38


——柱の煉獄さんが亡くなった。
その知らせは、あっという間に鬼殺隊の中を駆け抜けた。
戦いの場であった無限列車。上弦の鬼との戦いで、乗客二百人を一人も欠くことなく守りきった末に――柱ひとりが、その場に残されてしまったのだという。
会ったことは、一度もない人だ。それなのに、話を聞くだけでその人となりが浮かぶ気がした。
責任感が強くて、まっすぐで、きっと――優しい人だったに違いないと。
そんな話を聞いて、私は胸の奥がじわりと痛んだ。誇らしさと、どうしようもない喪失感が、同時に押し寄せてくる。

…柱でも、鬼に負けてしまうのかと。ふいにそんな考えが浮かんで、慌てて打ち消した。けれど、一度浮かんでしまった疑問は簡単には消えてくれない。
私はこれまで、どこかで思い込んでいたのだと思う。冨岡さんや、しのぶさん。あの人たちを見ていると、どんな鬼が相手でもきっと大丈夫なのだと。彼らに任せておけば、鬼はいつかいなくなる。時間はかかっても、必ず終わりは来るのだと。
――そんなふうに、信じていた。でも、それは。あまりにも浅はかだった。
柱は、特別だから強いのではない。特別な覚悟を持って、最前線に立ち続けているからこそ、強いのだ。
誰よりも前に立ち、誰よりも危険な場所に身を置く。だからこそ誰よりも早く、命を失う可能性を抱えている。
煉獄さんの死は、その現実を否応なく突きつけてきた。

日の昇った庭先では、風に揺れた草が擦れる音がしている。いつもと変わらない朝のはずなのに、まるで世界の色が一段、暗くなったみたいだ。
私は縁側に腰掛けながら、膝の上で指を強く握りしめていた。
冨岡さんの背中が、昨日よりも遠く感じる。しのぶさんの微笑みも、どこか儚いものに思えてしまう。昨日、彼女が悲しい表情をしていたのは、これが理由だったんだ。

炭治郎くんは、運ばれてからほとんど口を開かなかった。昨夜、治療のために布団に横になってはいたけれど、その目には喪失が浮かんでいた。
あの炭治郎くんでも、落ち込んだり、もう駄目だって思ってしまうこともあるんだな。いつも真っ直ぐで、迷いがなくて、どんな状況でも前を向いていたのに。
任務に向かう前も、尾崎さんを失ってどう立ち直ればいいのか分からずにいた私に、炭治郎くんは真剣な目で声をかけてくれた。
どれだけ優しくて、強くて、まっすぐでも。どれだけ覚悟を決めて戦っていても。
全部を背負い切れない瞬間は、確かにあって。心が折れてしまうこともある。
世界は残酷だ。誰かが立ち上がったと思ったら、次の瞬間にはまた誰かの足元をすくっていく。

でも――それでも。その痛みを抱えたままでも、人は生きていかなければならない。彼らが美しいと信じたこの世界で。
炭治郎くんが、昨日、私に教えてくれたように。今度は、私がそれを信じていなければならないと、そう思った。









「きゃー!炭治郎さんがいませーん!」
「あだッッ!」
「きゃー!善逸さん!ごめんなさい!」

廊下に響いた三段構えの叫び声に、私は足を止めた。顔を上げ、咄嗟に声のしたほうへ視線を向けると、なぜか善逸くんが両手で鼻を押さえ、その場にへたり込んでいた。指の隙間から、真っ赤な鼻血。辺りにはなぜかお饅頭が散らばっている。
そのすぐ前で、きよちゃんが蒼白な顔をして慌てていた。

煉獄さんが亡くなってから、数日。
蝶屋敷の空気感は、相変わらずだった。善逸くんや伊之助くんが戻って来てからというもの、またより一層賑やかになった。
時は決まった順序で流れていく。まるで、何事もなかったかのように。
私は、いつも通りの日常を過ごしていた。みんなと一緒に台所に立ち、出来る限りの治療の手伝いをし、洗濯や掃除をする。
以前の私なら、きっと違っていたと思う。誰かの死を聞いたら、胸がざわついて、何をしていても上の空で、意味もなく立ち尽くしてしまっていたはずだ。
けれど、悲しみと一緒に前を向く術を、私も少しずつ覚え始めている。痛みを抱えたまま、それでも今日やるべきことに手を伸ばすのだと。

その朝も、屋敷の玄関に届いた荷物を抱え、調薬室まで運んでいた。
紙で包まれた箱がいくつもある。中身は薬草や包帯、保存の利く食糧。どれも、治療のために欠かせないものばかりだ。
そんな時に大きな叫び声が廊下から聞こえたものだから、私は手に持っていた荷物を床に投げ出し、慌てて二人の元へ駆け寄っていた。

「だ、大丈夫……!?」

尻餅をついた善逸くんの前に膝をつく。

「だ、大丈夫……だよ……っ!全然っ……大丈夫ぶぅ……!」
「目の焦点が大丈夫じゃないです!善逸さん、ほんとにごめんなさい……!」

善逸くんの目は完全に泳いでいて、きよちゃんの言うように、焦点がまるで合っていない。
どうやら、きよちゃんの頭と善逸くんの鼻が不慮の事故でぶつかってしまったらしい。それなのに善逸くんはふらふらしながらも、きよちゃんの方を見て笑おうとする。

「大丈夫大丈夫。それより…どしたの…?」
「大丈夫じゃないよ善逸くん!鼻血、吹き出てるし!早く冷やそう」

私も、以前派手に鼻をぶつけて鼻血を出したことがある。あの、じんと鈍く広がる痛みと、涙が勝手に滲む感じ。思い出すだけで、鼻の奥がつんとする。
慌ててそう言いながら彼に手を伸ばすと、善逸くんはきよちゃんから受け取ったハンカチで、呑気に鼻を抑え始めた。

「これでとりあえず止血してください!」
「うぅ……ありがとう……優しさが……染みる……」

情けない声を出しながらも、きよちゃんに素直に従う善逸くん。
その様子を見て、きよちゃんはようやく少しだけ息を整えたらしく、半泣きのまま私を見上げた。

「きよちゃんも…頭ぶつけたところ、大丈夫?」
「リサさん!私は全然大丈夫です!それよれも!炭治郎さんが、どこにもいなくって……!」
「……炭治郎くんが?」

なんだか嫌な予感に眉を顰めて聞き返すと、きよちゃんは一気に言葉を吐き出した。

「はい!炭治郎さん、傷が治ってないのに鍛錬なさってて!しのぶ様もぴきぴきなさってて!安静にって言われてるのにぃ…!またどこかへ…!」

きよちゃんの話によると、炭治郎くんはまだ傷が癒えていないのにも関わらず鍛錬をしていて、しのぶさんから「安静に」と言われた忠告も無視し、毎日どこかへ出掛けてしまっているのだと言う。
そんな言うことを聞かない炭治郎くんに、しのぶさんも苛立ちと不安が募って、ぴきぴきしていると。
そんなことになっているなんて、ちっとも知らなかった。確かに昨日、炭治郎くんが庭先で木刀を振っている姿を見かけたが、そんな状態だったとは思わない。
呼吸を整えながら、淡々と型を繰り返していた背中。私はそれを、ただの鍛錬だと思って通り過ぎてしまった。
まさか、傷が癒えていない状態で。止められてもなお、毎日のように身体を動かしていたなんて。

「腹の傷、かなり深かったんだよね?馬鹿なの?」

少し正気に戻った善逸くんが、まともにツッコむ。本当にその通りだ。
炭治郎くんの気持ちも痛いほど理解できる。私もそうだったからだ。失ったものの大きさに耐えられず、とりあえず体を動かしていないと落ち着かないのだろう。
けれど、怪我をしている身体でそれをされてしまうと、見ているこちらはヒヤヒヤしてしまう。悪化してしまったら、どうするんだ。みんなに同じように心配をかけていた私が、言えることではないかもしれないけど…。
私は深く息を吸ってから、きよちゃんの目線に合わせてもう一度深くしゃがみ込んだ。

「とりあえず一緒に探そう。屋敷の中だよね?」
「は、はい…!外にさえ行っていなければ……!」
「ごめんね。少しの間善逸くんは、鼻を押さえたままここで待ってて」
「えっ!?俺だけ置いてかれるの!?さっき冷やそうって言ってくれたのは!?」
「善逸さん、すみません…!」

きよちゃんと一緒に、改めて廊下の奥へと視線を走らせる。蝶屋敷は広いけれど、隠れられる場所は限られている。鍛錬をするなら庭、外に出ていないならその裏手か、あるいは人目を避けられる納屋のあたりだろうか。
落ち込んでいる炭治郎くんを見て、すっかり私も気が抜けていた。炭治郎くんは、前に進む人だって分かっていたのに。それが今は、傷を抱えたまま無理に体を動かす形で現れているのだと思うと、胸がきゅっと痛んだ。






結局、炭治郎くんが姿を現したのは、次の日の夜明け前だった。カーテンの向こうがうっすらと白み始め、鳥の声が一つ、また一つと重なりはじめた頃。外から、切羽詰まった大きな叫び声が響いて、私は飛び起きた。
恐る恐る様子を伺うように廊下へと出ると、どこか疲れ切った顔の炭治郎くんがアオイさんと三人娘に連れられて病室へ歩いていくところだった。
一応、無事に帰っては来たみたいで良かった。

後で聞いた話では、炭治郎くんは煉獄さんのお屋敷へ行っていたのだという。遺された言葉を、お父様と弟さんに直接伝えるために。
屋敷の中をあれだけ探しても、見つからなかったわけだ。あの怪我の具合で歩いていたなんて、とても信じられないとアオイさんは言っていた。でも、それが炭治郎くんだ。大切な人の言葉を、きちんと届けること。次に進むために、知るべきことから目を逸らさないこと。そうやって、いつも自分を後回しにしてきたのだろう。

そして、問題はその後だ。その帰りに、炭治郎くんはある人物に追われ、屋敷に戻ることができなくなったそうだ。
無限列車での戦いで、炭治郎くんは刀を失くしていた。それを打った刀鍛冶――鋼鐵塚さん、というらしいその方は、自分の作った刀に並々ならぬ思い入れがあるらしく。失われたことを知るや否や、怒り狂って炭治郎くんを襲ってきたのだという。
炭治郎くんが怪我をしているかどうかなんて、関係なかったのだろう。その方にとっては、自分の魂の一部とも言える刀が失われたという事実の方が、何よりも重かったのだ。

「鋼鐵塚さんの追跡は、夜明け近くまで続いたんだって」
「それで食欲ねえのか!食え!」
「うう、アオイさんたちがなだめてくれなかったら…」

そんな善逸くんたちの会話が、朝の食堂に転がっていた。入院服を着た三人は、机の前に並んで座り、湯気の立つ朝餉を前にしている。
私はそんな彼らを眺めるように、他の隊士たちが食べたお膳を片付けていた。
伊之助くんは、相変わらずだ。茶碗を片手で掴み、米をかき込む速度がとにかく速い。彼も軽く怪我をしているはずなのに、食べることに関しては一切の迷いがない。その様子に、少しだけ救われる。

「おかわり、いりませんか?」
「いりませんか?」

アオイさんと三人娘が朝餉の残りの乗った台車を運んできて声をかけると、伊之助くんは嬉しそうに「くれ!」と声を上げた。
差し出された茶碗を、アオイさんもどこか嬉しそうに受け取る。

「アオイさん、今朝はありがとう。すみちゃん、きよちゃん、なほちゃんも…」
「お安い御用です」

そう言う炭治郎くんの箸は、なかなか進まない。茶碗に口をつけるたび、喉を通すのに時間がかかっているのが分かる。頬は少しこけていて、目の下に薄く影が落ちていた。そんな身体で走り回ったのだから、無理もない。
善逸くんはというと、頭にぐるりと包帯を巻かれている。昨日ぶつけた鼻のあたりはもう腫れも引いていて大丈夫そうだけれど。その分だけ包帯が嫌に目立つ。本人はというと、食事よりも周囲の気配に神経を尖らせているらしく、時折びくっと肩を揺らしては、廊下の方を気にしていた。

「…鋼鐵塚さんは今どうしてるの?」
「鋼鐵塚さんなら緑側で、リサさんが買って来てくださったみたらし団子を食べていらっしゃいますよ」
「なんとか機嫌も直ったようですよ」

善逸くんの質問に、アオイさんときよちゃんが答えると、炭治郎くんはひどく安心したように「よかった…」と息を吐いた。

「みたらし団子は鋼鐵塚さんの大好物なんです」
「怒りだしたら、買いに行くといいですよ」
「覚えておきます…」

すみちゃんとなほちゃんが付け足すと、炭治郎くんはまたひとつ肩を下げてため息を落とした。

「俺も団子食いてえ!」
「はいはい、またあとで買っておきますから」

伊之助くんとアオイさんのそのやり取りを聞きながら、私も遅れて理解した。
――なるほど。そういう理由だったんだ。今朝、アオイさんに半ば背中を押されるようにして町まで走り、訳も分からないまま買ってきた、あのみたらし団子。
「とにかく甘いのを」「今すぐ行ってきてください」と、やけに切迫した口調だったから、私は深く考える余裕もなく、目についた団子屋で一包みだけ掴んで戻った。それが鋼鐵塚さんの大好物だったなんて。
そんなもので機嫌が治るのなら、たくさん常備しておいた方が良いのではないだらうか。そうすれば、余りもみんなで分けられる。

「ほら、紋次郎!食えって言ってんだろ!」
「……うん」

賑やかな声に包まれた蝶屋敷の朝は、今日も変わらずここにあった。




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