46
夜中に何があったのか、朝意識が浮上した時点できちんと覚えていた。脳内整理のために、一つずつ順を追って思い返していこうと思う。
まず、夕べのことだ。外はひどい豪雨で蝶屋敷に帰れなくなった私は、冨岡さんの屋敷に泊めてもらうことになった。
お風呂を借りて、夕餉まで作ってもらい、一組しかない布団まで使わせてもらって、それはもうたくさんお世話をかけてしまった。
夜中、激しい雷鳴に目を覚ました私は、ひとつの部屋から灯りが漏れていることに気づいた。
けれど、そこにいた冨岡さんの様子は明らかに異様で、いつも以上に研ぎ澄まされた気配、拒絶するように固く閉じられた心。会話を重ねる中で、私は彼が抱える真相を知った。
不眠症、だと。この時代にその言葉があるのかは分からないが、彼が抱えているのは間違いなくそれだった。
鬼殺隊に入ってからずっと、何年もの間。夜が来るたびに一人で向き合い続けてきたというのだ。
疲れ果てて体を休めたいはずの夜に、目を閉じることすら許されないなんて。想像するだけで息が詰まりそうだった。
だから私は、彼の腕を掴んで寝所まで連れて行ったのだ。
どれだけ彼が自分を格好悪いと蔑もうと。彼が必死に生き抜いてくれたおかげで、今ここで息をして、温かい布団で眠れていた人間がいるのだとどうしても伝えたかった。
その後だ。私は冨岡さんに、その、抱きしめられてしまったのである。
驚きで心臓が飛び出しそうだったけれど、彼の切実な体温を感じているうちに、いつの間にか深い眠りに落ちてしまっていた。
そして今。私は意識が浮上しているにも関わらず目を開けることが出来ない状況にある。
それは、後頭部から項のあたりに感じる、冨岡さんの吐息のせいだ。
昨晩、彼の腕に包まれて眠ったのは間違いない。けれど。そう、むしろ。昨晩よりもさらに密着してしまっているこの状況を、私に一体どうすれば良いと言うのか。
冨岡さんの腕はしっかりと私の背中に回され、私は冨岡さんの胸元に顔を埋め、冨岡さんと私の足はほんの少し絡んでいる。付き合ってもいない男女が取るべき体制ではない。
どうすれば。どうしよう。思い切って少しだけ目を開けてみようか。
意を決して、本当に少しだけ瞼を上げる。けれど視界に飛び込んできたのは、乱れた浴衣の襟元から覗く、冨岡さんの白い胸元。私は弾かれたように再び目を閉じた。
寝起きまで脱力していた体にはすっかり力が入り、カチコチになってしまっている。どうしよう。今何時。冨岡さんを起こした方が良いのか、それとも狸寝入りをした方が良いのか。
混乱しながらぐるぐると考えていたら、回されていた腕にぐっと力がこもった。
「あ、と、とみ岡さ……」
「おはよう」
「いつから起きて……」
「さっきだ」
それってつまりは言い換えると最初から起きていたとそういうことなんじゃ。
一人で慌てていた時点で大分恥ずかしかったのに、それをばっちり知られていたと分かり顔が熱くなる。
「あの……、ね、眠れましたか?」
「真っ先に確認するのがそこか?」
至近距離から注がれるその響きだけで、頭の芯がじんと痺れてしまいそうだ。
「他に何を聞けばいいんですか」
「他に気になることがあるだろう」
「……ありすぎて何から聞けばいいか分からないです」
「そうか」
「そうかって、あの、冨岡さん」
「眠れた」
「……え?」
「お前の問いの答えだ。眠れた」
ぼそりと落とされた言葉に私は瞬きを繰り返した。
「本当に、ですか……?」
鬼殺隊に入ってからずっと、何年もの間、夜が来るたびに苦しめられて眠れずにいたというあの冨岡さんが。
薬に頼らなければ横になることすらできなかったという彼が、本当に…?
「お前は眠れたか?」
「は、はい、すごく良く……」
うつむいたまま蚊の鳴くような声で答えて、私はおそるおそる顔を上げた。
視線の先で待ち構えていたのは、至近距離から私をまっすぐに見つめる青い瞳。隠しようもないほどばっちりと目が合ってしまい、私の顔はさらに熱くなる。
朝からとても端正なお顔立ちで。寝起きだというのに、少し乱れた髪すらも絵になる。私なんて起きてからしばらくは寝惚け眼だと言うのに。
「自分の体を一番労われるのは自分だけ、か。強ち否定できないな」
冨岡さんは私に回していた腕をゆっくりと解き、そのまま体を滑らせるようにして天井を仰いだ。そして、大きな手のひらを自分の目元に覆いかぶせるように被せ、深い吐息をひとつ漏らす。
たしかに、いつもよりずっと顔色がいいような…。
良かった、のかな。一晩ぐっすり眠れたくらいでは、根本的な解決には程遠いのかもしれない。
それでも、冨岡さんが久々に「眠れた」と言ってくれたその事実がただただ嬉しくて、安堵から視界がじわじわと熱くなっていく。
思わず、ずび、と鼻を啜った音に、冨岡さんはぎょっとしたようにこちらに顔を向けた。
「泣いて、るのか」
「な、泣いてません……っ」
おかしい。なんで涙なんか出てるんだろう。急速に視界が歪んでいくのに、私は急いで両手で顔を覆い隠した。
カサリ、と布団が擦れる音が聞こえ、冨岡さんがこちらに体勢を戻す気配がした。
「高月、顔を見せてみろ」
「泣いてないです大丈夫です」
「高月」
「あの、本当に違うのでこれは」
「いいから見せろ」
頑なに両手で顔を覆い続ける私と、それをなんとか剥がそうとする冨岡さん。
押し問答を繰り返すうち、ぐいと強めの力で私の両手首が掴まれた。抵抗する間もなく、そのまま顔からすんなりと引き離されてしまう。
「あ……」
「なぜお前が泣、」
抗議しようと目を開けた瞬間、私の言葉は喉の奥で消し飛んだ。
息がかかりそうなほどの至近距離で、視線が正面からぶつかり合う。
「あ、の……」
私が息を詰まらせながら、声を漏らした瞬間。冨岡さんが、がばりと勢いよく布団から身を起こした。
彼の重みと体温が消えたのに、胸のどくどくという高鳴りは少しも収まってくれない。顔中に血が集まったみたいにカッと熱くて、呼吸ひとつするだけで苦しい。
何か、言うべきだろうか。「すみません」と謝るべきなのか、それとも「朝餉を作りますね」と日常へ逃げるべきなのか。ぐるぐると頭の中で言葉を捏ね繰り回すけれど、どれも決定打に欠ける。
「あ、あの、冨岡さん……?」
おそるおそる声をかけると、背中を向けた冨岡さんが一度深く息を吐いた。
そして、静かにこちらへと振り向くと、固まっている私を少しだけ和らいだ瞳で見下ろす。
「俺のせいだな」
大きな手が伸びてきて、ぽんと私の頭の上に置かれた。そのまま優しく、ゆっくりと髪を撫でられる。
そして、冨岡さんが立ち上がって部屋を出て行くのを呆然と見送った。
私は布団の上に寝転んだまま、そっと自分の手を伸ばし、さっきまで彼の手があった頭頂部に触れてみる。
なぜだろう。私には「俺のせいだ」じゃなくて、「お前のおかげだ」に聞こえた。自分を責めてる言葉のはずなのに、どうして感謝が聞こえたのだろう。
あぁ、これはあまり良くないかもしれない。こんな風に優しくされてしまったら。そんな風に、言われてしまったら。
決めていたはずの境界線が、足元から崩れていってしまう。もっとその温もりに触れていたい。そんな決して望んではいけない欲が、胸の奥で小さな芽を伸ばそうとしていることに気づいてしまい、私は深く、静かに息を吐き出した。
*
昨夜の嵐が嘘のように、空はどこまでも澄み渡る快晴に恵まれていた。雨上がりの澄んだ空気を吸い込むと、湿った土と緑の匂いが胸いっぱいに広がる。
「一人で帰れるな」
屋敷の門の前で立ち止まった冨岡さんが、腰の刀を押さえながらそう言った。
やっと屋敷に戻って来た冨岡さんの鴉である寛三郎さんから、新たな任務を言い渡されたのはつい先ほどのことだ。おじいちゃん鴉らしくゆっくりとした口調ではあったものの、伝えられたのは緊急の知らせだった。
すぐに出発しなければならないらしく、朝餉を食べる時間どころか、昨夜なぜ私を抱きしめて眠ったのか、その真意を尋ねる時間さえも与えられないまま、慌ただしく屋敷を後にすることになってしまった。
昨日乾かしておいた着物に急いで着替え、身支度を整えた冨岡さんの後を追って門の前までやって来たのだ。
「はい、一人で帰れます。色々とたくさんお世話になりました。次からは天気予報……じゃなくて、空の様子をもっと確認してから出かけるようにしますね。冨岡さんもどうかお気をつけて」
へらりと笑ってみせると、冨岡さんは短く「ああ」とだけ頷いた。
「あ、それと。また冨岡さんが無理してるのが分かったら、私今度こそ大泣きしますからね」
「………」
「これは脅しです」
人差し指を立ててみせれば、冨岡さんは困ったように少し眉根を寄せる。
次にまたどこかで無理を重ねている姿を想像すると、どうにもこうにも他人事としては見過ごせそうにない。
少しの間無言で私を見つめていた冨岡さんは、やがて息をひとつ吐き出した。
「やはりさっきは泣いていたのか」
私は思わず「っ!」と息を飲み、ばつが悪くなって立てていた人差し指を慌てて引っ込める。
「泣いてません。あれは……あくびをしただけです」
さすがに無理がある?苦しい?
そもそも、自分だってあの涙が何だったのかよく分かっていない。冨岡さんが眠れたと聞いて心底安心した、それは確かだけれど。
「本当です」
「………」
「あっ、私が泣いたと知ったら、しのぶさんが飛んでくる、かも……」
無言の圧に耐えかねて、そわそわと周囲の木々に視線を泳がせながら言った。
けれど、出してみればこれ以上の抑止力はない気がしてくる。もし私が泣いて帰ったと知ったら、彼女は間違いなく笑顔のまま日輪刀に手をかけるはずだ。
「…脅しが巧妙になったな」
気まずくなってさらに視線を明後日の方向へ逸らす。
あまり、響いていない…?表情一つ変えずに受け流されてしまい、完全に肩すかしを食らった気分になった。絶対しのぶさんの名前を出したら動揺すると思ったのに、本人は至って平静だ。
それでも、彼に自分の身体を大事にしてほしいという気持ちは本物だ。通用していようがいまいが、言いたいことだけはしっかり伝えておきたい。
「とにかく、無理は駄目です。寝てください」
「善処はする」
善処ではなく改善をしていただきたいのけれど…。
本来なら「約束してください」とさらに食い下がりたいところだが、今回は一応寝てくれたみたいだし、それでいいだろう。
彼には任務が控えているからここまでだと思い直し、私はすっと肩の力を抜いた。
「わかりました。それじゃあ、ご武運を」
冨岡さんも短く「ああ」と返すと、身を翻して静かに歩き出した。
遠ざかっていく背中をなんとなく見送りながら、私も反対方向へと向き直り、蝶屋敷へ向けて一歩踏み出す。
けれど、二歩ほど進んだところで立ち止まり、くるりと振り返った。まだそれほど離れていない彼の背中に向かって、声を張り上げる。
「冨岡さん!次はいつ蝶屋敷に来られますか?」
それは、いつも私が彼に投げかけているお決まりの問いかけだった。冨岡さんは一瞬だけ足を止め、いつもの言葉を口にする。
「しばらく来ない」
「分かりました!」
元気よく返事をすると、今度こそ大きく手を振った。二人の足音がだんだんと遠ざかり、やがて振り返っても冨岡さんの姿は見えなくなる。
その「来ない」という言葉の裏側に、どんな事情や痛みが隠されているのか。私は知らないし、気づかない。
本当は「来ない」ではなく、「来られない」のだとしても。彼が「来ない」と言うのなら、私はそれをただの拒絶や予定として受け取るだけ。
言葉の行間を読まないこと。引いた線の手前で、ただ変わらずに笑っていること。
それがこの関係を壊さないための、私のやり方だった。
*
「ただいま戻りました……」
おそるおそる蝶屋敷の玄関の戸を開ける。大雨で鴉が飛ばせないという不可抗力があったとはいえ、無断で外泊してしまった気まずさがどうしても拭えない。自分の足音がいつもより何倍も大きく響いている気がして、縮こまるように土間へと下り立つ。
腰を引かせながら玄関で様子を窺っていると、人の気配に気づいたアオイさんが、廊下の奥からたくさんの洗濯物を抱えてひょっこりと顔を出した。
「あっ、リサさん。おかえりなさい」
私の姿を見るなり、ほっとしたようにこちらに近づいてくる。
「無事でよかったです。昨夜の嵐、本当に酷かったですね。水柱様のお屋敷に泊まられたんですよね?なんともなかったですか?」
「あ、え?あぁ、はい。なんともないです、すごく親切にしてもらいました」
へらりと笑って答える私に、アオイさんは「それなら良かったです」と安堵の息をつきながら、なおも私を優しく見つめてくる。
あれ、意外とあっさり許された…?もっと「どこで夜を明かしていたんですか!」とお小言を食らう覚悟をしていただけに、拍子抜けしてしまう。大雨だったから仕方ないと納得してくれているみたいで、ひとまず追及を免れたことに胸を撫でおろす。
「朝はもう食べましたか?一応リサさんの分も残してあるんですけど……」
「いえ、まだ……」
「じゃあ、すぐに準備しますね」と言って、アオイさんは抱えていた洗濯物を抱え直し、奥の台所へと向かおうとする。
甲斐甲斐しく動く彼女を見つめながら、私は小さく息を吐いた。
なんだか、すごく日常だ。昨日の目まぐるしい出来事が嘘だったみたいに、蝶屋敷にはいつもと変わらない穏やかな朝が流れている。急に全身の緊張がとけて、私は玄関の壁へとそっと身を預けた。
「ふふ、どうしました?疲れちゃいました?」
「なんだかすごくほっとして」
力なく笑ってみせると、アオイさんはすぐ脇の廊下に少し乱れて置かれていた花瓶の位置を、すっと手慣れた動作で直し始める。
「移動するだけでも相当体力を削られたんじゃないですか?気が緩むと一気に疲れが出ますよね」
「それもそうなんですけど……アオイさんの顔を見たらなんだか急に脱力しちゃって」
蝶屋敷が好きというのもあるけど、アオイさんの傍にいる安心感はすごい。
アオイさんは私の顔を見てしばらくキョトンとしていたが、廊下の端に溜まっていた小さな埃をパパッと払った。
「リサさんって、人たらしってよく言われません?」
「え、私が?」
思わぬ言葉に首をかしげると、アオイさんは洗濯物を抱え直し肩を落とす。
「いえ、こちらの話です」
そう言って花瓶を直し終えると、何事もなかったかのように背を向けた。
どういう意味だろう…?首をひねりながらアオイさんの言葉を頭の中で反芻するけれど、どれだけ考えても意図が掴めない。「こちらの話」と打ち切られてしまった以上、これ以上突っ込んで聞くのも野暮な気がして、私は「うーん」と小さく唸るにとどめた。
「そうだ、リサさん。しのぶ様から戻ったら声をかけるよう言われてるので、朝餉のあとにでもお部屋を尋ねてみてくださいね」
そういえば、冨岡さん…。朝も食べてないのに、緊急の任務で慌ただしく出かけてしまったけど本当に大丈夫だろうか。
これは心配しすぎ、なんだろうなあ。あの人は強いし、私がオロオロと案じたところでどうにかなるような人じゃない。余計なお世話だって分かっているけれど。
私が尾崎さんのことで上手く眠れなくなっていたとき、冨岡さんが私に、しのぶさんに相談しなさいと言葉をかけてくれたことがあった。あの時、冨岡さんはどんな気持ちで私にあの言葉を言っていたんだろう…。自分だって満足に眠れていなかったはずなのに。
駄目だ。考え出したら止まらない。
「リサさん?」
「あ、なんですか?」
「しのぶ様が朝餉のあとにでも声をかけてくださいって」
「しのぶさんが?わかりました」
どこか不思議そうな顔をしてこちらを見つめるアオイさんを横目に、私は「ありがとうございます」と小さく付け足しながら玄関の段差に腰を下ろした。草履の紐を解き、土間から木床へと足を上げる。
「あ!リサさんだ!」
「おかえりなさい!」
その時、奥からパタパタという賑やかな足音が響いた。同じようにひょっこりと顔を出したのは、なほちゃん、きよちゃん、すみちゃんの三人だ。私を見つけるなり、ぱっと表情を明るくさせて駆け寄ってくる。
「昨日の雨すごかったですねえ」
「昨夜はリサさんがいないから、寂しかったんです!」
口々に目を輝かせて駆け寄ってくる三人を見つめていると、ぐるぐるとしてた思考がすーっと解けていく。
「雨すごかったねえ、私も寂しかったよ」
私は三人と同じ目線になるようにしゃがみ込むと、迷いを綺麗に振り払っていつもの笑顔で優しく頷いてみせた。
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