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「不眠症、か。そんな大層なものではない」
冨岡さんは視線を懐中帳へと戻し、力の抜けた声でそう零した。
肯定も否定もしない、曖昧な物言い。それがかえって彼の抱える闇の深さを物語っているようで、私はたまらず彼の浴衣の袖をぎゅっと掴んでしまう。
「…寝室へ戻りましょう。そんな状態で、また明日から任務なんて……絶対に倒れちゃいます」
「大丈夫だ」
「全然、大丈夫そうに見えません…っ!」
叫んだ私の言葉は、激しい雨音に容易く掻き消された。
どこが大丈夫なものか。端正な顔立ちはいつもと変わらず静かだけれど、その肌の白さはどこか血の気が引いている。
…知らなかった。こんな状態だなんて、これっぽっちも。どうして気づけなったんだろう。胸の奥が、ぎりぎりと締め付けられる。
彼はいつだって、私を気にかけてくれていたのに。私は彼のことを、ちゃんと知りきれていなかった。
今日、もし私がここへ来なければ。私が「手伝いに行きたい」なんて言わなければ。彼は今頃、少しでも身体を休められていたのではないか。
それなのに私は、彼の唯一の安らぎの場である布団まで奪って、自分だけがふかふかと微睡んで。
…最低だ、私。どれだけ周りが見えていなかっただろう。もしかしたら、私がこれまで出納帳のお手伝いのためにこの屋敷に滞在していた間、彼は一度だってまともに眠っていなかったのかもしれない。そう思うと、申し訳なさと情けなさで、視界がじわりと熱くなった。
「いいから、行きましょう。お願いですから、休んで……」
「高月、もういい」
縋るような私の手を、冨岡さんは拒絶するように、有無を言わせぬ力で振り払った。
「っ……」
手を払われた衝撃よりも、その後に向けられた視線に息が止まる。
怒っているわけではない。けれど、そこには私を"余計な邪魔者"と断じるような、突き放した冷たさがあった。深い霧のなか独りでいたいと願う獣が、足を踏み入れた侵入者を冷淡に射抜くような、そんな眼差し。
「限界が来れば、己で判断する。余計な構いは無用だ。戻れ」
干渉するな。そう、はっきりと告げられた気がした。
数秒の間、私はその場に立ち尽くし、冷え切った指先を握りしめる。いつもなら、その冷たさに怯んで引き下がっていただろう。
けれど、今の彼を独りになんてできるはずがない。
「…っ、嫌です!!」
私は今度は袖ではなく、冨岡さんの逞しい腕を両手でがっしりと掴んで引き上げた。
「は、」
冨岡さんの口から、戸惑いに満ちた短い吐息が漏れる。まさか私が引き下がらずに、さらに踏み込んでくるとは思っていなかったのだろう。
彼は一瞬、重心を崩してよろめいた。柱としての踏ん張りも今は効かない。
「今すぐ寝ましょう。…いいえ、寝かせます!」
「高月、離せ。不愉快だ」
低い、地を這うような声で彼が抵抗する。掴んだ腕に力が入り、彼の体温が掌を通じて伝わってきた。
「不愉快でも何でもいいです!嫌われてもいいですから、今はとにかく寝てください!」
私は冨岡さんの不機嫌そうな抗議など一切耳に入れず、その腕を引いてなかば引き摺るようにして居間を後にした。
冷たい床板を蹴って、暗い廊下を進む。向かうのは寝室。さっきまで私が、彼の慈悲によって温められていた、あの一組の布団がある場所だ。
勢い任せに障子を破るようにして開け、私は冨岡さんを寝室へと連れ込んだ。そのまま、半ば押し倒すような強引さで、ふかふかの布団の上に座らせる。
「…いいですか、寝てください。今すぐに!」
真っ直ぐにぶつけた視線の先で、冨岡さんの瞳が鋭く細められた。至近距離で対峙する眼差しは、少し物騒で…。正直に言えば、心臓が縮み上がるほど怖い。穏便に済ませようなどという淡い期待は、この一瞬で散った。
冨岡さんはおもむろに、鬱陶しそうに前髪をくしゃりとかき上げた。そして、苦々しく息を吐き出す。
彼が何も言わずに私を凝視するその"間"には、まるで子供の我儘を小馬鹿にするような、あるいは私の未熟さを意図的に貶めるような、冷ややかな沈黙が横たわっている。
「…しつこいと言ったはずだ。いいから、お前が寝ろ」
冨岡さんは苛立ちを隠そうともせず、そのまま立ち上がろうとする。
分かっている。これは明らかに踏み込みすぎだ。柱に対して、一般人の私がこれほどまでに干渉するなんて、本来なら許されるはずもない。
けれど、あの懐中帳に刻まれた狂気のような記録を見てしまった後では、どうしても見て見ぬふりなんてできなかった。
立ち上がろうとする冨岡さんの腕を、私はもう一度、今度は力いっぱい引き止める。
「離せと言っている。こんなこと、俺にとっては日常に過ぎない。お前にそこまで心配される筋合いなどどこにも……」
「そうですか。じゃあ尚更、ちゃんと休んだ方がいいんじゃないですか?」
遮るように放った私の言葉に、冨岡さんの動きが止まった。
私はそのまま冨岡さんの前に膝を突いて屈み込み、驚く彼を他所に、その整った頬を人差し指で軽くつつく。
「眠たくなくても、せめて横にはならないと駄目です。横になるだけでも、体は少し休まるんですから」
肩をすくめてそう言うと、私はわざと明るい声を作って続けた。
あまりにも頑なだから、確かにこれ以上は本当に余計なお世話になってしまうかもしれないけれど。
「自分の体を一番労わってあげられるのは自分だけなんです。毎日頑張っている分、今日はお休みをあげてもいいんじゃないですか?」
私は少しだけ首を傾げて、苦笑混じりに彼の瞳をじっと覗き込んだ。
すると、それまで険しい表情を崩さなかった冨岡さんが、なぜか呆然とした顔で私を凝視する。瞬きさえ忘れたような、無防備な蒼い瞳。いつも何かに耐え、何かを諦めているようなその瞳に、真っ直ぐに見つめられて――。
あれ。…何か、変なこと言ったかな。彼が何を考えているのか、今の私には全く読めなかった。怒っているのか、それとも呆れ果てているのか。
あまりに真っ直ぐに、吸い込まれそうなほど強く見つめられるものだから。今度は私の方が気恥ずかしくなって、つついた指をそっと引っ込める。
「……冨岡、さん?」
おずおずと名前を呼んでみても、彼はまだ、何かを確かめるようにこちらを凝視している。雨音だけが、静まり返った部屋にやけに大きく響いた。
数秒、いや、もっと長い時間が流れた気がした。無言で射抜くような彼の視線に耐えきれず、私のなかの勢いは急速にしぼんでいく。
…あ、れ。やりすぎた。私、何様なんだろう…。急に冷や汗が背中を伝う。相手は鬼殺隊の主軸、水柱だ。そんな人に、一般人の分際で頬をつつき、説教じみたことまで言ってしまった。
恥ずかしさと後悔が一度に押し寄せる。私は真っ赤になった顔を隠すように、慌ててその場から立ち上がった。
「あ、あの!すみません……私、変なこと言いました。忘れてください!わ、私はやっぱり居間で寝ますので、冨岡さんはゆっくり、おやすみなさい!」
逃げるように背を向け、一歩踏み出した、その時。
「待て」
短い声が響くと同時に、私の腰に逞しい腕が回された。逃げる隙も与えない、驚くほど強くて確実な力。
「えっ……」
視界がぐらりと回転する。抗う間もなく、私は冨岡さんに引き寄せられる形で、さっきまで彼を押し込もうとしていた布団の上へと、もろとも倒れ込んだ。
ふかふかの羽毛の感触。そして、それ以上に確かな重み。気づいたときには、私は冨岡さんの腕の中にすっぽりと収まっていて。
「と、冨岡……さん……?」
心臓が口から飛び出しそうなほど跳ねる。密着した身体から、彼の高い体温と、清潔な石鹸の匂いが一気に流れ込んでくる。
彼は私を後ろから抱きしめるような格好で、その腕にぎりぎりと力が込められた。
私の脳内は完全にパニック状態だった。さっきまでの説教気取りの余裕なんて一瞬で消し飛んで、頭の先まで沸騰しそうな熱が回る。
冨岡さんの顔は見えない。けれど、耳元で聞こえる呼吸は少しだけ荒く、背中に押し当てられた胸板からは、私と同じくらい速い、力強い鼓動が伝わってきた。
「休みを、くれるんだろう」
低く、掠れた声が、首筋を震わせる。
「なら…黙ってここにいろ」
それは柱としての命令ではなく、ただの不器用な人が、震える夜を越えるために求めた、祈りのような言葉に聞こえた。
*
嵐が去ったあとの、どこか白々しいほどの静寂。鳥のさえずりが遠くで聞こえるなか、私の意識はゆっくりと浮上した。
その時点で、瞬時に昨夜に何があったのかをすべて思い出した。一つずつ、順を追って思い返していこうと思う。
まず、私は夜中に、嵐による雷鳴に叩き起こされた。不安に駆られて廊下に出ると、居間にある行灯の光の下で、己を削るように筆を動かしていた冨岡さんの姿を見つけた。
そんな彼に思わず「休んでください」と言ったものの、拒絶するように目を逸らされてしまって。居ても立っても居られなかった私は、半ば強引に彼を寝室へと促した。
しばらくの押し問答の末に、こぼれ落ちるように吐き出された『休みを、くれるんだろう』という低い声。
そして、逃げる隙など与えないほど強い力で、私は冨岡さんに、その、抱きしめられてしまったのである。
驚きで心臓が飛び出しそうだったけれど、彼の切実な体温を感じているうちに、いつの間にか私も深い眠りに落ちていった。
ここまでは、記憶通りだ。けれど今。私はすっかり覚醒しているにも関わらず、目を開けることができない状況にある。
理由は、その態勢だ。昨晩、彼の腕に包まれて眠ったのは間違いない。けれど。そう、むしろ。昨晩よりもさらに密着してしまっているこの状況を、私に一体どうすれば良いと言うのか。
昨夜は確か、背中から抱きしめられていたはず。それなのに、目が覚めてみれば私たちは正面から向き合い、なぜか彼の胸元にすっぽりと収まってしまっていた。心なしか、足も少し絡まっている気がする。
どう、すればいいの。おまけに、額をくすぐる規則正しい吐息。あまりの至近距離に、私は目を開けることすらできない。
少しだけ、少しだけ確認しよう…。意を決して、私は薄く、本当に数ミリだけ瞼を上げる。
けれど視界に飛び込んできたのは、乱れた浴衣の襟元から覗く、冨岡さんの白い胸元。私は弾かれたように、再び目を閉じた。まるで熱を帯びたように身体が熱くなり、カチコチに固まってしまう。
どうしよう。今、何時?
冨岡さんを起こした方が良いのかな。昨夜見た、懐中帳の予定が脳裏をよぎる。彼は今日も任務があるはずだ。けれど、この至近距離で声をかける勇気なんて一ミリも湧いてこない。かといって、このまま寝たふりを続けて、彼が任務をすっぽかしてしまうのも駄目だ。
混乱しながら、心臓が爆発しそうなほどぐるぐると考えていた、その時だった。
カサリ、と頭上で衣擦れの音がした。長い髪が私の頬をかすめ、回されていた腕にわずかに力がこもる。
「高月」
「ひゃい」
あまりの動揺に、自分でも情けなくなるような変な声が出る。観念して恐る恐る目を開けると、そこにはすでに覚醒している冨岡さんの姿があった。
いつから。いつから起きていたんだろう。もしかして、私がさっき動揺したのも全部バレていたんじゃ…。
「…せめて横にはならないと駄目か。あながち否定できないな」
「え……?」
まだ寝起きの熱を含んだ掠れた声が、私の耳元を震わせる。ぼんやりとした瞳でこちらを見つめてくるその表情には、昨夜のあの凍りつくような冷たさも、自分を削り取るような深淵の気配もなかった。
少しだけ潤んだ彼の瞳に、確かな生気の色が宿っているのを見て、私は言葉にならない安堵で胸がいっぱいになる。
あ。…よかった。あんなに密着していることにパニックになっていたはずなのに、彼の顔色の良さを確認した途端、すとんと心の重荷が降りていくのを感じた。
「……よく眠れた。お前のおかげだ」
冨岡さんは少しだけ腕の力を緩めると、私の反応を待つように、静かに見つめてくる。
至近距離で合う、その蒼い瞳。
「よかった、です…」
なんとか声を絞り出した。本当は、こんな一言なんかじゃ足りない。
私を腕のなかに閉じ込めた理由、とか。そこまでしないと眠れなくなってしまった理由、とか。聞きたいことも、言いたいことも山ほどあったはずなのに。
朝の柔らかな光が、障子を透かして部屋を白く染めていくさまに、もういいかなんて思ってしまう。
冨岡さんはゆっくりと私の背中から腕を離すと、上体を起こした。その時に、少し絡まっていた足も離れていく。
私も、重たい身体を引きずるようにして身体を起こした。なんだか、急に現実に引き戻されたような気がする。
あぁ、これはあまり良くないかもしれない。冨岡さんとこうして一緒にいられることが、ただ純粋に幸せで、嬉しくて。けれど、その「幸せ」にどっぷりと浸かってしまった私は、無意識のうちにどこかで、彼からの何かを期待してしまっている。
もともとは、時折こうしてお屋敷に呼んでもらって、彼の静かな日々の端っこに、そっと傍にいさせて欲しい。それだけを願っていたはずだった。
なのに、今の私は想うだけでは物足りず、彼からの特別な気持ちが欲しいだなんて。そんなことを思ってしまっている。
浅ましすぎる欲求だ。彼の隣には、いずれ彼にふさわしい素敵な女性が並び立つ日が来るだろう。その時、私はその光景を遠くから微笑んでいなくちゃならないのに。
「…おはようございます、冨岡さん」
「ああ、おはよう」
無理に作った笑顔は、きっと少しだけ引き攣っていたと思う。
私の胸の奥には、冷たくて重い鉛を無理やり押し込められたかのような、どんよりとした重苦しさが沈殿していくばかりだった。
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