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湯から上がると、言っていた通り胡蝶さんが脱衣所で待っていてくれた。
そして、再びあの薄紅色の着物を手際よく着付けてくれる。着物の重みと、彼女の手から伝わる温かな体温。
申し訳ないのに、なんだかそれ以上に心地がよくて。私は大人しく彼女に身を委ねた。
そのまま案内されるがまま、食堂へ向かう。そこにはなんと、一人分の朝餉(ここでは朝ごはんのことをそう呼ぶらしい)のお膳が用意されていた。
「…あの、こんなに私……いいのでしょうか……」
口に出して戸惑えば、胡蝶さんは「言ったでしょう、遠慮は要りませんよ」と、春の陽だまりのような柔らかさで笑った。
机の前に座り、そっと手を合わせる。焼き魚の香ばしい匂いに、小さな器に盛られたお漬物。
お箸を手に取り、まずは汁物を口に運ぶと、ふわりと味噌のあたたかい湯気が鼻先をくすぐる。
「ん、美味しいです…!」
「それは良かったです」
素朴なのに、どの料理も驚くほど温かみがあって。なんだか、張り詰めていた気持ちまで解けていく気がする。
「美味しい」と言いながら食べ続ける私を、胡蝶さんはしばらく微笑ましげに眺めていた。
そして食後のお茶を飲み終えて、ふぅと一息ついたころ。私の前に座っていた胡蝶さんが、話を切り出した。
「リサさん、ひとつ約束事がありまして」
「……約束事?」
私は湯呑みを置きながら、首を傾げる。
なんだろう。急に胡蝶さんがとても真剣な顔になった気がして、心臓がどきどきと音を立てる。
「この屋敷にいる間、何をしていただいても構いません。お庭を散歩したり、書物を読んだり、町へ出たり。あなたが、いちばん落ち着くことをして過ごしてください。……ですが、ひとつだけ守っていただきたい決まりがあるのです」
「決まり……ですか?」
「はい」
しのぶさんは弾むような声で笑うと、顔の前でしなやかな指を組んだ。
「決まりごと」というからには、よほど厳しい規律か、命に関わる禁忌に違いない。背筋を冷たい汗が伝う。私なんかが、それを守り抜けるだろうか。
「夜に外を出歩かないこと」
「……え?」
「これだけは守っていただきたいです」
凛とした声が、静かな部屋に響く。
私は言葉を失い、ただぽかん…と固まった。瞬きさえ忘れて彼女を見つめる。
「それだけ……ですか?」
「ええ。これだけです」
あまりに拍子抜けして、間の抜けた問いを返してしまう。けれど、しのぶさんの微笑みは、私の困惑を透かして見ているかのように、なおも深くなっていく。
「……守れますね?」
部屋の隅に置かれた香炉からは、微かに藤の花の匂いが漂っていた。その甘く、どこか刺すような香りが私の鼻先をかすめる。
「……はい。必ず、守ります」
ようやく絞り出した私の答えに、胡蝶さんは満足そうに目を細めた。
張り詰めていた空気がふっと緩み、彼女はさっきまでの春風のような柔らかな笑みに戻る。
「では、改めて。ようこそ蝶屋敷へ」
ぽかん、としたまま胡蝶さんを見つめる。
そもそも、こんな見知らぬ土地で。わざわざ夜中にふらふらと遊び歩くような度胸なんて、私にはこれっぽっちもない。
日は沈んだら布団に入って眠るもの。そんな子供でも知っている当たり前のことが、なぜこの屋敷ではこんなにも重々しい約束として交わされるのだろう。
そんな不思議な違和感を、私は拭いきれずにいた。
「…さて。少し、朝から動き回りすぎましたね。リサさん、そろそろお部屋に戻ってお休みください。……あまり、よく眠れていないのでしょう?」
図星を突かれて、思わず押し黙ってしまう。
…バレている。さっき眠れたと言ったときには、何も疑われなったのに。自分では普通に振る舞っていたつもりだったのに、彼女の鋭い瞳にはごまかしは効かないらしい。
「それ、は……」
言葉に詰まっていると、胡蝶さんは「さあ」と軽やかに立ち上がる。慌てて私も、食べ終えたお膳を両手で持って立ち上がった。
「あ、あの、胡蝶さん。これはどこに運べば良いですか?」
「…いいのですよ。私がやりますから置いていてください。あなたはそのままお部屋に戻って、ゆっくり身体を休めてくださいね」
そう言って胡蝶さんは、私の手からお膳を受け取ろうとする。
…でも。部屋に戻って、一人になって。私は何をするんだろう。ここがどこなのかも、自分がこれからどうなってしまうのかも、何ひとつはっきりしないのに。ただ一人きり、しんと静まり返った部屋で落ち着けるわけがないんだ。
それならいっそ、何かをしていたいかもしれない。胡蝶さんが、私を気遣ってくれているのは分かっている。
それでも、たぶん私は……。誰かに迷惑をかけているんじゃなくて、役に立っているんだって。自分に言い聞かせたかったのだと思う。
「あの、胡蝶さん。私、お部屋に戻ってもたぶん、落ち着かなくて眠れないと思います。それよりも……」
お膳を握る手にぐっと力を込めて、彼女を真っ直ぐに見つめた。
「私にも、このお屋敷のこと、何か手伝わせてはもらえないでしょうか?お掃除でも、洗濯でも、何でもいいんです。じっとしている方が、落ち着かない気がします」
難しいことはできないかもしれない。
でも、先ほど廊下ですれ違ったのは、まだ幼さの残る数人の少女たちだけ。この広大なお屋敷を維持するには、あまりにも人手が足りていないように見えたのだ。
洗濯物が山のように積まれていたり、廊下の隅々まで磨き上げられていたりと、彼女たちが懸命に立ち働いているのは痛いほど伝わってくる。
あんなに小さな子たちが頑張っているのに、私だけが一日中寝ているなんて。
得体の知れない自分を拾い、温かい食事と寝床まで与えてくれた。私にもできらなら、その恩返しがしたい。
「見たところ、このお屋敷を切り盛りされているのは、胡蝶さんとあの少女たちだけのように見えました。もし人手不足なら……私にも、何かできることがあるんじゃないかって」
「お気持ちは嬉しいですが……リサさんはまだ、安静が必要な身ですよ?ここは鬼殺隊の療養施設ですから、まずはあなたが元気にならなくては」
普通なら、ここで引き下がるのが正解なんだろう。だって私は、彼女にとってただの不審な居候に過ぎないんだから。でも──。
「お願いします。迷惑なのは、わかっています。でも今の私には……こうすることしか、思いつかないんです……」
私の必死な訴えに、胡蝶さんはしばらくの間無言で私を見つめ続けた。心臓がうるさいくらいに脈打っている。
「…無理はしないと、約束できますか?」
「はい!もちろんです」
「……ふふ。困りましたね」
やがて、胡蝶さんはふっと肩の力を抜くと、負けを認めるように小さく笑った。
「リサさんのその真剣な眼差しには、勝てそうもありません。……わかりました。まずはそのお膳を、台所まで一緒に運びましょうか。それから後のことは、あなたの体調を見ながら相談しましょう」
「……っ、はい……!」
パッと目の前が開けたような気がした。
ただの居候ではなく、この場所の一員として認められたような――。
私はお膳を落とさないよう大切に抱え直し、軽やかな足取りで廊下を歩く胡蝶さんの後ろを、必死に追いかけた。
*
「お湯はこの薬缶で沸かしてください。茶葉は棚の二段目にあります」
澄んだ声が、静かな調理場に響く。私はその声に促されるように頷きながら、火のそばに置かれた薬缶を手に取った。
少し緊張する手元を見て、アオイさんがふっと笑う。――先ほど胡蝶さんに紹介されたばかりの人だ。真面目そうな目元に、どこか面倒見のよさがにじんでいる。
「朝餉が終わったばかりですが、こうして昼餉の準備も今のうちにできる限り行っておきます」
淡々とアオイさんは教えてくれる。
胡蝶さんよりも幼く見えるから、きっと彼女も私より年下なのだろう。けれど、その立ち居振る舞いは凛としていて年齢の印象を感じさせない。
先ほど、胡蝶さんに連れられてきた台所に彼女がいて、せっかくならとアオイさんから台所のことを少し教えてもらうことになったのだが。
大きな誤算があった。簡単に手伝いをこなせると思ったのに、ここにあるのは見たこともない器具ばかり。
竈を前にして火の点け方すら分からず、木桶を掴んでは「これ、どっちが上だ?」と首を傾げる始末。役に立つどころか、ただ迷惑をかけているだけだ。
それなのにアオイさんは不思議そうな目を向けるでもなく、呆れる素振りも見せない。ひとつひとつ当たり前のように教えてくれる。
「そこに置いてください」
言われた通り、水を薬缶に注ぎ竈の上に置く。マッチを擦ると小さな火花が散り、すぐに橙の炎が広がった。火が確かに燃え移ったのを見届け、胸の奥でそっと安堵の息をつく。
アオイさんは小さく頷き「…うん、上手です」とぽつりと褒めてくれる。
「次は、このお米を研いでください」
アオイさんが指差したのは、木桶に盛られた白米。私は戸惑いながらも言われた通りに水を注ぎ、手のひらで米をかき回す。
慣れない器具に不器用に手を動かしている私に比べて、隣で野菜を刻むアオイさんの動作は驚くほど速い。
「リサさんは、どちらから来られたのですか?」
「あ、その、都会からです…。でも、気づいたらここにいて……」
自分でも要領を得ない答えだと思った。でも、この場所に来た経緯を説明できるはずもない。
それでもアオイさんは怪しむような視線を向けることなく、ただ「そうなんですか」と小さく頷いてくれる。
「私と似たようなものですね。ここがどういう場所か、説明はお聞きに?」
「あ、はい。ここは療養所でもあると聞きました。でも、詳しいことはまだ……」
「そうですか。たしかに、ここは怪我や病気をした方を看病する場所ですが、ただの療養所ではないんです」
「……ただの療養所、ではない?」
「はい。ここに運ばれてくるのは、鬼殺隊の方々ですから」
「きさつたい……?」
って何だろう。口の中で言葉を転がしてみる。
昨日も、胡蝶さんから聞いた言葉だ。耳慣れない響きに私は首を傾げた。
「…あの、きさつたいってどういう字を書くんですか?」
「鬼を殺す隊士です」
「な、なるほど。それで鬼殺隊……」
"鬼"を殺す?漢字がわかったところで少し親近感は出てきたが、それでも知らない部隊ということに変わりはない。
アオイさんは、ほんの少し目を伏せてから言葉を選ぶように続けた。
「人喰い鬼を斬るために命を懸けている人たちのことです。そして、ここはその人たちを癒やすための屋敷でもあります」
「人喰い、鬼……」
昨夜、冨岡さんから聞いた言葉が脳裏に蘇る。
『女が一人、夜更けにうろつくものではない。鬼が出る』
その意味を理解したくて、私は急かすように問いかけていた。
「あの、アオイさん。鬼ってあの物語とかに出てくる怪物のことですか…?本当に、実在するんでしょうか?…あの、私、鬼って言われても見たことがないから実態がよくわからなくて──」
けれど、そこまで言った時。
アオイさんの手がぴくりと止まってしまった。菜箸の先で揺れる白い豆腐が、鍋の中で崩れそうになっている。
ほんのわずかな沈黙の間に、彼女の中で何かがよぎったのが分かった。
「……知らないのなら、そのまま知らずに生きていけるほうがずっと幸せなんだと思います」
静かな、けれど拒絶にも似た響きを含んだその言葉に私は息を止めた。
アオイさんの表情は先ほどと変わらないはずなのに、その瞳の奥には触れてはいけない深い傷跡が沈んでいるのが見えた。
私は返す言葉を見失い、研ぎ終わった米の白く濁った水を見つめる。失言をしてしまったかもしれない。
「…すみません、私……変なことを聞いてしまって……」
「いえ、私もかつては刀を持って鬼と戦ったことがありました。でも……仲間が傷ついていくのを見て、体が動かなくなってしまったんです。戦うのが……怖くなってしまって」
アオイさんは視線を逸らしたまま、一点を見つめただ淡々と続ける。張りつめた空気に、何も言えなくなった。
「だから、同じです」
――鬼。まだ信じられない。姿を見たわけでもないのに、そんな存在がいると断言されても、頭のどこかでは現実感が伴わない。
それでも、目の前のアオイさんの声音と表情は、嘘をついている人のものではなかった。
信じられなくても、彼女が語る「恐怖」がどれほどのものだったかは伝わってくる。
「……怖くなるのは、当たり前だと思います」
気づけば、そんな言葉が零れていた。
「誰かが傷つくのを見て、それでも平気でいられるほうがおかしいです。アオイさんは、きっと優しいから……」
その言葉は拙くて、慰めにすらならないかもしれない。けれど、それが今の私にできる精一杯だった。
アオイさんは驚いたように私を見つめ、やがてほんの少しだけ口元を緩めた。それはどこか影を含んでいたけれど、あたたかい笑みだった気がする。
「……リサさんは優しい方ですね」
その一言が、胸に沁み渡る。私は俯いて唇を噛み、言葉にならない思いを押し隠した。
*
「……ふぅ」
小さく息を吐いて、私は両手を腰に当てた。
昼餉の準備を終えた調理場には、炊き立ての米の香りが漂っている。アオイさんに教わりながら何度も確認して、なんとか形にはなった。
「お疲れさまでした。あとは私がやりますから」
そう言ってもらい、軽く頭を下げて私は調理場を後にした。
廊下へ出ると、空気がひやりと変わる。まだ見慣れない屋敷の景色を眺めながら、私は何気なくアオイさんとのさっきの会話を思い返した。
――鬼って一体どんなだろう。最初は冨岡さんから。次はアオイさんから聞かされた言葉。でも、たくさん説明をしてもらっても、どうにも形を結ばない。
鬼と言われると、私には物語の中の存在としか思えない。教訓のために言い伝えられる、人を怖がらせるためのもの。子どもの頃に聞いた昔話。私の中の「鬼」は、その程度の曖昧なものでしかなかった。
ここは鬼殺隊の療養所だ、と聞いた。なら、ここに運ばれてくる人たちは――。
さっき、廊下の奥で見かけた病室。薄く開いた扉の向こう、布団に横たわる人影。包帯に覆われた腕。
…もしかして、あの人たちも皆、鬼に?
鬼は、一体どれくらいいるのだろう。一匹なのか。何匹もいるのか。それとも、そこらじゅうに――。
少なくとも、私のいた時代に鬼なんてものはいなかった。そんな存在が日常に混じる世界など、聞いたこともない。
歩きながら、改めて周囲を見渡す。木造の廊下。使い込まれた桶や箒。皆が着ている袴や羽織。言葉の端々に残る、どこか古い響き。
なんとなくだけど、ここが私のいた時代よりも昔だということはわかる。
――私は、一体どこに来てしまったのだろう。そう考えていた時、廊下の向こうから足音が近づいてきた。白い羽織が視界に入り、私は立ち止まる。
「リサさん」
胡蝶さんだった。私に気づくと、どこかほっとしたように表情を緩める。
「良かった。様子を見に来たのですが、ちょうど終わったところだったみたいですね。今日はもうお部屋に戻って休んでください」
「は、はい…!わざわざ来てくださったんですね、すみません。ありがとうございます」
普通に返事はしたつもりなのに、なぜか言葉が喉で引っかかる。声が、思ったよりも掠れていた。
胡蝶さんは一瞬、そんな私の顔をじっと見てわずかに眉を寄せる。
「顔色が良くありませんね…。やっぱり、無理をさせてしまいましたか。すみません、気づいてあげられず……。あとでお部屋に薬湯をお持ちしますね。少し苦いですが、身体が温まってよく眠れますよ」
優しく部屋へ促そうとする彼女の白い背中を見つめながら、私の頭の中は、先ほどから耳にする不吉な響きでいっぱいだった。
――鬼。その二文字が、毒のように思考の隅々に回っていく。アオイさんのあの痛々しい表情、そして昨夜の冨岡さんの警告。
知らないふりをして部屋に戻り、布団を被ってしまえば楽になれるのかもしれない。けれど、胸の奥で燻る不安は、もう無視できないほどに大きくなっていた。
「……っ、あの!胡蝶さん」
気づけば、縋るような声を張り上げてその背中を呼び止めていた。
「はい。何でしょう?」
立ち止まり、穏やかに振り向いた彼女の瞳を見つめながら、私は自分の指先を白くなるまで握りしめた。
聞いてはいけない。それを聞いたら、ここが「死後の世界」ではないと認めることになってしまう。
「『鬼』って……何なんですか?それに……」
けれど、古い木の匂いも、怪我人の呻き声も、すべてが「これは現実だ」と私の胸を叩くのだ。
私のいた世界に、鬼なんて生き物は存在しなかった。だとしたら、答えはひとつしかない。
「ここ、は……今は、何時代なんですか」
私の必死な形相を映す彼女の瞳が、一瞬だけ、見たこともないほど真剣な光を帯びた気がした。
「ここは大正時代ですよ」
胡蝶さんのその言葉に、ぐらりと大きなめまいを感じた。
…あぁ、なんてことだろう。やっぱり、ただ死んだだけではなかった。私が生きるはずもなかった時代に、落ちてきてしまったみたいだ。決して交われるはずのない世界線に、私が交わってしまった
瞬間、私を支配したのは絶望だった。ただ死ぬよりも難易度が高いのではないか。それに鬼がいる場所だなんて。
しばらくはここで面倒を見てもらえることになったとはいえ、そんな場所でどうやって一人で生きていけばいいのか。そこまで考えてさっと血の気が引く。
そんな私を見ていた胡蝶さんはどこか痛ましげに微笑んだ。またその顔をさせてしまった。昨夜と同じ表情だ、とぼんやり思う。
「…大丈夫ですよ。鬼は夜にしか出てこられません。太陽の下を歩けないのです。だから、先ほども夜に外を出歩かないようお伝えしました。それに――」
彼女は一歩近づいて、私の目をまっすぐ見つめた。
「ここにいる限りは安全です。鬼殺隊が守っていますから。何も心配することはありません」
そう言って、優しく微笑む。
…本当に?本当に大丈夫なのだろうか。胸の奥に残る不安は、まだ消えない。それでも、その微笑みに救われたのも事実だった。
私は小さく頷いて、胡蝶さんに促されるまま歩き出す。胸の内で、何度も同じ言葉を繰り返した。
――大正時代。鬼。鬼殺隊。
この世界で、これから私はどうやって生きるのだろう。
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