23


町の通りを抜けて少し歩いた先に、その甘味処はあった。
軒下には暖簾が揺れ、店先に並んだ赤の縁台が春の日差しを受けて照らされている。
道端では買い物帰りの人たちが行き交い、遠くで祭囃子まつりばやしの練習らしき笛の音がかすかに響いていた。

「へえ……そんなことがあったんだ」

尾崎さんは、縁台に腰を下ろしながら感心したように言った。片手に持った桜餅をひと口かじると、もぐもぐとゆっくり味わう。どうやら、桜餅は彼女の好物らしい。
今日は、尾崎さんの非番の日だった。数日前、鎹鴉の睡蓮から「甘味でもどうか」と誘う手紙を受け取って、二人で連れ立って町へ降りてきたのだ。
通りを吹き抜ける風は、もう冷たさを含んでいない。頬を撫でる空気は柔らかく、冬の張りつめた気配はすっかり姿を消している。
縁台のすぐそばには大きな桜の木が一本、花をほころび始めさせていた

「うん。もうね、人生でいちばん長い一週間だったよ。生きた心地がしなかったもん」

私も隣に腰を下ろし、桜餅を手に取る。
通りのざわめきに混じりながら、近況報告として、カナヲさんの出立のことをぽつぽつと尾崎さんに話し始めたのだ。

「そっか…。胡蝶さんも、気が気じゃなかっただろうね」

尾崎さんは桜餅の葉を指で押さえながら、まぶしそうに目を細める。

「……うん。表情には出してなかったけど、きっと心の中は大変だったと思う。出立の日にはちゃんと送り出してたし、いつものしのぶさんだったけど、きっと心配は尽きないんだろうなあって思う」
「そういう人だよね、胡蝶さん」

尾崎さんは静かに頷く。
風がそっと桜の枝を揺らし、まだ少ない花びらがひとひら、縁台の横に落ちてきた。

「……カナヲちゃん、だっけ。すごいね。若いのに、そんなふうに真っ直ぐ立って、前を向いて」
「うん。私なんかより、ずっとしっかりしてて尊敬する」

そう言いながら、私は指先の桜餅を見つめた。
口に入れると葉の塩気が舌に触れて、不意に胸の奥がきゅっと締まる。あの背中を見送ったときの、言葉にならない感情がふっと蘇った。
私には、カナヲさんの無事を願うことしかできない。カナヲさんだけじゃない。尾崎さんやしのぶさんのことだって、ただ願うだけじゃなくて――何か他にできることがあればいいのに。
カナヲさんが選別に行ってしまったときも、私は蝶屋敷のみんなに何もしてあげられなかった。
私はみんなに救われてばかりだ。誰かが困ったときには手を伸ばしてあげられるような、そんな存在になりたいのに。
それに、この前のしのぶさんの顔色のことも気になる。一度、尾崎さんにも聞いてみた方がいいかも。

「あのね、尾崎さん。しのぶさんの――」
「でも、リサはそのままでいいって冨岡様に言われたものね?」
「ゴフッ……」

噎せた。それは盛大に。
思いもよらない方向から話が飛んできたせいで、せっかくの美味しい餡が変なところに引っかかった。
噎せる音が情けなく響き、慌てて手元の湯呑みに口をつける。
尾崎さんがすかさず背中をさすってくれるけど、鼻の奥がつんとして目まで潤んでしまう。

「げほっ、んぐ、…え?ごめん、なんて……」
「冨岡様に、リサはそのままでいいって言われたんでしょ、って」
「わあ、聞き間違いじゃなかった」
「だって事実でしょう?」

尾崎さんは悪戯っぽく笑いながら、桜餅を包んでいた葉を器用に折りたたむ。
その余裕たっぷりの顔に、自分の頬がぼっと熱くなるのが分かった。

「それ、は……」

――そういえば、さっき甘味処に来る道すがら、冨岡さんの屋敷ではどんなふうに過ごしているのかと、尾崎さんに聞かれたのだった。
随分と熱心に聞いてくるなとは思ったけれど、何気ない雑談のつもりで、私はこの間起こった出来事をそのまますべて話した。
自分が未来から来たと分かることは伏せながら、あのときの空気感とか、言葉とか。話しながら、自分でもちょっと胸がくすぐったくなったのを覚えている。
だから今こうしてからかわれているのは、当然といえば当然なのだけれど…わかっていても、恥ずかしい。

「一応字の書き方のことだったし、そんな面白おかしく言うことじゃない……!」
「ええ、面白いのに。“そのままでいい”なんて、なかなか聞ける言葉じゃないけどなあ」
「そんな大げさな……!」
「いや、今どきそんなこと言ってくれる人そういないよ?それに冨岡様だよ?冨岡様」
「…や、やめて……」
「ふふ、やっぱり照れてるじゃん」

にこにこと笑いながら、尾崎さんはわざと私の顔を覗き込む。
私は視線を逸らして桜餅をいじり回し、なんとか話題を逸らそうとするけれど、彼女は絶対に逃してくれない。
でも、尾崎さん。差別や偏見の減った未来にいたって、そんなふうにまっすぐ「お前はそのままでいい」なんて言ってくれる人はいない。
あんなふうに真正面から受けとめてくれる人なんて、そうそういるはずがない。いるなら、誰でもいいから連れて来て欲しい。
だからきっと、冨岡さんが特別なんだ。あの人の言葉ひとつが、今でもこんなにも胸の奥に残っているのがその証拠だ。

「いいじゃない。好きなんでしょ?」
「す、……!?」

その一言は、やけにさらっと落とされた。
私は言葉を失って、桜餅の葉をむしるようにちぎる。

「誰が誰を………」
「リサが、冨岡様を」

彼女は突然何を言い出すのか。
冗談にしてはパンチが強すぎて、受け止め方が分からない。

「……………そういうんじゃない」
「はいはい、そういうんじゃないのね。でもねえ」

尾崎さんは軽く膝に頬杖をつき、私の方を覗き込むように笑った。その笑い方があまりにも楽しそうで、もう反論する気も削がれてしまう。

「な、なに?」
「ううん、なにも。でも、冨岡様がそんなこと言うなんて、結構な特別待遇じゃない?あの人、あまり人に何か言ってるの見たことないもん」
「……知ってる」
「でしょ?それをリサには言ったんだから」

ほんの少しだけ、尾崎さんの声のトーンが柔らかくなった。からかい半分だった笑顔が、ちょっとだけ優しくなる。

「……そんなの、たまたまだよ」

自分でそう言っておきながら、胸の奥がチクリと痛んだ。
たしかに、帳簿のお手伝いをさせてもらえるようになって、側にいる時間が増えたけれど。それは言ってしまえば、本当にたまたまでしかない。
目の前にいた私が悩んでいそうだったから、優しい彼はなんとなく声をかけてくれただけだろう。私が無理矢理言わせたような気が、しないでもない。
繰り返し言うが、冨岡さんは本当に優しい。けれど、その優しさは私だけに向いているものではない。きっと、誰にだってそうなのだ。
でも、冨岡さんの声や視線、ちょっとした仕草までまるで焼きつくみたいに覚えているのに、"たまたま''なんて言葉で済ましたくない。とも思ってしまう。心の中で否定すると、余計にはっきりとその温度が浮かび上がった。

「“俺がみてる”って、叶うことなら私も誰かに言われたいけどね」

尾崎さんはそう言いながら、また桜餅をひと口かじった。まるで大したことじゃないような調子なのに、その言葉は不思議と胸の奥に落ちる。
どう返せばいいのか分からず、私は唇を結んだまま、ただじっと手元の桜色を見つめた。

「それにさ、冨岡様ってめったに言葉にしないから、一回一回が重いんじゃないの?」

…そうなのだ。
あまり口数の多くない冨岡さんにそうやって言ってもらえたことで、より響いてしまった。
けれど、それだけじゃない。彼の言葉には、飾りも慰めもなかった。ただまっすぐで、余計な下心さえ混じっていない。
まるで、自分の欠けた部分をそのまま受け入れてもらえたような――そんな感覚。思い返すたびに、胸の奥がじんわり熱を帯びる。
あの人はきっと、自分では気づかないままに人を支えてしまう人なのだ。たった一言で、誰かの心を動かしてしまうような。
……だから、困るんだよな。膝に頬杖をつきながら、私はそっと桜餅の葉を指先で弄んだ。

「ねえ」

その時、尾崎さんの声が現実に引き戻した。
気づけば、視線が宙を彷徨っていたらしい。彼女がじっとこちらを見て、肩を揺らす。
「え?」と反射で振り向いたけれど、尾崎さんはその視線を通りの先へ向けていた。
なんとなくそれを辿っていくと、行き交う人々の影と桜の花びらが舞うなか、誰かを指で指し示している。

「ずっとこっち見てるけど、あの人たち知り合い?」
「……え?」

指先を辿って視線を向けたその瞬間、胸の奥が冷たく強張った。
暖簾が揺れる音も、子どもの笑い声も、遠くの笛の音も──全部が急に遠のいていく。

「……あの人」

そこにいたのは、二人組の男。どこかだらしなく立って、こちらを見て笑っている。いや笑っている、なんて綺麗な表現じゃ足りない。ねっとりと、舐めるように、こちらの顔を確かめるように。
見覚えがあった。忘れたくても忘れられなかった。あの路地で、腕を掴まれて、呼吸が塞がりそうになったあの夕方──冨岡さんが間に入らなかったら、どうなっていたかわからない、あの男たちだ。

喉がひゅっと細くなる。
…どうして。どうしてここに。
春の日は暖かいはずなのに、血の気がするすると引いていく感覚だけがはっきりわかる。膝の裏が薄い氷の上に乗せられたみたいに、頼りなく震え出した。

「…リサ?」

急に黙り込んだ私に、尾崎さんが小さく名を呼ぶ気配がする。けれど言葉が返せない。声帯をどこかに置いてきたみたいだ。心臓ばかりが喧しく跳ねる。
あの二人も、こちらに気づいていた。気づいたどころじゃない。こちらに向かって歩き出している。わざとゆっくり、逃げ場を見つけさせまいとする心を踏みにじるような速度で。
笑っている。あのときと同じ笑い方で。

「お、おざきさん……」

唇が勝手に震え、助けを求めるように彼女に縋ってしまった。喉が渇いて、息がうまく吸えない。桜餅の甘さがまだ舌に残っているのに、味なんてもうわからない。
すぐに声を上げるべきだとか、誰かに助けを求めるべきだとか──普段なら浮かぶはずの思考は、何ひとつ働かない。ただ、怖い。

「リサ、大丈夫?」
「……っ、ごめん、でも……」

言葉が続かない。
尾崎さんの手が、私の膝にそっと触れた。その触れ方だけで、自分がどれだけ震えているかを思い知らされる。
瞬間、尾崎さんの指先がぎゅっと私の手を握り込んだ。

「……もう、お腹いっぱいだね」

声はやけに穏やかだった。好物のはずなのに、桜餅はまだ尾崎さんの皿の上に二つも残っている。
それでも、何かを察してくれたのだろう。迷いの影はなかった。

「そろそろ帰ろうか」

そう言って、ぐっと立ち上がり、私の腕を引いてくれる。急ぐでもなく、逃げるでもなく──けれど確かに、遠ざかる方向へ導いてくれる力。
縁台に残された桜餅と湯呑みがもったいないけれど、それどころではない。
引かれるまま立ち上がり、桜の影を踏み越え、彼らが見えなくなったとき、ようやく息が胸に戻ってきた。




二人でほっと息を吐き出す。
通りのざわめきも戻ってきたところで、尾崎さんと私は立ち止まった。

「大丈夫?」

声をかけられて視線を向ける。尾崎さんは真剣な瞳で私を見つめていた。
彼女の澄んだ瞳を見ていると、少しずつ落ち着いてくる気がする。

「……ご、ごめん。ありがとう。とりあえずは大丈夫……」
「あの人たち、知り合い?随分とにこにこ笑ってこっち見てたけど」
「いや、知り合い…ではないかな。その……少し前、町の路地裏で……色々あった………」
「まさか…!その時の暴漢たち?!」

尾崎さんの驚きも無理はない。
むしろ私がびっくりしている。また会うことになるなんて、思ってもいなかった。

「あいつら……っ!一回絞めてくるんだった!そうとも知らず……!」

ぐっと尾崎さんの肩が怒りで揺れた。
今日はいつもの隊服とは違う着物姿。刀だって持っていないはずなのに、まるで今にも斬り込んでいきそうな勢いだった。

「刀が無くても殴れるし、もう一回会ってくる。さっきの顔、絶対に許さ──」
「だ、だめ……!」

くるりと踵を返し、離れようしたその腕を私は咄嗟に掴んでいた。
ゆっくりと彼女が振り返る。振り上げた激情が、私の顔を見た瞬間、吸い込まれるように静まった。
私はよほどひどい顔をしていたのだろう。尾崎さんは短くまばたきをして、視線をそっと落とす。

「……ごめん。今は一人になる方が怖いよね」
「ううん…ごめん。ありがとう…」

喉がつまる。何か言いたいのに、声にならない。ただ、ぎゅっと握った手に力がこもるだけ。
尾崎さんは私の手を包むように握り返してくれる。その手が温かいことだけは、ちゃんと分かった。

「とりあえず……一緒に蝶屋敷まで戻ろう」

そう言われて、一瞬迷いが生まれる。
ここですぐ屋敷に戻れば、きっと全てを話さざるを得ない状況になるだろう。しのぶさんにこのことが知られれば、また心配をかけてしまう。
私が迷っているのを察したのか、尾崎さんは少しだけ眉を寄せると、ぎゅと私の手を握った。

「リサ。何かが起きてからじゃ遅いんだよ。何か出来ることがあるなら、今のうちから対処しておかないと」

たしかに、それもそうだ。
もしかしたらすぐ向こうで待ち構えているかもしれない。そしてもしその時に何かあったら、蝶屋敷のみんなにも迷惑がかかってしまう。それだけは絶対に避けなくてはならないことだ。
しぶしぶ頷き、手を引かれ並んで歩き出した。

「……高月」

風がそよぎ、自分の名を呼ぶ声がして振り返る。

「冨岡さん……」

そこには少し驚いた様子でこちらを見つめる彼の姿があった。少し離れたところで、人並みに混ざって静かに佇んでいる。
どうしてこんなときだけ、見つけられてしまうんだろう。ゆるく吹いた風にいつもの羽織が揺れて、胸がいつもとは違う感覚で波打つ。
隣で尾崎さんも少し驚いたように固まっていたが、はっと意識を取り戻すと息を整えるように背筋を伸ばした。

「み、水柱様……お疲れ様でございます」

きちんと頭を下げるその横顔が、いつもより少し固い。こうしてみると、ちゃんと上司と部下のようで、隊服を着ていなくても彼女が鬼殺隊の一員であることを思い出させる。
冨岡さんは短く「ああ」とだけ返し、そのまま近づいてくるとすぐに私の方へ視線を落とした。

「町に降りてきていたのか」
「……は、はい」
「胡蝶の使いか」
「あ、いえ……今日、は……」

普通にしゃべっているつもりが、か細い音しか出ない。さっきの恐怖が、まだ背中に影のように張りついている。
「尾崎さんと甘味を食べに」そう答えればいいだけなのに、それ以上が紡げない。そんな私の様子に、冨岡さんもすぐに異変を感じとった。彼の視線が、静かに細まる。

「……何か、あったのか」

いつもより声を低くして静かに切り出す。
冨岡さんに視線を向け、それから私は俯いた。何をどう伝えればいいのか…まだ少し混乱しているのか頭の中が上手くまとまらない。

「…それが――」

答えあぐねていると、横からすかさず尾崎さんが入り、さっきの一連の流れを説明してくれた。
尾崎さんがひとつも抜かすことなく言葉を重ねていくと、冨岡さんの表情に鋭さが宿ったのがわかる。
しばらくしてから、尾崎さんに「だよね?」と同意を求められて私も頷く。けれど、彼女に説明させていてはいけない。私もちゃんと、自分の口で話さないと。

「…甘味を食べてたんです。その時、やけににこにこしながらこっちを見てくる人がいて…尾崎さんに言われてよく見てみたら、あの時の二人組で……」
「そのあと、私たちの方に近づいて来たんだよね」
「う、うん。尾崎さんに手を引いてもらって咄嗟に逃げてきたんですけど、まだ近くにいるかもしれません……」

冨岡さんの表情はほとんど動かなかったけれど、その目の奥がゆっくりと深く沈んだ気がした。
そしてその視線が、そっと私の全身をなぞる。傷がないか、体が震えていないかを確かめているような。そして目が合った瞬間、胸の奥に熱が差した。

「…よく逃げたな。判断が早い」

そう言われて、横で尾崎さんが小さく息をつく。緊張が抜ける音だった。

「…良かった。リサが異常に震えてたから、只事じゃないと思って…」
「うん……ありがとう」
「でも、心配ですね。蝶屋敷に戻るにはさっき来た道を戻らないとですし、リサの言う通り、まだそこで待ち構えている可能性もあります」

尾崎さんが言った通りだ。
あの路地を戻ることを想像しただけで、胃の奥がきゅっと固くなる。

「尾崎」

名前を呼ばれた尾崎さんが、まっすぐ冨岡さんを見返す。

「その二人をどこで見失った?」
「えっと…三丁目にある呉服屋の角を曲がって…そのあとしばらく直進していると、気配はなくなったと思います」

そう言ってから、尾崎さんはどこか悔しそうに唇を噛んだ。

「この子を逃がすのが先だと思って……その前に殴り込んでおけば良かったです」
「い、いや!だめだよ!それだと尾崎さんまで危険に……」

言い切らなくても、二人には伝わったらしい。三人の間に短い沈黙が置かれる。町のざわめきが遠くに沈んでいく。
冨岡さんは視線を横に滑らせ、行き交う人々や道の先を一瞬だけ見やる。なにかの気配を探っているのだろうか。そして、ゆっくりこちらへ視線を戻した。

「ここで立ち止まるのもよくない。早く屋敷に戻れ」

淡々とした声に、尾崎さんが息をのみ、ちらりと冨岡さんを見上げる。何かを少しだけ確かめるような色だった。

「…あの、冨岡様。この子のことお願いできませんでしょうか。女の私より、冨岡様がいた方がきっと安心だと思うんです。それに、一度その暴漢たちも、冨岡様の姿を見て逃げたことがあると聞きました」

尾崎さんの言葉に迷いはなかった。まるでそれが一番自然なことであるみたいに、すっと彼に託す。
でもたしかに、尾崎さんの言うことも一理ある。男は二人組だった。もし何かあったとき、尾崎さんまで巻き込むわけにはいかない。

「……わかった」

冨岡さんすぐに了承をし、私を見据える。
少し安心して息を吐いたら、肺の中に残っていた冷たい空気がゆっくり出ていった。

「良かった…」
「胡蝶へは俺が伝える」
「はい。ありがとうございます」

ぴしりと背筋を伸ばし、尾崎さんは深く頭を下げた。少し目を細め、安堵の色を滲ませたあと小さく笑う。

「じゃあ、リサ。気をつけてね。また一緒に甘味食べに行こう」
「え…行っちゃうの?」
「うん。私がいると邪魔だろうから」

囁くような声でそう言うと、そっと私の背を軽く押し、まるで安心を置いていくみたいに小さく微笑んで、尾崎さんは町の方へ歩き出した。
一人にしてしまって大丈夫なのかと悩んだが、その背中が見えなくなるまで見送ることしかできなかった。胸の奥で、じん、と波紋が広がる。

「彼女を一人にしてしまって、大丈夫でしょうか……」
「…大丈夫だろう。女とはいえ、鬼殺隊の一員だ。並の男では敵わない」

冨岡さんが言うなら、その通りなのだろう。次、尾崎さんに会ったときにちゃんとお礼を伝えないと。

「行くぞ」

そう告げると、冨岡さんは踵を返し歩き出した。いつもの、余計な装飾のない声。その背中についていけばいいだけ。頭ではわかっているのに、身体が動かなかった。
気づいたときには、指先が彼の羽織を掴んでいて。すっと布がわずかに引かれ、冨岡さんの足が止まる。
自分の手ではないみたいに動いて、気づけば布地をぎゅっと握っていた。離せなかった。胸の中のざわめきが、言葉より先に行動になってしまった。

「……どうした」

静かな問い。ただ、こちらを振り返る気配だけがある。
けれど私は顔を上げられなかった。羽織を掴んだ手に力を込めたまま、下を向いて、唇を震わせる。

「……帰りたく、ないです」

帰りたくない理由はひとつじゃない。
しのぶさんに心配をかけたくない。自分の弱さを知られたくない。そして──今はまだ、この震えを自分だけで抱えて戻るのが怖い。その全部が、頭の中でぐしゃぐしゃになっていた。
冨岡さんは返事をしなかった。風がひとつ吹き抜けて、羽織の端がわずかに揺れる。
そっと視線を上げると、彼は少しだけ眉を寄せてこちらを見ていた。呆れたような、困ったような、それでいてどこか…理解してくれている目。

「…胡蝶に知られるのが、嫌なのか」

図星すぎて、胸がつまる。
答えられずにいると、彼はふっと小さく息を吐いた。 

「離せ」

優しい言い方ではなかった。けれど、拒絶の力はこもっていない。ただ、確認するみたいに。
それでも私は、ぎゅっと目をつむり、指先に力を込めた。握りしめた布が、指の中で皺をつくる。

「……いやだ」

怖いとか、恥ずかしいとか、そんな理性の端っこが全部霞んで、ただその一言だけが残った。
短い静寂。風と、遠くを走る人力車の音だけが小さく触れてくる。
指先は震えている。でも、手は離せなかった。やがて、冨岡さんがほんのわずかに肩の力を抜く気配がした。

「……」

はあ、と小さく息を吐く音。呆れられただろうか。不安になるが、それでも手は離せない。
次に聞こえたのは、彼がこちらに向き直るのに砂利が擦れた音だった。

「わかったから離せ」

その言い方は拒むためじゃなく、「前に進むために、手を離せ」という意味だとなんとなくわかった。
恐る恐る顔を上げながら、言われたとおりに指をほどく。
すると冨岡さんは、屋敷とは反対方向に静かに歩き出した。少しだけ振り返り短く告げる。

「ついてこい」

私は深く息を吸って、ひとつ頷く。
そして、彼の後を追った。




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