26
風がひとすじ抜けて、枝の先に残っていた花びらがぱらぱらと落ちていった。視線で追う間もなく地面に触れて、すぐに形がほどける。
数日前まではあんなに満開だったのに。今、蝶屋敷の庭に立つ桜は、もうほとんどが若い葉の色に変わっている。
「……儚いですねえ」
きよちゃんが名残惜しそうに小さくつぶやく。ここ数日でぐんと暖かくなった陽射しが、彼女の頬をやわらかく照らしていた。
隣ですみちゃんも、空を仰いで「ほんとうに」と小さく頷く。
ゆっくりと流れる雲と、すっかり緑が目立つ枝先を見比べて、ああ、季節はもう次へ進んでしまったんだな、と思う。
「咲くのはあんなに時間がかかるのに、散るのは早くて……ちょっとさみしいですね」
なほちゃんがそう言いながら、くすりと笑う。三人ともほんの少しだけ、肩を寄せ合うようにして立っている。
私はその横で、落ちていく花びらをただ見つめていた。触れれば崩れそうな薄さ。ひとひら落ちるたび、胸の奥にかすかな空洞が生まれる。
「リサさん、知ってますか?この桜、"必勝"っていうんですよ」
「……ひっしょう?」
知らない響きに思わず聞き返すと、きよちゃんが嬉しそうに目を輝かせた。
「昔、この蝶屋敷に初代の花の呼吸の剣士様がいたんです。その方が、ここに桜の苗を植えたんですよ」
「必ず勝てますようにって、願いを込めてだそうです」
なほちゃんがそっと枝を見上げる。
「だから、この桜が咲くと…不思議と心が前を向くんです。カナエ様も、毎年この桜を見るのを楽しみにしてました……」
風がひとすじ駆け抜けて、また枝先に残った花びらがはらりと落ちた。
儚く舞うその姿が、どこか誰かの祈りの残り香みたいで、なぜか胸がきゅうっと締め付けられる。
――カナエさん。
しのぶさんのお姉さんだと聞いた。
皆の話をつなぎ合わせると、優しくて、強くて、誰よりも穏やかな人だったらしい。すべて過去形になる会話に、彼女がもう帰らぬ人となっていることはなんとなく理解した。
笑うと周りの空気まで明るくなるような…そんな雰囲気の人だったと。
会ったこともないのに、名前を聞くだけで胸が温かくなる。蝶屋敷のあちこちに残っている柔らかな気配のせいだろうか。
この桜の枝先にも、屋敷にも、誰かを包んでいた温度がまだ残っている気がしてしまう。
私も一度、会ってみたかったな。
「じゃあ、たくさんの人に受け継がれてきた大切な桜なんだね」
自然とそうこぼれた。
三人は嬉しそうに笑い合う。
「はい。とっても強い桜なんです」
「毎年とっても綺麗な花を咲かせるんですよ」
「初代様の願いが、まだ残ってるみたいで」
葉の間からこぼれる光が、散り際の花びらに透ける。淡くて、消えそうで、それでも確かにそこにある色。
――誰かが願った"必ず勝つ"という言葉。その祈りが今もここで息をしているのなら。
誰かを守るために前へ踏み出した命も、ただ散っただけで終わるとは限らないのだろうか。
足元に落ちたひとひらを見つめながら、私はそんなことを思った。
*
「……ねえ、リサ。何かあった?」
蝶屋敷の広い縁側。ぽかぽかと温かい陽射しを浴びながら、私は「んー?」と生返事を返し、手元のザルに視線を戻した。
形が崩れてしまわないよう気をつけながら、乾燥させた薬草をただ淡々と、一枚ずつ木箱へと仕分けていく。
「何かって、何が?」
「何がって、その様子よ。さっきからため息ばっかりついてるし。そんなだと薬草萎れちゃわない?」
そう言って苦笑混じりに隣へ腰を下ろしてきたのは、尾崎さんだった。彼女は回復訓練を終えたばかりのようで、薬湯の匂いがふわりと漂う。
「そんなことないよ。ちゃんと真面目にやってるもん」
「そう?顔には『考え事してます』って書いてあるけど。……ちょっと訊きづらいんだけど、あのあと大丈夫だった?」
「あのあと……?」
「ほら、一緒に甘味を食べた帰りに、その……」
――そう、だった。そういえば、そんなことがあった。
あの時、尾崎さんがあんなにも私のことを気遣って、必死に助けようとしてくれたのに。自分の新しすぎる感情にばかり頭を支配されて、お礼を伝えるのをすっかり忘れてしまうなんて。
「ごめんなさい。この前は助けてくれたのに……」
「私はただ、リサが今もあの時のことで傷ついてないか心配で……」
「ううん、本当に感謝してるの。ありがとう、尾崎さん。……あ、それでね、あのあとは大丈夫だったよ。私が落ち着くまで、少し桜を見て帰っただけだから」
そう。あの川辺で私の心が落ち着くのを静かに待ってくれたあと、冨岡さんは私をこのお屋敷までちゃんと送り届けてくれた。
そして、出迎えてくれたしのぶさんに「町で暴漢の男たちを見かけて、酷く怯えていた」ということだけを、簡潔に伝えてくれたのだ。
それ以外のことは口にせず、そのまま去っていった。
「桜、ねえ。水柱様、なんだかリサにすごく優しいね」
「……ううん。あの人は誰にでも優しいんだよ」
自分でも驚くほど冷めた声が出てしまった。尾崎さんは一瞬だけ意外そうに目を見開いたけれど、すぐに何かを察したように微笑む。
「でも、あんなに見目の良くて強い人にそんなふうに守られたら、勘違いしちゃいそうにはならないの?」
「……関係ないよ、そんなの」
私はまたザルに視線を落とし、わざとそっけない声を出す。
伝えるわけにはいかないのだ。私には刀もなければ、あの人の隣に立つ資格もない。この気持ちは、誰にも知られずに仕舞い込んでおくべきものだから。
「関係ないって言うんだね?『好きじゃない』って言うんじゃなくて」
図星をつくような言葉に、ぴくり、と私の手が動きを止めた。
『好きじゃない』、と嘘でも言えれば良かったのに。けれど私の心はもう、川の流れに深く呑み込まれてしまっている。今さら嘘をつくことも、尾崎さんに対しておためごかしの言い訳を並べることもできなかった。
「やっぱり好き、なんだね?冨岡さんのこと」
「……好き、だけどそういうのじゃない」
「どういうこと?」
「気持ちを伝えたいとか、どうなりたいとか、そういうのじゃない」
「それで……、リサはいいの?」
「うん。いいの」
迷いのない私の返事に、尾崎さんはどこか納得のいかないような表情を浮かべて私を見つめた。
「いいの」、と自分に言い聞かせるようにもう一度小さく呟く。
「二人で桜を見てるときに何かあったの?」
私は小さく首を横に振る。
「…何もない」
「でもそれ以降、冨岡さんには会ってないんでしょう?もしその時に何もなかったのだとしたら、その日を境にリサの態度がそんな風に変わるなんておかしいと思うんだけど……」
本当に、尾崎さんの言う通りだ。
あの桜の日から、私はずっと一人立ち止まったまま。
「……何かあったのは、私だけなの。冨岡さんはいつも通り普通だった。本当に、私が落ち着くまで静かに待っていてくれただけで、特別なことなんて何もなかったの。……ただ私が勝手に、一人で困惑してるだけで」
勝手に動揺して足を取られて、溺れそうになっているのは私だけ。
「だから本当に……私だけの問題なんだよ」
私がそう言うと、尾崎さんは今度こそ完全に言葉を失ったように、切なげに眉をひそめて私をじっと見つめた。静かな沈黙が、二人の間に流れる。
本当は、不思議に思うことは多々あるのだ。この世界に迷い込んで、何の身寄りもない私に対して冨岡さんはどうしてあんなにも親身になってくれるのだろう、と。
普通なら、素性の分からない他人にそこまで深く関わろうとする人なんてそうそういない。ましてや、彼は鬼を滅ぼすための最高位に立つ忙しい「柱」なのだ。理由を考え始めればキリがなくて、彼の真意はいつだって物静かな瞳の奥に隠されたまま。
だけど、多くを語らないあの背中を見つめているだけで、とても安心感があった。
冨岡さんみたいな人と、そうやって繋がっていられる。それだけでも、私にとっては奇跡みたいに有難いことなんだと思う。
「だからね。今のままで十分、私は恵まれてるの。これ以上何かを求めたくない」
伝えたいとかどうなりたいとか、そんな欲を出してしまえば、いつかこの有難い距離感さえも失ってしまうかもしれない。
それなら、この想いは誰にも迷惑のかからない私の胸の奥深くに綺麗に仕舞い込んでおけばいい。
「……リサ、」
尾崎さんはそこまで言って、言葉を詰まらせた。呆れているのか、それとも悲しんでいるのか、その表情には複雑な感情が入り混じっている。
「リサがそこまで考えて決めたことなら、私は何も言わないけど……」
「ごめんね。戸惑わせて」
「それはいいんだけど……。でも、どうしてもってなったら、そこは私でしょ?いつでも話聞くからね?」
これ以上深く理由を聞き出そうともせず、ただそのままの私を受け入れて、味方でいてくれる。
そんなふうに側にいてくれる人がいるんだと思ったら、急に視界が熱くなって、じわじわと涙が込み上げてきた。
そんな私を見て、尾崎さんは「わ、ちょっと、泣かないでよー!」と慌てて袖で私の目元を拭おうとしてくれる。
「……尾崎さん」
「うん」
「好き」
「ふふ、何それ」
「私もう、尾崎さんさえいればいい」
私がまだ少し潤んだ目のまま冗談めかして言うと、尾崎さんは笑い落とした涙を指先で拭いながら、「本当に?」と嬉しそうに眉を上げた。
「そんなこと言って、すぐに寂しくなっちゃうくせに」
「そんなことないもん。……あ、でも、やっぱりしのぶさんも」
「え、追加?」
「あと、アオイさんにカナヲさんに、なほちゃんたちみんなに……」
指を折りながら次々と名前を付け足していく私に、尾崎さんはますます声を上げて笑う。
「結局みんなが必要なんじゃない」
「あはは、ごめんなさい。でも、みんな大好きなんだもん」
「もー、本当にリサは調子がいいんだから」
愛おしそうにそう言って笑う彼女の笑顔に救われながら、私はすっかり軽くなった心で笑い声を上げた。
うん。…私は、大丈夫だ。何か劇的なことが起こったわけじゃない。
明日からも、お屋敷の廊下を歩けばアオイさんに「ぼーっとしないで」って怒られて、三人娘のみんなと他愛のない話をして笑い合う。そんないつも通りの、何も変わらない日々が続いていくだけだ。
そして。次に冨岡さんに会ったときも、きっと何も変わらない。だから、何も変わらなくていい。何も、変えなくていいのだ。
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