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「にゃあ」
「わっ、くすぐったいよ」

膝の上に乗ってきた柔らかい毛玉が、私の顎の下にすりっと頭を擦り付けてくる。ざらりとした温かい舌で頬を舐められ、思わず首をすくめて声を漏らした。

ここ最近、どこからともなく中庭にやって来ては、日当たりのいい縁側や庭石の上で丸くなっているこの野良猫。いつの間にかこの屋敷のあちこちに入り浸るようになり、私が中庭でしゃがみ込むと、当然のような顔をして足元へ寄ってくるようになった。
きっと君も、このあたたかくて優しい場所が好きになっちゃったんだね。

「私も好きだよ、この場所。……にゃー吉も?」
「にゃーん」

私の問いかけに応えるように、満足げに小さく喉を鳴らす。
その丸い頭をそっと撫でながら、ふと思いついたことがあって顔を覗き込んだ。

「ねえ、新しい名前つけてみない?」
「にゃあ」
「あられ、とかはどう?」
「……しゃー」
「あはは、名前が気に食わないって顔だね」

あからさまに耳をピシッと後ろへ倒して、不満そうに目を細められてしまった。

「ええ、駄目って?そんなに嫌?いいと思うんだけどな、あられ」

喉のゴロゴロ音もぴたりと止まり、心なしかぷいっと顔を背けられてしまう。どうやら本当に気に入らなかったらしい。
まあ、そうだよね。炭治郎くんも、アオイさんも、三人娘たちも、みんなが親しみを込めて「にゃー吉」と呼んでいる。いつの間にかこの屋敷に定着して、すっかりそれがこの子の本当の名前みたいになっていた。
新しい名前をプレゼントしようと思ったけれど、みんなに愛されて呼ばれているその名前こそが、この子がここにいる理由なのかもしれない。

「分かった分かった、ごめんね。君はやっぱり『にゃー吉』だね」

降参するように苦笑しながら背中を優しく撫で直すと、にゃー吉は満足したように再び「にゃあ」と甘えた声をあげて、私の膝の上で気持ちよさそうに丸くなり直した。

「――リサさ〜ん!」

廊下の奥から、私の名前を呼ぶ声が響く。

「はーい!」

声を張り上げて返事をすると、縁側からアオイさんがひょこっと顔を出した。こちらへ視線を向け、
「よかった、まだいた」
と安堵したように胸を撫でおろす。

「今日も水柱様のお屋敷に行かれるんですよね?」
「はい!行ってきます」
「このお薬を、水柱様に渡してくださいませんか?」
「お薬?」

私が立ち上がると、膝の上にいたにゃー吉は邪魔をしないようにすっと足をほどいて中庭の奥へと去っていった。
アオイさんは履物に足を滑り込ませると、縁側から降りて私のもとへ歩み寄ってくる。その手には、小さな包み紙が握られていた。

「出発前に間に合ってよかったです。ちょうどお薬が切れる頃でしょうから、ってしのぶ様が」
「しのぶさんが……」

その包み紙を受け取り、まじまじと見つめてしまう。
しのぶさん、そんなことまで分かるんだ。蝶屋敷には毎日たくさんの隊士たちが運び込まれてきて、しのぶさんはその全員の診察や治療、薬の調合までこなしている。それなのに、屋敷にいない冨岡さんの薬のタイミングまで把握しているなんて。
私は薬を出し間違えないように包みの名前を何度も確認するだけで必死なのに、本当に頭が上がらない。

「何のお薬ですか?」

手の中にある小さな包み紙を見つめながら、なんとなしに尋ねてみる。
止血剤だろうか、それとも痛み止めや消毒の類だろうか。
以前、冨岡さんから「あまり怪我はしない」と聞いたことがあったから、彼がどんな薬を常用しているのか、私にはまったく想像がつかなかった。
体を労うための栄養剤か何かだろうか、なんて呑気に考えていたのだが。

「睡眠薬です」
「え?」

さらりと告げられたその言葉に、思考が一瞬固まった。
聞き間違いかと思ってアオイさんの顔をまじまじと見返したが、彼女は冗談を言っている風でもなく、少しだけ表情を曇らせて静かに頷いた。



***



爽やかな風が、物干し竿に並んだ白い手ぬぐいを揺らす。
水柱様へのお薬を託し、元気よく蝶屋敷をあとにしたリサさんの背中を見送ったあと。私は籠に残った洗濯物を一枚ずつ手際よく伸ばし、日当たりのいい庭へと干し進めていた。
ぽかぽかと暖かい陽気が心地よく、雲ひとつない青空がどこまでも広がっている。絶好の洗濯日和だ。今日なら溜まっていた布類も気持ちよく乾くだろう。
そんなことを考えながら作業を続けていると、縁側から軽やかな足音が近づいてくる。しのぶ様だ。

「アオイ。リサさんを見ませんでしたか?」
「リサさんなら、つい先ほど水柱様のお屋敷へ向かわれましたけれど……」
「あら。一歩遅かったですか」

そう呟いたしのぶ様は、ほんの少し困ったように指先で眉間をそっと押さえる。
何かあったのだろうかと、私は手元を止めて尋ねてみた。

「何かご用事でしたか?」
「そろそろ、雨が降りそうですから。今日は冨岡さんの屋敷へ向かうのをお休みするように伝えようと思ったのだけれど」
「えっ、雨?」

空を見上げて言うしのぶ様に、思わず私も空を見上げたけれど、目の前に広がっているのは吸い込まれそうなほど澄み渡った真っ青な大空だ。陽光は眩しいくらいに地上を照らし、雨の気配などどこにも感じられない。

「ええ。風の匂いが変わりました。それに、庭の羽虫たちが一斉に低い場所へ逃げ込んでいます。じきに酷い夕立が来ますよ」

藤色の瞳を細め、遠い空の境界を見つめるしのぶ様。
こんなにも晴れているのに、本当に雨なんて降るのだろうか。けれど、生き物や自然の微細な変化を鋭く察知する観察眼。しのぶ様が仰るのだから間違いはないのだろう。

「なら、この洗濯物も取り込んでおいた方がいいですね」

せっかく干した手拭いや敷布を、一枚ずつ回収していく。また部屋干しになってしまった。
水柱様のお屋敷へ向かったリサさんは、無事に辿り着けるだろうか。途中で雨に降られたりしないだろうか。少し心配になる。

「リサさん、無事に帰って来れると良いのですが……」

しのぶ様は空の向こうを見つめたまま、静かに言葉を零した。




***




「なぜ来た」

私からボタボタと滴り落ちる水滴が、土間に小さな水たまりを作っていく。
荒い呼吸のまま、おそるおそる視線をあげると、目の前に立つ冨岡さんは少し眉を寄せて玄関から私を見下ろしていた。
言い訳したい気持ちで胸がいっぱいだ。まさか、こんな酷い雨に降られるなんて思いもしなかった。
蝶屋敷を出たときは、雲ひとつない真っ青な大晴天だったのだ。あんなにも暖かくて気持ちのいい陽気だったのに、冨岡さんのお屋敷まであと少しというところで、まるで空の底が抜けたかのような土砂降りになってしまった。
もちろん傘など持っておらず、あっという間に全身がびしょ濡れになり、遮るもののない一本道をなりふり構わず走ってきたけれど…。
こんな姿で押しかけてしまって、完全に判断を誤ったかもしれない。
息も絶え絶えで屋敷に駆け込んだ私を、冨岡さんはどこかぎょっとした顔で出迎えた。

「す、すみません!急に降りだしたものですから」
「この天気だ。胡蝶が止めると思っていた」
「あ、今朝しのぶさんにはお会いしてなくて……」
「そうでなくとも、今日は来なくていいと鴉を飛ばしたはずだ」
「えっ、そ、そうだったんですか?すみません。入れ違いだったみたいで気づきませんでした」

びしょ濡れの私を見下ろす冨岡さんの表情はいつも以上に硬く、なんだか不機嫌そうだ。私は視線を泳がせながら、しどろもどろに答える。
おかしいな、青空だったんだけどな。そんなに今日の空模様は危うかったのだろうか。私には分からなかった。

「あ、雨が弱まればすぐ帰ります」

以前の冨岡さんの雨と鬼の話を思い出し、先手を打って宣言する。そうでないと、また「警戒心が足りない」などと言って怒られる気がしたからだ。

「それまで玄関の隅っこで雨宿りさせてください」

濡れた髪からポタポタと雫が落ちる。外からは叩きつけるような激しい雨音が屋根を揺らしていた。
沈黙が痛い…。いや、引き返さずにここまで来れば冨岡さんに迷惑がかかることくらい、少し考えれば分かったはずなのに。
着物がぴたりと肌に張り付き、体の芯からじわじわと寒さが押し寄せてくる。
そんな私の足元から顔へ、顔から濡れそぼった髪へと、冨岡さんは無言のままじっと視線を滑らせてくる。眉間の皺は深くなるばかりで、何を考えているのかまったく読み取れない。

「……あの、本当にすみません」
「なぜ謝る」
「なんとなく、冨岡さんが怒っているような気がして……」
「怒ってる」
「……すみません」

やはり怒ってた。毎度毎度、どうして私はこうなのだろう。
日々重いものを背負って戦っている冨岡さんに、自分の浅はかさで無駄な気を揉ませてしまって申し訳ない。

「冨岡さんの鴉まで雨に濡れさせてしまって……」

せめて鴉だけでも、蝶屋敷の軒下でちゃんと雨宿りできていたらいいのだけれど。
怒らせてしまったのだと確信してすっかり縮こまる私に、冨岡さんは静かに息を吐いて言った。

「お前が自分の体を粗末にしていることに怒ってる」

でも、だからといって私が押し掛けて手を焼かせている事実は何も変わらない。自分の身体を案じてくれているのだと分かっても、余計に申し訳なさが広がっていく。

「とりあえず、中に入れ」

しばらく黙っていた冨岡さんは濡れ鼠の私を見下ろしたままぽつりと呟いた。

「だ、大丈夫です。……それに、」

足元にポタポタと落ちる水滴を指差し、慌てて首を振る。

「これじゃ、冨岡さんのお屋敷を汚してしまいますから玄関の隅っこで雨宿りさせてください」

私がこの濡れた着物で上がったら、廊下も畳も水浸しになってしまう。
しかし、冨岡さんはそんな私の言葉にさらに眉間の皺を深くした。

「いいから入れ。……風邪を引くだろう」

少し声を小さくして呟いた冨岡さんに、私は何も言えなくなってしまった。突き放されるより、こんなふうに優しくされる方がずっと効いてしまう。
申し訳なさと、情けなさと、そして胸の奥がきゅっと締め付けられるような何かが一気に押し寄せてくる。
私は唇を噛み締めながら、ただ小さくこくりと頷いた。





「お、お邪魔します……」

小さく一言添え、そろそろと玄関へ上がる。
濡れて足に張り付いた足袋のコハゼをひとつずつ外し、少しでも水分を振り落としてしまわないよう、着物の裾を抱え込み冨岡さんの後ろをついて歩いた。
すり足気味に歩を進めるものの、素足が廊下の板張りに触れるたび、ぺたぺたと情けない音が響いて申し訳ない。

案内されたのは、いつも通されている見慣れた居間だった。
冨岡さんは敷居の手前で足を止めると、振り返りもせずに「少し待っていろ」とだけ言い残し、奥の部屋へと消えていく。
残された私は居間の手前で足を止め、辺りを見回す。この体のまま上がって畳を濡らしてしまうことだけは絶対に避けたい。
頭を少し傾けると、髪から伝う雫がポタリと廊下に落ちる。私は小さく息を吐きながら後頭部に手を伸ばし、束ねた髪を留めていた簪を慎重に引き抜いた。

「びしょびしょだ……」

なるべく雫が跳ねないよう髪を搾るようにして整えていると、奥から冨岡さんが戻ってきた。その手には大きな手拭いが握られていて、わざわざ拭くものを取りに行ってくれたのだと分かる。

「あ、ありがとうございます」

申し訳なくも有り難く、ぺこりと頭を下げ受け取ろうと両手を差し出した、その時だった。
ぽすと頭の上に重みがかかったと思うと、そのまま手拭い越しにごわごわと大きな手で頭を乱暴に揺さぶられる。

「とみおかさん?な、なにを?」
「拭いてる」
「いやっ、あの、自分でやります」
「お前は体を拭け」

隙間から見上げると、もう一つの手拭いを押し付けられるようにして手渡された。
こんな状態で押しかけている手前、抵抗することもできず私は差し出されたそれをおとなしく受け取る。

「すみません……」

濡れた犬でも拭くような無雑作な扱いに、苦笑いがこみ上げてくる。
これ、完全に子ども扱いされてるんだろうなあ。異性としてひとつも意識されてない。
微妙な気持ちになりながら、私は諦めてされるがままになることにした。
襦袢までびっしょりだ。押し当てるようにして首筋や肩、冷え切った腕の表面を急いで拭っていく。しかし、着物の上から叩くように押し当ててみても、布に対しては気休め程度にしかならない。

「これでは追いつかないな」

ぽんぽん、と頭を拭き続けてくれている冨岡さんがそう言った。

「高月、このままだと風邪をひく。風呂に入れ」
「え?」

…お風呂?



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