38


「うーん……」

すっかり過ごしやすかった春が過ぎ去り、じっとりとした生暖かい空気に包まれてはじめた頃。まだ六月だというのに、まとわりつくような湿気と蒸し暑さは、思わず着物の襟元を緩めたくなるほどだった。

「これだとちょっと普通すぎるかな。でも、こっちは甘すぎる気がするし……どうしよう」

町の市場に並ぶ涼しげな和菓子や、夏用の扇。
今日、お休みをもらって町まで買い物に来ている目的はただ一つ。
あの日、冨岡さんに貸してもらった白い手拭いを、ようやく綺麗に洗い終えた。今日は久しぶりに冨岡さんのお屋敷へお手伝いに行くことになったから、それを返す時に何かちょっとしたお礼を添えたいと思ったのだ。
だけど――。

「……冨岡さんが、何が好きなのかぜんぜん分からない」

甘いものが好きなのか、それとも辛いものが好きなのか。そもそも、彼が何かを「好きだ」と自ら進んで口にするようなものが、どうしても思い浮かばない。
食べ物の好みが全く見当もつかないとなると、やはり形に残る実用的なものの方がいいのだろうか。
たとえば、この時期に重宝しそうな渋い色合いの扇子や、仕立てのいい夏用の鼻緒。そんなものが一瞬頭をよぎったけれど、すぐに「いや、待てよ」と思い直した。
そういう日用品はすでに自分のお気に入りのものを持っているかもしれない。それに何より、ただのお礼にしては、そういった小物は少々大げさで重すぎる気がするのだ。
そしてだ。万が一、万が一にも、私が冨岡さんに「特別な感情」を抱いているのだと勘づかれてしまうことだけは、絶対に避けなければならなかった。

「うう……難しいなぁ」

さりげなくて、気を遣わせなくて、だけどちゃんとお礼の気持ちが伝わるもの。そんな都合の良いものが、果たしてこの賑やかな通りで見つかるのだろうか。
私、冨岡さんのこと何も知らないんだなぁ。せめてどんな食べ物が好きかくらい、普段の様子から気づけたら良かったのに。
自分の観察力のなさや、彼との間にある見えない壁の厚さに少しだけ胸がちくりと痛む。それでも、あの日差し伸べてくれた手の温もりだけは、今も私のなかに確かに残っている。
何も知らないからこそ、少しでも彼が「おっ」と喜んでくれるようなものを届けたい――。

ああでもない、こうでもないと頭を悩ませていたとき、ふわりと鼻腔をくすぐったのはどこか懐かしくて、ひたすらに優しい甘い香りだった。
じっとりとした空気を押し返すような、卵と砂糖の、こんがりと焼き上がった芳ばしい匂い。
香りのする方へ引き寄せられるように視線を向けると、少し開けた通りの角にあるモダンな店構えの洋菓子店が目に留まった。店先には、格式高そうな木の看板に『かすていら』と、誇らしげな文字が書かれている。

「そっか!」

カステラなら、お礼の贈り物として申し分ないかもしれない。
あまりに安いものだとお礼としては物足りないが、その点、カステラならこの時代の高級お菓子。形に残らないから冨岡さんも気負わずに受け取れるし、何より日頃の感謝がちゃんと伝わる。お茶との相性だって抜群だ。
しのぶさんにあげた時にも、喜んでもらえたし…!

「すみません、これください」

悩みに悩んで選んだ包み紙に丁寧に包まれたそれを、私は落とさないよう大切に抱える。これを渡すときのことを想像して、なんだか気恥ずかしく、少しだけ緊張してしまった。









賑やかな町から遠ざかり、青々と伸びた笹の揺れる道をしばらく歩いていくと、見慣れた冨岡さんの屋敷の門が見えてくる。
今まではどこか身を硬くしながら通っていたお屋敷が、あのお墓参りを経て、私の中で少しだけ違う特別な意味を持ち始めていた。
久しぶりに冨岡さんに会えるという嬉しさと同時に、手に持った包みがやたら重く感じてそわそわしてしまう。思わず屋敷の門の前で立ち止まり、紙袋を握った手に力を込めた。
どきどきと高鳴る胸を押さえて、ゆっくりと息を吐く。顔が熱い気がするけど、平常心、平常心…。

「……よし、」

小さく意気込んで、手を上げる。
実際、恥ずかしがっている場合ではない。だってこれはお礼の気持ちだ。冨岡さんから有り余る恩を受けているお礼として買ったものなのだから、二の足を踏んで渡せないままでいるのが一番まずい。
まずは門を叩いて、ご挨拶。それからさりげなく包みはいつもの部屋に運んでしまおう。帳簿の手伝いを終え、一息ついてから渡す。これだ。
脳内でシミュレーションをしっかりと行ない、私はゆっくりと息を吐いた。

「……と、冨岡さーん?」

門をトントンと軽く叩きながら、しっかり声を張り上げた。つもりだった。しかし、実際は喉の奥がきゅっと縮こまっていたようで、間の抜けた声が漏れる。
しかし、そんな声であっても冨岡さんは聞き逃さないでいてくれたらしく、それまで敷地内の奥から聞こえていた、カン、カン…という何かを打ち付けるような音が、私の声に反応してぴたりと止んだ。

「今開ける」

門の向こうから聞こえてきた声に、私の心臓は跳ね上がった。手に持った包みを咄嗟に体の後ろへ隠す。
いや、何を緊張しているのか。怯むな。まずは平常心、平常心…。

「よく来たな」

そう言って冨岡さんが門を開けてくれた。
いつものように笑顔を作って、挨拶をする。ここまではシミュレーション通り。寸分の狂いもなかったはずだった。

「お久しぶりです、冨岡さ…………」

しかし。門が開いて目の前に現れた冨岡さんの姿に、私は思わず息を呑んで固まってしまった。なぜなら、いつも着ているはずのあの特徴的な羽織を、冨岡さんが身に纏っていなかったからだ。

「と、冨岡さん!?いつもの羽織は……」
「…ああ。奥で鍛錬をしていたから脱いでいた」

想定外の登場に頭が真っ白になる。完全に、羽織を着た冨岡さんを頭の中で想像していたから動揺を隠せない。
冨岡さんは何でもないことのように言うけれど、羽織を一枚纏っていないだけで、こうも印象が変わるものか。

「そ、そうだったんですね……お邪魔して、すみません……」

普段は隠されている鍛え上げられた広い肩幅、そしてベルトでぎゅっと締まった細い腰のラインが、隊服越しでもはっきりと分かって妙にどきりとした。少し汗ばんでいるのか、額に張り付いた数房の黒髪がいつもとは違う。

「少し遅かったな」
「あ、え?遅……ああ、来る前に、町に寄ってきて……」

いや、聞いてない。計画外だ。羽織を脱いだ冨岡さんなんてものは、計画に組み込まれていなかった。
ただ羽織を脱いだだけなのに、大人の色香から目を離せない。

「とりあえず中に入れ」
「は、はい、お邪魔します……」

なんとか平常心を保とうとするけれど、なぜだか私の思いとは裏腹に恐る恐る足を踏み入れる形になってしまった。
そのまま背を向けて、私を案内するように前を歩き出した冨岡さんをとりあえず追いかける。いつもは見えない「滅」の文字にさえ、新鮮さを感じてしまった。

「井戸で顔を洗ってくる。先にいつもの部屋で待っていてくれ」
「は、はい。わかりました」

そう言って冨岡さんが進路を変えたのを確かめると、私は逃げ込むようにしていつもの居間へと足を運んだ。誰もいない居間の入り口で立ち止まると、手にしたカステラの包みをそっと胸に抱く。
…落ち着け、私。落ち着くんだ。ただ、あの日のお礼と日頃の感謝を込めて、これを渡したいだけ。このままではまるで、何かよからぬ下心ややましい企みでもあるかのようだ。もしも受け取ってもらえなかったら、その時は自分で全部食べてしまえばいいのだから。

「今日はなぜ町に行ってきたんだ」
「ひゃっ」

その時、思いがけず後ろから声をかけられて変な声が出た。びくりと身を竦ませる私を見て、冨岡さんは不思議そうに目を瞬かせている。
もう井戸へ行ってきたのか、いつの間にかあの左右非対称の羽織もきちんと着直されている。

「なぜ町に、ですか?」
「ああ」
「か、買いたいものが、あって……」

なんとか濁そうとしどろもどろになりながら答えると、冨岡さんはきゅっと眉を寄せた。

「町へは一人で行ったのか」
「は、はい、それはもちろん……」

するり、と何も考えないまま言葉が流れ出ていた。言ってから自分の失言に気付く。
暴漢の一件があった際、冨岡さんから「町へ一人でおりるな」と強く言われていたことを今さら思い出したのだ。

「………一人で?」

一段低い冨岡さんの声に顔を引き攣らせる。

「…ぇ、えっと…その、一人と言えば一人なんですが…でも、その、なんともなかったですし、遠くには行ってないので……!」

やはり軽率過ぎただろうか。一度あんな目に遭った身なのだから、もっと慎重になるべきだったのかもしれない。
けれど、毎度毎度、買い物に行くたびに誰かについてきてもらうわけにもいかない。それこそ今回のように冨岡さんへの贈り物をこっそり買いたい時など、誰かと一緒では絶対に不都合だった。
びくびくとしながらそう言うと、難しい顔をしていた冨岡さんが深い溜息を落とす。

「高月」
「は、はい……」
「俺はお前の私生活に口を出せる立場ではないが」
「……はい」
「お前はもう少し警戒心を持った方がいい」

これは、助言とかそういう感じなのだろうか。小さくなって身を縮める私を見て、冨岡さんは溜息と共に怒気を流したようだった。
心配に思ってくれているのは純粋に嬉しいけれど、このまま重苦しい雰囲気になってしまうのだけは避けたいところだった。あちこちへ視線を泳がせていた私の目に、ぎゅっと抱きしめていた手の中の包みが留まる。
別段、驚かせるような大層な贈り物というわけでもない。それに、このまま何事もなかったかのように隠し続けていたら、それこそ不審極まりない態度に冨岡さんだって「何か隠しているのでは」と怪しむに決まっている。
もしかして、あれこれ計画して後から渡そうとするよりも、今ここで正直に渡してしまうべきなのでは。

「あの……これ!よければどうぞ」

思い切って突きつけた四角い包みを、冨岡さんは怪訝そうに見つめた。

「あ、あの。あの日、お墓参りの時に貸してくださった手拭い……洗って持ってきました。それで、何か少しでもいつもお世話になっているお礼を添えたいな、と思って」
「これは?」
「カステラです。あ、もし甘いものが苦手でしたら、その、私が引き取りますので……」
「かすてら?」
「は、はい、洋菓子の。以前しのぶさんにも差し上げたことがあって。数切れだけですが、良ければ召し上がってください……」

口にしながら、自分でも恥ずかしくなってきた。わざわざ細かく言うことでもないのに、なぜか説明せずにはいられない。

「俺に?」
「これだけじゃ全然足りないんですけど……」

冨岡さんから受けた恩は多大だ。それを甘受しているだけの自分にはなりたくない…なんて、既に皆におんぶに抱っこで甘えまくりで、なんの説得力もないけれど。

「たくさんお世話になってると思いますし……それに、」

言葉の先を続けようとして、ふと息が詰まった。
それを口にしてしまえば、先ほどまで必死に隠そうとしていた自分の特別な感情の端っこを、自ら差し出すようなものだったからだ。これ以上理由を並べ立てたら、この「お礼」という建前が破れて、彼を想う切ない本心がすべて晒されてしまう。

「あの……かすてら、嫌い、ですか……?」

うつむいたまま、ぎゅっと目をつぶる。
急激に膨れ上がった恥ずかしさと、秘密が暴かれてしまいそうな怖さでどうにかなってしまいそうだった。たかがカステラで。
沈黙が重く部屋を支配するなか、私の手元からすうっと包みが持ち上がった。重みが消えた私の両手は、行き場をなくして微かに震える。

「嫌いではない」

ゆっくりと顔を上げると、冨岡さんは両手でカステラの包みを持ち、じっとそれを見つめていた。心なしか、その切れ長の瞳が柔らかく緩んでいるように見える。
怒るでもなく、それどころか受け取ってくれるなんて。安堵が胸に広がるのと同時に、また少しだけ気恥ずかしさが込み上げてきて、私はもじもじと畳の目を凝視してしまった。

「このために町に降りたのか」
「はい。あ、これ手拭いです……!」

懐から、丁寧に洗い皺ひとつないように持ってきたそれを取り出す。指先でもう一度端が綺麗に揃っているかを確認すると、冨岡さんに差し出した。

「あの時は、本当にありがとうございました」
「別に気を遣わなくていい」

そう言って、冨岡さんは差し出された手拭いを静かに受け取る。

「俺のために危険を犯す必要もない」
「そういうわけにもいきません」

彼がどれだけ「何もしていない」と言おうとも、あの日に私のなかに残った温かさは本物で、凍りつきそうだった私を引き上げてくれた確かな救いで、それが私の心を今も生かしてくれているからだ。
誰かにとっての当然の親切が、受け取った側の世界を丸ごと救ってしまうことがある。

「私にとっては、とても大きなことなんです。だからどうしても何かしたくて……」

救いとは、いつもそうやって引き起こされる。とても不均衡で、一方通行な奇跡なのかもしれない。
だからこそ、その均衡を少しでも埋めたくて私はもがいてしまうのだ。たとえ、私の差し出すものが、彼のくれた救いの大きさに到底届かないのだとしても。

「……分かった。ありがたく頂く」

私の熱量が伝わったのか、冨岡さんはそう言って包みを軽く傾けて見せた。包みは冨岡さんの手のひらに乗るほどに小さく、中に収まっているのはほんの数切れだ。
だけど、彼がこうして大切そうに受け取ってくれた今、私の選択は決して間違いではなかったのだと救われたような気持ちになった。
良かった…。ちゃんと、渡せて。

「特段、俺はお前の世話をやくのは嫌いじゃない」
「え、」
「それで気を揉んでいたんじゃないのか」
「そ、そうですけど……」

さらりと言われる言葉にどきりとするから、不意打ちはやめて欲しい。そう思って眉を寄せると、冨岡さんがなぜかふっと息を吐いた。
あ、と思う間もなく、その大きな手のひらが私の頭の上にのせられる。そのまま優しく髪を撫でる手つき。彼の手はとても温かくて、触れられた場所から驚くほど優しい何かが伝わってくる。

「お前は分かりやすい」

冨岡さんのその声は、どこか楽しそうで。
それでいて、どこか甘い響きを持っていた。




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