4


「お湯はこの薬缶で沸かしてください。茶葉は棚の二段目にあります」

その声に促されるように頷きながら、火のそばに置かれた薬缶を手に取った。
少し緊張する手元を見て、アオイさんがふっと笑う。――真面目そうな目元に、どこか面倒見のよさがにじんでいる人だ。
朝餉(ここでは朝ごはんのことをそう呼ぶらしい)を胡蝶さんからいただいた直後から、私はこうして台所の手伝いを始めていた。

「朝餉が終わったばかりですが、こうして昼餉の準備も今のうちにできる限り行っておきます」

テキパキと指示を出すアオイさんは、やはり胡蝶さんと同じく私より年下なのだろう。けれど、その立ち居振る舞いはとてもしっかりしていて、年齢の幼さを微塵も感じさせない。
それに引き換え、私はといえば、情けないほどに手が止まってばかりだった。
目の前にあるのは、私の知っている"キッチン"とは似ても似つかない道具たち。蛇口を捻れば水が出るわけでも、スイッチひとつで火がつくわけでもない。
水を汲むのも一苦労で、竃の火加減ひとつとっても、どう扱えばいいのか見当もつかなかった。

「……すみません、これどうすればいいんでしょう」

おどおどと尋ねる私に、アオイさんは馬鹿にするような素振りも見せず、ただ淡々と、けれど丁寧に教えてくれる。

「火を絶やさないように、この吹き竹で空気を送るんです。あまり強く吹きすぎないでくださいね」

普通なら「こんなことも知らないの?」と呆れられてもおかしくないのに。彼女は私の無知を不思議がることもなく、当たり前のこととして受け入れてくれているようだった。

「はい。やってみます」

慣れない手つきで吹き竹を構える。今の私にできることは、まだ火を熾すことや、お湯を沸かすことくらい。
けれど、こうして誰かに教わりながら手を動かしている時間は、昨夜の凍えるような孤独に比べれば、ずっとずっと温かかった。

「リサさんは、どちらから来られたのですか?」
「あ、都会からです。でも、気づいたらここにいて……」

自分でも要領を得ない答えだと思った。でも、この場所に来た経緯を説明できるはずもない。
それでもアオイさんは怪しむような視線を向けることなく、ただ「そうなんですか」と小さく頷いてくれる。

「私と似たようなものですね。ここがどういう場所か、説明はお聞きに?」
「あ、はい。ここは療養所?であると聞きました。でも、詳しいことはまだ……」
「そうですか。たしかに、ここは怪我や病気をした方を看病する場所ですが、ただの療養所ではないんです」
「ただの療養所、ではない?」
「はい。ここに運ばれてくるのは、鬼殺隊の方々ですから」
「きさつたい……?」

って何だろう。口の中で言葉を転がしてみる。
昨日も、胡蝶さんから聞いた言葉だ。耳慣れない響きに私は首を傾げた。

「…あの、きさつたいってどういう字を書くんですか?」
「鬼を殺す隊士です」
「な、なるほど。それで鬼殺隊……」

"鬼"を殺す?漢字がわかったところで少し親近感は出てきたが、それでも知らない部隊ということに変わりはない。
アオイさんは、ほんの少し目を伏せてから言葉を選ぶように続けた。

「人喰い鬼を斬るために命を懸けている人たちのことです」
「人喰い、鬼……」

その言葉に、私は思わずぞくりとして肩を震わせた。鬼ってなんだろう。昨夜、冨岡さんからも聞いた言葉が脳裏に蘇る。
『女が一人、夜更けに外をうろつくものではない。鬼が出る』
お伽話や映画の中の存在なら知っているけれど、アオイさんや冨岡さんの表情は冗談を言っているようには見えなかった。

「……あの、鬼って、何なんですか?角が生えてて、虎の皮の服を履いてるような……あれじゃないですよね?」

私の問いかけに、アオイさんは手を止めて、少しだけ困ったように眉を下げた。

「そんなに可愛らしいものではありませんよ。夜に現れて人を襲い、食べる。……化け物です。日の光に当たると灰になって消えてしまうので、彼らは常に夜に活動しています」

夜に現れる、人を食べる化け物。
昨日、冨岡さんに助けられたあの暗闇を思い出し、再び背中に冷たいものが走る。あの時、冨岡さんがあそこに通りかかってくれなかったら。

「だから冨岡さんも胡蝶さんも、刀を持っているんですか?」
「はい。太陽以外に彼らを殺す方法は、特別な刀で首を斬り落とすことだけなので」

その言葉の響きに、私は昨日出会った二人の後ろ姿を重ねた。
十九年間生きてきて、一度も聞いたことのなかった言葉が次々と溢れ出してくる。自分のいた世界とは全く違う、命のやり取りが当たり前に行われている場所。

「なんだか、すごいところに来ちゃったみたいです…」

私は手元の吹き竹を見つめ、小さく息をついた。
鬼がいるなんて信じられないけれど、アオイさんの真剣な眼差しや、この屋敷に漂う薬の匂い。そして昨日感じたあの死の気配が、それが紛れもない現実なのだと教えてくれている。

「あの、私、鬼って言われても見たことがないから実態がよくわからなくて。アオイさんは見たことが──」

けれど、そこまで言った時。
アオイさんがまな板で野菜を刻む包丁の音が、不自然なほどぴたりと止まった。それまで響いていたリズムが途絶えた台所に、竃で薪がはぜる音だけがやけに大きく響く。

「…アオイさん?」

恐る恐る顔を上げると、アオイさんは俯いたまま包丁を握る手にぐっと力を込めていた。その指先が、わずかに震えているように見えて心臓が跳ねる。

「知らないのなら、そのまま知らずに生きていけるほうがずっと幸せなんだと思います」

静かな、拒絶にも似た響きを含んだその言葉に私は息を止めた。
アオイさんの表情は先ほどと変わらないはずなのに、その瞳の奥には触れてはいけない深い傷跡が沈んでいるのが見えた。
私は返す言葉を見失い、研ぎ終わった米の白く濁った水を見つめる。
失言をしてしまったかもしれない。私にとっては未知への好奇心でしかなかった問いが、彼女にとっては、思い出すことさえ苦痛な記憶に触れるものだったのだ。

「ごめんなさい。わたし……」
「いえ、違うんです」

アオイさんは顔を上げると、無理に作ったようなどこか寂しげな笑みを浮かべた。

「私もかつては刀を持って鬼と戦ったことがあったんです。でも、仲間が傷ついていくのを見て怖くなってしまって…。ここでは、みんな何かしらを失っています。家族だったり、日常だったり。……私も、その中の一人というだけですから」

再び包丁の音が規則正しく響き始める。けれど、その音はどこか無理に現実を繋ぎ止めているような、危うい響きに聞こえた。
私が昨夜助けられたのは、ただの偶然だった。でも、その偶然がなければ、私も彼女たちが抱えている傷の正体を、身をもって知ることになっていたのかもしれない。
平和な世界で生きてきた私には計り知れない絶望が、この優しい女の子の背中には張り付いている。

「……怖くなるのは当たり前だと思います」

気づけば、そんな言葉が零れていた。

「誰かが傷つくのを見て、それでも平気でいられるほうがおかしいです。アオイさんは、きっと優しいから……」

その言葉は拙くて、慰めにすらならないかもしれない。けれど、それが今の私にできる精一杯だった。
アオイさんは驚いたように私を見つめ、やがてほんの少しだけ口元を緩めた。

「リサさんは優しい方ですね」

その一言が、胸に沁み渡る。私は俯いて唇を噛み、言葉にならない思いを押し隠した。







「……ふぅ」

長い廊下を歩きながら、私は自分の掌を見つめた。慣れない火熾しで薄汚れた指先。水仕事で少しふやけた皮膚。たったそれだけのことで「働いた」気になっている自分が、なんだか少し恥ずかしい。
「もういいですよ、今日はもう休んでください」というアオイさんの言葉に甘え、私は教えられた通りに廊下へと出てきたわけだが。

廊下のすぐ脇にある縁側の先には、小さな池があった。透き通った水の中を、色鮮やかな鯉たちがゆったりと泳いでいる。その穏やかな光景を見ていると、さっき台所で聞いた「人喰い鬼」の話が、まるで質の悪い冗談のように思えてくる。
けれど、アオイさんのあの震える指先は本物だった。ここに来るまでに私が見た冨岡さんの鋭い眼差しも、胡蝶さんの背負っている静かな覚悟も、すべてがその「鬼」という存在に繋がっている。

「早く慣れないと…」

ぽつりと独り言が零れる。
着るものも、食べるものも、すべてを与えてもらっている。けれど、この屋敷の人たちは皆、自分の役割を必死に全うして生きているのだ。
私だけがいつまでも「わからない」と立ち止まっているわけにはいかない。少しでも早くこの場所のやり方を覚えて、せめて足手まといにならないようになりたい。
私は、吸い寄せられるようにして縁側に腰を下ろした。木材のひんやりとした感触が、着物越しに伝わってくる。

「ここは本当にどこなんだろう……」

見上げる空は、私の知っている空と同じ色をしている。けれど、ここには高層のビルもなければ、飛行機雲もない。夜になれば「鬼」が歩き回り、それを刀で狩る人たちがいる世界。
十九年間、私が当たり前だと思っていた常識は、ここでは何一つ通用しない。
事故に遭って死んだはずの私が、どうしてこんな場所にたどり着いたのか。これから先、私はどうなってしまのか。いつか、元の世界に帰る日は来るのだろうか。
それとも、このままこの薄紅色の着物を着て、この世界の住人として生きていくことになるのだろうか。考えれば考えるほど、足元がふわふわと浮き上がるような心細さに襲われる。
でも、胸の奥にあったあの「空白」が、不思議と今はあまり騒がない。それはきっと、さっきアオイさんと一緒に火を熾した時の熱や、胡蝶さんが結んでくれた帯の感触が、私をこの場所に繋ぎ止めてくれているから。

「……ふぅ」

自分でも気づかないうちに、重たい息がまた口から零れていた。
池の鯉は、私の悩みなんて知らない様子でひらりと尾を振る。その水面の揺らぎをぼんやりと見つめていた、そのときだった。

「ここでやっていけそうか」

背後から低く響く声がした。肩がびくりと震え、慌てて振り返るとそこに一人の男性の姿があった。
左右で柄の違う独特な羽織。切れ長の瞳に、どこか遠くを見つめるような静かな眼差し。

「と、冨岡さん……?」

驚きで目を見開いたまま、私は彼を見上げた。昨夜、闇の中で見たときとはまた少し印象が違う。ただ、光の下で見てもその端正な顔立ちは変わらない。
冨岡さんはゆっくりと歩み寄ると、私の目の前で足を止めた。そして、戸惑う私の頭の上に大きな手のひらをそっと置く。

「……あ」

ごつごつとした指の感触と、そこから伝わってくる体温。突然のことに動悸が速まるけれど、不思議と嫌な感じはしなかった。

「あの、はい。みなさんとても優しくて…私には勿体ないくらい良くしてくださってます。教わりながら、少しお手伝いも始めていて…」

必死に言葉を紡ぐと、私の髪に触れる彼の指先がほんの少しだけ動いたような気がした。

「そうか」

冨岡さんは短くそれだけを言うと、ふっと視線を池の方へと向ける。
口数は少ないし、何を考えているのかよく分からない人だけど。たぶん、悪い人ではないのだと思う。

「あの冨岡さん。昨夜は本当にありがとうございました。冨岡さんが助けてくれなかったら私、今頃どうなっていたか……」

…鬼のことも。もし、あの場に彼が現れていなかったら私は即死だった。
命の恩人である彼に、どうしても直接伝えたかった言葉。けれど、冨岡さんは表情を一つも変えることなく、頭に乗せていた手をゆっくりと離す。

「気にすることはない。礼なら俺ではなく、胡蝶に伝えてやれ」
「あの、でも……」
「お前を受け入れたのはあいつだ」
「……はい。胡蝶さんにもちゃんとお伝えします」

これ以上言葉を重ねても、なんとなく彼は受け取ってくれない気がした。突き放すような物言いだったけれど、それでも不思議と冷たい感じはしない。
自分の手柄を誇ることもなく、ただやるべきことをやったと言う。その潔さが、彼の纏う静謐な空気によく似合っていた。
それにしても、冨岡さんはどうしてここにいるのだろう。胡蝶さんからは、ここは怪我をした人たちの療養所だと聞いた。けれど、隣に立つ彼の姿を見る限り、どこにも怪我を負っているようには見えない。
もしかして、誰かのお見舞いに来たのだろうか。あるいは、胡蝶さんに何か用事があったのか。
聞いてもいいものか迷っていると、庭を渡る風が彼の羽織をさらりと揺らした。

「あの、冨岡さんは……」

意を決して口を開きかけた、その時。

「……あら。冨岡さん?」

廊下の先から、鈴を転がすようなどこか楽しげな声が響いた。
振り返ると、そこにはいつの間にか胡蝶さんが立っていた。彼女は私と冨岡さんが並んで縁側にいるのを見て、少しだけ意外そうに目を丸くする。

「珍しいこともあるものですね。リサさんの様子を見に来られたんですか?」
「たまたま通りかかっただけだ」

そのぶっきらぼうな返事を聞いて、胡蝶さんはくすくすと喉を鳴らす。
二人の間に流れる空気は、どこか長年付き添った者同士のような、不思議な信頼関係が滲んでいる。

「そうですか。…リサさん、少しお話ししてもいいですか?」

胡蝶さんが私に歩み寄りながら、優しく微笑みかけた。

「は、はい。今伺います」

私は慌てて縁側から立ち上がり、冨岡さんに一度深く頭を下げてから、胡蝶さんの方へと歩み寄った。
すれ違う際、冨岡さんの羽織が風に揺れて、かすかに清らかな香りが鼻をくすぐる。

「冨岡さん、常備薬をお渡ししましょうか?ちょうど新しいものが調合できたところですが」

胡蝶さんが小首をかしげて尋ねると、冨岡さんは視線だけを彼女の方へと向けた。

「いや、まだ構わない」

それだけ言うと一度だけ私の方に視線を戻し、それから一度も振り返ることなく廊下の先へと消えていく。

「相変わらずですね、あの方は」

胡蝶さんは困ったように、けれどどこか楽しげにため息をついた。
結局、冨岡さんがどうしてここにいたのか聞けなかったな。
胡蝶さんは改めて私の方に向き直ると、その紫色の瞳で私の顔をじっと見つめた。

「リサさん。今日はもう部屋に戻ってゆっくりお休みくださいね」
「えっ…?あ、でも、まだお手伝いが……」
「いいえ。昨夜はあまり眠れていないのでしょう?」

その一言に、心臓がどきりと跳ねる。
…バレている。朝、部屋に来てくれた時には何も言われなかったのに。彼女は私の嘘を知っていて、あえてあの時は何も言わずに私が落ち着くのを待ってくれていたのだ。
プロの目、というよりすべてを見透かされているような不思議な目。

「はい…。実は何度か目が覚めてしまって…」
「そうでしょうね。昨日の今日です、当然ですよ」

胡蝶さんは私の隣に並び、一緒にゆっくりとした足取りで廊下を歩き始めた。庭からの柔らかな光が、私たちの足元に長い影を落とす。

「どうですか?ここでやっていけそうですか?」
「は、はい……なんとか。みなさん本当に信じられないくらいお優しくて。何もできない私にここまでしてくださって……感謝してもしきれません」

私の言葉に、胡蝶さんは前を見つめたままふわりとした笑みを浮かべた。

「良かったです。あなたがそう思ってくださるなら」

その声はどこまでも穏やかで。
一歩、また一歩と廊下を進むたび、床を鳴らす足音が静かに重なる。

「リサさん。ひとつお伝えし忘れていたのですが、この屋敷には守っていただきたい『決まりごと』がありまして」

彼女はそこで一度足を止め、真剣な眼差しで私を見つめた。
決まりごと?なんだろうと私も足を止め、胡蝶さんと向き合う。

「決まりごとですか?」
「はい。守っていただけますか?夜に外を出歩かないと」

あまりにも淡々とした言葉に、私はただぽかん…と固まった。瞬きさえ忘れて彼女を見つめる。

「これだけは守っていただきたいのです」
「それだけ、ですか?」
「ええ。これだけです」

あまりの拍子抜けに、間の抜けた問いを返してしまった。
なんだか、ものすごく簡単な決まりごとだ。胡蝶さんが言うからには、もっとこう何か特別な作法だとか、立ち入ってはいけない場所の制限など、厳しい規律があるのではないかと知らず知らずのうちに身を構えていたのだけれど。それは子供の頃に親から言われる約束事のような、そんなシンプルなものだった。
けれど、さっき台所でアオイさんから聞いた話を思い出すと、その「決まり」の持つ本当の重みが、じわじわと胸の奥に広がっていく。

「それは……もしかして、鬼の存在と関係がありますか?」

私の問いに、胡蝶さんは少しだけ意外そうに眉を上げた。

「あら、もうお耳に入ってしまったのですね。アオイからですか?」
「はい……。夜に現れて人を襲う化け物だと……」
「ええ、その通りです。いつどこから鬼が出てくるのか分かりませんから、念のためですよ。お嬢さんはまだ鬼のことも、身を守る術もご存知ないでしょう?」

胡蝶さんは私の顔を覗き込むと、不安を拭い去るように優しく微笑んだ。

「そんな不安な顔をなさらなくても大丈夫です。この屋敷の周りには藤の花が植えられていますから、鬼は入ってこれません。約束さえ守っていただければあなたは安全ですよ」

藤の花。それが鬼を退ける魔法のような効果があるのだろうか。
聞きたいことは山ほどあった。けれど、どうしても今、一番確かめなければならないことがあった。
見上げる空の色、アオイさんが使っていた竃、そして冨岡さんたちが差している刀。それらが指し示す「答え」に、私はまだ、言葉にするのをためらっていたけれど。

「あの胡蝶さん。……一つ、伺ってもいいですか」
「はい。何でしょう?」
「ここ、は…。その、今は…。何時代、なんですか?」

震える声を押し殺して尋ねた。
彼女は一瞬、きょとんとした表情を見せたけれど、やがて私の瞳に宿る真剣な光を汲み取ったのか、穏やかな表情のまま微笑んでくれる。

「今は大正時代ですよ」

さらりと告げられたその言葉に、私は目を見開いたまま呼吸をすることさえ忘れてしまった。

「たいしょう……じだい……」
「はい」

頭の中で、その言葉が何度も何度も反芻する。教科書や映画の中でしか見たことのない、遠い過去の世界。
なんということだろう。昨夜、あの事故に遭った瞬間に私は死んだのではなく、百年前の日本に迷い込んでしまったというのだろうか。
過去に来てしまった。現代の、あの便利で喧騒に満ちた街はもうどこにもない。スマホも、テレビも、トラックもない。
その代わりに、人を喰らう化け物が闇を歩き、それを刀一本で斬り伏せる「鬼殺隊」なんていう人々が存在する苛烈な時代。

鬼。大正時代。
あまりに現実離れした言葉の羅列に、意識が遠のきそうになる。
けれど、頬に感じる風の冷たさや、鼻をくすぐる薬草の匂いが、これが夢ではないことを無情なほどに伝えてくる。

私はこれからここで、どうやって生きていけばいいのだろう。戸籍もなければ、身寄りもいない。この時代の常識すら一つも知らない、何も持たない私。
薄紅色の着物をぎゅっと握りしめると、途方もない不安が押し寄せてきた。

「大丈夫ですよ、リサさん」

胡蝶さんが、私の震える肩にそっと手を添えた。
その温かさに、私は零れそうになる涙を必死に堪え、ただ深く、深く頷くことしかできなかった。




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