27


週末。私はいつものように冨岡さんの屋敷にやって来ていた。もちろん、帳簿のお手伝いをしに。
出納帳の付け方にもだいぶ慣れてきて、最近ではほかの帳面まで少し任せてもらえるようになった。
数字の計算も、漢字の書き方も、前よりずっと迷いなくやれている。
…なのに、だ。胸のあたりが、なぜかいつまで経っても落ち着いてくれない。
斜め前では、冨岡さんがいつものように黙って筆を動かしていた。背筋をすっと伸ばした姿勢。癖ひとつない所作。静かな横顔が視界の端に入るたび、胸の奥がきゅうっと掴まれる。

ほんの少し視線が触れただけで、なぜかむず痒くなってしまう。こそばゆくて、落ち着かなくて、何を考えればいいのか分からなくなる。
――そう。照れてしまうのである。
会話をしようとしても、口の中で言葉が空回りして、結局何も言えない。
慌てているのは、どう考えても私だけだ。
冨岡さんは、いつも通り。筆を進め、たまに帳簿をめくり、必要なときだけ短く言葉を落とす。
その静けさが、前まではただ心地よかったのに、今はそこにいるだけで息が詰まりそうになるのだから困った。

――冨岡さんを、好きだと気付いてしまってからというもの、ずっとこうなのだ。
おかしいな。以前は普通に話せていたし、この時間が好きだったはずだ。安心できて、自分が役に立てている気がして。
今は…なんというか、少し身構えてしまう。緊張して、背中に余計な力が入る。万年筆を持つ指まで固くなってしまい、数字の一画一画がいつもよりぎこちなくなる。
それに、冨岡さんは例によって、ほとんど話さない。つまり、私が何か言わない限り、この沈黙はずっと続く。
沈黙が嫌いなわけじゃない。でも今の沈黙は、どこか形が違う。私の中だけで、音がやかましい。心臓の音とか、呼吸の浅さとか。
…何か話そう。ええと、天気の話?今日の外出の道のり?いや、そんなのわざわざ言うことでも――

「高月」
「ぅわっ、はいッ」

不意に名前を呼ばれて、心臓が飛び上がった。
自分でも聞いたことのない声が出て、思わず背筋を伸ばす。万年筆の先が紙から離れて、インクが小さな点になって残った。
目の前に座っていた冨岡さんが、いつのまにか筆を止めて、じっとこちらを見つめている。
普段と変わらない静かな視線のはずなのに、どこか心配そうな色が混じっていた。

「どうかしたのか」

低く押さえた声。責める響きはなくて、ただ様子を探るみたいな、慎重な問いかけ。
一瞬、喉が固まる。どうかしているのは、間違いなくそうなのだけれど。

「い、いえっ…!なんでもないです。えっと、その……」

言い訳を探して、視線があちこちをさまよう。
帳簿、筆、インク壺、襖の外の空。
どこを見ても、胸のざわつきは消えてくれない。

「さっきから筆が進んでいない」

静かに指摘されて、はっとする。
たしかに、さっきから視線は帳簿の上をさまよっていただけで、中身は全く頭に入っていなかった。

「す、すみません……」

情けなくて、思わず背を丸くする。手伝いをしに来ているのに、これでは怒られても仕方がない。
恐る恐る顔を上げると、冨岡さんは少しだけ眉を寄せてこちらを見ていた。

「…具合が悪いなら、今日はここまででいい」
「え?」
「顔色がいつもと違う」
「ち、違います!大丈夫です…!」

淡々とした言い方なのに、その一言がやけに胸に刺さった。
冨岡さん、ちゃんと見ていたんだ。私のことなんて視界に入っていないような顔をしていたのに。
でも違うのだ。そうじゃない。そうではなくて。
具合なんて悪くない。むしろ、こんなに元気で、こんなに胸が忙しくてどうしようもないくらいなのに。

「大丈夫です!元気です!あの、ちょっとぼんやりしてただけで……」

慌てて否定すると、自分でも驚くほど早口になってしまった。
いつもこんな状態になるわけじゃない。落ち着いている時だってある。普通に話せる日だってたくさんあった。
帳簿をまとめている間、冨岡さんの静かな気配に安心して、ゆるむように前に座っていられた時間だって確かにある。
けれど、ただ何かの拍子に好きだなあと考えてしまうともう駄目だった。どきどきと胸が高鳴って、顔が熱くなって、恥ずかしくてたまらなくなってしまう。

「高月」
「……はい」
「こっちを見ろ」
「うぐ」

私が冨岡さんの顔を見ることが出来ないとわかっていて、そんなことを言っているのか。
確信犯としか思えない。

「高月」

呼ばれた。
さっきよりわずかに柔らかい声で。

「……はい」

返事はできる。
けれど、視線はどうしても上げられない。

「聞こえているな」
「…はい……聞こえてはいます……」
「なら顔を上げろ」
「……」

そう言われるが、無理な話だ。
心臓がどくどくと高鳴って、頬にまで熱が上っているというのに。みっともない顔をしてるに決まっている。
それに今のまま彼の目を見たら、気持ちが溢れかえってしまう気がして。

「高月」

なのに。彼はどうして逃してくれないのか。
ひとつ呼ばれるたびに、胸の奥が小さく跳ねる。声の調子は変わらないのに、間の取り方が少しずつ違う。冨岡さんがこんなにも連続で私の名を呼ぶなんて珍しい。
焦れたような響きに、おず、と顔を上げる。
机の向こう、隊服、羽織。そして――ゆっくり、ゆっくり、視線が彼の喉のあたりへ。

「…ほら」

そう促され、私は小さく息を吸い、勇気を拾うようにしてようやくゆっくりと顔を上げた。
じっとこちらを見つめる冨岡さんと目が合って、ぶわわと頬に熱が上がる。

「……最近」
「えっ?」
「俺と目を合わせてくれなくなった」

気のせいなんじゃ、と言いながら小さく笑うものの、視線は相変わらず泳いだまま。説得力の欠片もない。
冨岡さんは視線をそらさないまま、ほんのわずかに眉を寄せる。

「疲れているのかと思っていたが…」

言葉を選びながら、慎重に慎重に踏み込んでくるような声音。
心臓がじわりと熱を帯びる。

「俺が何かしてしまったか」
「ち、違…っ、ちがいます……!」

慌てて否定すると、喉がうまく動かなくて声が裏返った。
まさか、冨岡さん気づいていたんだ。私だけが勝手に慌てていたと思っていたのに。

「そ、そういうわけではなくて……」

耳まで熱くなるのがわかる。言葉の先がうまく続かない。
冨岡さんはそんな私の様子をまっすぐ見つめていた。嘘もごまかしもできない場所まで、すでに追い詰められている気がする。

「…なら、どうして目を逸らす」
「そ、それは……」

言えない。言えるはずがない。
好きで、見られなくて、見られると苦しくて。でも見たくて――そんなぐちゃぐちゃした理由、言えるはずがない。

「理由があるんだろう」

淡々としているのに、声がすこしだけ掠れているように聞こえた。
押しつけがましい言い方じゃない。ただ、知りたいという気配だけが静かに漂う。

「言えない理由なら…そうだと言ってくれればいい」

また間が落ちる。
この沈黙の重さに耐えられるほど、私は強くない。

「…ちが…っ、違います。言えないとかじゃなくてっ……」
「じゃあ、なんだ」

ほんの一歩だけ踏み出されたような声に、息が詰まる。声が喉で絡まり、胸がぎゅうっと締めつけられる。
何も言えない。情けない。どうして私はこうなのか。
その沈黙を、冨岡さんはじっと受け止めていた。

「……分かった」

ぽつり、と一言だけ落として視線を帳簿に戻した。それきりまた筆が動きはじめる。
それだけなのに、空気がすっと冷えたような気がした。
…ちがう。そんなつもりじゃないのに。私が言えずに黙り込んだせいで、まるで冨岡さんを“避けている”みたいに思わせてしまったかもしれない。
そんなはずないのに。むしろ逆で…逆すぎて言えないのだけど。
このままだと勘違いさせてしまう。駄目だ。ちゃんと話をしなければならない。自分が冨岡さんのことを好きだということを言わずに、説明できるだけのことをしなければ。

「あの、そういうわけではないんです。冨岡さんが何かをしたとか……そんな……」
「避けていない?」
「ち、違います……避けては……い、いないです……」
「じゃあ、なぜ目を見ない」

淡々とゆっくり詰められ、なぜか逃げ場がなくなる。

「……それ、は……」
「俺といるのが嫌なのか」

息が止まった。
違う。ちがう。
そんなはず、絶対に。

「それは絶対に違います!!」

勢いよく否定して、声が大きくなってしまう。そのまま呼吸が浅くなり、胸がひくひく震え始めた。
冨岡さんは、そこで初めて目を細めた。筆を再び置いて、私と向き直る。感情は読み取りづらいのに、どこか困っているような、何かを探しているような目をしている。

「じゃあ…なんだ」

一文字ずつ、丁寧に、逃がさないように落とす声。
もう無理だ。胸の奥が熱すぎて、喉がしめつけられて、顔がどうしようもなく熱い。

「高月」

また呼ばれる。
その呼び方が、静かで、優しくて、だから苦しくて。…声が毒だ。
その優しさに触れた瞬間、胸の奥がぱんっと弾けたみたいに熱が溢れた。

「高月、俺は言ってもらわないと分からな、」
「…や、やっぱり無理です…っ、ごめんなさい…!」

冨岡さんの言葉を遮って、私は立ち上がっていた。タイミング的に最悪だったが、もう限界だった。
脚が畳を擦って、思ったより大きく音がする。
冨岡さんが驚いたように目を見開いた。

「どこへ――」

聞き終える前に、私は深く頭を下げる。

「す、すみません…!ちょっと…今日はこのあたりで…失礼させていただきます……っ」

自分でも何を言っているのかよく分からないまま、手をついて立ち上がり、畳を蹴って部屋を飛び出していた。
お前が勝手に決めるな、なんて思われてるかもしれないが、そんなことは気にしていられない。
背中に冨岡さんの気配が残っていて、それだけで胸がぐちゃぐちゃになる。
そのまま私はただ逃げるみたいに、冨岡さんの屋敷を後にした。









「…それで?顔が見られないってだけで、そのまま逃げて来ちゃったの?」
「うう、そんなはっきり言わなくても……」

カラン、と氷が溶けてグラスの中を転がり落ちる涼しい音がした。
その軽やかな響きとは裏腹に、私の心はどんより重く沈んでいる。
目の前では尾崎さんが腕を組んで、なんとも言えない困り顔で私を見つめていた。

「……ごめん。どこからどうしてそうなったのか、順を追ってもう一回説明してもらってもいい?」
「うっ、」

喉の奥でつぶれたような声が漏れた。
恥ずかしさと情けなさがぐるぐる混ざり合って、どう言えばいいのか分からなくなる。
あんなふうに走り出した自分が自分でも信じられないし、冨岡さんを困らせてしまったことがさらに情けない。頭では“落ち着け”とわかっていても、心と身体が勝手に暴れてしまったのだ。
尾崎さんの前に座ると、余計にその情けなさが浮き彫りになる。

さっき冨岡さんの屋敷を飛び出したあと、私はまっすぐ蝶屋敷へ向かって走った。
無事辿り着いたはよかったものの、誰かに相談する気になれず、皆の前に出るのもなんか違って。
なんとなく裏庭に周った時、調薬室の裏手で打ち込み稽古をしていた尾崎さんの姿を見つけて、気が抜けたようにそのまま抱きついてしまった。
そして彼女に連れられるがまま、近くに居間に入り事情聴取を受けることになったのだが。
座卓の上には、尾崎さんがアオイさんに言って用意してくれた麦湯。氷がカランと鳴る。

「別に怒ってるわけじゃないんだよ?でも話を聞かなきゃ、リサがどれだけ自爆してるか把握できないでしょ」
「じ、自爆って……」
「違うの?」
「……違わない……」

ぺしゃん、と肩が落ちた。
認めざるを得ない自分が情けなくて、机に突っ伏したい衝動に駆られる。
尾崎さんはグラスに入った氷を軽く揺らしながら、眉尻を下げて優しく、けれど逃がさない声で続けた。

「はい。じゃ、まずなんで目を見てくれないのか聞かれたんだよね?」
「う、うん……」
「で、そのとき答えられなくて黙っちゃったと」
「…………はい」

頷いたそばからあの場面が脳裏をよぎり、自分でも呆れるような情けなさが込み上げる。

「で、その後に何かしてしまったかって聞かれたんだよね」
「……はい……」
「で、リサは?」
「避けてるとかではないと、答えました…」

なぜ敬語なのか。
言いながら、さっきの場面が頭に浮かんでしまう。こうして口にしてみると、そりゃ誤解させるよねと自分でも思う。
でも、目を見て話す。当たり前のようなことなのに、その当たり前すらうまくやれないのだ。わかって欲しい。

「それで?」
「理由を、聞かれて……」
「答えたの?」
「……いや、何も答えられなくて、その……」

逃げた。
改めて言葉にすると本当に情けない。せめて誰かに“落ち着いて”って肩を軽く叩いてもらえたら、あんな終わり方にはならなかったのに。
あの瞬間の自分の選択がどれだけまずかったのか、尾崎さんに指摘されなくてもわかってはいる。

「その状況で?あの冨岡さんを前に?」
「も、もう限界だったの……!まともに息もできなくて……!」
「そんなのでこれからどうするの?」
「だって冨岡さんが、“こっちを見ろ”って言うんだよ…?見られるわけがないよお」

尾崎さんは言葉を探すみたいに一度まばたきを落とし、そして眉間に指を添え静かに揉んだ。
なんだか、私のせいで苦悩を増やしてしまって申し訳ない。けれど本当に、あれ以上自分で自分の気持ちが処理できなかった。
想うだけで、静かに側にいるだけでいいなどと言っておきながら。私は、冨岡さんのことを好きでいられるだけで良いはずなのに。

「まあ、そんな態度とられたら相手は"嫌われたかな"って思っちゃうよ」
「うっ、」
「最後の捨て台詞もよくないね。"やっぱり無理です"なんて拒絶としか捉えられないし」
「…え」
「気にして、もうこれから手伝いには来なくていいって言われちゃうかも」
「そ…、そんなあ……!」
「あり得るよ」

淡々と告げられて、胸の奥がきゅっと縮む。
たしかにあり得る。冨岡さんの顔がほんの一瞬だけ曇ったのを、私は見てしまった。
でも、やめたくない。あの小さな机を挟んで向かい合う時間が減ってしまったら、冨岡さんと過ごせる数少ないひとときが減ってしまう。
たとえ大した会話がなくても、紙をめくる音や、万年筆の掠れる小さな音に紛れて座っていられるあの距離が、自分でも驚くほど好きだったのに。
もし本当に「来なくていい」と言われたらどうしよう。そこまで考えた瞬間、胸のあたりがズドンと沈んだ。
何も言えず俯く私を見て、尾崎さんはため息をひとつ落とし、どこか真剣な表情で私の顔をのぞき込む。

「ねえ、リサ。本当に気持ちは伝えないつもり?」
「それは、うん………」

あいにく自分の気持ちをそのまま差し出す勇気も、自分をごまかす器用さも持ち合わせていない私は。
ただ不器用なまま立ち止まるしかできない。
もし器用なら、もっと上手に自分の感情を制御できたのかもしれない。冨岡さんの前で視線を落とす理由だって、もっと無難な答えを並べることもできたはずだ。

「…それ、辛くない?」

尾崎さんが、グラスの縁を指でなぞりながら静かに問いかけてきた。

「どうかな。まだ始めたばかりだから、あまりよくわからない…」
「でも、顔も見られないくらい緊張するんでしょう?」
「……うん」
「なのに、側にいたいんだよね」
「……うん…」

私が頷くと、尾崎さんは小さく息を吐いてから苦笑した。それから、そっか、と呟く。
尾崎さんは、たぶん私よりずっと自分の気持ちを素直に口にできる人なんだろう。好きなら好き、困ったなら困ったって、嘘なく言える。
だからこそ、こうして言葉を詰まらせている私を見るともどかしいのかもしれない。
そんな彼女の素直さが少し羨ましい。けれど、だからといって私が簡単に口を開けるわけじゃない。
それを口にした途端、何かが変わってしまったらどうするんだ。もう二度と会えなくなるかもしれない。それなら、言わずに密かに側にいる方がいい。

「…わかった。次に行ったときは、逃げずに"突然いなくなってすみません"って謝ってくるんだよ」
「…それくらいなら、多分…」
「で、"また来ます"とも」
「……え、宿題が多いよお」
「逃げ出したんだからそれくらいはしないと」

ええ、と思わず小さく呟きながら机に突っ伏すが、彼女のおかげで気分は少し晴れやかになった。
でも、"また来ます"なんて直接冨岡さんに言えるだろうか。けれど、謝らないといけないのは確かだ。
グラスの底で、氷がひとつ、小さく音を立てて崩れる。

「…まあ、今日は休めたし良かったじゃない」
「そう、なのかなあ」
「毎日忙しいんでしょ。たまにはゆっくりしてね」
「…それは尾崎さんこそ。…でも、ありがとう。話聞いてくれて」

小さく呟くと、尾崎さんは「どういたしまして」と軽く笑う。その声につられて、私も少し顔を上げてへらりと笑みを浮かべた。
悩みそのものが消えたわけじゃないけれど、こうして誰かと声を交わせると、余計な力が抜ける。彼女がいてくれて良かった。
氷の溶ける音も、風の音も、どこか遠くて優しい。胸の奥のざわめきが、少しずつ静かに沈んでいく――そんなときだった。

――ぱさっ。
乾いた羽音が近くに落ちた。
視線を向けると、居間の開け放した障子から、黒い影がひらりと降り立つ。
艶のある羽。小さな黒い足。そして、見慣れた丸い瞳。

「あっ…睡蓮!」

思わず声が弾む。尾崎さんの鎹鴉だ。
体を起こすと、睡蓮はカアッと高く鳴いて、真っ直ぐこちらへ飛んできた。次の瞬間、私の膝の上を軽く蹴り、手の甲にちょこんと乗る。

「睡蓮、久しぶり…!どうしたの?」

かわいい。思わず姿勢がゆるむ。
今日はどんな用だろうと彼女の言葉を待っていると、睡蓮はカタカタと小さく首を揺らし、胸を張るように喉を鳴らした。
そして、妙に神妙な顔でこちらを見上げる。

「リサ、元気ナイ?」
「え?」
「ナサケ顔、シテル!」
「そ、そうかな…?」
「…ソンナ顔、嫌イ!シャントスル!ブッサイクニナルヨ!」
「……ぶ?え、ええ?」

開口一番に一体何なのか。睡蓮にまでそんなことを言われるとは思わず、肩ががっくりと落ちる。
私、そんなに情けない顔をしているのだろうか。鴉にまで喝を入れられるなんて。
隣で尾崎さんは口元を押さえて、明らかに笑いを堪えていた。

「す、睡蓮…そんなに言わなくても…」
「シャントスル!シャントスル!リサノ、メソメソ顔、嫌イ!逃ゲルナ!」
「うう……そんなの……知ってる……」

思わず項垂れると、尾崎さんが我慢できなかったようにくすくす笑い出した。

「言われちゃったね。睡蓮にまで」
「ほんとに……容赦ない……」

そう、睡蓮は容赦がなさすぎる。
いつもそうなのだ。鴉のくせに、人の心の急所だけ正確に突いてくるのはどういうわけだろう。
頭がいいからこそなのか、それとも生き物の勘みたいなものなのか。
なのに、不思議と腹は立たない。むしろ、図星すぎて反論の余地がなくなってしまう。
その時、睡蓮は私の手の上で羽をばさりと広げ、大きく息を吸い込んだ。

「尾崎!任務!!北北東!北北東ヘ急ゲ!――次ノ任務ハ、那田蜘蛛山!!」

鋭く澄んだ声が居間の空気を震わせた。
私が息を呑むより早く、尾崎さんの表情がきゅっと引き締まる。
睡蓮が羽を広げ、私の指から離れようと身をかがめた。

「急行セヨ!伝令!今スグ行ケ!」
「……わかった」

尾崎さんはすっと立ち上がり、日輪刀を腰に携えた。さっきまであんなに柔らかく笑っていたのに、それだけで凛々しく隊士の顔になっていく。
その変わり身の早さに胸の奥がひそかにざわついた。
まだ氷の残る麦湯もそのまま。さっきの会話の余韻もあたたかさも、ぜんぶここにあるのに。

「……いま、行くの…?」
「うん。すぐ向かわないと」

そう言って、尾崎さんは腰のベルトをきゅっと整え、道具袋を迷いなく手に取った。
ためらいが一切ない動きに、胸の奥がぎゅっと縮む。

「…そっか。行っちゃうんだね…」

小さく声が漏れる。
尾崎さんはちらりとこちらを振り返り、ふっと目元を柔らかくした。

「うん。行かないと、誰かが困るから」

そう言って笑った。
本当に任務って、こんなにも唐突なんだな。話の途中でも、日常の途中でも、情けなくて恥ずかしい私の悩みごとなんて、いとも簡単に飛び越えていく。
睡蓮も、もう飛ぶ準備をしていた。強い光を宿した瞳で尾崎さんを急かすみたいに羽を震わせて。

引き止めたいわけじゃないけれど、やっぱり寂しい。またしばらく会えなくなるんだろうな。
自分でも気付かない間に、しゅんとした顔をしてしまったのだろう。
尾崎さんは息をこぼすように笑って動きを止めると、おいでと言うように片手で私を手招きした。言われた通りトテトテと近づくと、私の頭にそっと手を置く。

「すぐ戻るよ。続きはまた今度ね。リサも今度ちゃんと冨岡さんに会いに行くこと。いい?」
「……うん。尾崎さん気をつけて……」
「任せて。気をつけるから、リサもあまり心配させないでね?」

尾崎さんが冗談めかしてそう言って、肩を軽く叩いた。その手が離れる瞬間、胸の奥がほんの少しだけ沈む。

「……あ、尾崎さん。門まで送る」

そう言って私も草履を履き、二人で中庭を歩く。
さっきまで居間に溶けていたあたたかい空気は、いつの間にか背中の方へ遠のいていった。
足音をひとつ鳴らすごとに、現実が少しずつ色を変えていく。
門の前に着くと、尾崎さんは足を止め、日輪刀の柄にそっと手を添える。睡蓮が肩にとまり、きゅっと爪を立てるように合図を送った。

「じゃあ、行ってくる」
「うん。いってらっしゃい」

その一言とともに、尾崎さんは迷いなく門の向こうへ歩き出した。
「滅」の入った隊士の背中はまっすぐで、いつもの尾崎さんより少しだけ遠い。
私はそのまましばらく立ち尽くしていた。見えなくなるまで、ただその背中を追って。
尾崎さんの姿が屋敷の前の道をまっすぐ進み、曲がり角でふっと途切れるように消えた時、シャラン───となぜかお揃いの首飾りが揺れた気がした。



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