25
「綺麗……」
ぽつりと呟いた自分の声が、静かな部屋の中に溶けていく。
窓辺に置いた小さな花瓶。うららかな陽射しを浴びて、風に揺れているのは、あの川辺で冨岡さんが私の耳元に飾ってくれた、桜の小枝だ。
お屋敷に戻ってから、押し潰してしまわないようにそっと髪から外した。ほんの数輪の、小さな小さな枝。水を吸い上げて凛と咲き誇るその薄紅色を見つめているだけで、どこかあたたかい気持ちになる。
アオイさんに教えてもらった水切りのおかげで、まだ枯れずに小さな花を咲かせているそれは。あの春の穏やかな時間をそのまま引き留めてくれているようだった。
花びらを指先でそっと撫でながら、私はふと、しのぶさんに言われた言葉を思い出す。
『ひとつだけ言うならば、リサさんの方がうっかり足を取られてしまわないか、そこが心配ですね」
『足……?』
『ええ。例えて言うなら、穏やかな川は見た目よりも流れが速いのですよ』
いつだったか、私の行く末を案じるように向けられた、しのぶさんの優しい眼差し。
あの時の私は、その言葉の本当の意味をまだちゃんと分かっていなくて、ただの比喩としてしか受け止められていなかった。冨岡さんという、物静かで底の見えない人が持つ、人を惹きつける強烈な引力に全く気づいていなかったのだ。
でも、そのとおりだった。もう、とっくに足を取られていた。
穏やかだと思っていた。静かで、不器用で、波風の立たない川のような人だと。
真っ直ぐ見つめられたあの瞬間に、私は抗う間もなくその流れに巻き込まれてしまった。
自分の意思ではもう、岸辺に戻ることなんてできない。
*
「痛っ……」
ちくりとした痛みが走って、私は思わず右手の指先を引っ込めた。
見れば、人差し指の腹に薄く赤い筋が浮かび上がり、小さな血の玉がじわりと滲み始めている。
「大丈夫ですか?」
すぐ隣で、籠いっぱいに薬草を仕分けしていたアオイさんが、すかさず心配そうに覗き込んできた。
畑の前にしゃがみ込んでいた私は、きゅっと着物の袖を
「あはは……ごめんなさい。大丈夫です。ちょっと、薬草の硬い茎を勢いよく引きちぎろうとしちゃって、指先を切っちゃったみたいで」
「もう、何やってるんですか。リサさん、最近ちょっとぼーっとしてることが多いですよ。本当に大丈夫ですか?」
アオイさんは呆れたように、けれど本気で体調を案じるような真剣な目で私を見つめてくる。図星を突かれて、私はますます苦笑いを返すしかなかった。
ぼーっとしている自覚は、大いにあった。それもこれも、頭の中が常にあの半々羽織の人に占領されているせいだ。
ただただ、この新しくて重い感情に、私自身が困惑している。身の丈に合わない大きな鍵を、いきなり心の中にぽんと預けられてしまったみたいに、これをどう抱えて、どこへ持っていけばいいのかが本当に分からないのだ。
彼にこの想いを知ってほしいわけでもない、だけど、何もなかったことにして仕舞い込むこともできない。そんな、自分でも正体の掴めないもどかしさに、ただ引きずられるようにして戸惑っていた。
もしも次に冨岡さんと会ったら、私は一体どうすればいいのだろう。
「いえ、体調が悪いわけじゃなくて。ただ、ちょっと考え事をしちゃってて……心配させてごめんなさい」
「ならいいんですけど……。あ、触っちゃ駄目ですよ!ここはいいですから、まずは清潔な水でしっかり傷口を洗ってくださいね。それからしのぶ様のところへ行って、貼り薬をもらってきてください」
アオイさんは私の手を優しく押し出すようにして、てきぱきと指示を出してくれる。
「ありがとうございます。アオイさん。お言葉に甘えて行ってきます」
私は慌ててパタパタと手を振り、アオイさんに取り繕うような笑顔を向けた。
言われた通りにまずは中庭の隅にある手水処へと向かった。
こんこんと湧き出る冷たい水に、傷ついた人差し指を浸す。ひんやりとした感覚がじんわりと傷口を麻痺させていき、それと同時に、熱を持っていた頭の中が少しだけ強制的に冷やされていくような気がした。
水を手拭いで丁寧に拭いながら、私は小さく息を吐き出す。
あの桜の日から、まだ一度も冨岡さんには会えていない。会っていないのに、私の心はあの場所に置き去りにされたままで、一歩も前に進めずにいる。
いつまで、こんな風に浮足立っているんだろう。会いたいような、でも、まだ心の準備ができていなくて会いたくないような。
そんな矛盾した気持ちがぐるぐると胸の中で渦巻いて、どうにも落ち着かない。文字通り、完全に足を取られて、行く先も分からず溺れている状態だった。
「考えても仕方ない……」
小さく首を振って、これ以上の思考を強制的に打ち切る。
まずはアオイさんに言われた通り、指先の貼り薬をもらいに行こう。
私は自分の両頬を軽く叩いて気合を入れ直すと、手拭いを懐へと仕舞い込み、しのぶさんの調合室へと向かって廊下を歩き出した。
蝶屋敷の長い廊下は、いつも怪我をした隊士たちの気配や、薬草の独特な匂いに満ちている。
引きずっていた足取りを少しだけ早めようとした、その時。角を曲がった先から、数人の話し声が聞こえてきた。
見れば、そこを歩いていたのは二人の女性隊士だった。鬼殺隊において、女性の隊士というのはそれほど数が多くない。ましてや、前線で戦う彼女たちがこうしてお屋敷の廊下で任務の合間に話し込んでいる姿は珍しく、私はなんとなく目を引かれて、自然と歩調を緩めていた。
「――それでね、さっき鴉が予定表を確認しに行ったら、本当に名前があったの!」
一人の女性隊士が、興奮を隠しきれないといった様子で、抱えた荷物をきゅっと握りしめながら声を弾ませていた。もう一人の隊士も、驚いたように目を丸くしている。
「ええっ本当!?じゃあ、今夜の合同任務って……」
「そう!私ね、今夜、水柱様と同じ任務なの!」
「へえ!良かったじゃない!」
――水柱さま。
その名前が、彼女たちの口から滑り落ちた瞬間、私の心臓が嫌な音を立てて跳ね上がった。歩いていた足が、まるで床に縫い付けられたかのようにぴたりと止まってしまう。
「なんでも、今回の潜入先が少し広めのお城らしくて、情報収集の頭数が必要なんだって。だから柱以外に数人、動ける者が選ばれたみたい」
柱の人も、合同で任務に行くことがあるんだ。あまりにも強すぎる彼らは、単独で動く方が効率が良いのだろうし、事実、しのぶさんや冨岡さんもいつも、誰を連れるでもなくただ一人で静かに戦地へと向かっている印象があったから。素直に驚いてしまった。
「ねえ、どうしよう。今回の任務でお近づきになれたら」
二人は私の存在に気づいていないのか、それともただの居候である私を気にしていないのか。そのまま楽しげに会話を続けている。
廊下の薄暗い影に隠れるようにして、私もその言葉に聞き入るしかなかった。
「気が早いわよ。でも、水柱様ってすごく物静かで、何を考えているか分からないって聞くけど……怖くはないの?」
「うーん、冷たいって噂する人もいるけど……。私はそうは思わなかったな。だって、去年の秋にね!」
「またその話?」
「うん!私が戦地で大怪我をして、もう助からないって絶望してた時ね。駆けつけてくれた水柱様が鬼を斬ったあと、私に言ったの。……『生きることを諦めるな、お前の命を大切にしろ』って。すごく厳しいけれど、そらから私、その言葉に何度も救われて。どんなに絶望的な状況でも、自分が自分を諦めちゃだめなんだなって。……それからずっと水柱様をお慕いしているの」
…私と、同じだと思った。
思い返せば、それは私がこの世界に迷い込み、行き場をなくして絶望の淵に沈みかけていたあの夜からだった。
何一つ自分の未来が見えなくなっていた私を、冨岡さんは置いていかなかった。暴漢に襲われて、号泣してしまったときも、どこまでも切実な温度を持った言葉で、私の心を真っ直ぐに救い上げてくれた。
熱が出たときも、私を拒まず、その手を差し伸べてくれたこと。私の拙い我が儘を聞き届けて、あの静かな桜の川辺に連れて行ってくれたこと。
それらはすべて、私という存在が彼にとって特別だったからではなく、彼がそういう人だからなのだ。
私にだけ見せてくれたのだと錯覚していたらしい優しい眼差しも、手のひらの温もりも。
冨岡さんにとっては、窮地にある者を、傷ついた迷子を放っておけないという、彼の中に最初からある慈悲の現れに過ぎなかった。彼はただ、戦地で傷ついた彼女にかけたものと同じ、本質的な優しさを私にも向けてくれただけだった。
「想いは?伝えないの?」
「でも、あの端正なお顔立ちだから。お慕いしている人も多いと思うのよね」
あの圧倒的な強さと、誰にも見せない不器用な情熱を持つ人は、私だけのものなんかじゃない。彼に命を救われ、彼の放つ真っ直ぐな言葉に魂を震わせ、その背中を密かにお慕いしている人なんて、この鬼殺隊の中にきっと、星の数ほどいるのだ。
「今はまだ、背中を追いかけるだけで精一杯かな。いつか本当の意味で肩を並べて戦えるようになったら。それから想いを伝えたいんだ」
そうか。彼女は、前を向いて戦っているんだ。自分の足で立ち、刀を握り、命を懸けて前線で戦っている隊士だ。冨岡さんという大きすぎる背中を見据え、いつかその隣に立てるくらい強くなろうと、自分の恋心を未来への糧に変えて進もうとしている。
……決めた。
この想いは、私の心のいちばん深い場所に、誰にも見つからないように封印しよう。それがいい。今ならまだ間に合う。
いつか本当の意味で彼と肩を並べられる彼女たちとは違う。私には、誰かを守る刀も、誰かを救う強さもない。
この大正の世界にうっかり紛れ込んでしまっただけの、ただの迷子。傷つき、怯え、みんなの優しさに甘えて、その背中に縋り付いているだけの、無力で、甘ったれた居候でしかないのだ。
だから、これは私だけの宝物として、胸の奥にそっと仕舞い込んでおけばいい。彼とどうこうなりたいなんて、元々考えてもいなかった。
これまでと同じ顔をして見つめ続けられるように。彼の歩む道の邪魔にならないように、静かに、一歩後ろからついていければ、それだけで十分だ。
胸の奥で、カチリと重い錠前が閉じるような音がした。
切なさと、ほんの少しの覚悟で満たされた胸を一度深く落ち着かせるように、私はゆっくりと息を吐き出す。
二人の女性隊士の足音が廊下の向こうへ完全に消え去るのを待ってから、私は俯いていた顔を上げる。
人差し指の傷口から、ぷつりとまた、小さな血の玉が滲んだけれど、もう不思議と痛みは感じなかった。
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