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「着替えはこれを」

手渡されたのは、清潔に使い込まれた紺青色の着流し。

「今朝入れた湯がまだ温かいはずだ。足し湯はしておいた」

引き留める隙もないまま、私の背にそっと手が添えられる。

「石鹸は中にある。湯船に浸かってよく温まれ」

有無を言わさないこの感じ、逆らえる気がしない。何か口を挟もうものなら遮られるのでは。私は申し訳ないと思いながらも、冨岡さんの言う通りに背を押され脱衣所へと入った。
ピシャリと後ろで木戸が閉まると、うす暗い湿り気を帯びた空間に包まれる。私は抱え込んだ紺青色の着流しを脱衣かごへとそっと置いた。
とりあえず、水を吸って重くなった着物をなんとかしよう。
胸元に手をやり、帯締めに指をかけてゆっくりとほどいていく。続いて着物を肩から滑り落とし、肌にぴたりとついていた襦袢まで脱ぎ捨てる。雨で冷え切った肌に脱衣所の湿った空気が触れ、思わず身震いした。
脱ぎ捨てた着物は角に整えてひとまとめに置くと、かごから手ぬぐいを一枚手に取り浴室の引き戸をそっと開けた。
湯気で白く煙る空間に、奥には木枠で囲まれた小ぶりの湯船。

「………」

一瞬ためらいが出たけれど、ここまできたらもう引き返せない。
湯船の横に置かれた木桶を手に取り、お湯を汲み上げる。手拭いを湯で濡らし、石鹸を擦り付けて泡立て、その泡を滑らせるようにして首筋や腕、足をやさしく洗った。
洗い流したあとは、手拭いを固く絞って端に置き、意を決して湯船へと身を沈めた。

「何、やってるんだろう私……」

木の縁に顎をのせ、ゆらゆらと揺れる湯面を見つめる。
雨に降られて駆け込んだ挙句、好きな人の家でお風呂を借りて、しかもその人がさっきまで入っていたであろうお湯に浸かっているなんて。すごく、温かいのだもの。湯がまだ冷めていない。
当の冨岡さんは、ただ目の前で濡れている私をどうにかしようとしてくれただけで、変な意図なんて欠片もないのだろうけど。
湯上がりにどんな顔をして会えばいいか分からない。自分だけが過敏に反応してる気がする。
ただでさえ顔を合わせるだけで恥ずかしいのに。私は一度ざぶん、と湯の中に思いきり顔を沈めた。

「……はぁ」

とにかく冷え切った体をちゃんと温めて、さっぱりした顔で出ていくしかない。
上がったあとの気まずさから少しでも逃げるように、私はもう一度顎までお湯に沈めてそっと目を閉じた。




湯から上がると濡れた身体を拭って、かごに置いてあったあの紺青色の着流しを手に取った。改めて広げてみると、私の体型よりかなり大きい。言うまでもなく、これは冨岡さんのものだろう。
気恥ずかしさを覚えながらもそれを振り切るように頭を振って袖を通すと、案の定、手首も足首もすっぽりと隠れてしまう。

「……冨岡さんの匂いがする」

自分で言っておいて、ぼっと頬に熱が上がった。
いけないいけない、と頭を振りつつ足元を見る。自分の身長にはあまりにも丈が長すぎるため、裾を引きずらないようにお腹のあたりで生地をぐっと折り上げた。なんとか足首が見えるくらいの長さに調節し、位置がずれないようにそのまま広げておいた帯を腰に回し固く結ぶ。
袖はまだ長いけど…まあ、これでなんとか見られる状態にはなっただろう。
両腕を伸ばして着心地を確かめる。彼のかっちりとした体型を物語るような大きめの布地に包まれながら、私は意を決して脱衣所の戸に手をかけた。

「とみおかさん?」

いつもの居間へ向かって廊下を歩いていくと、冨岡さんが屋敷中の雨戸を閉めて回っている最中だった。
こちらの足音に気づいた冨岡さんが、すっと手を止めて振り返る。

「あ、ありがとうございました。お風呂お借りしました」

恥ずかしくなって思わず視線を泳がせながら言うと、冨岡さんの瞳が私が腕の中に抱えている濡れた着物へと落とされた。

「あとで衣桁いこうを出して火鉢を置く。そこに置いておくといい」
「はい。何から何まですみません……」
「大きすぎるか」
「あ、いえ。なんとか着れました大丈夫です」

丈は折り返して帯で固定したから引きずることもないし、身幅だってゆったり包まれているぶんには困らない。手首と足首がすっぽり隠れてしまうくらいで、着られないわけではないのだから。貸してもらった立場として何ひとつ不満なんてないし、心から感謝していた。
そう思いながら答えた私の前で、冨岡さんは一歩、二歩距離を詰めてくる。見上げる私の手元へ手を伸ばし、そのまま何も言わずに私の長すぎる袖口を掴むとくるくると二つ折りに捲り上げてくれた。

「……ありがとう、ございます」
「髪が濡れてる。火が起きるまでそこで待っていろ」
「あの、何かお手伝いできることは……」
「大丈夫だ」

冨岡さんはそう言うと、居間の火鉢の横を顎で軽く示した。
とりあえず言われた通りにしておこうと、私は示された場所へと静かに足を向ける。
普通に話せてるよね。大丈夫、だよね。粗相のないように、変な緊張が伝わってしまわないようにと必死で平静を装っているつもりだけれど、自分がどんな顔をしているか全然分からない。
冨岡さんは普通だから変には思われていないはず…と、自分に言い聞かせるように座布団に腰を下ろし、火鉢に炭をくべ始める冨岡さんの背中をぼんやりと見つめた。

本当に、どこまでもできた人だなあ。
言葉数が極端に少ないから勘違いされることもあるかもしれないけど、こうして関わっていけばいくほど、彼の中に溢れている温もりに気づく。

「そういえば、冨岡さんの鴉はまだ?」

ふと彼が出してくれた手紙の行方が気になり、心配になった。彼の鴉は今頃、この大雨の中を私を探して飛んでいるのではないだろうか。

「俺の鴉は年寄りだ」

手元を動かしたまま冨岡さんが短く答える。

「そうなんですか?それなら尚更、この大雨の中飛ばしてしまったら危ないんじゃ……」
「心配ない。年がいってる分、賢い」
「本当ですか?」
「どこかの軒下で雨宿りしてるはずだ。今日お前に手紙が届かなかったのも、多分そのせいだ」

少し意外だった。冨岡さんの相棒がお年寄りの鴉だなんて。柱の鎹鴉といえば、若くて血気盛んな、勝手にそんなイメージを持っていたけれど。無闇に雨の中へ飛び込まずに自分の身を守る判断ができるのは、長年の経験と賢さがあるからこそなのだろう。
そして何より、そんな鴉の判断を疑いもせず、当然のように信頼して任せている冨岡さんの姿勢がなんだかとても温かい。きっと、深い信頼関係で結ばれているんだ。

「お名前はなんていうんですか?」
「寛三郎だ」
「寛三郎さん……」

おじいちゃん鴉なのか。今度会うことができたらきちんとお礼を伝えないと。
尾崎さんの鎹鴉だった、睡蓮は元気にしているだろうか。残された睡蓮がひどく憔悴しきっていたという話を聞いたことがある。今頃は新しい隊士の傍らで、また元気に空を飛んでいるのだろうか。
とつとつと屋根を叩く雨音が、遠くでくぐもって聞こえる。引きずられるようにして思考の海へ沈みかけていた私を、冨岡さんがじっと見つめていることに気づいた。

「……どうした。寒いか」
「あ、いえ……」

膝の上でぎゅっと握りしめていた自分の手に視線を落とし、慌てて首を振る。

「大丈夫です。ただ、寛三郎さんの話を聞いて、尾崎さんの、尾崎さんの鴉……睡蓮のことを思い出してしまって。残された後とても塞ぎ込んでいたと聞いたので、今はどうしているかなと」

大切な相棒を失った鴉の孤独は、どれほどのものだっただろう。もし今、新しい隊士のもとにいたとしても、その傷が完全に癒えることなんてあるのだろうか。人間でさえ、難しいのに。
冨岡さんは炭を弄る手を止めると、火鉢の向こう側から静かに私を見つめた。その瞳に見つめられると、私の揺れ動く心まですべて読み取られるような気がしてしまう。

「詳しいことは分からないが、あの山で主人を失った鴉なら全員すでに新しい隊士のもとへ就いたと聞く」
「本当、ですか?」
「ああ。傷を癒やしたあと、今は皆それぞれの任務に出ているはずだ」

それだけ言うと、冨岡さんは視線を再び炭火へと落とした。

「……そうですか。なら、よかった……」

睡蓮がもう一度空を飛べているのだと知り、心の底から救われた気持ちになる。
もしかしたら、蝶屋敷で睡蓮に会える機会があるかもしれない。そのときは、尾崎さんの分まで元気に飛んでいるあの子の姿をこの目でしっかりと見届けたい。
冨岡さんはそれ以上追及することもなく、火鉢の炭を整えるとゆっくりと立ち上がった。
押入れから出してきた衣桁いこうを広げ、居間の隅へと設置してくれる。

「これなら乾きそうです。ありがとうございます」

私は抱えていた自分の着物と襦袢を広げ終えると、冨岡さんに笑顔を向けた。
この暖かさなら、夕方までには乾くだろう。なんとかなりそうで一安心だ。
火鉢の柔らかな熱気と、自分の着物から立ち上るほんのり甘い匂いに包まれていると、ここが荒天の渦中であることを忘れてしまいそうになる。
けれど、それ以上に私がどうしても今日中に冨岡さんに渡さなければならないものがあるのだった。
掛けたばかりの自分の着物へ手を伸ばす。雨で外側は濡れてしまったけれど、これだけは濡らさないよう厳重に布で包んで懐に滑り込ませておいたおかげで、中身は無事なはずだ。
取り出すと手応え通り、中の紙包みは少しも湿っていなかった。

「そうだ。冨岡さん、これ。アオイさんから預かってきました」
「……薬か」

差し出された紙包みをじっと見つめ、冨岡さんは呟く。

「はい。しのぶさんがもうすぐ前の分がきれる頃だろうって」

冨岡さんは差し出された包みをその大きな手で受け取り、「さすが胡蝶だな」と言いながら自身の懐へと滑り込ませた。

「冨岡さんって、よく蝶屋敷まで薬をとりに来られますよね。それなんのお薬なんですか?」
「普通の傷薬だ」
「……そうですか」

私は相槌を打ちながら先ほど離れた座布団へ再びそっと腰を下ろした。冨岡さんも、感情の読めない静かな顔のまま座卓を挟んだ向かいに腰を下ろす。
普通の傷薬…。本当にそうだったらいいのだけれど。今朝、アオイさんから手渡されたとき、彼女はたしかに「睡眠薬」だと言っていた。
それが本当なら、冨岡さんはたぶん今、私に嘘をついたのだと思う。
どうしてだろう。それをわざわざ傷薬だと偽ったのは、何か知られたくことがあるからなのか、それとも余計な心配をかけまいとしたからなのか。
追及することなんてできないし、するべきでもない。避けて、遠ざけて、踏み越えないように。近づきすぎてはいけないし、自分が引くべき一線は絶対に踏み越えてはいけない。それでも。

「雨、少しは弱まるといいですね」

心配になってその瞳を見つめても、いつもと変わらない静かな青が広がっているばかりで、その奥にある本当の心境を読み取りたくてもできなかった。









髪もすっかり乾き、自分の着物も火鉢の熱でなんとか着られるくらいには乾いたところで、私はいつものように冨岡さんの出納帳の手伝いを始めていた。
座卓の上に書類を広げ、筆を走らせる。普段ならこれで少しは気が紛れるはずなのに、屋根を叩きつける音雨は刻一刻と激しさを増し、しまいに風までゴウゴウと音を立てて柱を揺らしていた。
ちらりと外の様子を伺い、密かに絶望的な気分になる。

雨が、強くなっている気がするのは気のせいだろうか。
いや、どう考えても気のせいじゃない。さっきより明らかに酷くなってる。

「高月。先月の遠征費、表の欄外にまとめてある金額は何だ」
「…あ、えーっと。それは冨岡さんが立て替えていた移動費と宿代の分を、表の合計とは別で見やすいようにまとめておいたんです。本部へ請求するとき、ここを見れば一目でわかるようにと思って」
「……そうか。助かる」

冨岡さんは納得したように短く頷くと、手元の帳簿へと視線を戻し、再び黙々と目を通し始める。
鬼殺隊の重要な帳簿を前に、いつも通りの落ち着き払った態度で確認を進める彼。その真剣な佇まいに、私は慌てて自分の表情を取り繕った。
冨岡さんは何ひとつ変わらず冷静に作業を進めているというのに。私ときたら天気の心配ばかり。

大丈夫。急に降り出した雨なんだから、急に止むことだってあるはずだ。
何事もなかったかのように平静を装いながら、私は手に持った万年筆に少し強めの力を込め、次の項目の計算へと意識を集中させようと試みた。





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