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その彼女に出会ったのは、たぶん、しのぶさんのささやかな仕掛けだったのだと思う。
いつもなら規則正しく、穏やかで、どこか凛とした空気が漂っているはずの屋敷内が、その日はどういうわけか浮き足だっていた。
朝も、廊下を歩けば、すれ違う療養中の隊士たちが手にした手拭いを落としたり、何もないところでつまずいたりしている。庭でリハビリに励んでいるはずの人たちも、心ここにあらずといった様子で、遠くの部屋の方をチラチラと盗み見ては、顔を赤くして仲間内でひそひそと囁き合っていた。
「……何かあったのかな?」
私はあまりの落ち着かなさに首を傾げ、通りかかった隊士の一人に声をかけてみた。しかし、彼は私の目を見ることもできずにしどろもどろになり、逃げるように去っていってしまう。そのせいで、その理由は分からずじまい。
空を見上げれば、どんよりとした曇り空。およそ"天気がいい"とは言い難い。
不思議に思いながら台所へ向かうと、そこにはいつも以上に眉間に皺を寄せ、凄まじい手際で野菜を刻んでいるアオイさんの姿があった。
「あ、アオイさん。おはよう、ございます。…あの、屋敷のみんなの様子がどこか変なんですけど……」
「知りませんよ。あんな鼻の下を伸ばした連中のことなんて!!」
アオイさんは私の言葉を遮るように、まな板をトンッ!!と強く叩いた。
「さっきから何度注意しても鍛錬は進まないし、全く、男の人ってこれだから……!」
彼女のあまりの剣幕に、「すみません」と小さく謝って台所を後にする。どうやらアオイさんは、この屋敷の異常な空気に対して、呆れているというよりは怒っているようだった。今はそっとしておいた方がよさそうだ。
釈然としないまま廊下を歩いていると、向こうから隊服を整え、背中にいつもの木箱を背負った炭治郎くんがやってくるのが見えた。
「あ、炭治郎くん」
「リサさん!おはようございます」
彼はいつも通りの、太陽のように明るく澄んだ笑顔で足を止めた。周りの隊士たちが浮ついている中で、彼の真っ直ぐな空気だけが変わらずにそこにあることに、私は少しだけほっとする。
「炭治郎くん、これから任務?」
「はい。鎹鴉から伝令が下ったので、これから向かうところです」
「そうなんだ…。怪我も治ったばかりなんだし、無理だけはしないでね」
「ありがとうございます。……あ、そうだ。リサさん、この前は禰󠄀豆子を撫でてくださってありがとうございました」
彼はふと思い出したように顔を赤くし、小声で付け加えた。一瞬、そのときにされた「匂い」の話を思い出して私の心臓も跳ねたけれど、彼はすぐにまた真剣な目をして、私の目を見つめる。
「俺、行ってきます。禰󠄀豆子も、リサさんにかまってもらえて嬉しかったみたいです」
「…そんな、私こそありがとうだよ。気をつけて、禰󠄀豆子ちゃんによろしくね」
手を振って見送ると、彼は力強く頷いて、屋敷の入り口へと駆けていった。
炭治郎くんを見送ったあと、私はそのまま病室の方へ回り、患者さんたちの敷布の張り替えや、飲み水の補充をして回った。
それから庭に干してあった洗濯物を取り込み、一枚ずつ丁寧に整える。けれど、いつもの流れをこなしている間も、やはり屋敷の空気は落ち着かないまま。廊下を走る足音や、遠くで聞こえる「おお…」という感嘆の声。
みんな、本当にどうしちゃったんだろう…。普段は一生懸命に鍛錬をこなしているのに。
ようやく一段落ついたところで、私はしのぶさんから言いつかっていた用事を思い出した。
「朝摘みの薬草を、乾燥させて診察室へ持ってきてください」と言われていたのだ。
私は庭へ向かい、籠いっぱいに詰められた瑞々しい薬草を抱え上げた。
うん、曇りだけどうまく乾いたみたいだ。土の香りと独特の苦い匂いが鼻をくすぐる。
ずっしりとした重さを腕に感じながら、私はしのぶさんがいる診察室の方へと廊下を進んだ。ところが、診察室のある角を曲がった瞬間、その異様な光景に思わず足を止めてしまう。
「な、なに……?」
診察室の扉の前から廊下にかけて、見たこともないような人だかりができていた。
入院着を着たままの患者さんたちや、本来なら鍛錬に励んでいるはずの隊士たちが、何十人も。彼らはまるで示し合わせたかのように息を潜め、診察室のわずかな隙間や、閉ざされた扉を必死に覗き込もうとしている。
「…すごい、本当にきれいな髪だ…」
「今の笑い声、聞いたか?浄化される……」
「いい匂いすぎる……。ここが天国か?」
うっとりとした表情で壁に耳を当てている人、背伸びをして中を伺う人。その執念のような熱気に、私は思わず引き気味に一歩後ずさった。
アオイさんが激怒していた理由が、ようやくはっきりとここで理解できた。
…でも、どうして?確かに、しのぶさんは息を呑むほどに美しい人だ。けれど、ここにいる隊士たちは普段から彼女に診察してもらったり、稽古をつけてもらったりしているはず。今さら、診察室を覗き見るほど熱狂するなんて、どこか不自然に思えた。
今日に限って、しのぶさんが特別な装いでもしているのだろうか。それとも、何か人を惹きつけてやまない血鬼術にでもかかっているのか。
今まで見たこともないような異常事態に、私の困惑は深まるばかり。
「あの、すみません…。通りますよ」
籠を抱えたまま声をかけるが、夢中になっている彼らの耳には届かない。
「す、すみません……」
少し声を張り上げると、ようやく数人が道を空けてくれた。
「すみません、失礼します」と、半ば強引に人混みをかき分け、扉の前へと辿り着く。背後からは「いいな…」という羨望の混じった溜息が聞こえてきて、居心地の悪さに背中がむず痒くなった。
でも、私は用事があってここに来たのだ。中からは、しのぶさんの穏やかな声と、それに応える鈴を転がすような、華やかで明るい女性の声が聞こえてくる。
あれ、来客かな?しのぶさん一人ではないのだと気づき、私は呼吸を整え、失礼のないようにそっと扉を叩いた。
「しのぶさん、リサです。薬草を持ってきました」
「失礼します」そう言って扉を開け、一歩足を踏み入れた瞬間。
そこにはいつもの診察室の穏やかさとは対照的な、圧倒的に華やかな空間が広がっていた。
「あら、リサさん。ちょうど良いところに。実は……」
「まぁっ!しのぶちゃん、この子が噂の!?」
しのぶさんが言いかけた言葉は、隣に座っていた女性の黄色い悲鳴にかき消された。
驚いて顔を上げると、そこには信じられないほど鮮やかで美しい女性が座っていた。
桜餅のようなピンク色から緑色へと変わる不思議な三つ編みの髪。花が咲いたような大きな瞳と、頬を赤く染めた満面の笑み。彼女が立ち上がると、診察室いっぱいに甘い蜜のような香りがふわりと舞う。
「きゃー!かわいい!しのぶちゃんが言っていた通り、とっても守ってあげたくなるような素敵な子だわ!よろしくね!」
「は、はい…!初めまして、高月リサです!」
あまりの熱量と眩しさに圧倒され、私は流されるがまま自己紹介をしていた。しのぶさんがそんな私を見ながら、苦笑しているのが分かる。
「リサさん、紹介しますね。こちらは恋柱の甘露寺蜜璃さんです」
しのぶさんはいつもの穏やかな微笑みで、隣に立つ女性を私に紹介してくれた。
そこで、ようやく全ての合点がいった。あの鼻の下を伸ばしていた隊士たちも、アオイさんの怒りも、すべてこの太陽のように眩しい女性の訪問のせいだったのだと。
甘露寺さんは私の手を取ると(正確には、籠を持っている私の腕ごと)、ぎゅっと温かく包み込むようにして、キラキラとした瞳で覗き込んできた。
「ねぇ、リサちゃん!私、あなたに会えるのをとっても楽しみにしてたのよ!」
「はっはい、ありがとうございます…!」
私は驚きで瞬きを繰り返す。…なんて、素敵な人なのだろう。こんなに可愛らしい人が、柱なんて。
失礼ながら、とても死線を越えてきた人には見えない。それよりも、おとぎ話の中から飛び出してきたお姫様のように見えてしまう。
それに、私のことを知っているような口ぶりだったけれど、しのぶさんが何か私について話したのだろうか。
「あの、私も…!お会いできて嬉しいです…!」
「まぁ!!」
甘露寺さんは頬をさらに赤く染めて、私の手を(やっぱり、籠を持っている私の腕ごと)、ぶんぶんと元気よく上下に振った。
「なんだか私、あなたのこと大好きになっちゃいそう!」
「あ、ありがとうございます…!嬉しいです…!!」
真っ直ぐで濁りのない好意を正面から浴びて、私は戸惑いながらも、自然と顔が綻ぶ。
廊下であれほど隊士たちが熱狂していた理由が、今ならはっきりとわかる。彼女の存在そのものが、この殺伐とした日々の中で、奇跡のような明るい光なのだと。
「あの、しのぶさんと甘露寺さん、今日はどうして……」
「しのぶちゃんとはお友達なのよぉ!こうしてたまーに、お話したくなって会いに来ちゃうの。しのぶちゃんと一緒にお茶をしたり、洋食を食べたり、おしゃべりしたり!いつもとっても楽しくて時間が経つのを忘れちゃうの!」
私の問いに、甘露寺さんは花がほころぶような笑顔で、弾むように答えてくれた。
「…ええ。同じ柱として肩を並べる仲間でもありますが、甘露寺さんとこうして定期的にお話しするのは、私にとっても良い息抜きになってます」
しのぶさんも、甘露寺さんを見る時はいつもの"柱"としての
柱同士の絆。それは、私が想像もできないほど過酷な戦場を共にしてきた者たちにしか分からない、深くて温かいものなのだろうな。
ふと、しのぶさんが何かを思い出したように、私と甘露寺さんを交互に見つめて微笑んだ。
「そういえば、甘露寺さんとリサさんは同い年なんですよ。ご存知でしたか?」
「えっ……!」
私は驚いて、思わず甘露寺さんの顔を凝視してしまった。まさか、こんなに綺麗で、素敵な彼女と私が同じ年だなんて。
「まぁっ!そうなの!?リサちゃんも十九歳なのね!嬉しいわぁ、なんだか運命を感じちゃう!ますます仲良くなれそう!」
甘露寺さんはさらに頬を赤らめて、自分のことのように喜んでくれていた。
私も、勝手に柱は遠い存在だと思っていたのに、急にぐっと身近に感じられて、なんだかそれだけで嬉しい。
未来から来て、戸惑いを感じることも多かったけれど。自分と同じ歳月を生きてきた女の子がこうしている思うと、そんな心細さがふっと消えていく。
「同い年…。わ、私も!なんだか、すごく嬉しいです……!」
私の言葉に、甘露寺さんも「私もよぉ!」と私の手を取って、今度こそ抱きついてきそうな勢いで喜んでくれた。
「あら、お二人仲良くなれそうでよかった」
そう言ってしのぶさんは、弾けるような甘露寺さんの笑顔と、それを受けて少しずつ表情を和らげていく私を、どこか愛おしそうな表情で見つめていた。
そんな彼女を見てると、私はなんだか温かくて少し切ない気持ちになってくる。
もしかして、しのぶさんは…。私に同い年の友人を、わざと引き合わせてくれたのかな。尾崎さんを亡くした私に、太陽のような明るさを持つ甘露寺さんを私に引き合わせることで、未来への繋がりを、そっと手渡そうと……。
考えすぎ、だろうか。けれどそんな時、しのぶさんも何も言わずにただ一度、優しく目を細めて私に微笑んでくれた。
それだけで目に涙が滲んで、私は心の中でその深い配慮に感謝を告げる。
「あら、もうこんな時間!朝からすっかり長居しちゃったわ。お喋りはまた今度にして、今日は帰るわね!またね、しのぶちゃん!リサちゃんも!今度一緒にお茶しましょう!」
ふいに甘露寺さんが、診察室の時計を見て声を上げた。彼女は最後にもう一度だけ私の手をぎゅっと握りしめると、ひらひらと手を振りながら部屋を飛び出していく。
閉まった扉の向こう側から、待ち構えていた隊士たちが「ああっ、甘露寺様…!」と色めき立つ声が微かに聞こえてきて、私は思わず苦笑が溢れた。
まるで、春の陽だまりのような人だな。
「ふふ、本当に賑やかな方ですね」
しのぶさんの呟きに、私も同意するように頷く。
「はい…。なんだか、屋敷の空気まで変わってしまったみたいです」
「ええ。甘露寺さんが来ると、いつもそうなんですよ」
そう言って、しのぶさんは薬草の入った籠を私から受け取り、手際よく布の上に仕分けていく。
その横顔はいつも通り穏やかで、けれどどこか、ほんの少しだけ満足そうに見えた。
「仲良くなれそうですか?」
「………はい。とても」
私がそう答えると、しのぶさんはそれ以上何も言わず、ただ静かに微笑んだ。まるで、それで十分だと言うように。
「さて、リサさん。薬草ありがとうございます。少し休憩してくださいね」
「はい。ありがとうございます、しのぶさんも」
その彼女に出会えたのは、やっぱり、しのぶさんのささやかな仕掛けだったのだと思う。
私は空になった籠を持ち直し、診察室をあとにした。
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