49


数日が経ち、暦の上では夏がその存在感を増してきていた。
冨岡さんの屋敷の、いつも通りの静かな一室。開け放たれた縁側からは、時折熱を孕んだ風が入り込み、屋敷周りの笹の葉が揺れる音が聞こえてくる。そこへ、遠くで試し鳴きするような蝉の声まで混じっていた。
冨岡さんもさすがに暑いのか、いつも肩にかけている左右で柄の違う羽織は畳まずに壁際へ掛けられていて、隊服の襟元もほんの少し緩んでいる。
その見慣れない姿に、私はなぜだか小さく胸がざわついた。



私はようやく今週分の出納帳を書き終え、小さく息を吐いた。

「……終わりました。冨岡さん、確認をお願いします」
「ああ」

短く応じた冨岡さんが、私の差し出した帳面を受け取る。その大きな手が流れるような所作でページを捲っていくのを、私はいつものように机の向かいに座ったまま見つめた。
よかった、ちゃんと普通に話せてる…。今日、玄関をくぐるまではどうなることかと思ったけれど。
いざ机を挟んで向かい合ってみれば、冨岡さんは特に変わらずいつも通り接してくれた。私だけがドギマギしてるみたいで、なんだか悔しい。
けれど、だからといって。前みたいに、勝手に気まずくなって、勝手に逃げ出すような真似はもうしない。尾崎さんにもあれほど呆れられたから…。
平静を装うことに必死になりながら、私は手元の道具を片付け始めた。使い慣れた万年筆のペン先を丁寧に拭い、インク瓶の蓋を閉めようとして、ふと瓶を光に透かしてみる。
あ、もうこんなに少なくなってる…。瓶の底にわずかに溜まった深い紺色の液体。あと数回も使えば、完全に底を突いてしまうだろう。
しのぶさんに相談して、今度町まで買い出しに行かせてもらおうか。新しいインクを探すついでに、あの賑やかな通りを歩くのも悪くない。
そんなことを考えながら、私は瓶の蓋をゆっくりと回し閉めた。

「…相違ない。いつも助かる。ありがとう」

ありがとう。その言葉があれば、私はきっといくらでも頑張れてしまうんだろうな。なんだか嬉しくなって大きく頷く。

「いえ、お役に立てているなら嬉しいです。……あの、冨岡さん。インクが切れそうなので、次回来る時までに町で新しいものを調達しておこうと思うのですが、何か色の希望はありますか?」
「…いや。お前の使いやすいものでいい」
「わかりました。では、いつもの色を探してきますね」

話が一区切りつくと、冨岡さんは片付けをする私を横目に、ふいに席を立った。そして部屋の隅にある棚の方へと歩いていく。
何だろうと思っていると、彼は小さな小包を手に戻ってきた。箱自体は片手に収まるほど小さいが、少し厚みがある。
それを無造作に差し出され、私はますます首を傾げた。

「忘れないうちに渡しておく」
「…なんですか?これ」
「開けてみろ」

小包を受け取り、言われるままに封を切る。薬品の瓶か何かかな、などと想像しながら箱の蓋をぱかっと開けて、中の物を取り出した瞬間。
私は思わず息を呑んだ。

「…、これ……」

掌の上に乗ったのは、透き通るような薄紅色の帯留めだった。
精巧な硝子細工で、ひらりと舞い落ちた桜の花弁を五枚そのまま形にしたような、可憐で、けれどどこか気品を感じさせるもの。素人目に見ても、それが相当に高価なものであることはすぐに分かった。

「あの……冨岡さん、これは……?」
「お前にだ」

あまりに直球な言葉に、私は冨岡さんの顔を凝視した。冨岡さんは少しだけ視線を逸らし、軽く肩を竦める。

「わたし、に…?どうして……」
「あの晩の礼だ。お前のおかげで久しぶりに深く眠れた」
「え?そんな……。私、そんな大層なことはしてません…。いつも助けられているのは私の方ですし、こんなに素敵なものをもらう理由なんて……」

恐縮してしまい、つい遠慮の言葉が口をついて出る。

「それは俺が決めることだ。お前が隣にいてくれたから、俺は救われた。それだけで十分な理由になる」
「そんな、いいのでしょうか……」
「お前も俺にカステラをくれたことがあっただろう。それと一緒だ」

きっぱりと言い切られ、胸の奥がぎゅっとなった。
そんな、だって、私。いつも不器用な彼に振り回されているようでいて、結局は彼の真っ直ぐな優しさに救われてばかりなのに。こんな高価なものをもらうようなことはした覚えがない。
まさか冨岡さんは、あの時のことを礼を言うべきこととしてずっと心に留めてくれていたのだろうか。

「……これ、硝子でできてる」

ぽつりと呟いて、薄紅色の花弁を指先でそっと撫でた。冷たくて滑らかな感触。光に透かすと、内側から発光しているかのように鮮やかに輝く。
思い出すのは、以前、冨岡さんと一緒に桜を見に行った時のこと。風に舞う花びらの中、彼は私の耳元に小さな桜の小枝を差し込んでくれた。あの瞬間、舞い散る桜色の景色の中で、私は彼に恋に落ちたのだ。
そんなあの日の儚い桜吹雪の景色が、この小さな硝子の中にきゅっと閉じ込められたような気がして、視界がじんわりと滲んだ。

「ああ。硝子の帯留めは最近の流行りらしい。お前は新しいものが好きだろう。…あと、綺麗な花も」
「……え?は、はい。好き、です……」

私は少しだけ口ごもった。
確かに、流行りものは私のいた現代にも存在するものが多くて、懐かしさを感じて好きだ。花も、綺麗なものはなんでも好き。
けれど私、冨岡さんに自分の好みを詳しく話したことなんてあったっけ?

「これを見て、一緒に見た桜を思い出した」

冨岡さんは、どこか遠くを見つめるような静かな眼差しでそう付け加えた。その一言が私の胸にすとんと落ちて、波紋のようにじわじわと熱を広げていく。
ああ、この人は。あの日の景色を私と同じように大切に持っていてくれたんだ。
あの日、風に吹かれて舞い落ちる花びらの中。言葉足らずな彼が不器用に見せてくれたあの優しさを、私は片時も忘れたことはなかった。
けれど、それはあくまで私の側だけの、独りよがりな思い出だと思っていたのに。

「……冨岡さんも、あの時のことを、覚えていてくれたんですね」
「…お前には桜色がよく似合う」

心臓が大きく、とくりと跳ねた。
以前にも冨岡さんに言われた言葉だ。「お前は桜がよく似合う」と。彼は本気でそう思ってくれていたんだ。そして、任務の合間を縫って私のためにこれを選んでくれたんだ。
その事実が何よりも嬉しい。帯留めの美しさ以上に、冨岡さんが私のことを想って過ごしてくれた時間が、たまらなく愛おしく感じられた。

「……冨岡さん」
「ああ」
「ありがとう、ございます。…すごく、すごく嬉しいです」
「…ああ」

私は帯留めを胸元に引き寄せ、大切に握りしめた。また一つ、彼からもらった大切なものが増えてしまった。
私は熱くなった頬を隠すように俯きながら、宝物をもう一度、そっと撫でた。

せっかくだから、今つけてみよう。
私は小箱から、帯留めを取り出す。手元にあった細い紐にその金具を通し、慎重に指先で位置を整えた。
鏡がないので手探りだが、今の自分の装いは覚えている。今日の着物は、淡い薄紅色のひとえ。それに合わせたのは、少し鮮やかな橙色の帯だ。しのぶさんが私にくれたもの。
帯の上に紐を回し、中心に硝子の花弁がくるように据える。背中に回した紐の結び目は、帯の結び目の下へと滑り込ませて丁寧に隠した。

「……どう、でしょうか」

顔を上げると、冨岡さんは微動だにせず私を見つめていた。薄紅色の生地に、薄紅色の硝子の粒。橙色の帯がそれを引き立て不思議な調和を生んでいた。
冨岡さんの視線が私の帯元に、そして顔に注がれる。…どう、かな。なんで何も言わないのだろう。不安が込み上げ、同時に冨岡さんに見つめられているという事実が、急激に羞恥心へと変わっていく。
じわじわと頬が熱くなり、自分の顔が帯留めと同じ色に染まっていくのが分かった。私は逃げるように自分の手元を凝視する。

「……腹は空いていないか」
「えっ?」

唐突な問いかけに、私は勢いよく顔を上げた。てっきり帯留めの感想が聞けるものだと思っていたから、拍子抜けする。
感想を言わないのは、言葉にするのが苦手な彼なりの肯定なのだろうか。沈黙に耐えかねて、私はもどかしい気持ちを抱えながらも小さく頷いた。

「あ、はい…。少し、空いたかもしれません。そういえば、お昼の時間を少し過ぎてしまいましたね」

私が答えると、冨岡さんは短く「そうか」とだけ口にした。
それから流れるような動作で立ち上がり、壁に掛けられていた半々羽織を手に取る。その迷いのない動きに、私は目を瞬かせた。

「俺も町に用がある。行くぞ」
「え?…あ、今からですか?」
「そうだ」

返事もそこそこに、冨岡さんは一度も振り返ることなく部屋を出ていく。
町に用って…。私は慌てて万年筆の入った巾着袋を手に取り、少し浮ついた気持ちを抑えながら、その背中を追いかけた。








町に辿り着くと、そこには冨岡さんの屋敷とは対照的な生命力に満ちた熱気が渦巻いていた。
一週間前までの湿り気はどこへやら。通りには風鈴の涼しげな音と、どこかから漂ってくる打ち水の匂いが混じり合っている。軒先には夏らしい麻の暖簾が揺れ、氷の旗が風に踊っていた。
私は、目まぐるしく変わる町の景色に目を輝かせながら、少し前を歩く冨岡さんの背中を追いかける。
どこに向かっているのだろうか。人混みの中でも、冨岡さんの周りだけは涼やかな空気が流れている。
けれど、人混みに流されそうになればさりげなく肩で遮ってくれるし。私の歩幅が遅れれば、何も言わずに足を止めて待っていてくれる。
腰元で揺れる、もらったばかりの薄紅色の帯留め。その硝子の重みを感じるたびに、胸の奥が温かいお湯に浸されているような、柔らかな熱を帯びていく。
不器用で、誤解されやすくて、でも誰よりも真っ直ぐで優しい人。そんな彼の背中を見つめていると、不意に言葉にできない感情が溢れ出してきた。
ああ、好きだなあ。困ったように笑ってしまうほど、私はこの人のことが好きなんだ。
たとえ、彼が私のことを何とも思っていなかったとしても。この広い背中を追いかけられる今が、何よりも愛おしくて、大切で――。

「――高月」

不意に名前を呼ばれ、私ははっと顔を上げた。
いつの間にか足を止めていた冨岡さんが、半身でこちらを振り返っている。

「あ、はい……?」

動揺を隠すように返事をした次の瞬間。冨岡さんは私の目をじっと見つめたまま、事も無げにこう言った。

「好きか?」

す……っ!?心臓が、文字通り跳ねた。頭の中が真っ白になる。
「好き」って、何が。私が、冨岡さんのことを?まさか、今さっき心の中で呟いたことが表情に出てしまっていたのだろうか。それとも、あの嵐の夜の私の様子を見て、すべてを悟ってしまったのか。だから、さっき帯留めの感想を聞いたとき、何も言ってくれなかったの?
「俺のことは好きか?」なんて、そんな残酷な確認を彼は今この場所でしようとしているのか。固まったまま呼吸の仕方も忘れて、私はただ震える唇を噛み締める。

「あいすくりんは、好きか?」
「……えっ」

次に降ってきた言葉に、私は毒気を抜かれたように呆然とした。冨岡さんは、通りの先にある、氷と書かれた看板の出ている店を視線で示していた。

「蝶屋敷の小さい娘が言っていた。お前は、甘いものが好きだと。…今の季節なら、あれを好むのではないかと思ったのだが」
「あ……ああ、そっち……っ」

膝の力が抜けそうになるのを、必死に堪えた。
なんだ。なんだ、良かった。私の気持ちへの返事でも、拒絶でもなかった。
ただ単に、三人娘から仕入れた私の"好物"を、このタイミングで提供しようとしてくれただけ。それにしても、いつそんな話を。
安堵と、自分自身の早合点に対する猛烈な気恥ずかしさが交互にやってきて、顔が火を噴くように熱くなる。

「な、なんだ……。びっくりした……」
「…?何か変なことを言ったか」

不思議そうに首を傾げる冨岡さん。そのどこまでも無垢で不器用な優しさが、今はたまらなく可笑しくて、愛おしい。
私は赤くなった顔を誤魔化すように、思い切り明るい声を上げた。

「……はい!大好きです!甘いもの!あいすくりん、大好きですっ」
「そうか。なら、入るぞ」

冨岡さんは少しだけ満足げに目を細めると、暖簾をくぐって店の中に入って行った。




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