5
結局のところ、私が心配していたようなことは、何ひとつ起きなかった。
当然だ。もし、あちこちに"鬼"がうじゃうじゃいて、毎日誰かが食べられているような世界なら、人間はとっくに滅びているはずだから。それも、"鬼殺隊"という人たちのおかげなのだろうか。
あの時、絶望していたのが嘘みたいに、私はあっという間にこの時代の生活に馴染んでいた。
人間、大抵何にでも適応できる。慣れって本当にすごい。
最初は火の起こし方ひとつ分からなくて、煙に巻かれて涙を流していたのに。今では、お湯を沸かすための火加減も、薪をくべるタイミングも、体が勝手に覚えて動いていく。隊服の綻びを縫う手つきだって、日に日にマシになってきた。
重たい桶を持って廊下を歩くのも、最初は筋肉痛で泣きそうだったけれど、今ではこの重さが当たり前。
ただの居候だと思われたくなくて必死だったけれど、これならここでやって行けるかもしれない。
胡蝶さんは、忙しそうに屋敷を飛び回りながらも、時折遠くから私の様子を見てくれている。目が合うと、何も言わずにふわりと微笑んでくれるし、その視線に私は何度も救われていた。
もちろん、まだ分からないことだらけだ。"鬼"のことも、夜の暗闇への恐怖も、心のどこかにはずっとこびりついている。
でも、昨日できなかったことが今日できるようになる。その小さな喜びが、私の足元を少しずつ固めてくれているのも確かだった。
大正時代の暦や、独特の言葉遣い。最初は耳慣れなくて戸惑ったけれど、今では「ありがとうございます」や「はい」という言葉が、自然に口から出るようになりった。
ここは、私の知っている歴史の中。教科書で読んだはずの、過去の日本。スマホも、便利な家電も何もない世界。
夜になれば、頼れるのは行灯の小さな明かりだけ。不便なはずなのに、不思議と居心地が悪くないのはどうしてだろう。
現代に残してきたはずの生活や、大好きだったはずの物の記憶が、なぜか一日ごとに薄まっていくのを感じる。まるで、最初からここにいた人間みたいに。あっちの世界の思い出が、ぼやけた古い写真みたいに遠くなっていった。
だから私は、この時代の流れに身を任せることに決めた。ここで私にできることを、一つずつ探しながら――。
今日は午前の仕事を終え、アオイさんと庭へ出て敷布を干していた。
冬の空気は鋭く、洗い終わった綿は冷たく重い。両手で布を押さえ、風に煽られるたびに呼吸が浅くなる。
「完璧です。もう大丈夫ですね」
アオイさんが、私の干した敷布をひと目見てそう言ってくれる。照れくさくなって、私は思わず頬を赤く染めた。
「…本当ですか?間違ってないですか?」
「はい。言ったことも全てできてます」
「それは……アオイさんのおかげです」
ぽつりと呟くと、アオイさんは軽く首を傾げて小さく笑った。
褒められ慣れていない私は、胸の中で小さな幸福が膨らんでいく。この歳になって、誰かに「できたね」と認めてもらうことが、こんなにも嬉しいなんて。
「それにしても今日は寒いですね」
「…はい。手が凍りそうです」
未来では、洗濯ひとつだって機械が全部やってくれるのだ。思えば便利すぎる日常だったのだと、今更ながらに気づく。
「慣れるまではみんなそうですよ。はい、暖めてくださいね」
アオイさんがそう言って、ごく自然に自分の小さな掌を差し出してくれる。私はその手のひらに、そっと自分の凍えた指を重ねた。
「……あったかい」
雪解けのようにじんわりと温度が戻ってくる。言葉はなくても、それで十分だった。
こうして日々が過ぎていけば、この場所にも、私の小さな立ち位置みたいなものができるのかもしれない。
消えてしまいそうだった自分が、ここならまた形を取り戻せる。そんな予感だけで、私の中の小さな穴はほんの少しだけ埋まっていくように思えた。
干した布が風にはためくのを眺めていると、背後からぱたぱたと軽やかな足音が近づいてくる。
「リサさーん!」
声をそろえて呼ぶ声。振り返ると、三人の小さな女の子たちが駆け寄ってきていた。
みんな顔立ちがそっくりで、同じ白いワンピースを着ている。初めて見たときは、三つ子かと思ってしまったほどだ。
けれど髪型はそれぞれ違って、蝶の飾りを色違いで身につけている。元気いっぱいに笑う子は"きよ"、少し控えめなのは"なほ"、そして誰よりお喋りなのが"すみ"だと、あとから教えてもらった。
三人とも最初は人見知りはしていたものの、とても心優しい子たちだった。
まだ、現代で言えば小学生くらいの小さな女の子たちなのに、三人そろって立派に屋敷の仕事を手伝っている看護婦というのだから驚かされる。
洗濯物を畳む手は小さくても器用で、廊下の掃除を任せれば楽しそうに競い合いながら雑巾を走らせる。
背丈ほどもある荷物を二人がかりで運んでいる姿を見たときには、思わず声をかけそうになったが、彼女たちはそれを誇らしげにやり遂げてしまった。
「アオイさん!リサさん!お土産に貰ったお煎餅があるんです!一緒に食べませんか?」
三人が両手で大きな包みを抱え、期待に満ちた目でこちらを見上げていた。
「いいですね。少し休憩にしましょうか」
「わーい!」
「…あ、じゃあ私お茶を淹れます。煎茶でいいですか?」
お湯を沸かすくらいなら、私にもできる。
失敗する心配もないし、こういう時ほどみんなの役に立たなければと思って声をかけた。
「あ、じゃあリサさんお願いしてもいいですか?」
「はい。もちろんです」
「…あらあら。みなさんお揃いですか?」
その時、廊下の向こうから胡蝶さんが通りかかった。にっこりと笑顔を浮かべて、庭にいる私たちを優しく見つめる。
「まあ…洗濯物、とても綺麗に干されていますね」
その柔らかな声に、思わず背筋が伸びる。自分のしたことが目に留まったのだと分かって、胸の奥がくすぐったくなった。
「そうなんですよ!しのぶ様。リサさん、この短い間でせんたくき?無しでもすっかり干せるようになったみたいです。ちゃんとしわも伸びてますし、立派ですよね」
きよちゃんが、自分のことのように胸を張って報告してくれる。
それを聞いたしのぶさんは、細い目をさらに和らげて微笑む。その視線があまりに優しくて、見つめられた私の頬は火がついたみたいにかっと熱くなった。
「まぁ、そうなのですか。リサさんは覚えが早いのですね」
「い、いえっ!そんな……皆さんが、つきっきりで丁寧に教えてくださったおかげです」
慌てて手を振って否定したけれど、心の中は気恥ずかしさと嬉しさでいっぱいいっぱい。
すると、隣にいたすみちゃんがぱっと顔を輝かせて身を乗り出してきた。
「いいえ!リサさんは、本当に頑張り屋さんです!」
「わたしも、そう思います……!」
「そうそう!いつも一生懸命で、私たちも負けていられないなって、みんなで話していたんですよ!」
きよちゃんも頷き、三人が三つ編みを揺らしながら口々に私を褒めてくれる。
「……あ、ありがとう」
思わず顔がほころんで、胸の奥がぽかぽかと満たされていくのを感じた。ただそれだけで、この見知らぬ世界に私の居場所があるんだと強く思わせてくれる。
「しのぶ様も休憩、ご一緒にどうですか?お煎餅をいただいたんです」
「まあ、それは……」
「胡蝶」
しかし、胡蝶さんがそこまで言いかけたその時。低く落ち着いた声がして、庭の空気がふっと変わった。
反射的に声がした方を振り返ると、並んだ木々の隙間から、一人の男性が静かに歩み寄ってくるところだった。
「……あ、」
思わず、小さな声が漏れる。
風に揺れる、左右で全く柄の違う不思議な羽織。
…冨岡さんだ。彼と一瞬だけ視線がぶつかり、なぜか心臓が跳ねる。
全く気配に気づけなかった。すぐそこまで来ていたはずなのに、音もなく現れた彼にただただ圧倒されてしまう。
「ああ、冨岡さん。来られましたか」
楽しそうに笑い合うアオイさんたちの空気。
そんな温かな風景の中で、彼ひとりだけがまるで色のない静かな場所に立っているみたいだ。
胡蝶さんに引き合わされて以来、一度も姿を見ていなかったけれど……そうか、彼もここへ来ることがあるんだ。
「随分と早く来られましたね。そんなところで黙って立っていないで、声をかければいいのに」
「今、着いたところだ」
「せっかくですから、冨岡さんも一緒にお煎餅でもいかがですか?」
「……いや、いい。用件を」
素っ気ない返事に、胡蝶さんは「相変わらずですね」と小さく肩をすくめる。
けれど、そんな彼の態度にも周囲の人たちは慣れっこのようで。
「……皆さん、ごめんなさいね。冨岡さんにお渡しするものがあるので、先に行って食べていてください」
「はい!かしこまりました、しのぶ様!」
「水柱様、失礼いたします」
「お仕事頑張ってくださいね!」
アオイさんや三人の少女たちは、畏まった様子で声を揃えた。
――水柱様。初めて聞くその響きに、私は思わず瞬きを繰り返す。
この屋敷で働くみんながこれほど敬意を払うということは、彼はこの鬼殺隊の中でも、とてつもなく偉い人なのだろうか。
「さあ、行きましょうリサさん」
「あ……はいっ」
アオイさんに促され、私は名残惜しさを隠すように歩き出した。
すれ違いざま、もう一度だけ彼を見上げる。相変わらず表情の読めない、冷たくも美しい横顔。彼にとっては、私は数多くいる拾い上げたもののひとつに過ぎないのかもしれない。
けれど、彼の真横を通り過ぎようとしたその時。
「っ……」
不意に視界が陰り、頭のてっぺんに大きな手のひらがぽん、と置かれた。
驚きで私はその場に縫い付けられたように足を止める。見上げると、そこには無表情のまま私を見下ろす冨岡さんがいた。
「冨岡、さん……?」
アオイさんたちも数歩先で足を止め、驚いたようにこちらを振り返っている。
けれど彼は周囲の視線など気にする様子もなく、私の頭に置いた手に力を込めた。
「ここでの暮らしには慣れたか」
あ…。覚えて、くれてたんだ。
私を気にかけてくれていたのだと分かった瞬間、胸の奥が熱く脈打つ。私は震える声で、けれど精一杯の気持ちを込めて、彼を見つめ返した。
「……はい。皆さんのおかげで、なんとか……」
「そうか」
私の答えを聞くと、彼は満足したのか、それとも何かを言いよどんだのか。
ふい、と視線を逸らすと、頭の上にあった大きな手は名残惜しく離れていった。
「冨岡さん……あの、この間は本当にありがとうございました。助けていただいたのに、お礼も言えないままで……」
離れていく手のひらの熱を追いかけるように、私は慌てて言葉を紡ぐ。
ずっと、胸の奥で温めていた言葉。命を救われたこと、そして居場所のない私に手を差し伸べてくれたことへの精一杯の感謝だった。
やっと、伝えられて良かった。
「…気にすることはない」
けれど、返ってきたあまりに素っ気ない響きに、私は少しだけ寂しさを覚える。
「礼は俺じゃなく、胡蝶に伝えてやれ。お前を受け入れたのはあいつだ」
彼はそれだけを言うと、屋敷の奥へと消えた胡蝶さんを追って歩いて行く。
一切の気負いも、誇りもない。彼は自分が行った善意に、ひとかけらの価値も見出していないようだった。私にとっては、一生かけても返しきれないほどの恩人なのに…。
どうしてだろうと疑問に思っていると、彼は玄関先で一度足を止め、顔だけをこちらに向けて続けた。
「あと……その着物、悪くない」
「…………え?」
あまりに唐突で、あまりに短いその言葉の意味を理解するのに数秒かかった。
慌てて何かを言い返そうとしたけれど、彼はそれ以上何も言わず、ひらりと羽織を翻して屋敷の奥へと吸い込まれていく。
あとに残されたのは、冬の冷たい空気と、私の激しい鼓動だけ。
「あ……」
そうか、あの日、私はナイロンのダウンジャケットを着ていたから…。
そこまで考えて、ようやく気づく。理由がどうあれ、あの冨岡さんが、わざわざ足を止めてまで私を褒めたのだと。
「ふふ、リサさん。お顔が真っ赤ですよ」
「本当!林檎さんみたいです」
後ろで見ていた皆が、待ってましたと言わんばかりに顔を輝かせて駆け寄ってくる。
一度自覚してしまうと、もういけなかった。じわじわと、火がついたように顔が熱くなっていく。さっきまで冷たいと感じていた冬の風が、今は少しも届かないほどに。
私はたまらず、両手で火照った頬をぎゅっと覆い隠した。
「いいなぁ、冨岡さんに頭撫でてもらってましたね!」
「あんな冨岡さん、初めて見ました!」
三つ編みを揺らしながら楽しそうに覗き込んでくる彼女たちの瞳には、隠しきれない茶目っ気がたっぷりと含まれていた。
「こ、これは……不可抗力です……」
とても顔の整った人に突然、頭を撫でられたのだ。無理もないだろう。
皆と自分に言い聞かせるように、火照った頬を少しでも冷まそうと、冬の冷たい空気を何度も深く吸い込んだ。
前へ 次へ
目次へ戻る