い声が小さく跳ねて、お膳を運ぶような足音が聞こえてくる。
冨岡さんの屋敷で少し長居をしてしまったせいで、昼の時刻はとうに過ぎている。お味噌汁が残っていたら私も分けてもらおうかな……そんなことを考えながら草履を脱いだとき、角の向こうから小さな影が滑るように現れた。

「あら。リサさん、おかえりなさい」

ふと顔を向けると、蝶の紋様の羽織が目に入った。
しのぶさんだ。微笑みを浮かべたまま、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。

「ただいま戻りました。しのぶさんもお戻りだったんですね。お疲れさまです」
「ありがとうございます。私もつい先ほど戻ったところなんです。…よければ、このまま一緒にどうですか?」
「はい、ぜひ…!」

軽く会釈を交わすと、彼女は歩調を私に合わせて廊下を進み始めた。その姿は相変わらず整っていて、どこか花の香りを纏っている。

「今日は洗い場の梅がもう散り始めていましたよ。季節の歩みは本当に早いですね」
「本当ですね。最近は干した布の乾く速さも、全然違ってきました」
「ふふ。リサさんはそういうところ、よく気づきますね。初めてここにいらした日も、中庭をじっと見つめていましたし」
「え……覚えてくださってるんですか?」
「もちろん。案内しながら、ずいぶん静かな方が来たなあと思って」

そう言いながら、くすりと笑うしのぶさん。
言われて、胸の奥がぽっと熱を帯びた。
たしかに、あの日もこんなふうに並んで歩いた。木床の弾む感触、薬草を干した匂い、彼女の膝の高さで揺れる羽織の袖。
見下げる角度も、歩幅に合わせてもらう呼吸も、同じ――ただ、今は横にいる自分の感情があのときよりも安定している。

「診療の方は……最近、患者さんの数は落ち着きましたか?」
「はい。ただ、最近は風邪の方が多くて。季節の変わり目では、どうしても体調を崩す人が増えますね。……リサさんは大丈夫ですか?」
「はい、私は全然…!とっても元気です」
「あら、良かった」

しのぶさんは目じりだけで笑う。
その笑みの手前を、藤の香がかすかに横切った。廊下の風に乗るようにふっと漂って、鼻先に触れる。
あれ――と思って横を見ると、彼女の横顔が一瞬だけ白く見えた。白粉がいつもより幾分しっかり塗られている。唇の色も、いつもより静かだ。
気のせい、だろうか。声も運びも、変わらないはずなのに。なのに、ほんの薄い膜の向こうから話しかけられているみたいで、胸に小さな棘がひとつ引っかかった。

「……しのぶさんは」

呼んだ声が自分でも驚くほど低く落ちた。
足が半歩だけ止まる。

「もしかして、体調が……あまり優れないんですか?」

言い終えると同時に、彼女の睫毛がぴくりと震えた。驚いたように目がわずかに見開かれ、歩みが私の半歩後ろで止まる。
私も立ち止まって振り返ると、しのぶさんの瞳がほんの一瞬、光を失ったように伏せられていた。
わ、え、どうしよう。余計なことを言ってしまったのかもしれない。しのぶさんが動かない。心臓が不安に押し潰されそうになる。

「す、すみません余計なことを……。でも、いつもより顔色が……その、悪い気がして。私の気のせいかもしれないんですけど、心配で……」

そう、ただ心配なのだ。
しのぶさんはいつも笑っているけれど、誰より忙しくて、誰より人を気づかって、誰よりも自分を後回しにする。見ていれば、誰にだって分かること。だから口にしてしまった。
しのぶさんがいくら体に気を使っていようと体を鍛えていようと、人間なのだから体調を崩すこともあるだろう。
でも、なんとなく、そういうのを“気づかれたくない人”なのかなとも思う。踏み込んではいけないところに、気づかぬうちに足を入れてしまったのかもしれない。

「やっぱり余計でしたよね、すみません……柱のしのぶさんが体調管理を疎かにするわけないのに、私……」

その沈黙が怖くて、言葉を並べ立てていたその時だった。
しのぶさんが小さく笑い、ゆっくりと顔を上げた。

「リサさん、違うんです。……ただ」

そして、いつものような穏やかな表情で私を見る。
首を傾けると、彼女は小さく笑って言葉を選ぶみたいに睫毛を伏せた。

「……なんでしょうね。本当に」
「え、なんですか?やっぱり私、変な心配しましたよね。ごめんなさい、そうとも思わず――」
「いいえ」

しのぶさんの笑みはそのまま、私の言葉を遮った。けれどどこか、瞳の底の色が微かに変わった気がする。

「リサさんは時々、扱いづらいときがあるなあと」
「えっ」

胸の奥で何かが躍る。
扱いづらい。私が?どうして…だろう。
やっぱり、さっきの質問が図々しかった?それとも、前の一週間の落ち着きのなさが顔に出すぎていた?
頭の中で言葉がほどけて絡まる。
感情がどんどん不安に飲み込まれていった時、しのぶさんは微笑みの角度をほんの少しだけ丸くした。

「何も知らないまま守られていてくれればいいのに…。変なところで鋭いのですね」
「……?」

はて、と首が自然に傾いた。
わかったような、わからないような。
守られる、なんて。たしかに、ここのみんなに守られて私は生活ができている訳だけれど。しのぶさんが言う"守る"は、なんだかそういうことではない気がする。
誰に――いや、何から?
目を向けると、しのぶさんはほんのわずかに視線を逸らしていた。その横顔が、なぜだか遠く感じる。

「いいえ。こちらの話です」

そう言って、彼女は軽やかにその線を曖昧に戻す。まるで、手のひらで優しく糸を切るように。
声の調子が穏やかに戻ったのに、胸の奥ではまだ小さな波紋が広がっていた。それ以上なぜか踏み込めなくなる。

「体調は大丈夫ですよ。ただ、最近寝不足でそう見えただけだと思います」
「……本当ですか」

思わず問い返した声が、自分でも少し硬くなっていた。
あれほど一瞬、光を失った瞳を見てしまったあとでは、とても信じ切れない。
けれど、しのぶさんはいつもの微笑を崩さない。その笑みが整っているほど、胸の奥が少し痛む。

「ええ。本当です。……それよりも、私はリサさんのことが気になりますよ」
「私……?」

返した声が、わずかに上ずった。

「冨岡さんのところに毎週、足繁く通っているみたいですが。大丈夫ですか?」
「な、何がですか?」

目を瞬かせる。何がどう“大丈夫”なのか、言葉の方向がつかめない。
けれど、彼女の唇の端に浮かぶわずかな悪戯っぽい笑みに、なぜか心臓がどくん、と跳ねた。

「手は出されていませんか?」
「手っ……!?」

声が大きく裏返った。反射的に両手をぶんぶんと振って、否定をする。
彼女は一体なにを言い出すのか。しのぶさんの声音があまりにも落ち着いていて、それが余計に混乱を煽った。

「と、冨岡さんが、そんな、手を……出すわけ……」

言いながら、語尾が尻すぼみになった。
“出すわけがない”――そう言い切ろうとしたのに、声の端がもごもごと震える。

「あら、そうですか。良かったです」

その声音があまりにもさらりとしていて、膝の力が抜けそうになった。いつものように穏やかで、いつものように掴めない。まるで最初から、この反応を見越していたみたいに落ち着いている。
その落ち着きに遅れて、私は顔の火照りがじわじわ広がっていった。

「ですが、リサさんの方がうっかり足を取られてしまわないか、そこが心配で」
「足……?」

言葉を繰り返すと、しのぶさんが小さく微笑んだ。

「例えて言うなら、そうですね。穏やかな川は、見た目よりも流れが速いのですよ」

穏やかな川――。
たしかに聞いたことがある。川は穏やかに見えても、ふと目を離した隙に流れが急に変わる、と。
小さい頃、川辺では遊ばないようにと、よく言われたものだった。静かに見えるほど、底の流れは速いのだと。
けれど、しのぶさんの言う“穏やかな川”は、そのままの意味ではないことは分かる。当たり障りのない話をしながらも、その下にもう一枚、本当の意味を隠しているみたいな。
“穏やかな川”――そう言われて私が思い浮かべるのは、冨岡さんの横顔だ。静かで、穏やかで、あの人の静けさの中には、たしかに川のような流れがある。
しのぶさんの言う、穏やかな川とは何のことなのか。訊き返す勇気は出なかった。聞いたところで、きっと彼女はまた、あの完璧な笑顔で「こちらの話です」と流してしまうのだろう。

「……気をつけます」
「ふふ。ええ、気をつけて」

やっとそれだけ言うと、しのぶさんは満足げに目を細めた。この返答で合っていたらしい。

「では、私はこれで。……あ、最後に」

歩みを進めたしのぶさんが、廊下の角に差しかかったところで、くるりと半身を戻した。羽織がふわりと揺れ、光の粒をまとったように見える。
その瞳が、少しだけ柔らかく細められた。

「冨岡さんには、くれぐれもよろしくお伝えくださいね。うちの大切な人をあまり疲れさせないように、と」
「えっ、あの、それは――だ、誰のことを」

言葉の途中で、しのぶさんの唇がわずかに弧を描いた。

「もちろん、リサさんのことですよ」

しのぶさんはもうそれ以上何も言わず、軽やかに背を向けた。廊下の奥へと消えていく背を見送りながら、私は胸の奥でひっそりと呟く。
――大切な人、か。しのぶさんに、大切な人だと言われてしまった。頬の奥が熱を帯びていくのがわかる。
その響きを、しばらくのあいだ反芻するように抱きしめていた。




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