24


人の気配が遠ざかるにつれ、砂利を踏む二つの足音がより鮮明に響くようになった。
ざわつきはまだ胸の奥におりのように残っているけれど、隣を歩く冨岡さんの静かな気配が、折れそうだった私の背中をそっと支えてくれているような心地がした。

しばらく歩いていくと、通りを抜けた先に現れた開けた小道。小さな川の水面がキラキラと揺れ、その川を囲うように桜並木が縦に続いている。

「きれい……」

思わず独り言が漏れた。
透き通るような薄い花弁が幾重にも重なり、空を覆い隠すほどに咲き誇っている。さっきの甘味処の桜はまだ蕾が多かったのに、ここの木々は早咲きなのだろう。ほとんど満開だ。

「冨岡さん、見てください。桜が……すごく綺麗です」

まだ指先の震えは止まっていなかったけれど、その美しさに導かれるように言葉がこぼれた。冨岡さんは歩みを緩め、わずかに視線を私の方へと向ける。 

「…そうだな」
「こんなに見事な桜並木、初めて見ました。冨岡さんはよくここに来られるんですか?」
「いや。今日、初めて来た」

そうか。冨岡さんも初めての場所なんだ。
行き先を決めているような足取りだったから、どこかに向かっているのかと思っていたが、ただただ蝶屋敷から遠ざかるように歩いてくれていたらしい。時々、遠くを学生が通り過ぎるだけの、とても静かな空間だ。

「……静かで、いい場所ですね」

誰もこの場所を誰も知らないのだろうか。こんなにも綺麗なのに。少し残念だなと思いながら、私が立ち止まると、冨岡さんも合わせて足を止めた。袖の中に手を収めたまま、私の隣でじっと桜を見上げている。

「静かなのは、いい」
「…そうですね」

小川の水音がさらさらと耳に触れる。時折、花が水面に落ちて静かに流れていくその軌跡を追っていると、少し息も整ってきた。
けれど、まぶたを閉じればまだ、あの男たちの粘つくような視線や、あの時の卑俗な笑い声がフラッシュバックする。
気を紛らわせるように川のせせらぎに耳を澄ませていると、ふとした視線を感じた。冨岡さんが、桜ではなく、なぜか私の胸元のあたりをじっと見つめている。
な、なんだろう。何かついてる?不安になって、無意識に首元へ手を伸ばしかけた時。

「それは?」
「え?」
「その首飾りだ」
「……あ、これ、ですか」

私は自分の指先で、群青色の小さな石に触れた。光の加減で深い青にも、鮮やかな瑠璃色にも見えるそれは、私の体温を吸って微かに温かい。

「えっと……はい。首飾りです」

あまりに当たり前すぎる答えを返してしまって、頬が熱くなる。けれど冨岡さんはその拙い言葉の続きを待つように、静かに私を見つめていた。

「えっと、これが何か……」
「町でお前と一緒にいた隊士も、似たものをつけていた」
「あ……」

尾崎さんのことだろう。
冨岡さん、気付いていたんだ。あまりそういうのには興味が無さそうなのに。

「はい。尾崎さんと……お揃いなんです。二人で選んだんです」

そう答えた瞬間、胸の内がなんだかふっと温かくなる。賑やかな町を歩いたこと。選び悩む私に尾崎さんが手を引いてくれたこと。群青色に決めた理由。
言葉にしなくても、その時の記憶が次々と浮かんでくる。

「……そうか」

冨岡さんはそれ以上、何も聞かなかった。なのに、なぜだろう。その短い一言が、さざ波のように私の心に染み渡る。
どうして、突然そんなことを聞いたんだろう。首飾りなんて、取るに足らないものなのに。彼にとっては全く関係のないものだ。
私は、ちらりと冨岡さんの横顔を盗み見た。相変わらず感情は読み取りにくい。視線は前を向いたままだけれど、ほんの少しだけ、空気が和らいでいる気がする。

――あ。そうか。
そこで、ようやく私は気づいた。
これは、私の気を逸らしてくれたのかもしれない。私の思考が、あの路地裏の恐怖に囚われ続けているのを、彼は言葉を使わずに感じ取っていたのだ。だから、わざと私にとって大切な思い出に繋がるものを、見つけてくれて…。

「……」

そのおかげか、こうしてこれを買った時の楽しかった記憶が次々に私の中で蘇っている。
なんだか喉の奥がきゅっと熱くなり、泣きそうにさえなった。
あぁ、優しいな。知ってはいたけれど、冨岡さんは優しい。じわりと視界が滲みそうになって、私は慌てて桜を見上げた

「……ありがとうございます、冨岡さん」

何に対しての感謝かは言わなかったけど、冨岡さんも気づいてくれたはずだ。わずかに視線をこちらに寄越したそれが、優しい返事のように見えたから。

「震えはもう引いたか」
「は、はい。おかげさまで」
「……そうか」

冨岡さんが、安心したようにわずかに口元を緩める。ほら、優しい。彼の問いかけはいつも短くて、飾り気がないけれど、その削ぎ落とされた言葉の奥には、確かな熱量を持った真心があるのだ。
それにしても冨岡さん、ずっとこうして私に付き合ってくれているけれど。時間は大丈夫なのかな。柱はとっても忙しいはずなのに、私に時間を割かせてしまって申し訳ないという気持ちがふと頭をもたげた。

「…あの、冨岡さん。もしかして任務中ではなかったですか?すみません、私のわがままに付き合わせてしまって…。その、お時間は……」
「もう済んでいる。問題ない」
「そ、それなら良かったです。ありがとうございます…」

そう断言されて、ようやく肩の力が抜けた。
まだ、ここにいてもいいのかな。…まだ、側にいてくれるのだろうか。彼の隣でこの桜を見ていてもいい?
風が吹くたび、花びらが音もなく舞い落ちる。その一枚が私たちの間をすり抜けて、小川へと吸い込まれていった。

「少し、歩くか」
「あ、はい…!」

ぽつりと落とされた声に、嬉しくなって歩幅を合わせて歩き出す。さっきよりも二人の影が近く、寄り添っていることに気づいて、なんだか胸の奥がくすぐったくなった。
その時、一際大きな風があたりを吹き抜ける。たくさんの花弁が舞い上がり、冨岡さんの羽織や私の髪を掠めていく。

「わあ……っ、え、痛っ…」

感嘆の声を上げた途端、こつり、とうなじのあたりに小さな衝撃を感じて、私は思わず立ち止まった。何かが髪に引っかかったような、ちりりとした痛みがする。
不意に止まった私の気配を察したのか、数歩先を歩いていた冨岡さんも足を止め、ゆっくりとこちらを振り返った。

「…どうした」
「あれ?…あ、何かが髪に落ちてきたみたいで。だ、大丈夫です。すぐ取れます」

心配をかけたくなくて、慌てて手を後ろに回す。指先で探ってみるけれど、よく見えないところで何かが絡まっているような気がする。
けれど、指先は空を切るばかり。焦れば焦るほど、細い何かは複雑に髪の間に潜り込み、絡まりを深めていく。見えない場所での不格好な格闘を冨岡さんにじっと見守られていることに、顔がじわじわと熱くなっていくのがわかった。
無理に引けば余計に絡まるだろうか。でも、なんだか彼に見られ続けているのも恥ずかしい。半ば自暴自棄になって無理やり引き抜こうとした、その時。

「こら、無理に引くな」

低い声が、今度はすぐ目の前で落ちた。

「えっ、あ、冨岡さん……?」
「じっとしていろ」

気づけば、冨岡さんが私のすぐ目の前まで歩み寄っていた。突然、縮まった距離に思わずのけ反りそうになる。
冨岡さんはそんな私にお構いなしに、肩越しに手を伸ばした。彼の大きな指先が、驚くほど慎重に私の髪を掬い上げる。

「少し、絡んでる」
「え、ほ、本当ですか。なに、が……」

そこまで言って私は言葉を飲み込んだ。吐息が届くほどの至近距離で落とされた声に、思考が真っ白に染まった。
わずかに動けば彼の胸元に自ら飛び込んでしまいそうなほど危うい距離。どこか懐かしい、木のいい匂いまでしてくる。
…どうしよう。息が、うまくできない。冨岡さんが指を動かす度に髪がわずかに引かれ、その言葉通り、やはり何かが髪に引っかかっているようではある。

「……」

沈黙の中で、カサリ、と髪が擦れる音だけが耳元で響き、私の体温は春の陽光に焼かれるようにしてじわじわと上昇していった。
冨岡さんは、気づいているのかな…。私の心臓が、こんなにうるさく鳴っていること。
前にも私が鼻血を出した時、こんな距離感で接されたことがあったけれど、何度繰り返しても慣れることなんてできない。息をすることさえ、忘れてしまいそうになる。

「…取れた」

しばらくして、ふっと重みが抜けた。絡まっていたものが外され、冨岡さんの気配がわずかに遠ざかる。

「…あ、ありがとう、ございます…」

私も咄嗟に彼から距離を取ると、逃げ場を失っていた心臓を落ち着かせるように胸に手を当ててそろりと顔を上げた。
冨岡さんの手には、小さな桜の小枝が握られていた。さっきの風に折られてしまったのだろう。枝先にまだ小さな蕾が一つ残っている。
冨岡さんの視線も、その蕾から離れない。それを慈しむように見つめる彼の瞳に、また胸が熱くなった。

「咲く前に落ちちゃったんですね。なんだか可哀想……」

咲くことを知らないまま、落ちてしまった命。あともう少しだったはずなのに。路地の埃に落ちるには、あまりに惜しい色をしている。
咲いていたら、とても綺麗だったのだろう。もうここはほとんど満開なのに。

「この子、どうしましょう……」

思わず言葉に詰まった。
なんだかその小枝が、あの日の夜、道端で凍えていた自分にも重なるようで、捨てるなんて選択肢はなぜか持てなかった。

「冨岡さん、持って帰りますか?」

…いや、何を言っているんだ私は。口にした瞬間、心の中で後悔が広がる。
日々死線を超え、この国の安寧を背負っているような人が、風に折れた小さな枝一本を大事そうに持ち帰る姿なんて、どう考えたって想像がつかない。
そもそも、彼の屋敷に花瓶があるのかさえ怪しいし、こんな提案をされても困るに決まっている。
恥ずかしい。動揺して、変なことばかり口走ってる。せっかく冨岡さんが気を紛らわせてくれたのに、自分の間抜けな問いかけのせいで、また別の種類の汗が背中を伝う。

「あ、じゃ、じゃあ、せめて小川の中に流すのはどうで──」
「いや、」

二つ目の案も却下され、少し心が沈んだ私に、冨岡さんが一歩距離を詰めてきた。視界のすべてが彼の纏う羽織の色に覆われ、逃げ場を失う。なぜか、射抜かれたように彼を見上げることしかできなくなった。

「そのままでいい」

え、何を…。そう思って身体を固くした私に、冨岡さんの手がゆっくりと伸びてくる。指先に摘まれた小さな桜の小枝が、視界の端で頼りなく揺れた。
次の瞬間。その枝先が、そっと私の髪に触れる。ふわりと耳元をかすめる、ひどく慎重な動き。髪が押し上げられ、冨岡さんの指がほんの一瞬、耳の後ろに触れて離れていった。

「俺より、お前が持っている方がいいだろう」

目を伏せたまま、彼はそう言って静かに手を下げた。
恐る恐る指先で自分の耳元に触れると、そこには小さな命が、私の髪に寄り添うようにして挿しこまれている。

「……」

何が、起こった?心臓が耳元で鐘を鳴らしたみたいに大きく跳ねる。触れられた場所から、痺れるような甘い熱がじわじわと全身へ広がっていく。
もしかして、冨岡さんが私の髪に、花を——。風が吹くたび、小さな蕾が頬を優しくくすぐる。

「…顔の色が戻ったな」

冨岡さんは少しだけ視線を逸らしながら、ぼそりとそう言った。
私は言葉が出てこない。どうして、そんなことをするのだろう。どうして、そんなことを言うのだろう。
これも。私の心がまだあの恐怖に囚われていることを察して、意識をこちらに繋ぎ止めるためにしてくれたことなのだろうか。いや、きっとそうだろう。優しさゆえの行動なのだと、理屈では分かっているのに。

「高月」

名前を呼ばれて、恐る恐る顔を上げる。そこには、今まで見たこともないような、凪いだ海のように澄んだ瞳があった。

「お前は、桜の色が似合うな」

その瞬間、風が強く吹き抜け、頭上の桜が大きくしなった。視界が狂うほどの花吹雪の中で、冨岡さんが。あの、いつも無表情で、氷のように静かな冨岡さんが。
柔らかく、本当に柔らかく、ふわりと微笑んだのである。

「…あ、」

その優しい表情に、とくりと。胸の奥で、かつてないほど大きな決定的な音がした。
今まで見たどんな景色よりも、ずっと穏やかで、ずっと美しい、たった一度の奇跡のような。
その瞬間、私の胸の内でもなにかが"はらり"と音もなく落ちてしまった。

「……」

ああ。
それは、花びらでも、折れた枝でもなくて。きっと――心だ。
気づかないふりができるほど、軽いものではない。触れたら崩れてしまいそうなほど、静かで透明な気持ち。それがただ、胸の奥でそっと、やわらかく咲いてしまった。

「……ありがとう、ございます……」

私は、震える声でそれだけを言うのが精一杯だった。
そうか。簡単なことだったのに、今更になって気付くなんて。尾崎さん、なんでわかったのかな。すごいな。
いや、私が気付こうとしなかっただけかもしれない。自分の気持ちに気付かないふりをして、ただ蓋をしてきたんだ。
見ないふりをしている間に気持ちは大きく膨れ上がって、無視することが出来ないほどに大きくなってしまった。

私、冨岡さんのことが好きだ。




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