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縁側に出ると乾いた風が吹き抜け、風鈴がちりんと涼しげな音を立てて揺れた。
数週間前のあの嵐が、季節を無理やり押し進めてしまったようだ。梅雨の湿り気をすべて連れ去るようにして、蝶屋敷にも鮮やかな夏が近づいてきていた。

「すっかり暑くなりましたね。でも、そのおかげで洗濯物が早く乾くのでそこだけは助かります」

物干し場で手際よく敷布を広げたアオイさんが、額の汗を拭いながらこちらを振り返った。
まだ本格的な猛暑とまではいかない。けれど、じりじりと照りつける日差しは確実に地面の温度を上げている。
朝の掃除を終える頃には、ひとえの着物がじっとりと肌に張り付くような感覚がつきまとった。そろそろ、薄い生地のものに衣替えをしても良いかもしれない。

「そうですね。でも、私はこのくらいの天気の方が好きかもです。元気が出るし、雨の日だとどうしても気分が沈んじゃうから……暑すぎるのは嫌ですけど」

私が敷布を干しながらそう答えると、アオイさんは「そうですね。気持ちは分かります」と、少しだけ表情を緩めた。
この突き抜けるような太陽の光は、知らず知らずのうちに縮こまっていた心を解き放ってくれるような気がする。

「……あ、カナヲさん」

ふと庭の隅に目を向けると、木陰になった百日紅さるすべりの近くで、カナヲさんが三人娘と一緒にじょうろを手に薬草に水をやっているのが見えた。
以前の彼女は、暇さえあれば一人で庭に座り込み、虚空を見つめながらシャボン玉をふかしているような子だった。
けれど最近のカナヲさんは、任務から戻ればこうしてアオイさんたちの仕事をごく自然に手伝うようになっている。昼間はしのぶさんと共に厳しい鍛錬に励み、それ以外の時間は屋敷の誰かと一緒にいることが多くなった。
私もよく、カナヲさんと一緒に庭に出て、にゃー吉を愛でたりしている。

「カナヲ!なほ、きよ、すみも!あんまり夢中になって熱中症にならないようにしてね!」

アオイさんが物干し場から大きく声をかけると、三人は一斉に顔を上げて、元気に手を振り返した。

「はーい!大丈夫ですよー!」
「カナヲさんが手伝ってくれてるから、もうすぐ終わります!」

三人の明るい声に混じって、カナヲさんもこちらを振り返り、小さく笑みを浮かべる。
私もここで暮らすようになって、しばらく経ったけれど。やっと彼女の表情の変化で、何が言いたいのか分かるようになってきた気がする。
たぶん、今のは嬉しい微笑みだ。

「あー!もう嫌だ!死ぬ!絶対死ぬ!」
 
そんな穏やかな会話を遮るように、門の向こうから甲高い嘆き声が聞こえてきた。
この声は、言うまでもなく…。

「暑すぎて脳みそが沸騰して耳から溢れ出しそうだよ炭治郎!ねえ聞いてる!?」

善逸くんだ。

「善逸、そんなに叫んでるから余計に体力を奪われてるんだぞ……って、あ、みんな!ただいま戻りました!」

門をくぐって庭先に現れた、爽やかな笑顔を向ける炭治郎くんと、今にも地面に溶け出しそうなほど項垂れた善逸くん。
どうやら昨夜の任務を終え、その足でそのまま蝶屋敷へ戻ってきたらしい。

「炭治郎さん、善逸さん、おかえりなさい!」
「おかえりなさーい!」

三人娘が手を振って迎えると、炭治郎くんは「ただいま!」と太陽のように眩しい笑顔を返す。
相変わらず真っ直ぐで気持ちのいい挨拶だ。

「あ、おかえり善逸くん」

一方で、私の声に反応した善逸くんは、死にかけのセミのような足取りでずるずるとこちらへ這い寄ってくる。

「リサちゃあん!聞いてよぉ!昨夜の鬼も酷かったけど、この暑さが一番の敵だよ!俺の命の灯火が消えそう……いや、消えた」
「消えたって……善逸くん、大丈夫?すぐに冷たいお水持ってくるね。あ、炭治郎くんもいる?」
「あっ、はい。お願いしてもいいですか?」

大げさに天を仰ぐ善逸くんに苦笑しつつ、私は草履を脱いで縁側に上がる。

「善逸さん、お渡しした薬は毎食飲んでますか?」
「えっ!?さ、さあ?飲んでるんじゃない?失くしてなければ」
「意味の分からないことを言わないでください」

ぴしゃりと叱りつけるアオイさんと、なおも泣きつく善逸くんのやり取りは、もはや蝶屋敷の風物詩のようなものだ。
でも、薬は体のために飲まなきゃだめだ。善逸くんの薬嫌いは相変わらず。
そんなやり取りの隣で炭治郎くんは「ふふ」と楽しそうに目を細めている。

「炭治郎さんは、怪我はなさそうですか?」
「はい!アオイさんのおかげで打撲程度で済みました。……あ、カナヲ!」

庭の隅でじょうろを置いてこちらを見ていたカナヲさんに気づき、炭治郎くんがパッと顔を輝かせて手を振る。
カナヲさんは小さく頷くと、なほちゃんたちと一緒にそっと一礼し、じょうろを物置まで戻しに行った。
言葉はなくとも、無事の帰還を喜んでいるのがその優しい眼差しから伝わってくる。

「あ、そうだ。他にお水欲しい人いません?」

そんな光景を眺めながら角を曲がる直前、私はひょっこりと庭を覗き込むようにして声をかけた。

「私たちは大丈夫です」

物干し場から敷布をパンと叩きながらアオイさんが元気よく答えてくれ、物置から戻ってきたきよちゃんもその横で小さく首を横に振ってみせる。

「わかりました!」

私はそう返事をすると、ぱたぱたと足音を立てて台所へと向かった。
井戸から汲み上げられたばかりの冷たい水と氷を湯呑みに注ぎながら、ふと口元がゆるんでしまう。 
…すっかり賑やかになった。これから始まる本格的な夏の気配を、私はほんの少しだけ楽しみに感じていた。




***




リサさんが軽やかな足音を立てて、廊下の奥へと消えていくのを見送る。
物干し竿に引っ掛けた敷布を両手で力強く叩くと、初夏の乾いた空気に小気味よい音が響き渡った。

「はぁぁ。リサちゃん、今日もすっごく優しかったなぁ……」

縁側にへたり込んだまま、善逸さんがふにゃけた顔で天井を仰いでいる。
さっきまで「死ぬ、脳みそが沸騰する」と大騒ぎしていた人と同一人物とは思えない変わり身の早さだ。

「でも、リサさんが元気そうで本当によかったよ。任務に出る前は、まだ少し顔色が悪そうだったから心配してたんだ」

炭治郎さんが背負い箱を下ろしながら、ほっとしたように目を細める。
炭治郎さんは、いつも屋敷に残る人たちの様子を細かく気にかけている。特に、那田蜘蛛山の一件以来、どこか思い詰めたように過ごしていたリサさんのことは、炭治郎さんも善逸さんも、そして私も。ずっと気に病んでいるのだ。

「リサちゃん、真面目だから無理して倒れたりしないかって気が気じゃなかったんだよね。ちゃんと元気になってて安心した」
「善逸さんには禰󠄀豆子さんがいるじゃないですか。やめてくださいね」

私が物干し場からすかさず声をかけると、善逸さんは「そういうことを言ってるんじゃないー!」と口を尖らせる。
でも、彼女が元気になった本当の理由は、たぶん彼らが思っているようなことじゃない。

「そうじゃなくてさ、 なんかこう、吹っ切れたっていうかさ」

水柱様と、尾崎さんのお墓参りへ行ってきてからだ。あの日を境に、すっかり心を入れ替えたみたいに。
それは素直に嬉しい。嬉しい、のだけれど、ほんの少しだけ悔しくもある。
私やみんながどれだけ言葉を尽くしても届かなかった彼女の心の奥に、あっさりと冨岡さんは踏み込んでしまうのだから。
毎日一番近くにいるのは私たちなのに、結局、リサさんを泣かせることができるのは冨岡さんだけ。
その時、蔵から戻ってきたカナヲが炭治郎さんの前で足を止め、静かに手ぬぐいを差し出した。

「あ、カナヲ。ありがとう!」

炭治郎さんが満面の笑みで受け取ると、カナヲはふわりと目を細め小さく頷いてみせる。
『無事でよかった』とでも言いたげなその仕草に、炭治郎さんは「うん、怪我もないよ。水やり手伝ってたんだな。庭の花がすごく生き生きしてる」と嬉しそうに返した。
匂いでカナヲの気持ちがわかるのだろうか。言葉が少なくても、二人の間にはすっかり温かな空気が流れている。

「なんで炭治郎だけそんな手ぬぐい渡されてるわけ!?俺にも頂戴よ、ほら、炭治郎よりも俺の方が汗だくなんだけど!」
「善逸さんにはこれがありますよ」
「あ、ありがとう……って冷たっ!容赦ないね!」

すみが井戸水で冷やした手ぬぐいを差し出すと、善逸さんはまた叫ぶ。そんなやり取りを見て、なほときよもくすくすと顔を見合わせて笑っている。
…まあ、でも。炭治郎さんに言われたあの一言で、私が少しだけ救われたみたいに。人にはそれぞれ、必要な時に心に届く言葉というものがあるのだろう。

「もういい!俺は優しいリサちゃんのところに行く!……ほら炭治郎、行くぞ!」
「え?俺も!?」
「いいから来いって!リサちゃんに盆持たせて歩かせる気か!?」
「わ、わかったから引っ張るな善逸!あ、ごめんみんな行ってきます!」

炭治郎さんは慌てて自分の草履を揃えつつ、脱ぎ散らかされた善逸さんの草履まで素早く端に寄せてから、引きずられるようにして縁側へと駆け上がっていった。
ドタドタと騒がしい足音が廊下の奥、台所のほうへと遠ざかっていく。
そんな二人の背中を見送りながら、私は自然と零れてしまった笑みを隠すように、次の洗濯物へと手を伸ばした。

「あ、水柱様!」

え、となほの声に振り返ると、門のそばになぜか水柱様が音もなく佇んでいる。

「お疲れ様です!任務、終えられたんですか?」
「ああ」

いつ来られたんだろう。突然だから少し驚いた。
今日は来られるとは聞いていないけれど、それにしても全く気配がしなかった。
隣にいたカナヲも少しだけ目を見張って驚いた様子を見せたが、すぐに姿勢を正し、ぺこりと深く頭を下げる。

「水柱様、お疲れ様です。しのぶ様をお呼びしましょうか?」

私は手元の洗濯物を一旦置いて、声をかけた。
いつもと変わらない静けさを湛えた瞳が、すっとこちらに向けられる。

「あ、もしかしてリサさんを呼んできた方がいいですか?今、台所にいて……」
「いや」

短く遮られてしまい、私は思わず言葉に詰まった。
しのぶ様でもなく、リサさんでもない?

「あ、じゃあお薬のことで何か問題が……」
「いや」

またしても一言で否定される。何を聞いても要領を得ない返答に、私は内心で冷や汗をかき始めた。
用件がないならここに来るはずがないし、怪我をしている様子でもない。
言葉数が少なすぎるこの柱との会話は、いつもこうして変な緊張感がつきまとう。一体何事なんだろう。
じっと見つめ合って固まっていると、水柱様はわずかに眉を寄せ、ぽつりと口を開いた。

「聞きたいことがある」
「は、はい……?」

身構えて背筋を伸ばした私に、水柱様は至って大真面目な顔のまま、こう尋ねてきたのだ。

「高月の、好きなものは何だ?」
「…………へ?」

青い瞳は、本気も本気、大真面目に私の返答を待っている。冗談を言っている空気なんて微塵もないのが、余計にたちの悪い混乱を呼んでいた。

「リサさんの好きなもの、ですか?」
「できれば早く、胡蝶と高月がいない間に教えて欲しい」
「あ、その……えっと」

混乱中の頭をぐるぐると回転させて、私は必死に正解を探す。
彼女はいつも、みんなの好みを優先するようなところがある。だからこそ、彼女自身の「これが好き」という強いこだわりを、私はすぐには思い出せなかった。

「食べ物だったら、具なしのおにぎりが好きって言ってました!」

私の思考を遮るように、隣からきよが元気よく声を上げた。

「あと、甘いものは何でも好きみたいです!この前もお萩を美味しそうに食べてました!」
「綺麗な色のお花も好きって!」
「あとは、流行りの新しいものも好きみたいです!」

なほとすみが、私の混乱をよそに口々に答えていく。
そうなんだ、具なしのおにぎりは知らなかった。贅沢を言わない彼女らしいと言えばらしいけれど、おにぎりとしては少し地味すぎるのではないか。この屋敷で作るのは、梅や昆布など、ほとんど具入りのものだ。

「そうか、分かった。ありがとう」
「はい!」
「またいつでも聞いてください!」

本当にそれだけが用件だったようで、水柱様はくるりと背を向けると、来た時と同じように足音もなく立ち去っていった。
少し歩幅の小さいその背中が門の向こうへと消えていくのを、私たちはただ呆然と見送る。

具なしのおにぎり、甘いもの、お花、流行りの新しいもの。三人が口にした言葉を、頭の中でひとつずつ反芻してみる。
もしかして、とまで考えかけて、私は思考を打ち切った。
相手の懐に入り込むのが上手い人だよな、とは日頃から思う。恐らく本人は無意識なんだろうけれど、リサさんといると自然と力が抜けるというか、難しいことを考える必要がなくなってしまうのだ。
まさかそれが、あの水柱様にまで通用するとは。

リサさんの気持ちについては、なんとなく屋敷の皆も察していると思う。
隊士たちは分からないかもしれないけれど、鼻の利く炭治郎さんや、耳のいい善逸さんならとっくに気づいているはずだ。何も言わないだけで。そしてもちろん、尾崎さんも知っていたのだろう。
本人が何も言いたがらないから、私もあえて触れずに普段通り接してきた。けれど、今回ばかりは。

「アオイさーん!お待たせしました。洗濯の続き、手伝いますね」

廊下の奥から、ふわりと袖を揺らしながらリサさんが小走りで戻ってきた。

「遅いです!」
「えっ、ご、ごめんなさい!遅かったですか?」

そう、理不尽に怒ってしまったのはどうか許してほしい。
あと少し早く戻ってきていれば、彼が一体何を思ってわざわざここへ足を運んだのか、それを彼女自身の耳で聞けたかもしれないのだから。




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