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意気込んで「何でもやります」と引き受けたものの、現実はそう甘くはなかった。
道具のひとつひとつが、私の知っている形とあまりにかけ離れていたからだ。
台所に行けば、ガスコンロの代わりに煤けたかまどが鎮座していた。火を起こそうにもマッチの擦り方すらぎこちなく、息を吹き込む竹筒の扱いにも手こずって、あっという間に煙に巻かれて涙目になる。
洗濯板でゴシゴシと布を擦れば、この寒さで指先は何度も感覚を失った。
掃除をしようと手に取った箒も、向こうの世界の軽やかなプラスチック製とはまるで違う。雑巾がけひとつ取っても、板張りの節に引っかかっては前のめりに転びそうになる始末だった。
「あの……アオイさん、これはどうやって使うんですか?」
「それは火吹き竹です。灰が舞い上がらないように、炭の根元へ向けて細く息を吐くんですよ」
「アオイさん、この洗濯板は……」
「波状のところに衣類を押し当てて、体重を乗せながら擦るんです」
毎日、何十回と名前を呼んで教えを乞う。
こんなことも分からないのかと呆れられてもおかしくないのに、アオイさんはそのたびに手を止め、嫌な顔ひとつせずに手本を見せてくれた。
「……リサさん、無理しなくても大丈夫ですよ」
「い、いえ!できます、教えてください」
時々、アオイさんは心配するようにそう言ってくれたけれど、慌てて怪我だらけの手を後ろに隠し、必死に食い下がる。
役立たずの居候にだけはなりたくなかった。命を救われ、居場所をもらい、着るものまで与えてもらったのだ。せめて手足を動かして、恩を返さなければ。
けれど、気持ちばかりが空回りして、体は一向に追いつかない。現代の便利な暮らしに甘えきっていたツケが、ここにきて一気に回ってきていた。
けれど、それ以上に私を悩ませたのは、言葉の壁だった。同じ日本語を話しているはずなのに、微妙に話が噛み合わない。
「リサさん、お勝手の奥にある行灯に油を差してきていただけますか」
「……あんどん、ですか」
「すりこぎは水屋箪笥の二段目に入っていますよ」
「みずや……?」
「ご不浄のお掃除をお願いしたいんですけど」
「ごふ……?」
聞き慣れない言葉を耳にするたび、会話のテンポが一拍遅れてしまうのだ。
台所の手伝いにと開いた帳面のような料理本も、私にとっては暗号でしかなかった。
墨で達筆に書かれた旧字体や見慣れない漢字。
「匙」や「匁」で記された分量。「塩梅」や「一煮立ち」といった感覚的な表現ばかりで、まったく歯が立たない。
「リサさん、読めませんか?」
「あ……はい、少し崩し字が難しくて……」
本当は崩し字以前に、漢字そのものが読めない。十九歳にもなって、自分の国の文字すら満足に読めないなんて。
生きるための知恵も、生活の基礎も、私は何ひとつ持っていない。ただただ周りの優しさに甘え、手を引かれてよちよち歩きをしているだけの赤ん坊と同じだった。
夕暮れ時、橙色に染まる長い廊下を雑巾掛けしながら、小さく息を吐き出す。膝をついた板張りの冷たさが、じわりと着物越しに染み込んできた。
誰もいない静けさに耐えかねて、私は思わずその場にしゃがみ込み、揃えた膝の上へと顔を埋める。
「……寂しい」
元の世界に戻りたいわけじゃない。事故の瞬間の恐怖や、置き去りにしてきたものを思えば、戻る場所なんてどこにもないのだと分かっている。
けれど、あまりに自分が無力すぎて、時折どうしようもなく泣きたくなるのだ。
「……だめだめ。泣いてる場合じゃない」
両手でぱんっと自分の頬を叩き、強引に顔を上げる。
慣れない道具や言葉に振り回される日々だけれど、それでもこの数日で分かったことだってちゃんとある。
ここは、おそらく大正時代。教科書や映画の中でしか知らなかった遠い過去の日本に、私は今、生きているのだ。
そして、この屋敷に時々漂う緊張感。夜になると張り詰める空気。そして、運ばれてくる人たちの尋常ではない大怪我の数々。
その正体についても、少し前にアオイさんが教えてくれた。
『リサさんはどちらから来られたのですか?』
『えっと、都会から、です。気づいたらここにいて……』
その時の会話を思い返しても、自分でも要領を得ない答えだと思った。けれど、その時の私にはそう答える以外にどうしようもなかった。
『私と似たようなものですね。ここがどういう場所か、説明はお聞きに?』
『あ、はい。ここは療養所であると聞きました。でも、詳しいことはまだ……』
『そうですか。たしかに、ここは怪我や病気をした方を看病する場所ですが、ただの療養所ではないんです』
『ただの療養所、ではない?』
『はい。ここに運ばれてくるのは、鬼殺隊の方々ですから』
『きさつたい……?』
あの日、胡蝶さんの口からも聞いたその言葉。意味も分からず頭の片隅に引っかかっていた不穏な響きに、思わず問い直していた。
『あの、アオイさん。きさつたいって、どういう字を書くんですか?』
『鬼を殺す隊士です』
迷いのない声で告げられたその言葉を、私は今でも鮮明に覚えている。
鬼を、殺す。ここは、鬼を滅殺する人たちが集まる組織らしい。
たった百年ほど時代が違うだけで、おとぎ話や絵本の中でしか存在しないはずの怪物が、ここには本当に息づいているというのだろうか。
夜になれば人を喰らう鬼。それを討つために結成された組織。平和な時代で生きてきた私にとっては、まるで物語の世界に迷い込んでしまったかのような話だった。
それでも、日々運び込まれてくる隊士たちの深く裂かれた傷跡は、決して作り話なんかじゃないのだと痛いほどに物語っていた。
雑巾を持ったまま、私は縁側へと腰を下ろした。茜色に染まる庭の池では、数匹の鯉がゆったりと水面を揺らしている。
「リサさん」
ふいに背後から掛けられた声に振り返ると、そこには胡蝶さんが立っていた。
「胡蝶さん……」
「どうですか?ここでの暮らしに慣れてきましたか?」
「あ……はい、なんとか……」
気恥ずかしさに曖昧な笑みを返すと、胡蝶さんはふふっと目を細める。
「とても熱心に頑張ってくれていると、アオイから聞いていますよ」
そう言いながら、彼女は私の隣へ静かに腰を下ろした。ふわりと漂うのは、どこか甘く清らかな藤の花に似た香り。
水面を跳ねる鯉の波紋を眺めながら、胡蝶さんが穏やかな声で続ける。
「無理をしていませんか?」
「どうして、ですか?」
「なんとなくです」
さらりと言われ、心臓が小さく跳ねた。
見透かされているのかもしれない。自分の不甲斐なさも、焦りも、役に立たなければ居場所を失ってしまうんじゃないかという怯えも、全部。
「い、いえ……大丈夫、です……」
嘘をついた。これ以上、心配なんて掛けられない。助けてもらった上に、余計な気遣いまでさせてしまうわけにはいかない。
そんな私の強がりを、胡蝶さんは咎めることはなかった。けれど、しばらく沈黙が流れたのちに、胡蝶さんは私に向き直る。
「……リサさん。あなたはもっと、与えられることに慣れた方がいいですね」
「与えられること……ですか?」
「ええ。そんなに難しく考えなくていいんです。何か返さなければいけないとか、役に立たなければいけないだとか、そんな風に自分を追い詰める必要はありません」
胡蝶さんは私の瞳を覗き込むように、柔らかく微笑んだ。
「ただ温かいご飯を食べて、眠って、今日一日を無事に生きる。それだけで十分なんですよ。ここにいる人たちは皆、誰かに何かを返してほしくて手を差し伸べているわけではありませんから」
ただ生きるだけでいい。
そう言われても、私にはその意味がよく分からなかった。
ぐるぐると頭の中で答えのない問いを巡らせて固まっていると、胡蝶さんは私のそんな様子を見透かしたように、くすりと喉を鳴らす。
「ふふ、いずれ分かっていただけたらいいですよ」
そう言ってまた微笑まれてしまい、私は困ったように曖昧な笑みを返すしかなかった。
「他に何か気になることや、不自由なことはありませんか?足りないものや欲しいものがあれば、遠慮なく言ってくださいね」
優しくそう問いかけられて、うーんと腕を組んで考える。
聞きたいことも、知りたいことも山ほどある。けれど、あまり踏み込んだことを聞いて困らせてしまいたくはない。
当たり障りのないことを頭の中で探したとき、ふと、あの雪の夜の光景が頭をよぎった。
「あの、胡蝶さん。……冨岡さんは、ここには戻られないんですか?」
私の問いに、胡蝶さんは少しだけ目を丸くしたあと、視線を池へと戻す。
「冨岡さんはここに住んでいるわけではありませんから。基本的には、用事でもない限り立ち寄りませんね」
「そうなんですか?」
「ええ。あの方にはあの方の、ご自身のお屋敷がありますよ」
「そうだったんですね……」
あの日、蝶屋敷の玄関先で別れて以来、一度も姿を見ていなかった。
冷たい雪の中で握り飯を分けてくれて、見ず知らずの私をここまで連れてきてくれた人。
ちゃんとお礼も言えていないままだったことが、ずっと気がかりだったのだ。だから、次に会った時には必ず感謝を伝えようと思っていたのだけど。
「今頃は、彼は任務に出ているでしょうね」
「任務、ですか?」
「はい。わるーい鬼をやっつけている最中ですよ」
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