32
廊下を歩くと、外よりひんやりした空気が頬に触れた。私は洗濯籠を胸に抱え、軋む床板の上をゆっくり歩きながら、ふと横の窓に視線を落とす。
庭はすっかり初夏の色をしていた。外の気配が眩しくて、何度も目を顰めてしまう。
炭治郎くんたちが鍛錬をしていた庭の方がもっと賑やかだけれど、本当に平和そのものだ。ここ最近ずっと忙しかったから、やっと気持ちも落ち着いてきたように思う。
……冨岡さんとは、あれから会っていない。
洗濯籠の重みが、腕の中でじわりと変わる。
長期の任務に向かったと、しのぶさんから聞いた。なぜしのぶさんからその話を聞かされるのかと思ったが、何やら用事を伝える手紙と一緒に書かれていたらしい。
「しばらく屋敷を開けるから、帳簿の手伝いはお休みで大丈夫だそうですよ」と穏やかに言われて、私はただ頷くことしかできなかった。
けれど正直、ほっとしてる自分もいて。あんなことがあったあとで、すぐに顔を合わせる勇気はなかった。
何をどう言えばいいのかも、どんな表情で向き合えばいいのかも、まるで分からない。
尾崎さんには、次会ったときに謝るよう言われたけど…。
脳裏にふっと、あの時の光景が蘇る。あんなふうに逃げ出してしまって、平然としていられる人間なんているのだろうか。
「……ううん、無理だよなあ」
誰に聞かせるでもない独りごとが、小さな息と一緒に漏れた。自業自得なのは、わかってはいるのだけれど。
だから、冨岡さんとは会っていない。
でも――尾崎さんとは、もっと会っていない。彼女の顔が、脳裏に浮かんでくる。洗濯籠の中の布がかさりと揺れた。
彼女から、手紙ひとつ、届かないのだ。もちろん、それは珍しいことじゃない。任務に出れば、数日は連絡がつかないことなんていくらでもある。
以前だって、ふらりと蝶屋敷にやってきて、「ごめんね、お返事する余裕なかった」と笑っていたこともある。だから、今回もそうだと頭ではちゃんと理解しているのだけれど。
それでも――こうも音沙汰がないと、どうしても心配になってしまうのだ。
もし彼女に何かあれば、睡蓮がすぐ知らせに来てくれるだろうし、そこは心配していないけど…。
「……どうしたのかな、尾崎さん」
声にすると、余計に胸がざわつく。
洗濯籠の重みを抱え直しながら、私はまた庭へ目を向ける。新緑の光が、驚くほどまぶしい。その明るさと、胸のさざ波だけが、静かにすれ違ったままだ。
「リサさん」
「っはい」
背後から名前を呼ばれて、はっと振り返った。
そこには、帳簿を抱えたアオイさん。眉の間に皺を寄せて、どこか困ったような表情を浮かべている。
「あ、洗濯物取り入れてくださったんですね。ありがとうございます。すみません、手が回らなくて任せっきりで……」
「い、いえ!私に出来ることはさせてください…!」
「助かります…!あの、重ねて申し訳ないんですけど、籠を片付けたら庭の倉から包帯を取ってきてもらえませんか?ちょうど切らしてしまったのに手が離せないんです…。内側の棚に、藍色の紐で束ねてある箱があるんですけど…」
「もちろんです。分かりました。持っていきますね」
頷いて、腕の中の洗濯籠を少し持ち直す。
アオイさんは「お願いします」と短く言うと、駆け足で焦ったように診察室のほうへ戻っていった。
私は洗濯場に籠を戻し、空になったそれを壁に立てかけた。湿った布の匂いから解放されて、庭へと続く戸口のほうへ歩き出す。
草履を履き、引き戸を開けると、外のほうから賑やかな声が聞こえてきた。
「もっと腰を落として!」
「うおおおおお!!」
「そう!そのまま!止まるな止まるな!」
炭治郎くんの通る声と、伊之助くんの獣じみた叫び。ときどき善逸くんの悲鳴みたいな返事が混じる。
みんな、今日も鍛錬に出ているんだなあと、胸の奥がいつの間にか少しあたたかくなる。あの二人は機能回復訓練に戻ってきてくれて良かった。
最初の頃はアオイさんも「もう知りません」と怒っていたけれど。それでも日々通ってくる彼らを追い払うことなく、体の動きを見て、できないところはきちんと注意して。
なんやかんや言いながらちゃんと教えてあげているのだから、やっぱりアオイさんは優しい。
夜になると、三人娘が病室を覗きに行って、炭治郎くんの“常中”が止まっていないか、確かめているのだと聞いた。
そんな風に頑張ってる皆のためにも、私も出来る限りのことをしてあげたい。
縁側から外に出て数歩進むと、空気がぐんとあたたかく変わる。その奥、塀際に小さな倉がある。
重い木の戸を横に滑らせると、干し草の匂いがふわりと鼻をくすぐった。目が暗さに慣れるまで一瞬だけ立ち止まり、それから内側の壁に沿って並ぶ棚に近付く。
包帯の束は、すぐに見つかった。アオイさんの言っていたとおり、藍色の紐で括られた箱が二段目の棚にいくつか並んでいる。
そのうちの三つを手に取ると、腕の中にずしりとした重みが加わった。洗濯籠に比べれば軽いけれど、それでも片手で抱えるには少し大きい。
「よし…」
小さく息を吐いて、倉を出る。
一度、門のほうへ目をやった。玄関から回ったほうが診察室には近いだろうと、石畳を踏んで門の内側へ出る。
玄関の花壇の周りでは蝶がひらひらと舞っていた。光が蜜の匂いと一緒にふんわり漂い、まるで蝶屋敷という名に相応しい光景だ。
「きれい…」
思わず漏れた声に応えるように、小さな影が動いた。足元に何かがすり寄ってくる気配。
「わっ…」
驚いて足を止めて見下ろせば、柔らかい毛並みの小さな三毛猫が私の足首に頬を押し当てていた。
「……あ。君、たしか…」
カナヲさんに懐いてる子だ。以前、庭の隅でカナヲさんの膝の上に乗って、目を細めていた姿を思い出す。
確か、名前はにゃー吉だったっけ。
声をかけると、にゃあ、と短く鳴いてさらに身体を預けてきた。
「ごめんね、今ちょっと手が塞がってて…」
包帯の箱を抱えているので抱き上げることもできず、私は玄関の段差の前で一度立ち止まる。
屋敷の中に猫を入れるわけにはいかない。畳もあるし、何より――
「しのぶさん、動物苦手だしね…」
小さく苦笑して、猫を避けようと半歩横にずれた。けれど、猫も一緒に半歩ついてくる。もう一度、反対側に足を出す。やっぱり猫もついてくる。
まるで影みたいに離れないものだから、思わず笑みが溢れた。
「ふふ、なあに?どうしたの?分からないよ…」
そう言いながら、仕方なくその場にしゃがみ込む。包帯の箱を片腕で抱え込み、空いたほうの手で猫の背中をそっと撫でた。
指先の下で、ふわふわの毛並みが小さく波打つ。猫は気持ちよさそうに目を細めると、そのままごろんと横に転がり、お腹をこちらに向けて見せた。喉の奥から、ゴロゴロと低い音が響く。
警戒心のない姿に思わず笑いながら、次はお腹を撫でる。最初に見かけたときは、手のひらに乗りそうなくらい小さな子猫だったのに。気付けば、背中のあたりもすっかりしっかりしてきている。
「大きくなったねえ…」
包帯の箱を抱えたまま、少しだけ指先で顎を掻いてやる。猫はさらに喉を鳴らし、前足で私の膝をちょいちょいと掴んだ。
これじゃあ屋敷には入れられないよ…と心の中で言い訳しながらも、その温もりが少し名残惜しくて、立ち上がるタイミングを掴み損なう。
そんな時だった。門のほうから、何やら物音がして誰かが入ってくる気配がした。
「…ぁ、あのう」
顔を上げると、顔を黒い布で覆った隠の女性が遠慮がちに門から顔を覗かせていた。
「…あ、はい。何かご用ですか?」
どこか居心地悪そうに体を竦めて、ちらちらとこちらを見つめている。
隠の人は大体庭の辺りまでは勝手に入ってくる人が多いから、初めての人なのかなと思いながら首を傾げて問えば、その女性はふう、と小さく意気込んで真っ直ぐに私を見据えた。
「あの。高月リサ様という方を探しているんですが…この屋敷にいらっしゃいますか?」
「えっ?あ、はい、高月リサは私ですけど……」
「あ、すみません。ご本人様でしたか…」
包帯の箱を抱え直しながら答えると、隠の女性は一瞬だけ驚いたように瞬きをして、そのまま静かにこちらへ歩み寄って来た。
近づくにつれ、彼女の黒布に隠れていない目元だけがどこか固く結ばれていて、言葉にされる前から胸に重みを感じる。
その瞬間、猫が私の足元からするりと離れ、影のほうへ走っていく。その小さな気配が遠ざかり、胸の奥で何かがざわりと揺れた。
…どうしてだろう。
彼女はまだ何も言っていないのに。なぜ、緊張してしまうのだろう。いや、違う。彼女の緊張がこちらまで伝わっているんだ。
私がそっと立ち上がると同時に、隠の女性は私の前で向き合うように足を止めた。そして、どこか言いにくそうに小さく口を開く。
「……その、高月さん、」
***
「あ、胡蝶様……っ、と、冨岡様も……!」
「お、お疲れさまです!怪我人の搬送を先程終えました…!」
「ご苦労さまです。ゆっくり休んでくださいね」
先程いた庭から廊下に戻ると、外よりずいぶんと涼しく感じた。冨岡さんと並んで歩いていると、隠の青年数人が慌てて現れ、私と冨岡さんを見て深々と頭を下げる。
微笑んで声をかけると、彼らは「は、はいっ」と返事をして、私たちの脇をそそくさと通り過ぎて行った。
何人かは、すれ違いざまにちらっと冨岡さんの横顔を盗み見て、さらに背筋を伸ばす。
…まあ、そうなるだろう。私と冨岡さん、という組み合わせは、隠にとってはあまり見慣れない光景だ。隊士ですらそうかもしれないけれど。
「那田蜘蛛山の報告書。改めて全部読みましたよ」
私は、わざと何でもないような口調で言った。
冨岡さんは前を見たまま、わずかに視線だけこちらに動かす。
「重傷者も殉職者も多くて、本当に大変な任務でしたね。隠たちも、しばらくは寝る暇もなかったと言っていました」
私は続けるか迷って、代わりに廊下の先へ視線を向けた。玄関に近づくにつれて、外の光が強くなってくる。
「……突然、屋敷に来るものですから驚きましたが」
言葉を選ぶふりをして少し間を置き、それから横を歩く人へ顔を向けた。
「次の分の薬をお渡しできてよかったです。あ、服用のしすぎは厳禁ですよ?」
「…ああ。分かってる」
短く返された声は、いつも通り感情が読めない。私は、その返事に小さく微笑みながら、心の中では肩をすくめていた。
本当に、分かっているのだろうか。薬を受け取りに来る間隔が少しずつ狭まっているのは、こちらもちゃんと気付いているのだけれど。
彼の任務の内容を細かく聞くつもりはない。けれど、この人の場合、無茶をしていないと言い切れる自信もない。表情がほとんど動かないから、尚更だ。
…まあ、今ここで問い詰めたところで、まともな答えは返ってこないだろうが。
そんなことを思っていたとき、ふと、胸の中に小さないたずら心が湧いた。せっかくここまで来たのだ。少しくらい、揶揄ってみても罰は当たらないだろう。
「そういえば」
さりげない調子を装って口を開く。
「リサさんには会って帰らなくていいのですか?」
冨岡さんの肩がぴくり、と跳ねた。
返事はすぐには返ってこなかったが、廊下の先を見据えた瞳がわずかに揺らぐ。そして。
「……いい」
とだけ、低く声が落とされた。
まさか、そんな返答で私に通じるはずもないが。
「てっきり今日は、リサさんの様子を見に来たのだと思っていたのですが。違いますか?随分、彼女を気にかけていますよね」
わざと何気ない風を装いながら、すぐ横顔を覗き込む。
冨岡さんの表情はほとんど変わらない。ただ、視線だけがほんの少し泳ぐ。
「……別に」
いつもの言葉だ。便利な逃げ道。
けれど、今回はそれを使わせるつもりはない。
「気にしていないとは言わせませんよ。尾崎隊士の件で、わざわざ手紙を送ってくださったのは、冨岡さんなんですから」
あの時のことが胸の奥で淡く痛む。
戦死者の記録に並んでいた名前。それに気付いてわざわざ写し取り、私のもとへ意見を求めてきた人。
もう、「自分は何も気にしていない」なんて言い訳は通用しない。
彼女を拾ってきたのは、冨岡さん、あなただ。行く当ても身寄りもなく、傷も心細さも隠しきれない彼女を、この屋敷へ連れてきたのはあなたで。
だからこそ、彼女がここでどう生きていくのか、その責任の一端を自分が負っていると――本当は、誰よりも分かっているはず。
“保護者にでもなったつもりなのかしら”なんて軽く心の中で揶揄ってみせるけれど、内情はもう少し複雑だ。
拾ってきたから気にかけている、という単純な理屈だけでは説明がつかない目を、この人は時々する。あの子を見るときの沈黙は、任務報告を聞くときのそれとは違う。言葉にしないくせに、距離を置くふりだけは上手で、でも視線だけはちゃんと追ってしまう。
隣ではあ、と冨岡さんが小さく息を吐いた。
「…なぜか放っておけないんだ」
まあ、その気持ちは理解できる。ここに何とか根を張ろうと頑張っている少女。放っておける方がおかしい。
でも、その一言が、どうしてか私にはやはり少し言い訳めいて聞こえて。「なぜか」と曖昧に濁してしまうところなんかがそうだ。
「言葉が少なすぎて、リサさんにまで嫌われてないといいですね」
「げほっ…!」
意地悪心でつい、口が滑った。那田蜘蛛山でも少し揶揄ったとき、彼は少し動揺していたからもしかして、と思ったが。今回はさらに分かりやすかった。隣で、冨岡さんが大きく咳き込む。
でも半分は本音でもある。リサさんは自分が誰かの迷惑になっていないかを、いつも気にしている。言葉にして助けを求めることも、甘えることもまだ下手だ。
だから、その不器用さと冨岡さんの無口さが噛み合わないのではないかと…どうしても気になってしまったのだが。
「あら。もう嫌われてしまっていたのですね。それは失礼しました。余計なことを」
わざとにこりと笑って軽い声を返すと、冨岡さんの眉がふっと寄った。
「……胡蝶。やめろ」
リサさんの名前が絡むと、この人はとても分かりやすくなる。
「言わせてもらいますけど。説明しない、表情を変えない、言葉が足りない。そんな状態で黙って立っていても、周りが勝手に分かってくれると思っているなら、それは大間違いです」
「…胡蝶」
「隊士たちは、ただでさえ命がけで戦っているんです。余計な不安要素があると、自分の力以上のものを出そうとして無茶をします。あなたの“沈黙”は、時にそれを煽ることもあるんですよ」
「…胡蝶」
「リサさんだってそうです。きっと、何が正解か分からなくて、不安で――」
「胡蝶」
三度目の呼びかけは、先ほどまでとは少し違う響きを持っていた。
ぴたりと足を止めそうになる。けれど、言葉だけは止めてやりたくなくて、私はほんの少しだけ顎を上げる。
…少し言いすぎただろうか。そう内心で苦笑しながらも、いや、彼はこれを自分で理解しておくべきだと視線を向ける。
けれど、冨岡さんの目は私に向いていなかった。玄関の方を見ていた。じっと、何かを見つめるように。
その視線を辿っていくと、廊下を抜けた先。開いた玄関の戸の向こうに、小さな背中がひとつ立っていた。
「…あら」
リサさんだ。腕の中に、見覚えのある藍色の箱が抱えられている。
その真正面に、黒い布で顔を覆った隠の女性が立っていた。
「……ごめんなさい。ちょっと、意味が……どういう、ことですか?」
かすれた声が、こちらまで届いた。普段のリサさんの声より幾分か低くて、震えていた。
何か、あったのだろうか。様子がおかしい。
二人の様子を確かめるようにじっと目で追っていると、隠の女性の手元にあるものが目に入った。
「あれ、は…」
細い紐につながった首飾りだ。リサさんが首元で何度も確かめるように触れていたものとよく似ている。
それが何か分かった時、さぁ、と血の気が引いた。…まさか。
「……まずいな」
隣で冨岡さんが低く呟いた。
その通りだ。まずい。いや、まずいどころではない。この嫌な予感は、とっくに手遅れかもしれないと。
「リサさ――」
咄嗟に呼び止めようと手を伸ばし、口を開いたその刹那。
「尾崎隊士の遺書に入っていました」
隠の女性が一気に言葉を押し出した。
「自分が死んだら、この首飾りを高月リサという蝶屋敷にいる娘に渡してくれと……そう書かれていました」
玄関先の空気が、ひゅうっと一気に冷える。伸ばした私の手は、リサさんを掴みきれないまま宙で彷徨った。
「遺書…?」というリサさんの小さな声は、その空気の重さの中でかろうじて形になるが、それでも隠の女性はリサさんの動揺には気がつけず、丁寧な口調で続ける。
「本来なら、彼女の鎹鴉がもしもの時にはあなたに渡すよう言われていたそうですが……ご主人が亡くなった際、憔悴が激しく、飛べる状態ではなかったようです。遺品を整理していたところ……その、“こうなることを見越して”か、遺書が見つかりまして。その中に、あなたへの言伝えが……」
想定外だった。まさか、尾崎隊士がそんなものを遺していたとは。
…いや、違う。何も遺していないと考える私の考えの方が浅はかだった。彼女に隠そうとしたこと自体が間違いだったのだ。
恐る恐るリサさんの表情を確かめると、目に見えて血の気が引いていた。抱えていた箱を支える力も失い、ぱさりと乾いた音が玄関先に響く。
「ご、め……なさい……よく、意味が……。尾崎さん、は……死ん、だんですか……?」
声が震えていた。喉が詰まって、言葉の形になるたびに息が上ずる。
隠の女性が、いたたまれないように視線を泳がせながら答えようとした。
「ええ、彼女は那田蜘蛛山で……」
しかし、そこまで言ってはっと息を呑んだ。彼女もやっと、リサさんがその事実をまだ知らされていないと理解したのだろう。
その視線に驚きと、申し訳なさと、恐怖がぐしゃりと混ざっていて。それが廊下の奥にいる私へ向けられた瞬間、胸の奥がきゅうと縮んだ。
ああ。最悪だ。取り返しのつかないことになってしまった。
知るべき人間から真実を遠ざけて、帰りを信じて待ち続けていた彼女の想いに蓋をした私達の判断が間違っていた。
必要のない人にまで罪悪感を与えてしまい、“守るため”なんて理由にすり替えて、本当は彼女の涙を見るのが怖かっただけじゃないのか。
差し出された首飾りを掴もうとしたリサさん指がそのまま力を失い、シャランと地面の上に静かに落ちる。
「……なに、…言って……」
そう言って、リサさんの胸が細かく上下する。
まずい。過呼吸を起こしかけている。色んな医療的な知識が頭をよぎるより先に、"あ、崩れる"と直感した。
「リサさん……っ!」
私は咄嗟に駆け寄って、彼女の背に手を添えた。
重心が外れていくみたいにリサさんの足元から力が抜け、ガクン、と膝が折れる。瞳の焦点はどこにも定まっていなかった。
「リサさんっ…!ゆっくり息を吸ってください。吐いて。大丈夫、大丈夫ですから」
しかし、背中を擦っても、その安心感で逆に酷くなるばかりだった。
胸の上下が早い。呼吸というより、ただ空気を掴み損ねているだけの動き。
「はッ……は……ッ…ひゅ、」
「ゆっくり深呼吸してください。落ち着いて、大丈夫ですよ」
何が大丈夫なんだ。大丈夫なわけないだろう。
そうじゃない、この子が今求めているものはそんな言葉じゃなくて。
「リサさん。ゆっくり、ゆっくり吸って。大丈夫、…大丈夫ですよ」
私だってよく分かっているはずだ。心臓を素手で握り潰されるみたいな、この痛み。血の代わりに空気がこぼれ落ちていくような虚しさ。
「焦らず、呼吸を続けてください。落ち着いて」
なのに、そんな陳腐な言葉しか出てこない。それ以上、どんな言葉をかけてやるべきか分からない。
彼女にも私と同様の痛みが訪れると知っていながら、私はその瞬間を先延ばしにしようとした。
彼女のためだと言いながら本当は、鬼によって傷つく誰かを自分がもう見たくなかっただけではないか。
だから今、隠の女性の瞳に浮かぶ"こんなつもりじゃなかった"という怯えは、本当は私が負うべき重さで。彼女の世界を壊す役目を、私が担わなければならなかったはずで。
「リサさん…!息を…!」
自分の情けなさが、一気に胸へせり上がってくる。もう、かけてやる言葉さえ出てこない。慰めは違う。励ましも違う。諭すのも違う。
言葉を探せば探すほど、出てくる言葉が全部、薄っぺらく思えてしまって。
「リサさ……、」
それ以上、言葉を紡げなくなった。ただ背を支える腕だけが、かろうじてリサさんに触れている。
「なん、でっ……!ど、して……!おざきさ……すぐ、戻る……って……ッ!」
リサさんの喉から溢れるのは、もはや言葉の形をなさない、心そのものが砕け散るような絶叫。
必死にその細い身体を抱き寄せるが、腕の中の彼女は、まるで氷の破片を素手で握りしめているかのように激しく震え、私の体温さえ拒絶しているように見えた。
「うそっ……ぜったいうそ……っ!おざきさ、っ、そんなわけ…っ…!」
まずい。このままでは、彼女が壊れてしまう。
呼吸が乱れ、身体がくずおれるリサさんを必死に支える。
「っ、リサさん、私を見てください。息を吸って、吐いて……っ、お願いですから……!」
必死に声をかけ、彼女の顔を上げさせようとするが、リサさんの視界は既に絶望に呑み込まれ、私の姿など一向に映らない。
その時、私の思考はふっ、と白く濁った。目の前の光景が、あの日、姉を失った瞬間の自分と重なる。
癒やし手として多くの人を診てきたはずなのに、今、人の心の叫びを前にして、言葉も施すべき処置も、一つとして浮かんでこない。
頭の中は真っ白な騒音で埋め尽くされ、柄にもなく狼狽え、ただ彼女の震える腕を握りしめることしかできなかった。
───その時。石畳の上に、長い影が落ちた。
この混乱を切り裂くような、冷ややかで、けれど圧倒的なまでに揺るぎのない、海のような静寂を纏った影。
「……遺品整理は。彼女の分で終わりなのか」
はっと顔を上げると、そこにはいつものように感情を押し殺した冨岡さんが、隠の女性の前に立ち塞がっていた。
「っい、いえ……まだ数名、残っています……」
「辛い役目だろう。それでも続けてくれている。…礼を言う」
短い言葉だった。けれど、隠の彼女には充分だったのだろう。一瞬泣きそうな顔になり、深く頭を下げる。
「もう下がれ」
その一言で、彼女は胸の前で拳を握りしめて、逃げるように門の向こうへと消えて行った。
…きっと冨岡さんは、これ以上彼女に罪悪感を背負わせないよう、無理やりこの場から切り離したのだ。
いつも言葉が足りなくて誤解ばかりされているくせに。こういうところでは妙に気が回る。私ができなかったことを簡単にやってのけるその姿にも、どこか悔しさを覚えた。
自分の未熟さに唇を噛んだ私の前で、冨岡さんは石畳の上に無残に転がった首飾りへと視線を落とした。
それをそっと拾い上げ、目線を合わせるようにして、崩れ落ちたリサさんの前に膝を落とす。
そして、彼女の視界に無理矢理自分を入れ込むように、彼はその細い腕を掴んだ。次の瞬間。
その腕をぐいと引き寄せ、抗う隙も与えず、自分の広い胸の中に彼女を力強く抱き寄せたのだ。
私は驚きのあまり、喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。
「───泣け」
ただそれだけを言う。
優しい言葉をかけてやるわけでもなく。
「いいから泣け」
リサさんの耳元で、まるで命令するように。
…全く、貴方って人は。こういう時くらい、もっと別の言葉をかけてあげられないんですか。
不器用にも程がありはしませんか。過呼吸になりかけている人に、これ以上の負荷をかけてどうするつもりなんですか。貴方は鬼ですか──そう毒づこうとした私の思考は、次の瞬間、裏切られることになった。
「…っ、ぅあ……」
凍りついていたリサさんの瞳に、熱い雫がじわりと滲み出す。
小さく息を呑み、指先を震わせながら、彼女は縋るように冨岡さんの背へと腕を回した。彼の隊服に顔を強く押し当てた、次の瞬間。
「……うぁぁぁぁっ……あぁぁぁぁ…っ!」
破裂するみたいに、リサさんは大きな声を上げて泣き出した。その声は、泣き声というより胸を引き裂く叫びのようで。
私は何もできずにその姿をただ見つめる。リサさんの指先が、必死に冨岡さんの羽織を探すように掴んだ。
「……っ、うぁぁ……っ、あぁ……!」
そして私は悟った。この人は、何も考えていないようで、すべて分かってやっているのだと。リサさんには慰めの言葉よりも、まずは泣かせてあげることが一番なのだと。
「…ッ…う、ぁ、ッ…ッ、ひゅ……」
泣くためには、息を吸わなければならない。声を出すには、吐かなければならない。
浅く乱れて、行き場を失っていた呼吸が、泣くことで否応なく「吸って、吐く」の形に戻っていく。
そんな声に呼ばれるように、当然「何事だ?」と屋敷の中からぞろぞろと人が集まってきた。
それでも、冨岡さんは気にすることはなく。ただ絶望の縁に立たされた1人の女の子を、全てのものから隠すように腕の中に閉じ込めた。
「うぁぁ……っ……ひっ、ぅぁぁ……っ」
リサさんの泣き声が玄関にこだまする。
こんなにも、声を荒げることが出来たのかと。こんなにも、泣き喚くことが出来る子だったんだと。
声がひどく掠れているのに、なお叫ぼうとするその姿に胸がぎゅうっと痛む。
「…っ…うぁぁぁあああ…っ」
「すまない」
だんだん、彼女を泣かせてあげられなかった自分にも嫌気がさしてきて。そうして抱きしめているのが私だったら、どうだっただろうって。
「とみ、岡、さっ…!!おざ……っ、ひッ……おざ、きさん、が……!!」
「すまない、高月」
リサさんは言葉にならない言葉で、どうにか現実に縋りつこうとしている。冨岡さんは目を伏せ、その痛みをひとつひとつ受け止めるように頷いた。
「ごめん。ごめん、高月……」
ぎゅっ、と。折れそうなほど彼女を抱きしめ、冨岡さんは苦しげに眉間を寄せる。
その“ごめん”という言葉に込められた想いを、私はすぐに理解した。
先に知っていながら、事実を正しく伝えられなかったこと。柱でありながら、あの山で彼女の親友を救えずに終わってしまったこと。あるいは、今こうして彼女を泣かせることしかできない、自身の無力さに対して。…そんなところだろうか。
「…………」
冨岡さんが腕の力を強めると、リサさんは彼に縋るようにさらに声を荒げて泣き出した。
この玄関に屋敷中の人が集まっているというのに、誰も、言葉を発せない。皆じっと立ち止まったまま、その場の痛みに息を呑んでいる。
炭治郎くんは拳を握りしめて、いつもは騒がしい善逸くんと伊之助くんでさえ、叫ぶことも忘れて立ち尽くしている。
三人娘は泣き出しそうな顔で互いの手を握りしめ、アオイは口元を押さえて視線を落とし、カナヲでさえも眉をつらそうに寄せていた。
療養中の隊士、任務に立ち寄った隠たち、みんな廊下の影でじっと立ち止まったまま。屋敷全体が彼女の泣き声の深い闇に沈む。
「……っ……っ……ひっ……うぁ……っ」
彼女の声を浴びるたび、冨岡さんは喉を震わせ、何かを懸命に押し殺していた。その横顔が、痛いほどに苦しそうで。
「……」
冨岡さん。
貴方も、そんな顔をするんですね。
というか——そんな顔、できたんですね。
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