31


五月も終わりに近い頃の陽射しは、まだ肌を刺すほどではないけれど、日陰との温度差をはっきりと分けてくる。

「うおおおおおお!!」
「いいぞ!その調子だ!!」

抜けるような青空の下、蝶屋敷の庭からは今日も賑やかな声が響いていた。

「おい紋逸!!お前はこの半分の石だろうが!!」
「うるさいぃぃ!俺だって頑張ってるんだ!!」

騒がしいことこの上ない。けれど、その騒がしさが、今の蝶屋敷にはちょうどいいのかもしれない。
私は縁側から数歩だけ庭に出て、日陰と日向の境目あたりに立った。
三人が額に大汗をかきながら重い石を持ち上げたり、屋敷の塀を駆け上がったりして身体をいじめているのを、しばらく黙って眺める。

一時はどうなることかと思ったけれど。よくここまで戻ってきてくれたものだ。
少し前まで、機能回復訓練に真面目に参加していたのは炭治郎くんだけだった。カナヲに全く歯が立たず、あとの二人は途中からすっかり姿を見せなくなってしまったのだ。
「やっぱり、心が折れましたね」と、アオイが冷ややかに呟いていたのを思い出す。

けれど、炭治郎くんだけは毎日休まずに、くたくたになりながらも訓練場へ通い続けてくれた。彼が一人で『全集中・常中』を会得するために泥臭く努力し、それを一歩ずつ形にしていく姿が――あの二人を動かしたのだ。
もちろん、それだけでは腰の重かった彼らの背中を蹴り出すために、私もほんの少しだけお手伝いをさせてもらったけれど。



「伊之助くんなら簡単かと思っていたのですが、できないんですか?できて当然ですけれど」

負けず嫌いで誇り高い彼には、自尊心をほんの少し突いてあげるのが一番効く。案の定、鼻息を荒くして、再び勢いよく訓練場へ転がり込んできた。
一方で、善逸くんにはもう少し分かりやすい、彼好みの餌が必要だったけれど。

「頑張ってください善逸くん!いちばん応援していますよ!」

そう言って、ほんの少し彼の手を握ってあげただけで。

「はいいいぃぃ!!!」

次の日からは誰より早く訓練場に来るようになったのだから、とても単純だ。



「ブオ〜ン!いいぞ善逸!その調子だ!もっとそこでバッと!グッと!」

擬音語ばかりで本当に伝わっているのだろうか、という懸念もありながら、炭治郎くんが会得したものを少しも惜しまずあの二人に分け与える。そんな姿は、見ていてとても綺麗だと思う。
自分だけが特別でありたい、優位でいたい――そういう打算は人間としてごく自然な感情だ。
なのに、彼にはそういう醜いところがまったく見当たらない。誰かが少しでも強くなれるならと、何のためらいもなくその手を仲間へと伸ばす。
そんなひたむきさに、眩しささえ感じるのだった。

ふと、視界の端を小さな影が横切る。見やれば、カナヲが井戸の方へと向かって歩いていくところだった。

「カナヲ?カナヲも同期なんだから、一緒にどう?」

そう言って、あちらで大汗をかいている三人を示しながら微笑みかけると、カナヲは一瞬だけ彼らへ視線を向けた。そして、再び私に向き直ってにこりと微笑む。
肯定も否定もせず、彼女はまた井戸の方へと静かに歩いていってしまう。

…どうしたものか。
あの子も、ずいぶん努力してきた。毎日当たり前のように刀を握り、毎日当たり前のように反射訓練をこなす。能力だけで言えば、あそこにいる少年たちを大きく引き離している。
けれど、自分の気持ちや心の声にだけは、人一倍疎い。自分で何も決められないあの子は、今でも硬貨を投げて出た目で行動を決める。

――姉さん。昔、言っていたよね。
『きっかけさえあれば人の心は花開くから大丈夫。いつか好きな男の子でも出来たら、カナヲだって変わるわよ』って。

「そう簡単に、現れてくれるとは思えないのだけれど」

姉さんの言っていたことは、いつも理想が綺麗すぎて、時々ついていけなくなる。
けれど、姉さんの言葉を「そんなわけない」と切り捨てられない自分がいるのもまた事実だった。

「……あら」

ふと、背後から近づく静かな気配に気づき、私は振り返った。
珍しい人がやって来たものだ。その左右で全く異なる二つの柄を繋ぎ合わせた独特な羽織。

「冨岡さん」

声をかければ、彼はこちらへ歩み寄ると、私のすぐ隣で足を止めた。

「珍しいですね、わざわざこちらに出向くなんて」
「……竈門の様子はどうだ」
「順調ですよ。常中会得まであと少し、と言ったところでしょうか」

当たり障りのない進捗を伝える。彼がここに訪れたもう少し詳しい理由が知りたいが、彼はただ私の言葉を黙って聞いているだけだった。
冨岡さんが炭治郎くんのことを気にかけるのは、確かに筋が通っている。お館様の前で、自分の命を懸けてまであの兄妹を保証すると誓ったくらいだ。
けれど、彼がそれだけの理由で、わざわざここまで足を運んだとも思えない。

「……冨岡さん。要件はそれだけですか?」

相変わらず何も言わないし、表情だって一つも動かない。
いつもなら用件が済めばすぐに背を向けるような人だ。こうして立ち去ろうとせず留まり続けているということは、やはり別の目的がある。

「もし、あのことが気に掛かっているのなら大丈夫ですよ。まだ、彼女には伝えていません」

先手を打ってそう伝えると、冨岡さんは静かに視線を落とした。
ああ……やはり。

「本人の様子は」
「いつもと変わりませんよ。よく働いてくれています」

本当に頑張り屋で、どんなに不安なことがあっても、決してそれを表に出さずに笑顔を絶やさない。誰かの役に立ちたい、誰かを支えたいと、毎日一生懸命に動き回っている。
けれど、そんな姿を見ているからこそ、私は胸がちくりと痛むのを止められなかった。

「ただ……やはり気にかかってはいるようです。毎朝手紙が届いていないか、確認しているようですし」

まだ届かないのだろうかと、封筒を一枚一枚めくっては寂しそうに微笑む彼女の姿。
それを見るたびに、私は自分の選択が本当に正しいのか、彼女の笑顔を守るためのこの嘘がいつまで保つのかと、言いようのない焦燥感に駆られてしまうのだ。




――その日、冨岡さんから私のもとへ、珍しく手紙が届いた。
鬼殺隊では柱合会議の後になると、いつも各柱が提出した報告書や記録が、順番に回ってくることになっている。
鬼の出現場所、その数、被害の規模。そして討伐に至るまでの経緯などが記されたものだ。
そしてさらに、もう一冊。これには、殉職した隊士の名前、階級、死亡理由といったものがこと細やかに書かれている。
それらをすべて正しく整理し、組織の現状を正確に把握しておくこと。それも柱としての務めなのだ。

冨岡さんから手紙が届いたのは、私がその名簿に目を通し、あの那田蜘蛛山での事後処理を終えてから数日後のことだった。

『急啓
先日の那田蜘蛛山での戦後処理の折、亡くなった隊士に、尾崎という名を見つけた。
この者は、高月と特に仲の良かった者で間違いないか』

…と。
間違いであれと私はその時、心の底から願ってしまったのだ。
けれど、名簿に無情にも刻まれた『尾崎』の名と死因の二文字は、私の願いをいとも容易く打ち砕いた。
リサさんの仲の良かった女性隊士、あの尾崎さんで間違いなかった。

――まさか、彼女があの那田蜘蛛山で亡くなっていたなんて。
頭の奥で、かつて彼女と交わした会話が鮮やかによみがえる。
町へリサさん出かけた折、その後屋敷に現れた尾崎さんが申し訳なさそうに申し出てくれた時のことだ。


『この間、町でまた暴漢を見かけてしまって。私がついていながらすみません……リサ、大丈夫そうですか?』
『尾崎さんが謝るようなことじゃないですよ。リサさんは、たしかに最近ぼーっとしていることが多いですけれど……なんだか他のことで頭がいっぱいって感じがしますね』
『ふふ、そうなんです。本人なりに色々考えてるみたいで。私で力になれるなら、ずっと側にいて支えてあげたくて』

そう言って、愛おしそうに目を細めていた彼女の姿。
リサさんのことを誰よりも気遣い、寄り添い、彼女にとって温かな心の拠り所となっていた彼女。あの優しい微笑みも、弾むような声も、ほんの少し前まで確かにこの世界に存在していたのだ。
それが今では、冷たい和紙の上に記された、たった一行の墨線へと成り果ててしまっている。

二人が、どれほど大切に想い合っていたかを知っているからこそ、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
リサさんにとって、尾崎さんは唯一と言っていいほどの心の拠り所だろう。
自分の過去に何があったのかを語ることもなく、どこか瞳に光が宿っていなかった彼女をここに繋ぎ止めてくれたのは、尾崎さんの存在が大きい。
気づいた時には、二人は仲良くなっていた。いつも姉妹のように仲睦まじげで、歩幅を合わせて歩く姿や、他愛のないことで顔を見合わせて笑う姿を何度も見かけた。
人に甘えること、誰かを頼ることが下手なリサさんを、尾崎さんはいつも絶対的な優しさで包み込んでいた。

けれど、そんな尾崎さんがいなくなってしまったと知ったら、彼女はどうなってしまうのだろう。
せっかく芽吹き始めているのに、この事実を伝えてしまえば、リサさんの瞳から再び光が消え、二度と戻らなくなってしまうのではないか。
無事を信じて待ち続ける彼女の健気な姿を毎日見ているからこそ、私からその残酷な真実を突きつけることなど、どうしてもできなかった。

だから私は、その手紙の返事に
『リサさんの仲の良かった尾崎さんで間違いありません。しかし、今はまだ事実を伏せておくべきです』
そう、書き記したのだ。




「……いつか。いつかは、きちんと本当のことを言います。でも、今ではありません」

彼女の心がもう少し、ほんの少しだけでも、その悲しみに耐えられるくらい強く育つまでは。
ふと一頭の紫色の蝶が、ひらひらと縫うようにして私たちの前を横切っていく。
冨岡さんは私の言葉に対して、肯定も否定もせず、ただその蝶の行方を静かに追っていた。





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