45
「……冨岡さん。もう一度、言います。私は客間か、道場の隅で構いません」
私はできるだけ落ち着いた声で、切実な思いを込めて冨岡さんを見上げた。
畳の上に敷かれた布団。穏やかなお茶の時間は終わり、なぜか今、この一組しかない寝床を巡って、静かな、けれど譲れない攻防が続いている。
「道場も客間も、この嵐では冷える」
冨岡さんは正座のまま、まっすぐこちらを見据えてそう言った。
「絶対に、おかしいです」
「何がおかしい。この屋敷には、布団はこれ一式しかない」
「こんなに広いお屋敷なのにですか?」
「人を泊めることなど、これまで一度もなかったからだ。そもそも、お前が泊まることになるとも思っていなかった」
これ以上ないほど潔い言い分に、私は心の中で天を仰いだ。
蝶屋敷には、数え切れないほどの寝床があって、誰かしらが常に出入りしているというのに。
ここにも、隠の人たちが定期的に手入れに来ているはずだ。生活感が極限まで削ぎ落とされているのにも程がある。
「一つしかないなら、当然冨岡さんが……」
「お前が使え。俺はそこの床で寝る」
冨岡さんは驚くような軽さで、とんでもない自己犠牲を口にした。
「そ、そんなことできません。今日一日、私がどれだけお世話になったと思っているんですか」
私は膝の上で、借り物の浴衣の袖をぎゅっと握りしめた。
家主を冷たい床の上に転がして、自分だけがふかふかの布団で眠る?そんな暴挙、到底許されるわけがない。
「女を床の上に寝かせるわけがないだろう。いいから、さっさと横になれ」
「嫌です。それって、冨岡さんが代わりに『床』で寝るってことですよね?家主である冨岡さんに、そんな不摂生をさせるわけにはいきません」
「不摂生ではない。任務先では野宿も珍しくない。畳の上なら、マシな方だ」
「そういう問題じゃないです。私は蝶屋敷の居候で、冨岡さんは柱なんです。立場的にも、道徳的にも、私が床で寝るのが筋だと思います」
私が一歩も引かずに食い下がると、冨岡さんは広げた布団の前で、これ以上ないほど深いため息を吐いた。
電球の光に照らされた彼の眉間には、深い、深い皺が刻まれている。
「……本当に、お前は変なところで頑固だな」
「変じゃありません…!」
「こういう時も、さらりと流されてくれれば良いものを」
困り果てた、という声。冨岡さんは膝に手を置き、困惑しきった瞳で私を見据えた。
…あれ、今朝しのぶさんにも同じことを言われた気が。けれど、ここで折れるわけにはいかない。私は「絶対に無理です」と、正座のまま布団から数歩下がり、全力の拒絶姿勢を示した。
どうして、こんなに拉致があかない言い争いになっているのか。そもそもは、私が「道場で寝る」なんて言い出したのがきっかけだった。あそこなら、隅っこで丸まっていれば邪魔にならないと思ったのに。その提案をした瞬間、冨岡さんはまるで、信じられない生き物を見るような目で私を凝視したのだ。
そのまま、言葉を挟む隙も与えず、彼は私の腕を掴んだ。有無を言わせない強さで引かれ、廊下を足早に進み、連れてこられたのがこの寝室だった。
『お前はここで寝ろ』
拒絶を許さないトーンで命じられ、もちろん、受け入れられるはずもなく。今こうして一組の布団を挟んで正座で対峙している。
彼は、私を「客人」として扱おうとしてくれているのだろう。その優しさは痛いほど伝わってくる。
けれど、今日一日の自分を振り返れば、お礼を言いたいのは私の方なのだ。散々迷惑をかけておいて、挙句の果てに家主である彼を冷たい畳の上に追いやって、自分だけがふかふかの布団にくるまるなんて。そんなの、考えるより先に良心が小さく悲鳴を上げていて、受け入れる、なんて選択肢は持てない。
ぐるぐるとフル回転で思考を巡らせていた私の脳裏に、ふと、ある閃きが走った。
「あ、こ、こうするのはどうですか?冨岡さんが布団を使ってください。私は、同じ部屋の畳の上で寝ます。手拭いでも敷けば十分です。これなら、寒さも少しは和らぎますし……」
「お前は」
遮るように落とされた冨岡さんの声は、これまでになく重たい響きを帯びていた。その一言だけで、空気がすっと引き締まる。
見上げた蒼い瞳は、静かで、深くて、どこか底が見えない。
「不用心だ」
「え?」
「同じ部屋で寝る…?男の俺の、手の届く場所でか」
「……あ」
言われてから少し遅れて、言葉の意味が胸に落ちてきた。頬の内側にじわりと熱が広がる。
…ちがう。私は、そんな意味で言ったんじゃない。寒さのことを考えていただけで、寝る場所の話をしていただけで。それ以上でも、それ以下でもなくて、他意なんて欠片もなかった。
そもそも――冨岡さんが、そんなことをするはずがない。
「だって、冨岡さんですもん。そのあたりは全く心配してないというか、変なことなんてしないって、信じてるから……」
そんな発想すら、私の中にはなかった。
これまで冨岡さんが見せてきた背中や、言葉少なに、それでも確かに向けられてきた配慮の数々。
この人は、誰かを踏み越えてまで自分の欲を優先する人じゃない。そういう確信だけが、揺るぎなく私の中にある。
「そのつもりがないことは確かだ。だが、それでもお前はもう少し…」
冨岡さんは視線をわずかに逸らし、困惑を滲ませた声でぽつりと呟いた。
けれど、私はその不器用な忠告が嬉しくて、ついへらりと笑ってしまう。
「警戒心を持つべきだ、ですか?でも冨岡さんに対しては、不思議と警戒心なんて湧いてこないですよ。安心しきってます」
「……」
言ってから、少しだけ間が空いた。
冨岡さんは何も返さず、片手でぐっと眉間を揉む。そして、これ以上何を言っても無駄だ、とでも言いたげな深い深い溜息が部屋に落ちた。
「だって冨岡さん、いつも私を心配してくださってますよね」
私の唇からこぼれたその言葉に、眉間を揉んでいた彼の指先が、ぴくりと止まる。
「…それでも、布団は使え。俺が道場で寝る」
「それは、絶対に駄目です」
私はぶんぶんと首を振った。道場なんて、この嵐の中では外と同じくらい冷え込むはずだ。いくら"柱"とはいえ、生身の人間がそんな場所で夜を明かして、風邪を引かない保証なんてどこにもない。
「冨岡さんが風邪を引いたらどうするんですか。それに、家主をそんな場所に追いやって、私だけがふかふかの布団でぬくぬくと寝るなんて…できませんよ!」
「…道場で寝ると言い出したのは誰だ」
「あ、え……と、とにかく!恩を仇で返すような真似は、私の良心が許さないんです。これ以上ごねるなら、私も一緒に道場へ行きますからね!」
なかば脅しのような言葉を投げつけると、冨岡さんは困ったように視線を彷徨わせた。
今の発言、すごく上から目線だったかも。けれどもここで負けてはいけないと思った。
私に譲る気がないとわかったらしい冨岡さんは、何度目かの、そして先ほどよりもさらに重たい溜息を吐き出した。
「……分かった」
これ以上何を言っても無駄だと悟ったのか、冨岡さんは折れるようにそう呟く。
「え、本当ですか…!?」
私がパッと顔を輝かせると、彼は私の喜びなど意に介さない様子で、広げたばかりの布団の一式を見下ろした。
「掛け布団はお前が使え。俺は下だけで十分だ」
「え……?掛け布団と敷き布団を、分けるってことですか?」
予想だにしない提案に、私の思考が一瞬停止する。布団一式をまるごと冨岡さんが使うのではなく、文字通り「半分こ」にするというのだ。
私がふわふわの掛け布団に包まり、彼は畳の上に敷かれた薄いマットレスのような敷き布団に横たわる。
「あの、でも、それじゃあ冨岡さんは実質、畳の上に寝るのと大差ないんじゃ……」
「お前はもう、黙ってろ」
ぴしゃりと言い捨てられたその一言に、私は反論の言葉を飲み込んで押し黙った。怒っているのとは少し違う、けれどこれ以上の追及を一切許さないという強い拒絶。
冨岡さんは立ち上がると、私の反応を待つこともなく、広げられたばかりの布団の一式に手をかける。どこか苛立ちをぶつけるような雑な動作。彼は大きな掛け布団を無造作にひっ掴むと、そのまま入り口に近い障子のすぐ傍へと放るようにして広げた。
それから、重い敷き布団の端を掴み、ずるりと音を立てて部屋の反対側――最も奥まった壁際へと引きずっていく。ガサリ、と布が擦れる音だけが、気まずい沈黙の中に響いた。
その配置を見て、なんだか胸の奥がむず痒くなる。
入り口に近い、逃げ場の確保された場所へ掛け布団を…。口では「黙ってろ」なんて突き放しておきながら、その行動の端々には、私を気遣う彼なりの不器用な誠実さが溢れていた。
冨岡さんは壁際まで敷き布団を運ぶと、一度もこちらを振り返ることなく、そのまま電球へと手を伸ばす。
「明かりを消すぞ」
有無を言わせない響き。私が「はい」と答える間もなく、パッと視界が完全な闇に塗りつぶされた。
途端に、外の嵐の音が耳元を
冷たい…。ううん、温かい…のかな。ふかふかの掛け布団に包まれると、そこには冨岡さんの残り香が、清潔な石鹸の匂いと一緒に微かに残っていて。
不思議とその香りに包まれていると安心して、うとうとと微睡んでくる。気づいたときには、私は意識を手放していた。
*
――どん、と。
胸の奥を叩くような衝撃と一緒に、ふと意識が浮上した。嵐に混ざって、雷が屋敷のすぐ近くに落ちたのだと分かる。
今のは、相当近くに落ちた。そう思ったところで、ようやく自分が横になっていることを思い出した。暗い天井を見上げながら、ゆっくりと瞬きをする。
…そうだ。ここは、冨岡さんの屋敷だった。一組しかない布団を巡って彼と押し問答の末、私は入り口近くの畳の上、彼から借りた掛け布団に包まって眠りに落ちたのだ。
けれど、何かがおかしい。深い闇に包まれた部屋の中で、私はふと、自分の身体を包み込む感覚の違和感に気づいた。
…痛くない。畳の上に直接寝たはずなのに、背中にあの硬い感触が一切ないのだ。それどころか、身体のどこにも余計な力がかからないほど、全身が柔らかい何かに包まれている。
戸惑いながら、暗闇の中でそっと手を動かした。指先が触れたのは、しっとりと重みのある布の感触。
下には、ふかふかの敷き布団。上には、厚みのある温かな掛け布団。私はなぜか今、畳の上ではなく、完璧に整えられた布団の中に収まっていた。
「……っ」
飛び起きるようにして身体を起こした拍子に、肩から掛け布団がするりと滑り落ちた。
…どうして。まさか、冨岡さんが運んでくれたの?
パニックになりそうな頭で、必死に部屋の反対側、壁際へと視線を走らせる。けれど、そこにはもう彼の姿はなかった。彼が寝るはずだった敷き布団も、今は私の身体の下にある。
部屋には私一人の呼吸の音と、嵐の
「冨岡、さん……?」
掠れた声で呼んでみたけれど、返事はない。
まさか私を布団に寝かせて、自分は本当に道場へ行ってしまったのだろうか。あの、凍えるような冷たい床の上に。
「…嘘」
いてもたってもいられず、私は寝乱れた浴衣を整えるのもそこそこに、真っ暗な廊下へと飛び出した。
足の裏から伝わる床板の冷たさ。暗い廊下を走り、雨風の音がより激しく聞こえる道場へと向かった。
けれど、そこはただ暗く広く、しんと静まり返っているだけだった。彼の気配も体温も、どこにも残っていない。心細さが雨足とともに強まっていく。
不安に突き動かされるまま、今度は居間の方へと足を向けた。曲がり角を抜けた、その先。
「……あ」
暗闇に慣れた瞳に、細い光が飛び込んできた。
居間の障子。その隙間から消し忘れたのか、あるいは誰かが起きているのか。柔らかな橙色の光が、ひっそりと廊下へ漏れ出していた。
そっと、音を立てないように障子の端を指で引く。その光のなかに、冨岡さんの背中があった。
冨岡さんは居間の座卓に向かい、背筋を真っ直ぐに伸ばしたまま、静かに筆を走らせていた。私が声をかけるよりも早く、筆を持った彼の右手が、ぴたりと止まる。
「…目が覚めたのか」
振り返ることもなく、彼は凪いだ声で言った。まるで最初から、私がそこにいるのが分かっていたかのような落ち着き。
私は気圧されながらも、開けた障子の隙間から室内に足を踏み入れる。
「……はい。大きな雷が鳴ったので」
「眠れないか」
ようやくこちらを向いた冨岡さんの顔は、行灯の光に半分ほど影を落としていた。
「いえ、そうじゃなくて……。冨岡さんは、何をされているんですか?」
少しだけ声を低くして、私は冨岡さんの手元を覗き込むように尋ねた。
こんな夜更けに、一人で。溜まっていた書類仕事だろうか。けれど、夕方に私が手伝って、今日の分はすべて終わらせたはずだった。
「懐中帳に、明日以降の予定を書いているだけだ」
彼は淡々と、手元にある小さな手帳のようなものを指した。
鬼殺隊としての記録、あるいは個人的な日記のようなものだろうか。けれど、筆を置いた彼の指先は、どこか強張っているようにも見える。
「こんな、夜中にまでしないといけないことなんですか?」
私の問いに、冨岡さんは少しだけ視線を逸らし、黙り込んだ。その、わずかに泳いだ視線に、言いようのない違和感を覚える。
鬼殺隊の活動時間は夜が主だ。昼夜逆転の生活など当たり前で、深夜に起きていること自体は彼らにとって不自然なことではない。
けれど、何かが引っかかる。今、目の前に座っている冨岡さんの周りだけ、空気の密度が異様に濃いのだ。
まるで深い霧のなかで一人、出口を探しているような。そんな、ひどく危うい静謐さ。
「早く向こうに戻れ。お前は少しでも長く、身体を休めておけ」
諭すように言われる。
けれど私は動けなかった。
「冨岡さんは、寝なくていいんですか?…それに、どうして私を布団へ運んだりしたんですか。私は、畳の上でいいって言ったのに…」
私の追及に、彼は一度だけ深く息を吐き、静かに応じた。
「…俺は、多少眠らなくても平気だ」
その言葉が、雨音の隙間を縫うようにして、重く私の胸に落ちる。
それが単に、普段から眠りが浅いだけなのか。いつもは静かな屋敷に、慣れない他人がいて気が散っただけなのか。それとも、生まれつき睡眠時間が短くても平気な体質なのだろうか。可能性はいくつもあった。けれど…。
眠らなくても、平気?その響きがあまりに空っぽで、私の心臓は不吉な予感に掴まれたみたいに、きゅっと冷たく縮こまる。脳裏をよぎったのは、今朝、蝶屋敷を出る時のしのぶさんの顔。
『あの方、いつも自分の身体のことは後回しにするんですよ。以前処方した薬が、そろそろ切れているはずですから』
あの時しのぶさんが浮かべた、慈しむような、けれどどこか諦めたような微笑み。
まさか。そんなはずはない。そう思いながらも、私は震える唇を動かしていた。
「眠らなくても平気……って。どういうことですか」
「文字通りの意味だ。俺は昔から、あまり深く眠りに落ちる質ではない。一晩くらい、どうということもない」
淡々と告げられたその言葉に、私は絶句した。いつも凪いだ水面のように静かな彼の瞳の奥に、私は触れてはいけない深淵を見てしまったような気がした。
でも、これですべてが繋がった気がする。しのぶさんが、なぜあんなに念を押して私にあれを託したのか。
「…冨岡さん」
私は、彼から目を逸らさなかった。行灯の淡い光の下、影を落とした彼の端正な顔立ちを、今度は私の方から射抜くように見つめ下ろす。
「それは……しのぶさんから預かった、あのお薬と……何か関係がありますか?」
その瞬間、冨岡さんの動きがぴたりと止まった。瞳が、驚きに大きく見開かれる。重苦しい沈黙が、部屋を支配した。
彼がこれまで誰にも悟らせまいと、心の一番深い場所に隠してきた傷口に、私が真っ直ぐに指を触れてしまった。そんな、痛々しいまでの動揺が、彼の瞳の揺らめきとなって伝わってくる。
激しい雨音が屋敷を震わせるなか、私は衝動に突き動かされるようにして、彼の指の間からその懐中帳を奪い取った。
「高月」
冨岡さんが小さく声を漏らすが、構ってはいられない。私は震える指先で、墨の匂いが残る紙面をパラパラと捲り始めた。
明日の予定を書いてある、という彼の言葉通り、そこには日々の任務や覚え書きが、冨岡さんらしい潔い文字で淡々と記されている。
どこの地域へ向かったのか、移動に何日を費やしたのか。鬼との遭遇、討伐までの経緯、そして次の目的地。
昨日も、そのまた前の日も、さらにその前の日も。捲っても、捲っても、現れるのはおびたただしい数の「鬼」の文字。
まさか、これ……冨岡さん、全部一人で?
「冨岡さん」
恐る恐る顔を上げると、彼はどこか観念したように、いつもの感情のない表情で私を見つめていた。その底の見えない蒼い瞳とぶつかり、私は小さく息を呑む。
「これは、どういうことですか…?」
「何がだ」
「……何がだ、じゃないですよ」
私は、ぎっしりと文字が詰め込まれたその頁を、彼の目の前に突きつけた。
そこにあるのは、もはや「予定」と呼ぶにはあまりに過酷な、狂気じみた記録。
「昨日の夜は北の山で、今日の明け方にはもうこの町へ…?それで明日の早朝にはもう別の村に移動…。冨岡さん、もしかして一人だけ一日が四十八時間あったりしませんよね?…普通の人間がこなせる日程じゃないです、これ」
「大丈夫だ。体力だけはある」
「そういう問題じゃないです!ブラック企業の標本か何かですか!?ていうか、倒れたらどうするんですか!」
「ぶらっ……?」
思わず口走った未来の言葉に、冨岡さんは怪訝そうに首を傾げる。けれど、今の私にはそれを説明する余裕なんて一ミリも残っていなかった。
「いくら冨岡さんが強いからって、こんなのいつか絶対に倒れちゃいますよ!!」
叫ぶように言い放ったあと、私は再び手元の懐中帳に視線を落とした。そこに並ぶ文字の羅列が、まるで彼を縛り付ける鎖のように見えて、胸の奥がじりじりと焼けるように痛む。
…おかしい。絶対に、何かがおかしい。
脳裏に浮かぶのは、蝶屋敷で日々忙しく立ち働くしのぶさんの姿だ。彼女だって、寝る間を惜しんで薬を調合し、任務に赴き、屋敷の管理をこなしている。けれど、彼女は"効率"を知っている。
部下に任せ、定期的に身体を休め、倒れないための管理を自分自身に課しているのだ。最悪、昼に数時間の仮眠を取れば、夜には万全の状態で鬼を狩りに行ける。そうやって、鬼殺隊という組織は回っているはずだった。
けれど、この懐中帳に記された冨岡さんの毎日はどうだ。昼は移動と報告、夜は討伐。ページをどれだけ遡っても、彼が"休息"のために割いた時間は、紙面のどこにも見当たらない。
まるで、立ち止まることそのものを自分に禁じているかのような。あるいは、眠りに落ちる隙間さえも、わざと仕事で埋め尽くしているかのような――。
いつ、休んでいるの? しのぶさんが「あの方は自分を後回しにする」と言った理由が、今、最悪な形で腑に落ちてしまった。
彼は自分の身体を後回しにしているのではない。「自分を労る」という権利を、とうの昔に放棄してしまっているのだ。
行灯の淡い光に照らされた彼の端正な顔立ちは、相変わらず静かで、美しい。けれど、その奥に潜む「眠らなくても平気だ」という言葉の正体は、強靭な体力などではなく、自分を極限まで追い詰めなければ生きていられない、悲しいほどの強迫観念だったのではないか。
「……冨岡さん。まさか……」
震える声で、私は彼の名前を呼んだ。懐中帳を握りしめる指先にじわりと嫌な汗が滲む。
「不眠症、なんですか?」
前へ 次へ
目次へ戻る