28


廊下を戻りながら、私は今日のお昼の段取りについてぼんやり考えていた。
味噌汁の具は何になるだろう。アオイさんはもう下ごしらえを始めているだろうか。皆、私がまだ冨岡さんのところにいると思っているだろうから、台所へ行ったらびっくりするだろうな。
そんな取り留めのないことを頭の中で並べながらも、浮かんでくるのは尾崎さんの背中だ。
…大丈夫かな。任務の前だったのに、私のしょうもない相談事に時間を取らせてしまった。ちゃんと間に合うだろうか。迷惑とまではいかないだろうけれど、ちょっとだけ申し訳ない。
でも、きっと彼女なら大丈夫だろう。誰よりも優しく、凛々しく、そして強い。そう思ったら、胸の奥のざわつきもすっと静まった。
角を曲がったところで、蝶の紋様の羽織が視界にふわりと入り込んでくる。

「……あ、しのぶさん」
「あら、リサさん。冨岡さんのところから随分と早いお戻りですね」

通りがかりのしのぶさんが、優しい目元でこちらを見て立ち止まった。普段と同じ穏やかさなのに、どこか見透かされているように感じてしまう。

「え?あ、えっと…はい。今日は、その……お手伝いすることが少なくて……」

言った側から、声に動揺が含まれているのが自分でもわかった。嘘をつくとき特有の、胸のあたりがちくりとするような感覚が広がる。
けれど、しのぶさん相手に"冨岡さんのところから逃げ帰ってきました"なんて言えるはずもなく、曖昧な笑みを貼りつけるしかない。

「まあ。そうでしたか」

微笑んだしのぶさんは、どこか含みのある視線を向けてきた。

「嫌なことは嫌、困ったことは困ったと。きちんと伝える方が双方のためになりますよ」
「………は、はい」

それを言われるべきなのは冨岡さんではなく、私なのだけれど。
なんだか、全部バレているような気がする。しのぶさんは、何も言わなくても気づく人だ。そう思ったら余計に目が合わせられなかった。

「…あの、しのぶさんは、今からお出かけですか?」
「ええ。これから本部に少し用事があって。報告もありますし」
「そうだったんですね…。尾崎さんもさっき伝令を受けて任務に行ってしまって…」

みんな、本当に忙しいんだな。
任務は唐突で、容赦がない。笑っていた次の瞬間には、命を懸ける場所へ向かわなくてはいけない。
そんな世界で皆が戦っていることを思うと、心配が喉の奥に沈んだまま固まる。

「…私も、できることを頑張ります。さっそく昼餉の準備に取り掛かりますね」

少しでも動いていないと、この落ち着かない気持ちが顔に出てしまいそうだった。しのぶさんはそんな私を見て、どこか心配そうに眉尻を下げる。

「…リサさん。頑張りすぎも禁物ですよ。あなたは、休むことをもっと覚えてください」
「えっ、私、充分お休みいただいてますよ?」

言いながら、なぜか笑ってしまった。忙しさの筆頭みたいなしのぶさんがそんなことを言うから、なんだか可笑しかったのだ。

「じゃあ、もう少し自覚していただけると嬉しいですね。あなたは自分のことを疎かにしがちなので」

穏やかな声なのに、なぜか逆らえない重みがある。思わず返事が詰まってしまい、私は首をすくめた。

「……そう、ですかね」
「ええ、私としてはもっと甘えてくれると嬉しいのですが」
「あ、甘える?私がですか?年下のしのぶさんに?」

自分でも変なところで裏返った声に戸惑う。でもしのぶさんはくすりと笑うだけで、首を傾けた。

「あら、年齢がすべてではないのですよ」

その一言が、胸のどこかにそっと触れる。
確かに、この屋敷で過ごすようになってから、“年上”“年下”なんて区切りが、ほとんど意味を持っていなかった。
しのぶさんは私より若いのに、誰よりも落ち着いていて、この場所の流れをきちんと支えている。アオイさんも三人娘も、年齢なんて関係なく、それぞれの役目をしっかり担っている。
年齢だけを理由に壁を作っていたのは、私だけだったのかもしれない。

「…あなたを甘えさせるのには一苦労しそうですね」
「えっ、あ…あの、そんなつもりは……」

しのぶさんは困った人を見るような、でも優しい色を宿した目でこちらを見た。

「ふふ。そうやって“平気です”と笑うのは、もう癖のようなものですね」
「……しのぶさんって、本当に人のことよく見てますよね」

ぽつりと言うと、しのぶさんは「責任がありますから」と、軽やかに返した。

「まあ、尾崎さんがいるなら私は必要ないかもしれませんが」
「そんな……」

こんなふうに気遣われるのに、まだ上手に返せない自分が情けなくもあり、でもどこか救われる。
尾崎さんや、しのぶさん。困ったときに手を伸ばすと、必ず受け止めてくれる。そういう存在が側にいることがどれほど有り難いか。

「そんなことありません。私、しのぶさんにもたくさん甘えさせてもらっています」

言葉にすると、少し胸が軽くなった。嘘でもごまかしでもない。本当に、そう思っているからだ。
しのぶさんは目元をやわらかくして、ひとつ小さく頷いた。

「ふふ、それなら良かったです。…では、行って参りますね。帰ったらまたお話しましょう」
「は、はい。お気をつけて……!」

蝶の紋が揺れ、軽やかな足取りで廊下の先へ進んでいく。その姿がだんだん小さくなって、玄関の向こうへ消えるまで、私はぼんやりと見送っていた。
ふっと息を吐くと、胸の奥が少しだけ軽くなる。しのぶさんも、尾崎さんも、それぞれの道へ向かっている。私も私の場所で、できることをしたい。

「……よし。まずはお皿洗い」

ひとつ気持ちを整えてから、私は台所へ向かって歩き出した。









「え?しのぶさんも那田蜘蛛山に?」

思わず声が上ずった。湯気の立つ湯呑みを両手で包んだまま、私はアオイさんの顔を見つめる。
夜の台所は、昼の慌ただしさが嘘みたいに静かだった。電球の淡い光がぽうっと広がり、壁の影だけがゆっくり揺れている。
そんな中でお互い寝支度を済ませた私たちは、眠る前のお茶を一緒にしていたわけなのだけれど。
なんだか今日は、“蜘蛛”って言葉ばかり耳にしている気がする。

「はい。本部に報告に向かわれていたのですが、その途中で急遽駆り出されたそうです」

アオイさんは落ち着いた声で答え、湯呑みに熱いお茶を注ぎ足した。ふわりと漂う薬草茶の香りが、夜気に溶けてゆく。

「今夜は戻れないと。隊士たちの食事や部屋の管理をお願いしますと、しのぶ様から言伝がありました」
「……そう、なんですね」

つい数時間前、廊下で会ったばかりだったのに。
那田蜘蛛山。その響きからして良い場所とは思えなかったけれど――柱が駆り出されるなんて聞いたのは初めてだ。
以前、アオイさんが言っていた。"柱が出向くということは、それ相応に危険で、普通の隊士では太刀打ちできない場所"だと。十二鬼月――その言葉が頭の奥で淡く響く。
そこへ、尾崎さんはいち早く向かって行ったわけだけど。任務の前に、あんなに私の相談に付き合ってくれて。笑って。“すぐ戻るよ”なんて言って。あんなに凛々しく背中を向けて行った。
…大丈夫、だよね。湯呑みの縁にほんの少し唇を寄せると、あたたかさが喉を通って落ちていく。何となく落ち着くけれど、不思議とざわつきだけは沈まなかった。
そんな私を見ていたのか、アオイさんがぽつりと口を開く。

「…何やら、その場にいた水柱様も一緒に向かったとか」

湯を飲む手が、途中で止まった。

「……え?冨岡さんも?」

その名前に思わず反応してしまい、胸の奥がきゅっと締まる。アオイさんは特に驚いた様子もなく、静かに頷く。

「はい。鎹鴉がそう報せてくれました。おそらくその場に居合わせて、そのまま向かわれたのだと思います」

ぽたり、と湯呑みの中の湯がほんの少し揺れた。
…冨岡さんまで、その山へ。柱が二人も同じ場所に向かうなんて、そんなことめったに聞いたことがない。

「あ、カナヲも向かったそうですよ?」
「え、カナヲさんも?」

そう言って、アオイさんが静かに湯をすする音が、やけに大きく響く。
皆、あの山へ──。胸の中に、じわりと広がるざわめき。
柱が二人。継子のカナヲさんまでいて。尾崎さんも、他の隊士たちも、きっと総動員で向かったのだろう。
そんな規模のことが起きているなんて、昼間の穏やかな風景からは想像もできなかった。
夜の帳が落ちた台所の明かりが、湯気の輪郭をぼんやり照らす。こんな時、屋敷の中は静かなのに、遠くのどこかだけが騒がしいように感じる。

「……明日から、また忙しくならないといいんですけど」

ぽつり、とアオイさんが呟いた。“忙しい”が意味するのは、怪我を負った隊士が運ばれてくるということだ。
私は湯呑みをそっと見下ろし、小さく息を落とした。

「……そうですね」

どこか遠い場所で、大きな歯車がゆっくり回りはじめたような──そんな気配が、なぜだか消えなかった。



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