5
それから、一ヶ月ほどが経った。
最初は心細くてたまらなかったのに、人間というのは案外、どんな環境にも適応できてしまうものらしい。
もちろん、最初から順調だったわけではない。竈の火熾しに手こずって顔を煤だらけにしたり、洗濯板で指の皮を剥いたりと、慣れない作業に泣きたくなる夜もあった。
けれど今では、この時代の独特な言い回しや所作も、どこか自分の一部として馴染み始めている。
慣れ、というのは本当にすごい。かつて当たり前だった便利を失った代わりに、私はここで、自分の手で生活を回していくという確かな手応えを手に入れてはじめていた。
これなら、ここでやっていけるかもしれない。
そう思えるようになったのは、周りの人たちの存在が大きい。
胡蝶さんはいつも忙しそうに屋敷を飛び回っているけれど、時折ふとした瞬間に遠くから私の様子を見てくれている。アオイさんはふいに目が合うと、何も言わずにふわりと微笑んでくれる。その柔らかな眼差しに、私はこの一ヶ月、何度も救われてきた。
もちろん、まだ分からないことだらけだ。ここに運ばれてくる隊士たちの傷跡から察する「鬼」の存在は、今も私の心のどこかに黒いシミのようにこびりついている。けれど、ここに流れる温かな時間は、その恐怖を少しずつ和らげてくれていた。
そして、ひとつだけ不思議なことがあった。
あんなに帰りたかったはずの現代の生活や、大好きだったはずの物の記憶が、一日ごとに少しずつ、色彩を失っていくのを感じるのだ。
家族の笑い声も、お気に入りの音楽も、夜を徹して眺めていた光る画面の感触も。かつては鮮明だったあっちの世界の思い出が、まるで最初からここにいた人間が見るぼやけた古い写真のように、遠く、おぼつかなくなっていく。
寂しいというより、何だか不思議な感覚だった。私が本当にいた場所は、あっちではなくこっちだったのではないか——そんな、あり得ない錯覚さえ抱いてしまうほどに、私の心はこの大正の空気に溶け込み始めていた。
今日は午前の仕事を終え、アオイさんと一緒に庭へ出て敷布を干していた。
冬の風は容赦なく肌を刺し、洗い終わったばかりの濡れた綿はずっしりと両手に重い。風に煽られるたびに大きな布が暴れ、それを必死に押さえつけていると自然と呼吸が浅くなっていく。
「完璧です。もう大丈夫ですね」
隣で作業を終えたアオイさんが、私の干した敷布をひと目見て太鼓判を押してくれた。私は照れくさくなって、頬が熱くなるのが分かる。
「……本当ですか?間違ってないですか?」
「はい。教えたことは全てできています」
「それはアオイさんのおかげです」
ぽつりと呟くと、アオイさんは軽く首を傾げて、どこか誇らしげに小さく笑った。
かつていた世界では、できて当たり前のことばかりに追われていたのに。二十歳を前にしたこの歳になって、誰かに「できたね」と認めてもらうことが、こんなにも嬉しいなんて。
「それにしても、今日は一段と冷えますね」
「……はい。手が凍りそうです」
未来では、ボタンひとつで機械が全部やってくれたのだ。洗うのも、乾かすのも。
思えば便利すぎる日常だったのだと、今更ながらに気づかされる。
「慣れるまではみんなそうですよ。はい、温めてくださいね」
アオイさんはそう言って、ごく自然に自分の小さな掌を差し出してくれた。私はその手のひらに、縋るような思いで凍えた指先をそっと重ねる。
「……あったかい」
雪解けのようにじんわりと感覚が戻ってくる。言葉はなくても、その温度だけで十分だった。
真っ白な敷布が冬の風にはためくのをぼんやりと眺めていると、背後からぱたぱたと軽やかな足音が近づいてくる。
「リサさーん!」
声をそろえて呼ぶ声に振り返ると、三人の小さな女の子たちがこちらへ向かって一目散に駆け寄ってくるところだった。
きよちゃん、なほちゃん、すみちゃん。
初めて会ったときは、顔立ちがあまりにそっくりで、三つ子かと思ってしまったほどだ。けれど、それぞれ違う色の蝶の髪飾りと、元気な笑い声を聞けば、今ではもう間違えることはない。
現代で言えばまだ小学生くらいの彼女たちが、ここでは立派に「看護」の仕事を担っている。洗濯物を畳む小さな手は驚くほど器用で、廊下の掃除を競い合う姿は微笑ましいけれど、その眼差しはいつだって真剣だ。
自分よりも大きな荷物を三人がかりで運ぶ姿を見たときは思わず手を貸そうとしたけれど、私の手なんて必要ないくらい、彼女たちはそれを誇らしげにやり遂げてしまったほど。
その強さに、私はいつも背中を押されていた。
「アオイさん!リサさん!お土産に貰ったお煎餅があるんです!一緒に食べませんか?」
三人は大きな包みを六つの小さな手で大切に抱え、期待に満ちた目で私たちを見上げていた。
「いいですね。少し休憩にしましょうか」
「わーい!」
アオイさんの許しが出ると、三人の顔が一気に華やぐ。
「隠の後藤さんが、お裾分けだって言ってくださったんです!」
「後藤さん、いつも何かと気にかけてくれますよね」
すみちゃんが胸を張って教えれくれた名前に、なほちゃんときよちゃんも深く頷いている。
後藤さん——先日、怪我人を運んできた際に少しだけ言葉を交わした、裏方の仕事を引き受けているという方だ。この屋敷には、戦う人以外にも、こうして目に見えない場所で支え合っている人たちがたくさんいる。
「お茶は何と一緒に飲みましょうか」
「私、ほうじ茶が良いと思います!」
「それなら私が淹れます!お煎餅には香ばしいお茶が合うものね」
きよちゃんの提案に、三人はさらに声を弾ませて跳ね回る。そんな賑やかなやり取りに包まれながら、私はふと、この平和な時間がずっと続けばいいのにと願わずにはいられなかった。
冷たい冬の空気さえ今はどこか心地よく感じる。
「さあ、冷えないうちに台所へ戻ろうか」
アオイさんが促し、私たちがわちゃわちゃと笑いながら連れ立って歩き出したその時。
「あら。皆さん、随分と楽しそうですね」
楽しげな声が頭上から降ってきた。
顔を上げると、一段高い廊下の縁を胡蝶さんが静かな足取りで通りかかるところだった。
「あ、しのぶ様!」
「お疲れ様です、しのぶ様。後藤さんにいただいたお煎餅を、これから皆でいただこうと思っていたんです」
アオイさんが代表して答えると、胡蝶さんは足を止め、こちらを優しく見下ろした。紫色の瞳が、ゆっくり弧を描く。
「そうだったのですね。あら、洗濯物もとても綺麗に干されていますね」
そのまま胡蝶さんの視線が、私の背後で風に泳ぐ真っ白な敷布へと向けられた。私が先ほどまで格闘していた仕事の結果を確かに捉えたのだと分かり、せっかく引き始めていた頬の熱がまたぶり返すのを感じる。
「そうなんですよ、しのぶ様!リサさん、この短い間でせんたくき?なしでも、すっかり干せるようになったみたいです。ちゃんとしわも伸びてますし、立派ですよね!」
きよちゃんが、まるで自分の手柄であるかのように胸を張って報告してくれた。それを聞いた胡蝶さんは、細い目をさらに和らげて慈しむような微笑みを浮かべる。
「まぁ、そうなのですか。リサさんは覚えが早いのですね」
「い、いえっ。皆さんが、つきっきりで丁寧に教えてくださったおかげです」
慌てて首と手を横に振って否定したけれど、私の羞恥心はお構いなしに、隣にいたすみちゃんがぱっと顔を輝かせて身を乗り出してきた。
「いいえ!リサさんは、本当に頑張り屋さんです!」
「私もそう思います……!」
「いつも一生懸命で、私たちも負けていられないなって、みんなで話していたんですよ!」
なほちゃんときよちゃんも深く頷き、三人が三つ編みを揺らしながら口々に私を褒めてくれる。
現代で生きていた頃は、一人でなんでも効率よくこなすことばかり考えていたけれど。こうして小さな手を持つ女の子たちに真っ直ぐな瞳で肯定されることが、こんなにも胸の奥をぽかぽかと満たしてくれるなんて知らなかった。
「…あ、ありがとう」
思わず顔がほころんでしまう。自分の居場所が、少しずつ形作られていく実感が心地いい。
「しのぶ様も休憩ご一緒にどうですか?」
アオイさんが胡蝶さんを誘う。せっかくなら、胡蝶さんも一緒にお煎餅を食べられたら私も嬉しい。けれど、その誘いに胡蝶さんは少しだけ残念そうに眉を下げたのだった。
「私もご一緒したいのですが、これから——」
彼女が何かを言いかけたところで、ふとその視線が私たちの背後へと向けられる。その表情に、いたずらっぽい色が混じった。
「あら。ちょうど来られましたね」
来客だろうか。と私たちは首を傾げながら、一斉に後ろを振り返った。
光の中に立っていたのは、あの左右で柄の違う羽織を纏った男性。胸の前で腕を組み、微動だにせずそこに佇んでいる。
「……冨岡、さん」
私の口から、無意識にその名前が零れ落ちた。
「随分と早かったですね、冨岡さん」
胡蝶さんがどこか揶揄うような響きを含んだ声で言う。
けれど冨岡さんは、相変わらず表情をひとつも変えない。なのに、どうしてだろう。背景の木々にその佇まいがよく映えて、やたらと絵になる人だと思った。
「任務が早く終わった」
「相変わらずのようで何よりです。というわけで、私はこれから冨岡さんの診察がありますので、皆さんでお煎餅を召し上がってくださいね」
胡蝶さんはそう締めくくると、優雅な動作で廊下を歩き出した。
…そっか。やっぱり、胡蝶さんは休む暇もないくらい忙しいんだ。みんなで一緒に、っていうのはまだちょっと贅沢だったかな。
去っていく背中を名残惜しく見送って、それから私は、視線をふたたび目の前の人へと戻した。
「はい!かしこまりました、しのぶ様」
元気よく答える皆の声に合わせながら、私は密かに胸の高鳴りを感じていた。
一ヶ月前、この縁側で言葉を交わして以来だ。屋敷の手伝いに明け暮れる日々の中で、ふとした瞬間に冨岡さんのことを思い出すことがあった。
こうしてまた姿を見られたことが、自分でも驚くほど素直に嬉しい。救い出してくれた彼に対して、私はどこか、生まれたての雛が初めて見たものを親だと思うような、そんな感覚を持っているのかもしれない。
「冨岡さん、診察室までお願いできますか?」
廊下を曲がる直前、胡蝶さんの促しに冨岡さんは短く頷いて歩き出す。
「水柱様、頑張ってくださいね」
「失礼いたします」
アオイさんや三人娘たちも、冨岡さんを見てピシッと背筋を伸ばして声を揃える。
…みずばしら様。初めて聞くその響きに、私は思わず瞬きを繰り返した。
アオイさんたちがこれほどまでに深い敬意を払うってことは。もしかして彼は、この鬼殺隊という組織の中でもとてつもなく偉い人なのだろうか。
「さあ、行きましょうリサさん」
「あ……はいっ」
アオイさんに呼ばれ、私は慌てて皆の後を追った。
廊下へ上がる際、ちょうどすれ違う形になった冨岡さんに向けて、私は「お疲れ様です」の気持ちを込めて小さく会釈をした。
冨岡さんも胡蝶さんの診察を受けに来たりすることがあるんだな。それなら、またこうして時々会うことができるかもしれない。
次はお話ができるといいのだけど…。そんなことを考えながら、彼の隣を通り過ぎようとしたその時。
「……っ」
ふいにぐい、と右腕を掴まれた。強い力ではないけれど、逃げられない確かな力で。
驚きに目を見開いて立ち止まると、冨岡さんは掴んだ腕を引き寄せるようにして、私との距離を詰めてきた。
あまりに近くなった顔の距離に、彼の整った鼻筋や、長く濃い睫毛の先までもが鮮明に見えてしまい。とんでもない美形を前にした破壊力に、私の頭の中は真っ白になる。
「冨岡、さ……」
名前を呼ぼうとした私の唇が、驚きで凍りついた。
冨岡さんは空いた方の手をゆっくりと持ち上げると、私の前髪をそっと掻き分け、その熱い掌を私の額にぴたりと当てたのだ。
火がついたように、頬から耳の先までが一気にかっと熱くなる。あまりの突然の出来事に、私はただされるがまま金縛りにあったように固まってしまった。
「顔色が悪いが」
「え……?」
視線の端で、先に廊下を歩いていたアオイさんたちも、私と同じように驚いた表情を浮かべいるのが見えた。
けれど冨岡さんは周囲の状況など一切眼中にないようで、ただ静かに私を凝視している。
「体調が優れないのではないか」
「えっ……体調?…あ、あの、大丈夫です」
必死に声を絞り出す。
別にどこも悪いところはない。冬の寒さの中で立ち働いていたから、少し指先が悴んでいるけれど、それもいつものことだ。
けれど、冨岡さんは私の額に触れたまま、わずかに眉を寄せた。
「自覚がないのか。指先も冷え切っているが」
「それは、その……ずっとお水を使っていたので。本当になんでもないんです」
なぜ、怒られている子供のような気持ちになるのだろう。言い訳するように視線を泳がせると、彼はふっと目を伏せ、手のひらを額から離した。
「そうか。早合点だったのなら…すまない」
「あ、いえ……」
冨岡さんは、私の額から離した手を一度所在なげに握り直すと、短くそれだけを言った。
彼は私をもう一度だけじっと見つめると、何事もなかったかのようにくるりと背を向け、胡蝶さんの待つ診察室の方へ悠然と歩き去っていく。
「…………え?」
残された私は、ただぽかんと口を開けて立ち尽くした。
今のは、一体なんだったんだろう。ただの体調確認にしては、あまりに強引だったような。
遅れてやってきた動揺で、じりじりと熱が広がり、それが一気に全身へと伝わっていく。
「リサさん大丈夫?お顔、真っ赤ですよ」
きよちゃんの控えめな声に引き戻された。アオイさん、なほちゃんすみちゃんも、私と冨岡さんが消えた角を交互に眺めながら、まん丸に目を見開いている。
「本当です!さっきよりもっと赤くなってます!」
「リサさん、体調が悪かったんですか?」
「やっぱりお熱が……」
心配そうに顔を覗き込んでくる三人に、私はしどろもどろになる。
違う、そうじゃない。体調が悪いわけでも、熱があるわけでもないのだ。ただ、あんな至近距離で、あんなに綺麗な顔に見つめられたら。誰だって動揺してしまうだろう。
「これは不可抗力です……」
私は消え入りそうな声で呟くと、熱が引かない両頬をぎゅっと手のひらで覆い隠す。
三人は私の言葉に首を傾げていたけれど、アオイさんだけは何かを理解したように、深いため息を落とした。
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