33
「…胡蝶」
「あ、冨岡さん…。まだいらっしゃったんですね」
「高月の様子はどうだ」
「……大丈夫ですよ。静かに眠っています。脱水気味だったので念のため補液していますが、じきに目を覚ますでしょう」
病室の引き戸を静かに閉めながらそう言うと、冨岡さんはほんの僅か瞳を和らげて目を伏せた。
彼の待っていた廊下へ出ると、その後ろでは、少し離れたところで三人娘が肩を寄せて立ち、炭治郎くんたちが訓練場の方へ戻りきれずに神妙な面持ちでこちらを見ていた。
しかし誰も、それ以上はこちらへ近づいて来ない。この状況で、どんな言葉をかければ良いのかわからないのかもしれない。色んな過去を抱えた人たちがここにいるんだ。彼らにも何か思うことがあったのだろう。
…もちろん、私にだって。
「…皆さんも、そんなに心配しなくて大丈夫ですよ。今はアオイがついてます」
口角を上げられるだけ上げて視線を向けてそう言うと、皆の顔にも少し色が戻った。有無を言わせないように私は続ける。
「ほら。ここに集まっていても、リサさんは目を覚ましませんよ。皆さん、一度持ち場に戻りましょう」
誰かが小さく頷いた。善逸くんが目を擦って、炭治郎くんが「はい…」と深く頭を下げる。
三人娘も揃ってぺこりと頭を下げて、ぽつりぽつりと廊下を去っていった。
足音が遠ざかっていくのを聞きながら、冨岡さんと二人きりになった廊下で私は肩の力を抜いた。
――先程、玄関先で泣き崩れたリサさんは、冨岡さんの腕の中でしばらく肩を震わせ続けていたが、呼吸がやっと整ってきたと思った矢先、意識を失ってしまった。
…はじめて大切な人の死を目の当たりにしてしまったんだ。無理もない。心が壊れきる前の防衛本能だったのかもしれない。
ぐったりと冨岡さんの腕に体重を預け、まつ毛が濡れたまま瞳が伏せられた姿はとても痛々しく見えた。
とりあえず部屋に運んで休ませるべきだと、冨岡さんはリサさんをそのまま抱き抱えて病室まで運んだ。
私とアオイは呼吸をしやすくしてやろうとリサさんの着物の帯をゆるめ、念のため脱水にならないよう点滴も投与した。
…どうして、こんなことになってしまったのか。彼女を診ながらずっと考えていたけれど、答えなんて出るはずもなく。
自分達はどうにかしてこの事態を避けられなかったのか。もっと早くあの山に辿り着いていれば、もっと多くの命を救うことだってできたのではないか。
"私たちと同じ思いを他の人にはさせない" 姉と誓い合ったその思いが、私の中で浮かび上がる。
真実を伝えることを遅らせることで、優しさになると本気で信じていたのか。
いつだってこうなのだ。何が悪かったのかを考えたところで、亡くなった命はもう二度と戻ってこない。
それでも考えずにはいられない。失った家族、姉、継子、友人、仲間達、みんなで笑い合っていたはずの未来を。
私は視線を落として、小さく息を吐いた。さっきのリサさんの泣き声がまだ耳に張りついている。
「……冨岡さんがいてくださって良かったです。すみません、情けないところを見せて。ありがとうございました」
「…いや、俺が判断を間違えた。これは俺の責任だ」
「それは私だって同じです」
「…いや、違う」
自分の心もやっと落ち着いてきて、目を伏せながらそう言うと冨岡さんはどこか苦しそうに眉を寄せた。
その“違う”が、何を否定しているのか分からない。分からないまま、私も言葉を失う。
…私はまだ、動揺しているのだろうか。過去のしがらみに囚われて、何もできなかった自分が情けないと思うと同時に、心の底に沈めていたものが浮いて胸がきしむ。
彼女もこれから、自分の最愛の親友が死んだという呪いだけを胸に残して、一生苦しむのだろうか。…私と同じように。
遠くで木の葉が揺れる音だけがする。太陽の燦々とした光が、廊下の床板に斜めに差し込み影を長く伸ばしていた。
「…ここに、あいつを連れてくるべきではなかった。
「え?」
「今日のことを見て、俺はそう思った」
吐き捨てるように言って、冨岡さんは背を向け廊下を進んで行った。
その前に冨岡さんが呟いた低い声のすべてを、私はきちんと拾えた自信はなかった。
けれど、それが彼の言う"判断を間違えた"という意味が、彼女に真実を話さなかったことではなく、それなのだとしたら。
痛いほど理解ができてしまって、苦しそうなその声が耳にこびりついて離れなくなる。
足音が遠ざかっていくのに、言葉だけがしばらく置き去りのままだった。
***
朝の台所は、いつもと同じ音で満ちていた。
まな板の上で包丁が小気味よく鳴り、鍋の中で湯が静かに揺れる。味噌の匂いが立ちのぼって、炊き立ての米の湯気が白く広がる。
けれど、包丁を握る手に無意識に力がこもっているのに気付いて、私は一度深く息を吐いた。
「アオイさん、これこっちでいいですか?」
「うん。それは配膳の方。落とさないでね」
きよが小さな椀を抱えて覗き込む。私はいつも通りの声が出せたが、胸の奥はひどく冷たかった。
昨日、玄関先で、リサさんが泣き崩れたあの光景。それが頭から離れない。
彼女のあんな声を初めて聞いた。喉を裂くみたいな、呼吸ごと壊れてしまったような声を。思い出すだけで、胸がきゅっと縮む。
火を弱め、鍋に蓋をする。視線を上げると、調理場の隅で三人娘が並んでお膳を整えていた。
きよはいつもより手際よく、おしゃべりななほは今日は静かに、すみは新しい湯呑みを棚から背伸びをして取り出している。
誰も、何も言わない。リサさんのことも、昨日のことも。
「今日のお茶、ちょっと薄いかな?」
「大丈夫だよ。あとで調整しよ」
「うん」
笑っている。いつも通りに。でもその笑顔の奥に、はっきりと触れることの出来ない気配がある。
…みんな、分かってるんだ。いつからかここの台所の一員となっていた彼女が今日はいないことに、気付いていないふりをしている。
食堂にお膳を運び込むと、隊士たちが集まってきて、挨拶を交わし他愛もない話が行き交っていた。
炭治郎さんは少し声を落とながらも笑っていて、善逸さんや伊之助さんは無駄に騒がないが、いつも通り会話を交わしている。
食事が終わると、人はぽつり、ぽつりと席を立っていく。最後に残った湯気がゆっくりと薄れていくのを見送ってから、私はお膳をひとつ手に取った。
…食べられるかは、分からないけど。でも何かを口にしないことには何も始まらない。
そう自分に言い聞かせるようにして、お膳をリサさんの部屋まで運ぼうとしたその時。戸口の方でかすかに足音がした。
「……おはようございます」
そう言って現れたのは、いつものように笑顔を浮かべたリサさんだった。あまりに当たり前ように台所へ入ってくるその姿に、誰もが一瞬息を呑んで彼女を見つめてしまった。
リサさんは少しだけ首を傾げて、それから申し訳なさそうに眉を下げる。
「遅くなってすみません。寝坊、しちゃって……」
そう言って、ぎこちなく口角を持ち上げる。笑顔、と呼ぶにはあまりにも薄くて、無理に形だけ作ったのがはっきり分かる表情だった。
目が赤い。一晩中泣き腫らしたのだろう。それなのに、声の調子は落ち着いていて変に丁寧で。
そのチグハグな姿に、胸の奥がきゅうっと締め付けられる。
「……すぐ、後片付け、手伝います」
リサさんはそう言って、私たちの反応を気にする素振りも見せず、割烹着を取ろうと棚へ手を伸ばした。
「皆さんはもう、十分ですから。作ってくださった分、少し休んでいてください」
「リサさん……」
すみが、何か言いかけて口を閉じる。
なほもきよも、リサさんの顔を見て、次に私を見て、どうしていいか分からない顔をしていた。
「リサさん、今日は……」
「いいんです、いいんです」
私が声をかけようとしたその前で、リサさんが少しだけ早口で言葉を遮った。
そしてこちらの反応を待たずに割烹着を身につけると、そのまま洗い場へ立つ。水を出し、食器を手に取り、そしていつものように皿洗いを始めた。
動きはいつも通りで、手順も間違っていない。でも、皿を持つ手がほんの少し震えているのが、近くにいるから分かってしまう。
――まさか、ここに来るとは思っていなかった。
昨日のことを考えれば、今日はきっと部屋に籠ってしまうだろうと、皆どこかで覚悟していた。しのぶ様も、しばらくはそっとしておいてあげた方がいいかもしれないと、そんなふうに言っていたくらいだ。
けれどここに現れた彼女の泣き腫らしたはずの目も、声も、無理に整えられていて、それが余計に胸に引っかかる。
たくさん泣いて気持ちを切り替えた、というよりむしろ逆だ。心が壊れてしまったからこそ、何事もなかったようにわざと振る舞っている。
そのことが、誰の目にもはっきりと分かってしまった。
「リサさん、今日は……」
きよが慌てて止めようとする。なほも、「無理しないでください」と続けて、すみが小さく頷く。けれど。
「大丈夫です」
リサさんは今度ははっきりそう言って、もう一度笑った。泣き腫らした目で、こちらと一線を引くようなその姿に胸を痛める。
その瞳にせっかく宿ったはずの光はボヤけるように霞んでいて、哀しさと絶望の中に生きているようだった。
最初に出会ったときのリサさんに、戻ってしまったみたいだ。
どこか淡々としていて感情を表にあまり出さない。礼儀正しくて、距離の取り方も上手で、他人に必要以上に踏み込まない。
――でも。蝶屋敷で過ごすうちに、少しずつ変わっていったように思う。気付けば、よく笑うようになっていた。ふわりと、空気が和らぐみたいな笑顔で。
それなのに、もうそんな笑顔が二度と見れなくなってしまうのではないかと怖くなった。
今までの彼女は、ここに根を張ろうと頑張りすぎな程、必死になっていた。慣れない場所から逃げずに踏ん張って、ここに居場所を作ろうとしていた。
でも今の彼女は――こちらが手を伸ばせば届く距離にいるのに、少し力を入れたら簡単に折れてしまいそうで。
声をかけることも、肩に触れることも、何かをしてやることさえ、ひどく慎重になってしまう。
誰かの死を「受け止めきれない」と口にすることすら許されない場所で、それでも現実として突きつけられて。
どれほどの絶望が、彼女を襲ったのだろう。声を上げて泣き崩れるまで、どれほど必死に耐えていたのだろう。
誰かの死はいつだって突然で。残された側だけが、置き去りにされる。
ただ、起きてしまったこととして死だけが静かに、動かしようのない事実としてそこに在る。それが、あまりにも残酷だ。
家族やカナエ様を失った時も、そして今も。この屋敷は、優しさだけでは守りきれない現実をはっきりと突きつけてくる。
そんな場所から、彼女はふらっといなくなってしまうのではないか。
私は小さく息を吸って、リサさんの隣に立つ。
「……じゃあ」
彼女を止める言葉も、気遣う言葉も、何一つ浮かばない。けれど、彼女が逃げない人だということもどこかで分かっているから。
怖がりなのに、壊れそうなのに、それでもここに立ってしまう人だって。
「…一緒にやりましょう。私も、まだ終わってないですし」
私は手を伸ばして、新しい布巾を一枚手に取る。
リサさんは一瞬だけ驚いたようにこちらを見やった。一度瞬き、やがて泣きそうな顔で無理に笑う。
「……ありがとうございます」
誰かが、彼女の側にいなければならない。
何も言わなくていい。ただ、同じ空気を共有する誰かが。
洗い場に落ちる影が、二人分になる。ほんの一瞬だけリサさんが息を吐き出したのを、私は見逃さなかった。
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