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「え?しのぶさんとカナヲさん、お出かけ中なの?」

そう聞くと、布巾を畳んでいたきよちゃんがぱっと顔を上げた。

「はい!町に降りて行かれました!」
「久しぶりに姉妹でお出かけです!…あ、でも今は師弟ですかね…?」
「でもでも、カナヲさん、すごく嬉しそうでしたよ!きっとにこにこ笑って帰ってくると思います!」

すみちゃんがくすっと笑って、両手を胸の前で合わせる。
お昼を過ぎた台所。洗い場にはとっくに水が張られていて、桶の表面が光を反射していた。屋敷の中にいるというのに、外の明るさをやけにしっかり感じる。
しのぶさんの所在を三人娘に聞きながら、私は完食したお膳を流しに置いた。袖をたくし上げて、手を水に浸し、味噌汁の椀を軽くすすぎながら静かに水音を立てる。

「…そっか。それなら、また帰ってきた後でもいいかな」
「リサさん、しのぶ様に何か急ぎの用事ですか?」
「あ、別にそういうのじゃないんだけどね…」

そう、別に急いで会わなければならない訳ではない。ただ、彼女に伝えたいことがあったのだ。
ここに来てから、しのぶさんには本当にたくさんお世話になってきた。何も言わずに居場所を用意してくれて、無理をしそうになるたびに、心さりげなく手を止めてくれて。
尾崎さんを失ってから、そんな彼女の心配をさらに加速させてしまったはずだ。私が平気な顔をして仕事を続けているときほど、しのぶさんはよくこちらを見ていたから。
尾崎さんのお墓に誘ってくれたのも、しのぶさんだった。だから、もう一度直接お礼を言いたかった。それと一緒に、心配をかけてしまったことのお詫びも。そして、尾崎さんのお墓に行って来られました、と報告も。
けれど今、カナヲさんと姉妹として大切な時間を過ごしているのなら、また後で落ち着いた頃にでも伝えればいいだろう。
私は洗い終えた器を、布で拭きながらそっと重ねる。

「しのぶ様、お土産を買って来てくださるって言ってました!」
「大きなお煎餅だったら嬉しいね!」

なほちゃんが指先で小さく丸を描きながら言うと、三人で顔を見合わせてふふ、と控えめに笑う。
今頃、しのぶさんとカナヲさんも、あの町の空気の中で、少し肩の力を抜いて笑えているだろうか。そんなことを考えながら、私は最後の一枚を棚にしまった。









屋敷の空気が少しだけ変わり始めたのは、日が傾きかけた頃だった。
洗い物を終えて、昨夜入り損ねた湯槽に浸かり、庭先に干した布を取り込もうと縁側に出たとき、ひやりとした風が肌に触れた。
昼間のあたたかさが引いて、どこか硬い。なんだか嫌な冷え方だ。空はまだ明るいけれど、遠くの雲が厚く重なって色が鈍い。もうすぐ、梅雨の季節だからだろうか。
私は布を取り入れながら、無意識に耳を澄ませていた。蝶屋敷は静かだ。夕餉前の、少しゆるんだ時間。
三人娘は廊下の奥で何か話しているらしく、小さな笑い声が聞こえる。アオイさんはさっき、薬棚の前で作業をしているのを見かけた。
しのぶさんは少し前に、カナヲさんと一緒に屋敷に戻ってきていた。買い物帰りにしては、随分と静かな帰り方だったが、その時は特に不思議には思わなかった。私は廊下を進んで、先を歩く彼女らに声をかけた。

『おかえりなさい』

しのぶさんは一瞬だけこちらを見て、すぐに微笑んだ。いつもの柔らかくて、隙のない、みんなを安心させる笑顔で。
その表情に、胸がすっと緩む。伝えたかった気持ちがずっと胸に引っかかっていて、早く言ってしまいたかった。
カナヲさんにも声をかけ、去っていく彼女を見送ってから、昨日、冨岡さんとお墓に行ってきたことをしのぶさんに報告した。しのぶさんはほんの一瞬驚いたように目を瞬かせたけど、そのあと目に見えて肩の力を抜いた。
その表情を見て、私は思っていた以上に彼女に心配をかけていたのだと悟った。申し訳なさと同時に、温かいものが胸の底に溜まっていく。
彼女は、私がどんな形で崩れようとも、こうして温かく見守ってくれるのだと改めて思い知らされた。

『お墓に行っていたとは知りませんでした。…全く、いつも言葉が足りないんです、冨岡さんは。無駄に怒ってしまいましたよ』

困ったように笑いながらも、その声音はどこか柔らかかった。責めるというより、諦めに近い響き。
私は何も言えず、ただ小さく頭を下げた。

『…たくさん、ご心配をおかけしました』
『そんなこと、気にしなくていいのですよ。…でも、リサさんの殻も一枚剥けたみたいで、少し安心しました』

そう言って、しのぶさんは優しく微笑んだ。私はなんだか泣きそうになってしまって、返事はできなかったけれど。きちんと前を向いている姿を見せることが、彼女に対するいちばんの返事になるはずだ。
少し引っかかったのは、去り際のしのぶさんの表情が、どこか悲しそうに見えたこと。気のせいだっただろうか。
乾ききった白い布を片手に抱えながら、私はさっきの彼女の表情を思い返していた。



最後の一枚の洗濯を取り入れたところで、門の方から人影がこちらへ向かってくるのが見えた。
顔を布で覆った“隠”だ。任務帰りのよう見える。その背に人がおぶられていた。
…また、怪我人だろうか。夕方にやって来るなんて珍しい。遠方から来た人だろうか。夜に任務を終えた鬼殺隊は、大体は翌朝、遅くても昼に運ばれてくることが多い。
不思議に思って眺めていると、隠の青年と目が合った。彼も私に気づくと、どこか安心したように小さく息を吐いた。ひどくほっとしたような表情を浮かべる。そしてこちらへ一歩近づき、軽く頭を下げた。

「良かった……すぐに屋敷の方がいらして。怪我人です。中に入ってもよろしいでしょうか」
「は、はい。もちろんです。今、案内を……ってその後ろは、伊之助くんですか?」

慌てて答え、布を抱えたまま案内しようとした、その時。隠の背に押し付けられた、見慣れた猪の毛皮が頭が視界に入った。
…伊之助くんだ。間違いない。けれどどこか様子がおかしい。いつもの勢いがどこにもない気がする。
腕も脚も力なく垂れ下がり、呼吸はあるものの、被り物のせいで意識があるのかどうかも分からなかった。
——昨日、任務に行ったばかりじゃなかったっけ。一体彼に何が。そんな疑問が浮かんだ、その直後。
一人、二人と、隠が続いて庭先に入ってきた。担架。血の匂い。袖を赤く染めた包帯。胸の奥がひやりと冷えた。

「……炭治郎、くん……」

自分でも驚くほど、声が低くなった。名前を呼んだというより、確認した、という方が近い。そこにいるはずのない姿を、どうにか現実として受け止めようとするみたいに。
炭治郎くんは、隠におぶわれたまま顔を伏せていた。お腹に巻かれた包帯が、赤く染まっている。何かをぎゅっと噛みしめるようにして、声を押し殺して泣いているのが分かった。
屋敷を出る前、彼の背中にあった禰󠄀豆子ちゃんの入った木箱は、今は隣にいる善逸くんの背中にある。

理由は、まだ分からない。けれど、なんとなく分かってしまう。伊之助くんの状態。炭治郎くんの泣き方。隠たちの足取りの重さ。
それらが、ひとつの答えを指し示している。只事ではない。任務の失敗でも、怪我人が出ただけでもない。
もっと——取り返しのつかない、何かが起こったと。

私は布を抱えたまま、その場に立ち尽くしていた。声をかけるべきなのか、すぐに中へ案内するべきなのか、判断が遅れる。
その一瞬の沈黙を破るように、別の隠が低く言った。

「……胡蝶様を、お呼びしていただけますか」
「……はい」

それだけ答えて、私は屋敷の中へ駆け出す。
背後で、炭治郎くんの小さな嗚咽が風に混じって聞こえた。




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