36


結局、もう涙なんか出ない、というところまで泣き尽くしたときには、空はすっかり茜色に染まり始めていた。
どれくらいこうしていたのだろう。何年分かまとめて泣いたお陰ですっきりしている。
尾崎さんの墓石を離れて、少し丘を下ったところにある古びた長椅子。そこに、私は冨岡さんと二人で並んで腰を下ろしていた。

「落ち着いたか」
「は、はい……。すみません、もう、大丈夫です……」

答えたものの、自分の声は掠れていてひどく情けない。
考えてみれば、初めて出会ったあの日も、暴漢から救ってもらったときも、そして今も。なんだか私、冨岡さんの前で泣いてばかりではないだろうか。
いつも「大丈夫」の仮面が剥がれ落ちる瞬間には、この人が隣にいる。

「ずび、」

と、堪えきれずに不細工な音を立てて鼻をすすると、冨岡さんはなぜかふっと息を吐いた。

「あっすみません、ありがとうございます……」

彼が懐から取り出したのは、あの白い手拭い。恐縮しながらもありがたく受け取り、ずびずびと鼻を押さえ、目元をそっと拭う。
すると冨岡さんは手のひらを上に向けて、また当然のように私の前に差し出してきた。それを返せ、という意味だ。

「あ、いえ……!さすがに二度も汚してしまいましたし、一度持ち帰って綺麗に洗ってからお返しします」
「構わない」
「いえ、今度こそぜったいに洗って返します!」
「構わな、」
「洗って返します!!」

以前はそのまま返してしまったという苦い記憶がある。私がむきになって言い張ると、冨岡さんはどこか拍子抜けしながらも、諦めたように手を下に下ろした。

「大丈夫なのか」

手拭いのやり取りなんてどうでもいいとばかりに、冨岡さんは私を覗き込んでくる。

「は、はい。本当に、もう大丈夫です」

ふいに近くなった距離に私は慌てて視線を泳がせ、すっかり茜色に染まった遠くの山並みを見つめた。
大好きな人や、大切な人は、当たり前のように明日も明後日も生きているような気がしてしまう。
昨日もそうだったように、明日もまた、いつも通りに笑顔を交わせるはずだと。
けれど、それはただの願望でしかなくて。誰にとっても、明日が来ることは約束されたものでは決してない。
それなのに、人はどうして、当たり前のようにそれを信じ込んで、永遠に続く日常を思い描いてしまうのだろう。

ここは、鬼殺隊は、そういう場所だって理解していたつもりだったのに。
もし、あの日が最後だと知っていたなら。尾崎さんがあの任務から帰ってこないと、初めから分かっていたのなら。
あの朝、もっときつく、痛いほどに彼女を抱きしめて送り出したのに。
「帰ってきたらたくさんお喋りしようね」なんて先の約束ではなく、その瞬間に、私の持てる限りの言葉で「大好きだよ」と彼女に伝えていたのに。
言いたいことも、言えなかったことも、今になって悔やんでも遅いことばかりが溢れてくる。

けれど。きっと、そう思っていなければ、大切であればあるほど、いつか失うかもしれない恐怖で心が潰れてしまうんだ。
その裏返しの優しさが、「明日もきっと会える」という、淡く不確かな希望を私たちに抱かせるのかもしれない。

「……冨岡さん。今日は本当にありがとうございました」
「俺は何もしてない」
「そんなことありません」

焼き鳥屋に連れ出してくれたのも、私の行きたい場所に黙って付き合ってくれたのも。
泣いている間、ずっと隣にいてくれたのも、全部冨岡さんだ。
正直、まだ全然平気じゃない。これからもきっと、何度も彼女のことを思い出して、急に胸が苦しくなったり、どうしようもないくらい会いたくなったりするんだ。それでも。

「ここに来たおかげで、尾崎さんが私にくれた優しさとか、一緒に過ごした思い出まで一緒に失ったわけじゃないって、そう思えました。……だから、冨岡さんのおかげです」
「……お前は、強いな」
「さっきも言いましたけど、強くないですよ」
「大切な人の死も、そうやって乗り越える」
「……乗り越えられてる、わけじゃないです。でも乗り越えられなくても、抱えたまま生きていくことはできるのかなって思ったんです」

どんなに辛くても尾崎さんがくれた思い出がここにあるなら。その痛みを消し去る必要もないって思えた。

「それに、一人だったら絶対に途中で引き返していました。ここまで来ることさえできなかったんです」

もし今日、彼が強引に私を連れ出してくれなかったら。今もまだ、息をするのも苦しいような暗闇の中で、閉じこもることしかできなかったに違いない。
引き返さずにここまで来られたのは、傷ついて動けなくなっていた私の手を、彼が拒むことを許さない強さで引いてくれたからだ。
誰かを頼ることは、決して恥ずかしいことなんかじゃない。それを教えてくれたのは冨岡さんだ。

「だから、ありがとうございます」

私が真っ直ぐに感謝を伝えると、冨岡さんはわずかに視線を揺らし、何か重いものを吐き出すように息を吐いた。

「……俺は、知っていた」
「え?」
「尾崎が死んだことを、お前より先に知っていた。だが、あえてお前には黙っていたんだ」

ぽつりと、どこか自責の念を孕んだ声が落ちる。

「あ、しのぶさんから聞きました。でもそれは、お二人が私のことを思って隠してくださっていたんですよね?……大正解でしたよ。私、すごく取り乱してたじゃないですか」

あんな風に過呼吸になったのは人生で初めてだった。胸が焼き切れるように苦しくて、苦しくて、呼吸までできなくなって。
そんな時、冨岡さんが私を抱き寄せて、ただ真っ直ぐに「とりあえず泣け」と言ってくれたのだ。

「だから、お二人のその優しさが私はすごく嬉しいです」

私のことをよく理解してくれている二人だからこそできた、最善の判断だったのだと今なら分かる。
それは、優しさから生まれた嘘。彼らが私の心を必死に守ろうとしてくれた証拠だ。私もそれを分かっているからこそ、「隠されていた」なんて二人を責めたりもしない。

「後悔していないか」
「後悔?……何を」
「蝶屋敷に行ったことだ。鬼の存在もわからない、平和な場所に身を置くこともできたはずだった」
「それはどういう……」

まさか。冨岡さんは、私が苦しんでいるのは自分のせいだって言いたいのだろうか。蝶屋敷へ私を連れて行ったのは自分だからと。
冨岡さんがそんな風に思っているなんて、これっぽっちも知らなかった。ただの偶然で、私の身に起きた悲劇。それに伴う私の苦しみや涙なんて、すべて私自身の問題であって、彼にそこまで責任を負ってもらう義理なんてどこにもない。

「そんなわけ、ないじゃないですか」

この人は、私がここに来て、不幸になったとでも思っているのだろうか。
そんなわけがない。私が今、こうして生きていて、誰かを想って泣けることも。全部、あの日に彼が私の手を引いて、命を繋いでくれたからこそなのに。

「あの、冨岡さん。先に言っておきますが私、蝶屋敷以外に行くなんて絶対に嫌です」

先手を打って告げると、冨岡さんは少し驚いたように目を瞬かせてこちらを見た。
右も左も分からなかった私を、蝶屋敷のみんなは誰も突き放さず、当たり前のように居場所をくれた。もし別の場所に送られていたら、私はあの温もりを知ることもなかった。

「蝶屋敷にいたから、私は尾崎さんに出会うことができたんです。……彼女のことを知らずに百年生きるより、私は一緒に過ごせたわずかな時間のほうが、何倍も何十倍も幸せです」

最初は、面倒をしばらく見るという約束で、仮初めのつもりであそこに置いてもらっていただけだった。
けれど、あの日々はいつの間にか、私の心の一番深いところまで染み込んで、もう離れられなくなってしまっている。

「……やはり、お前は強いな」
「だから、強くないですよ」
「そうやって、与えられた場所を自分の力で居場所に変えていく。俺が案ずるまでもなかった」

「強い」と言われるのはやっぱり少し面食らってしまうけれど。冨岡さんが分かってくれたのならそれでいい。彼には、自分のせいだなんて思って欲しくないから。

「強い冨岡さんにそう言ってもらえて嬉しいです」
「俺は強くない」
「柱にまでなって、みんなを守っているのにですか?尊敬してます」

どれだけのものを背負えば、その域にまで辿り着けるのか。誰かに守られるしかない私からしてみれば、本当に凄いことだ。
しかし、なぜか冨岡さんは酷く寂しげに目を伏せた。

「……ごめんなさい、失言でしたか?」

そう尋ねながら、小さな引っかかりを覚える。
そういえば以前も、私の何気ない一言に対して、彼はこんな風に痛みを耐えるような悲痛な表情を浮かべていたことがあった。
普段は感情の起伏をほとんど表に出さず、冷徹とすら思えるほど静かな人だ。けれど、こうしてふいに見せる表情は、いつだって驚くほど脆く、切ない。
何かを深く悔いるように、あるいは自らを静かに責め立てるように影を落とすその姿に、私はいつも心を痛めてしまう。
皆守る立場にある、柱という存在。誰もが認める、圧倒的な強さ。
けれど。もしかして。この人も。私には計り知れないほどの、何か深い傷を抱えて生きているのだろうか。

「とみ、岡さん……?」

消え入りそうな声で名を呼ぶと、冨岡さんは表情を変えないまますっと立ち上がった。

「そろそろ行くぞ。胡蝶が心配する」
「あ、えっと……はい」

そのまま前を向いて歩き出してしまう冨岡さんを、私は慌てて追いかける。
その広い背中を見つめながら、彼の背負っているものの重さに、私はそっと想いを馳せることしかできなかった。









「眠いか」
「……大丈夫です」

その帰り道のこと。
二頭の馬に引かれた木造の乗合馬車に乗り、窓の外で流れていく景色をただぼんやりと眺めていた。馬車のガタゴトとした、規則的な振動が体に伝わってくる。
眠たい、かもしれない。感情が溢れて、きっと気が緩んでしまったんだ。重たくなる目を必死に持ち上げながら、なんとか眠気に抗おうとする。

「……私これ、初めて乗りました」

無理矢理、言葉を口にしてみた。
本来なら、あの墓地から蝶屋敷までは歩いて戻るつもりだったのに。なんとか歩こうとしたけれど、寝不足には抗えなかった。
とぼとぼと歩く私の歩幅はいつの間にか冨岡さんの足取りから遅れがちになり、そんな私に気づいた冨岡さんがちょうど道端に停まっていたこの乗合馬車を呼び止めてくれたのだ。

「この辺りはまだ列車が通っていないからな。移動にはこれが使われる」

冨岡さんが珍しく、そんな風に解説をしてくれる。

「…そういえば、街の方で一度だけ自動車を見かけたことがあります」
「あれはまだ、よほどの金持ちしか持っていない乗り物だ」

…そうなんだ。
窓の外をぼんやりと眺めていると、和服を着た人々に混ざって、モダンな洋服を着こなした男性が歩いているのが見えた。
車も洋服も、まだ数は少ないけれど、この時代にも確実に新しい文化が流れ込んできているんだ。

「着いたら起こす。寝ていろ」

私が重たいまぶたを必死にぱちぱちとさせているのを見かねたのか、冨岡さんが静かにそう言った。

「……でも、」

せっかく私のために馬車を呼んでくれたのに、眠ってしまうなんて。それに、彼の隣で無防備に寝こけてしまうのもなんだか恥ずかしくて、私は小さく抵抗しようとした。

「いいから、目を閉じろ。お前はろくに眠っていないだろう」

普段の冨岡さんならそこで会話が終わるはずなのに、今日はどこか諭すような響きがその声には混ざっていた。
その心地よい声が、私に残ったわずかな抵抗力を綺麗に奪い去っていく。これ以上、重たいまぶたを上げておくのはもう限界だった。

「……着いたら、起こしてくれますか」
「ああ。約束する」

その一言にすっかり安心した私は、引き寄せられるようにして目を閉じた。
直後、ガタりと馬車が大きく揺れ、衝撃で体が横へ倒れそうになる。
けれど、ぐらりと傾いた体はふいにそっと優しい力によって受け止められた。そのままトスン、と私の頭が安定する。
なんだろう。すごく安心する。そのあたたかさに身を委ねるように、意識はそこでぷつりと途切れた。





***





ガタゴトと重い音を立てて、乗合馬車が傾いた拍子だった。
小さく身体を揺らした高月の頭が、吸い寄せられるように俺の肩へと落ちてくる。とすん、と僅かな重みが伝わり、どこか甘い香りが鼻をくすぐった。

「……」

咄嗟に肩を少し下げ、彼女が体制を崩さないように支える。
規則的な車輪の音だけが響く狭い空間で、俺の肩に預けられた頭からは、小さな息遣いが聞こえ始めていた。
本当に、あっという間に深い眠りへと落ちてしまったらしい。

限界だったのだろう。心も身体も。
目蓋の縁を赤く腫らし、疲弊しきった横顔。手拭いを強情に「洗って返します」と言い張っていた時の強がりも今はない。
無理矢理にでも焼き鳥を食べに連れて行ったが、ほとんど口にしていなかった。
無理もない。家族を失い、身寄りもなかったはずの彼女が、初めて手にした大切な存在。それが尾崎だったのだ。
その尾崎を、俺は護れなかった。彼女の訃報を知った時、俺の頭に過ったのは「それを高月にどう伝えるべきか」という愚かな躊躇いだった。
胡蝶と共に隠すことを選んだのは、優しさなどではない。壊れそうなものを前にして、どう扱えばいいのか分からず逃げ出したのだ。

『乗り越えられなくても、抱えたまま生きていくことはできるのかなって思ったんです』

墓前で、掠れた声でそう言った彼女の言葉が何度も反芻される。
抱えたまま生きていく。そんなことが、本当に可能なのだろうか。
自分には分からなかった。柱たる資格などない。誰かを護る力など最初からなかった。そうやって自分の心を凍らせることでしか、自分を保つことができなかった。
他人の領域に深く踏み込むことを極力避けた。そうやって自分と世界の間に線を引いていなければ、やっていけなかった。前を向けなかった。

この娘のこともそうだった。道端で偶然出会い、身元も定かではない彼女を見た時、少し厄介だと思った。
だが、時が経つにつれ、彼女が向けてくる純粋な視線や、他者の痛みに寄り添おうとするあまりの脆さがどうしようもなく鼻についた。
関われば関わるほど、俺の凍りついた心が揺さぶられる。自分の無力さを突きつけられる。

だが、どうだ。彼女は今、あまりにも理不尽で残酷な現実に直面しながらも、前を向こうとしている。
泣いて、傷ついて、ボロボロになりながらも、尾崎からもらった優しさや思い出をなかったことにせず、胸に抱いて生きていこうとしている。

『強い冨岡さんにそう言ってもらえて嬉しいです』

無知ゆえの、あまりにも眩しすぎる言葉だった。
俺は強くなどない。お前が思うような立派な人間でもない。護れなかった者たちの屍の上に立っているだけの、ただの臆病者だ。
お前とは違う。それなのに、彼女は俺のそんな悲痛な影を敏感に察し、心配そうに覗き込んでくる。
自分の心だってズタズタに引き裂かれているはずなのに、なぜこの娘はいつも他人の顔色ばかりを伺い、他人の痛みに手を伸ばそうとするのだろう。

「……」

日が落ち冷え込んできた車内で、高月が寒そうに身を縮めた。俺は自分の来ていた羽織を脱ぎ、そっと彼女の肩にかけてやる。
このまま目を覚まさなければ、蝶屋敷までは抱いて運べばいいだろう。どうやら、彼女は一度眠るとしばらくは起きられないらしい。

目を逸らして通り過ぎるにはあまりにも脆く、放っておくにも危うすぎる彼女。
その強さは、決して頑丈だから生まれたものではない。傷つき、痛みに震えながらも立ち上がろうとする、必死な足掻きだ。
そう、気づいてしまったからだろうか。この手で何ができるわけでもないのに。

この日からだ。その姿から目を離すことができなくなっていたのは。




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