36


結局、もう涙なんか出ない、というところまで泣き尽くし、目も鼻も真っ赤になった頃。日が少し傾きかけていた。
冨岡さんに連れられるがまま、私は尾崎さんの墓石の前を離れて、少し丘を下ったところにある石畳に並んで腰を下ろした。冷たいはずの石の感触が、今はやけに心地いい。
濡れたままの頬に風が当たって、泣き腫らした目にはそのくらいがちょうど良かった。瞬きをするたび、視界の縁に残っていた滲みが少しずつ薄れていく。

「涙は止まったか?」
「…はい…大丈夫です、」

なんだか私、冨岡さんの前で泣いてばかりではないだろうか。ずび、と鼻をすすると、冨岡さんはなぜかふっと小さく息を吐いた。
さっきまで胸の奥を塞いでいたものはまだ完全にはなくならないが、それでも形を変えて沈んでいく感じがする。
隣にいる冨岡さんは何も言わず、同じように前を見据えていた。背中に触れていた手はもう離れているのに、そこに残った温度だけがまだ確かに分かる。

「……冨岡さん、あの、今日は一緒に来てくださってありがとうございました」

しばらく風に吹かれたあと、私は小さく息を整えてから隣を向いた。

「正直、まだ……全然、平気じゃないですけど」

そう続けてから、言葉を探すように少し間を置く。
平気じゃない、だけじゃ足りなくて。でも、それ以上強い言い方も違う気がして。

「……たぶん、これからも、何度も思い出します。急に苦しくなったり、会いたくなったり……」

そう口にしてからほんの一拍、息を置いた。
顔を上げる。風に揺れる木々の向こう、さっきまで立っていた墓地が視界に入る。石の白さも、花の色も、もう痛いほどには胸を刺さない。代わりに、じんわりとした重みだけが残っている。
失った、という事実は消えない。でも――その隣に、別の感触があることに気づいた。

「でも、尾崎さんがくれたものまで、一緒に失ったわけじゃないって……そう、思えたから」

胸の奥に残っている温度。困ったときに手を引かれた記憶。何も言わずに隣にいてくれていた気配。
それらは形を失っても、私の中でちゃんと息をしている。

「優しさとか、支えてくれた時間とか……そういう温もりは、ちゃんと……私の中に残っています。だから……今日は、ここまで来られてよかったです」

そう言うと、冨岡さんがゆっくりとこちらへ向いた。澄んだ青の瞳とまっすぐに視線が重なる。
その目に映っている自分が泣き腫らした顔だということは、今はどうでもよかった。
何かを言われなくてもいい。慰めの言葉も、正しい答えも、もう要らない。私は今、ちゃんとここにいる。
尾崎さんがくれた温もりも、冨岡さんがこうして隣にいてくれる沈黙も、どちらも同じ場所に触れている。

「一人だったらたぶん、途中で引き返してました。……だから、ありがとうございます」

冨岡さんは何も言わない。けれど、視線は逸れずそこにある。ただ、私の気持ちを、丁寧に受け取ってくれている。
思い返すと、尾崎さんもそうだった。
「強くあれ」なんて、一度も言われたことはない。「泣くな」なんて、なおさら。
尾崎さんが私にくれたものは、"耐える力"じゃない。弱くなることを許す余地だった。迷っても、立ち止まっても、それでも歩き続けられる柔らかい場所。
だから今、こうして泣いてしまった私を、彼女はきっと困った顔で見ている。それから小さく笑って、いつもの調子で言うのだ。
――それでいいよ。ちゃんと、悲しんで。…って。

「…もう少しだけ、ここで立ち止まっててもいいですよね。ちゃんと悲しむ時間だって、必要ですから…」

悲しみは、消してしまうものじゃない。置き去りにしたら、きっとまたどこかで追いついてくる。
だったら、ここでちゃんと向き合って息を合わせてからでいい。
そう思えたのは――冨岡さんが、いてくれたからだ。彼のおかげで、崩れきらずにここに座っていられたから。

「……お前は、強いな」

ぽつり、と冨岡さんが目を逸らしながら言った。その顔はどこか苦しそうで、辛そうで。どうして彼がそんな表情をするのか分からず、私は少し慌ててしまう。
さっきも、焼き鳥屋で同じ言葉を向けられた。あのときは戸惑いで受け流してしまったけれど、今は違う。胸の奥に、ちくりと引っかかるものがある。

「……強く、ないですよ」
「大切な人の死も、そうやって乗り越える」
「乗り越えられてる、わけじゃないです。でも、今朝起きたときよりは、ずっと……心は楽になってます。…冨岡さんのおかげです」

尾崎さんは、いつも私の幸せを願ってくれていた。無理をしないで、ちゃんと笑って生きていけることを。
だから――強くならなきゃ、なんて思わなくていい。誇らしく思ってもらえるのは、耐え続ける私じゃない。迷っても、泣いても、それでも前を向こうとする私だ。そう、今なら思える。
沈黙が少し長くなった頃、冨岡さんが低く口を開いた。

「……俺も、友人を鬼によって失った」

そのまま落とされた声に、私は一瞬耳を疑った。冨岡さんの声があまりにも静かで、事実だけを置いていく調子だったからだ。

「え――?」

息を吸うことすら忘れて、私はただその場に固まってしまう。

「まだ、十三歳だった。最終選別で帰らぬ人となった。鬼に丸ごと喰われて、骨も残っていない」

ぽつり、ぽつりと落とされるあまりに残酷な話に、絶句する。さっきまで吹いていた風の感触が、急に遠くなった。
最終選別、という言葉はもちろん知っている。以前、アオイさんにその過酷さを教えてもらったことがあるし、カナヲさんがそこに行ってしまったときも、皆気が気じゃなかった。
もちろん、冨岡さんも過去にその選別を受けている訳だが。
尾崎さんでさえ、骨だけはこうして残っている。そんな話を、どうして彼は今。頭が追いつかないまま私は小さく俯く。

「……すみません、辛い話をさせてしまいました」
「構わない。…そろそろ行くぞ」
「は、はい…」

言葉を振り払うように、すっと立ち上がった冨岡さん。私も慌てて立ち上がり、その背中を見つめる。
風に揺れる羽織の裾。迷いのない歩幅。いつも通りのはずなのに、今はその背中がひどく遠く感じる。
…そっか。冨岡さんも、そうなんだ。驚きよりも、納得のほうが先に来てしまった自分に少し戸惑う。この人の中にあった今まで見えなかった重さが、少し垣間見えた気がする。
どうして今、冨岡さんはその話を私にしたのだろう。そんな簡単に話せるような内容ではなかった。冨岡さんはいつだって、過去を語って理解を求めることもしないし、痛みを分け合おうともしない。
それはきっと、強さでもあり、癖でもあり。そして、長く身についた生き方なのだと思う。

だからこそ、なんとなくだけれど。冨岡さんはあの話を、誰かにするつもりなんてなかった気がする。
胸の奥に沈めたまま、触れないようにして。言葉にしてしまえば形を持ってしまうから、ずっと一人で抱えてきたもの。私もそうだったから分かる。
それなのに。それを私に、ぽつりと落としてしまった。尾崎さんの墓前で私が泣いて、「会いたい」と声を漏らしたそのすぐあとで。
もしかしたら、私が悲しみを抱え泣いてしまう姿に、彼自身の過去が重なって見えたのかもしれない。

それでも本当の理由は分からないし、冨岡さんはきっと説明しない。ただ一つ分かるのは、あれは私に「聞いてほしかった」話ではなかったということだ。
ただそこにあった事実が、今、私の前で静かに現れただけ。同じ場所に立って、同じ方向を向いていた、その一瞬が重なっただけ。
呼吸を整えて、私は小さく息を吸った。追いついて何かを言いたいわけじゃない。それでも、ただ、今は彼を追わないといけないような気がした。

「……」

名前を呼ぶ代わりに、私は足を進める。肩を並べることはできなくても、その背中を見失いたくない。
強い、とさっき冨岡さんが私に向けたその言葉が、今はそのまま彼自身に返っていく気がして、胸の奥がきゅっと詰まった。










毎晩、夢見が悪い。それは自分でも分かっていた。自分は寝不足だ、と認識もしていた。
けれどそれは、限界を越えている自覚とはまったく別の話だったらしい。
次の日、目が覚めたらなぜかお昼をとうに過ぎていた。

「…えぇ…うそだぁ…」

喉から零れた声は、寝起きのせいかひどく掠れている。カーテン越しの光は、朝ではなく、もう完全に昼の色だった。
一瞬、日にちを間違えたのかと思って、ぼんやりと天井を見つめる。けれど、身体の重さだけは嘘をつかない。
昨日、あれからどうしたんだっけ。記憶を辿ろうとして途中で引っかかる。
尾崎さんの墓前を離れて、丘を下りて。冨岡さんを追いかけて帰り道を歩いて――そこまでは、はっきり覚えている。
けれどそのあとが、どうにもぼんやりしている。確か、馬車のようなものに乗ったはずだ。蝶屋敷までの距離を考えて、冨岡さんが道端に停まっていた乗合馬車を止めてくれた。疲れて歩く歩幅がいつの間にか合わなくなってきた私に、冨岡さんが気づいてしてくれたことだった。
馬車の中で木の軋む音と、車輪の揺れ。向かいの景色が流れていくのを眺めながら、私は少しだけ肩の力が抜けて――あれ、その先の記憶がすとんと抜け落ちている。
屋敷に着いた記憶も、馬車を降りた記憶もない。気がついたら、今こうして布団の中にいる。

…おかしいな。確かに寝不足だったけれど、記憶が飛ぶほど睡眠が取れていなったわけではない。
帰ってすぐに寝てしまったのだろうか。馬車に乗ったのは夕方頃だったから、屋敷に着いてすぐに寝たのなら、軽く十五時間近く眠り続けていたことになる。
体は正直だ。これまで見ないふりをしてきた疲れが、まとめて表に出てきたのだろう。

むくりと体を起こし、寝癖ではねた髪を手櫛で整える。
ぐぅとお腹が鳴った。久しぶりにそんな音を自分から聞いた気がする。そういえば、昨日の焼き鳥を三本食べたきり何も食べていない。
私は寝台から起き上がって、着物を素早く整えて戸を開けた。この時間なら朝餉どころか、とっくに昼餉の準備まで終わっているだろう。大寝坊だ。
そんなことで怒る人はこの屋敷にはいないけれど。失敗したな、と思いながら廊下に足を踏み入れたその瞬間。ふわりと、いい匂いが鼻先をくすぐった。

「あ、リサさん。おはようございます。…と言ってももうお昼ですけどね」
「え?…あ、アオイさん。おはよう、ございます」

廊下を通りかかったアオイさんに、思わず足を止めてぱちりと目を瞬かせる。
彼女の周りに、ふわりと漂う匂いに鼻先が反応した。湯気を含んだ出汁の香り。炊きたてのお米の、ほのかに甘い匂い。
へ、と視線を落とすと、アオイさんの手には赤いお膳が握られている。その上には卵とわかめの味噌汁に、つやつやの白米。

「え……これ……」
「そろそろ起きる頃だと思って。持って来ました」

当たり前みたいに言いながら、アオイさんはお膳を少し持ち上げた。

「よかったら、お部屋で食べてください」
「えっ…わざわざ…!す、すみません…大寝坊しちゃって……」

慌ててそう言うと、アオイさんは少しだけ目を細めた。

「大丈夫ですよ。久しぶりにゆっくり眠れたみたいだったので、みんなで今日は起こさないでおこうって話してたんです」

…みんなで。そうだったんだ、優しいな。
私はいつも通りに振る舞って、余計なことは言わずにちゃんとやれていると思っていたけれど。思っていた以上に、周りの人に心配をかけていたのかもしれない。
冨岡さんにも、"酷く脆く見えた"と言われてしまった。実際は気づかないところで、ずっと周りに支えられていたのだ。
申し訳なさと有り難さが、同時に押し寄せてくる。

「食欲はありますか?」

そう聞かれて、私はもう一度お膳を見る。味噌汁の湯気が立ち上って鼻先をくすぐった。
…いい匂い。そう思った途端、ぐうぅ、とまた遠慮のない音がお腹の奥から鳴った。

「……あります。すごく……」
「ふふ、よかった。じゃあ、冷めないうちにどうぞ」
「ありがとうございます……」

差し出されたお膳を両手で受け取り、落とさないよう指先に力を入れて抱え直すと、木の温度が掌に伝わった。冷たくもなく、熱すぎもせず、ちょうどいい。

「無理して全部食べなくてもいいですからね」
「は、はい。ありがとうございます。…あの、アオイさん」

お膳を抱えたまま思わず呼び止めると、背中を向けかけていた彼女が振り返った。

「昨日のことなんですけど……。その、私、屋敷に戻ってすぐ寝ちゃったんですよね?」

自分でも分かるくらい、声が曖昧になる。覚えているところと、覚えていないところの境目がよく分からない。
アオイさんは一瞬だけ言葉を探すように瞬きをしたあと、特別なことなんて何もないように口を開いた。

「?はい、そうです。七時くらいでしたかね」
「……あ、よかった」

ほっとして息を吐く。やっぱり、疲れてすぐに眠ってしまったみたいだ。こうして久しぶりにぐっすり眠れたのも、尾崎さんに会いに行って心の整理ができたからだろう。頭の中もどこかすっきりしている。

「実は、途中から昨日の記憶が抜け落ちてて。そんなになるまで無理しちゃ駄目ですね。みんなに迷惑をかけては元も子もないので気をつけます」

小さく笑ってそう言うと、アオイさんは一瞬だけぱちりと目を瞬かせた。

「…水柱様がおぶって運んでくださったことも?」
「え?」

今、アオイさんはなんと?言葉を理解するより先に、血の気が一気に顔に集まるのが分かった。

「……は、運……?」
「はい。リサさん、馬車で眠ってしまったみたいで。そこも覚えてませんか?ゆすっても起きなかったので、そのまま」

淡々とした説明が、容赦なく続く。

「水柱様がお部屋までおぶって行って、布団に寝かせてくれたんですよ。しのぶ様はそんなふうになるまでリサさんを連れ回した冨岡さんに、ぴきぴきなさってましたけど」
「え……ええ……」

声にならない声が漏れる。
昨日の記憶が、後ろから一気に追いついてきた。馬車の揺れ。冨岡さんの隣で少しだけ気を抜いた感覚。そのまま――まさか、眠ってしまった?
つまり私は。何も知らないまま、この部屋まで、冨岡さんに?
そこまで考えて、両手でお膳をぎゅっと抱きしめた。木の角が掌に食い込むのに、痛みよりも頬の熱のほうが勝っている。

「……恥ずかしい、最悪だ……」

消え入りそうに聞くと、アオイさんは小さく笑った。

「疲れが出たんですよ。今日一日ゆっくりしてください」

そう言って、今度こそ廊下を戻っていく。一人残されて、私はしばらくその場から動けずにいた。じわりと熱が身体を這い上がる。
一度目に彼に運ばれたときは、正直に言うと何も感じなかった。自分が正気を保っていなかったからだ。尾崎さんを失ったことしか見えておらず、申し訳ない、迷惑をかけた、その程度にしか考えられなかった。
けれど、よくよく考えてみると、とんでもない。好きな人におぶられるなんて。無防備なまま身を預けてしまったという事実が、今さらになって胸を打つ。

とりあえず私は部屋へ戻り、机の前に腰を下ろした。そっとお膳を置くと、味噌汁の表面が小さく揺れる。
箸を取る前に、思わず顔を両手で覆った。手を顔に当てたまま、指先にまで熱が回っているのを自覚してしまう。
だめだ。これ以上考えたら、本当にどうにかなってしまう。

「っ、いただきます」

気持ちを誤魔化すように、私は小さく手を合わせてお椀を手に取った。



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