25
あの後、どうやって帰ったのか自分でもわからない。
たしか、冨岡さんが「…行くか」と静かに告げて、私は頷くことしかできなくて。あの桜並木を、並んで歩いた。記憶は曖昧だが、そこまでは覚えている。
蝶屋敷の門が見えた頃には、あの出来事が現実だったのかどうかも分からなくなっていて。
「もう大丈夫だ」と冨岡さんが言って、しのぶさんに状況を伝える声が遠くで聞こえていた気がする。
けれど、しのぶさんの表情は思い出せる。眉をわずかに寄せて、私を気遣うように見てくれていた。
その状況から察するに、冨岡さんはたぶん、あの暴漢たちのことは必要以上には話さなかったんだと思う。前にしのぶさんに叱られたときのことを思い出して、苦笑がこぼれた。
きっと、今回は…。彼は、余計な不安を与えないようにしてくれたのだ。無口な人だけれど、そういうところだけは不思議なほど細やかで。
その気遣いに気づいてしまった今、胸の奥がまた温かくなって、同時に切なくもなる。
窓の外では、すずめがちゅんちゅんと鳴いていた。穏やかな朝の音。
薄く差し込む朝の光の中で、私はしばらくぼんやりと布団の中から天井を見上げていた。
しばらくして、身支度を済ませようと布団から起き上がる。鏡の前に座り、私は髪を結い始めた。
けれど簪を手に取った途端、昨夜の景色がまざまざと甦る。
「……っ」
手を止めたまま、鏡の中の自分の頬がほんのり赤く染まっていくのがわかる。思い出すだけで指の先まで熱を帯びてしまう。
まとめ上げた髪を整えて、深呼吸をひとつ。それでもまだ心臓の音が落ち着かない。
ふと、視線を窓際に移す。光に照らされた、小さな花瓶がひとつ。飴玉の入った瓶と一緒に並んでいる。
昨日部屋に戻ったあと、どうしてもそのままにできなくて。耳元に挿し込まれたあの枝を、そっと水に浸したのだった。
手を伸ばして枝にそっと触れる。冷たい水の中で、蕾が小さく揺れた。
「……綺麗」
これがあの時、恋に落ちた証なのだとしたら――きっと、お告げだったのだろう。
*
朝餉を終えた台所には、湯気と味噌の香りがまだ薄く残っていた。
片付けの音が重なり合う。私は桶に張った水の中で、木の器を洗っていた。
いつもと変わらない朝の光景。けれど、そのすべてが、少し遠くで起きていることのように感じる。
手の中の茶碗を磨いているのに、泡の感触も水の温度もよく分からない。
「リサさん、これ流しますね」
きよちゃんの声が近くで響いた。
でも、それが自分に向けられた言葉だと理解するまでに、数秒かかってしまった。
「あ……え、はい」
慌てて返事をする頃には、すでに彼女は別の桶に移っていて。その背中がぼやけて見える。まるで、水の底から眺めているみたいだ。
「ねぇ、今日のリサさん。なんか変じゃない?」
「うん。なんだか心ここにあらずって感じだよね」
「昨日のこと、まだ引きずってるのかな…。きっと怖かったよね」
そんな会話がすぐそばで交わされていることなど、つゆ知らず。私はただ、また別の茶碗をひとつ手に取って泡の上を指でなぞっていた。
白い泡が光を受けてゆらゆらと揺れる。それを見つめていると、頭の奥で、昨夜の桜の色と、風に混じった匂いがゆっくりと蘇ってくる気さえするのだから困った。
遠くで水の跳ねる音がしても、誰かが笑っていても、その全部が膜の向こうの出来事みたいだ。
そのままぼんやりと手を動かしていると、ふいに肩を叩かれた。
「リサさん」
「………え?」
反応が遅れながらも振り返ると、アオイさんが心配そうにこちらを見ていた。
どうしたんだろうと、私は首を傾げる。
「あの、昨日のこと…もう平気なんですか?」
「昨日……?」
口の中で言葉を繰り返す。
昨日。平気。
えっと、何があったんだっけ。何か心配されるようなことを自分はまたしてしまったんだっけ。
すぐに頭が回らない。
「しのぶ様から聞いたんです。町でまた変な輩に絡まれかけたって」
その言葉を聞いて、ようやく思い出す。
…そうだ。そういえば、そんなことがあったんだった。
あまりにも腑抜けすぎではないだろうか。あんなに怖かったはずなのに。あんなにも尾崎さんや冨岡さんに面倒をかけたのに。
今の今まで、その記憶がまるごと抜け落ちているなんて。
「あ、ああ…!えっと、はい。大丈夫なはずです」
返事が遅れて、なんだか変な言い方になってしまった。
「本当に?顔色がまだ少し……」
アオイさんの心配そうな声。
すぐに否定しなければと思うのに、返す言葉が見つからない。昨日のことを蝶屋敷のみんなに話すのも、なんだか違う気がする。
ふと、視線が桶の水面に落ちた。ゆらゆらと光を映すその波紋が、昨夜見上げた川面の揺れと重なる。その光景に、どうしようもなく惹かれてしまう自分がいる。
「リサさん?」
その声に我に返って顔を上げると、アオイさんがじっとこちらを覗き込んでいた。何も話さなくなってしまった私を心配そうに見つめてくれている。
「本当に大丈夫なんですか?」
「…は、はい。大丈夫です。そっちの方はほんとに…」
「そっち……?まあ、大丈夫ならいいですけど、無理しないでくださいね。必要なら私もしのぶ様もいますし…」
「はい。ありがとうございます、アオイさん」
そう言ってへらりと微笑むと、アオイさんは洗った器を布巾で拭きながら視線を外した。その頬がどこか赤く染まっているように見える。
また心配をかけてしまったと思うと同時に、こうして心配をしてくれる人がいるのは、とても有難いことだと思った。
胸の奥で申し訳なさと温かさが混ざって、痛いほど膨らむ。
「リサさん、それもう洗い終わってますよ」
「……あ、え、ほんとだ。ごめんなさい」
すみちゃんの声に、はっと視線を落とす。
手に持っていた茶碗はもうすっかり濯ぎ終わっていて、けれどそれをどのくらい前に済ませたのかも覚えていない。
「……ねぇやっぱり変だよ。全然集中してない」
「ぼうっとしてると危ないよねえ」
そんな声も、また耳に入ってこなくなる。
洗い終えた器を棚に戻しながら、ぼんやりと息を吐いた。
昨日の恐怖はもう消えているはずなのに、指先だけがまだ冷たい。それが水のせいなのか、あの男たちのせいなのか、自分でもよく分からなかった。
「リサさん、お箸の方お願いできます?」
「……あ、はい」
「…よし、それをやればすべて終わりです」
アオイさんの声で、ようやく顔を上げる。
外を見やると、てっぺんまで昇った陽が白く揺れていた。
なほちゃんが布巾を畳んで、「リサさん、先にお茶淹れてきますね」と笑ってくれる。
ふと、袖の端が風に揺れた。窓の外には、散りはじめた桜の影。
昨日と同じ色の花びらが、一枚だけ中庭に舞っているのが見えた。
*
昼下がり。陽が地面をやわらかく照らす頃。
台所の片付けを終えたあと、私は縁側に座り込んでいた。膝下の板は昼のぬくもりを含んでいて、掌を当てるとほんのり温かい。
庭では、風が通るたびに木の葉がさらさらと音を立てていた。空は快晴。流れる雲がゆっくりと形を変える。
「……はぁ」
こんなにも穏やかな天気なのに。
ひとりで静かにしていれば落ち着くと思ったのに。ざわめきは増えるばかりだ。
けれど胸の奥に詰まっているものを言葉にもできなくて、ただ空を仰ぐ。
怖かった昨日よりも、今の方がずっと怖い気さえする。もう、知ってしまったから。この胸の高鳴りが、何のせいかを。
ふと、門の方から砂利を踏む音がした。耳を澄ますまでもなく、誰かが近づいてくる気配がする。
軽い足取りに、もしかして…と思わず顔を上げた瞬間、視界の向こうで見慣れた影が揺れた。
「……お、尾崎さん!」
「やっぱりここにいた。顔見に来たの」
尾崎さんは小さく手を振って、にこりと微笑む。
陽射しの中でその声があたたかく響いた。けれど笑ってるのに、どこか心配そうな目をしている。
「昨日の今日だから心配で。あの後、大丈夫だった?」
「……わざわざ来て、くれたの」
尾崎さんは「当たり前でしょう」と笑って、私の前まで来る。
その顔を見た瞬間、なぜか居ても立っても居られなくなった。
気付けば縁側を一歩降りていて、とたとたと彼女に駆け寄る。そしてそのまま尾崎さんに胸にぽすり、と倒れ込んだ。
「わ、え、リサ?」
彼女の隊服に顔を埋める。
袖の香りと体温が一気に押し寄せて、なんだか泣きたくなった。
「ちょ、ちょっと、どうしたの?」
「……わかんない………」
喉の奥が熱くて、うまく言葉にならない。
「わからない」と繰り返すたび、胸の奥から溢れる何かを止められなくなる。
そう。わからない。ほんとうに、わからない。どうしていいのかも、自分が何を怖がっているのかさえも。
ただ、気づいてしまった瞬間からもう後戻りできないことだけは、はっきりしていた。
知らないうちに膨らみすぎていた気持ちが、今ようやく姿を現して、両手では抱えきれなくなっている。
尾崎さんは一瞬驚いたように息を呑んだあと、何も言わずに背中を撫でてくれた。その手が、ひどく優しい。
「もしかしてあの後、何かあった…?まさか、あの男たちがまた……」
「ううん、ちがうの……」
私がかすれた声で言うと、彼女が腕の中で少しだけ動いた。
「うん?」
「ぜんぜん怖くなかったの。途中から。……むしろなんか、安心して胸が痛くて……それで……」
声がどんどん小さくなる。言葉の意味を自分でもうまく掴めなくて、喉の奥でほどけていく。感情が抱えきれなくなって、ぎゅっと目を閉じた。
けれど、尾崎さんは静かに息を吐いて小さく笑う。
「…安心して、胸が痛い?」
少し笑いを含んだ声で繰り返す。
「それはまるで恋してるみたいだね」
驚いて顔を上げると、尾崎さんがいたずらっぽく微笑んでいた。陽の光に瞳がきらりと光る。
まるで、私の心の奥底をそっと覗き込んでいるみたいな目。
否定する間もなく、やはり彼女には全部見抜かれていたのだと悟る。
「だから言ったでしょう?」
「……なんでわかったの」
まるで、昨日の会話の続きをしているみたいだ。かろうじてそう言葉にしてみると、尾崎さんは肩をすくめて小さく笑う。
「全部顔に書いてあるもの。リサ隠すのが下手なんだもん」
優しい言葉なのに、逃げ場がない。
彼女の声が届くたび、心の奥に張りつめていたものがゆっくりと溶けていく。
「私…、そんなにわかりやすい?」
「うん。とっても」
じゃあ、もう冨岡さんにも気付かれているのではないか。昨日、あの桜の下で。あんなに近くにいたのに、私の動揺が、呼吸の浅さが、彼に伝わっていないはずがない。
思い出しただけで、頬がじんと熱くなる。あの沈黙の中で彼はどんな顔をしていたっけ。
「どうしよう…。私こういうの初めてでわからないの。どうすればいいのか、わからない…」
胸の奥に、じわりと重たい熱が広がっていく。
心の奥で蓋をしていたものが静かに開いて、この感情とどう向き合っていけばいいのかわからない。
思わずぎゅうっと尾崎さんに抱きつくと、彼女もただ腕に力を入れて私を抱きしめ返してくれた。
「どうもしなくていいんじゃない?」
その時、尾崎さんはそう言って少し体を離した。瞳の奥に光が宿っていて、それがまっすぐに私を映している。
「恋なんて、勝手に始まって勝手に動くものでしょ。止めようとする方が難しいんじゃないかな。……ね?」
優しい笑みのまま、彼女の指先がそっと私の髪に触れる。その一瞬の仕草がどこまでも穏やかで、涙がこぼれそうになる。
「……尾崎さん」
「うん」
「好き」
気持ちが抑えられなくなって思わずそう告げると、尾崎さんの瞳が戸惑ったようにぱちくりと瞬いた。
次の瞬間、吐き出すように笑って“まさかね”と言いたげに唇の端が上がる。
「…なにそれ。ぜったい私に言う台詞じゃないでしょ?」
そう言いながらも、どこか嬉しそうだ。
だって、これは事実だ。人として。友人として。支えてくれる存在として。今の私を抱えてくれたその温度に、素直にそう思った。
尾崎さんが大好きで、大切な友人だから。これは、紛れもなく“私の本心”。
私の肩に置かれた手が、少しだけ撫でるように動く。
「昨日、何があったの?」
心配そうに訊ねるその姿が優しくて、私は昨日あったことをすべて話した。冨岡さんが桜並木に連れて行ってくれたこと、そこで何があったのか、すべてを。
尾崎さんはじっと聞いていてくれた。
「冨岡さんは、私がつらいときとか、悩んでいるとき、いつも側にいて声をかけてくれたの。だから、私はこれまで慣れない場所でもやってこれたの」
そう考えると冨岡さんを好きになってしまう理由なんて本当はいくらでもあって、時間の問題だったのかもしれない。
私が困っているときには、いつも冨岡さんがいた。
だからこそ、吊り橋効果なんて言葉があるみたいに、これはただの気の迷いだって思いたかったけれど、もう手遅れだ。
どっちにしろ、好きになってしまったのだから、取り返しはつかない。
「冨岡様にはいつ伝えるの?」
「伝える?」
「リサの気持ちは伝えないの?」
「あ、それはいいの…言うつもりはないから…」
「え……?」
尾崎さん笑いかけていた口元がほどけて、目の奥に薄い影が落ちる。
「どういう…、こと?」
「私は…冨岡さんのことを好きだなって想い続けられればそれでいい。気持ちを伝えたいとか、どうなりたいとか、そういうのはいらない」
「それで……、リサはいいの?」
「…うん。いいの」
私もそれ以上何も言えず、ただ目を伏せた。
気持ちに気付いたからと言って、私は何かを望むわけじゃない。
冨岡さんは、とても優しい人だ。そして私はそんな冨岡さんのことが好きだ。けれど、それだけ。
きっとその優しさは、私だけに向けられているものじゃないから。
なにかそれ以上のことを望むなんて烏滸がましい。彼に想いを寄せる女性はきっと多いのだろう。
それに、前線で戦っている彼に私の気持ちを押しつけて迷惑をかけるのも嫌だ。
ただ、私はそっと影から想わせてほしい。名前を呼ばれなくても、隣に立てなくてもいい。
想うことだけは、許してほしい。
「……そう」
尾崎さんが、低く息を吐いた。
悲しい顔をさせてしまった。でも、責める色はひとつもない。私の決めた距離を、ただ受け取ってくれる。
「うん。リサがそうしたいって思うならそれでいいと思うよ。自分が息のできる方を選んでほしい」
少し笑いながら言ったその声に、優しさと切なさが入り混じっていた。
「…ありがとう、尾崎さん」
「そんな私は何も……」
「ううん、いつも優しくしてくれて。たくさん面倒をみてくれて。私、尾崎さんと出会えて良かった」
そう言うと、彼女は少し目を細めて照れくさそうに笑った。
「…私も、リサと出会えて良かった」
その言葉に胸がじんと熱くなる。
そう言って、尾崎さんはそっと自分の胸元へ指を伸ばした。小さな光が揺れる。
その動きにつられて、私も自然と首元へ手を添える。指先に触れたのは、あの日ふたりで買った群青色の首飾り。
淡い陽を受けて、二つの石が同じ色にきらりと光った。風がふわりと吹いて、尾崎さんの髪の先がその光をかすめる。
「……お揃いだね」
「うん。ずっと、大事にしてる」
視線が重なって、互いに小さく笑う。
言葉よりも確かなものが、胸の奥に静かに根を張っている。
たくさんの私の大切なもの。蝶屋敷の仲間たちの笑顔も、朝の光も、優しい声も。
そして、今ここにいる彼女も――そのすべてが心の奥でひとつに繋がっていく。
ずっと一緒にいたいと思った。笑い合って、肩を並べて、春の風を感じながら。ずっと、ずっと。
尾崎さんの手が風の中で揺れて、首飾りの光がまたひとすじきらめいた。
その光を見つめながら、私は小さく息を吸う。胸の奥に広がる痛みとあたたかさを、そっと抱きしめるように。
──春は、こんなにも静かに人を変えていくのだと。
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