29


翌朝。望んでいなかった光景が、蝶屋敷いっぱいに広がっていた。

「はい、こっち運んでください!その方はあちらへ」

廊下に、早朝からアオイさんの声が飛ぶ。その指示を受けて、てきぱきと患者さんを搬送する隠の皆さん。
その周りでは、きよちゃん、すみちゃん、なほちゃんの三人が水の入った桶や湯気を立てる薬湯を抱えて必死に走り回っている。私もただ突っ立っているわけにはいかないと、包帯や入院服を持ってその後を追った。

それにしても、運び込まれてくるどの隊士の怪我もあまりにひどかった。
何かで斬られたような血が滲んだ傷だけじゃない。皮膚が紫色に硬く変色していたり、指先が別の不気味な生き物みたいに形を変えかけている人までいる。
中には、治療がもう少し遅ければ、完全に蜘蛛にされていたかもしれないという人までいた。
本当に、あの山の名の通りだったのだ。蜘蛛を思わせる鬼がいて、人をあんなふうに変えてしまうなんて。鬼の"血鬼術"が原因らしいけれど、人間の身体を異形のものへ作り替えてしまうような力があること自体、ただただ恐ろしくて背筋が寒くなるのを抑えられなかった。

それでも、こうして次々と運び込まれた人たちが助かる見込みがあるのは――全部、しのぶさんの薬のおかげだ。鬼の術を解くことができる薬なんて、一体どうやって作ったんだろう。しのぶさんの医療の知識と技術は、本当に計り知れないほどすごい。
そしてそのしのぶさんの指示がその場になくても、アオイさんは大体の薬の煎じ方を完璧に分かっていた。
彼女が的確に動いてくれるからこそ、私たちも安心してついていける。少しでも早くみんなが元の姿に戻れるように、私は歯を食いしばって、次の治療へと向かうために腕の荷物を強く抱え直した。





お昼頃になると、ようやく人の流れが落ち着いてきた。
ひっきりなしに続いていた負傷者の搬入が途切れ、廊下をドタドタと行き交う足音も今はいくらか静かになっている。
私は額ににじんだ汗を袖で拭い、ようやく一つ大きな息を吐き出した。気がつけば、朝からまともに座る時間さえなかった。
一時はどうなることかと思ったけれど、アオイさんの迅速な指揮と、しのぶさんがすでに山で調合してくれた薬のおかげで、ひとまずは全員への応急処置が行き届いた。なんとか最悪の事態は免れたのだと思う。

「リサさん、お疲れ様です。アオイさんが、これを運び終わったら少し休んでくださいって」

すれ違いざまに、なほちゃんがそう言って台車から新しい敷布の束をいくつか分けてくれた。私はそれを受け取り、「ありがとう」と声を返す。
こうして、最後に残った一番奥の病室へ向かいながら、私は改めて今回の事態の異常さに思いを馳せていた。
こんなにひどい任務だったなんて。これほど多くの負傷者が出て、ここにやっとの思いで辿り着き、助かった人がいる。……なら、その裏で、ここへ運ばれることすら叶わず、助からなかった人もいるのだろうか。
そんな簡単には拭いきれない思いを胸に抱えたまま、一番奥の病室の戸口に差し掛かった、その瞬間だった。

「五回!?五回飲むの?一日に!?」

静かになりかけていた屋敷に、ひどく甲高い叫び声が響き渡った。

「三か月間飲み続けるの?この薬!?」

何事だろう。
部屋の中から聞こえてくる必死さに戸惑いつつも、様子を確かめるために引き戸をそっと開けた。

「これ飲んだら飯食えないよ!!すげえ苦いんだけど!つらいんだけどっ!!」

なにか、ものすごく薬を飲みたくない方がいらっしゃる…?
思わず引き戸を握ったまま、私はその光景をまじまじと見つめてしまう。
寝台の上で大騒ぎしているのは、パッと目を引くような、太陽みたいに鮮やかな黄色の髪色をした男の子だった。入院服を着たまま、彼は大粒の涙をぼろぼろと流しながら、ベッドの脇に立つきよちゃんに必死にしがみついている。

「…っていうか薬飲むだけで俺の腕と脚、治るわけ!?ホント?ねえホントに治るわけッ!?」

泣きつかれているきよちゃんは、薬の入った湯呑みを両手でしっかりと掲げたまま、「静かにしてください…他の患者さんの迷惑になりますから…」と、困り果てた顔で必死になだめていた。けれど男の子の凄まじい声量と涙の勢いに押され、なかなか薬を飲ませられずにいる。
見れば、彼の片方の腕と脚にはきつく包帯が巻かれていた。蜘蛛の毒のせいで、身体が縮みかけていた隊士の一人なのだろう。
だが本人はそれどころではないといった様子で、この世の終わりのように叫び続けている。

「……まだ騒いでるの、あの人」
「アオイさん」

声がして後ろを振り返ると、戸口に立っていたのは不機嫌そうに眉をひそめたアオイさんだった。両手を腰に当て、呆れた視線を彼に向けている。
アオイさんはそのままため息をつくと、彼の寝台へとツカツカと近づいていった。

「ねえ!!俺の腕と脚!腕と脚どうなるの!!?」
「静かになさってくださいっ!!」

ピシャリと言い放つアオイさんの声が響く。

「ねえ!ねえーっ!!元に戻るんだよね!?前みたいにちゃんと動かせるようになるんだよね!?」
「説明は何度もしましたでしょう?いい加減にしないと縛りますからね!?」

アオイさんが懐から予備の包帯をきつく引き絞ってみせると、彼はひっと短い悲鳴を上げてようやく寝台の中に縮こまった。

なんだか、ものすごく賑やかな人が来たみたいだ。鬼殺隊って、本当に色んな人がいるんだな。
これまでに蝶屋敷で見てきた隊士の皆さんは、じっと痛みに耐えるような人が多かったから、なおさら新鮮に思えてしまう。
鬼と戦う人たちだからって、みんながみんな強靭な精神の持ち主というわけじゃないのかもしれない。それにしても、目の前の彼はちょっとキャラクターが濃すぎる気もするけれど。
でも、それだけ感情を爆発させられるのは、見ていてどこかホッとするようなところもあった。

「いいですか、その薬を飲み終わるまで私はここを動きませんからね?」

アオイさんは予備の包帯を懐にしまうと、そのまま寝台の脇で腕を組み、仁王立ちになった。
その容赦のない監視の目に、金髪の男の子は「ひええぇ…」と情けない声を漏らしながら、涙目で湯呑みに口をつけ始めている。
元気いっぱいで何よりだ。そんなやり取りに私は思わず小さく苦笑しながら、その傍らに佇んでいたきよちゃんの元へと歩み寄った。

「きよちゃん、お疲れ様。これ新しく持ってきた敷布だよ」
「あ、リサさんありがとうございます……っ」

声をかけると、きよちゃんはどこか困ったような笑みを浮かべて敷布を受け取ってくれた。
彼女の苦労を労うように小さく肩をすくめて見せていると、また廊下の奥からパタパタと足音が近づいてくる。

「失礼しまーす。最後の負傷者の搬入です」

戸口に現れたのは、これまたボロボロに傷ついた一人の隊士をおぶった隠の後藤さんだった。背負われている男の子も、どこか疲れ果てた様子でぐったりとしている。

「あ、はい!こちらの空いている寝台へ運んでください!」

アオイさんがさっと指示を出すと、後藤さんは「失礼します」と手際よく男の子を寝台の近くへと下ろす。

「善逸……?」

その時、寝台に横たえられたばかりの男の子からどこかホッとしたような声が響いた。
その声に反応して、それまで涙目で薬を睨んでいた金髪の彼が弾かれたように顔を跳ね上げる。

「たん、治郎?」
「善逸!大丈夫か?怪我したのか?山に入って来てくれたんだな」
「たん…っ、うわあ炭治郎ーーっ!!聞いてくれよおお!!」

どうやら二人は、あの那田蜘蛛山を共に戦い抜いた友人であるらしい。
そんな二人のどこか騒がしくも温かい感動の再会を眺めながら、私やアオイさん、きよちゃんは残りの隊士の手当を済ませる。

「臭い蜘蛛に刺されるし、毒ですごい痛かったんだよ〜!さっきからあの女の子にガミガミ怒られるしさあ」
「ん?善逸……なんかちっちゃくないか?」
「うぐっ…、蜘蛛になりかけたからさあ、俺。腕と脚が短いままでさ」

そういえばさっき、後藤さんが「最後の負傷者」と言っていたけれど…。ひっきりなしに運ばれてくる負傷者たちの中に、尾崎さんの姿はなかった。
最後の搬入が終わったということは、彼女はここに運ばれるような大怪我を負うこともなく、無事にあの山を生き延びたということだ。
よかった…。無事、なんだ。張り詰めていた緊張がようやく解けていく。

「お喋りはそこまでにして、ちゃんと薬を飲んでください!」

アオイさんの容赦のない一喝が響き、善逸くんがまた「ひええっ!」と情けない声を上げた。









夕陽が蝶屋敷の庭を橙色に染め上げる頃、私は三人娘のみんなと並んで、庭の物干し台の近くで洗濯物を干していた。
ひっきりなしに続いた負傷者の受け入れもすっかり落ち着き、乾いた敷布や晒しを一枚ずつ丁寧に伸ばしていく。

「しのぶさんは今日はまだお戻りじゃないんですか?」

ふと気になって、隣で大きな籠を抱えていたなほちゃんに声をかけた。
そういえば、まだ姿を見ていない。那田蜘蛛山へ一緒に向かったカナヲさんは、夜明けに怪我ひとつなく無事に帰ってきたとアオイさんから聞いたけれど、しのぶさんはどうしたのだろう。

「しのぶ様なら、柱合会議に行かれましたよ」
「……ちゅう、合会議?」

聞き慣れない不思議な響きに、私は手を止めて思わず首を傾げた。

「あ、そうでしたね。リサさんがこちらに来てから、柱合会議が開かれるのは初めてでした。半年に一度ほど行われる、柱が一堂に会する会議のことです。任務の報告や、今後の方針の確認、鬼の動向についての共有とかを行ってるみたいですよ」

すみちゃんが物干し竿に敷布を掛けながら、分かりやすく教えてくれる。

「へ、へえ。半年に一度……柱が全員……」

そんな大きな会議があったなんて。ここで暮らすようになってしばらく経つけれど、この組織のことで、まだまだ私の知らないことがたくさんあるなと改めて実感する。
柱が全員、ということは――そこに冨岡さんも絶対にいるよね。今頃、どんな話をしているんだろう。

「その会議ってどこで開かれてるの?」
「お館様の広ーいお屋敷です。私たちは入ったことがないんですけれど……」
「へえ……。お館様って?」
「この鬼殺隊のすべてを率いてくださっている、一番偉いお方です」

きよちゃんが物干し籠から次の洗濯物を取り出しながら、尊敬の念を込めた声で教えてくれる。

「鬼殺隊の、一番偉いお方……」

そうだよね。考えてみれば、あれだけたくさんの隊士がいて、毎日あちこちで鬼と戦っているのだ。大きな組織を動かしているのだから、それを一つにまとめ上げる中心人物がどこかにいるのは当然のことなのかもしれない。
一体どんな人なんだろう。あれこれと想像は膨らむけれど、どれも現実味がなくてどこか雲の上の存在のようにも思えてしまう。
まあ、私みたいな蝶屋敷の下働きがお会いすることなんて一生ないだろうけど。

「そういえば……」

ふと思い出して、私は手を動かしながら三人娘の方を振り返った。

「今日、私宛てに何か手紙とか届いてなかった?」
「えっ、手紙ですか?」

私の言葉に、なほちゃんが不思議そうに首を傾げる。

「うーん、見てないですね……。今日届いたのは全部しのぶ様からの伝言や、お薬の注文の書状だけだったと思います」
「アオイさんもそれしか受け取ってないって言ってました」

きよちゃんとすみちゃんも、記憶を辿るようにしながら教えてくれた。

「どうしてですか?誰かから届く予定でもあったんですか?」
「あ、ううん。届いてないなら全然いいの。ちょっと気になっただけだから」

心配そうに見上げてくるみんなに、私は「ありがとね」と小さく微笑み返した。
届いてない、か…。本当は尾崎さんから無事を知らせる手紙の類が届いているかもしれない、とほんの少しだけ期待していたのだ。
あれだけ凄惨な任務だったのだ。彼女のことだから私が心配しているかもしれないと思って、無事だよと一筆送ってくれてもおかしくない気がしていた。
でも、届いていないということは…きっと、息をつく暇もないくらい、すぐにまた次の任務へと向かって行ってしまったのだろう。私たちはいつだって、明日の命すら分からない世界に生きている。
どうか、次の場所でも無事でいてね。私は心の中でそっと祈りを捧げると、冷たくなってきた風を頬に受けながら、残りの洗濯物を物干し竿に掛けていった。




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