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昼間の賑やかな太陽はとっくに身を隠し、夕餉も終えた屋敷には、しんとした静寂が降り積もっていた。庭で鳴いている虫の声が、よく響く。
お昼には、伊之助くんが「テンプラだ!」と大騒ぎして、みんなで笑いながらお膳を囲んだばかりなのに。あの賑やかさが、ずいぶん前の出来事のように。笑い声も、今はもうこの静けさの中にすっかり溶けてしまっていた。
「へぇ、炭治郎くんって六人兄弟の長男だったんだ」
虫の鳴き声に耳を澄ませながら、私は縁側の隣に座る炭治郎くんに視線を向けた。
庭のあちこちでは、すみちゃん、きよちゃん、なほちゃんの三人が楽しそうに禰󠄀豆子ちゃんと追いかけっこをしている。
鬼である禰󠄀豆子ちゃんにとって、太陽の消えた夜だけが、こうして自由に動き回れる大切な時間だ。最近では、三人娘も「禰󠄀豆子さん、遊ぼう!」と夜になるのを心待ちにしているようだった。
「はい。一番下の六太まで入れると、それはもう毎日が賑やかで……。善逸や伊之助がいても、今が少し、静かに感じるくらいです」
炭治郎くんは少しだけ遠くを見つめるような、穏やかで温かい眼差しで答えた。
「納得だよ。炭治郎くんって、なんだかすごくお兄ちゃんっぽいもんね。いつも誰かのことを真っ先に気にかけてるし」
「そんなことないですよ。それを言うなら、リサさんだってよく周りを見てるじゃないですか」
「…わ、私はともかく、炭治郎くんくらいの年齢の子でそんなにしっかりしてるなんて凄いと思う」
炭治郎くんは「そうですか、照れるな」と言って、少し恥ずかしそうに頬を掻いた。その仕草すらも、どこか安心感を与える包容力に満ちている。
深手を負って担ぎ込まれたあの日から数週間が立ち、彼らの傷もようやく癒えてきた。今は伊之助くんや善逸くんは任務へ赴き、終えるとこうして蝶屋敷に戻ってきては、次の鎹鴉の伝令が下るまで朝から晩まで必死に鍛錬に明け暮れている。
そんな慌ただしさと、束の間の休息を繰り返す生活が彼らの日常になってきていた。
「……むー」
そこへ遊び疲れたのか、禰󠄀豆子ちゃんがててて、と歩み寄ってきて、私の膝の上にぽすんと頭を預けてきた。
こうして彼女から近づいてきてくれるのは初めてで、その愛くるしさに胸が高鳴る。
私は恐る恐る彼女の滑らかな髪に指を通すと、ゆっくりと撫でた。少しだけひんやりとした体温が、私の手のひらに伝わってくる。
「禰󠄀豆子、リサさんのことが大好きなんだな。…俺以外の人にこんなに甘えるのは珍しいんです」
炭治郎くんが目を細めて、愛おしそうに妹を見つめる。私は膝の上で微かな寝息を立て始めた彼女の頭をなぞりながら、ふと思った。
夜にしか触れられないこの柔らかな髪も、月明かりの下でしか見られないこの穏やかな寝顔も。いつか彼女が、兄である炭治郎くんの手をしっかり握りしめて、真っ白な光の中を眩しそうに、けれど幸せそうに笑って歩ける日が来てほしい。
炭治郎くんがボロボロになりながらも戦い続けているのは、ただ鬼を倒すという使命のためだけじゃない。この小さな頭を、いつか再び太陽の下で何の憂いもなく撫でてあげる――その"当たり前"を取り戻すためなのだ。
「ふふ、禰󠄀豆子ちゃん、三人といっぱい遊んで満足しちゃったみたい。……おやすみ、禰󠄀豆子ちゃん」
私の囁きに、三人娘も声を潜めて「おやすみなさい、禰󠄀豆子さん」と口を揃える。
見上げれば、雲の切れ間から柔らかい月光が零れ落ち、私たちを静かに照らしていた。
「……ありがとうございます、リサさん。きよちゃん、すみちゃん、なほちゃんも」
炭治郎くんが、深く、深く、心からの感謝を込めて言った。その真っ直ぐな気持ちを受け止めるのが、少しだけ気恥ずかしくて。
私は視線を落として、ただ優しく彼女の頭を撫で続ける。
「…あの、リサさん。ずっと聞きたかったんですけど」
「ん?なあに?」
炭治郎くんの濁りひとつないあまりに純粋なその眼差しに、私は何気なく返事をした。禰󠄀豆子ちゃんの髪を撫でる手を止めずに、隣を見上げる。
周りでは三人娘たちが夜空に浮かぶ蝶を、楽しげに追いかけていた。
「リサさんと冨岡さんって、その……恋仲なんですか?」
「…げほッ!」
あまりに唐突、かつストレートな問いに、肺の空気が全部外に飛び出した。激しく咳き込む私に、膝の上の禰󠄀豆子ちゃんが「むー?」と不思議そうに目を覚ましかける。
炭治郎くんは慌てて「大丈夫ですか!?」と背中をさすってくれるけれど、動揺のあまり喉に何かが詰まったような感覚を覚え、私はしばらく何も言えなかった。
「……ち、違います!!!」
なんとか否定するも、咄嗟に声を出したせいで、庭先にとても響いてしまう。
「えっ、違うんですか?お二人が一緒にいた時の匂い……雰囲気というか。すごくお互いを大切に想っているように感じたので……てっきり、そういう仲なのだと」
炭治郎くんは少しだけ困ったように眉を下げ、耳飾りをカランっと鳴らしながら首を傾げた。
もう一度否定しようにも、顔に一気に血が昇るのが自分でもわかる。耳の先まで熱くなって、夜の冷たい空気が逆に肌を刺してくる。
「匂い?…ち、違うよ!そんな、冨岡さんはただ身寄りのなかった私を助けてくれて、今だってこうして色々気にかけてもらっているだけで……!」
「えっ、えっ、何のお話ですか〜?!炭治郎さん、今なんて言ったんですか?」
「なんでもない、なほちゃん、なんでもないから気にしないで」
「怪しいですよ!リサさんのお顔が真っ赤です!何を話したのか教えてください!」
「す、すみちゃんも興味持たなくていいから!」
慌てて駆け寄ってきた三人娘に返事を返しつつ、私は炭治郎くんに視線を向ける。
「えぇ…。そうなんですか?」
炭治郎くんは、きょとんとした顔で、まるでとても残念なものを見るように目を丸くした。
「…那田蜘蛛山の一件で色々あったとき、冨岡さんがリサさんを玄関先で抱きしめてたじゃないですか。それを見て、二人の間に何もないわけがないと思ってました」
「そ、それは……私がいつも危なっかしいから、心配してくれてるだけだよ。ほら、警戒心を持てってこの前も怒られたばかりで……」
「そうですか?」
炭治郎くんは一応聞いてはくれるけれど、私の言葉がまるで響いていない。
だって、そんな、私の見えていないところで冨岡さんがどんな顔をしていたかなんて、私は知らない。
「……炭治郎くんは、あの時、見てたの?」
「はい。俺は、というか…。あの時、蝶屋敷にいた全員が見てたと思いますよ」
「えっ!?」
思わず、間の抜けた声が零れた。
「はい!私たちも見てましたよ!」
「みんな、胸がぎゅってなってました」
三人娘の容赦ない証言に、私はもう言葉を失って口をぱくぱくとさせるしかなかった。
そんな、あの時皆に見られていたなんて知らなかった。立っていることさえやっとで、周りが見えるはずもなかったが、たくさんの人に取り乱した姿を見せてしまって申し訳ない気持ちが浮かぶ。
もしかしたら、冨岡さんは自分の背中で、私と世界のあいだに静かに壁を作ってくれていたのかもしれない。
「冨岡さん、辛そうに眉を寄せて、どうしていいか分からないって顔をしてましたよ」
「……」
「だから、てっきり」
そこで言葉を切り、炭治郎くんは私を見た。探るようでもなく、言い聞かせるでもなく、ただ真っ直ぐな眼差しを向けてくる。
「冨岡さんにとってリサさんは……特別な人なんだろうなって」
特別。
その二文字が、胸の奥で鈍く反響した。すぐに否定しなければならないのに、喉の奥に引っかかって言葉にならない。
私は膝の上の禰󠄀豆子ちゃんに視線を落とした。眠りに戻った彼女の小さな呼吸が、規則正しく上下している。その純粋無垢な姿に、少しだけ指先が震えた。
――もし、そうだったとして。その先を考えようとすると、胸がきゅうっと痛む。近くで想えるだけでいいと自分で言っておきながら、なんておこがましいのだろう。
「……違うよ」
ぽつりと、呟いたそれは炭治郎くんに向けた言葉でもあり、自分自身に言い聞かせる言葉でもあった。
「特別」だなんて、そんな贅沢な言葉を私が望んでいいはずがない。あの人はあまりに多くのものを背負っている。その重荷の一部にさえなれない私が、ただの"恩人"以上の存在になりたいと願うのは、あの人の優しさに付け入るような気がしてしまう。
側でお手伝いをして、彼が少しでも穏やかな時間を過ごせるように。それだけで十分だと言い聞かせてきた。それ以上の"欲"を持てば、今のこの穏やかな関係すら壊れてしまうのではないかと、いつも心のどこかで怯えている。
「…でも、リサさんは冨岡さんのことが、好きなんですよね?」
「…………」
あまりに無防備なところを突かれた衝撃に、私はただ、目を見開いて炭治郎くんを見つめることしかできなかった。否定の言葉どころか、声を出すことさえ忘れてしまう。
静まり返った縁側。三人娘も、何事かを感じ取ったのか、ぴたりと動きを止めてこちらを伺っていた。
逃げ場のない沈黙の中で、自分の顔がさっきよりもずっと、火を噴きそうなほど熱くなっていくのが分かる。
「すみません。俺……ちょっと鼻が利くので、人の感情がわかるんです」
炭治郎くんは、少しだけ申し訳なさそうに、けれどどこか安心させるような微笑みを浮かべて続けた。
「優しくて、温かくて…。でも、どこか切なくて、ぎゅっと締め付けられるような。リサさんからは冨岡さんの話題が出る度にいつも、そんな匂いがします」
――なんということでしょう。
私は絶望に近い羞恥心に襲われ、両手で顔を覆った。その場に
まさか、隠し通してきたつもりのこの恋心が、物理的な「匂い」として漏れ出していたなんて。そんな特殊能力があるだなんて、知らない。
私がかついて居た世界の科学では説明のつかない、この時代の、そして炭治郎くんという少年の持つあまりに鋭い感性に、私は白旗を上げるしかなかった。
「…そんな、こと…。私、そんな匂い、させてたの……?」
「はい。とっても、真っ直ぐで綺麗な匂いです」
炭治郎くんは、悪びれる様子もなくそう断言する。その純粋すぎる肯定が、私の強がりを、積み上げてきた心の壁を、いとも容易く崩し去ってしまった。
三人娘が「やっぱりー!」「好きなんですね!」と、さらに色めき立ってまくし立てる声が遠くに聞こえる。
恥ずかしくて、消えてしまいたくて、でも。
「綺麗な匂い」だと言われた瞬間、ずっと自分の中で身勝手な気持ちだと思い込んでいた恋心が、ほんの少しだけ肯定されたような気もして。
私は覆った手のひらの中で、熱くなった瞳をぎゅっと閉じた。
「安心してください!俺、このことは誰にも言いませんから!」
「……お願いします……っ」
手のひらの中で、それだけを絞り出すように呟く。震える私の声に、炭治郎くんはどこか慌てていた。
自分なりに積み上げてきた秘密は、炭治郎くんという少年の持つあまりに鋭い感性の前では、何の秘密にもならないことが分かった。
いずれ隠しきれなくなるだろうとは思っていたけれど、こんな形でバレるとは。…恥ずかしい。恥ずかしすぎて、明日からどんな顔をして生きていけばいいのだろう。
「あの、リサさん……」
私のあまりの落ち込みようと動揺ぶりに、炭治郎くんが慌てたような、申し訳なさそうな声を出した。
「すみません、俺、余計なことを……」
「……ううん、炭治郎くんのせいじゃないよ……。私が、未熟なだけだよ……」
「いや、そんなことは……」
顔を覆っていた指の間から、恐る恐る炭治郎くんを覗き見ると、彼はどこか心苦しそうな顔で私を見ていた。
そして優しく目を細めて、膝の上の禰󠄀豆子ちゃんの背中をぽんぽんと叩く。
「でも、リサさん。…無理に『違う』って言い聞かせる必要はないんじゃないでしょうか」
「…え?」
「冨岡さんの匂いが……なんとなく……うーん、なんて言うんでしょう。まあ、ただ想い続けるだけと決めるのは時期尚早だと思います」
「炭治郎くん……」
なんて、優しい子なんだろう。フォローの言葉まで、こんなふうに自然に添えてくれるなんて。
私がうまく扱いきれず、名前をつけるのも怖い恋心を、まるで当たり前のものみたいに受け止めてくれている。そのまっすぐさに、胸の奥が少しだけきゅっと縮んだ。
情けない、というより。ちゃんと向き合えていない自分が、少しだけ恥ずかしい。迷って、濁して、気持ちを抱えたまま立ち止まっているのに。
その時、しんみりした空気を打ち破るように、なほちゃんが私の反対側にぴたっと身を寄せてきた。
「あの、私たちも…冨岡さんとリサさんが仲良くしてるの見ると、なんだか嬉しくなります!」
「そうです!冨岡さん、あんなに強くてかっこいいのに、いつも独りぼっちで寂しそうだったから」
きよちゃんとすみちゃんも、私にすり寄るようにして笑いかける。彼女たちの優しさが、張り詰めていた肩の力をふっと抜いてくれた。
「……そっか。…ありがとう、みんな」
それにしても、「独りぼっちで寂しそう」なんて、最強の剣士の一人である冨岡さんに対してなんて言い草だと、可笑しくて私は思わず小さく笑ってしまった。
私が知っている冨岡さんは、静かで、不器用で、言葉は少ないけれど。誰かが傷つけば目を伏せ、誰かが泣けば、理由を問わずに手を伸ばす人だ。
独りぼっちに見えていたのは、もしかしたら――彼自身が、そうあることを選んできただけなのかもしれない。
私はようやく、両手から完全に顔を離した。まだ頬は熱いけれど、夜風が心地よく火照りを鎮めてくれる。
「さあ、そろそろ戻りましょうか。あまり夜更かししていると、アオイさんに叱られます」
炭治郎くんが立ち上がり、膝の上の禰󠄀豆子ちゃんをひょいと抱え上げた。三人娘も「はーい!」「皆さん、おやすみなさい!」と元気よく立ち上がり、寝支度のために部屋へと戻っていく。
一人、最後に残った私は、縁側から見上げる月をじっと見つめた。
"特別"だなんて、なれるとはやっぱり思えないけれど。それでも、炭治郎くんが教えてくれた「私の匂い」を、今日だけは否定せずに、そっと胸の奥にしまっておこうと思った。
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