43


空を上げると、その日もどんよりとした灰色の空。いつになったら晴れるのだろうと、思わずため息が漏れる。
梅雨の時期とはいえ、今日の天気はいつもより機嫌が悪い。空気は湿り気を帯びて肌にまとわりつき、風が吹くたびに、雨の匂いが濃くなっていく。
今にも天の底が抜けて、激しい嵐が降り注ぎそうな、そんな不穏な静けさが満ちていた。

…行けるかな。それとも、今日はやめておいたほうがいいだろうか。
玄関先に腰を下ろし、草履の鼻緒を指で整えながら、一瞬迷いが頭をよぎる。けれど、今日を逃せばまた一週間、あの静かなお屋敷へは行けなくなる。今日は、冨岡さんの出納帳のお手伝いをしに行く日なのだ。
冨岡さんのことだ。私が来なければ来ないで、きっと理解はしてくれるし、何事もなかったかのように一人で淡々と過ごすのだろう。
それでも。お手紙で「今日向かいます」と返事をしてしまった以上、ここで引き返すのも無責任だ。

「よし」

私は気合を入れるように小さく呟き、立ち上がった。そして傍らに立てかけてあった傘を手に取り、しっかりと握りしめる。
雨が降り出す前に、せめて冨岡さんの屋敷の門をくぐれれば。この感じだと雨は降っても、夕方には止むだろう。

「リサさん」

その時、ふいに背後からかけられた声に私は振り返った。そこには軽やかな足取りで廊下を歩み寄ってくるしのぶさんの姿。

「あ、しのぶさん。お戻りでしたか」
「はい、ただいま戻りました。…それより、リサさん。今日は天気が優れないですよ。空を見てください」

しのぶさんは玄関の軒先から身を乗り出し、淀んだ空を見上げた。その瞳には、いつもの穏やかな微笑みの中に、どこか案じるような色が混じっている。

「今日は冨岡さんのお屋敷へ行く日でしょう?無理をして向かわなくても良いのですよ。この様子では、すぐにひどい雨になります」

うーん。やっぱり、しのぶさんの言う通りひどい雨になるのだろうか。今はまだ太陽が少し出ているみたいだから、大丈夫だろうけれど。
以前、冨岡さんにも注意をされた通り、この時代では、太陽の光が届かない場所はすべて鬼の領域になる。大雨が降り、深い雲に覆われ、昼間であっても夜のような影が落ちれば、どこから鬼が飛び出してくるか分からない。
もし、道中で鬼に遭遇でもしたら。剣技も持たない私には、逃げることさえままならないだろう。そうなれば、しのぶさんや冨岡さんにまで多大な迷惑をかけてしまう。

「…そう、ですよね。でも、冨岡さんに行くと約束してしまったので……」
「リサさんがそんなに頑張る必要はないのですよ。あんなもの、あの方自身にやらせればいいんです。大人なのですから、それくらいは自分でできるでしょう」

さらりと、棘の混じったしのぶさんの相変わらずな言い草に、私は思わず吹き出してしまう。

「ふふ、それはいいんです。私もなんだかんだ、あのお手伝いは楽しいので」
「……そうですか」

実際、あの真っ白な帳簿を思い出すと、居ても立ってもいられないような気持ちがあった。冨岡さんがサボっ…、何も書かずに置いてくれていたおかげで、私の仕事はまだまだたくさんある。
ただ、行きたい理由がそれだけだったかと聞かれたら…。正直、胸を張って頷けるかは分からない。あの静かな屋敷で彼と同じ時間を共有したいという、私自身のわがままも一割くらいは混ざっているかもしれない。
私の説明を聞いたしのぶさんは、小さく溜息をつくと困ったように首を振った。

「……そう言うと思っていました。あなたは変なところで頑固ですね」
「えっ、そ、そうでしょうか…?」
「ええ、とても。…分かっていますよ。ですが、約束ですよ。もしもの時は、意地を張らずにすぐ戻ってきてくださいね」

しのぶさんは私の目をじっと見つめ、諭すように続けた。

「もし、屋敷まであと少しというところで降り始めたら、その時は戻らずに冨岡さんのところへ駆け込むんですよ」
「はい、分かりました」

しのぶさんの言葉に、私は大きく頷いた。彼女の心配を現実にしないためにも、ちゃんと無事に行って帰って来よう。
今の自分にできる精一杯を尽くそうと、私は傘を握る手にぐっと力を込めた。

「ありがとうございます。…じゃあ、行ってきます」

今度こそ歩き出そうとした時、しのぶさんが「あ、それから」と私を呼び止めた。そして彼女は懐から、丁寧に布で包まれた小さな包みを取り出しながら言う。

「ついでにこれを、冨岡さんに渡していただけませんか?」
「あ、はい!もちろん」

差し出された包みを受け取るために手を伸ばす。しっかりと託される熱量を受け止めるようにして、私はその小さな包みを掌に乗せた。

「これ、は……?」

何だろう、重みはない。布越しに伝わる硬さとまあるい感触から、なんとなく中に小さな硝子の小瓶が入っていることは分かる。
薬、かな。鼻先をわずかにかすめる、どこか苦い薬草の匂い。屋敷の調剤室の側でいつも漂っている匂いだ。
何の薬だろう…。なぜか胸の奥が、ほんのわずかにざわついた。
理由は分からない。しのぶさんが誰かに託す薬なんて、いくらでもある。冨岡さんは任務が多いし、傷の手当ても、痛み止めも、常備していておかしくない。むしろ、今まで私が知らなかったことの方が不自然なくらいで。
それでも、もし。冨岡さんがどこか怪我をしているのなら…。そこまで考えて、私はたまらなく不安になった。 

「これは薬、ですか?冨岡さん、もしかしてどこか悪いんじゃ……」

聞きたいわけじゃないのに、聞いてしまった。
私が不安げな顔をしていたからだろう。しのぶさんは一瞬だけ目を瞬かせて、それから、私を安心させるように笑った。けれど、その笑顔がほんの少しだけ薄い気がして、私はまた理由のない落ち着かなさを覚える。

「悪い、というほどではありませんよ」

さらりと言う。けれど、さらりとしすぎている。私の掌の中の包みが、急に重くなったような錯覚がした。

「ただ――…」

「え――?」











「なぜ来た」

頭上から降ってきたその低く冷ややかな声に、私は思わず視線をさまよわせた。荒い呼吸のまま恐る恐る顔を上げると、そこには薄暗い玄関先に、どこか呆れたように佇む冨岡さんの姿。
叩きつけるような雨音を背中に受けて、私はしっとりと濡れた身体のまま立ち尽くしてきた。なんとかここに辿り着いたという安堵感も束の間、出迎えの第一声がそれだったことに、あ、失敗したと思った。

「…え、す、すみません。お手紙で今日伺うと約束したので、なんとか雨が降り出す前に着こうと思ったんですけど……」

乱れた息を整えながら、私は震える声で必死に弁解した。
途中までは、本当に大丈夫だったのだ。空は重たく曇っていたけれど、雨粒は落ちてこなくて、風も強くない。
無駄な心配だったな、と胸の奥でひとつ息をついたその矢先だった。
冨岡さんの屋敷が見える角を曲がった途端、堪えていた天の底が抜けたかのように、大粒の雨が勢いよく降り出したのだ。あと数十メートル、あと少しというところで無情にも降り注いだ雨に、私は必死で足を動かした。
刺した傘も意味がないほど横なぶりの雨に、逃げ込むようにして冨岡さんの屋敷の引き戸を開け、玄関に上がり込んだ。冨岡さんはどこかぎょっとしたように目を見開きながらも、そんな私を出迎えてくれた。
けれど、いざこうして目の前に立たれると、自分がいかに無茶をしたかを突きつけられたようで、急に情けなさが込み上げてくる。
冨岡さんはしばらく無言で私を見下ろしていたが、やがて視線をわずかに外して独り言のように言った。

「この天気だ。胡蝶が止めると思っていた」
「あ、はい…。一応、止められはしたんですけど。私が行きたいと我儘を言って、強引に出てきてしまいました……」

しのぶさんの心配を振り切ってまで来たのに、結局この有様だ。合わせる顔がない。
私の言葉に、冨岡さんの眉間にはさらに深い皺が刻まれた。

「そうでなくとも、今日は来なくていいと鴉を飛ばしたはずだ」
「えっ…?そ、そうなんですか?すみません、私…入れ違いだったみたいで、気づきませんでした…」

鴉の伝令まで出してくれていたなんて。
そこまでして「来るな」と伝えようとしてくれていたほど、今日の空模様は危うかったのだろうか。見事に、大雨に降られてしまった。私の勝手な突っ走りがかえって彼の手を煩わせたことに、居たたまれなくなる。
冨岡さんはまた、どこか呆れたように大きく溜息をついた。その重い息に、私は思わず身を縮める。

「約束よりも、まず自分の身を案じろ」

そう言いながら、冨岡さんは私の瞳を射抜くように見つめ、傍らに用意してあった清潔な手拭いを差し出してくれた。

「……風邪を引く」
「あ、ありがとうございます……」

差し出された手拭いを受け取ると、指先がわずかに冨岡さんの指に触れた。雨で冷え切った私の肌とは対照的に、彼の体温は驚くほど高く、そこから伝わる静かな鼓動に心臓が跳ねる。
それを誤魔化すように、咄嗟に受け取った手拭いに顔を埋めた。どこか優しい、このお屋敷特有の清らかな木の香りがする。
髪を抑え、濡れて肌に張り付いた着物の裾を懸命に拭う。その間も、冨岡さんは表情を変えず、玄関先に立ち尽くす私を黙って見下ろしていた。

「帰りはどうするんだ」

不意に投げかけられた問いに、手を動かすのを止めて顔を上げる。
…帰り。確かに言われてみれば、考えてもいなかった。外は先ほどよりもさらに雨脚が強まり、景色は白く煙っている。この土砂降りがすぐに止むとは到底思えない。

「…えっ、と…」
「この雨だ。降り続けば視界はさらに悪くなる。この天候で、一人で戻れると思っているのか」
「か、帰りのことは……考えてもいませんでした」

正直に白状すると、冨岡さんは肺の中の空気をすべて吐き出すような、深い、深い溜息をついた。その沈黙が、私の不用心さと無計画さをより一層、これでもかと突きつけてくる。
だって、前にお手伝いをした時に見たあの膨大な領収書が、ずっと頭から離れなかったのだ。仕方ないじゃないか。
いつも任務で忙しい冨岡さんが、事務作業まで一人で抱え込んでいる。少しでも早くそれを整理して、負担を減らしてあげたい。その一心で、今日ここに来ることばかりを考えていた。
そんな無鉄砲な熱意をそのまま口にするのは、また怒られてしまいそうで、今の私にはできないけれど。

「とりあえず、上がれ」

冨岡さんは背を向け、私を屋敷の奥へと促した。突き放すような冷たさはないけれど、甘やかすような温かさもない。

「…すみません。お邪魔します」
 
私は小さく頭を下げ、冷え切った足で板張りの廊下へ一歩踏み出した。背後でピシャリと閉じた引き戸の音が、外の世界の雨を遠ざける。
案内されるままに冨岡さんの背中を追う。懐に忍ばせたあの小さな包みが、音を立てかさりと揺れた。
そんな沈黙に耐えきれなくなって、私は彼の背中に向かって、消え入りそうな声で問いかける。

「…あの、冨岡さん。怒って、ますか…?」
「怒ってないように見えるか」
「……はい。すみません」

冨岡さんの有無を言わせぬ問い返しに、私は亀のように首をすくめた。
前にも「警戒心が薄い」とあんなに低く厳しい声で言われたばかりなのに。一週間と経たないうちに、また同じ理由で彼を盛大に不機嫌にさせてしまった。
もうすぐ二十歳の人間として、もう少し落ち着いた行動ができるはずなのに。彼が関わることになると、どうしてこうも猪突猛進というか、余裕がなくなってしまうんだろう。

「…いつも、ご迷惑ばかりすみません」

一歩前を行く冨岡さんの広い背中を、私は反省と気まずさで半泣きになりながら見つめる。
彼は何も言わないけれど、「分かっているなら、なぜやったんだ」という無言の圧で満ち満ちていて、私はしゅん。と縮こまった。

案内された居間に辿り着くと、冨岡さんは「そこにいろ。火をおこす」とだけ短く命じ、手慣れた様子でいろりに火を入れ始めた。
ただの雨でそこまでは、とも思ったけれど、私は言われた通り座卓の端っこに小さくなって座り、彼が火を熾すのを眺めた。
ふと、懐の小さな包みにそっと手を当てる。この不器用で、怒ると怖いけれど、誰よりも私の身を案じてくれる彼へ、しのぶさんのこの薬をどう渡すべきか。
パチパチと薪が爆ぜる音を聞きながら、私はしばらく思い悩んでいた。

一方で、冨岡さんは無言のまま、鉄瓶を火にかけると、手慣れた動作で茶器を机の上に並べ始めた。
私のために、お茶を用意してくれているのだろうか。

「冨岡さん。あの、本当にすみませんでした。鴉まで飛ばしてくださっていたのに」

私がもう一度謝ると、彼は茶碗にお茶を注ぐ手を止めずに短く答えた。

「…もういい。届かなかったのなら、仕方がない」

トクトクという静かな音と共に、立ち上る湯気が彼の横顔を白くぼやけさせる。
冨岡さんは自分の分と私の分の茶碗を盆に乗せると、私の目の前にそっと置いた。

「ありがとうございます」

差し出された茶碗を両手で包み、一口啜る。熱いお茶が胃のあたりからじんわりと体温を底上げしてくれて、美味しい。
一息ついたところで、私はふと気になっていたことを口にした。

「でも、鴉の伝令に気づけなかったなんて…。私、今日は蝶屋敷ではずっと庭や廊下の側にいたはずなんですけど…」

私の問いに、冨岡さんは茶碗を口に運ぼうとした手を止め、わずかに視線を泳がせた。

「……俺の鴉は、少し年寄りだ」
「え、はい。そう、なんですか…?」
「寛三郎という。たまに…いや、頻繁に方角を間違えたり、伝令そのものを忘れたりする」

意外な告白に、私は目を丸くした。
柱ともなれば、その鎹鴉もさぞかし優秀で鋭い個体なのだと勝手に思い込んでいたけれど。冨岡さんの相棒が、まさか道に迷うおじいちゃん鴉だなんて。

「おそらく、そのせいだな。先日も、任務の場所とは全く違う方向に飛んでいってしまって探し出すのに苦労した」
「そ、そうだったんですか…。じゃあ、今日もどこかで道に迷っちゃったのかもしれませんね」

…大丈夫だろうか。どこかで、ちゃんと雨宿りできているのかな。
私ですら、あの距離で結構濡れてしまったのに。小さな寛三郎さんにとって、今の外の世界はどれほど過酷だろう。どこかの軒下で、羽を丸めて雨が上がるのを待てているといいけど。

「でも、冨岡さんらしいです。その鴉さんをとても大切にされてるんですね」
「…そう、かもしれない。代わりの鴉を寄こすと言われても断った」

冨岡さんの不器用な誠実さが詰まってる。能率や正しさだけを求めるなら、もっと若くて優秀な鴉に変えればいい。
けれど彼は、間違えても、忘れても、ずっと共に歩んできたその老いた相棒を、静かに受け入れ続けているのだ。

「寛三郎さんも、きっと冨岡さんのことが大好きなんですね。……あ、お茶、美味しいです」

私がそう言うと、冨岡さんは「そうか」とだけ短く答えた。
外の雨はまだ激しく屋根を叩いているけれど、居間を包む空気は、温かいお茶の湯気と一緒に少しずつ柔らかくなっていく。
そうやって少しずつ落ち着きを取り戻していくと、着物の懐にあるあの硬さが、再び存在を主張し始めた。
お茶を一口飲み込んで、私は意を決して切り出すことにした。

「…あの、冨岡さん。実は私、しのぶさんから預かってきたものがあるんです」

私は懐から、丁寧に布で包まれた小さな包みを取り出した。

「これを、冨岡さんに渡してほしいと頼まれました」

冨岡さんは茶碗を置き、私の手元にある包みをじっと見つめた。それから、静かな手つきでそれを受け取る。
指先が包みを解き、中から現れた硝子瓶を確かめると、彼はわずかに目を細めた。

「…さすが胡蝶だな」

そして独り言のように、どこか感心したような響きを混ぜてそう呟く。
その肯定を聞いて、私は蝶屋敷の玄関先でのしのぶさんの言葉を思い出していた。

『あの方、いつも自分の体のことは後回しにするんですよ。以前処方した薬が、そろそろ切れているはずですから』

しのぶさんはその時に、この薬が何のためのものか教えてくれた。
…睡眠薬、なのだそうだ。それを知ってしまったからこそ、私は喉元まで出かかった問いを、必死に飲み込んだ。

"冨岡さん。あまり、眠れていないんですか…?
もしかして、辛いことでも…?"

そう聞けたら、どんなに良かっただろう。けれど、目の前で静かに小瓶を見つめる冨岡さんの横顔を見ていると、その問いを口にするのはなんだかいけないことのような気がした。
医者でもない私が、口を挟むことではない。私にできるのは、彼の負担を少しでも減らせるよう、隣でお手伝いをすることだ。

「…冨岡さん」
「何だ」
「今日、来られてよかったです。雨には降られちゃいましたけど、その薬も無事に渡せましたし、寛三郎さんについても知ることができました」

私が聞きたかった問いをすべて伏せて、ただ真っ直ぐにそう告げた。冨岡さんは一瞬だけ意外そうに私を見つめていたが、やがて「ああ」と短く答え、小瓶をそっと懐へと仕舞い込む。
私はその様子を見て、言葉の代わりにふわりと微笑みを返した。
外ではまだ激しい雨が屋根を叩いている。

「あの、お茶をいただいたので、そろそろ出納帳のお手伝いを始めますね」
「…ああ。頼む」

少しだけ軽やかになった空気の中で、私たちは雨が止むのを待つように、静かに帳簿の山へと手を伸ばした。




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