29
翌朝。望んでいなかった光景が、蝶屋敷いっぱいに広がっていた。静かな朝になるはずだったのに、廊下には走る足音が途切れず、空気だけがひどくざわついている。
そこでは、すでに何人もの“隠”が行き交っていた。担架を抱え、薬箱を提げ、声はみな切迫している。私も慌てて髪を結い直し、足元を確かめながら後を追った。
「こんなにたくさん…」
思わず息が漏れた。
病室の扉が開け放たれ、そこには次々と運び込まれてくる隊士たちの姿があった。寝台に並べられた布団の上は、もうほとんど埋まっていて、それでも空いた端にまた担架が滑り込んでくる。
「はい、こっち運んでください!その方はあちらへ」
奥のほうでアオイさんの声が飛ぶ。その横では、三人娘が水の入った桶や煎じた薬湯を運んで走り回っている。私もできる限りのことをしようと、その後を追った。
それにしても、どの隊士の怪我もひどかった。血が滲んだ傷だけじゃない。皮膚が硬く変色していたり、指先が別の生き物みたいに形を変えかけている人までいる。
中には、もう少し遅ければ完全に蜘蛛にされていたかもしれない、という人までいた。
本当に、あの山の名の通りだったのだろうか。蜘蛛を思わせる鬼がいて、人をあんなふうに変えてしまうなんて。
鬼の血鬼術が原因らしい。そんな力があること自体、ただ恐ろしくて、ぞくりと背中を撫でられたみたいに寒気がした。
それでも、運び込まれた人たちが助かる見込みがあるのは――全部、しのぶさんの薬のおかげだ。調合した薬で鬼の術を解くことができるなんて、本当にすごい。アオイさんも、しのぶさんの指示を受けなくても大体の薬の煎じ方を分かっていた。
その事実が、混乱した朝の中で唯一の救いだった。
お昼頃になると、ようやく人の流れが少し落ち着いてきた。
朝のあの息つく暇もない慌ただしさが嘘みたいに、廊下にはぽつぽつと静けさが戻りつつある。
とはいえ、落ち着いたのは動きだけで、胸のざわつきはまったく引かない。
私は新しくお湯を張った桶を抱えて奥の病室へ向かっていた。ゆっくり歩けば水面が揺れる。そっと支え直しながら、深く息を吸う。
「…こんなにひどい任務だったなんて」
鬼にされかけた人、体の一部だけ変わりかけたまま戻らない人。まだ意識がない人。
那田蜘蛛山がどういう場所だったのか、想像するだけで喉がひりつく。
そして、そこに尾崎さんも、しのぶさんも、冨岡さんも、カナヲさんまで向かっていたのだと思うと、胸の奥でひっそりと締めつけるものがあった。
助かった人がいるなら、その裏で、助からなかった人もいるのだろうか。柱が二人も向かった場所なら…。
そんな思いを抱えたまま病室の戸口に差し掛かった、その瞬間だった。
「五回!?五回飲むの?一日に!?」
甲高い叫び声が響き、私は思わず足を止めた。
桶の湯がぴしゃりと揺れる。
「な、何ごと…?」
顔を向けると、入院服を着た少年が布団の上でわんわん泣きながら、きよちゃんにしがみついていた。
きよちゃんは困った笑顔で「静かにしてください…」と必死になだめている。
「三か月間飲み続けるの?この薬!?これ飲んだら飯食えないよ〜!!すげえ苦いんだけど!つらいんだけど〜!!…っていうか薬飲むだけで俺の腕と脚、治るわけ!?ホント?ねえホントに治るわけ!?」
怒涛の勢いで泣き喚いていて、私は呆気にとられて彼を見つめてしまった。さっきまで重い空気ばかりだったから、この騒がしさが逆に現実感をもたらしてくれる。
薬がとても嫌いな人らしい。賑やかな人が来たものだと改めてその姿をよく見てみると、その少年はとても目立つ外見をしていた。
日の光をそのまま閉じ込めたみたいな黄色い髪は、生まれつきなのか分からないほど派手に跳ねていて。布団の上でばたばた暴れる服の袖が揺れている。
見た目だけなら元気そのものなのに、命を落としてもおかしくない場所から戻ってきた人なのだと思うと、なんとも言えない気持ちになる。
桶を抱えたまま立ち尽くしていたら、背後でそっと影が揺れた。
「……まだ騒いでるの?あの人」
ぬっと現れたアオイさんが、心底呆れたような声で病室に入って来た。
きよちゃんの前で少年がガタガタ震え続けているのを見て、アオイさんの眉がぴくりと上がる。
「ねえ!俺の腕と脚!腕と脚どうなるの!?」
「静かになさってください!!」
「ねえ!ねえ〜!!」
「説明は何度もしましたでしょう?いい加減にしないと縛りますからね?!」
びしり、とアオイさんの声が部屋に響く。
少年はびくっと跳ねて、なぜかさらにガタガタと震え出した。
「まったくもう……」
アオイさんが大きくため息をつく。肩がわずかに落ちたその仕草が、あまりにもいつも通りで、思わず苦笑がこぼれた。
なんだか、日常が戻ってきたみたいだ。蜘蛛の話ばかりで息が詰まりそうだったけれど、彼とアオイさんのやり取りに少し緊張が緩む。
「リサさんも行きましょう」
「あ……」
そう言って、アオイさんの手が私の袖口をそっと引いた。私は桶を持ち直しながら、引かれるがまま出口へ向かう。
「善逸!」
その時。後ろでは、隠によってまた新しい隊士が運びこまれて来たようだった。少し振り返ると、その背中から降ろされた少年が痛みに顔を歪めながらも、黄色い頭の少年に手を伸ばしている。
どうやら知り合いらしい。
「うわあん!炭治郎!聞いてくれよ〜」
再会を喜ぶ声が、病室の空気を一気に明るくする。泣き笑いで手を伸ばすふたりの姿が小さく揺れて、しばらくその光景が目に残った。
*
裏庭の物干し場はめずらしく慌ただしかった。
隊士が何人も運び込まれて来たせいで、敷布が足りなくなりそうだったのだ。急遽、アオイさんと三人娘とで洗濯に取り掛かっていた。こんな夕方に洗濯を干して間に合うのかと心配だが、とりあえず手を動かすしかない。
こんなこと初めてで、少し気持ちが動揺してしまう。蝶屋敷には日々いろんな隊士が出入りするけれど、それでもこれほど一度に人が運ばれてくることはほとんどない。
こういう日が、今までも何度かあったのだろうか。アオイさんや三人娘は慣れているようにも見えるし、でもどこか焦りも混じっているように思えて、私も胸の奥で細い糸がぴんと張る。
袖をまくり直し、敷布をぎゅ、と絞る。物干しにかけて次の一枚を手に取ったとき、ふと口を開いていた。
「しのぶさんは、今日はまだお戻りじゃないんですか?」
そういえば、まだ姿を見ていない。
カナヲさんは夜明けに怪我ひとつなく帰ってきたらしいが、しのぶさんはどうしたのだろうとふと気になったのだ。
手を止めずに尋ねると、アオイさんは一度だけ布を強く絞り、こちらに顔を向けた。
「しのぶ様なら、柱合会議に行かれましたよ」
「……柱、合会議?」
聞き慣れない響きに、思わず首を傾げた。するとアオイさんは、あ、と柔らかな声を漏らし、少し笑って言った。
「そうでしたね。リサさんがこちらに来られてから、柱合会議が開かれるのは初めてでした。半年に一度ほど行われる、柱が一堂に会する会議のことです。任務の報告や、今後の方針の確認、鬼の動向についての共有とかを行ってるみたいですが…」
「へ、へえ。半年に一度……柱が全員……」
そんな会議があったなんて。ここで過ごしていても、まだまだ知らないことがたくさんあるな。
じゃあ、そこに冨岡さんも絶対にいるよね。
今頃、どんな話をしているんだろう。那田蜘蛛山のことだって、きっと議題に上がっているはずだ。何人も隊士が運ばれてきたし、しのぶさんや冨岡さんみたいな柱がどう動いたのか、詳しい報告もあるのだろう。
絞った布を物干しに掛けながら、胸の内側だけがそわそわと落ち着かない。柱たちだけの会議なんて、きっと厳しい雰囲気なんだろうな。
…そういえば、尾崎さんの姿もずっと見てない。
朝から屋敷中が慌ただしくて、それどころではなかったけれど、怪我をして運び込まれて来た様子もない。
いつもは任務終わりにふらりとその姿を見せてくれるのに、今日に限ってまったく気配がない。
「アオイさん、あの…尾崎さんは見ませんで――」
アオイさんは何か知ってるだろうかと、ふと問いかけた時。
「神崎さん!こちらお願いします!」
隠のひとりが駆け寄ってきて、アオイさんは「はい、今行きます!」とすぐに動き出してしまった。
私の言葉は、洗い場の水音に紛れてそのまま宙で途切れる。残された私は、絞りかけの敷布を見つめたまま小さく息をついた。
今、アオイさんは大忙しだ。私のことで面倒をかけるわけにはいかない。…それに、尾崎さんがここに運び込まれていないってことは、無傷なんだろう。
良かった。そうだよね、きっと無事に任務を終えたんだ。
もしかしたら、もう別の任務に向かったのかもしれない。那田蜘蛛山から戻ってきた隊士がこんなに多いのなら、人が足りなくなるのは当然だ。尾崎さんのように動ける人は、すぐに次の現場へ向かわされたのかもしれない。
そう考えれば、姿が見えない理由なんていくらでも思いついた。今頃、誰かに肩を貸して走っているはずだ。
…さすがだな、尾崎さん。と私は心の中で呟いた。
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