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「おかしいです。おかしいですよね?」
「何もおかしくはない」
「お、おか、おかしいですよぉ……!!絶対おかしい!!」

誰か、冨岡さんを止めて欲しい。
畳一枚を隔てた壁際に追い詰められながら、私は必死の抵抗を続ける。
原因は、私の目の前に広がるたった一組の布団である。私は布団の左側の端を掴み、冨岡さんは右側の端を掴んだまま、お互いに一歩も引かずに見つめ合っていた。

「女を床で寝かせるわけないだろう」
「だ、駄目ですよ!冨岡さんどこで寝るんですか?!」
「俺は客間か道場で」
「いや駄目ですよ!それって冨岡さんは床で寝るってことですよね?!家主にそんなことさせられません……!!」
「心配ない。慣れてる」
「そもそも、こんなに広いお屋敷なのになんで布団が一組しかないんですか!」
「人を泊めることなど、これまで一度もなかったからだ」

そう、そもそもこうなっている原因はこれだ。
ただでさえ押しかけて世話をかけている身。これ以上迷惑をかけないよう良かれと思って「道場で寝かせて欲しい」と言ったら、瞬間、険しい表情をした冨岡さんに連行されるように、なぜかこの寝所へ連れて来られた。
ここで寝ろと言われ部屋を見渡すが、明らかに客間ではなく冨岡さんがいつも使っているであろう寝室。広い室内に敷かれているのはぽつんと一組の布団だけ。
予備の布団が出てくる気配もないので、焦って『冨岡さんはどこで寝るんですか』と尋ねたら、彼は当然のように『布団はこれしかないから俺は別の部屋で寝る』と言い放った。
私は飛び上がった。なんて爆弾発言をしてくれるのだ、この人はと。
慌ててブルブルと首を横に振る。

「だ、断固拒否します……!」

冨岡さんの手はしっかりと布団を掴んでいて、引き剥がそうにも引き剥がせない。掴み方は優しいのに力が強い。
私に出来る抵抗と言えば、その場に座り込んで布団を彼に押し返すことだった。
そして、話は冒頭へ戻る。

「高月。いい加減もう諦めろ」
「あの、なので!私は道場で!おかしいですよ冨岡さん、普通は家主が布団で寝るんです……!」
「早く布団に入れ」
「え、お、おかしい!冨岡さんさっき、部屋は余ってるから好きに使えばいいって言ってたじゃないですか!布団一枚しかないなら、私が道場ですよ!」
「そんなことは言ってない」
「横暴です……!」

蝶屋敷には、数え切れないほどの寝床があって、誰かしらが常に出入りしているというのに。
ここにも、隠の人たちが定期的に手入れに来ているはずだ。生活感が極限まで削ぎ落とされているのにも程がある。
私が一歩も引かずに食い下がっていると、冨岡さんは広げた布団の前で、これ以上ないほど深いため息を落とした。電球の光に照らされた彼の眉間には、深い皺が刻まれている。

「本当に、お前は変なところで頑固だな」
「変じゃありません……!」
「こういう時もさらりと流されてくれれば良いものを」

冨岡さんに呆れたような顔をされてしまうが、こちらだってこれ以上は譲れない。
隊服を脱ぎ捨てた今の彼は、普段の姿からは想像もつかない着流し姿。
きっちりと詰まった隊服の襟元とは違って、ゆるやかに寛いだ衿ぐりからは、鍛え上げられた首筋から鎖骨にかけてのラインが覗いている。
いつもは後ろで一つに結ばれている黒髪も今は解かれていて、いつも以上に研ぎ澄まされて見えるその佇まいに、なんだか無性にどきどきしてしまう。
とても綺麗で、なんだか…。って、そんなことを考えている場合ではないのだ。

「じゃあ、せめて!私が客間で寝ます!」
「道場も客間もこの嵐では冷える」
「それを言うなら私も全く同じなのですが!座布団でも引いて寝たら大丈夫です!とにかく、冨岡さんだってお忙しくてお疲れなのに、そんな人を床に寝かせるなんて絶対に嫌です!体痛くなっちゃう」
「それはお前も同じだろう」
「私はいいんです!!」
「埒が明かないな」

一日くらい、床で眠るくらい何の問題もない。火鉢だって、蝶屋敷で寝るときは使っていないから大丈夫だ。
冨岡さんだってそんなこと言ってないなんて言ったのだから、こちらだって同じだと言い返す。
それから、ふと閃いて顔を上げる。

「あ、わ、わかりました!冨岡さんが布団で寝て、私がその横の畳で寝ればいいんです……!これなら火鉢も共有できて身体も冷えない!」
「またお前はそういう警戒心のないことを」

呆れ果てたような顔で溜息をつかれるが、そんなもので引く私ではない。
火鉢はひとつ、布団は一組。冨岡さんを冷たい床や道場で寝かせるわけにはいかないし、かといって自分が一人でこの布団を独占するなんて申し訳なさすぎて絶対に無理だ。
だったら、どちらかが床で寝るのを諦めて、限られた場所を分け合うしか解決策なんてないじゃないか。

「俺が突然心変わりをして、襲いかかったらどうする」
「えっ冨岡さん、私を襲うつもりなんですか?」
「何もしない。そういう可能性もあるということを少しは考えろと言ってる」

心底解せないといったように眉間の皺を深くする冨岡さん。
これは本格的に呆れられてる。ちょっとお説教っぽくなってきたし。
でも、たしかにちょっと言い過ぎたかな。冨岡さんだって私を心配して、注意してくれているだけなのに。
冨岡さん相手だからこそ安心しきっていたのは事実だけど、言い方が悪かったのは反省する。けれど、どんなに怒られたって、家主を冷たい床に追いやって自分だけ暖かな布団で寝るなんて、絶対に嫌なのだ。

「冨岡さん、それでも私は……」

私がおそるおそる口を開き、そこまで言いかけたその矢先だった。冨岡さんの瞳が、すっと鋭く光る。
次の瞬間、ぐい、と腕を引かれて立ち上がり、勢いのままに畳の上でたたらを踏んだ。わけも分からずバランスを崩しかけ、手と背中に回っていた冨岡さんの手でくるりと反転させられ、気が付くと私は布団に仰向けで倒れ込んでいた。

「……えっ?」

なに、今の。ものすごい早業で何が起こったか全くわからず、ぽかんとして立ったままこちらを見下ろす冨岡さんを見上げる。
呆然とした私に構わず冨岡さんは電球に手を伸ばすと、紐を引っ張って電気を消した。

「え、あ、あの」
「おやすみ」

体を起こしかけるも、冨岡さんは問答無用でそう言いながら障子を閉め部屋を出て行ってしまう。
真っ暗になった部屋で、体を起こしかけた状態で固まった。

「え、……えぇ……?」

なんだこれ。力技で解決されてしまった。弾き出された感が半端ない。
窓の外から差し込む光で部屋の中は薄ら確認出来るものの、こんな状態では置いて行かれた火鉢も運び出すことは無理だ。
何となく恥ずかしくなり、誤魔化すように頭を振ってもぞもぞと布団に潜り込む。
敷布や枕からは石鹸のいい匂いがした。不思議とその香りに包まれていると安心して、うとうとと微睡んでくる。
申し訳ないな。でも、やっぱり冨岡さんは優しい。明日、またお礼を伝えないと。
微睡む意識の中でそう決意すると、私は意識を手放していた。









ドォン、と腹の底に響くような激しい重低音に、跳ね起きるように目を覚ました。
…雷だ。暗闇の中で瞬きを繰り返しながら、痛む耳の奥を手で覆う。今のは、かなり近くに落ちただろう。ゴウゴウと地鳴りのような嵐の音が、閉め切った雨戸を激しく叩き続けている。
呼吸を整えながら胸に手を当て、そっと息を吐き出した。視界が暗闇に慣れてくるにつれて、ぼんやりと浮き上がってくる見慣れない天井の木目。
そうだった。私は今、冨岡さんの屋敷の、冨岡さんの布団で寝ているのだった。
ごしごしと目を擦っているうちに、すっかり目が冴えてしまった。まだ夜の深みからは抜け出せていない時間帯だというのに、一度頭がすっきりしてしまうともう簡単には眠れそうにない。

「喉、乾いたかも……」

ふと、喉の奥がカラカラに乾いていることに気づく。
昼間の緊張や、さっきまでの布団争奪戦、それに急な雷の驚きもあって汗をかいたのかもしれない。一度意識してしまうと、急に冷たい水が飲みたくなってきた。
私は静かに掛け布団をめくり、そろそろと畳の上に足を下ろす。そのまま障子を開け、廊下へ出た。

梅雨の時期とはいえ、夜の冷え込みは厳しい。足の裏からひやりとした冷気が突き抜けて、思わずぶるりと身を縮めた。
日本家屋は風通しが良い作りのせいか、この広いお屋敷は特に、冷たい空気がすうすうと廊下を吹き抜けている気がする。
…冨岡さん、大丈夫だろうか。いくら鍛え上げられた柱だからといって、こんな冷え込む夜に床で寝ていて風邪をひいたりしないだろうか。そんな心配が頭をよぎるけれど、部屋を覗きに行くわけにもいかない。
柱の人たちは気配に敏感だと聞くし、寝ているのを邪魔したくはない。足音を立てて無駄に警戒させるのも申し訳なかった。

私はなるべく音を立てないよう慎重に台所へ向かい、大きな水瓶の前へ立つ。横に置いてあった柄杓を手に取り、溜められた冷たい水をすくい上げた。
一口口に含むと、沁み渡るような冷たさが喉を通っていく。

すっかり目が冴えてしまったな。普段なら一度眠ってしまえば朝まで起きるなんて滅多にないのに。
嵐の音や雷に驚いたのもあるけれど、やっぱり見知らぬ場所で、冨岡さんのお屋敷に泊まっているという状況に、身体のどこかがずっと緊張していたのかもしれない。
使った柄杓を静かに洗い、元の場所に戻すと、来た道を戻るように廊下を歩き出した。

明日には雨、止んでいるといいな。朝起きたら、まず冨岡さんに昨夜の強引さ謝って、それからお礼を言って…なんて、次の行動をぼんやりと考えていた時だった。
暗がりが続く廊下の先、角を曲がろうとした視界の端に、小さな明かりが漏れているのに気づく。
…冨岡さん?こんな夜中に、どうして灯りがついているんだろう。まだ寝ていなかったのか、それともさっきの雷で起きてしまったのだろうか。
疑問に思いながら、足音を殺してゆっくりとその部屋へ近づいていく。障子の前までたどり着き、そっと引き戸を横に滑らせた。

「……あ」
「目が覚めたのか」

隙間から覗いた室内の奥で、冨岡さんが文机に向かって筆を走らせたまま振り返ることもなく言った。まるで最初から私が来ることが分かっていたみたいだ。
私は気圧されながらも、開けた障子の隙間から室内に足を踏み入れる。

「……はい。大きな雷が鳴ったので」
「眠れないか」
「それもそうなんですけど……冨岡さんは何をされているんですか?」

尋ねながら視線を落とすと、文机の上には書類や帳面が並べられている。

「残っていた書類の処理だ。昼間、お前が片付けてくれた分の続きと、明日の報告の整理をしてる」
「それは……こんな夜中にまでしないといけないことなんですか?」

もしかして、私のせいかな。冨岡さんのお布団を私に無理やり譲って、寝る場所がなくなったから、こうして夜通し仕事をしているんじゃ。

「……冨岡さん、ごめんなさい」

消え入るような声で頭を下げると、それまで滑らかに動いていた筆の手がぴたりと止まった。

「やっぱり、私のせいですよね……。私が冨岡さんのお布団を奪っちゃったから寝る場所がなくなって、それでこんな夜中に仕事をさせてしまって、本当にごめんなさい」

せっかくの、久々の任務のない夜だったのに。やっぱり、あの時もっと頑なに拒否して、無理矢理にでも道場の隅で寝ればよかった。
冨岡さんにどれだけ圧をかけられようが、強引に部屋に連れていかれようが、床の上に丸くなって絶対に動かないくらいの意地を見せればよかった。
自分の気の利かなさが本当に申し訳ない。

「あの、今からでも交代して布団で寝てください。私は本当に座布団が一枚あればどこででも寝られますから、だから冨岡さんはちゃんとお布団に入って少しでも身体を……、」
「高月」

まくしたてる私を遮るように、冨岡さんは筆を置き、ゆっくりとこちらへ振り返った。

「違う」
「え……?」
「お前のせいではない。俺は元より、今夜は寝るつもりはなかった」

その言葉に、私は息を詰まらせてぱちぱちと目を瞬かせる。

「寝るつもりが……?どういうことですか」
「俺は多少眠らなくても平気だ」

多少眠らなくても平気?さっきから、冨岡さんの言っている意味がよく分からない。
いや、確かに彼は剣士だし、常人離れした体力や精神力を持っているのかもしれない。けれど、だからといって「眠らなくていい」理由には絶対にならないはずだ。

「眠らなくても平気って……冨岡さん、いつもは夜眠っていないんですか?それに、最初から寝るつもりがなかったって……どうして……?」
「俺のことはいいから、早く向こうに戻れ。お前は少しでも長く身体を休めておけ」

それだけを淡々と言い渡すと、冨岡さんは私から視線を外し、再び机の上の筆を手に取った。さらさらと、紙と墨の擦れる音が響き始める。

「だって冨岡さん、今日はせっかく久しぶりに任務がない夜なんですよね?」

休める時に休まなくてどうするのだ。人々の命を背負って戦う柱だからこそ、身体を休める時間は何よりも貴重なはずなのに。

「どうしてそこまでして、寝ようとされないんですか……?」

私の問いに、冨岡さんは手を止め黙り込んだ。そのわずかに泳いだ視線に、言いようのない違和感を覚える。

「眠らなくても平気……って、どうして?」
「文字通りの意味だ。俺は昔からあまり深く眠りに落ちる質ではない」

鬼殺隊の活動時間は夜が主だ。昼夜逆転の生活なんて当たり前で、深夜に起きていること自体は彼らにとって不自然なことではない。けれど、何かが引っかかる。
脳裏に浮かぶのは、蝶屋敷で日々忙しく立ち働くしのぶさんの姿だ。彼女だって、寝る間を惜しんで薬を調合し、任務に赴き、屋敷の管理をこなしている。
けれど、彼女は効率を知っている。部下に任せ、定期的に身体を休め、倒れないための管理を自分自身に課しているのだ。
最悪、昼に数時間の仮眠を取れば、夜には万全の状態で鬼を狩りに行ける。そうやって、鬼殺隊という組織は回っているはずだった。でも。

『以前処方した薬がそろそろ切れる頃でしょうってしのぶ様が』

繋がっていなかった無数の断片が、目の前の冨岡さんの態度と重なり、ひとつの恐ろしい可能性となって頭の中で結びつく。

「それは……しのぶさんから預かったあのお薬と、何か関係がありますか?」

刹那、冨岡さんの瞳が大きく見開かれる。重苦しい沈黙が部屋を支配した。
ああ、彼は眠らないんじゃない。眠れないんだ。

「冨岡さん。もしかして不眠症、なんですか?」

肯定も否定もしない、そんな静かな空気が彼の抱える闇の深さを物語っているようで、私はたまらず自分の袖をぎゅっと掴んでしまった。

「……寝室へ戻りましょう。そんな状態でまた明日から任務なんて絶対に倒れちゃいます」
「大丈夫だ」
「ぜんぜん大丈夫そうに見えません」

どこが大丈夫なものか。
知らなかった。こんな状態だなんて、これっぽっちも。どうして気づけなったんだろう。
彼はいつだって、私を気にかけてくれていたのに。私は彼のことをちゃんと知りきれていなかった。
頭の中で、バラバラだった過去の出来事が一気にひとつへ繋がっていく。
他の柱の人たちは、滅多に蝶屋敷へ足を運ぶことなんてない。忙しい任務の合間を縫ってわざわざやって来ることができないからだ。
それなのに、冨岡さんだけは違っていた。その理由も、今なら痛いほど理解できてしまう。
申し訳なさと情けなさで、視界がじわりと熱くなる。

「いいから、行きましょう。お願いですから休んで……」
「高月、もういい」

縋るように冨岡さんの肩を掴んだ私の手を、冨岡さんは有無を言わせぬ力で振り払った。
 
「っ……」
 
手を払われた衝撃よりも、その後に向けられた視線に息が止まる。

「限界が来れば己で判断する。余計な構いは無用だ」

干渉するな。そう、はっきりと告げられた気がした。
数秒の間、私はその場に立ち尽くし、冷え切った指先を握りしめる。いつもなら、その冷たさに怯んで引き下がっていただろう。
けれど、今の彼を独りになんてできるはずがない。

「……っ、嫌です!!」

今度は肩ではなく、冨岡さんの逞しい腕を両手でがっしりと掴んで引き上げた。

「は、」
「今すぐ寝ましょう。いいえ、寝かせます!」
「高月」
「不愉快でも何でもいいです!嫌われてもいいですから、今はとにかく寝てください!」

私は冨岡さんの抗議など一切耳に入れず、その腕を引いて半ば引き摺るようにしてその部屋を後にした。
冷たい床板を蹴って、暗い廊下を進む。向かうのは寝室。さっきまで私が、彼の慈悲によって温められていた、あの一組の布団がある場所だ。
勢い任せに障子を開け、私は冨岡さんを寝室へと連れ込んだ。そのまま、半ば押し倒すような形で布団の上に座らせる。

「いいですか、寝てください。今すぐに!」

真っ直ぐにぶつけた視線の先で、冨岡さんの瞳が鋭く細められた。正直に言えば、心臓が縮み上がるほど怖い。
冨岡さんはおもむろに鬱陶しそうに前髪をくしゃりとかき上げ、苦々しく息を吐き出す。

「……いいから、お前が寝ろ」

冨岡さんは苛立ちを隠そうともせず、そのまま立ち上がろうとする。
分かっている。これは明らかに踏み込みすぎだ。柱に対して、一般人の私がこれほどまでに干渉するなんて本来なら許されるはずもない。けれど、知ってしまったからにはどうしても見て見ぬふりなんてできなかった。
立ち上がろうとする冨岡さんの腕を、私はもう一度力いっぱい引き止める。

「冨岡さん……」

どうしたら、この人に少しでも横になってもらえるんだろう。どうしたら、体を休めてもらえるんだろう。
頭の中で必死に解決策を探しながら、胸の奥がぎゅっと痛む。

「お前にそんな眼差しを向けられるようなものではない」

涙が零れ落ちそうになるのを必死で堪えていると、少し呆れたように言われた。
こんなにも全てを一人で背負い込んで、苦しそうな顔すらせずに立ち続けている目の前の人が、あまりにも痛々しくて悔しくて。

「だって……」

溜まる涙を必死に手で拭いながら、なおも彼の腕をぎゅっと掴み直す。

「どうせ寝付けはしない」
「どうして、ですか……」
「鬼殺隊に入ってからずっとだ。眠ろうとすればするほど、感覚だけが冴え返る」

冨岡さんは繋がれた腕を見つめたまま、静かにそう言葉を落とした。

「目を閉じると、守れなかった者の声や死んでいったやつらの姿が浮かんでくる。……格好悪いだろう」

自嘲すら交じらない、淡々としたその物言いに私は息を飲んだ。胸の奥が、ぎゅうっと握りつぶされたように痛む。
そんな、そんな理由で、この人はずっと眠れずにいたというのだろうか。
鬼殺隊に入ってからずっと、何年もの間。夜が来るたびに一人で、その重すぎる記憶に向き合い続けてきたというのだろうか。
疲れ果てて体を休めたいはずの夜に、目を閉じることすら許されないなんて。それがどれほど恐ろしく、どれほど深い孤独だったか。想像するだけで息が詰まりそうになる。

格好悪いなんて、そんなことあるわけがない。でも、どうしたらそれがこの人に伝わるんだろう。
「格好悪くないです」なんて、口先だけの言葉を投げかけたところで、きっと今の冨岡さんには届かない。
何年も耐え続けてきたこの人に、私の軽々しい同情や慰めは、ただの余計なお世話として弾かれてしまうだけだ。
どうすれば。どんな言葉を使えば、彼に伝わるのだろう。あなたが背負ってきたものは決して格好悪いことなんかじゃないと。一人で暗闇に耐える夜は、もう終わりにしてもいいのだと。

「高月。分かったなら、」
「じゃあ尚更、ちゃんと休んだ方がいいんじゃないですか?」

私は掴んだ腕を離さないまま、そのまま冨岡さんの正面にゆっくりと膝をついた。

「過去に何があったのか私には分かりません。でも……今、あなたが生きているおかげで救われている人間が、ここにいます。私を救ってくれたのは、他の誰でもない冨岡さんじゃないですか」

どれだけ自分を責めて、格好悪いと蔑もうと。
目の前にいる人が必死に生き抜いてくれたおかげで、今ここで息をして、温かい布団で眠れていた人間がいるのだ。その事実だけは、絶対にここにある。
私はぎゅっと掴んでいた手を少しだけ緩め、そっと指先を伸ばした。そして、戸惑ったように固まる彼の頬を指先でつつく。

「自分の体を一番労わってあげられるのは自分だけなんです」

あまりにも頑なだから、確かにこれ以上は本当に余計なお世話になってしまうかもしれないけれど。

「毎日頑張っている分、今日はお休みをあげてもいいんじゃないですか?」

ね?と苦笑して彼の瞳を覗き込む。冨岡さんは呆気に取られたように私を凝視していた。
どこまでも静かで、深い蒼を宿した瞳。言葉を交わさずとも伝わってくる、彼の戸惑いが。
けれど、もう引っ込めるつもりはなかった。誰かが彼を甘やかさなければ、この人はどこまでも自分を削って戦い続けてしまう。自分の傷や痛みにさえ蓋をして、独りきりの暗闇で耐え続けてしまう。しかし。

「……冨岡さん?」

呼びかけても、ピクリとも動かない。それどころか、私を凝視した姿のまま完全に固まってしまっていた。
静寂が長引くにつれて、固かった私の意思にじわじわと亀裂が入り始める。
も、もしかして、私やりすぎた?いくら不眠だからと言って、他人に触れられたくないこともあるだろうに。
冨岡さんさっきまでだいぶ苛立っていたし、怒りを通り越して、あまりの図々しさに言葉を失ってしまったんじゃ…。

「……あ、じゃあ私、居間で寝ますね。冨岡さんはゆっくりお布団を使ってください」

やっぱり言うんじゃなかったかな。よくよく考えると思い上がっているというか、何様だと思われても仕方の無い発言だったのではないだろうか。沈黙が痛い。
でも、怒られたっていい、嫌われたっていい。この人には笑っていてほしいのだ。

「本当は冨岡さんにも、普通の人みたいに笑って、美味しいものを食べて、ぐっすり眠れるようになってほしいだけなんです。……私、冨岡さんのことが大事だから」

自分の照れくささを誤魔化すように、私は慌てて言葉を繋げた。

「……あ、じゃ、じゃあ私行きますね!」

居たたまれなくなってとりあえず部屋を出ようと足を伸ばしたのだが、ふいに伸ばされた冨岡さんの手が私の手首を掴んだことで動きを止めた。
どうしたのだろうか、と視線を向けるも、冨岡さんは俯いていてあまり顔は見えない。

「冨岡さん……?」

冨岡さんは深い溜息を吐いた。それからゆっくりと顔を上げて、私を真っ直ぐに見つめる。
どきりと胸が跳ねた。

「あ、あの」

ぐい、と冨岡さんに腕を引っ張られる。わぁ、なんて間の抜けた声を上げながら、私は冨岡さんの腕の中へと飛び込んだ。そのまま勢いを殺しきれず、二人重なり合うようにして開かれた布団の上へと倒れ込む。
何が起こったのか理解が追いつかない。冨岡さんの腕が私の背中に回されて、ぎゅうと強く、逃がさないように抱き締められている。

「え、と、とみっ、とみおかさ、」
「高月」

ほんの少しだけ掠れた冨岡さんの声に、私は身動ぎするのをやめた。

「休みをくれるんだろう」

その声が何故だかとても切なく響いて。冨岡さんがどんな顔をしているのか私には見えない。

「なら、ここにいろ」

私を逃がさないように抱き込む彼の静かな体温。
頭の中は真っ白なままで、自分の耳元に触れる彼の静かな鼓動だけが、やけに鮮明に伝わってきていた。




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