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「えっ!しのぶさんも那田蜘蛛山に?」
驚きで声が上ずってしまい、私は慌てて自分の口を手で押さえた。
すっかり夜も更けた頃。あたりはすでに寝静まっているので、皆を起こしてしまわないように声を顰め直す。
「そっか……。急ですね」
お互いに寝支度を済ませたアオイさんと私は、台所で眠る前のささやかなお茶の時間を一緒に過ごしていた。
なんだか今日は、"蜘蛛"というおどろおどろしい言葉を、昼も夜も繰り返し耳にしている気がする。
「はい。本部に報告に向かわれていたのですが、その途中で急遽駆り出されたそうです」
アオイさんは落ち着いた声で答え、湯呑みに熱いお茶を注ぎ足した。
「今夜は戻れないと。しのぶ様から言伝がありました」
「……そう、なんですね」
那田蜘蛛山。その響きからして決して良い場所とは思えなかったけれど――まさか、柱であるしのぶさんまでが駆り出されるなんて。
以前、アオイさんが教えてくれたことがあった。『柱が出向くということは、それ相応に危険で、普通の隊士では太刀打ちできない場所なのだ』と。
そこへ、尾崎さんはいち早く向かって行ったわけだけれど…。大丈夫、かな。怪我をしたりしないだろうか。どうか無事でいてほしいと祈らずにはいられない。
湯呑みの縁に唇を寄せると、あたたかさが喉を通って落ちていく。そんな私の様子をじっと見ていたのか、アオイさんが視線を落としぽつりと口を開いた。
「……何やら、そこに水柱様も一緒に向かわれたとか」
「え?冨岡さんも?」
その名前に思わず過剰に反応してしまう。
アオイさんは私の動揺に特に気づいた様子もなく、手元を片付けながら静かに頷いた。
「はい。鎹鴉がそう報せてくれました。しのぶ様と同じく、おそらく本部に居合わせてそのまま現地へ向かわれたのだと思います」
しのぶさんだけでなく、あの冨岡さんまで。
「その山には、一体何がいるんでしょうね……」
アオイさんが珍しく、不安を滲ませた声で小さく呟く。
何がいるか、なんて…。考えただけで背筋に冷たいものが走る。鬼殺隊の最高戦力である『柱』が二人も同時に動かなければならないほどの場所。そこにいるのはきっと私たちの想像を絶するような、恐ろしい化け物に違いないのだ。
そんなどこか現実味を失うほどの脅威に圧倒されていると、アオイさんがさらに声を落としてぽつりと言った。
「……それから、カナヲもその山に向かったそうですよ」
「そうなんですか?」
珍しい。しのぶさんや冨岡さんのような最前線の柱だけでなく、まだ選別を終えて間もないはずのカナヲさんまで駆り出されるなんて。
「はい。しのぶ様が万が一のためにと直々に連れて行かれたそうです」
そう語るアオイさんの横顔は、いつもの厳しい雰囲気とはどこか違っていた。声にどこか冷めた色が混じっている。
「アオイさん……?」
心配になって声をかけたけれど、アオイさんはふっと顔を上げてこちらを見て笑った。
「明日から、あんまり忙しくならないといいですね」
「え?そ、そう……ですね……」
私も不思議に思いながらも微笑み返すと、アオイさんはそのまま手元の湯呑みを片付けはじめる。
大切な仲間たちがこれほど凄惨な戦地へ向かっている今、彼女のその冷え切った横顔を見ていると、何か別の私には分からない深い理由があるのだろう。
誰にだって、触れられたくない境界線はある。どんよりと沈みかけた空気を変えるように、私はあえて少しトーンを上げて、湯呑みを両手で包み直した。
「もしもの時のために、明日の朝はいつもより早く起きます」
私の言葉に、アオイさんは「ありがとうございます」といつもの彼女らしい微笑みを返してくれた。
お互いに冷めかけたお茶を飲み干すと、私たちは湯呑みを洗って台所の片付けを済ませた。天井の電球を落とすと、あたりは一瞬にして深い闇に包まれる。
廊下を渡る夜風はひんやりと冷たく、昼間の賑やかさが嘘のように静まり返った蝶屋敷。
「じゃあおやすみなさい、リサさん」
「おやすみなさい」
部屋の前で短く言葉を交わし、私は自分の部屋へと入った。布団に潜り込み、冷たい敷布に身を委ねて目を閉じる。
冨岡さんも、しのぶさんも、尾崎さんも、カナヲさんも。
みんな今、ここではないどこか遠い場所で私には想像もつかないような恐ろしい化け物と戦っているんだ。
明日、いつも通りの朝が来るのだろうか。それともアオイさんが懸念している通り、傷ついた人たちが次々と運び込まれてくるのだろうか。
どこか遠い場所で、運命の大きな歯車がゆっくりと回り始めたような――そんな気がしてならなかった。
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