35


「……凄い食べますね、冨岡さん」
「お前ももっと食べろ」

目の前で串が一本、また一本と減っていく。焼き鳥の脂がぱちりと弾く音と、炭の匂い。思わずそんなことを口にしてしまったのは、私自身がまだ状況を飲み込めていないからだ。
…どうして、こんなことになっているのだろうか。
三人娘と別れ、重たい気持ちを抱えたままなんとか冨岡さんの背中について行ったら、なぜか山道を下った先の焼き鳥屋に連れ込まれていた。
途中、冨岡さんは何も言わないし、歩く速度も一定で、振り返ることもなくて。痺れを切らしてどこへ行くのかと聞く前に、彼の足がこの店の前で止まった。

小さな店だ。すすけた暖簾に、年季の入った木の看板。決して洒落ているわけじゃないのに、妙に落ち着いた雰囲気がある。
迷いなく暖簾をくぐる冨岡さんの背中を見て、なぜか私は力が抜けた。
…なんだ。身構えていたけど、ただご飯を食べに来ただけだったのか。それだけで少し安心している自分がいるのが悔しくもある。
引き戸を開け中に入ると、店主らしき年配の男性が顔を上げた。

「いらっしゃい」

冨岡さんは軽く頷くだけで、奥へ進む。私は一瞬だけ戸口に立ち尽くしてから、その後を追った。
焼き場に面した板張りの長い席に隣り合うように腰を下ろすと、木の感触が太腿越しに伝わってくる。
時刻は昼前。まだ人は少なく、ぽつりぽつりと客がいるだけだった。炭火の前で串を返す音が、店内に静かに響いている。
私は落ち着かない気持ちのまま、なんとなく周囲を見渡す。すると、壁に貼られた一枚の張り紙が目に入った。

――期間限定
――二人以上で来店の方
――焼き鳥、食べ放題

…食べ放題。この時代にもそんなものがあったのかと思いながら、なんとなく目を逸らす。そのまま視線を横にずらし、壁に掛けられた木札へ目を向けた。
ずらりと並んだ品目。どれも美味しそうだけれど、正直、今の私にたくさん食べる気力はない。お金も持っていないし、串を数本つまめば十分だろう。そう思っていた、その矢先。

「親父」

冨岡さんが、店主に声をかけた。

「食べ放題を頼む」

私は一瞬、耳を疑った。




脂の多いものも、塩気の強いものも、冨岡さんは顔色一つ変えずに平らげていく。気づけば、彼の前には空になった皿がいくつも重なっていた。
私も食べろと言われたけれど、正直なところこれ以上食べられない。口に入れると香ばしさが広がって、ちゃんと美味しいのに変わりはないのだが。まさか、私もその食べ放題に含まれることになるとは思わないだろう。

「親父、次を頼む」
「……お、おう」

冨岡さんの食べっぷりには、店主も圧倒されていた。積み重なった空皿に彼が目を落とし、小さく息を吸ったのが分かる。完全に、食べ放題の想定を超えているはずだ。
あの張り紙はたぶん、“若い男性が数本多く食べる”くらいを見越したものだったのだろう。
まさかここまで淡々と、しかも無言で減っていくとは思っていなかったに違いない。串を焼きながら、店主は何度も視線を送ってくる。
冨岡さんはそれに気づいた様子もなく、出された串を受け取り口に含む。もきゅもきゅと咀嚼しながら静かに食べる冨岡さんの姿は、いつもより小さくて、なんというか…弱い。
そんなものをただじっと見つめる訳にもいかないから、私は目の前に置かれた自分のお皿を眺めて。…まだ三本しか食べられていないが、冨岡さんがとっくに元を取ってくれているはずだ。
店主は冨岡さんの前に串を追加しながら、ついに観念したように苦笑した。

「兄ちゃん……まだ、食べるのか?」
「ああ」

即答だった。そのやり取りに、思わず私は視線を伏せる。笑ってはいけない気がして、でもどこか可笑しくて。

「これ以上食べると兄ちゃんの胃の調子が……」
「大丈夫だ。だって食べ放題だろう」
「は、はえ…」

けれど、我慢できるはずもなく喉の奥がひくりと震えた。

「ふっ、…あははっ」

思わず吹き出してしまう。笑うつもりなんてなかったのに、それを歯切りに笑いがどんどん込み上げる。
…何それ。こんなに食べる人だったなんて知らなかった。柱だということも、強い人だということも知っている。無口で、感情を表に出さなくて、必要なことだけを淡々とこなす人だって。
そういう印象ばかりが先に立っていて――まさか、目の前で焼き鳥を黙々と平らげる姿が、こんなにも人間くさいなんて思わない。

「……なんだ」
「あははっ、いや、だって…っ」

この状況が可笑しくて、拍子抜けで、口元を押さえても止まらない。
冨岡さんが怪訝そうにこちらに視線を向けてくる。眉をわずかに寄せたその顔は、本気で理由が分からない、という顔だった。

「ふ、ふふっ……ご、ごめんなさい……」

視線を逸らして、必死に笑いを飲み込もうとするけれど、口角が下がらない。
その顔の唇の端にちょん、とついた焼き鳥のタレまで見つけてしまって、さらに笑いが抑えられなくなる。
真面目な顔で食べ放題を即答して。店主を圧倒するほど食べて。なのに、口の周りは無防備で。

「あははっ……っ、ちょ、まっ……」

そんな一面があるなんて。
久しぶりにこんなふうに笑った。お腹の底から、息が乱れるくらい。胸の奥に溜まっていたものまで、全部一緒に流れ出ていく。
冨岡さんは、しばらく黙ってそんな私を見ていたが、観念したようにふっと息を吐くと、机に肩肘をついた。そして、いつものように無表情で、ただこちらを眺めはじめる。
私はまだ笑いが止まらず、涙まで滲んで、慌てて袖で目元を拭った。

「ご、ごめっ、なさい……」

言いながら、また小さく笑ってしまう。
冨岡さんの眼差しに包まれながら、私はしばらく肩を震わせていた。





やっと落ち着いて、息が静かに戻ってきた頃。
冨岡さんはどこか残念そうな顔で私を見た。

「……もういいのか」
「は、はい。すみません……」

袖で目元を拭うと、涙で滲んだ視界の向こうで炭がぱちりと音を立てる。
冨岡さんは肩肘をついたまま、少しだけ視線を外すと、残っていた串を一本取ってまた黙って口に運んだ。
…いつもの冨岡さんだ。さっきまでのは、何だったのだろう。口の端についていたタレも気づいたら無くなってる。私を焼き鳥屋に連れ込んで、ただ黙々と食べて。
もしかして、本当にただ食べ放題に来てみたかっただけなのだろうか。そこに、たまたま私がいただけで。

「……久しぶりに、あんなふうに笑いました」

言ってから、少しだけ間が空いた。
冨岡さんは鶏肉を噛み切り、ゆっくりと咀嚼してから飲み込む。

「…そうか」

相変わらず短い返事なのに、なぜか胸の奥が緩んだ。理由を聞かれないことも、掘り下げられないことも、今はちょうどいい。
冨岡さんは新しい串には手を伸ばさず、しばらく炭のほうを見ている。火が落ち着いて、ぱちりという音が間延びした。

「……ごめんなさい。さっきまで、ずっと沈んでて」
「謝ることじゃない」

間髪入れずに返ってきた声。
私は息を吸って、ゆっくり吐く。

「……尾崎さんのこと、考えると……どうしてもそうなんです。……笑うと、いつか彼女を忘れてしまうんじゃないかって。そんな自分が、少し怖くて」

彼女の名前が引っかかったまま動かないのだ。胸の奥に残った温度だけが、ずっと揺れている。
無意識に指先を握りしめると、その様子を見ていたのか、冨岡さんが小さく首を振った。

「…俺は、お前が笑っているところを見て安心した」
「……え?」

思わず聞き返すと、冨岡さんは視線を外したまま短く続ける。

「時々、今にも泣き出しそうで、酷く脆く見えた」
「……そう、見えましたか?」

大丈夫だと言い聞かせて、みんなの前では無理に笑って、息を整えて。なんとか踏ん張れているつもりでいたけれど。でも、冨岡さんの目にはそうは映っていなかったらしい。
私は串の置かれた皿を見つめたまま、視線を落とす。

「…元来、お前は強い奴なんだろう」
「え?…私、全然、強くなんてないです」
「そうか?俺は職業柄、いろんな人と会う機会が多い。だが……お前の強さは、稀だと思う」
「ど、どこが……」

私がそう言い終わる前に、冨岡さんが小さく息を吐いた。

「……そういうところだ」

何のことか分からず、目を瞬かせる。
次の瞬間、冨岡さんの指先が伸びてきて、私の額に軽く触れた。こつ、と。押すというより、確かめるみたいな力で。

「痛っ……」
「力は入れていない」

淡々とした言い方のまま、指はすぐに離れた。
確かに、反射的に声が出ただけでちっとも痛くはなかった。むしろ額に残ったのは衝撃よりも、指先の温度だ。

「そうやって、限界を超えるまで一人で抱え込むところだ」
「……」

反論しようとして、言葉が見つからない。
確かに私は、誰かに委ねるより先に自分の中で片付けようとしてしまう。しかし、これはもう何度も何度も、耳にタコができる程、皆に言われてきたことでもある。
今更言われたところで、それがイコール強いに直結する理由が分からない。

「強い奴ほど、無理に笑おうとする」
「……それ、強いって言うんですか」
「少なくとも、弱い奴にはできない」

冨岡さんはそう言って、視線を私から外した。また一本、残っていた串を手に取る。まだ食べるのかと、店主の顔が青ざめたのに気付いた私はなんとなく視線を逸らした。

「……さっき、心から笑っただろう」
「それは…はい、おかげさまで……」
「だから、安心した」

私は額に触れた場所を、無意識に指でなぞる。
さっきまで張りつめていた何かが、そこから少しずつほどけていくのが分かった。

「お前の気分転換のために来てみたが…。連れて来て正解だったな」
「私のために…?」
「………食べ放題をしてみたかったのは俺だが」

ぽつりと落とされた声に、小さく笑ってしまう。
尾崎さんのことは、ずっと胸の内側に強く引っかかったままだ。思い出さないようにしても、ふとした拍子に名前が浮かぶ。笑えば薄れてしまう気がして、だから心から笑うことをどこかで躊躇っていた。忘れてしまったみたいで、裏切ってしまうみたいで。
でも――。今、こうして息を整えて座っている私は、何も失っていない。笑ったからといって、彼女の存在が消えたわけでも、思いが軽くなったわけでもない。ただ、胸の内に溜まっていたものが一度、外に流れ出ただけだ。
前に進む、というのは何も振り切ることじゃない。抱えたままでも、足を一歩出していいのだと今さら気づく。
冨岡さんは、私にそう教えようとしたわけじゃないのだろう。ただ、黙って連れ出して、黙って食べて、黙って見ていただけだ。それだけなのに、不思議と心が追いついてくる。

「……ありがとうございます」

尾崎さんを失った重さは、消えるわけじゃない。でも、ぎゅっと縮こまっていたものが、少しだけ形を変えた気がする。同じ場所に留まり続けなくてもいい、そんな余白。
私は膝の上で指を組み、ほんの少しだけ背筋を伸ばした。言葉を選ぶほどの勇気もなくて、考えるより先に声が出る。

「……冨岡さん」

彼は串を置かずに、ちらりとこちらを見やる。

「あの、このあと……行きたいところが、あって」

自分でも意外なくらい、声は落ち着いていた。
怯えというより、覚悟を決めた、そんな言い方だったと思う。
冨岡さんは一拍置いて、噛み終えた串を皿に戻した。

「……どこだ」









「ここに、彼女が眠っているんですね……」

そう言って、私は足を止めた。声がこの場所の静けさに溶けていく。
冨岡さんは私の一歩後ろで立ち止まり、何も言わなかった。ただ私が向けた視線の先――墓石へと、同じように視線を落とす。
この場所は、想像していたよりもずっと広かった。墓地は丘の斜面に沿ってどこまでも続き、視線を動かすたびに同じ形の墓石が並んでいる。整えられているはずなのに、数が多すぎて境目が分からない。
鬼殺隊のお墓だ。…こんなにも。鬼によって、こんなにも多くの人が亡くなったのだと、改めて突きつけられる。冨岡さんに言って、ここに連れて来てもらったのは自分なのに。息を吸うのを忘れて、私はしばらくその場に立ち尽くしてしまった。
誰かの名前。誰かの人生。誰かと一緒に過ごすはずだった時間。それが、ここではただ静かに並んでいる。これだけの墓石の中から、尾崎さんのものを見つけるのは、きっと簡単じゃないと思った。
けれど――。並びを見て、すぐに気づいた。風雨にさらされた古い石と違い、比較的新しい墓は文字がはっきり残っている。同じ高さ、同じ間隔で整えられた一角に、彼女はいた。
胸の奥がきゅっと縮む。けれど私は一歩、前に進んだ。ここに来ると、覚悟を決めたのだから。

「……尾崎さん」

そう言って、墓石に刻まれた名前を指でなぞる。石は冷たくて、でも嫌な冷たさじゃなかった。
黙ったままぼーっと彼女を見つめる。しばらくすると、冨岡さんが背後からそっと何かを差し出してくれた。

「……洗うか」
「ありがとうございます…」

墓地の入り口から持ってきた水桶と柄杓だ。
受け取って柄杓で水をすくい、そっと墓石にかける。水が石の表面をすべって落ちていった。
そして手渡され布で、私はそのまま文字の溝をなぞる。
……遅くなってごめんね。そんな気持ちを込めながら。
冨岡さんも一緒に、私の手の届かないところを上から下へ、丁寧に拭いてくれた。汚れを落とすたび、溝に溜まっていた水が細く流れていく。
それを見ながら、辛い気持ちも、後ろめたさも、少しずつ一緒に流れていけばいいと思った。



ある程度綺麗になった石を確認して、私は紙袋から来る道中に買ったお供え用の花を取り出した。黄色の菊だ。凛としていて、まっすぐで、尾崎さんにぴったりな色。
花を花立てに挿すと、墓石の前が少しだけ明るくなった気がした。その隣で、冨岡さんは黙って供物を置く。簡素なものだけれど、きちんと整えて。

最後に膝を折り、二人並んで墓石にむかって手を合わせた。風が吹き抜けて、花弁がわずかに揺れる。
私は目を閉じ、胸の奥に溜まっていたものを少しずつ言葉にしていく準備をする。ここに来るまで、何度も頭の中で反芻していたはずなのに、いざとなると喉の奥が詰まる。
…でも。やっとここまで会いに来られたのだ。
私はもう一度、墓石に向き直った。言葉にしようとすると形が崩れてしまいそうで、声には出さず、胸の内側でそっと呼びかける。

――尾崎さん。伝えたいことがありすぎてまとまらないよ。
でも、まずは、私と出会ってくれて本当にありがとう。
あの日、蝶屋敷の廊下で声をかけてくれたこと。忙しい合間に、何気なくいつも隣にいてくれたこと。くだらない話をして笑ったことも、一緒に町へ行ったことも、任務の話を真剣な顔で聞かせてくれたことも、全部。
いつも私の側にいてくれて、一番の味方でいてくれて。悩んでいる時に、何も言わずに隣にいてくれた背中。
私が弱音を吐いたとき、「それでいい」と言ってくれた声。強くあろうとするあなたの隣で、少しだけ肩の力を抜けた時間。
あなたがいなかったら、私はきっと、ここまで来られなかった。この世界で前を向くことも、息をすることも、もっと怖くなっていたと思う。

――もっと甘えていいんだよ?
――次は迷わず私に言ってね。“手伝って”って

そうやって投げかけられた何気ない一言が、どれほど私を支えていたのか、今になって分かる。
ありがとう。
私を助けてくれて。そばにいてくれて。
私が弱くなることを、許してくれて。
声に出さなくても、その感謝は胸の奥で静かに形を持つ。消えないし、薄れもしない。悲しみの中に埋もれず、ちゃんと残っている。
失ったものは大きい。もう声を聞くことも、隣に並ぶこともできない。それでも、あなたと過ごした時間は、私の中で今も息をしている。

――忘れない。ぜったいに忘れない。あなたがくれた優しさを。
思い出すたびに痛むかもしれないけれど、それでも大切に抱えていける。それはきっと、あなたが私にくれた強さだから。こうして立ち止まったとき、私が崩れきらずにいられるのは、あなたが残してくれた温度があるから。
目を閉じたまま、深く息を吸う。土と草の匂い、風の音、遠くで鳥が羽ばたく気配。生きている世界が、ちゃんとここにある。

「……ありがとう」

小さく、ようやく声に出すと、目を開いた先で黄色が風に揺れていた。その静かな動きが返事みたいに思えて、胸の奥が少しだけ緩む。

「……よく考えてみると私、尾崎さんのこと、何も知らないんです」

ぽつりと口にしてみて、思っていたよりその言葉が冷たく響いた。隣で冨岡さんも静かに目を開く。
名前も、階級も、好きなものも知っている。でもそれは、ここに刻まれている他の人たちと同じ程度の情報だ。
どんな人に囲まれ、どんな人生を送ってきて、どんな人が好きなのか。そういうことは、実は何一つ知らない。
いつも隣にいたのに。当たり前みたいに声をかけてくれて、手を引いてくれて。困ったときは先に気づいて、何も言わずに支えてくれたのに。

「……いつも私の話ばかりで、自分のことは二の次で。優しくて、温かくて、凛としていて、よく食べて、故郷の桜餅が大好きだってことくらいしか知りません」

冨岡さんは何も言わず、消えかけた線香をまた新しく手向ける。彼が話を聞いてくれているのをいいことに、私は言葉を続けた。

「もっと彼女のことを、聞いていればよかったのに」

忙しそうだったから。疲れていそうだったから。私が話すほうが楽だろうって、勝手に決めてしまっていた。
でも、それはたぶん、言い訳だ。聞こうと思えば、いくらでも聞けた。一緒に甘味を食べながら、何気ない顔で。「尾崎さんは?」って、それだけでよかったのに。
彼女はきっと、少し照れながらでも話してくれたはずだ。どうでもいい昔話とか、笑い話とか。今思えば、そういう時間を私は自分から手放していた。

「……聞かれなかったから、話さなかっただけなのに」

小さく呟いて、指先を握り直す。墓石は何も言わない。ただ静かに、そこに在り続けている。
知らなかったのは、彼女が隠していたからじゃない。私が、知ろうとしきれなかったからだ。
でも――それでも。

「それでも、私が辛いときは、必ず側にいてくれていました」

私が立ち止まったとき。言葉にできずに俯いたとき。彼女はいつも、少し先に立って、手を引いてくれた。
自分のことを話さない代わりに、私の背中を押すことを選んでいたのかもしれない。

「……ずるいですよね」

そう言うと風が吹いて、菊の花が揺れた。
冨岡さんは変わらず何も言わない。でも、その沈黙が「続けていい」と言っているみたいで、私はもう一度墓石を見つめる。
知らなかったことは、もう戻らない。でも、知らなかったからこそ、彼女が私に向けてくれていたものの重さが、今、こんなにもはっきり分かる。

「私、強くならなきゃって。立ち止まらないで……彼女の分まで、ちゃんとやらなきゃって。……でも」

そこで、言葉が途切れた。
視界が少しだけ滲む。

「……一緒にいるときは、全部半分こだったんです。辛いときも、しんどかったときも。彼女がいたから耐えて来られたのに」

喉の奥が、きゅっと締まる。

「甘えていいって。一人で抱え込まなくていいって。いつでも声をかけてね、って。……でも、もう……」

指先が、知らず知らずのうちに握りしめられる。

「もう、いないんです……。どこを探しても……どこにも……」

声が、震える。
息を吸おうとして、うまく吸えない。

「私……これから、彼女なしにどうやって、悲しめば……どうやって、前を向いていけば……いいんでしょうか……」

それ以上、続けられなかった。
肩が小さく揺れ、視界が完全に滲んだ。

「会いたい」

ぽつりと、こぼれる。

「尾崎さんに……会いたい……」

ずっと押さえ込んでいた、本当の気持ち。
前を向くとか、強くなるとか、そんな言葉よりずっと手前。覚悟も、理解も、全部追いつかない場所で、心が先に叫んでいた。
息を吸おうとすると、胸がひくりと引きつって、空気が途中で止まる。
…会いたい。今すぐじゃなくていい。ただ、そこにいてほしい。同じ空気の中に、同じ時間の中に、尾崎さんがいるという事実だけがほしい。
墓石の前で、そんな願いを持つこと自体が叶わないと分かっているからこそ。

「……っ」

涙が落ちる感覚はあるのに、拭う余裕もない。
失ったという事実を、私は今、初めて真正面から抱えている。
理解していたつもりだった。受け入れたつもりでいた。でもそれは、形をなぞっていただけで――本当は、ずっと避けてきただけだったのかもしれない。
会いたい。その一言に、後悔も、感謝も、置いてきてしまった時間も、全部詰まっている。

「……っ、……」

喉が潰れて、息を吸うたびにひび割れる音がする。泣き方なんて、もう分からない。ただ、呼吸が乱れて、視界が滲んで、身体の力が抜けていく。
その時、背中にそっと温度が触れた。冨岡さんの手だった。
ぽん、ぽん、とただ確かめるみたいに背中をゆっくり撫でてくれる。上から下へ、一定の速さで。呼吸に合わせるように。

――大丈夫じゃなくていい。
――今は、泣いていていい。

そんな言葉が、触れられた場所から静かに伝わってくる。
私は墓石の前で、涙が勝手に落ちなくなるまで泣き続けた。



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