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縁側に出ると乾いた風が吹き抜け、風鈴がちりんと涼しげな音を立てて揺れた。
数日前のあの嵐が、季節を無理やり押し進めてしまったのかもしれない。梅雨の湿り気をすべて連れ去るようにして、蝶屋敷にも鮮やかな夏が近づいてきていた。
「すっかり暑くなりましたね。でも、そのおかげで洗濯物が早く乾くので、そこだけは助かります」
物干し場で手際よく敷布を広げたアオイさんが、額の汗を拭いながらこちらを振り返った。
まだ本格的な猛暑とまではいかない。けれど、じりじりと照りつける日差しは確実に地面の温度を上げている。
朝の掃除を終える頃には、
「そうですね。でも、私はこのくらいの天気の方が好きかもです。元気が出るし、雨の日だとどうしても気分が沈んじゃうから……暑すぎるのは嫌ですけど」
私が敷布を干しながらそう答えると、アオイさんは「そうですね。気持ちは分かります」と、少しだけ表情を緩めた。
この突き抜けるような太陽の光は、知らず知らずのうちに縮こまっていた心を解き放ってくれるような気がする。
「……あ、カナヲさん」
ふと庭の隅に目を向けると、木陰になった
以前の彼女は、暇さえあれば一人で庭に座り込み、虚空を見つめながらシャボン玉をふかしているような子だった。
けれど最近のカナヲさんは、任務から戻ればこうしてアオイさんたちの仕事をごく自然に手伝うようになっている。昼間はしのぶさんと共に厳しい鍛錬に励み、それ以外の時間は屋敷の誰かと一緒にいることが多くなった。
私もよく、カナヲさんと一緒に庭に出て、にゃー吉を愛でたりしている。彼もすっかりこの屋敷の一員になっていて、今も木の陰で静かに眠っていた。
「カナヲ!なほ、きよ、すみも!あんまり夢中になって、熱中症にならないようにしてね!」
アオイさんが物干し場から大きく声をかけると、三人は一斉に顔を上げて、元気に手を振り返した。
「はーい!大丈夫ですよー!」
「カナヲさんが手伝ってくれてるから、もうすぐ終わります!」
三人の明るい声に混じって、カナヲさんもこちらを振り返り、小さく笑みを浮かべる。
私もここで暮らすようになって、しばらく経ったけれど。やっと彼女の表情の変化で、何が言いたいのか分かるようになってきた気がする。
たぶん、今のは嬉しい微笑みだ。
「カナヲさんもすっかり、表情が柔らかくなりましたね。なんだか、見ているこっちまで嬉しくなっちゃいます」
カナヲさんの変化に目を細めていると、隣で敷布を叩いていたアオイさんが、ふっと表情を和らげて頷いた。
「そうなんです。最近では自分から『何か手伝うことはありますか?』と聞いてくれることもあるんですよ」
その時。そんな穏やかな会話を遮るように、門の向こうから砂利を引きずる不穏な音と、甲高い嘆き声が聞こえてきた。
この声は、言うまでもなく…。
「あー!もう嫌だ!死ぬ!絶対死ぬ!暑すぎて脳みそが沸騰して、耳から溢れ出しそうだよ炭治郎!ねえ聞いてる!?太陽が俺のことだけ狙い撃ちしてるんだってば!」
善逸くんだ。
「…善逸、落ち着けって。そんなに叫んでるから余計に体力を奪われてるんだぞ……って、あ、みんな!ただいま戻りました!」
門をくぐって庭先に現れた、爽やかな笑顔を向ける炭治郎くんと、今にも地面に溶け出しそうなほど項垂れた善逸くん。
善逸くんは縁側まで辿り着く気力もないのか、そのまま物干し場へと這い寄ってくる。
「おかえり、炭治郎くん、善逸くん。梅雨が終わってすっかり暑くなったね」
私が声をかけると、善逸くんは炭治郎くんの腕にしがみついて、恨めしそうにこちらを仰ぎ見た。
「そうだよお!これでまだ七月なんだよ!?これから八月になってもっと暑くなるんだよ!?まだ夏本番前なのにこれって、地獄だよ!絶望だ、これからの人生に絶望しかないよおぉー!」
あまりのやかましさに、木陰で丸まっていたにゃー吉が迷惑そうに片目を開け、耳を伏せてまた眠りにつく。
「リサさん、ただいまです。本当に一気に夏が来たみたいで、帰り道に善逸が途中で何度も倒れそうになって大変でした」
炭治郎くんは苦笑いしながら、しがみついてくる善逸くんを優しく支えている。自分だって汗だくなのに、仲間のことを真っ先に気遣う彼の強さは、見ていて本当に頭が下がる。
「地獄だよおぉー!嫌だよおぉー!」
相変わらずの調子で喚き散らす善逸くんに、アオイさんがついに堪り兼ねたように腰に手を当てて立ち塞がった。
「善逸さん!静かにしてください!大きな声を出すと、療養中の方々に響きます!……全く、後で冷たい麦湯を淹れてあげますから、それまで我慢してください!」
アオイさんの凛とした一喝に、善逸くんは「ひぃっ!」と短い悲鳴を上げて、炭治郎くんの後ろで芋虫のように縮こまった。
その極端な反応に、隅で水をやっていた三人娘からもクスクスと笑い声が漏れる。
「あ、アオイさん。麦湯なら、私が用意してきます。他の隊士の方も分も一緒に」
私がそう申し出ると、アオイさんは少し意外そうに目を瞬かせた。
「えっ、いいんですか?助かります、リサさん。……では、お言葉に甘えてもよろしいでしょうか」
「もちろん!任せてください」
私はアオイさんに笑顔で返すと、まだぐったりしている善逸くんの方を向いた。
「ほら、炭治郎くん、善逸くん。台所に行こう。冷たいお水で顔を洗って、麦湯を飲めば少しはシャキッとするはずだよ」
「……麦湯。冷たい麦湯……!リサちゃん、君は女神だ!」
現金なもので、善逸くんは麦湯という単語を聞いた途端、さっきまでの絶望が嘘のように這い上がってきた。
炭治郎くんも「喉が渇いてたんです、ありがとう」と、いつもの明るい微笑みを浮かべる。
「善逸は大袈裟すぎるだ、いつも!」
「そうだよ、善逸くん。夏は楽しいこともたくさんあるんだから。でも、今日は一段と日差しが強かったから、大変だったよね」
私は二人を先導するように、縁側に上がり、賑やかな夏の光が差し込む廊下を歩き出した。
背後からは、まだアオイさんに小言を言われている善逸くんの声と、それを宥める炭治郎くんの声が聞こえてくる。
私は二人の姿を後ろ目に見守りながら、これから始まる本格的な夏の気配を、ほんの少しだけ楽しみに感じていた。
***
「アオイさーん、洗濯物終わりそうですか?私たち水やりもうすぐ終わるのでお手伝いしましょうか?」
「あ、ごめん。あと少しなんだけど、お願いしていい?」
「はーい!あ、カナヲさんはじょうろのお片付けをお願いしてもいいですか?」
「…うん」
なほたちがこちらに駆け寄ってきて、パシッ、パシッ、と濡れた布を伸ばしてくれる。
…本当に、暑くなった。こうして少し庭に出ただけで、私の首筋にじっとりと汗を滲ませる。
「暑いですねぇ……」
なほが額を拭いながら、空を見上げる。
「そうだね。でもこれだけ晴れていれば、鬼も出て来られないしちょうどいいでしょう」
そんな何気ない会話を交わしながら、私は次々と敷布を広げていった。
蝶屋敷は、いつも誰かの声や物音が絶えない場所だ。療養中の隊士たちの呻き声、三人娘の笑い声、そしてどこからか聞こえてくる炭治郎さんたちの賑やかなやり取り。
それが当たり前で、それが日常だった。
「………」
けれど、善逸さんたちがリサさんに連れられて去って行ったその時ばかりは、しんと静まり返っていて。
どこからか視線を感じて振り返った私は、危うく抱えていた洗濯籠を落としそうになった。
いつの間にそこにいたのか。門の近く、
左右で柄の違う羽織、首元までしっかり締められた隊服。そして冷徹なまでに澄んだ蒼い瞳。
「み……水柱様……?」
あまりに静かな、それでいて圧倒的な存在感。
「お、お疲れさまです……」
「水柱さま…!」
「しのぶさまをお探しですか?」
きよとすみも、驚いたように声を上げる。その佇まいは、いつにも増して静かだった。
突然、どうされたのだろう。水柱様は私たちをじっと見つめたまま、しばらく沈黙した。その沈黙が数秒、十数秒と続く。
あまりの長さに、私は自分の言葉が届かなかったのかと不安になり、もう一度口を開こうとした。
「…いや」
ようやく返ってきたのは、短く掠れた一言。
いつもなら彼がここに現れるときは、しのぶ様に何か用があるか、あるいは検診を受けるときだけだ。けれど、今の彼には怪我を負っている様子もない。
しのぶ様ではない。では、誰に?
「あ、では…リサさんをお呼びしましょうか?今、台所で麦湯の支度をしてくださっていて…。すぐに呼んで参ります」
普段からお手伝いのために彼の屋敷へ訪れ、あの嵐の夜にはお屋敷に泊めてもらったというリサさんの顔が浮かんだ。
彼女なら、この無口な方ともそれなりに意思疎通ができるはずだ。そう判断して踵を返そうとした私を、彼の低い声が引き止めた。
「必要ない」
「えっ……?」
拒絶された。では、一体何をしに?私の頭の中は混乱で埋め尽くされていく。
しのぶ様にも用がなく、リサさんにも用がない。それなのに、こうしてわざわざ蝶屋敷の庭まで足を運んでくる理由が、どうしても見当たらなかった。
もしかして、しのぶ様が定期的に渡しているという薬が切れたのだろうか。
「お薬のことですか?」
「ちょうどいい、神崎」
「は、はい……?」
彼が一歩、こちらへ歩み寄ってきた。
どうしたら、水柱様が私の名前を呼ぶなんてことになるのか。側にいる三人娘も彼が何を言い出すのかと、固唾を飲んで見守っているのが伝わってくる。
「高月の、好きな物は何だ?」
「…………へ?」
素っ頓狂な声が漏れた。私は慌てて自分の口元を押さえる。いや、今の問いかけは私の聞き間違いだろうか。
けれど、私の隣にいた三人娘の反応は、私とは正反対で。彼女たちは顔を見合わせると、まるですべてを察したかのようにパアッと顔を輝かせた。
「できれば早く、胡蝶と高月がいない間に教えて欲しい」
「あ、その……えっと」
私は頭の中を必死に回転させて、正解を探した。
これは本当に、あの水柱様なんだろうか。人にお願いごとをする、それもこんなに個人的な内容を私へ訊ねるなんて。
…リサさんの好きなもの?何だろう。何を話せば、この場を丸く収められるだろうか。
甘いもの?可愛いもの?それとも、実用的なもの?彼女はいつも、みんなの好みを優先して自分は後回しにするようなところがある。
だからこそ、彼女自身の「これが好き」という強いこだわりを、私はすぐには思い出せなかった。
「食べ物だったら、具なしのおにぎりが好きって言ってました!」
私の思考を遮るように、後ろからきよが元気よく声を上げた。
「あと、甘いものは何でも好きみたいです!この前もお萩を美味しそうに食べてました!」
「簪とか、綺麗な色のお花も好きって!」
なほとすみが、私の混乱をよそに口々に答えていく。
そうなんだ、具なしのおにぎりは知らなかった。それにしても、なぜ具なしなんだろう。贅沢を言わない彼女らしいと言えばらしいけれど、おにぎりとしては少し地味すぎるのではないか。この屋敷で作るのは、梅や昆布など、ほとんど具入りのものだ。
冨岡様の表情にも、少し困惑の色が混じった気がする。
「あとは……そうですね、流行りの新しいものも何でも好きみたいです」
きよの言葉に、私はふと彼女の表情を思い出す。確かに、新しい流行りものは好きそうだけれど。あれは、"好き"と言うより…。
「たしかに、新しいものを見てよく嬉しそうにしてますけど。でも、好きというよりどこか懐かしそうな顔をしてる気が……」
「…懐かしい?」
冨岡様が、私の付け足した言葉をなぞるように呟いた。
町で新しく売り出された洋菓子やキャラメル、硝子玉が涼しげに音を立てるラムネ。そんな時代の"最新"に触れる時、彼女は私や三人娘と同じように、年相応の輝きを瞳に宿す。けれど、その直後だ。
ふとした拍子に、彼女はすべてを知っているかのような、ひどく遠い目をする。
新しいはずのものを、懐かしそうに笑う彼女の矛盾。その表情を見るたび、私の胸のどこかにざらりとした、正体の知れない違和感が残るのだ。
「…そうか。分かった、ありがとう」
「は、はい。とんでもない、です……」
こんな返答でも彼は満足したのか、踵を返して来た時と同じように音もなく去って行った。
残された私はしばらくの間、口を開くことができず立ち尽くした。強い太陽の光の下、洗濯物の湿った匂いだけが漂っている。
「……アオイさん、戻って来てください」
隣で一部始終を一緒に見届けていたすみが、そっと私の腰を揺らした。
「ごめん、びっくりして……」
「大丈夫ですよ。全部現実です」
とんとん、と労うように叩かれ、ようやく私は大きなため息をついた。
…リサさん、随分と冨岡様と親しくなったんだな。別に、今に始まった話ではない。思い返せば、引っかかることはいくつもあった。
尾崎さんのことがあった時。眠ってしまったリサさんを、何も言わず屋敷まで運んできた時。あの方はいつも、必要以上のことは語らないくせに、彼女のことになると判断が異様に早い。
気にかけている、という言葉では足りない。もっと静かで、もっと厄介な種類の――本人すら自覚していない感情に、限りなく近い。
…気づいていないのは、リサさんだけかもしれない。そこまで考えて、私は小さく息を吐いた。それ以上踏み込むつもりはない。今は、まだ。
振り返ると、きよ、なほ、すみの三人が互いに顔を見合わせ、「ふふ」と楽しそうに笑い合っている。
あの不器用な水柱様の背中と、隣で密やかに盛り上がる少女たち。その温度差を前に、私はただ黙って視線を伏せた。
「あ、みんな!お洗濯終わりましたか?ありがとうございます。皆さんの麦湯の用意もできてますよ」
その時、廊下の向こうから呑気な声が響いた。走ってきたのか、少しだけ顔を赤くして満足げに微笑むリサさん。
…来るのが遅い、と心の中で怒ってしまったのは、どうか許して欲しい。
あと少し早ければ、彼が何を思ってここへ足を運んだのか。それを彼女自身の耳で聞けたかもしれないのに。
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