40


翌朝、意識の浮上とともに耳に届いたのは、絶え間なく続く雨音だった。重い身体を布団からゆっくりと起こすと、湿り気を帯びた冷たい空気が肌に纏わりつく。
…今日も、雨か。布団を押しのけて寝台の縁に座り、少しだけぼんやりする。雨の音だけが規則正しく続いて、時間が流れているのか止まっているのか、よくわからなかった。眠りの名残が取れないまま視線を漂わせると、そばに置かれた棚でふと止まる。
そこには、全く同じ形をしたふたつの首飾りが並んで置かれていた。ひとつは、私が大切にしているもの。そしてもうひとつは――尾崎さんが身につけていたもの。
彼女がいなくなって、その遺品が私の手元に戻ってきた時から、このふたつはついであることをやめた。持ち主を失った片方は、残された私ひとりが背負うべき、ふたつ分の重みになった。

「……尾崎さん」

指を伸ばす気にもなれず、私はそのまま膝を抱え込んだ。首飾りを見ているだけなのに、胸の内側がひどく痛む。

「私、どうしたらいいかわからないよ……」

膝に顔を埋める。
昨日の冨岡さんの顔が、自然と浮かんだ。彼の不器用で、ひたむきな優しさに触れるたび、私の心は温かな光で満たされる。それと同時に、言いようのない苦しさがおりのように心の底に溜まっていくのだ。
いつか、尾崎さんが私に言った言葉があった。
『想うだけで、辛くはない?』
あの時の私は、その言葉の意味を本当には分かっていなかったのかもしれない。"好き"という気持ちは、ただ甘くて、幸せで、心強いものだとばかり思っていた。
けれど、どうだろう。冨岡さんのことを考えれば考えるほど、胸がきゅっと締め付けられる。

「……尾崎さん。もしかしたら、本当に辛くなっちゃうかもしれない……」

膝に顔を埋めたまま、ぎゅっと目を閉じる。瞼の裏に浮かぶのは、やはり冨岡さんのあの少し困ったような、寂しげな、けれど深い慈愛を湛えた瞳。
彼女がいなくなってから、またこの気持ちが一人で抱えきれなくなってきている。苦しくて、痛くて。それでも。想ってしまったこと自体を、なかったことにはできない。
雨音に揺れる影の中で静かに並んだ首飾りが、何かを選べと迫ってくるみたいで、私はもう一度ぎゅっと膝を抱いた。











その日は、昨夜までの重たい雨が嘘のように晴れ渡り、澄み切った青空が広がっていた。久しぶりの日光を浴びて、地面からは湿った土の匂いと、芽吹いたばかりの草の香りが入り混じり立ち上っている。
私は溜まっていた蝶屋敷の用事を済ませるべく、町へと買い出しに出ていた。雨上がりでぬかるんだ道も、今日は気にならない。籠の中に詰め込まれた調味料や日用品、それに新鮮な野菜のずっしりとした重みは、不思議と心を明るくしてくれた。

「おぉぉぉ!この俺様に任せればこんな荷物、お茶の子さいさいだぜ!」

隣で、私の腰丈ほどもある大きな荷物を軽々と担ぎ上げ、威勢よく声を張り上げているのは伊之助くんだ。町で偶然出会った彼は、私が荷物の重さに足を止めていたのを見るやいなや、「俺の力を見せてやる!」と言わんばかりに荷物をひったくってくれた。

「本当に助かったよ、伊之助くん。お店の人がおまけをたくさんつけてくれてね、一人じゃ運べなかったの。ありがとう」
「当たり前だ!俺様は山の王だからな!この程度の荷物、羽を持ってるのと一緒だぜ!カッカッカッ!」
「ふふ、今日は一段と頼もしいね」

被った猪の頭が、誇らしげに左右に振れる。荒い鼻息が聞こえてきそうなくらいの勢いだ。その足取りは軽く、伊之助くんについていくとぬかるみを避け、うまく乾いた場所を選んで歩いていくことができた。彼は無自覚だろうけれど、そういう野生の勘のようなものがあるのかもしれない。
道中、道端に咲く名もなき花が、雨粒の名残をキラキラと弾かせていた。それを見て、ふと数日前の冨岡さんの言葉を思い出す。

『当たり前の心配を、当たり前にしていられるうちが幸せだろう』

伊之助くんが「重てぇもん持てない奴は弱ぇんだ!俺様が強ぇんだ!」と支離滅裂な自慢話を続けている。そんな何気ない、騒がしい日常。
それがどれほど脆く、そして貴いものなのかを私はこの数週間で痛いほど学んだ。

「…ねぇ、伊之助くん」
「あぁん?なんだ、ホワホワした顔しやがって!腹でも減ったのか!」
「ううん。伊之助くんとこうして歩いてると、なんだか元気が出るなと思って」

正直な気持ちを伝えると、伊之助くんは一瞬だけ動きを止め、それから「フンッ!」と一層大きな鼻息を漏らした。

「当然だ!俺様の覇気はお前のようなひ弱な奴にも分けてやってるんだからな!感謝しろ!」
「ふふ、うん。感謝してます」

伊之助くんの根拠のない自信に満ちた言葉は、重たい籠を抱える私の腕に不思議な活力を与えてくれる。単純なやり取りが心地よくて、彼の言うようになんだか頭の中がほわほわした。

「よし、もうすぐで町を抜けるよ。そこからは一本道だから――」

そう言いながら角を曲がろうとした、その時だった。

「あっ……!」

不意に、目の前に鮮やかな色彩が飛び込んできた。避ける間もなかった。ドン、と肩に強い衝撃が走り、身体が大きくよろめく。重たい籠の重みがさらに遠心力を加えて、私の足元が大きく揺らいだ。
なんとか踏み止まって転倒だけは免れたものの、衝撃で籠が傾き、中に入っていたかぶがひとつ、地面へと転がり落ちた。

「ご、ごめんなさい!……大丈夫で、し、たか……」

慌てて謝罪の言葉を紡ごうとして、私はそのまま息を呑んで硬直した。
目の前に立っていたのは、ハッとするほど美しい女性。結い上げられた髪は一筋の乱れもなく、白粉の映える肌に、刺すように鮮やかな紅がひかれた唇。すれ違った瞬間に甘く、どこか重苦しい香料の匂いが鼻を突く。けれど、何よりも印象に残ったのは、彼女の"目"だった。
謝ろうとした私の唇が、震えて止まる。彼女はまるで汚らわしい塵でも見るかのような、冷徹な視線を私に向けていた。
美しいはずのその瞳には、一欠片の慈悲も、ましてやぶつかったことへの驚きもない。ただひたすらに私という存在を否定し、蔑むような沈黙だった。

「…フンッ」

彼女は謝罪の言葉ひとつ発することなく、鼻を鳴らすと、衣の擦れる音だけを残して悠然と去っていった。

「………」

私はその場に縫い止められたように、動けなくなる。
避けた、と思ったんだけど…。私の不注意だったのかな。あんな目で見られるなんて、私が何かしてしまっただろうか。
彼女とは今日初めて会ったはずだ。恨まれるような覚えも面識も、何ひとつない。あの視線の奥に渦巻いていた正体のわからない"悪意"のようなものが胸にこびりついて、なんとなく嫌な気持ちになる。

「おいコラ!そこの女ァ!待ちやがれ!」

静寂を切り裂いたのは、伊之助くんの怒声だった。彼は鼻息を荒くしながら、去っていく彼女の背中に向かって指を突きつける。

「おい!ぶつかった相手には謝らないといけないって、紋次郎が言ってたぞ!俺様の子分にぶつかっておいて、知らんぷりか!この失礼女め、待ちやがれェ!」

伊之助くんが今にも荷物を放り出して彼女を追いかけようと足を踏み出す。けれど、その女性は一度も振り返ることなく、人混みの中へと消えていった。

「伊之助くん、待って……!いいの、大丈夫だから!」

私は慌てて、彼の逞しい腕を掴んで引き止めた。これ以上、騒ぎを大きくしたくない。周りの町人が何事かとこちらを見ている。
それに、あの女性を追いかけたところで、あの氷のような視線をもう一度向けられると思うとなんだか気が引けた。

「何がだ!あいつ、なんか嫌な顔してたぞ!俺様が引きずり戻して、頭を下げさせてやる!」
「ううん、大丈夫だよ…!私も、もっとよく周りを見ておけばよかったんだし…。急いでたのかもしれないよ」

自分に言い聞かせるように言葉を重ねる。それでも、手のひらにじっとりと滲んだ冷や汗が、あの短い接触の異質さを物語っていた。
私は地面に落ちたかぶを拾い上げ、泥を払って籠に戻す。

「それだと俺様が…ッ、」
「伊之助くん、帰ったらアオイさんが今日は天ぷらだって言ってたよ」
「テンプラァ!?よし、屋敷まで全速力だァァァ!」

猪突猛進。彼の背中を見つめながら、私は今日一番の深呼吸をした。
太陽は変わらず高く、町は相変わらず賑やかだ。

「おい!置いていくぞ!モタモタしてると俺がこの荷物、全部食っちまうからな!」
「あ、待って!それは困るよ、今日のお昼と夜の材料なんだから…!」

走り出した伊之助くんの背中を追いかけて、私もぬかるみを飛び越えながら足を速める。肺に流れ込む空気は、もうあの甘い香料の匂いなど含んでいない。
澄み切った青空の下、私は重たい籠を抱え直して賑やかな足音を響かせながら、愛おしい日常が待つ蝶屋敷への道を駆け抜けていった。






「これまた、たくさんおまけをつけてもらいましたね」

台所に運び込んだ籠の中身を確認しながら、アオイさんが感心したように声を上げた。彼女の手はすでにテキパキと動き、立派な葉のついた大根や紙に包まれた乾物を手際よく仕分けている。
私も並んで袖を捲り、買ってきたものを棚や貯蔵庫へと収める作業を手伝い始めた。

「はい、なんだか申し訳ないくらいで。雨で客足が遠のいてたからって、八百屋の人が次々に籠に入れてくれたんです」
「それだけじゃありませんよ。この前私が同じお店に行った時は、こんなに立派な大根は入ってませんでしたから」

アオイさんが少しだけ呆れたように、けれどどこか嬉しそうに笑う。その会話を聞きつけて、ひょっこりと顔を出したのは、すみちゃん、きよちゃん、なほちゃんの三人娘。彼女たちも私の周りに集まって、小さな手で小豆の袋や調味料の瓶を運んでくれる。

「本当ですよ!お魚屋さんでも、この前は立派なアラが入ってました!」
「リサさんが買い物に行くと、いつもよりたくさんオマケをつけてもらえるって」
「しのぶ様も"リサさんが買い出しに行ってくれると、予算が浮くから助かります"って、ニコニコされてました!」

口々にそう言って笑い合う彼女たちの声が、台所の中に明るく響く。「そんなことないよ」と照れくさくて首を振ったけれど、胸の奥にはじんわりと温かい灯がともるような感覚が広がった。
私が買い出しに行くことで、このお屋敷の助けに少しでもなれているのなら、それだけで嬉しい。
そんな気持ちを感じながら、私は重たい胡麻の瓶を棚の奥に押し込み、空になった籠を片付けた。

「…あ、そうだ。アオイさん、今日は伊之助くんが天ぷらを楽しみにしてるみたいで」
「分かっていますよ。あんなに大きな声で騒いでいれば、嫌でも聞こえます。…まったく、あの猪頭は」

口では文句を言いながらも、アオイさんはすでに手慣れた様子で天ぷら粉の準備を始めている。私もその隣で冷たい水に手を浸し、泥のついた野菜を丁寧に洗い始めた。
パチパチとはじける薪の音が、台所の温度を少しずつ上げていく。香ばしい油の匂いが立ち込め、屋敷中にいい匂いが漂い始めた。 

野菜を刻む小気味よい音に混じって、私達はそれから他愛もない話に花を咲かせた。
話題の中心は、やはり炭治郎くんたち三人のことだ。善逸くんが相変わらず禰󠄀豆子ちゃんに夢中で、暇さえあれば彼女の入った箱に話しかけているだとか。裏山の木々が不自然になぎ倒されていたり地面が抉れていたりと荒れ放題で、もしや伊之助くんのせいではないかと、しのぶさんが眉間をぴきぴきと震わせているとか。
他にも、療養中の隊士たちの経過が順調であることなど、代わり映えのしない、けれど愛おしい日常の断片を分かち合う。
そうしてしばらく穏やかな時間が流れた頃、ふと、きよちゃんが思い出したように声をあげた。

「そういえばリサさん、知ってますか?最近流行りの『新派劇』のこと」
「新派劇?」

聞きなれない言葉の問いかけに、私は手を止めて首を傾げた。

「町に新しくできた芝居小屋でやっている劇のことです!今、女性たちの間ですごく人気で、『とにかく泣ける』って連日半券が売り切れてしまうくらいなんだそうです。気になりませんか?」

劇、か。
確かに、この時代に来てからは日々の仕事や手伝いに追われる毎日で、娯楽らしい娯楽には縁がなかった。芝居小屋という響き自体、どこか遠い世界のもののように思えてしまう。

「気になる、かも。どんなお話なの?」

私の問いに、きよちゃんは身を乗り出すようにして教えてくれた。
それは、身分違いの恋に落ちた男女が、残酷な運命に翻弄されて結局この世では結ばれず、来世での再会を誓って命を散らすという悲恋の物語だという。
それを聞いて、ずいぶん重たいお話なんだなと素直に思った。それほどまでに強い想いを「来世」に託すという感覚が、この時代の人にとっては物語の中の話だけでなく、どこか救いのように響くのかもしれない。
いつの時代も、人は報われない恋の物語に心を動かされるものなのだと、どこか客観的にそんな感想を抱いた。

「その舞台に出ている女優さんが、素晴らしい演技をされるそうなんです。おまけに、とびきりの美人だって町のおばあちゃん達も絶賛していて……」

きよちゃんが熱心に語る物語を、私は頭の中でぼんやりと描いてみる。未来の私が知っているきらびやかな舞台装置も、派手な演出もないのだろう。けれど、だからこそ、その女優の流す涙や言葉のひとつひとつが、観る人の心を強く揺さぶるのかもしれない。

「私たち、いつか行ってみたいなあって!」

なほちゃんの楽しげな声に、すみちゃんも大きく頷く。けれど、ふとした拍子にきよちゃんが少しだけ真面目な顔をして、話題を切り替えた。

「でも、来世ってみんな信じてますか?」
「うーん、どうだろう。考えたこともなかった」
「私も…!」

来世、か…。
きよちゃんの問いかけに、私は小さくその言葉を繰り返した。未来から来た私にとって、それはただのお伽話や、あるいは物語の中だけに存在するだけのものだとは、なんとなく言い切れなかった。
死んで過去に来るだなんて不思議な体験をしたのだ。来世だって、存在するのかもしれない。
この時代の過酷さ、命がこれほどまでに簡単に、そして残酷に奪われていく現実を目の当たりにしていると、その言葉はただの気休めではないように聞こえてくる。
もし、今ここで失ったとしても、またどこかで会える。そう信じなければ、到底やりきれないほどに、この時代の死はあまりに身近だ。

「…私の父が言ってました」

それまで黙っていたアオイさんがふと、少しだけ遠くを見るような、穏やかな瞳で口を開いた。

「今世で出会った人とは、来世でも必ずまた出会えるんだそうです。だから、さよならは悲しいけれど、本当のお別れじゃないんだよって。…私たちはみんな、深い縁で結ばれているんだよって。……だから、私はその言葉を信じてます」

そう語るアオイさんの横顔には、消え入りそうなほどの寂しさが滲んでいた。いつもはテキパキと仕事をこなし、厳しくも頼もしい彼女が見せた一瞬のかげり。その瞳の奥にある、彼女が失ってきた大切な人たちへの想いの深さを感じて、私は胸がぎゅっと締めつけられる。
でも、彼女の言うように、私たちが単なる偶然の積み重ねではなく、目に見えない糸で手繰り寄せられているのだとしたら。
私が未来からこの時代へ辿り着いたことも、ここでお屋敷のみんなや、尾崎さんと出会ったことも、すべては「次」へと繋がるための大切な約束だったのかもしれない。
もしそうなら、たとえどんなに時が流れて、形を変えて出会えるならどんなにいいだろうって。

「…ねぇ、私たちも来世で会えるかな?」

すみちゃんが、不安と期待が入り混じったような瞳で私を見上げた。その真っ直ぐな視線に、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じる。
私は手に持っていた包丁をそっと置き、水気を拭ってから、彼女たちの小さな瞳を一人ずつ見つめ返した。

「……うん。来世でも、その先でも。私はまたみんなに会いたいな」

ぽつりと、けれど確かな熱を込めてそう返すと、三人の顔が一斉に明るくなった。

「本当ですか!?私も、私も会いたいです!」
「絶対ですよ、約束ですからね!」

言うが早いか、三人がいっせいに私に抱きついてきた。「わっ」と声を上げながらも、私は彼女たちの小さな体温を両腕で受け止める。
笑いながら三人の頭を交互に撫でると、彼女たちは私の胸に顔を埋めたまま、嬉しそうに声を弾ませた。
そんな様子を眺めながらアオイさんが少し呆れたように、けれど優しく「ほらほら、作業が止まってますよ」と声をかける。
未来から来た私が、この場所で「次」を願えるのは分からない。けれど、この不思議な縁に感謝しながら、私は彼女たちの温もりにただ静かに身を委ねた。



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