32
「ありがとうございます、リサさん。助かりました」
外の庭からは、相変わらず炭治郎くんたちの元気な声が遠くに聞こえていた。お昼を過ぎても彼らの猛特訓は続いているようで、本当に頭が下がる思いだ。
「いえ、これくらいいつでも言ってください」
私は胸に抱えていた、洗い立ての手拭いの束を棚へと収めながら笑顔で答える。
朝から晩までとても忙しいアオイさんだ。少しだけ役に立たなければと、私もできる限りのことは進んで手伝うようにしていた。
「そうだ、リサさん。申し訳ないのですが、あとひとつだけお願いをしてもいいですか」
「はい、何でしょう?」
アオイさんが棚の中にある薬瓶の数を数えながら、申し訳なさそうに振り返る。
「裏庭の、一番奥にある古い蔵を覚えてますか?あそこの棚の二段目に、予備の葛根と芍薬を乾燥させた木箱が置いてあるんです。思ったより薬湯の消費が激しくて……。それをここまで持ってきてもらえますか?」
「裏庭の蔵ですね。わかりました、すぐに取ってきます!」
いつも誰よりも働いているアオイさんからの頼みごとだ。少しでも彼女の手助けができるのなら、どんなことだって喜んで引き受けたかった。
「この鍵を右に回すと開きます」
「わかりました」
アオイさんが懐から古びた鍵を取り出したのを、私は両手で包み込みように受け取った。
少し急ぎ足で木造の古い蔵へと向かいながら、アオイさんに頼まれた薬草の名前を頭の中で何度も繰り返す。
「葛根と芍薬……」
どちらも漢方薬によく使われる、代表的な生薬だっけ。
庭はすっかり初夏の色をしていた。太陽が眩しくて、何度も目を顰めてしまう。
炭治郎くんたちが鍛錬をしていた庭の方がもっと賑やかだけれど、本当に平和そのものだ。ここ最近ずっと忙しかったから、やっと気持ちも落ち着いてきたように思う。
…冨岡さんとは、あれから会っていない。
長期の任務に向かったと、しのぶさんから聞いた。なぜしのぶさんからその話を聞かされるのかと思ったが、何やら用事を伝える手紙と一緒に書かれていたらしい。
「しばらく屋敷を開けるから、帳簿の手伝いはお休みで大丈夫だそうですよ」と穏やかに言われて、私はただ頷くことしかできなかった。
けれど正直、ほっとしてる自分もいて。あんなことがあったあとで、すぐに顔を合わせる勇気はなかった。
何をどう言えばいいのかも、どんな表情で向き合えばいいのかも、まるで分からない。
脳裏にふっと、あの時の光景が蘇る。あんなふうに逃げ出してしまって、平然となんてしていられない。
「……はあ」
誰に聞かせるでもないため息が、小さく漏れた。自業自得なのは、わかってはいるのだけれど。
だから、冨岡さんとは会っていない。
でも――尾崎さんとは、もっと会っていない。彼女の顔が、脳裏に浮かんでくる。
彼女から、手紙ひとつ、届かないのだ。もちろん、それは珍しいことじゃない。任務に出れば、数日は連絡がつかないことなんていくらでもある。
以前だって、ふらりと蝶屋敷にやってきて、「ごめんね、お返事する余裕なかった」と笑っていたこともある。だから、今回もそうだと頭ではちゃんと理解しているのだけれど。
それでも――こうも音沙汰がないと、どうしても心配になってしまうのだ。
もし彼女に何かあれば、睡蓮がすぐ知らせに来てくれるだろうし、そこは心配していないけど…。
蔵に辿りつくと、言われた通り鍵を右に回し古い扉を開けた。様々な薬草の匂いが鼻をくすぐるなか奥へ進むと、アオイさんに言われた通り、棚の二段目から少し重みのある二つの木箱を見つけ出した。
葛根と……、芍薬。これだ。それらを胸の前に抱え込むと、私は慎重に蔵の外へと出る。
結構重いな…。鍵を閉めながら、何度か箱を抱え直す。これだと庭から戻るより、一度玄関からぐるっと回った方が早いかもしれない。
「よっと……」
「にゃあ」
「わっ」
なんとか片手で木箱を抱えながら玄関の戸を開けた時。足元にふさふさとした温かい毛並みが擦り寄ってきた。
白に茶や黒が混ざる毛並みに、気まぐれに揺れる尻尾。
「にゃー吉?」
彼は私を見上げて、もう一度「にゃあ」と喉を鳴らし、まるで「どこに行くの?」とでも言うように私の足元を八の字を描くように歩き回っている。
「ごめんにゃー吉、今ちょっと手が塞がってて……」
そう謝ったのだけれど、にゃー吉は諦める様子もなく、なおも「にゃおん」と鳴きながら、私の着物の裾に何度も体をすり寄せてくる。
「ふふ、なあに?どうしたの?分からないよ」
困りながらも小さく吹き出し、仕方なくその場にゆっくりとしゃがみ込んだ。
重い木箱をなんとか両膝の上にバランスよく乗せて抱え、空いた片手でよしよしとにゃー吉の背中を撫でてあげる。
けれど、にゃー吉は目を細めて気持ちよさそうにしつつも、どこか「そうじゃないんだよな」とでも言いたげに、不満そうに私の顔を見つめてくる。
「ええ?背中じゃないの?」
じゃあ、ここかな。今度はにゃー吉が一番好きなはずの、喉から顎の下あたりを指先で優しく毛並みに沿って撫で上げてみる。ゴロゴロと喉を鳴らす音は大きくなったものの、やっぱり何だか物足りなさそうに、にゃー吉は私の手首を前足でちょいちょいと突いてきた。
「ごめんね、お屋敷の中には入れられないんだ」
本当ならお部屋に連れていって、心ゆくまで撫でてあげたいけれど、そうもいかない。蝶屋敷はケガ人を扱う場所だし、畳の上に動物を入れるわけにはいかないのだ。
「お仕事が終わったらまた外で遊ぼうね」
それに、アオイさんも私を待っている。
そう言いながら、もう一度だけ柔らかい頭を撫でて立ち上がろうとした時だった。
「あのぅ……、す、すみません」
開け放たれた門先から、どこか遠慮がちな女性の声が聞こえてきた。撫でていた手を止め、しゃがんだ姿勢のまま顔を上げる。
そこには、全身を黒い衣服で覆った"隠"の女性が立っていた。背中を丸め、門の陰からこちらを窺うようにしている。
「はい。何かご用ですか?」
隠の人は大体、庭のあたりまでは勝手に入ってくる人が多い。初めてここへ来た人なのかなと思いながら首を傾げて問えば、その女性はふう、と小さく意気込んで真っ直ぐに私を見据えた。
「あの。高月リサ様という方を探しているんですが……この屋敷にいらっしゃいますか?」
「えっ?あ、はい、高月リサは私です」
隠の人が私に?なんの用だろうと驚きながら答えると、彼女も驚いたようにこちらへ歩み寄って来た。
「すみません。ご本人様でしたか……。えっと、その……」
「……?」
彼女はなぜか言いにくそうに視線を泳がせ、布に覆われた口元をもごもごと動かしている。
「どうかされたんですか?」
「高月様」
彼女はやっと意を決したように、懐から黒い布に包まれた小さな何かを取り出した。
その時、私の足元にいたにゃー吉が何かを察したように、するりとその場を離れる。
…どうしてだろう。彼女はまだ何も言っていないのに。なぜ、私まで緊張してしまうのだろう。
「那田蜘蛛山の件で、お渡ししなければならないものがあります」
***
「門の前まで送ります」
そう言って、私は手元にあった薬を冨岡さんへと差し出した。冨岡さんは何も言わずに差し出されたそれを受け取り、丁寧に懐へと仕舞う。
屋敷の長い廊下を二人並んで歩いていると、すれ違う隠や、療養中の隊士たちが私たちの姿を認めるたびに足を止め、深々と一礼をしていった。
私はいつものように笑顔でそれに応え、隣の人はいつものように表情を一切変えず、ただ前だけを見据えて歩く。
「ちょうど良かったです。次の分の薬をお渡しすることができて」
「ああ、感謝する」
「服用のしすぎは厳禁ですからね?」
薬を受け取りに来る間隔が、最近少しずつ狭まっているのを本人は気がついているのだろうか。任務が過酷さを増しているせいなのか、それともこの人自身が自分の限界を無視して刀を振り回し続けているせいなのか。
けれど、ここで何をどう問い詰めたところで、この人からまともな答えが返ってくるとは到底思えなかった。
「そういえば。今日はリサさんに会っていかなくてよろしいのですか?」
なんとなくそう尋ねると、冨岡さんはわずかに視線を泳がせる。
「今日は、リサさんの様子を見に来られたのですよね?違いますか?随分、彼女のことを気にかけていらっしゃいますね」
「……いや」
「尾崎隊士の件でわざわざ手紙を送ってくださったのは冨岡さんなのに、ですか」
「いや」などと、よくもまあそんな嘘を平然と口にできるものだ。何でもないふうを装うことすら満足にできていない、そんな朴念仁をいったいリサさんはどう思っているのだろうか。
「ですが冨岡さん、言葉が少なすぎてリサさんにまで嫌われていないといいですね」
「ゲホッゴホッ」
少しだけ揶揄っておこうと何気なくそう付け足した瞬間、隣で冨岡さんがものすごい勢いで咳き込んだ。私は思わず目を丸くする。
あら……?
「もしかして、リサさんにまでもう嫌われてしまっていたのですか?」
あながち冗談でもなさそうだ。リサさんに怯えられて逃げ出されでもしたのだろうか。
「それは失礼しました。余計なことを」
「……胡蝶、やめろ」
「そんなに焦らなくても大丈夫ですよ。あの子はとても優しい子ですから」
「……胡蝶」
「冨岡さんが少しばかり説明の足りない不器用な態度をとったとしても、きっと表面上はにこやかに付き合ってくれます」
「胡蝶」
いつも感情を排した能面のような顔をしているくせに、こういう時だけはこちらの嫌味が正しく突き刺さったような反応をするから可笑しい。
頑なに他者を拒絶し、孤高を気取るこの男が、なぜリサさんのことだけは放っておけないなどというのか。
「同情にしては、ずいぶん深入りしすぎだと思いませんか」
貴方がそうやって不器用にあちこちへ首を突っ込むせいで、あろうことか私と冨岡さんが恋仲なのではないか、などという根も葉もない噂まで流れる始末なのだ。
まったく、これ以上私のあずかり知らぬところで、妙な誤解を振り撒かれては堪まったものではない。
「噂、知ってます?どうにかしてくださいませんか。本当に迷惑しているのですけれど」
殺隊の情報網の速さと、その内容のくだらなさにはつくづく呆れてしまう。
「まあ、そんなだからリサさんにも嫌われるんでしょうね」
「胡蝶」
「何です?」
「……待て」
「……」
冨岡さんの足が、ぴたりと止まる。それにつられるようにして私も足を止める。
さすがに、額のあたりでぷつりと何かが弾けかけた。
「何です?命令やめていただけます?人の話を真面目に聞いて――」
しかし、冨岡さんの視線がこちらに向いていないことに気づいて思いとどまった。
一体どこを見て……。その視線の先を辿るように振り返ると、ぽつりと玄関先に佇む人影が目に入る。
「あら、リサさん」
と、向かい合って話し込んでいるのは、女性の隠だろうか。珍しい組み合わせだ。そんなリサさんの手には、薬草の入った木箱が抱えられている。
「……ごめんなさい。ちょっと、意味が……どういう、ことですか……?」
しかし、リサさんの様子が、どこかおかしい。
二人の様子を確かめるようにじっと見つめていると、隠の女性が懐から何かを取り出した。
それは細い紐につながった、青い石の首飾りだった。リサさんがいつも首元に大切そうにつけているものと、とてもよく似ている一対の――。
「まずいな」と、隣で冨岡さんが低く呟いた。
「ええ」
まずい、どころではない。それが何を意味するのかが分かった瞬間、さぁ、と全身の血の気が引いていった。
だって、あれは――。
いつだったか、リサさんが本当に嬉しそうに、愛おしそうに「尾崎さんとお揃いなんです」と私に教えてくれた、大切な宝物だったはずなのだ。
それが今、彼女の手に渡ってしまったらどうなるか。想像するだけで事足りた。
「リサさ――!」
私は手を伸ばし、咄嗟に駆け寄ろうとした。
しかし、その刹那。
「尾崎隊士の遺書に入っていました」
隠の女性の言葉が、非情にも静まり返った玄関先に響き渡ってしまった。
「本来なら、彼女の鎹鴉がもしもの時にはあなたに渡すよう言われていたそうですが……ご主人が亡くなった際、憔悴が激しく、飛べる状態ではなかったようです。遺品を整理していたところ……その、こうなることを見越してか、遺書が見つかりまして。その中にあなたへの言伝えが……」
何てことを。
隠の女性は、目の前の少女が何も知らされていないことを知らない。だからこそ、残酷な事実を容赦なく紡ぎ出していく。
金縛りにでも遭ったかのように足が動かない。最悪の形で真実が暴かれていくのを、ただ見ていることしかできなかった。
「……い、しょ……?」
リサさんは血の気の引いた顔で、隠の女性の手元にある首飾りを見つめたまま力なく首を振る。
「亡くなった……って、だれが……?遺書って、なんですか……?」
言葉の意味がうまく脳に届いていないように、リサさんは視線を彷徨わせながらその言葉を繰り返した。
だって、尾崎さんは今もどこかの任務地で、元気に刀を振るっているはずだったのだ。…そういうことになっていた。
「ご、め……なさい。よく、意味が……。尾崎さん、は……死ん、だんですか……?」
「ええ、彼女は那田蜘蛛山で……」
そこまで言いかけて、隠の女性ははっと息を呑む。
目の前の少女の、あまりにも生気を失った瞳。そして、全てを初めて耳にしたと言わんばかりの怯え方に、致命的な何かに気づいたのだ。
恐ろしい事実に触れてしまったかのような戦慄が、隠の女性の表情を強張らせる。救いを求めるようにして泳がせた視線が、廊下の先に佇む私たちの姿を捉えた瞬間。彼女の顔色がさあっと一気に青ざめていった。
「……なに、……言って……」
リサさんは震える手を伸ばし、辛うじてその首飾りを掴もうとした。けれど、指先にはもう、触れたものを引き寄せるだけの力は残されていない。
手から滑り落ちた小さな石が、玄関の叩きの上に、シャランと寂しげな音を立てて転がる。
「うそ……、だって、……必ず無事で戻るって……言ってた、のに……」
その直後だった。リサさんがそれまで腕の中にしっかりと抱え込んでいた、重みのある二つの木箱が彼女の手元から滑り落ちた。
ドサリと鈍い音がして、中から乾燥した薬草が床へ散らばる。
「あ……っ、だ、って……そんな、おか、し……」
リサさんの引き絞るような呼吸の音が、みるみるうちに浅く、速くなっていくのが遠目からでも分かった。
まずい。過呼吸を起こしかけている。
「リサさん……っ!」
私は廊下を蹴り、リサさんの元へと駆け寄った。
今にも倒れそうな彼女の背中にそっと手を添える。けれど、私の手が触れた瞬間、糸が切れたようにガクンと彼女の膝が折れた。
辛うじて床に手をついたものの、リサさんは狂ったように何度も、何度も短い呼吸を繰り返している。瞳の焦点もまったく定まっていない。
「リサさんっ……!ゆっくり息を吸ってください。大丈夫、大丈夫ですから……!」
必死に声をかけながら、少しでも呼吸が落ち着くようにと彼女の背中を優しく擦る。
けれど、その安心感で逆に酷くなるばかりだった。
「は……っ、は……、は、あ、……っ」
「ゆっくり深呼吸してください。落ち着いて、大丈夫、大丈夫ですよ」
言葉を重ねながら、自分までもが酷く狼狽えてしまう。
何が大丈夫なんだ。大丈夫なわけがない。そんなその場しのぎの気休めを言っている場合ではないのだ。
そうじゃない。彼女が今求めているものは、そんな言葉じゃなくて。
「リサさん。ゆっくり、ゆっくり吸って」
私だって、よく分かっているはずだ。大切な人を突如として奪われ、世界が反転してしまうような、この胸の引き裂かれるような痛みを。
「大丈夫、大丈夫ですよ……!」
それなのに。私には、彼女を救うための言葉が何一つ見つけられなった。
リサさんにも私と同様の痛みが訪れると知っていながら、私はその瞬間を先延ばしにしようとした。
彼女のためだと言いながら本当は、鬼によって傷つく誰かを自分がもう見たくなかっただけではないか。
「なん、でっ……!ど、して……!」
だから今、隠の女性の瞳に浮かぶ「こんなつもりじゃなかった」という怯えは、本当は私が負うべき重さで。
「おざきさ……っ!すぐ、もどる……って……ッ!」
彼女の世界を壊す役目を、本当は私が担わなければならなかったはずで。
「うそっ……ぜったいうそ……っ!そんなわけっ……!」
過呼吸で酸素が行き届かない体は、拒絶反応を起こして激しく震えている。私は崩れ落ちていく彼女の肩を、必死に抱きとめた。
「っ、リサさん!私を見てください。息を吸って、吐いて……っ、お願いですから……!」
必死に名前を呼び、私の顔を見させようと試みる。けれど、今の彼女にはそれはただの雑音でしかない。
どうすればいい。何を、してあげたらいい。医療の知識をいくら手繰り寄せても、今の彼女を救う術が見つからない。
脳裏を過るのは、あの日。冷たくなった姉さんを抱きしめて泣き叫ぶことしかできなかった、無力で、愚かで、未熟な自分の姿。
薬を処方することはできても、引き裂かれた心の縫い合わせ方なんて誰も教えてくれなかった。愛する者を失った絶望から救い出す方法なんて、どこを探しても書いてはくれなかった。神様も、仏様も、家族も姉も救えないこの無力な手しか与えてはくれなかった。
どれだけ心を尽くしても、薬を処方しても、結局私は誰も救えないのではないか。そんな悍ましい自問自答が頭を巡りはじめる。
今目の前で壊れかけている彼女の苦しみに、私はただ立ち尽くすことしかできない。姉さんを失ったあの夜から、私は一歩も前に進めてなどいない。
それでもと、伸ばしかけた腕は彼女を掴むことは出来ず。頭上に落ちた大きな影を見上げれば、そこに立っていたのは冨岡さんだった。
彼は、硬直していた隠の女性へと静かに歩み寄る。
「遺品整理は、これで終わりか」
その問いに、隠の女性は弾かれたように何度も首を縦に振り、「はい…っ」と涙混じりの声を絞り出した。
「そうか。辛い仕事だろう。それでも、遺族や仲間のためにこうして届けてくれたことに感謝する」
「……っ、」
「ここは俺たちが引き受ける。お前はもう行っていい」
彼女は、まるで赦しを得たかのようにボロボロと大粒の涙をこぼしながら、深々と頭を下げ、逃げるようにその場を去っていった。
そんな姿を見て、私は理解する。
…そうか。冨岡さんは、あれ以上あの女性に罪悪感を背負わせないよう、まずこの場から切り離したのだと。
いつも言葉が足りなくて、周囲から誤解ばかりされているくせに。どうしてこういう時だけ、そんな気が回るのだろう。
私ができなかったことを、いとも簡単にやってのける彼に、どうしようもない悔しさと、己の未熟さが突きつけられる。
私の前で、冨岡さんは石畳の上に転がったあの首飾りを拾い上げると、今度はリサさんの前に膝を落とした。
次の瞬間。
冨岡さんはリサさんの腕を引いて、その広い胸の中へと彼女を抱き寄せた。
「───泣け」
ただそれだけ。
優しい言葉をかけてやるでもなく。
「いいから泣け」
過度に震える彼女の体を、大きな腕でしっかりと囲い込みながらそう告げる。
…全く、貴方って人は。こういう時くらい、もっと別の言葉をかけてあげられないのですか。
───私だったら。
私、だったら、もっと。
けれど、自分の未熟さにきつく唇を噛み締めながら気づいてしまう。私がかけようとした言葉は、ただのまやかしでしかなかったことに。
「と、みお、かさ───……おざ、お、ざきさん、がぁぁぁ……っ」
やがておずおずと動かし始めた腕は冨岡さんの背中にゆっくりと回って。涙を隠すように胸に顔を埋めた。
「──………ぁぁぁぁっ……ぅぁぁぁぁ───…っ」
人目も気にせず、その腕の中で嗚咽のようなものを含みながら。リサさんが大きな声をあげて泣き出した。
冨岡さんは、すべて分かっていたのだ。彼女を落ち着かせるには、まず泣かせることなのだと。
泣くためには、息を吸わなければならない。声を出すためには、空気を外へ吐かなければならない。
行き場を失い、壊れかけていた呼吸が、激しく泣くことで、否応なく「吸って、吐く」という形を取り戻していく。
そんな声に呼ばれるように「なんだ?」と屋敷の中から男達はこの状況をぞろぞろと見に来る。
それでも冨岡さんは気にすることはなく。ただ黙ったまま一人の女の子を全てのものから隠すように腕の中に閉じ込め続けた。
「うぁぁ……っ……ひっ、ぅぁぁ……っ、……おざき、さ……っ!」
こんなにも、声を荒げて叫ぶことができる子だったのかと。これほどまでに、子供のように泣き喚くことができる子だったんだと。
胸を突かれるような思いでその姿を見つめる。
「……っ……うぁぁぁあああ……っ!」
「すまない」
激しく身を震わせる彼女の耳元で、冨岡さんが苦しげに声を落とす。
「おざ……っ、ひッ……おざ、きさん……っ、ど、して……っ」
「すまない、高月」
リサさんが冨岡さんの胸に縋り付き、答えのない問いをぶつける。冨岡さんは眉間を深く寄せ、折れそうなほどにその体を強く強く抱きしめ直す。
「ごめん。ごめん、高月……」
何度も繰り返される、その「ごめん」という言葉。
彼がどんな想いでその謝罪を口にしているのか、私には痛いほどに理解できてしまった。
知っていながら、彼女を傷つけまいと事実を正しく伝えずに隠し続けていたこと。同じ那田蜘蛛山に柱として赴きながら、彼女にとって何よりも大切だった尾崎さんという隊士を、生きて救い出すことができなかったこと。
そして何より――今こうして傷つき、壊れていく彼女の目の前で、ただ不器用に抱きしめて泣かせることしかできない、自分の無力さに対して。
「うっ……っ……ひっ……うぁ……っ」
彼女の声を浴びるたび、冨岡さんは喉を震わせ、何かを懸命に押し殺していた。その横顔が、痛いほどに苦しそうで。
「……」
冨岡さん。
貴方も、そんな顔をするんですね。
というか——そんな顔、できたんですね。
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