31


「炭治郎さん、毎日頑張ってるね」

きよちゃんがぽつりと呟いた。

「うん。おにぎり、持って行ってあげようよ」
「そうだね。あとは…何が喜ぶかな?」

なほちゃんとすみちゃんがひそひそと相談しながら、炭治郎くんのほうへ視線を向ける。私も、その声に吊られるように自然と目を向けていた。
昼近くの光が庭に満ちる頃。柱の影に身を寄せ、三人娘と肩を並べてそっと中庭を覗いているのだが。
そこでは、炭治郎くんが今日も一生懸命に鍛錬を行っていた。刀を握り、汗をぬぐう暇もないほど素振りを繰り返している。風を切る音が、間を置かずに何度も続く。
肩で息をしながら、次は大きな石を抱え込んで持ち上げる。腕が震えても、深く息を吸って、吐いて、また持ち上げる。
そのあと、小さく助走して、屋敷の塀を駆け上がる。足の裏がぱん、と板を叩き、落ちそうになっても踏みとどまる。

全集中の呼吸・常中。
炭治郎くんは今、それを身につけようとしているのだという。
それを使えるかどうかで、戦いの力が大きく変わるらしい。命に関わるような差が出る、と。
私にはよく分からないけれど、とても難しいことを会得しようとしてることだけは分かる。

「……二人とも、最近は来なくなっちゃったね」

私が呟くと、きよちゃんたちは同時にしょんぼりとうつむいた。

「最初は、みんな頑張ってたんですけど…」

すみちゃんが袖を握りしめる。

「善逸さんも女の子と一緒に訓練できるって分かって、すっごく張り切ってたのに……残念ですね。アオイさんはずっと怖い顔してましたけど」

思い出して少し笑ってしまう。
たしかに、あのはしゃぎようはすごかった。
でも、日が経つにつれて――訓練場に来る隊士が、ぽつり、ぽつりと減っていった。
その理由が――

「みんな…カナヲさんに全然勝てなかったから……」

なほちゃんが苦笑いするように言った。
みんな、反射訓練では薬湯を浴びせられ、全身訓練では指一本触れられず、あの華奢な少女に誰もが完敗だった。
疲れ果てた顔で訓練場を後にする隊士の姿を何度見たことか。
そんな女の子に、どう足掻いても追いつけないと知ってしまえば…続ける気力が折れてしまうのも分かる。

それでも。炭治郎くんだけは違った。
落ち込んでも、気持ちを切らしても、次の日にはまた訓練場に現れて。刀を握り直し、必ず一歩だけでも前に進もうとする。
その姿は、見ていて胸が熱くなるほど真っ直ぐだった。

「……すごいよね、炭治郎くんって」

私の声に、三人娘が揃って頷く。

「はい。諦めない心を持てるなんてすごいです」
「しのぶさんもこの間、褒めていましたよ」
「…少しずつだけど、全集中常中も続けられるようになってきましたよね」

私は庭の端で、汗を拭いもせず刀を振る炭治郎くんの背中を見つめた。
息を吸って、吐いて――そのたびに肩が上下して、努力の音が全身からこぼれている。
彼がここまで頑張れる理由は何だろう。あの鬼になってしまったという、妹の禰󠄀豆子ちゃんの存在もあるのだろうか。

ここへ彼らがやって来てから、屋敷の空気は大きく変わった。まさか、人を食べたことがない鬼がいると聞いてみんな驚いたのだ。
私は残念ながら眠っている禰󠄀豆子ちゃんしか見たことがないが、小柄で、とても可愛らしい女の子だった。
鬼といえば、恐ろしい化け物のようなものを想像していたから思わず拍子抜けしてしまった程。彼女が私の見る初めての鬼だったから。
でもだからこそ、炭治郎くんは彼女を人間に戻してあげたいと、必死になれるのかもしれない。
そんな彼らの絆が、私にはどこか痛いほどに眩しく見えた。

「…ねえ、ひょうたん持っていってあげようよ」

きよちゃんが、はっと思いついたように声を上げた。

「いいですね!しのぶ様もよくカナヲさんに破裂させてますし」
「うん。私たち、ふき方なら教えてあげられるから…」

なほちゃんとすみちゃんもすぐに顔を輝かせる。三人の間で、小さな計画が花開くみたいに広がっていく。
私はその様子を見て、笑みを深めた。




***




庭に出ると、空気が少しだけ熱を帯びていた。
五月も終わりに近い頃の陽射しは、まだ肌を刺すほどではないけれど、日陰との温度差をはっきりと分けてくる。

「うおおおおおお!!」
「いいぞ!その調子だ!!」

元気な声が、庭の真ん中で跳ねた。
炭治郎くんが、紐に吊るした重い石を抱え上げている。その横で、善逸くんが悲鳴とも応援ともつかない声を上げ、さらにその向こうでは伊之助くんが上半身裸で全身の筋肉をぎゅうっと収縮させながら、同じ大きさの石を頭上まで持ち上げていた。

「まだまだいけるだろ、伊之助!!」
「お、おうっ……!!おい紋逸!!お前はこの半分の石だろうが!!」
「うるさいぃぃ!俺だって頑張ってるんだ!!」

騒がしいことこの上ない。
でも、その騒がしさが、今の蝶屋敷にはちょうどいいのかもしれない。
私は縁側から数歩だけ庭に出て、日陰と日向の境目あたりに立った。三人が重い石を持ち上げたり、屋敷の塀を駆け上がったりするのを、しばらく黙って眺める。一時はどうなることかと思ったけれど――よくここまで戻ってきてくれたものだ。
少し前まで、機能回復訓練に真面目に参加していたのは炭治郎くんだけだった。善逸くんと伊之助くんは、途中からすっかり姿を見せなくなってしまって。
「やっぱり、心が折れましたね」とアオイが冷ややかに呟いていた。

でも、炭治郎くんだけは毎日休まずに、くたくたになりながらも訓練場へ通い続けてくれたおかげで――
ふたりも、感化されたのだろう。

「伊之助くんなら簡単かと思っていたのですが、できないんですか?できて当然ですけれど」

伊之助くんには、あの一言で十分だった。
鼻息を荒くして、もう一度訓練場へ転がり込んできた背中を思い出すと、思わず口元が緩む。
善逸くんには、もう少し分かりやすい餌が必要だったけれど。

「頑張ってください善逸くん!いちばん応援していますよ」

そう言って、ほんの少しだけ手を握ってあげただけで。

「はいいいぃぃ!!!」

次の日からは誰より早く訓練場に来るようになったのだから、単純といえば単純だ。
けれど、単純さは悪いものではない。扱いやすいし、伸ばしやすい。

「ブオ〜ン!いいぞ善逸〜!その調子だ!もっとそこでバッと!グッと!」
「ぐぬぬぬ……!」
「この弱ミソが!!」
「なんだと!?」

それに。
炭治郎くんが、自分の会得したものを少しも惜しまず二人に分け与えようとしている姿は、とても綺麗だと思う。
ふつうなら、自分が必死に掴んだものは手放したくないものだ。優位でいられる場所を少しでも確保しておきたい、そういう打算は、人間として自然な感情だと思う。
なのにこの子は、そういうところがまったくない。誰かが少しでも強くなれるなら、と迷いなく手を伸ばす。
――本当に。綺麗な心だこと。

「……」

ふと視線をずらすと、庭の端にひとり立つ小さな影が見えた。

「カナヲ」

呼びかけると、井戸のほうへ向かっていた背中がぴたりと止まる。
私がそちらへ歩み寄ると、カナヲはゆっくりと振り返った。

「カナヲも同期なんだから。一緒にどう?」

そう言って微笑みかけると、カナヲは一瞬だけ三人の方へ視線を向け、それから私に向き直ってにこりと笑った。
ただそれだけ。声は出さない。軽く会釈して、また井戸のほうへ歩いて行ってしまう。

「……ふう」

分かりやすい拒絶ではない。でも、心の距離はまだほんの少し遠い。
あの子も、ずいぶん努力してきた。毎日当たり前のように刀を握り、毎日当たり前のように反射訓練をし、誰よりもしなやかに動ける体を作ってきた。
けれど――自分の気持ちや、心の声にだけは、人一倍疎い。硬貨を投げなければ、何も決められない。
「裏が出たから、行きます」「表だから、やめます」
まるで、心を守るために作った厚い膜のようだ。

心配だ。だからといって、こちらから無理にこじ開けるわけにもいかない。
踏み込みすぎれば、きっとそれはあの子にとって、ただの暴力になってしまう。
――姉さん、言ってたよね。
『きっかけさえあれば人の心は花開くから大丈夫。いつか好きな男の子でも出来たら、カナヲだって変わるわよ』って。

「…そう簡単に、現れてくれるとは思えないんだけど」

思わず、誰にともなく呟く。
三人の少年の声と、カナヲの小さな背中。その両方を視界の端に入れながら、私はまた庭の中央へ視線を戻した。
命を賭けるには、あまりに若い背中ばかりだけれど――それでも彼らはここに立つと決めている。
そんな時代が早く終わればいいのにと、願わずにはいられない。

「……あら」

その時、縁側のほうから足音がして振り返ると、見慣れた羽織の紋様が目に入った。

「冨岡さん」

毘沙門亀甲びしゃもんきっこう柄が、日陰でゆらりと揺れる。冨岡さんは、庭を一度だけ見渡してから、こちらに視線を向けた。

「胡蝶」

相変わらず感情の読めない声だったけれど、それでも、わざわざここまで足を運んだこと自体が珍しい。
任務に出てしまえば滅多に顔を見せない人が、こうして蝶屋敷まで来る理由はそう多くない。

「来られたんですね。何か、心配ごとでも?…もう薬を切らしてしまったんですか?」
「いや、それもあるが…」

冨岡さんは言葉を濁しながら、庭の方へ視線を向け私の隣に立った。腕を組み、三人の鍛錬をただ静かに見つめる。
その沈黙が、どこか答えの代わりのようにも思えて。私は小さく息を吐いた。

「……もし、あのことが気に掛かっているのなら大丈夫ですよ。まだ、あの子には伝えていません」

わざと他の人には聞こえない声量で言うと、冨岡さんの視線が少しだけこちらに動く。

「…そうか」

その一言に込められた重さに、私はほんの少し視線を落とした。掌の中に、薄い紙の感触が蘇る。

――数週間前。冨岡さんから手紙を受け取った、あの日のことだ。
柱合会議のあとになると、いつも各柱の報告書や戦死者の記録が回ってくる。
鬼の出現場所。数。特徴。討伐までの経緯。
戦死者の記録には、名前、階級、死亡理由など。そういったものが書かれている。
戦死者の記録の方は、熟読するのはあまり気持ちの良いものではない。私はいつも気持ち程度に流し見をするのだが。
なぜか、その数日後。珍しく冨岡さんから手紙届いた。
中身は以前回ってきた記録の写し。事務的な情報が淡々と並ぶ文字の中、ある一箇所だけに下線が引かれていた。

『隊士尾崎 階級庚 五月◯日 那田蜘蛛山の戦闘により鬼に首を捻り折られ殉職』

見慣れたの名前だった。
まさかそんなはずはないと、私は何度も指でなぞってその文字を読み返した。
…けれど、読めば読むほど現実を突きつけられる。…そう。この屋敷にもよく出入りしていたあの隊士が、戦死してしまったという情報だった。
その時、一番に思い浮かんだのがリサさんの顔だった。この事実を彼女が知ったらどうなるだろう。どうして、今の今まで気付けなかったのか。
さらにその紙の束の中に、挟まれていた小さな紙。

『尾崎という隊士のこと、彼女に伝えるべきか迷っている。お前の意見を聞きたい』

達筆な字で、簡素に。
あの寡黙な人がわざわざ筆をとってまで相談してくるということは、リサさんの心の状態をとても気にしているということ。
私はその手紙を読んでから、しばらく机の上で目を閉じていた。
彼女の顔と、尾崎さんの顔が何度も交互に浮かんでは消えていく。
リサさんにとって、尾崎さんは“唯一”と言っていいほど、心の拠り所だった。どこからともなくやって来て、居場所も身寄りも失っていた少女。最初は戸惑いばかりで、こちらの手を取ることも怖がっていたのに。尾崎さんと過ごす時間が増えるにつれ、リサさんはみるみる表情を柔らかくしていった。
縁側で、寄り添うように並んで座る二人の背中を何度も見た。団子を分け合うとき、尾崎さんが少し多めに渡し、リサさんが遠慮しながらも嬉しそうに受け取る様子も知っている。
“リサさんには、彼女がいてくれさえすれば安心だ”と、そう感じるほど。

けれどその“拠り所”が、もうなくなったと知ってしまったら――彼女は、どうなってしまうのだろう。
自分があの日、引き留めなかったから。そんなふうに、理由のありかを全部自分のに押し込めてしまうのではないか。
彼女はそういう人だ。それは、ここで見てきた日々の中で、嫌というほど分かってしまった。
だから。私は手紙の返事に、こう書いた。

『今はまだ、伝えるべきではないと思います。リサさんの心がもう少し安らぐまで、時間を置くべきです。自分の足で立てるようになってからでも、遅くはないと思います』

こうして、ふたりで同じ結論に辿り着いたのだ。
今、私の隣で腕を組んでいる人はそのことを一言も口にしない。ただ、炭治郎くんたちの鍛錬を、真っ直ぐな目で見つめている。

「…大丈夫ですよ。彼女も、ここで少しずつ強くなっていますから」

私は庭に視線を向けたまま、静かに言う。

「そうか」

冨岡さんの返事は、やはり短い。
けれど、その短さの裏側にあるものを、私はもう少しだけ信じてもいいと思っている。
石を持ち上げる声。塀を蹴る音。若葉の匂い。その全部を受け止めながら、私は胸の奥で、小さく願った。
彼女がもう少しだけ、前に進める時間がありますようにと。


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