39
ぽつ、ぽつ、と。屋敷の屋根を叩く雨音が、朝の静けさに溶け込んでいた。
足を止めて中庭を見ると、昨夜からの雨で石畳はしっとりと色を深めている。植え込みの葉は水を含んで重たそうに垂れ、土の匂いがほんのりと立っていた。空から絶え間なく落ちてくる水。縁側に立ったまま、私はその様子をぼんやり眺めていた。
梅雨に入った、と誰かが口にしたのはいつだっただろう。空は薄い灰色で、晴れた日とは違って雲の向こうの光がはっきりとは見えない。
洗濯物を抱えたまま、私は小さくため息を吐いた。…今日も、外で洗濯は無理そうだ。
「止みそうにないですね」
背後から声をかけられて振り返ると、アオイさんが桶を抱えて立っていた。その後ろで、三人娘が揃って首を伸ばしている。
「はい。さっきより強くなってます」
私がそう答えると、すみちゃんが肩を落とし、なほちゃんは「むう」と不満そうに頬を膨らませた。
「部屋干しですね」
「ですね」
「……また、ですね」
この時期は、どうしてもそうなる。蝶屋敷の軒下や空き部屋は、ここ数日ずっと洗濯物で埋まっていた。
なんとなく、梅雨の時期は気分が落ちる。それを助長させる湿気の多い空気感。じめじめして、もわっとして、気持ちが悪くて。あまり好きになれない。
「雨の日の任務って、大変そうですね…」
「はい。足も取られますし、冷えますし。怪我をする方が増えます」
「……ですよね」
確かに、この雨の中を歩くことを思うだけで、足元が重くなる。まして夜ならなおさらだ。
石畳は滑りやすく、土はぬかるむ。視界は狭まり、音も雨に紛れる。鬼殺隊にとっても、鬼の気配も普段よりずっと掴みにくくなるだろう。
「でもこれが終われば地獄の夏だなんて、容赦ありませんね」
確かに、アオイさんの言う通り、今度はその雨が明けたら夏が来る。容赦なく照りつける日差しと、逃げ場のない暑さ。
あの隊服で、炎天下を走り、夜になってもなお戦い続けるのだと思うと、頭が下がるどころか言葉を失ってしまう。
「でもその分、梅雨が終わったら夏は美味しいものがいっぱいですよ」
「冷たいのいっぱい作りましょうね!」
「うん!素麺とか、冷やし胡瓜とか!」
「いやいや、夏はかき氷だよ!」
三人娘の声が一斉に弾んで、この場の空気がぱっと軽くなる。
「リサさんは、何味が好きですか?」
「…うーん。何でも好きだけど、強いて言うなら苺、かな」
「わかります!でも、みぞれも捨てがたいですよね!」
重なった声が耳元でころころ転がる。その調子につられて、私まで笑みが溢れた。さっきまで聞いていた雨音よりも、ずっとずっと温度のある音。
「……私は、抹茶があったら嬉しい」
アオイさんがぽつりとそう答えると、三人娘が一斉に目を輝かせた。
「抹茶!」
「大人ですね!」
「じゃあ夏は抹茶も用意しましょう!」
雨に濡れた庭の向こうで、季節は確実に進んでいる。その先に、こうして笑って過ごせる時間が待っているのなら。もう少し、この雨も我慢できそうだと思った。
縁側に落ちる雨粒を、今度は少しだけ穏やかな気持ちで眺めることができた。
*
その日、久しぶりに踏み入れた冨岡さんの屋敷は相変わらず静かで、微かに香る木の匂いすら変わっていなかった。障子の向こうでは、朝から降り続く雨が屋根を打ち、細かな水音が絶え間なく続いている。それでも、外の天気とは切り離されたような穏やかな空気が流れていた。
「冨岡さん」
「…なんだ」
「これは一体、何でしょう」
座卓の上に広げ差し出された帳面を、私はそっと受け取りながら首を傾げた。
色々あって、しばらく来ることができていなかったが、今日は久しぶりに出納帳のお手伝いのためにここを訪れていた。
尾崎さんのことがあった間も、ずっと帳簿のことは気にかかっていた。だから今日はしっかりとお手伝いをするつもりで、気合いを入れて来たのだけれど――。
「……私の、気のせいですかね」
そう言ってから、間を置く。
向かいに座る冨岡さんは、いつも通りの姿勢で筆を持ち、何かを書き進めている。背筋は真っ直ぐで、視線は下に、無駄な動きはない。
私は帳簿に目を落としたまま、もう一度ゆっくり息を吸った。
「あの、冨岡さん…」
返事はない。冨岡さん相手に言葉を急がせる必要はないと分かっているが、さすがにこれは黙っていられなかった。
私は視線を上げず、そのまま続ける。
「出納帳が…、私が最後につけた日から、進んでいない気がします…」
ぱらり、と紙を一枚めくる。
目に入る日付、金額、摘要。筆圧の癖、はね方、少しだけ左に傾く数字の形。
…やっぱり。全部私の字だ。
「……進んでない、ですよね」
「気のせいだろう」
そこまで言って顔を上げたところで、冨岡さんはしれっと視線を横に逸らした。彼でもそんな気まずそうな表情をすることがあるのだと、私は呑気に考える。帳簿を机に置き、冨岡さんを見据えた。
「冨岡さん」
「……」
「私が来ていない間…」
「……」
「その……、もしかしてサボっ、」
「違う」
言葉を被せるように、低い声が落ちてきた。いや、これはどう見ても違わない気が…と思いながらも、私は続きを言えなくなる。
帳簿の数字も日付も、最後に私が書いたところで止まっている。誰が見ても、これはサボっていたと言われても仕方がない状態だ。
けれどそれをそのまま口に出してしまうのは、どこか違う気がした。冨岡さんが、ただ怠けていたわけじゃないことくらい私にも分かっている。
任務が重なれば、屋敷に戻れない日だってある。次に帰るのが何日後になるか分からないこともあったはず。彼は、帳簿より優先すべきことがいくらでもある立場だ。
それでも。一行も進んでいないそれを見てしまうと、引っかかるものがある。
「…た、たしかに色々ありましたもんね。元はと言えば、私のせいですし」
「いや…」
「いえ、冨岡さんがとってもお忙しい立場だということは理解してます」
冨岡さんは、屋敷を空けるからしばらく帳簿の手伝いには来なくていいと言った。長期の任務に出るから、と。確かにそれも理由だったはずだ。
でも、それだけじゃないのは私でもなんとなく分かる。尾崎さんのことがあって、明らかに余裕を失っていた私を、冨岡さんは気遣ってくれていたのではないだろうか。
だから、たとえこれが全く進んでいなかったとしても、私がとやかく言う権利はない。
「今日は出来るところまでやってみます。数日あれば、追いつくはずです」
そう分かっているのに、どこか拗ねた口調になってしまうのは何故だろう。
私は帳簿を自分の方へ引き寄せ、改めて座り直す。万年筆を取り、インクをつけた。
「…えっと」
ここまでは、きちんと記録が残っている。収支も合っているし、私がつけた分については直す必要もない。
ここから先は、支出の控えを拾い直して、日付順に並べ替えればいい。領収書は…たぶん、いつもの箱にまとめてあるはずだ。冨岡さんの性格を考えれば、雑に放り込むことはしていないだろう。それさえあれば、計算自体はそう難しくない。
小さく息を吐き、帳簿の折り目を整えた時。沈黙を破ったのは、冨岡さんの低い声だった。
「…高月。ここまでは済んでいる」
顔を上げると、彼はなぜか箱の中から出した領収書を私に指し示していた。
「米と炭の分は、まとめて出してある」
「……あ」
言われて目を凝らすと、領収書の余白の隅に小さな数字が並んでいる。その日の合計金額だろうか。
何もしていないと思ったが、最低限の整理はされているみたいだ。けれど、どうしてわざわざそんなことを――。
「……」
「……」
「…あの。もしかして、サボってた訳じゃないって、私に弁明してますか?」
「そうだ」
即答だった。拍子抜けして、私は一瞬きょとんとしてしまったが、次の瞬間には吹き出していた。
「…ふふ、言われなくてもあとで見れば大体わかりましたよ」
「言わなければ、一瞬でもそう思っただろう」
「……まあ、正直に言えば少し」
手元の帳簿を見つめたまま呟くと、視界の端で冨岡さんの持つ筆がわずかに止まったのがわかった。どこか不服そうな表情を浮かべていて、私はさらに笑みが溢れる。
久しぶりにここに来るから、勝手に緊張して、勝手に気を張っていたが、なんだか身体の力がふっと抜けてしまった。
尾崎さんの件で心がひどく摩耗して、一時はどうなることかと思ったが、日に日に上手く笑えるようになってきた気がする。
「ありがとうございます、冨岡さん。…嬉しいです」
「…何がだ」
「いえ、冨岡さんの側にいると安心するなぁと思って」
なんとなく、彼が一人で帳簿を付けなかったのは、単に面倒だったからじゃなくて、私が戻ってきた時に、「あなたの仕事はまだここにある」と、居場所を空けて待っていてくれたんじゃないかなあって。たとえそうじゃなくても、私がそう感じたからそれでいいのだ。
それに、向かい合って座って、また同じ空気を吸っていられることが嬉しかった。久しぶりにこの屋敷に来て、久しぶりにこの距離で話して。ああ、そうだった、と身体が思い出したみたいに。冨岡さんの傍には、余計なことを考えなくていい静けさがある。
冨岡さんは私の顔を見てきょとんとしていたが、やがて小さく息を吐くと片手で眉間を揉み、肩を落とした。
「……なんだろうな、本当に」
「え、なんですか?何か変でした?」
「いや。…お前は思っていた以上に扱いづらい」
「えっ?」
続けてくれ、と言われてしまってそのまま帳簿に戻る。
でも、扱いづらいって、どういう意味だろう。何か迷惑をかけてしまっただろうか。少し慌てながら冨岡さんの方をちらりと見るも、どうもそういう雰囲気でもない。言葉の意味はわからないが、冨岡さんは私の視線に気付いているのかいないのか、目の前の書類に一生懸命向き合っている。
でも、責められている感じはしなかった。私は結局、その意味を問い返すことはできず、帳簿に視線を落としたまま指を動かした。
「冨岡さん、これ、こっちの領収書と突き合わせてもいいですか?」
「あぁ、構わない」
雨音が、障子の向こうで一定の調子を刻んでいる。屋敷の中は静かで、紙をめくる音と、筆先が触れるわずかな気配だけがある。
しばらくして、計算がひと段落ついたところで、私は小さく息を吐いた。
「…ふう。あと一日あれば、なんとか終わりそうです」
「そうか」
短い返事だけれど、その声はどこか穏やかだ。
また一枚、帳簿をめくる。冨岡さんの向かいで、こうして作業をしている今が、心地いいことを噛みしめながら。
たぶん、扱いづらいのは。鳴り止まない私の心臓のほうなのかもしれないと、そんなことを思った。
____
しばらく無言で書き進めているうちに、障子の向こうが少しずつ色を失っていることに気づいた。雨音は変わらないのに、部屋の中だけが静かに沈んでいく。
紙をめくる指を止めて、私は顔を上げた。
「…もう、こんな時間か」
冨岡さんが、ぽつりと呟く。私も慌てて視線を巡らせ、外の暗さを確かめた。
「本当ですね…。すっかり長居してしまいました」
こんなに長くこの屋敷にいたのは初めてだ。今までは、長くても三時間もすれば切り上げていた。それ以上いる理由もなかったし、冨岡さんも引き留めるような人じゃない。
それなのに今日は、時間の感覚がどこかへ行ってしまったみたいだった。計算をして、数字を揃えて、たまに短い言葉を交わして。気づけば、夕方になっている。
「今日は、ここまででいい」
そう言って、冨岡さんは帳簿を閉じた。
その声に私は頷く。
「はい。続きは、また次にします」
立ち上がりながら、巾着袋に万年筆を仕舞う。名残惜しい、という感覚を自分でも覚えつつ、身支度を整えていると。
冨岡さんも、手元の書類をきちんと重ね、脇に寄せた。それから、部屋の端に置いてあった刀に手を伸ばす。その仕草に、胸が一瞬だけ跳ねた。
「冨岡さんも…どこかお出かけですか?あ、もしかして見廻りの時間とか…」
「お前を蝶屋敷まで送る」
「え?」
その言葉を聞いて、私はぴたりと動きを止めた。
「え?だ、大丈夫です!ここまでで十分です…!」
慌てて首を振る。こんなことで冨岡さんに手間を取らせるわけにはいかない。
今までも、ここからの帰り道は一人で問題なかった。一人で帰ることにも慣れているし、特別困る距離でもない。そうやって、いつも通りの理由を並べようとしたのに。
「雨も降っている。視界が悪い」
淡々とした声で、事実だけが重ねられる。反論する余地がないというより、する必要がないと言われているみたいだった。
冨岡さんはそのまま立ち上がる。もう話は終わった、というような背中。
「で、でも……」
それでも言い淀もうとする私に、冨岡さんは一度だけ大きく息を吐いた。それから、こちらを振り返り、眉をきゅっと寄せるとはっきりと私を見据える。
「……いいか。雨の日は雲が厚くて、日没が早くなる。太陽の光も届きにくい」
「そ、そうですよね」
「ああ、鬼が動きやすい条件だ」
「あ……」
…そうか。雨と聞いて浮かぶのは、冷たさとか、足元の悪さとか、洗濯物のことばかりで――そこに“鬼”を結びつけて考えたことはなかった。そんな単純な不快感の延長に、命の危険があるなんて。
だとすれば、大雨の日は昼間でも鬼は出てこれてしまうのかもしれない。そんな天気ひとつで鬼の活動条件が変わるなんて、胸の奥が遅れてひやりとする。
…言い返す言葉は、もう浮かばなかった。
「自身の警戒心が薄いという自覚は、そろそろ芽生えてきたか?」
「…………はい」
「分かればいい」
しゅん。と目に見えて落ち込む私に、冨岡さんはそれだけを言って腰に刀を携えた。その動作ひとつひとつがなんだかとても大人らしくて、私の考えの甘さがひどく子どもじみて見える。
「……ありがとうございます。送ってくださるなら……お願いします」
「それでいい」
素直にお願いすると、冨岡さんは満足げに頷いた。
それにしても、私は知らないことが多すぎる。この世界のことも、鬼の動き方も。自分が思っているよりずっと、危うい場所を歩いていることも。冨岡さんの言うように、もっと警戒心を持っていかないと。
戸を開けると、湿った空気が流れ込んでくる。冨岡さんの背中を追って一歩外へ出ると、肌寒さに少し震えた。
雨は来た時よりも少し強くなっていた。確かに、これは送ってもらって正解だったかもしれない。
屋敷の軒先でそれぞれ傘を開く。布を打つ水音がすぐ側で重なった。
並んで歩き出すと、足元の土は柔らかく、水を含んで沈む。そのまま屋敷の門を潜ると、言葉がないまましばらくその音だけが続いた。
このまま黙って歩いていても、居心地が悪いわけじゃない。でも、せっかくなら冨岡さんと何か会話をしたい。それに、静かすぎると心臓の音が目立つ。私は一度、小さく息を吸った。
「……冨岡さんは、雨ってお好きですか?」
言ってから、「しまった」と思った。今の流れで雨の話題。どう考えても、さっきの忠告の延長線上だ。
もっと他にあったはずだ。好きな食べ物とか、任務のこととか。せめて空模様以外。
問いを取り消したくて、でも今さら口を挟むのも変で。冨岡さんの横顔を盗み見て返事を待つ。
「…好きなわけがない」
で、ですよね――。聞いた私が悪かった、と半歩遅れて反省する。さっきあれだけ理屈を聞かされた直後に、「好きですか」なんて。かなり間の抜けた質問だ。
雨は情緒とか、音が落ち着くとか、そういうのを冨岡さんは感じていそうだと思って、思わず聞いてしまったけれど。この人にとっては、危険が増える条件のひとつでしかないんだった。
「す、すみません。変なこと聞いて」
言葉は途切れてしまったが、今はあまり余計なことを話さない方が良さそうだ。
「…お前は」
「え?」
「雨はどうだ」
問い返されるとは思わず、一瞬固まってしまう。けれど私も悩むほどのことではない。
雨は苦手だ。濡れるし、冷えるし、足元が悪くなる。「仕方ないもの」として受け流すことしかできない存在。
「私もあまり、好きではないです」
正直な言葉が口から落ちた。
「濡れるし、寒いし…」
「……」
「それに、洗濯物も乾きません」
彼からすれば、滑稽でしかない悩みだっただろうか。けれど、私にとってはとても重大な悩みで。冨岡さんは不思議そうな顔をするかと思ったが、どこか真剣な面持ちで私の言葉を反芻するように一度、二度と瞬きをした。
「…そうだな」
意外にも真っ直ぐな共感に、今度は私のほうがきょとんとしてしまう。
「あの。…呆れたり、してませんか?こんな、なんてことない理由で」
「…呆れる?当たり前の心配を、当たり前にしていられるうちが幸せだろう。それでいい」
ああ、そうか。そこに込められた彼の本心が分かって、胸の奥が少しだけきゅっとなった。以前聞いた、冨岡さんのお友達の話が頭の中をよぎる。
私がこうして何気ない不満を口にしながら、穏やかに生きていられる時間をこそ、冨岡さんにとってはとても尊くて守るべきものなのだと。
「…お前は、鬼に遭うな」
不器用な彼の言葉の裏側にある、切実なまでの祈りが伝わってくるようで、胸の奥が熱くなった。
「冨岡さんって、すごく優しい人ですよね」
「……そうでもない」
「いえ、優しいですよ」
そう言って私が笑うと、冨岡さんは不思議そうに眉を寄せ、また「扱いづらい」とでも言いたげに口を噤んだ。
薄暗い道を、二つの傘が並んで揺れている。水溜りを避けるたびに、冨岡さんの羽織の端が私の袖に触れる。その度に、雨の冷たさを忘れるほどの熱が腕に伝わってきた。
彼は言葉を選んでいるのか、それともただこの静寂を共有しているだけなのか。何も言わずに前を見据えて歩いているけれど、その歩幅は私の歩調に合わせて驚くほどゆっくりと刻まれている。
やがて、雨の中にぼんやりと蝶屋敷の門が見えてきた。ここで、今日の時間は終わりだ。そう思うと、雨を「嫌い」だと言い切ったはずなのに、もう少しだけこの音が続いてほしいなんて勝手なことを考えてしまう。
「…着きました」
門の前で足を止め、冨岡さんに向き直る。冨岡さんも一歩遅れて立ち止まった。
「今日は、本当にありがとうございました。送っていただいたおかげで、鬼の心配をせずに帰れました」
「…あぁ」
なんだか、改まって"さよなら"を言うのって気恥ずかしいな。…そういえば、この前のお墓の帰りのお礼をまだ言えてないんだった。アオイさんによると、私をおぶって部屋まで運んでくれたんだっけ。
「あの、冨岡さん。それと私…この前、お墓参りの帰りに馬車で眠ってしまったみたいで。すみませんでした。部屋まで私を運んでくださったんですよね。アオイさんから聞きました。ありがとうござ……、」
傘の柄を握り直し、頭を下げようとしたその時。
冨岡さんが一歩、私の懐へと踏み込んできた。驚きに、思わず言葉を飲み込んでしまう。それぞれの傘がぶつかり、ガチリと小さな音が響いた。
見上げた彼の瞳は、暗がりの雨の中でもひどく深い色をしていて。冨岡さんは空いている方の手をそっと伸ばすと、指先を私の頬に添えた。
「……っ、」
そのまま、輪郭を慈しむようにゆっくりと撫で上げる。冷たい雨の空気の中で、彼の指先の体温だけが熱となって肌に吸い付いてきた。
冨岡さんは私の顎を少し上向かせ、覗き込むようにして静かに問いかける。
「…もう、泣いてはいないか」
「……あ、」
「ここ最近、泣いてるお前しか見てない。今は、何ともないのか」
真っ直ぐに注がれる視線は、私の目元を見ていた。熱が、頬をじわりと広がっていく。
彼は私がいない間、帳簿を真っ白にして待っていてくれただけじゃない。あの日から、尾崎さんを失ったと知ったあの時から、私の涙をずっとずっと、気に掛けていてくれたのだと。
「扱いづらい」と言いながら、彼が一番扱いに困っていたのは、他でもない私の痛みだったのかもしれない。
「……はい。今日は、冨岡さんと一緒にいられたので。……大丈夫でした」
精一杯の微笑みでなんとか答えると、冨岡さんはふっとわずかに目を細めた。正直に言えば、今「大丈夫」なのは心のことだけで、彼とのこの距離には全く余裕なんてない。けれど冨岡さん私の返答に安堵したようで、彼にしては珍しく柔らかな吐息を落とした。
「…なら、いい」
そのまま、名残惜しそうに指の腹で私の頬をひと撫でしてから、ゆっくりと手を引く。急に触れていた熱が消え、そこを冷たい雨風が通り抜けていった。
その喪失感に戸惑う私を置き去りにするように、冨岡さんはくるりと背を向けた。
「もう入れ。直に夜になる」
自分に言い聞かせるようなぶっきらぼうな一言を残して、そのまま一度も振り返ることなく歩き出して行く。
私は赤くなった顔を隠すように傘を深く差し直し、逃げるように屋敷の中へと駆け込んだ。
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