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ぽつぽつ、ざあざあ、時にはしとしとと。音を変え、強さを変えながら、空は一向に泣き止む気配を見せない。
梅雨に入ってからというもの、蝶屋敷の空気は文字通りじっとりと重たく澱んでいた。
「……はあ、今日も駄目かぁ」
朝の静けさが残る病室で、カーテンを引く。目の前に広がるのは白く煙る庭と、重たく垂れ込めた鉛色の雲だった。
いくら風を通そうと窓を開けたところで、吹き込んでくるのは冷たく湿った雨の匂いばかり。
濡れては困る布団を外で干すこともできず、日差しを浴びて布団を叩くパンパンという長閑な音も、もう随分と聞いていない。
「また雨かあ。一向に晴れないなぁ」
寝台の上で体を起こした隊士のひとりが、どんよりとした外を眺めて鬱陶しそうに肩をすくめた。
「これじゃ傷の治りも遅くなりそうだよ。身体の節々がうずうずして痛むんだよな」
「わかるよ。湿っぽくてさ、気分まで暗くなっちまうよな」
私は苦笑を浮かべながら、患者たちの体温や脈を測り、掛け布団の端を整えていく。
空が晴れないだけで、人の気分や体調はこんなにも左右されてしまう。流れない空気、乾かない布地、ぬかるんだ庭。
「……そうだ!リサちゃん!今日の朝餉のお味噌汁、すごい美味しかった!なめこと豆腐のやつ」
「そうそう!肌寒かったから身に染みたよな」
突然に振られた朝餉の感想に、私は一瞬きょとんと目を瞬かせてから頬を緩める。
「良かったです。……でも実は、今日の朝は私じゃなくて、アオイさんと隠の方たちが作ってくださったんですよ。すごく美味しかったですよね。そう言っていただけたって伝えたら、きっと喜ぶと思います」
たしかに今日のお味噌汁は、私もしみじみと美味しくいただいたところだった。とろりとしたなめこと柔らかい豆腐に、出汁の旨味がしっかりと効いていて。この肌寒い雨の朝には、何よりのご馳走だった。
そう思って同意したのだけれど、なぜか目の前の隊士ふたりは、どこか微妙な顔をして互いに視線を交わし合っている。
「あ、あはは……そうだったんだ」
「そうだ。今日って、このあとの予定はどうなってるんだっけ?」
「今日は確か、道場で回復訓練があると聞いていますけど……」
「いや、俺たちのじゃなくて!リサちゃんの予定!」
「私ですか?」
食い気味に問い返されて、私は検温の帳面を抱えたままパチパチと目を瞬かせた。
私の予定…?患者さんの体温や脈を測って、薬を配って、手の空いた時間に洗濯物や掃除をして。
蝶屋敷で過ごす私の一日は、いつも決まった手伝いと看病の繰り返しだ。特別な用事などひとつもない自分の行動を教えて、一体どうするのだろう。
なんだか不思議な質問だなと思いつつも、首を傾げながら今日の予定を頭の中でなぞった。
「ええと、午前中は患者さんの巡回と薬の準備をして、そのあとは……そうですね。この雨ですから敷布の部屋干しや掃除をして、午後はアオイさんのお手伝いで薬草のすり潰しでしょうか」
一日の指針をひとつずつ指折り確かめながら答えると、ふたりは「そっかあ…」と、どこか残念そうな眼差しをこちらに向ける。
「リサちゃん、今日も一日ずっと忙しいんだな」
「まあ、俺たちが早く治って手がかからなくなるのが一番なんだけどさ」
頭をかきながら笑う彼らの言葉に、私も頬を緩める。
「ありがとうございます。でも、私は大丈夫ですよ。皆さんが元気になってこうしてお話できるのも、私は嬉しいですから」
そう言って微笑むと、ふたりは一瞬呆気にとられたように固まり、それから同時に顔を真っ赤にして布団をすっぽりと被ってしまった。
「うっ、リサちゃんは本当にさぁ!」
「だ、駄目だ。巡回、ありがとうございました!」
「え?あ、はい……お大事にしてください」
急に布団へ潜り込んでしまった彼らに首を傾げつつ、手元に抱えた帳面を胸に抱き直し、私は廊下へ出た。
顔色も良かったし、あれだけ元気に会話ができるなら順調に回復している証拠だ。運ばれてきたときを思えば、こうして他愛もない会話で笑い合えるようになったことが、ただ純粋に嬉しかった。
しかし、降り続く雨は、一向に止む気配を見せてくれない。
湿り気を含んだ廊下の冷たさが肌にまとわりつき、縁側に差し掛かったところで私は自然と足を止めた。
「尾崎さんのお墓もずっと雨なのかな……」
傘を差すことも、雨を避ける屋根もない場所で、じっと濡れ続けているのかもしれないと思うと、たまらない気持ちになる。
冷たくないだろうか。寂しくないだろうか。屋敷の中にいる私でさえこんなに体が冷えてどんよりとした気分になるのに、一人であの場所に眠る尾崎さんのことを想うと胸が締め付けられる。
お花をお供えに行きたくても、この激しい雨とぬかるんだ道では叶わない。
届かないと分かっていても、どうかあそこだけは少しでも雨足が弱まっていてほしいと、濡れた庭のをじっと見つめながら願わずにはいられなかった。
*
――それから、数日後のこと。
重たく垂れ込めていた灰色の雲が嘘のように失せ、空には吸い込まれるような青空が広がっていた。
眩しい陽光が濡れた葉を照らし、庭の隅々まで輝かせている。久々に肌を撫でるからりと乾いた風と、サンサンと降り注ぐ太陽の暖かさ。それだけで、ずっと胸の奥に溜まっていた重たく湿っぽい澱みが、綺麗に洗い流されていくようだった。
あんなに鬱陶しかった湿気も吹き飛び、息を吸い込むたびに全身へ元気が満ち渡っていくのを感じる。
「やっぱり、お日様ってすごいなぁ……」
見上げる空の心地よさに思わず目を細める。
けれど、晴れたら晴れたで休んでいる暇なんて微塵もない。長雨のせいで滞っていた屋敷の仕事が、山のように積み上がっていたからだ。
「よし、手分けして一気に終わらせちゃいましょう!」
アオイさんの威勢のいい号令のもと、蝶屋敷は朝から大忙しだった。
アオイさんは溜まりに溜まった大量の隊服や敷布を一気に洗濯し、広大な庭へ干して回る作業にかかりきりだ。
すみちゃん、きよちゃん、なほちゃんの三人たちは、廊下や部屋の掃除、そして湿気を吸った大量の布団を干すために元気に走り回っている。
そして私は、ずっと切らしかけていた薬の材料や日用品、毎日の食材など、溜まりに溜まった用事を済ませるべく、買い物籠を抱えて町へと繰り出していた。
町もまた、久しぶりの太陽に祝福されたかのような活気に包まれている。
行き交う人々の表情もどこか晴れやかだ。長雨の鬱屈を吹き飛ばすような明るい喧騒の中を歩いていると、こちらの足取りまで自然と軽くなってくるようだ。
「ええと、次は薬屋さんと、それからお豆腐屋さん……」
小さな紙と籠を交互に見比べながら、私は活気に満ちた町の中を賑やかに歩を進めた。
のれんをくぐった薬屋では、漢方の匂いに包まれながら、事前にしのぶさんから頼まれていた生薬をいくつか受け取った。
「蝶屋敷のお嬢さん、いつもご苦労様。雨続きで大変だったろう」と店主の藤堂さんに温かいお茶を出してもらい、ほんのひととき世間話を交わす。
次に立ち寄った豆腐屋さんでは、出来立ての温かいお豆腐を崩さないよう丁寧に竹の皮で包んでもらい、籠の底へと大切に収めた。
ずっしりと重みを増していく買い物籠。
「ほら、お嬢ちゃん!久しぶりに晴れたんだ、これも持っていきな!」
「あ、あの、こんなにいただいたら申し訳ないです……!」
「いいからいいから!蝶屋敷の皆さんにはいつもお世話になってるんだからさ!」
八百屋の店主さんが「晴れのお祝いだ」と笑いながら籠に放り込んできたのは、立派な大根とずっしり重いカボチャ。
さらに、お肉さんでは指定した料金よりも余分に包んでくれ、魚屋さんでは立派な干物をおまけしてもらい、乾物屋さんからは大きな昆布の束を持たされた。
久しぶりの太陽に浮き立つ街の人々の気前よさと優しさは、本当にありがたかった。ありがたかったのだけれど――。
あ、圧倒的に重量オーバーだ…。
当初の予定を遥かに超えて膨れ上がった荷物は、もはや買い物籠ひとつに収まる量ではなくなっていた。
両手に抱えた包みと、そしてずっしりと腕に食い込む籠。一歩踏み出すたびに腕が悲鳴を上げ、足元がぐらりと揺れる。
「う、重い……!」
これ、蝶屋敷まで持ち帰れるかな…。
町はずれへと差し掛かる角で、ついに限界を迎えた私は、人通りの邪魔にならない日陰の石畳の上に一度すべての荷物をそっと降ろした。
「ふぅっ、腕がちぎれるかと思った……」
麻縄の手提げが食い込んで赤くなった手のひらをさすり、大きく息を吐き出す。
これを抱えて、あの山道を登って蝶屋敷まで戻るなんて絶対に無理だ。せめて何度かに分けて運ぶか、アオイさんたちに助けを呼びにいくか…と思案しながら、パンパンに張った腕を軽く揉んでいた、その時だった。
ザッ、ザッ、と静かに土を踏みしめる足音が近づいてくる。
何気なく顔を上げた私の視界に飛び込んできたのは、見慣れた猪頭と、腰に差された二本の刀だった。
「あ、」
「ん?」
あちらも急に足を止め、荒い鼻息とともに猪の頭がこちらへぐるりと向けられる。
「ま、待って!伊之助くん手伝って!!」
「本当に助かったよ〜、伊之助くん。ありがとう」
「当たり前だ!俺様は山の王だからな!」
「お店の人がおまけをたくさんつけてくれてね、一人じゃ運べなかったの」
「この程度の荷物、羽を持ってるのと一緒だぜ!カッカッカッ!」
「今日は一段と頼もしいね」
伊之助くんは私が両手で抱えてもフラフラしていた大荷物のほとんどを、なんてことない様子で軽々と担いでガシガシと歩いていく。
さっきまで腕がちぎれそうだった重みが嘘みたいだ。彼の逞しい背中と、猪の被り物から溢れ出る自信満々な空気。
本当に、伊之助くんが任務帰りにあそこを通りかかってくれてよかった…。鬼を相手にする過酷な任務を終えて、きっと身体だって疲れているはずなのに。
文句ひとつ言わずに当然のように大荷物を肩に担ぎ上げてくれた。
「伊之助くん。怪我はもう良くなったの?」
「おう、すっかり元通りだ!」
「そっかそっか〜、鍛錬も順調?」
「当たり前だろ!もっと強くなって何でも斬れるようになってやるぜ!」
被り物の奥でフシューッと誇らしげに鼻息を鳴らす。
そんな単純なやり取りが心地いい。
「ふふ、頼もしいねえ。……あ、もうすぐで町を抜けるよ。そこからは一本道だから――」
そう言いながら角を曲がろうとした、その矢先。
「あっ……!」
曲がり角の向こうから現れた人影と、思いがけず肩がぶつかる。どん、と軽い衝撃を受け、私の体はバランスを崩して大きく横へよろめいた。
けれど、冷たい泥に叩きつけられる前に、ぐいっと腕を強く引かれる。
「しっかりしろお日さま女!」
「ご、ごめん。助かった……ありがとう、伊之助くん」
お日さま女?伊之助くんが瞬時に荷物を抱えたまま私の腕を掴んでくれたおかげで、なんとか転倒だけは免れることができた。
だが、その拍子に私が手に抱えていた小さめの手提げ籠が傾き、中にあった野菜のいくつかが路上へ転がり落ちてしまう。
カボチャや大根は伊之助くんが担いでくれていたから無事だったものの、籠に入っていた瑞々しいトマトや根菜がコロコロと転がり、前日の雨でぬかるんだ泥の中に落ちて汚れてしまった。
いや、それよりも…。
「ご、ごめんなさい!!大丈夫で、し、たか……」
慌ててぶつかった相手に謝罪の言葉を紡ごうとして、私はそのまま息を呑んで硬直した。
目の前に立っていたのが、ハッとするほど美しい女性だったからだ。
すっと通った鼻筋に、透き通るような白い肌。そして何より目を引いたのは、つややかな唇に差された色鮮やかな赤い紅。裾にかけて色を変えていく深い紫の袴を纏い、その立ち姿は、まるで漫画から抜け出してきたかのように浮世離れしていた。
しのぶさんとはまた違った、思わず見惚れてしまうほどの美しさ。少し派手で。
「ご、ごめんなさい!お怪我はないですか?どこか、袴は汚れて……」
慌てて相手の足元へ視線を落としながら言葉を重ねようとする。しかし、ぞっとするほど冷ややかな視線が私を射抜き、思わず喉がひゅっと縮み上がって言葉が途切れた。
なんだか今、すごく怖い目で睨まれたような…。
「……あなた」
「え、?」
謝罪の言葉を待つこともなく、彼女は露骨に不機嫌そうに顔を背ける。
「気をつけることね」
それだけを冷ややかに言い捨てると、裾を翻してスタスタと去っていった。あっという間に人混みの向こうへと消える。
私はその場に縫い止められたように、指一本動かせなくなっていた。あんな目で見られるなんて、私が何かしてしまっただろうか。
いや、ぶつかった。それはそうなんだけど。彼女とは今日初めて会ったはずだ。恨まれるような覚えも面識も、何ひとつない。それなのに、あの視線の奥に渦巻いていた正体のわからない悪意のようなものが胸にべったりとこびりついて、なんとなく嫌な気持ちになる。
私はどれだけ学ばないんだ…。こうしてまた足元や周囲への注意を怠って転けそうになって。冨岡さんの言っていたことは、悔しいけれどあながち間違いではなかった。これからはもっと慎重に歩こうと心の中で猛反省する。
「おいコラ!そこの女ァ!待ちやがれ!」
その時、伊之助くんがボフッと激しく鼻息を荒くしながら、すっかり小さくなった彼女の背中に向かって太い指を突きつけていた。
「おい!ぶつかった相手には謝らないといけないって、紋次郎が言ってたぞ!知らんぷりか!この失礼女め、待ちやがれェ!」
「い、伊之助くん待って!」
伊之助くんが今にも大荷物を放り出して彼女を追いかけようとドカドカと足を踏み出すので、私は慌ててその腰巾着を引っ張った。
「伊之助くん、いいの!ぶつかったのは私がちゃんと前を見てなかったからなんだから!」
これ以上、大通りで騒ぎを大きくしたくない。何事かと足を止めてこちらを伺う町人たちの視線が痛いほど集まっている。
それに――正直に言えば、あの女性を追いかけたところで、あの底冷えするような氷の視線をもう一度向けられると思うと、恐怖で足がすくんでしまったのだ。
「なんかあいつ、すげぇ嫌な顔してたぞ!」
野性的な勘ゆえか、伊之助くんは彼女が放ったただならぬ悪意を敏感に察知していたらしい。
「ううん、大丈夫だよ。私も急に曲がり角に入っちゃったから。彼女もきっと、何か急ぎの用事があって焦ってたんだと思うの」
「それだと、俺様の収まりがつかねぇ!」
「そうだ!伊之助くん、帰ったらアオイさんが今日は天ぷら揚げてくれるって言ってたよ!」
「テンプラァ!?」
ピクン、と彼の耳が跳ね上がる。
効果はてきめんだった。
「よし!なら話は別だ!屋敷まで全速力で帰るぞ!後ろにしっかりついて来い!!」
「う、うん!ありがとう!」
さっきまでの殺気立った空気はどこへやら、伊之助くんは鼻息も荒く大荷物を抱え直してダダダと坂道を駆け上がり始めた。
「待って〜!」と慌てて落ちた野菜を拾い、その背中を追いかけながら、私は去っていった美しい女性のいた方向を一度だけちらりと振り返る。
青空の下、大通りの賑わいの中に彼女の姿はもうどこにもなかった。
けれど、あの一瞬感じた冷たい余韻だけが、晴れ渡る陽気とは裏腹に、私の胸の奥に小さな影を落としていた。
*
「これまた、たくさんおまけをつけてもらいましたね」
台所に運び込んだ籠の中身を確認しながら、アオイさんが感心したように声を上げた。彼女の手はすでにテキパキと動き、立派な葉のついた大根や紙に包まれた乾物を手際よく仕分けている。
私も並んで袖を捲り、買ってきたものを棚や貯蔵庫へと収める作業を手伝い始めた。
「はい、なんだか申し訳ないくらいで。雨で客足が遠のいてたからって、お店の人が皆次々に籠に入れてくれてくださるから……」
「それだけじゃありませんよ。この前私が同じお店に行った時は、こんなに立派な大根は入ってませんでしたから」
アオイさんが少しだけ呆れたように、けれどどこか嬉しそうに笑う。
その会話を聞きつけて、ひょっこりと顔を出したのは、すみちゃん、きよちゃん、なほちゃんの三人。彼女たちも私の周りに集まって、小さな手で小豆の袋や調味料の瓶を運んでくれていた。
「本当ですよ!お魚屋さんでも、この前は立派なアラが入ってました!」
「リサさんが買い物に行くと、いつもよりたくさんオマケをつけてもらえるって」
「しのぶ様も『リサさんが買い出しに行ってくれると、予算が浮くから助かります』って、ニコニコされてましたよ」
「そんなことないよ」と照れくさくて首を振ったけれど、私が買い出しに行くことで、このお屋敷の助けに少しでもなれているのなら、それはそれで悪い気はしない。
私は重たい胡麻の瓶を棚の奥に押し込み、空になった籠を片付ける。
「……あ、そうだ。アオイさん、今日は伊之助くんが天ぷらをすごく楽しみにしてるみたいで」
「分かっていますよ。あんなに大きな声で騒いでいれば、嫌でも聞こえます。…まったく、あの猪頭は」
口では文句を言いながらも、アオイさんはすでに手慣れた様子で天ぷら粉の準備を始めている。私もその隣で冷たい水に手を浸し、泥のついた野菜を丁寧に洗い始めた。
なんやかんや言いながらも、アオイさんは伊之助くんに弱い。仕入れたばかりの野菜をどう調理するか吟味する瞳には、どこか温かい色が宿っている。
野菜を刻む小気味よい音に混じって、私達はそれから他愛もない話に花を咲かせた。
話題の中心は、やはり炭治郎くんたち三人のことだ。善逸くんが相変わらず禰󠄀豆子ちゃんに夢中で、暇さえあれば彼女の入った箱に話しかけているだとか。
裏山の木々が不自然になぎ倒されていたり地面が抉れていたりと荒れ放題で、もしや伊之助くんのせいではないかと、しのぶさんがぴきぴきしているとか。
他にも、療養中の隊士たちの経過が順調であることなど、いつもの日常を分かち合う。
そうしてしばらく穏やかな時間が流れた頃、ふと、きよちゃんが思い出したように声をあげた。
「そういえばリサさん、知ってますか?最近流行りの『新派劇』のこと」
「新派劇?」
聞きなれない言葉の問いかけに、私は手を止めて首を傾げた。
「町に新しくできた芝居小屋でやっている劇のことです!今、女性たちの間ですごく人気で連日半券が売り切れてしまうくらいなんだそうです。気になりませんか?」
劇、か。
確かに、この時代に来てからは娯楽らしい娯楽には縁がなかった。芝居小屋という響き自体、どこか遠い世界のもののように思えてしまう。
「気になる、かも。どんなお話なの?」
私の問いに、きよちゃんは身を乗り出すようにして教えてくれた。
それは、身分違いの恋に落ちた男女が、残酷な運命に翻弄されて結局この世では結ばれず、来世での再会を誓って命を散らすという悲恋の物語だという。
それを聞いて、ずいぶん重たいお話なんだなと素直に思った。それほどまでに強い想いを来世に託すという感覚が、この時代の人にとっては物語の中の話だけでなく、どこか救いのように響くのかもしれない。
いつの時代も、人は報われない恋の物語に心を動かされるものなのだと、どこか客観的にそんな感想を抱いた。
「その舞台に出ている女優さんが、とびきりの美人だって町のおばあちゃん達も絶賛していて……」
きよちゃんが熱心に語る物語を、私は頭の中でぼんやりと描いてみる。
未来の私が知っているきらびやかな舞台装置も、派手な演出もないのだろう。けれど、だからこそ、その女優の流す涙や言葉のひとつひとつが、観る人の心を強く揺さぶるのかもしれない。
「私たち、いつか行ってみたいなあって!」
「でも、来世ってみんな信じてますか?」
「うーん、どうだろう。考えたこともなかった」
来世、と言われて、未来から来た私にとって、それはただのお伽話や、あるいは物語の中だけに存在するだけのものだとは、なんとなく言い切れなかった。
死んで過去に来るだなんて不思議な体験をしたのだ。来世だって、存在するのかもしれない。
この時代の過酷さ、命がこれほどまでに簡単に、そして残酷に奪われていく現実を目の当たりにしていると、その言葉はただの気休めではないように聞こえてくる。
もし、今ここで失ったとしても、またどこかで会える。そう信じなければ、到底やりきれないほどに、この時代の死はあまりに身近だ。
「……私の父が言ってました」
それまで黙っていたアオイさんがふと、少しだけ遠くを見るような瞳で口を開いた。
「今世で出会った人とは、来世でも必ずまた出会えるんだそうです。だから、さよならは悲しいけれど、本当のお別れじゃないんだよって。…私たちはみんな、深い縁で結ばれているんだよって。……だから、私はその言葉を信じてます」
彼女の言うように、私たちが単なる偶然の積み重ねではなく、目に見えない糸で手繰り寄せられているのだとしたら。
私が未来からこの時代へ辿り着いたことも、ここでお屋敷のみんなや、尾崎さんと出会ったことも、すべては「次」へと繋がるための大切な約束だったのかもしれない。
もしそうなら、たとえどんなに時が流れて、形を変えて出会えるならどんなにいいだろうって。
「……ねぇ、私たちも来世で会えるかな?」
すみちゃんが、不安と期待が入り混じったような瞳で私を見上げた。その真っ直ぐな視線に、胸の奥がきゅっと締め付けられる。
…会えるかどうかなんて。そんなの。
私は手に持っていた包丁をそっと置き、彼女たちの小さな瞳を一人ずつ見つめ返した。
「……うん。来世でも、その先でも。私はまたみんなに会いたいな」
「本当ですか!?私も、私も会いたいです!」
「絶対ですよ、約束ですからね!」
言うが早いか、三人がいっせいに私に抱きついてきた。「わっ」と声を上げながらも、私は彼女たちの小さな体温を両腕で受け止める。
笑いながら三人の頭を交互に撫でると、彼女たちは私の胸に顔を埋めたまま、嬉しそうに声を弾ませた。
そんな様子を眺めながらアオイさんが少し呆れたように、「ほらほら、作業が止まってますよ」と優しく笑う。
未来から来た私が、この場所で「次」を願えるのは分からない。けれど、この不思議な縁に、彼女たちの温もりにただ感謝するのだった。
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