23


町の通りを抜けて少し歩いた先に、その甘味処はあった。
古びた、けれど居心地の良さそうなその店先に置かれた赤い野点傘の下の縁台に、私たちは腰を下ろしていた。
すぐそばでは、見事な桜の木が満開の花を咲かせている。春のうららかな風が吹くたびに、ひらひらと薄紅色の花びらが舞い踊り、私たちの足元を優しく彩っていく。

「へえ……そんなことがあったんだ」

尾崎さんは感心したように声を漏らし、片手に持った桜餅をひと口かじると、もぐもぐとゆっくり味わうように食べ進めた。その本当に幸せそうな表情を見ているだけで、彼女がどれほど桜餅を好いているのかがよく分かる。好物なのだろうか。
今日は尾崎さんの非番の日で、数日前、彼女の鎹鴉である睡蓮から「甘味でもどうか」と誘う手紙を受け取って、こうして二人で連れ立って町へ降りてきたのだ。

「うん。もうね、人生でいちばん長い一週間だったよ。生きた心地がしなかったもん」

そう言いながら、私は手元にある苺大福を一口かじった。苺のみずみずしい甘酸っぱさが口いっぱいに広がる。
カナヲさんが相談もなく最終選別に行ってしまったと知ったときの衝撃や、彼女の帰りを待つしかなかったあの一週間の生きた心地がしない重苦しさ。
尾崎さんは私の話を、驚きながらも静かに受け止めてくれていた。

「そっか……。胡蝶さんは気が気じゃなかっただろうね」
「うん。顔には出してなかったけど、不安で胸がいっぱいだったと思う。出立の日にはちゃんと送り出してたし、いつものしのぶさんだったけど、きっと心配は尽きないんだろうなあって……」
「そういう人だよね、胡蝶さん」

尾崎さんはしみじみと頷き、湯呑みのお茶をすする。
自分の本心をあまり表に出さず、いつだって完璧な笑顔でみんなを安心させようとするしのぶさん。そんな彼女と同じ鬼殺隊士だからこそ、その苦労や胸の内が痛いほど分かるのかもしれない。

「カナヲちゃん、だっけ。すごいね。若いのにそんなふうに真っ直ぐ立って、前を向いて」
「うん。私なんかよりずっとしっかりしてて尊敬する」

それに比べて、私はあのとき何もできなかったなぁ。
胸の奥が少しだけ、きゅっと切なく縮こまる。蝶屋敷のみんながそれぞれ覚悟を持って前に進んでいるのに、私はただオロオロと心配するばかりで、何もしてあげられなかった。
私はいつもみんなに救われて、守られてばかりだ。誰かが困ったとき、悲しいときには、私もそっと手を伸ばしてあげられるような、そんな存在になりたいのに。
それに、先日見たしのぶさんの顔色のことも、どうしても頭から離れなかった。私一人の気のせいならいい。だけど、もし本当にどこか無理をされているのだとしたら…。
同じ鬼殺隊の隊士として尾崎さんなら、何か知っているかもしれない。一度、尾崎さんにも聞いてみた方がいいかも。

「あのね、それでね、尾崎さん。しのぶさんのことなんだけど――」
「でも、リサはそのままでいいって水柱様に言われたものね?」
「ゴフッ」

あまりにも予想外のところから飛んできた名前に、飲み込もうとした苺大福が喉に詰まりそうになって、私は盛大にむせてしまった。
慌てて手元の湯呑みを掴み、熱いお茶を必死の思いで口につける。尾崎さんがすかさず背中を優しくさすってくれるけれど、喉に引っかかった大福と強烈な動揺のせいで、鼻の奥がつんとして目までじわっと潤んでしまう。

「げほっ、んぐ、……え?ごめん、なんて……」
「水柱様に、リサはそのままでいいって言われたんでしょって」
「わあ、聞き間違いじゃなかった……」
「だって事実でしょう?」

尾崎さんは悪戯っぽく笑いながら、桜餅を包んでいた葉を器用に指先で折りたたんだ。

「それ、は……」

そういえば、さっきこの甘味処に来る道すがら、冨岡さんのお屋敷ではどんなふうに過ごしているのかと、尾崎さんに聞かれたのだった。
普段あまり他人のことに深く踏み込んでこない彼女が、ずいぶんと熱心に聞いてくるな、とは思った。けれど、本当にただの何気ない雑談のつもりだったから、私はこの間お屋敷で起こった出来事を、そのまますべて彼女に話してしまっていたのだ。
何か特別なことができるわけでもない自分に、冨岡さんが「そのままでいい」と静かに言ってくれたこと。
あの静けさの中で、眩しいくらいに綺麗な水の呼吸を見せてもらったこと。
――全部、残さず自分の口から喋ってしまっていた。

「ち、違うよ。それは私の、なんていうか主観が入った捉え方というか!冨岡さん的には、ただ単に……その、私の字の書き方のことについて言ってただけだったし!」
「でもねぇ。『お前はそのままでいい』なんて、なかなか聞ける言葉じゃないけどなぁ」
「そんな大げさな……!」
「大げさじゃないって。今どきそんな優しいこと言ってくれる人、そういないよ?」

尾崎さんはそこで一度言葉を区切ると、縁台から少しだけ視線を外して、ひらひらと舞い落ちる桜の花びらを目で追った。少しだけ大人びた、どこか遠い目をして彼女はぽつりと言葉を紡ぐ。

「人ってね、どうしても相手に変化を求めちゃうものだから。もっとこうしてほしい、ああなってほしいって、無意識に自分の理想を押しつけたり、相手が変わることを求めちゃうのが普通なの。……だからこそ、今のあなたのままで完璧だって肯定してくれる人なんて、本当に、滅多に出会えるものじゃないんだよ」
「そう、かな……」

いつも以上に深く、真剣な尾崎さんの口ぶり。
私にとって冨岡さんは、不器用だけどとても温かい人だ。けれど、同じ鬼殺隊の隊士として日々を闘う尾崎さんだからこそ、誰かに「そのままでいい」と認められることが、どれほど特別で、贅沢な救いなのかを知っているのかもしれない。

「ふふ、やっぱり照れてるじゃん。ほら、顔が真っ赤になってる」
「っ、なってない!もう、尾崎さんからかわないで……!」

私は完全に降参して、熱くなった顔を隠すように両手でぱたぱたと覆った。
でも、確かに。
私がかつていた、現代という場所――差別や偏見が減って、誰もが自由に生きられるようになったはず世界にいたって、そんなふうに真っ直ぐ「お前はそのままでいい」なんて、無条件にすべてを肯定して言ってくれる人には、出会えなかった。
何かができるから価値がある、期待に応えるから居場所がある。そんなふうに、常に何かを求められ、何者かにならなければいけないと思い込んでいた私にとって、冨岡さんのあの静かな一言が、どれほど深く、温かく胸の奥底に突き刺さったか。

「――ねえ、リサ」

顔から手を離して見つめ返すと、尾崎さんは意地悪くからかうような笑みをすっかり引っ込め、どこか愛おしそうな目で私を見つめていた。

「水柱様がリサにそう言ったのって、きっとね、リサが『何者でもない』からだと思うよ」
「何者、でもない……?」
「私たち隊士はさ、どうしても命を懸けて戦う強さとか、誰かを守るための役割とか、そういうものを背負って生きているじゃない?柱の人ならきっともっとだよ。どうしても『鬼殺隊の一員』としての自分を求められるし、無意識に張り詰めてしまうの」

尾崎さんは、ひらひらと湯呑みの中に落ちた一枚の花びらを見つめながら、静かに言葉を重ねる。

「でも、リサは違うでしょ。刀を持って戦うわけじゃない。ただ、ありのままのあなたとして、そこにいて、お手伝いをしてくれている。水柱様にとってのリサの存在って、そういう張り詰めた世界からふっと息を抜ける、唯一の『ただの場所』なんじゃないかな」

ただの場所――。その言葉が、すとんと胸に落ちた。
もちろん、今の私がそんな大層な存在だなんて、到底信じられない。私が冨岡さんの心を休める場所になれているだなんて、おこがましいにも程があると思う。
けれど。もし、もしも本当に。戦う役割も、重い責任も、張り詰めた心の糸も、私の前でだけは全部脱ぎ捨てて、あの人がふっと息を抜いてくれるのだとしたら。
――それはどんなに、どんなに幸せなことだろう。そう思ってしまった。

「役割とか、期待とか、そういう難しいものを全部脱ぎ捨てて接することができる相手だからこそ、水柱様も『そのままでいい』って、心から思ったんだよ、きっと。私にとっても、リサはそんな存在なんだよ?」
「尾崎さん……」

尾崎さん、私のことをそんなふうに思ってくれていたなんて。
いちばんの友達が私の存在をそんなふうに特別で、価値のあるものとして認めてくれている。それが何よりも嬉しくて、胸がじんわりと温かいもので満たされていく。

「だからさ、そんなに難しく考えなくていいんだよ。字の書き方のことだったとしても、その言葉をくれたのは本物なんだから。……ね?そんなに赤くなって、自分の気持ちをごまかさなくても大丈夫」

尾崎さんはそう言って、包み紙を小さく折りたたみながら、いたずらっぽくウインクしてみせた。
けれど、優しく背中を押してくれるような彼女の言葉の終わりに、私はどうしても小さな疑問が引っかかってしまう。

「ん?気持ち?」

はて、と首を傾げる私を見て、尾崎さんは一瞬だけ信じられないといったように動きを止めた。

「ちょっと、リサ。本気で言ってるの?」
「え?何が……?」

本当に、本気で何のことか分からなかった。
尾崎さんは呆れたようにふっと息を漏らすと、縁台に少しだけ身を乗り出してくる。

「自覚ないんだ。これだけ分かりやすく、その人のことばっかり考えてるのに」
「え……?」

尾崎さんはそれ以上言葉を重ねず、ただ「やれやれ」と肩をすくめて、すべてを見透かしたような目で私を見つめていた。

「……え、あの、尾崎さん?もしかして何か、私、変な勘違いをされるようなこと言った……?」
「ふふ、本人は至って大真面目なのがまた面白いんだけどね」

尾崎さんが何を言いたいのか、今の私にはさっぱり分からなかった。
自分の顔が熱いのも、心臓がこんなにうるさいのも、全部ただの驚きと気恥ずかしさのせい。ずっとそう思っているし、それ以外の理由なんてあるはずがない。だけど。
…なんなんだろう、この落ち着かない感じ。胸の真ん中がそわそわとして、どうにも収まりが悪い。
うーん、と眉をひそめて小さく考え込んでしまっていると、それまで楽しそうに笑っていた尾崎さんの気配がふっと変わった。

「ねえ、リサ」

低く、どこか警戒を含んだ声に、私は弾かれたように顔を上げる。
反射的に尾崎さんの方へ視線を向けたけれど、彼女の瞳は私を見ていなかった。少しだけ鋭くなったその視線は、私の頭を通り越して、甘味処の少し先にある賑やかな通りの方へと向けられている。

「尾崎さん……?」
「リサ、あの人たち知り合い?さっきからずっとこっちのこと見てるんだけど……」
「え?」

尾崎さんのただ事ではない様子に、釣られるようにして私もその視線を追った。
満開の桜の向こう、行き交う人混みの隙間。そこに佇む二人の男の姿が、私の視界に飛び込んできたその瞬間。
どくん、と心臓が嫌な音を立てて跳ね上がり、全身の血が引いていくのが分かった。

「あの、人たち――」

…忘れるはずがない。
かつて私を恐怖に陥れ、容赦なく襲いかかってきた、あの暴漢二人だった。
春のうららかな陽気が、一瞬にして凍りつくような冷気に変わる。さっきまでの甘い胸のざわめきなんてすべて吹き飛んでしまうほど、私はその場に縫い付けられたように、ただ凍りついてしまった。

「リサ……?」

急に黙り込んでしまった私に、尾崎さんもただならぬ異変を感じ取ったようだった。心配そうに私の顔を覗き込み、何かを問いかけてくれている。
けれど、その声はまるで遠い水底から聞こえるかのように、私の耳にはうまく届かない。

「お、おざきさん……」

やっとの思いで掠れた声を絞り出し、私は救いを求めるように、隣にいる彼女の隊服の袖へ縋るようにしがみついた。
頭の中が真っ白になって、思考はこれっぽっちも働いてくれない。ただ、あの時の痛みが、恐怖が、生々しい記憶となって全身を駆け巡り、身体が恐怖で拒絶を起こしていた。

「リサ、大丈夫?」
「……っ、ごめん、でも……っ」

まともに息すらできなくなっている私の様子を見て、尾崎さんはそれ以上何も尋ねなかった。
瞬間、彼女の細い指先が、ガタガタと震える私の手を上からぎゅっと力強く握り込んだ。

「もう、お腹いっぱいだね」

尾崎さんはいつもの朗らかなトーンをわざと装うようにそう告げると、ぐっと私の手を引いて縁台から立ち上がる。

「そろそろ帰ろうか」

彼女はそのまま、私の身体を庇うようにして腕を引いて歩き出す。
ふと視線を落とした縁台の上には、まだ尾崎さんの皿が置かれたままだった。彼女の大好物であるはずの桜餅は、一口かじられたものともう一つ、まだ二つも残っている。
私のせいでせっかくの非番の甘味が台無しになってしまったのに、申し訳なさを言葉にする余裕すら、今の私には一文字も残されていなかった。

桜の影を何度も踏み越え、人混みを掻き分け、ようやくあの二人の姿が完全に通りの向こうへ見えなくなったとき。
肺に溜まっていた冷たい空気を、私はようやく吐き出すことができたのだった。





「あの人たち、一体何なの?」

賑やかな大通りまで戻ってきてようやく足を止めた尾崎さんは、私の手を握ったまま眉をひそめて振り返った。

「リサ、大丈夫?少しは落ち着いた?」
「ご、ごめん。ありがとう……。とりあえずは、大丈夫……」

まだ完全に震えの止まらない声で何とか答えると、尾崎さんは私の顔色をじっと窺い、それから声を少し落として尋ねてくる。

「あの人たち、本当に知り合いじゃないよね?随分と嫌なニヤニヤ笑いを浮かべてこっちを見てたけど……」

思い出すだけでも背筋がゾッとする。彼らの、獲物を見つけたかのような、卑俗でねっとりとした視線。
私は小さく首を振って、乾いた唇を震わせながら言葉を紡いだ。

「いや、知り合い……ではないかな。その……少し前、ここの近くの町の路地裏で……ちょっと、色々あった人たちで……」
「色々って……まさか、あの時の暴漢たち!?」

尾崎さんが目を見開いて声を上げるのも、無理はなかった。
けれど、むしろ私の方が一番びっくりしているし、信じたくなかった。あの時は冨岡さんに助けられて、彼らは逃げ出して、もう二度と私の前に現れることなんてないと思い込もうとしていたのだ。
またこんな風に、平穏な日常のすぐ隣で再会することになるなんて、夢にも思っていなかった。

「あいつら……っ!だったら一回、絞めてくるんだった!そうとも知らずに、のん気に桜餅なんて食べてる場合じゃなかった……!」

尾崎さんは本気で悔しそうにギュッと拳を握りしめ、来た道を睨みつけるように振り返る。自分よりも怒ってくれている彼女の存在のおかげで、私の身体にもようやく体温が戻り、少しずつ平常心を取り戻していく。

「ちょっと、私もう一回あいつらのところ行って会ってくる。さっきのあの顔、絶対に許さ――」
「だ、だめ……!」

くるりと踵を返し、今にもあのごみごみとした人混みへ戻ろうとした尾崎さんの腕を、私は咄嗟に掴んだ。
急に引き止められた彼女が驚いたように振り返り、そして、息を呑んだようにその動きを止める。
きっと私は、よほど酷い顔をしていたのだろう。尾崎さんは一度パチパチと瞬きをすると、すっと肩の力を抜いて、私を見る視線をそっと和らげた。

「……ごめん。今は一人になる方が怖いよね」
「ううん、ごめん。ありがとう……」

私のせいでせっかくの非番を台無しにしてしまったのに、こんなに怯えて、尾崎さんにまで怖い思いや余計な心配をかけてしまっている…。
鬼殺の隊士として日々命を懸けている彼女に、こんなトラブルのことで守らせてしまっていることが本当に心苦しかった。

「とりあえず、一緒に蝶屋敷まで戻ろう」

そう言われて、一瞬迷いが生まれる。
ここですぐ屋敷に戻れば、きっと全てを話さざるを得ない状況になるだろう。しのぶさんにこのことが知られれば、また心配をかけてしまう。
私が迷っているのを察したのか、尾崎さんは少しだけ眉を寄せると、ぎゅと私の手を握った。

「リサ。何かが起きてからじゃ遅いんだよ。何か出来ることがあるなら、今のうちから対処しておかないと」

たしかに、それもそうだ。
もしかしたらすぐ向こうで待ち構えているかもしれない。そしてもしその時に何かあったら、蝶屋敷のみんなにも迷惑がかかってしまう。それだけは絶対に避けなくてはならないことだ。けれど…。
しのぶさんには、言えない。これ以上、あの人に重荷を背負わせたくない、
先日見たしのぶさんの、どこか無理をしているようなあの顔色が脳裏をよぎる。お屋敷には戻るべきだという理屈は分かっていても、どうしてもしのぶさんに頼るということだけは、私の頭が頑なに拒んでいた。

ぐるぐると最悪の想像が頭を巡り、血の気が引いていく。また急激に青ざめていく私の顔色を見て、尾崎さんはハッとしたように表情を和らげると、私の肩を優しく叩いた。

「……ごめんね。今すぐどうこうって詰め寄るつもりじゃないの。とりあえず、あっちの木陰に座ろう?少し落ち着いてから考えよ」

促されるまま、私は尾崎さんに手を引かれて大通りの端にある静かな石畳の階段へと腰を下ろした。座った途端、緊張の糸が切れたようにどっと疲労感が押し寄せてくる。

「水、飲む?少し冷たいものを口にした方が楽になるかも」
「うん……」
「わかった。近くのお店でちょっとお水もらってくるね。……ここで少しだけ、待てる?すぐそこだから、目に見える場所にいるからね」

尾崎さんは私を安心させるように何度も頷き、私の顔を覗き込む。彼女の優しさが心に染みて、同時に申し訳なさがまた込み上げてくる。

「ごめんね、尾崎さん……」
「そんな、謝らないの!」

尾崎さんはわざと呆れたような顔をして、私の頭をぽんぽんと優しく叩いた。

「友達が困ってるときにこれくらいするの、当然でしょ?ちょっと待っててね」

そう言い残すと、彼女はすぐ近くの茶屋へと小走りで向かって行った。一人残された石畳で、私は遠くに見える彼女の背中をじっと追いかけながら、ぎゅっと自分の膝を握りしめる。
どうしよう…本当に、どうしたらいいんだろう…。
胸の内で、恐怖と焦燥がぐちゃぐちゃに渦巻く。彼らがまたこの町にいる。偶然見かけただけかもしれないけれど、あのねっとりとした視線は、明らかに私を認識していた。
もしまた襲われたら?今度は誰も助けに来てくれなかったら?
お屋敷に戻れば安全なのは分かっている。だけど、これ以上しのぶさんに私の面倒まで背負わせるわけにはいかない。でも、自分一人じゃ何もできない。
無力で臆病で、ただ怯えることしかできない自分が、どうしようもなく情けなかった。さっき尾崎さんに「そのままでいい」と言ってもらえたばかりなのに、今の私はやっぱり、誰かに守られるだけのただの足手まといだ。
じわじわと涙が滲みそうになり、深く膝に顔を押し付けたその時だった。

「――高月か?」

低く、どこか聞き覚えのある声が頭上から降ってきた。冷たい風が通り抜けたような錯覚に、はっとして顔を上げる。

「とみ、おか……さん……」

涙で滲む視界の向こう、そこに立っていたのは、紛れもないあの見慣れた羽織だった。
冨岡さんは、いつもと変わらない、表情の読めない瞳で私を見下ろしている。まさかこんな場所で会うなんて思ってもみなくて、私はぽかんと見つめるしかできなかった。

「ここで何をしている」

冨岡さんは周囲を一瞥してから、再び私に視線を戻す。

「同じ階段だな」
「え……?同じ?」
「ああ。お前を見つけた夜と、同じ場所だ」

そう言われて周りを見回すと、私が座っている石畳の階段にどこか見覚えがあった。
そっか。ここが、あの夜の場所だったんだ。あの時はただ必死に歩いて、夜の心細さに怯えていたから、こんな風に春の陽光が降り注ぐ昼間では随分と印象が違って、全く気づかなかった。
冨岡さんは私の答えを待つことなく、静かに歩み寄ると、私の目の前で片膝をついた。目線が私と同じ、いや、それよりも少し低い位置になる。

「顔色が悪い」

冨岡さんはじっと私を覗き込んできた。

「何があった。話せるか?」
「どうして……何かあったって、分かるんですか……」
「見れば分かる」
「え……」

冨岡さんはそう言って、私の膝の上でぎゅっと握りしめられたままの、未だガタガタと震えている両手に視線を落とした。
どうしていつも、こんな姿ばかり冨岡さんに見られてしまうんだろう。

「リサ……っ、お待たせ!お水、お店の人に分けてもらったか――」

その時、大通りの方から尾崎さんの息を切らした声が聞こえてきた。
湯飲みを手にした彼女が小走りで石段の下まで戻ってきたけれど、私と、その目の前に片膝をついている人物の姿を捉えた瞬間、ぴたりと動きを止める。

「み、水柱さま……?」

尾崎さんは驚きのあまり目を丸くし、持っていた湯飲みから危うく水をこぼしそうになっていた。
それに反応して、冨岡さんもすっと立ち上がり、声のした方へと視線を向ける。

「あ、す、すみません。水柱様。階級、かのえの尾崎と申します」

尾崎さんは持っていた湯飲みを落とさないよう慎重に扱いながら、すっと背筋を伸ばし、丁寧な一礼を送った。
突然の柱の登場に驚きはしたものの、過剰に取り乱すことなく、しっかりと自分の階級を名乗って頭を下げる姿は、いつもとは違う凛とした強さを感じる。
冨岡さんは「ああ」と短く応じ、尾崎さんの胸元で微かに揺れる首飾りを捉えると、ふっと、視線を私の胸元へと移した。
その二つの間で、冨岡さんの視線が一瞬だけ、戸惑うように揺れ動く。

「……リサ、これ。お水もらったから、少しずつ飲んでね」

尾崎さんは緊張した面持ちのまま、私を気遣うようにそっと石畳へ近づき、両手で湯飲みを差し出してくれる。

「ありがとう、尾崎さん……」

一口含むと、冷たい水が干からびそうだった喉を潤し、胃に落ちていく。
私がちびちびと水を飲んでいる姿を静かに見守っていた冨岡さんだったが、やがて視線を上げ、尾崎さんを真っ直ぐに見据えた。

「尾崎と言ったな」
「は、はい」
「何があったんだ」
「そ、それが――」

それから、尾崎さんがひとつも抜かすことなくさっきあった出来事を冨岡さんに説明した。状況を淡々と言葉に重ねていくと、冨岡さんの表情にすっと鋭さが宿っていく。
そんな二人を眺めていると、だんだんといたたまれない気持ちになってくる。
ただ男たちを見かけただけで、何かされたわけでもないのに。私のこの過剰な怯えのせいで、話がどんどん大きくなってしまっている気がする。本当に申し訳ない。

「その男たちは、今もまだ近くにいるのか」
「私たちが大通りへ逃げてきたときにはもういませんでした。気配も感じなかったので、もう近くにはいないと思います。…リサへの当てつけで、わざと見せつけるようにそこに立っていたのかもしれません。……だよね、リサ?」
「……う、うん」

尾崎さんにそう同意を求められ、私は小さく頷いた。
けれど、尾崎さんにばかり説明させていてはいけない。これは私のことで、あの時、私を彼らから救い出してくれたのは、目の前にいる冨岡さんなのだから。私もちゃんと、自分の口で話さないと。

「……あの路地裏で、冨岡さんが助けてくださった、あの時の二人組です。着ている着物も、あの笑い方も、間違いありません」
「そうか。その男たちの顔は俺も覚えている」

冨岡さんは何かを思い返すように、人差し指を顎のあたりに軽く添えて、小さく考え込むような仕草を見せた。

「尾崎。その二人をどこで見失った?」
「えっと……三丁目にある呉服屋の角を曲がったところです。そのあとしばらく直進していると、気配はなくなったと思います」

そう言ってから、尾崎さんはどこか悔しそうにぎゅっと唇を噛んだ。

「この子を逃がすのが先だと思って……その前に殴り込んでおけば良かったです」
「い、いや!だめだよ!それだと尾崎さんまで危険に……」

慌てて止める私をよそに、冨岡さんは尾崎さんを責める風でもなく、静かに頷いた。

「いや、逃げたお前の判断は正しい。よくやった」
「よ、良かった……。ありがとうございます」
「奴らは何かしてきたか。それとも、ただ見ていただけか」
「声は届かないくらい離れていました」
「そうか」

冨岡さんはそう短く応じると、再び何かを深く吟味するように、人差し指を顎のあたりに添えて小さく考え込むような仕草を見せた。その鋭い瞳はどこか遠くの空間を見つめていて、次の出方を頭の中で緻密に組み立てているのが分かる。
私のただ個人的な怯えのために、こんな風に真剣に二人を悩ませてしまって。

「あの……冨岡さん、尾崎さん。私、もう大丈夫です。実害があったわけじゃないですし、ただ見られていただけですから……。だから、そんなに大ごとにする必要は……」
「何言ってるの。実害があってからじゃ遅いの」
「尾崎の言うとおりだ」

二人にぴしゃりと諭されてしまい、私はそれ以上言葉を続けることができなかった。
私の安全を第一に考えてくれている二人の真っ直ぐな眼差しが、ありがたいと同時にやっぱりどこか申し訳ない。
…でも、またあんなに怖い思いをするのは、本当は嫌だ。二人がこうして怒って、守ろうとしてくれることが、心の底から救われるくらいには私はまだあの男たちが怖い。

「それにしても……またしばらく外出禁止になっちゃうんですかね。せっかくこうしてお出かけできるようになったばかりなのに。胡蝶様も、きっと心配なさるでしょうし……」

尾崎さんが困ったように眉を下げてそう呟くと、冨岡さんはその言葉を受けて、何かを深く吟味するように再び小さく視線を落とした。
しばらくの沈黙のあと顔を上げ、迷いのない目で私を見つめる。

「とりあえず、高月は俺が蝶屋敷まで送り届ける」

その言葉に、尾崎さんはホッとしたように表情を緩めた。

「胡蝶にも俺から伝える」
「良かった。私じゃ不安だったんです。ありがとうございます」

そう言って頭を下げた。そして私の方を振り返ると、手元に残っていた湯飲みを「これ、お店に返してくるね」と手際よく引き取る。

「じゃあ、リサ。気をつけてね。また一緒に甘味食べに行こう」
「え……行っちゃうの?」

てっきり三人でお屋敷に戻るものだと思い込んでいた私は、思わず尾崎さんの袖を掴みそうになった。
けれど彼女は、冨岡さんに聞こえないほどの囁くような声で、いたずらっぽく耳元に言葉を落とす。

「うん。私がいると邪魔だろうから」
「えっ……」

言葉の意味を掴みかねて私がまごついていると、尾崎さんはそっと私の背を軽く押した。まるで安心を置いていくみたいに小さく微笑んで、彼女はそのまま茶屋の方へ歩き出してしまう。
あの男たちがまだ近くに潜んでいるかもしれないのに、尾崎さんを一人にしてしまって大丈夫なのだろうか。
けれど、器を返してそのまま人混みの向こうへと消えていく彼女の足取りは、驚くほど軽やかで、あまりにも速い。
気づけば、石畳の階段には冨岡さんと私の二人だけが残されていた。

「彼女を一人にしてしまって、大丈夫でしょうか……。もし、また彼らに出くわしたら……」
「大丈夫だろう。女とはいえ、鬼殺隊の一員だ。並の男では敵わない」

冨岡さんがそう言うのだから、その通りなのだろう。
次にお屋敷で尾崎さんに会ったときには、守ってくれたお礼をちゃんと言葉にして伝えないと。

「立てるか」

目の前に立つ冨岡さんが、静かに声をかけてくる。私は「はい」と小さく答えて、まだ少しだけ震える膝に力を入れて自力で立ち上がった。

「行くぞ」

冨岡さんはそう言うと、大通りの雑踏の方へと静かに歩き出した。私もその後に続こうとするけれど、どうしても足が前に動かない。
このままお屋敷に帰れば、またしのぶさんの顔を曇らせることになる。心配ばかりかけるのが、どうしても心苦しい。
申し訳なさと焦燥感で胸がいっぱいになり、気づいたときには、私の指先が前を行く冨岡さんの羽織の裾をきゅっと掴んでいた。
すっと布地がわずかに引かれ、冨岡さんの足がぴたりと止まる。

「どうした」

顔を上げられないまま、私は羽織を掴んだ手にぐっと力を込めた。

「帰りたく、ないです……」
「……胡蝶に知られるのが嫌なのか」

あの優しくて温かいお屋敷に帰りたい気持ちはある。けれど、今じゃない。
答えられずに固まっていると、頭上からふっと、小さく息を吐く音が聞こえた。

「高月。これは隠すべきことじゃない。お前の身に危険があったのだから、胡蝶には伝える必要がある」

隠していいことじゃないのは、ちゃんと私にだって分かってる。私の我が儘のせいで、冨岡さんを困らせてしまっているのも百も承知だ。

「……いやです」

でも。どうしても、今はまだお屋敷に帰る覚悟が持てないんだ。私は掴んだ羽織を握りしめたまま、小さな拒絶の言葉を絞り出すことしかできない。

「だが、お前がそのように震えたままでは、隠そうとしても胡蝶にはすぐに伝わる。あいつは鋭い」

冨岡さんの言う通りだ。
しのぶさんは、小さな変化だって見逃さない。顔色を見ただけで全てを察して、自分のことのように心を痛めてしまうだろう。

「でも、今はまだ……合わせる顔がありません……。しのぶさんの前で、ちゃんと笑えるようになるまで、少しだけ、時間をください……」

ただ、自分の不甲斐なさを整理するための、ほんの少しの猶予が欲しい。
私の拙い言い訳を、冨岡さんはじっと黙って聞いていた。やがて頭上からふっと、今度はどこか諦めたような小さな吐息が聞こえてくる。

「…分かった。ついて来い」


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