39


ぽつぽつ、と屋根を叩くようなな音が聞こえ始めたかと思えば、じっとりとした湿気を含んだ風が、開け放たれた障子から居間へ流れ込んできた。
かすかな土の匂いに、雨だ、と思ったのも束の間。空は急速にその色を濃くしていき、あっという間に軒先を濡らす激しい音へと変わっていく。
雨戸に叩きつけられる無数の水滴に、私は顔を上げた。

「……雨、降ってきちゃいましたね」

帳簿の余白に万年筆でそろそろと計算式を書き込みながら、私は外を見つめそう呟いた。
それまで、私の斜め向かいで静かに筆を走らせていた冨岡さんもまた、ゆっくりと顔を上げて雨戸の向こうの暗い空へと視線を投げる。
さっきまであんなに青い空が広がり、むしろ汗ばむほどの晴天だったというのに。天気予報なんてないこの時代、山の天気の移り変わりは本当に早くて、世界はあっという間に灰色に塗り潰されていく。

「そういえば、五月雨さみだれの季節か」

激しい雨音をしばらく黙って聞き入るようにしていた冨岡さんが、ふと思い出したかのように呟いた。
そうか、もう梅雨の季節か。気がつけば私は、二つもの季節をこの時代で過ごしたことになる。時間の流れは本当に早いなと思うのと同時に、まだそれだけか、とも思う。
この時代で送る毎日はすでに私のなかで、何年も前からそうであったかのように深く、自然に馴染んでしまっているからだ。

「雨の日の任務って大変そうですね……」

なんとなくそう呟いたのは、今朝早くに任務へ向かうしのぶさんの後ろ姿を思い出したからだった。

「きっと足も取られますし、冷えますし、怪我をする方が増えそうですね」

どれだけ雨が降り注ごうとも、鬼は待ってはくれない。そんな理不尽な脅威に立ち向かうために、剣士たちは泥にまみれ、体温を奪われながらも刃を振るい続けなければならないのだ。この降りしきる雨は、きっと彼らにとって容赦のない障害でしかないだろう。

「お前も……、すっかり蝶屋敷の人間らしきことを言うようになった」
「え?」

冨岡さんの静かな指摘に、私は思わず目を丸くした。
確かに。言われてみれば、いつからだろう。最初は自分のことで頭がいっぱいだったのに。
今では、天気が崩れれば「みんな、大丈夫かな。怪我をしないだろうか」って自然に彼らのことを案じてしまう。それだけ、あのお屋敷でみんなと一緒に過ごす日々を積み重ねてきたということなのかもしれない。

「あの、雨の日って太陽が出ていませんけど、もしかして鬼が出たりするんですか?」
「…よほどの豪雨ならな」

…そうか。雨が降るだけで、鬼たちにとっては昼夜の境界が曖昧になってしまうんだ。

「高月、今日はここまででいい。雨足が強まる前に帰れ」
「え、でも……」
「続きはまた今度でいい」
「……分かりました」

私は小さく頷き、万年筆のキャップを閉めた。
まだ少し残っている帳簿の頁を見つめる。せっかくここまで進めたのだ。キリのいいところまで終わらせてしまいたいという気持ちがどうしても先に立ってしまうが、ここは冨岡さんの言うことを聞こう。
それにここから蝶屋敷までは途中、山道を歩かなければならない。これ以上雨が激しくなれば、足元がぬかるんで本当に身動きが取れなくなってしまうだろう。
机の上のインク瓶の蓋を閉め、広げていた帳簿を閉じて机に並べる。
その間にも、ぱらぱら、ざあざあと、屋根を叩く雨音はさらに勢いを増していった。

「では冨岡さん。お言葉に甘えて今日はこれで失礼します。……冨岡さん?」

荷物をまとめて立ち上がろうとした私は、ふと動きを止めた。
私の斜め向かいで冨岡さんもまた手元の書類を脇に寄せ、すっと立ち上がろうとしていたからだ。それだけならまだしも、彼は側に置いてあった日輪刀へと手を伸ばす。私は思わず首を傾げた。

「冨岡さんもどこかお出かけですか?あ、もしかして見回りの時間とか……」

そういえば、任務がなくとも隊士はそういうこともしなければならないんだっけ。柱ともなれば、自身の管轄する地区の悪天候時の見回りも務めの一つなのかもしれない。
そんな忙しい彼の邪魔をしてはいけないと思った矢先。

「お前を蝶屋敷まで送る」
「え?」

冨岡さんがそんなことを言うものだから、私は驚いて彼を見つめた。ぱちぱちと瞬きを繰り返しながら、慌てて両手を振る。

「えっ?だ、大丈夫です!そこまでしていただかなくても一人でちゃんと帰れます!」

こんなことで、冨岡さんの手を煩わせるわけにはいかない。

「いつも一人で帰ってますし、そんなに遠いわけでもないですし……」

しかし、一生懸命に首を横に振る私を、冨岡さんは波ひとつ立たない瞳で見つめ返してくる。

「雨が降っているだろう」
「は、はい、降ってますね……」
「視界も悪くなる」
「雨の日はそうですよね……」
「さっき俺が言った言葉を忘れたか」
「あ、」

冨岡さんの静かな指摘に、私は言葉を失って口を半開きにした。
もし帰り道、ぬかるんだ山道で鬼に遭遇してしまったら、何の力もない私などひとたまりもないだろう。
自惚れていたわけでも何でもなく、ただ迷惑をかけたくないという一心だったけれど、もし私に何かあれば、それこそ冨岡さんや蝶屋敷の皆にそれ以上の大きな迷惑と心配をかけることになってしまうのだ。

「自身の警戒心が薄いという自覚はそろそろ芽生えてきたか」
「………はい」
「分かればいい」

しゅん、と目に見えて落ち込む私に、冨岡さんはそれだけを言って腰に刀を携えた。





外へ出ると、雨足は先ほどよりもさらに強くなっていた。ばちばちと激しく地面を叩く大粒の雨に、周囲の木々はすっかり白く霞んでいる。
確かにこれほど急に視界が遮られてしまっては、私ひとりでは道に迷うのが関の山だっただろう。送ってもらって大正解だった、と身をすくめながら心の中で納得する。
冨岡さんから「使え」と手渡された、番傘を差しながら私は彼の隣を歩いた。

「冨岡さんの傘、私のに比べてずいぶん大きいですね」
「男物だからな」

冨岡さんってこの時代の人にしてはかなり背が高いし、体格もいいから…。ふと、さっき羽織を脱いで隊服姿になった彼の背中を思い出す。
余分な筋肉なんて一切なくて、鍛え上げられた胸板や肩幅のたくましさが、隊服の上からでもはっきりと分かった。やっぱり鬼殺隊の柱なんだなと、彼の大きな手と傘の柄を交互に見つめながら妙に納得してしまう。
それにしては…。自分の貸してもらっている傘を見上げて首を傾げる。
冨岡さんのものより二回りほど小さくて、男性用にしてはずいぶん鮮やかな色だ。それに、よく見ると細くて綺麗な飾り糸まであしらわれている。
これ、どう見ても女性用の傘なんじゃ…。そこまで思い至って息を呑んだ。
いや、まさか、と思いたいが、一度してしまった不躾な想像はどんどん膨らんでいく。もし、もしもそうだったらどうしよう。昔の恋人とか、大事な人のものだったら――。
急に心臓がどくどくと嫌な音を立て始める。どうしよう、聞きたいような、聞きたくないような、嫌な汗が出てきた。

「何を考えているのか知らないが、それは任務の帰りにそこらの店で適当に買ったものだ」
「あっ、そ、そうですよね……」

私の妙な視線に気づいたのか、冨岡さんが呆れたように言葉を被せてきた。
そ、そうだよね、良かったぁ…。何を勝手に勘違いして一人で焦っていたんだか。
冨岡さんみたいに素敵な人に恋仲がいないなんて、正直ちょっと信じられない気もするけれど。湧き上がる安堵感をどうしても隠しきれない。

「冨岡さんって、その、大切な方とか……いらっしゃらないんですか?あ、いや、別に変な意味じゃなくて、冨岡さんって背も高いし格好いいから、そういう人がいてもおかしくないのかなってただ思っただけで……」

慌てて弁明すればするほど墓穴を掘っている気がするが、ここは勢いだと思い切って口にしてみた。

「いない」
「恋仲の人はいなくても、もう祝言を挙げられているとかそういうオチじゃ……」
「俺は独身だ」

食い気味に返された返答に、思わず口元がゆるんでしまう。
そっか…独身、なんだ。心の中でその言葉をそっと反芻して、一人舞い上がる。それを知れただけで、跳ね出したいのを必死で抑えるくらいには嬉しい。
雨のせいで暗くて嫌だった道が、急にちょっとだけ特別な場所に思えてきてしまうから不思議だ。
とはいえ、鬼殺隊といういつ命を落とすかも分からない日々の中で、大切な人を作るという選択肢すら持てなくなることもなんとなく理解できる。

「冨岡さんは、雨ってお好きですか?……あ、やっぱり今のやめます。すみません、変なことを聞きました」

なんとなしに会話をしたくて尋ねてみたが、さっきあれだけ雨と鬼の理屈を聞かされた直後に、「好きですか」なんて。
あまりにも緊張感のない、のんきな問いかけだった。

「お前はどうなんだ」
「え?」
「雨は、嫌いか」

予期せぬ問い返しに、私は差しかけた傘を少しだけ傾け、隣を歩く彼の横顔を見上げた。
珍しい、冨岡さんが問い返してくれるなんて。

「あまり好きではないです」

濡れるし、湿気はすごいし、髪の毛は広がるし、それに洗濯物も乾かない。
私にとっての雨の認識なんて、せいぜいその程度のものだ。命の危険に直結する彼らの深刻な理由に比べたら、本当にちっぽけで、どこまでも日常的な不満でしかない。
ただただ不便で、憂鬱になるだけの鬱陶しいもの――それが私の知る雨だった。

「あ、でも……」

私は一歩、ぬかるむ地面を踏みつけながらふっと口元を綻ばせる。

「なんだか、今は楽しいです。冨岡さんが隣にいてくださるからですかね」

鬼が出るかもしれない不穏な山道のはずなのに、不思議と怖さは微塵も感じない。冨岡さんが隣にいるだけで、雨がまるで違うもののように思えてしまう。
けれど、私が素直な気持ちを口にした瞬間、それまで隣を向いて歩いていた冨岡さんが、ぴたりと足を止めた。
つられて私も足を止めると、冨岡さんは私の顔をじっと見つめたまま、きょとんとした表情で固まっていた。やがて小さく息をつくと、片手で眉間を揉み肩を落とす。

「……なんだろうな、本当に」
「え、なんですか?何か変なこと言いました?」
「いや。お前は思っていた以上に扱いづらい」
「えっ?」

首を傾げるも、再びすたすたと前を歩き始めてしまう冨岡さん。

「あ、ま、待ってください」

置いていかれまいと、私は慌ててその背中を追いかけた。傘を傾けないよう、足元に気を配りながら急ぎ足で彼の半歩後ろへと滑り込む。

「冨岡さん、扱いづらいって……」

どういう意味だろう。迷惑をかけてしまったのだろうかと思うも、どうもそういう雰囲気でもない。

「……何でもない。早く歩け、冷える」
「え、なんですか?気になります」
「もういい。そこ、足元がぬかるんでる」
「それは分かってま――」

冨岡さんが口にする一言一言の、その言葉の裏に、いつもどんな本心が隠されているのかが知りたくてたまらなくなる。口数が少なくて、何を考えているのか読めない人だからこそ、ふいにこぼれる響きの奥をもっと覗き込んでみたくなるのだ。
知って、ほんの少しでも、近くにいけたらいいのに――って。

「あっ……」

願いに引きずるようにして、視界が傾いた。足元が滑り、体があっけなく重力に引かれていく。
けれど、冷たい泥に投げ出されるよりも早く、私の視界は強引に引き戻された。冨岡さんが私の腰を横から抱き寄せ、その腕のなかへと引き留めたからだ。
ガツン、とお互いの傘の骨と骨が鈍い音を立ててぶつかり合う。

「……言っただろう」

冨岡さんの熱を持った吐息が、私の額をかすめて息を呑んだ。

「す、すみません……」

謝る声さえ震えてしまう。
重なるようにして密着した冨岡さんの胸元から、どく、どく、と力強い鼓動が伝わってくる。それが私のものなのか、彼のものなのかも分からなくて、頭が真っ白になりそうだった。
…さっき、少しでも近くにいけたらいいのに、なんて願ってしまったからだ。ほんの一歩、その距離を縮めたいと思っただけなのに。私の拙い想像が追いつかないほどの現実が、こうしてあっさりと目の前に差し出されてしまう。
境界線を引こうと必死だった自分の理性が、物理的な距離の近さに呆気なく揺らいでいく。
冨岡さんが抱き留めていた腕の力をゆっくりと緩めるのに合わせて、慌てて自分の足に力を入れた。

「人の話を聞いてないからこうなる」
「……避けようとしましたもん」
「避ける方向が違ってる」
「……。わたし、隊士じゃないから分かんないです」
「知ってる。だから益々目が離せない」

はく、と思わず空気を呑む。そうやって真面目な顔で直球の言葉を投げてくるところが、冨岡さんのずるいところだ。本人は保護者みたいな気持ちで言っているのだろうけれど、言われた方はたまったものじゃない。
熱くなった顔を誤魔化すように、私は慌てて視線を足元に落とした。

「次からはちがう方向に避けます」

避けて、遠ざけて、踏み越えないように。そう、しなければならないから。自分に言い聞かせるように、心の中で何度もその言葉を反芻する。
近づきすぎてはいけない。自分が引くべき一線は、絶対に踏み越えてはいけない。
もう一度しっかりと地面を踏みしめ、前を向いて歩き出す。冨岡さんもそれに合わせるように、静かに隣へと歩調を戻した。
とりあえず、これからは地面を這うくらいの勢いで、一歩一歩細心の注意を払って歩こう。
無理やりいつもの調子を引っ張り出して、ぱっと目についた空へと視線を投げた。相変わらず、灰色に覆われていて雨は止みそうにない。

「これからしばらく、雨は続くのでしょうか……」
「梅雨だからそうなるだろうな」

淡々とした冨岡さんの返答に、私は「そうですよね」と小さく笑う。
ふと山道の脇に目をやると、青紫色の大きな花が咲いているのが目に入った。

「紫陽花、咲いてますね」

雨粒をいっぱいに弾いて、しっとりと重そうに揺れる大輪の花。
私のいた未来では、梅雨の風物詩として愛されていた花だ。雨の日でも、鮮やかに咲くその姿を見るだけで、どこか心が軽くなるような気がしていた。
だからこそ、この時代でも同じように雨の中で咲く姿を見つけられたことが、なんだか少し嬉しかった。
けれど、私の言葉に足を緩めた冨岡さんは、どこか複雑な色をその瞳に宿す。

「紫陽花はあまり好まれない花だ」
「えっ、そうなんですか?」
「色を変えるから、不吉だと言う者もいるらしい」

そう言われて見つめ直してみると、雨の中に佇む青紫の花は、どこか寂しげで冷ややかにも見えなくもない。
でも、こんなにも綺麗なのに。不吉な花なんてあんまりだ。この時代はそう信じられていたのだろうか。いくら不吉だと嫌われても、雨の中でじっと耐えるように咲いている姿は、私にはとても綺麗で、どこか誇らしく見える。
…なんだか、少し冨岡さんみたいだ。言葉足らずで、誤解されやすくて、それでも決して揺らがない強さを持っている姿が、雨に打たれる青紫の花に重なった。

「そういう言い伝えがあるんですね。でも、私はやっぱり綺麗だと思います。どんなに雨が強くても、ちゃんとお花を咲かせていて……すごく力強いですもん」

自分の感じたままをそのまま口にすると、冨岡さんは何も言わなかった。ただ、雨音のなかでほんの少しだけ視線を揺らし、やがて小さく息を吐き出す。

「…そうだった、お前そういうやつだ」

呆れたような、けれどどこか毒気を抜かれたような低い声。
その言葉の意味を追う間もなく、彼は「行くぞ」と短く促し、再びゆっくりと歩き始めた。







「送ってくださって、ありがとうございました」

たどり着いた蝶屋敷の門の前で立ち止まり、私は冨岡さんに向き直って深々と頭を下げた。雨足は弱まることなく、相変わらず激しい音を立てたまま。
門をくぐればこの雨から解放されるはずなのに、なかなか背を向けられない自分がいた。

「お前も手土産をすまなかった」
「あ、いえ。お口に合うか分かりませんが、よければ召し上がってください」
「ああ」

私が彼にできることなんて、本当にこれくらいしかない。だからこそ、ほんの少しでも彼のお腹を満たしたり、気持ちを緩めたりする足しになればいいなと思う。

「あ、この傘は……」
「次に会った時に返してくれればいい」
「わかりました」

もうすぐ日が落ちて夜が来る。冨岡さんには、これから鬼と戦う大事な任務が控えているはずだ。名残惜しいが、早々に帰って休んでもらわないと。
引き際を弁えるように私はペこりと頭を下げた。

「それじゃあ、私、もう入りますね」
「高月」
「なんですか?」

呼び止められて顔を傾げると、冨岡さんが空いている方の手のひらを、私の左頬にそっと添えてきた。驚いて見上げた瞳は、暗がりの中でもどこか深い色をしていて。
そのまま、私の目の下のあたりを慈しむように撫で上げる動作をする。

「最近は、眠れているのか」
「え……?」

触れられた熱に必死で耐えながら記憶を辿り、あ、と合点がいった。
前に冨岡さんに会ったときは、本当に色々なことがあって悪夢ばかり見ていた時期だったから。こうして案じてくれているのだと。
な、なんだ。びっくりした。心配してくれたのは素直にありがたい。ありがたいのだけれど…だからって、どうして急に頬に触ったり、目元を撫でたりするのだろう。
そういえば、今日、冨岡さんは私に触れてばかりだ。カステラを渡した時も、道で転びそうになった時も、そして今も。

「……はい。おかげさまで、最近はちゃんと眠れています」

お部屋を替えてもらってからは、前みたいにうなされることもなくなって、さらによく眠れているんです。
すぐ近くの部屋にしのぶさんたちがいてくれるのって、なんだかすごい安心感があって。
あ、はい。部屋をみんなのいる離れに変えてもらったんです。え、悪夢ですか?それももう大丈夫です。

質問に答えるたび、冨岡さんは「そうか」と低く短く相槌を打ってくれる。
彼を安心させたくて一生懸命言葉を紡いでいるはずなのに、実際のところ、自分の頭の中は半分も追いついていなかった。
だって、頬を包み込む大きな手の熱も、目の下を優しく撫でる親指の感触も、ずっとそのままなのだ。
視界を占める冨岡はんの真剣な瞳を見つめていると、自分が何を話しているのかさえ分からなくなりそうになる。まともに息をすることだって難しい。

――冨岡さん。どうしてそんなに優しい顔で、そんな触れ方をするんですか。

「そうか。それならいい」

私の状態に満足したのか、目の下を撫でていた親指がすっと離れる。

「とみ、岡さん……?」

尋ねるも、冨岡さんは触れていた手をおろすと、何事もなかったかのようにすっと体を引いた。
…理由なんて、考えてはいけないのに。一人で期待して、一人で傷つくような真似だけはしたくない。
そう自分に言い聞かせるけれど、触れられていた頬の熱はいつまでも引いてくれない。

「もう屋敷に入れ」
「……はい。ではまた……」

背中に感じる視線が気になって、一歩進んでは躊躇い、何度も何度も後ろを振り返ってしまう。そのたびに、冨岡さんは雨の中に佇んだまま、静かに私を見送ってくれていた。
玄関の引き戸に手をかけ、最後にもう一度だけ振り返る。冨岡さんが見届けてくれているのを確認して頭を下げると、私は名残惜しさを振り切るように屋敷の中へと入った。
中に入ってしまえば、もう冨岡さんの姿は見えない。一気に膝の力が抜け、玄関でヘナヘナとその場にしゃがみ込む。冷めるどころか、どんどん熱を増していく頬を両手で覆った。

「あ、リサさんおかえりなさ……って、リサさん!?」

奥から出てきたすみちゃんが、玄関で真っ赤になってうずくまっている私を見て、驚いて駆け寄ってきた。

「どうしたんですか!?お顔がすごく赤いです!もしかして雨に降られてお熱がでたんじゃ……!」

慌てふためくすみちゃんの声を聞きながら、私は必死で膝に顔をうずめた。
避けて、遠ざけて、踏み越えないように。近づきすぎてはいけない。自分が引くべき一線は、絶対に踏み越えてはいけない。
けれど。

私は、うまく笑えていただろうか。
私は、うまく笑えてるように見えていただろうか。




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