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「暴漢たち、捕まりました」
朝餉を食べ、言われた通りしのぶさんの診察室を訪れた時のことだった。
薬草の詳しい煎じ方についての指示を受けていたら、突然しのぶさんが「そうそう、そう言えば」なんて軽く言い始めたので、一瞬何のことだか理解が追いつかなかった。薬草の分厚い本を持ったままきょとんと目を瞬かせて首を傾げる。
暴漢たち、と言ったのか。
「……あの、人たちですか」
「ええ。あなたを襲った二人組の男達ですよ」
さらりと横髪を耳にかけながら、しのぶさんは手元のカルテに万年筆を走らせる。そんな仕草でさえ様になってしまうんだから本当に美しい人だと思う。
私を襲った二人組の男。心当たりはもちろんひとつしかない。
「捕まったって、どうして……」
「あの方たち、他の町でも辻斬り紛いの脅迫や強盗を繰り返していたようなんです」
しのぶさんはカルテから視線を上げず、どこか淡々とした声で続けた。
「数日前、雨に乗じて商家へ押し入ろうとしたところを、張り込んでいた警官たちに一網打尽にされたそうですよ。……まあ、あれだけ悪さを重ねていれば、遅かれ早かれお縄につくのは目に見えていましたけれどね」
「そう、だったんですか……」
彼ら自身の積み重ねた悪行が巡り巡って、しかるべき法の手によって縛られたようで一安心する。
また誰かが嫌な目に遭う前に、ちゃんと捕まってくれて本当によかった。あんな危険な連中が野放しになったままだったら、今頃どこかで別の誰かが泣いていたかもしれない。
「隠が念のため未決監まで顔を確かめに行ってくれたのですが……間違いありませんでした。これであなたも安心して町へ出られますね」
万年筆が止まり、しのぶさんがゆっくりと顔を上げた。私を安心させるための、いつもの優しく可憐な微笑み。
隠の人もわざわざ確認に走ってくれたなんて。鬼殺隊とは全く関係のないお仕事なのに。
「あ、隠に指示を出したのは冨岡さんですよ。あの人は言葉が足りませんが、やることが手早くて助かりますね」
「えっ冨岡さんが?」
「一晩一緒にいて、冨岡さんは何もおっしゃっていませんでしたか?」
くすっと楽しそうに目を細めるしのぶさんに、私は「……何も、聞いていませんでした」と呟くのが精一杯だった。
何も、知らなかった。本当に全然。現代と違って防犯カメラもなければ、街灯すらまばらなこの時代だ。暗闇に紛れて人を脅かすような質の悪い連中が、そう簡単に捕まるわけがない。あんなのがずっと野放しにされているのは嫌だなあと頭の片隅でなんとなく思ってはいたけれど、どこかで半分諦めてもいたのだ。
もしかして、ここ数ヶ月。冨岡さんも、しのぶさんも、私が気づかないところで彼らを捕まえるためにずっと手を回してくれていたのではないだろうか。鬼殺隊の任務とは何の関係もないのに…。
「捕まるとは思ってませんでした……」
あの日のことを思い出すとお腹の奥の方がずしりと重くなって、体が冷えるような心地がした。忘れよう忘れようと思っていても、体はそう簡単にあの日感じた恐怖を消し去れはしない。
「現行犯だったからこそ、言い逃れもできずにその場で捕縛されたのですよ」
本当に、よかった。よかったのだけれど。二人がそこまでしてくれていたなんて。
また一方的に守られ、助けられてしまっていた。以前、尾崎さんの件があった時もそうだった。
気づかぬまま能天気に過ごし、裏で苦労をかけていたことを後から知る。守られている安心感と、何も知らないままだった情けなさ混ざり合い、複雑な気持ちにもなる。
「しのぶさん……。隠の方や、冨岡さんにもよろしくお伝えいただけますか。それから……本当にありがとうございました」
いや、冨岡さんには今度会った時に自分からも必ずお礼を言おう。
何か私にもできることがあればさせて欲しかったが、もしかしたら私にはわからない事情が絡んでいたのかもしれない。
「そんなお顔をしなくても大丈夫ですよ」
「……どんな顔してます?」
「申し訳なさそうな心配そうな、そんな顔です」
「私そんなに顔に出ますか」
「ええ、とてもね」
困って眉尻を下げれば、反してしのぶさんはくすりと笑った。
そのうち私が何も言わなくても、全てしのぶさんに筒抜けになってしまう日が来るのではないかと思う。今でさえ考えてることもすぐにバレてしまうような状態なのに。
「……能面のような顔立ちを目指してみます」
「応援していますよ」
「しのぶさん棒読みです」
「あら」
む、と口を尖らせてもしのぶさんは優しく笑うばっかりだ。なんだかなあと思いながらも、不思議と嫌な心地はしない。
私は、たぶん。こうしてしのぶさんに微笑んでもらえるのが好きなんだ。褒められたわけでもないのに、何かを認めてもらえたような気がして、心がふわりと浮かぶ。
子どものころ、頑張った宿題を母に見せたときのような、そんなあたたかい気持ちに似ている。
「そうだ、リサさん。昨夜は大丈夫でした?」
万年筆を軽くトントンと机に打ちつけながら、しのぶさんは思い出したように尋ねてきた。
「あ、はい。冨岡さんのおかげで無事に嵐を凌げました」
「冨岡さん相手なので私たちも安心して任せていたのですが、他には大丈夫でした?嫌なことは何も?」
「え?は、はい。特になにも……」
「なら良かったです」
そう言いながら、しのぶさんは再び手元のカルテに視線を戻した。
確かに、嫌なことなんて何ひとつなかった。むしろ、色々世話を焼いてくれたのだから感謝しかない。ただ――。
抱えていた薬草の分厚い本を、棚へ静かに戻す。背表紙を指先で整えながら、ふと手が止まった。
あのことを、しのぶさんに聞いてもいいだろうか。あまりにも踏み込みすぎ?うん、でも、やっぱり聞いてみよう。しのぶさんなら、彼の体調のことも把握しているだろうから。
「あの、しのぶさん……冨岡さんのことなんですけど」
「はい?」
「冨岡さん、なんだかあまり眠れていないみたいですけど。大丈夫なんですか?」
「さあ?大丈夫なんじゃないですか」
少し思い切って尋ねてみたものの、しのぶさんの反応は思っていたよりもずっとあっさりとしたものだった。
「冨岡さんも大人ですし、ましてや鬼殺隊の柱ですからね。そのあたりはご自分で上手くやっていらっしゃるんじゃないですか?私は頼まれた時に、そのお手伝いとして薬をお出しするくらいですよ」
顔を上げることもなく、さらりと淡々と言い放つしのぶさん。冷たいと言うべきなのか、それとも同じ柱として余計な口出しをしないという信頼の裏返しなのか。
拍子抜けしてしまった私を前に、しのぶさんは「あら」と顔を上げ小さく首を傾げた。
「そんなに心配ですか?」
「昨夜ずっと起きてたみたいなので。体のことが少し気になって」
「ふふ、そうですか」
しのぶさんは顎に指を添え、小さな溜め息交じりの笑みを零す。
「ですが、これは冨岡さん自身が立ち向き合い、折り合いをつけていくしかない領域です。私たちはどうすることもできませんよ」
「そう、ですよね……」
しのぶさんの言っていることは何ひとつ間違っていない。私には、何もできない。
昨夜まで手を伸ばせば触れられる距離にいたはずなのに、彼の抱える孤独はあまりにも遠く、深い。
届かない歯痒さに胸を締め付けられる。そんな私の様子を、しのぶさんはじっと見つめていたらしい。
「……だから言ったでしょう。川は、見た目よりずっと流れが速いんですよ。油断して足を入れれば、一瞬で浚われて深みに嵌まってしまう。……そう、忠告したはずですが」
忠告は覚えていた。自分でも分かっていたはずだった。
けれど、静かに私を見つめるしのぶさんの瞳。
ああ、この人はきっと、全部気づいている。私の気持ちも、私がどうして冨岡さんのことが心配なのかも。
いくら繕ったところで、この鋭く優しい人の目を欺けるはずもなかった。
私は何も言えず、逃げるように床へと視線を落とした。誤魔化すことすら諦めてしまうほど、彼女の言葉はあまりにもまっすぐに私の本心を射抜いていたから。
一体いつから気づいていたのだろう。尾崎さんの件で私が泣き崩れた日か、冨岡さんの名前を出すたびに私がわずかに視線を泳がせていた瞬間か、それとも――昨夜、大雨のなか無断で外泊したと知ったその時だろうか。
「ですが、一度流されてしまったなら、もう泳ぎ切るしかないんじゃないですか?」
「え……?」
パタン、と手元のカルテを木箱にしまいながらあっけらかんと言われて、私は思わず弾かれたように顔を上げる。
泳ぎ、切る…?
「中途半端に足をすくわれて溺れるくらいなら、腹を括って向こう岸まで泳ぎ切ってしまったらどうですか、ということです」
しのぶさんは万年筆のキャップをカチリと閉めると、いつもの可憐な笑みを私に向けた。
泳ぎ切る。境界線の手前で踏みとどまろうと必死になって、溺れるのではなくて逆に泳ぎ切る。
心配なら、迷うくらいなら、中途半端に気にかけるくらないなら。足が届かなくなろうと、流れがどれだけ速かろうと、彼が抱える渦の中へ、逃げずに最後まで飛び込んで見届ける覚悟を持つ。
そういうことを、しのぶさんは言っているのだろうか。
今までずっと、自分を守るために必死だった。けれど、二人は違う。鬼殺隊の任務とは何の関係もない、私の小さな恐怖を、私が知らぬ間に手を回して守ってくれていた。一言の押しつけがましさもなく、当たり前のように。
いつも守られてばかりで、助けられてばかりで、後からそれを知ってばかりいるのは、私だってもう嫌だ。
そうか。足が届かなくなろうと、冷たい流れに身を削られようと。向こう岸がどれだけ遠くても、彼がどれだけ深い渦の中にいようとも。
途中で投げ出さず、この手で、この足で、最後まで泳ぎ切ればいいんだ。
重く塞いでいた迷いが綺麗に消え去り、澄み渡っていくのを感じる。私は深く息を吐き出すと顔を上げた。
「しのぶさん」
「なんでしょう?」
カルテを片付け終えたしのぶさんが、不思議そうにこちらへ振り返る。
私は自分の胸にそっと手を当て、まっすぐ彼女を見つめ返した。
「あの、お願いがあるんですけど……」
*
「うーん……」
それから数日後。座卓の上に広げた分厚い書物を前に、思わず深い溜息を漏らす。
指先で眉間を揉み解してみるけれど、紙面に並ぶ難解な漢字の羅列は、いくら見つめても私の脳内にすんなりと入ってきてはくれない。
…これも、これも、全然分からない。現代で使っていた文字とは微妙に形が違うし、何より専門用語が多すぎる。薬草の名前なのか、それとも症状を表す言葉なのか。前後の文脈から推測しようにも、独特の言い回しが壁となって立ちふさがっていた。
「……やっぱり、独学じゃ無理があるのかな」
がくりと肩を落としたその時、背後の襖が静かに開き、心地よい足音が近づいてくる。
「リサさん、何してるんですか?そんなに眉間に皺を寄せて」
顔を上げると、そこには洗濯済みの衣類を抱えたアオイさんが立っていた。
彼女は私の手元にある、およそ素人が読むには場違いなほど分厚い本を一瞥し、不思議そうに首を傾げる。
「あ、それ……。しのぶ様の医学書じゃないですか。もしかして何か調べ物ですか?」
「そうなんです。しのぶさんに言って借してもらったんです。不眠に効く食べ物とか、その……どうしても眠れない人を、こう、すんなり寝かしつける方法とか、そういうのを勉強しておこうかなって……」
正直に答えると、アオイさんは一瞬目を丸くした後、私の顔と本を交互に見つめた。そして、何かを察したようにふっと優しく微笑むと、抱えていた洗濯物の山を足元に置く。
「……なるほど。そういうことですか」
アオイさんは私の横に膝を立てて座り込むと、座卓の上の分厚い本を、慣れた手つきでぱらぱらと捲り始めた。
「この本は確かに名著ですけど、言葉が古すぎて実用的じゃない部分もありますから。……そうですね、例えば寝不足の方には、まずは胃に優しいものが一番ですよ。生姜を効かせた温かいお粥や、神経を落ち着かせる薬湯……あとは、そうですね。香りのいいお茶を淹れてあげるのもいいでしょうね」
彼女の細い指が、ある頁で止まる。そこにはいくつかの薬草の図解と、身体の各部位を記した絵が描かれていた。
「食べ物も大事ですけど、あとは……ここ。手のこのあたりにあるツボをゆっくり押してあげると、昂った気が静まって眠りにつきやすくなるんだそうです」
アオイさんは私に分かりやすいように、自分の手の甲を見せて、親指と人差し指の付け根あたりを指し示してくれる。
「文字で読むより、実際にやってみた方が覚えられますよね?とみ……あ、いえ、その方にやってあげる前に私の手で練習してみますか?」
「い、いいんですか……!ぜひ教えてください」
とても親身になってそう言ってくれるアオイさんの優しさが、とても心強かった。難解な漢字の羅列に絶望していたさっきまでの時間が嘘のように、彼女の解説はすんなりと頭に入る。
なるほど、そういうことか。こうすればいいのか。薬を作ることはできなくても、これなら私にもできるかもしれない。
一筋の光が見えたような気がして、私は前のめりになってアオイさんの言葉に耳を傾けた。
「この親指と人差し指の付け根が合わさるあたり。
「……ここ、ですか?」
「そうです。そこをただ押すんじゃなくて、骨のキワに向かってじわりと力を入れる感じです」
教えられた通り、ゆっくりと彼女の手に圧をかけていく。
「……これ、効いてます?」
「はい、上手ですよ。そのツボは万能なんです。頭痛や肩こりにも効きますよ」
「そうなんですね!覚えておきます」
そう言って、彼女からそっと手を離した。
今の感覚、絶対忘れないようにしなければ。私は自分の指先を見つめ、何度も今の力加減を頭の中で繰り返し、帳簿に書き留めていく。
「勉強熱心ですね」
「いえ、こうでもしないと覚えられないので……」
必死に紙に万年筆を動かす私に、アオイさんがどこか感心したように言った。
境界線の手前で立ち尽くすのは、もうやめたのだ。私は逃げずに、すべてを丸ごと受け止めて心配し続けると決めた。
けれど、鬼殺隊の力になれるほどの剣技もなければ、しのぶさんのように高度な薬を調合できる知識もない私に、一体何ができるだろう。そう考え抜いた末の足掻きが、この分厚い医書にしがみつくことだった。
たとえ小さなことでもいい。専門的な知識がなくても、私にできることがきっとあるはずだ。
「あまり根を詰めすぎないでくださいね」
「はい、ありがとうございます……!アオイさんに教えていただけてすごく助かりました」
「いいえ。……誰かが自分のために何かをしてくれようとしているっていう事実そのものが、一番の薬になることだってありますからね」
「……一番の、薬ですか?」
「はい。そのお知り合いの方も、喜んでくださるといいですね」
アオイさんはそう言って柔らかく微笑むと、「必要なら、お茶の淹れ方やお粥の作り方もいつでも訊いてくださいね」と付け足してくれた。
「では、私は残りの洗濯物を干してきますね」
アオイさんはいつものテキパキとした足取りで部屋をあとにした。パタンと襖が閉まり、部屋に再び静寂が戻る。
残された私は、アオイさんの言葉を噛み締めるようにじっと手元を見つめた。
誰かが自分のために何かをしてくれようとしていること、か…。
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