34


数日が過ぎた。蝶屋敷は相変わらず騒がしい日々を繰り返している。
庭先からは回復訓練に励む少年たちの声や、それに雷を落とすアオイの声が流れ込んでくる。
私も相次ぐ任務をこなしては屋敷へ戻り、負傷者の治療や薬の調合に追われる。そんな、いつも通りの日常。

「しのぶさん。薬草、これで合ってますか?」

背後から声がして振り返ると、リサさんが小さな盆を持って佇んでいた。
いつも通りの笑顔。目元の腫れはすでに引いていて、顔色も決して悪くはない。

「ええ、合っていますよ。ありがとう」
「よかったです」

口元だけが、ほんの少しだけ持ち上がる。
リサさんは薬草を私に手渡すと、丁寧にお辞儀をして、すっと廊下の向こうへ引いていった。
その背中を、私はただ見送ることしかできない。ただこうして「いつも通り」を演じているのだ。
それが、私たちが真実を隠していたことに対する彼女なりの配慮なのか、それとも、壊れてしまいそうな心を必死に繋ぎ止めるためのもののか、今の私にはまだ測りかねていた。

――少し前、私はリサさんを尾崎隊士の墓参りに誘った。
産屋敷邸から少し離れた場所に、命を落とした鬼殺隊士たちが眠る墓所がある。見上げるほどの藤の木々が静かに佇み、花の香りがどこか現実味をなくさせるほど不思議と静かなところだ。
あそこへ一度、彼女を連れて行こうと思った。真実を隠すことが優しさだと信じ込んでいた、あの時の自分の愚かさを、二度と繰り返さないためにも。
けれど、私の申し出に、リサさんは静かに首を振った。

「……すみません、しのぶさん。今はまだ、行く勇気がありません」

申し訳なさそうに、けれどはっきりとそう言って、彼女は寂しげに視線を落とした。
まだ現実を受け止めきれていないのか、あるいは、行くことで尾崎さんの死を完全に認めてしまうのが怖いのか。
向けられたその拒絶は、私が彼女のためを思って隠し続けていた、あの嘘の代償のようにも思えた。

「それに、行ったらたぶん……帰ってこられなくなりそうで」

私が思っている以上に、彼女の心はとっくに限界を迎えている。
ただ、尾崎さんの死という重すぎる楔に、自分のすべてをむしり取られてしまわないよう、薄氷の上を歩くようにして、必死に「日常」の形を保っているだけなのだ。一歩でも踏み外せば、そのまままた深い闇へと落ちていってしまう。

「……そうですか」

私は笑った。笑えてしまう自分が、時々恐ろしい。人の死に慣れるというのは、こういうことなのだろうか。

「では、いつか。あなたが行ける日にしましょうか」
「……ありがとうございます、しのぶさん。誘ってくださって」

リサさんは少しだけ目を伏せて、微かに頷いた。
誘ってよかったのか。誘わない方がよかったのか。「隠し事はしない」という決意は、彼女のためだったのか。それとも私のあがないだったのか。
答えは出ない。出ないまま、それでも私は前へ進むふりをする。




リサさんは朝、誰よりも早く起きるようになった。
一番に台所に現れては朝餉の準備をし、食事の最中に善逸くんたちがどれだけ騒いでも、いつもと変わらない微笑みを浮かべて静かに箸を進める。
なほたち三人が小さな失敗をしても、「大丈夫だよ」と言って優しく手を貸し、アオイが不真面目な隊士に眉を吊り上げていても、少し離れたところからそれを穏やかに見守っている。

よく、眠れているのだろうか。
ふと、そんな疑問が胸をよぎる。
顔色は決して悪くないし、目に見えて疲弊している様子もない。頬にはきちんと健康そうな赤みがあり、食事だって欠かさず口にしている。――少なくとも、表向きは。
縁側の先で、リサさんが庭に洗濯物を干している姿を眺めながら私は小さく息を吐いた。五月の風が湿った白い布を大きく揺らして、青空の下でふわりと膨らむ様子を目で追う。その光景は、遠目から見ればどこまでも日常の一部で、何の歪みもないように見えた。

「……しのぶ様」

視線を戻すとそばにアオイが佇んでいた。その手には次の往診に使う薬箱が握られている。アオイの視線もまた、私と同じように庭の洗濯場へと向けられていた。

「どうしました?」
「あ、いえ……。リサさん、最近本当に働き者というか、ずっと動いているな、と思って」

アオイは少しだけ複雑そうな面持ちで、きゅっと唇を結ぶ。

「朝も私より先に起きていますし、頼んでいない雑用まで全部ひとりで片付けてしまうんです。休んでくださいって言っても、『動いていた方が落ち着くから』って笑うだけで。……私、なんだか、見ていて少し怖くなる時があるんです,…リサさんが、このままどこかへ行ってしまうんじゃないかって」

戦うことから逃げた自分を責め続けているアオイだからこそ、必死に日常にしがみつこうとするリサさんの危うさに、誰よりも敏感に気づいているのかもしれない。

「体調は、アオイから見てどう見える?眠れていそう?」
「顔色は悪くはないです。食事も……残さず、普通に食べてはくれています。ただ、睡眠はどうでしょう。あまり眠れていないんじゃないでしょうか」

普通。その『普通』が、いちばん厄介だ。
怪我なら、時が経てば治る。熱なら、薬を飲めば下がる。刃で切り裂かれた傷だって、いつかは塞がる。
けれど、心の中にぽっかりと空いてしまった穴は、どうすればいいのだろう。

「無理に聞き出そうとはしなくていいですよ。ただ、彼女が一人で泣いている時は、静かに寄り添ってあげて」
「はい……分かりました」

アオイは沈痛な面持ちで深く頷くと、役目を果たすために静かに廊下を歩いて行った。
残された私は、もう一度庭へと視線を戻す。
パタパタと風に躍る真っ白な洗濯物の向こう側で、リサさんはやはり、何もかもを覆い隠すような微笑みを浮かべたまま、手を動かし続けていた。




****




朝になればお日様は容赦なく昇り、世界は平然と動き出す。時の流れは残酷だ。
私の時間はあの日、あそこで止まってしまったというのに。季節を運ぶ風は私を通り抜け、何事もなかったかのように明日へと流れていく。
流れる時間に置いていかれないよう、必死に"日常"の形をなぞっては、前へ進むふりを繰り返す。

廊下ですれ違った隊士が、どこかこちらを窺うような痛々しい眼差しを向けてくる。私はそれに気付かないふりをして、「おはようございます」と笑顔を作った。
口角を上げる。目を少し細める。そうやって作った仮面は、今の私にぴったりと張り付いて剥がれない。
私は、笑えているだろうか。ちゃんと、みんなの知っている私でいられているだろうか。
みんな、優しい。私を気遣って、あの日あったことには誰も触れようとしない。那田蜘蛛山のことも、私が壊れたように叫び続けていたことも、そして――尾崎さんのことも。

ここで泣いてはいけない。私が泣けば、またみんなに心配をかけてしまう。しのぶさんに、悲しい顔をさせてしまう。
けれど、心の中はあの日からずっと、冷たい雨が降り続いている。



「頑張れーっ!頑張れ頑張れーっ!」

なほちゃん、きよちゃん、すみちゃんの元気な声が、朝の門先で響いた。
その視線の先では、大きな瓢箪ひようたんを抱えた炭治郎くんたち三人が、顔を真っ赤にしながら勢いよく息を吹き込んでいる。

「わー!あと少しです!」
「善逸さんも負けないで!」

皆の応援のおかげもあってか、パンッ!という破裂音が重なり、三人の瓢箪ひょうたんが見事に割れ、破片が地面に転がった。

「やったーっ!割れました!」
「すごいです、皆さん!」

わあっと飛び跳ねて喜ぶなほちゃんたちに、炭治郎くんたちは荒い息を吐きながらも、嬉しそうに笑う。
機能回復訓練を乗り越えて、ついに彼らが次の任務へ行く日がやってきた。今日は彼らの出立の日で、みんなで彼らを見送りに出てきていたのだ。

「はい、どうぞ」

きよちゃんが一歩前に出て、三人に大きなお弁当箱を差し出す。中には、今朝早くからみんなで一生懸命に握ったおにぎりが、ぎっしりと詰まっている。

「わあ……みんなありがとう」
「おっ、うまそうじゃねぇか!」
「いま食うな!!」

炭治郎くんが嬉しそうに両手で受け取ろうとしたその横から、伊之助くんが迷いなくおにぎりに手を伸ばし、善逸くんが慌ててその手を叩き落とした。

「なんでだよ!腹減ってんだぞ!」
「さっきたらふく食っただろ!」

そう言い合っている間に、伊之助くんはもう片方の手で別のおにぎりを掴み、もぐ、と豪快に頬張ってしまう。

「あっ、だから食うなって言ってるだろ!」
「うるせえ!」
「うるせえじゃねえんだ」

目の前で繰り広げられるいつもの光景に、三人は顔を見合わせてくすくすと楽しそうに笑い声を上げる。
その無邪気な笑い声につられるようにして、私の口元にも自然と笑みが浮かんでいた。 
いつも通りに賑やかで、微笑ましいやり取り。これも、しばらくは見られなくなるのだと思うと、なんだか少し寂しい。

「炭治郎さん、いっぱい鬼を倒してくださいね」
「うん、頑張るよ」
「本当に。気をつけてね炭治郎くん」
「リサさんも、ありがとうございます」

私も控えめに声をかけると、炭治郎くんは背中の箱の紐をきゅっと握り直し、こちらを振り返った。
大きなおにぎりを巡ってまだ後ろで揉めている二人を余所に、彼は私をまっすぐに見つめる。

「そうだ。……俺、リサさんに伝えたいことがあって」
「伝えたいこと?」
「はい」

何だろう…?
炭治郎くんの、どこかすべてを見透かしているかのような眼差しに、私はほんの少しだけ身を硬くする。
彼の前に立つと、まるで自分の心の奥に澱んでいる冷たさや、必死に張り付かせている嘘が、すべて暴かれてしまいそうな錯覚に陥る。

「リサさんって、すごく温かいなって。いつもお日様みたいな匂いがして、なんだかすごくホッとしたんです」
「え……?」

思いがけない言葉に瞬きを繰り返す私に、炭治郎くんはふにゃりと、いつもの温かい笑顔を向ける。

「ほら、心って、知らないうちにすり減って、冷たくなってしまうことがあると思うんです。でも、リサさんのお日様みたいな温かい空気に、俺、何度も救われて……」
「そんな、私はなにも……」
「だから今度はその温かさを、どうか大切にしてほしいなって。他の誰のためでもなく、リサさん自身のために」

思わず、はく、と空気をのんでしまった。
特別な何かを知っているわけではないはずなのに。炭治郎くんの言葉は、私が一番隠したかったはずの、ひび割れた心の隙間に、あたたかな光を差し込むように入り込んでくる。
目の奥が熱くなる。それが彼らに気付かれてしまわないよう、溢れそうになるものを必死に押し込めた。

「……うん。ありがとう、炭治郎くん」

…すごく、優しい子だ。
私よりも若くて、それなのに、私なんかよりもずっと重いものを背負って戦っているというのに。自分の傷や痛みを差し置いて、どうしてこんなにも他人の心に寄り添うことができるのだろう。
私はまだ、自分の心の冷たさから目を背けることしかできない。

「あ、冨岡さん!」

その時、炭治郎くんの弾んだ声に、私の肩がぴくりと反応した。見れば、嬉しそうに駆け寄っていく炭治郎くんの先に、冨岡さんが道の端に佇んでいる。
ほんの少しだけこちらに向けられた冨岡さんの視線が、私の姿を捉えたような気がして、私は咄嗟に顔を背けてしまった。なんとなく、その目を見れなかった。
今日はどうしてここにいるのだろう。まさか、私に会いに来たのだろうか。すぐに話を終えた炭治郎くんが、息を弾ませながらこちらへと戻ってくるのを怯えながら見つめる。

「お待たせ!」
「おう、権八郎。行くぞ」

しかし、もう一度冨岡さんがいたところに視線を向けると、もうそこに彼の姿はなかった。
それに、どこかほっとしてしまう自分がいる。今話しかけられたところで、どんな顔をすればいいか分からないから。

「うう、皆さんお達者で……」
「みんな!そんなに悲しんでくれるなんて、やっぱり俺と別れるのが寂しいんだね!そうだよね?俺だけ残ってもいいんだよ?」
「……善逸さんは少し、女の子に対して気遣いや節度を覚えてくださいね」
「でも、ちょっとは俺がいなくなって悲し、」
「悲しくありません!!」

三人の見事にそろった声に善逸くんががっくりと肩を落とすと、皆がくすくすと楽しそうに笑い声を上げた。
いよいよ、出発だ。他にも色んな隊士を見送ってきたけれど、彼らを見送るとなると、なんだか感慨深いものがある。随分と、薬を飲んでもらうのに苦労をしたから。
でも、とても寂しい。去っていく三人の背中を皆で見送りながら、胸の奥がきゅっと締め付けられた。
どうか、無事で。ただそれだけを、祈るように何度も心の内で繰り返す。
鬼の恐ろしさを知ってしまったからこそ、彼らが向かう先の暗闇を思わずにはいられない。もう二度と、誰の命も消えてほしくない。
後悔はいつも遅れてやってきて、何度も同じ場所を刺す。

「リサさん。……中に入りましょう?」

袖をそっと引かれて見下ろすと、きよちゃんがどこか心配そうな目を私に向けていた。
無意識のうちに、暗い顔をしてしまっていたのかもしれない。私は慌てて、いつもの笑みを浮かべて頷く。

「うん、そうだね。みんなも朝早くからお疲れ様」
「炭治郎さんたちなら、きっと大丈夫ですよ」

私の心を察したように、すみちゃんが拳を握って力強く言ってくれる。

「はい!あんなに厳しい鍛錬を頑張っていたんです。きっとすぐに、また元気な顔で会えます」

なほちゃんも優しく微笑みながら言葉を添えてくれた。
みんなの優しさが胸に染みる。私の方がお姉さんなのに、しっかりしなきゃ駄目だ。せめて彼女たちの前でだけは、いつもの私でいよう。
あの日から冷え切ってしまったままの心を、なんとか慣れ親しんだ形の中に、そっと押し隠す。

「そうだね」

いつものように、柔らかい笑みを。そうして、彼女たちと一緒に門の敷居を跨ごうとした、その時だった。

「……あ、水柱様」

すれ違うようにして門を潜ろうとしたきよちゃんが、小さく声を上げて、ぺこりと頭を下げた。
驚いてそちらに目を向ければ、いつの間にか戻ってきたらしい冨岡さんがこちらへと歩いてくるところだった。

「――高月」

切れ長の瞳が真っ直ぐに私を捉えていて思わず息が詰まる。

「どう、されたんですか?」

いや、どうした、なんておかしな台詞だったかな。取り乱して、過呼吸になった私を救ってくれたのはこの人だ。まだ、まともにお礼も言えてない。

「息災か」

三人の挨拶には短く頷くだけで、冨岡さんは私を見つめたままそう問いかけてきた。
どう、答えればいいのだろう。

「えっと……、はい」
「眠れているか」

突然そう言うのだから面食らった。途端に言葉を詰まらせてしまう。
ここでも、嘘でも「はい」と言えればよかったのに。

「…どうしてわかったんですか」
「顔色が悪い」

おかしいな。ここにいる皆には気づかれてなかったのに。いや、気づいていながら、知らないふりをしてくれていたのかな。
けれど、あの日からまともな睡眠など取れるはずもない。小さく俯く私を、冨岡さんはじっと見つめ続ける。

「食欲は」
「……あまり。あ、ちゃんと食べてはいます」

出された分はちゃんと食べるよう、頑張っている。けれど、いつもみたいに食べ物は味がしなくて、ただ義務のように胃に流し込んでいるだけ。そんなの、とてもじゃないけれど「食べている」なんて言えるものじゃない。

いや、そもそもどうしてなほちゃんたちの前で、こんな風にすべてを白状させられているのだろう。心配をかけたくなくて、ずっと隠していたつもりだったのに。
小さく俯く私から、冨岡さんは傍らで見守っていたなほちゃんたちへと向き直った。

「高月を少し借りてもいいか」
「え、リサさんをですか?」
「すぐ近くに行くだけだ。胡蝶にもそう伝えておいてくれ」

三人は一瞬戸惑ったように顔を見合わせたけれど、すぐにこくりと頷いて了承をした。
冨岡さんはそんな彼女たちに「すまない」と短く一言だけ返すと、そのままきゅっと私の腕を引いて歩き出す。

「え?冨岡さん?あの、どこへ……っ」
「行ったら分かる」

こちらを振り返ることもなく言うから、それ以上何も聞けなかった。
戸惑いながら後ろを振り返ると、なほちゃんたちがどこか嬉しそうに手を振って私を見送ってくれている。
正直に言えば、今はあまりどこかへ行く気分ではない。心がひどく疲弊していて、自分の殻に閉じこもっていたいというのが本音だ。
けれど、ろくに眠れていない身体には、ここから逃げ出そうとする気力も、冨岡さんのやわな力に抵抗する強さも残されていなかった。




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