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「一人で帰れるな」
昨夜の嵐が嘘のように、開け放たれた扉の向こうには澄み渡った青空の景色が広がっていた。
門の前に立ち、冨岡さんは少しだけ視線を落として私に問いかける。
「はい。…あの、本当に、今回はご迷惑をおかけしました。何から何まで、ありがとうございました。次からはもっと気をつけます」
私は冨岡さんに向き直り、深々と頭を下げた。胸の奥が、熱いような、ちりちりと痛むような不思議な感覚でいっぱいになる。
「朝の用意、助かった」
「あ、いえ。不格好でしたけど…」
冨岡さんはぼそりと言ってから、視線を門の外へ戻した。私はどう受け取ればいいのか分からないまま、顔が遅れて熱を帯びる。
さっき、朝の挨拶を交わした後のことだ――私は一晩のお礼として、竈に残っていた温かいご飯でいくつかのおにぎりを作った。
ただ「お世話になりました」と手ぶらで帰るわけにはいかなかったのだ。あまりにささやかだったけれど、今の私にできる精一杯のこと。
冨岡さんは拒絶することなく、そのおにぎりをしっかりと食べてくれた。
「あの…冨岡さん。これも、良かったら」
門の前で、竹皮に包んだそれをおずおずと差し出す。
「道中、お腹が空いた時にでも食べてください。…その、あまり、ゆっくり食事を摂る時間もないと思って。今朝の余りです」
冨岡さんは少しだけ意外そうに目を見開いたが、大きな手でその包みを受け取ってくれた。竹皮越しに伝わるおにぎりの温もりを確かめるように、彼は一度だけその包みを軽く握る。
それは彼がいつ、どこにいても、少しでもお腹を満たして身体を労わってほしいという、私の切実な願いを込めた贈り物だった。
「…悪いな」
冨岡さんはそう短く答えると、その包みを大切そうに懐へと滑り込ませた。
そんな横顔を見ながら私はまた、昨夜の「休みをくれるんだろう」という彼の言葉を思い出して、勝手に顔を赤くしたりしていた。
「冨岡さんもこれから任務ですよね。…お気をつけて。無理はしないでくださいね」
いつの間にか、冨岡さんは昨夜の無防備な浴衣姿から、いつもの隊服と、あの左右で柄の違う羽織を纏った"水柱"の姿に戻っていた。
その凛とした立ち姿を見ると、なんだか同じ布団の中で感じたあの熱も、腕の強さも、すべては幻だったのではないかとさえ思えてくる。
「高月」
ふと名前を呼ばれ顔を上げると、冨岡さんはおもむろに大きな手を伸ばした。そして私の頭を、ぽんぽん、と毛並みに沿ってゆっくりと撫で続ける。
大きな、節くれだった男の人の掌。けれど、髪を撫でるその動きは驚くほど優しく、丁寧で。彼が何を思ってそうしているのかは分からない。ただの子供扱いに過ぎないのかもしれないし、あるいは昨夜の感謝を、言葉の代わりに伝えてくれているだけなのかもしれない。
けれど撫でられるたび、頬が火照るように熱くなっていく。それと同時に、胸の奥がぎゅうっと締め付けられるように疼いた。
「もう行け。…道中、ぬかるみに気をつけろ」
ようやく手が離れたとき、冨岡さんはいつもの澄んだ瞳で私を見つめ、短く告げた。
私は消え入りそうな声で「はい」と答え、お互いに背を向けて歩き出した。
*
「た、ただいま戻りました……」
冨岡さんの屋敷を後にし、ようやく蝶屋敷へと辿り着いた。おそるおそる、といった足取りで玄関をくぐると、静まり返っていた廊下の奥からパタパタと軽やかな足音が近づいてくる。
「あ!リサさんだ!」
「リサさんが戻られました!」
「しのぶ様ー!アオイさーん!リサさんが帰ってきましたー!」
姿を見せるなり、きよちゃん、すみちゃん、なほちゃんの三人が弾かれたように私の元へ駆け寄ってきた。
「あ!みんな…!」
「リサさん!お帰りなさい!」
「無事でよかったです。昨日の雷、すごかったですね」
三人娘が、花が咲いたような笑顔を向ける。彼女たちの屈託のない心配に、強張っていた私の心も少しずつ解けていくのが分かった。
「た、ただいま。本当にすごい嵐だったよね。ごめんね、皆に心配かけて……」
「いいえ!リサさんが無事に戻られたなら、それでいいんです!」
三人は顔を見合わせて、元気よく頷いた。今の私には、この騒がしくて温かい日常が何よりの薬であり、心地よい活力を与えてくれる。
「あの雨でしたもん。水柱様のお屋敷に泊まってくるって分かってましたよ。…道がぬかるんで、帰りも歩きにくかったでしょう?」
奥から、大きな洗濯物を抱えてアオイさんが現れた。彼女も私の前までやって来ると、眉を下げて安堵の溜息を漏らす。
そして、そのすぐ後ろから、いつもの穏やかな微笑みを湛えたしのぶさんまで姿を見せた。
「お帰りなさい、リサさん。雨に降られずに済んだようで何よりです」
「アオイさんに、しのぶさん…!はい、冨岡さんが嵐が過ぎるまで屋敷に泊まっていくように言ってくださって」
私の言葉に、しのぶさんは「あら」と少しだけ目を細めた。
「それは良かったです。あの方は言葉は足りませんが、いざという時は頼りになりますからね。避難先が冨岡さんの屋敷で正解でした」
しのぶさんの言葉に、三人娘も「よかった、よかった」と頷き合っている。
「またまた、ご心配をおかけしました……すみません……」
皆が口にするのは、純粋に私の身を案じる言葉ばかり。冨岡さんのことも、言葉は足りないけれど信頼できる人として、当たり前のように受け入れている。
そんな温かな空気が、今の私には少しだけ眩しかった。
「…何か、無理やり変なことはされませんでしたか?もし指一本でも不埒な真似をされたのなら、隠さずに言ってくださいね」
「…そうです。泣き寝入りなんて絶対駄目ですからね…」
しのぶさんの言葉に、アオイさんも小声にして詰め寄ってくる。その言葉に、私の心臓は変な音を立てて跳ね上がった。
変なこと、ではないけれど。ものすごく強引に抱きしめられたし、朝まで密着してしまった。もちろん、それが彼なりの不眠からの救いだったなんて、この場では絶対に説明できない。そんなことを言えば、それこそ「不埒な真似」として冨岡さんの立場が危うくなってしまう。
けれど、潔白を証明しようにも、脳裏にこびりついた昨夜の彼の体温。今朝のあの頭を撫でられた感触が、私の顔面をこれ以上ないほど真っ赤に染め上げていた。
「え、えっと……はい、あの、まったく!大丈夫です!変なことなんて、何一つ!ご飯もちゃんと食べましたし、冨岡さんにもとても良くしていただきました」
私の必死の弁解が届いたのか、張り詰めていた空気がふっと緩んだ。
「……そうですか。それなら良かったです」
しのぶさんがふわりと肩の力を抜き、ようやくいつもの柔らかな微笑みに戻る。アオイさんも握りしめていた拳を解いて、安堵のため息を漏らした。
彼女たちの中で、冨岡さんは一体どんなイメージで、どんな扱いをされているのだろうか。まさか、冨岡さんがそんなことをするはずはない。
皆が安心してくれる一方で、私の胸の内はちりちりと焼けるような罪悪感に苛まれていた。皆が心配しているような「不埒なこと」は、確かにされていないけれど。あの暗闇の中での切実な抱擁も、明け方のあの密着も、嘘偽りのない事実なのだ。
…ごめんなさい。皆に嘘をついてしまいました。心の中でそう呟くだけで、また顔が熱くなる。
昨夜のあの"秘密"は、私と冨岡さんだけのもの。そう自分に言い聞かせれば聞かせるほど、彼の掌が髪に触れたあの重みが、今も頭頂部に残っているような気がしてならない。
「そういえば、リサさんは朝餉はまだ召し上がっていないですよね?」
ふと思い出したように、アオイさんが抱えていた洗濯物を持ち直しながら訊ねてきた。
「残りがありますから、準備しましょうか?」
「あ……。実は、冨岡さんのところでおにぎりを少しいただいたんですけど。でも、なんだかまだお腹が空いているので、もし良ければいただいてもいいですか?」
本当は、胸がいっぱいで何も受け付けないような気もしていた。
けれど、こうして蝶屋敷の賑やかで温かい日常に触れていると、なんだか無性に"いつもの食事"を口にして、浮ついた心を無理やり地面に繋ぎ止めておきたくなった。
「分かりました。すぐに用意しますね」
「すみません、ありがとうございます」
アオイさんの気遣いに甘えて、私はへらりと笑うと皆と一度別れて、縁側に近い食堂へと向かった。
食堂の板間には、トントンと小気味よい包丁の音が響いていた。
アオイさんは私の目の前で、昼餉の下準備に追われている。大ぶりの大根を丁寧に剥き、慣れた手つきで銀杏切りにして。傍らには出汁を取るための煮干し。ここの台所はいつもの香ばしい香りに満ちている。
アオイさんが用意してくれた麦飯を口に運びながら、私はその様子をぼんやりと眺めていた。昨夜のあの静まり返った冨岡さんの屋敷とは、何もかもが対照的だ。
「そういえば、昨夜の嵐で屋根の瓦が何枚か飛んでしまったみたいで。今、炭治郎さんたちが直してくれているんですよ」
アオイさんが指先で天井の上を指し示す。耳を澄ませば、トン、トンという
「そうだったんですね。すごい風だったから…」
「はい。男手がいると助かります。私たちだけだと、どうにも力仕事は上手くいかないことが多いですし」
アオイさんは苦笑混じりに言いながら、今度は大根の皮を剥き始めた。シュッ、シュッ、と小刀が滑る音が響く。
炭治郎くんたち、自分たちだって任務で疲れているはずなのに…。優しいな。おかげで蝶屋敷は雨漏りせずに済むだろう。私も、何か手伝いに行ったほうがいいだろうか。
「私も、あとで様子を見に行きましょうか?瓦を運ぶくらいならできますし」
「いけませんよ。リサさんは怪我をしてはいけないので、ここに居てください。…それよりも、水柱様のお屋敷は大丈夫でしたか?木が倒れたりなんかは…」
アオイさんはそう言いながら、手際よく銀杏切りにした大根を器に広げていく。
冨岡さんの名前が出ても、今の私は至って冷静に受け答えをすることができた。
「たぶん、大丈夫だったと思います。瓦も飛んでなかったし……あ、お味噌汁ですか?いい匂い」
「はい、今日の昼はけんちん汁にしようと思って。炭治郎さんたちも、作業が終わる頃にはお腹を空かせているでしょう」
アオイさんの言葉に私は窓の外に視線を移し、雲一つない青空を見上げた。屋根の上では、まだ炭治郎くんたちが楽しそうに作業を続けている声が聞こえてくる。
冨岡さんの屋敷での出来事は、胸の奥の小さな宝箱にそっと仕舞い込んだ。それを何度も取り出して感傷に浸るほど、今の私は暇ではないし、この屋敷にはやるべきことが溢れている。
「……アオイさん。食べ終わったので、私も手伝います」
「助かります。それでは、ご飯を炊いていただいてもいいですか?」
「はい!もちろんです」
私は袖を捲り上げると、清潔な布巾を手にとった。
昨夜の冷たい雨も、あの人の不器用な手のひらの重みも。今はもう、この穏やかな冬の陽光の中に溶け込んで。蝶屋敷の日常の一部へと変わっていくような気がした。
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