6


「もう一度いきます」

澄んだ声が、朝の道場に凛と響いた。
板張りの床に置かれた小さな長机を挟み、正座で向かい合う二人の少女。一人は、いつもきびきびと屋敷を切り盛りしているアオイさん。そしてもう一人は、胡蝶さんの妹だという栗花落カナヲさんだ。
カナヲさんは、一目見ただけで目を奪われるほど可憐な少女だった。サイドで結い上げた髪に、ひらひらと舞う蝶の髪飾り。けれど、その瞳には感情の揺らぎがまったくない。
胡蝶さんと名字が違うのは、血が繋がっていないからだろうか。それでも、ふとした仕草や、背筋をぴんと伸ばした佇まいに宿る静けさは、あの胡蝶さんと同じ、折れない刃のような強さがある。
そんな二人の間には、並々と薬湯の注がれた湯呑みが置かれていた。

「……はじめっ!」

きよちゃんの掛け声に、アオイさんが鋭く息を吐き、目にも止まらぬ速さで手を伸ばした。狙いは机の上の湯呑み。相手に薬湯をぶっかけるのが目的の、反射神経を鍛える訓練だ。
だが、カナヲさんの動きはさらにその上をいく。アオイさんの指先が触れるより早く、カナヲさんの白い指が湯呑みの縁を押さえていた。

「っ……!」

トントントン、と乾いた音が重なる。
アオイさんが湯呑みを押さえ込もうとし、それをカナヲさんがひらりとかわす。何度も湯呑みが叩きつけられ、中の薬湯が激しく揺れた。

「アオイさん、がんばれー!」
「カナヲさん、負けないでー!」

道場の隅から、すみちゃんたち三人娘がぴょんぴょんと跳ねながら声援を送っている。
私はといえば、そのすぐ脇で、替えの茶器と布を抱えて控えていた。こぼれた薬湯を素早く拭き取り、空になった湯呑みに新しいお茶を注ぐ。立ち上る薬湯の独特な苦い香りが、朝の冷たい空気と混ざり合い、道場の中は不思議な熱気に包まれていた。

「……これならっ!」

アオイさんがぐっと身を乗り出し、渾身の力で湯呑みを奪いにかかる。
しかし、カナヲさんは瞬きひとつしない。わずかに開いたアオイさんの脇を抜けるようにして、鮮やかに湯呑みを持ち上げた。
直後、アオイさんの頬を一筋の滴がかすめる。

「わー!カナヲさんの勝ちー!」
「これで同点ですねっ!」

三人の歓声が上がり、張り詰めていた空気が一気に緩んだ。
私は慌てて駆け寄り、手拭いを差し出す。アオイさんは肩を揺らして息を吐いたが、カナヲさんは相変わらず表情ひとつ変えない。
ただ静かに、微笑んでいるようにも、何も考えていないようにも見える顔で、相手を見つめている。淡い朝日に照らされたその姿は、あまりに綺麗で、どこか儚げだった。
…強いなぁ。自分より年下のはずなのに。どうしてあんなに、迷いのない眼差しが持てるんだろう。

「リサさん、次をお願いします!」

アオイさんに呼ばれてハッとし、急いで湯呑みを差し出した。
その時、受け取ろうとしたカナヲさんの指先が、私の手に一瞬だけ触れる。ひんやりとしていて、けれどその奥に熱を秘めているような、不思議な感触。
ドキリとした拍子に、ふと、数日前の出来事が頭をよぎった。



数日前、門の前で掃き掃除をしていたときのことだ。

「最終選別……ですか?」

聞き慣れない響きに首を傾げると、一緒に掃除をしていたアオイさんが、遠くの山並みを見つめたまま静かに教えてくれた。

「はい。鬼殺隊に入るには、誰もが必ずあの試験を受けなければならないんです。藤襲山という山で、七日間生き延びることができた者だけが、鬼殺隊として認められます」
「一週間も……。それって、ただ山にこもるだけじゃないんですよね?」
「はい。そこには隊士によって生け捕りにされた鬼が放たれていて、命を賭けて戦うんです」

アオイさんは少し息を整えてから、さらに言葉を続けた。

「鬼というのは、私たちが知っている生き物とは根本から違うんです。どれだけ深く斬っても、腕を落としても、瞬く間に再生して元通りになってしまう。普通の刃物では、傷をつけることさえ無意味なんです」
「そんなの、どうやって……」
「唯一の弱点は、太陽の光。そして、特別な鉄で作られた刀で"首を斬り落とす"こと。それ以外に、彼らを止める術はありません」

――首を斬る。
その言葉の生々しさに、指先が冷たくなるのを感じた。人の形をした化け物を相手に、そんな残酷な方法でしか抗えないなんて。鬼の恐ろしさが、お伽話ではなく、一気に現実味を帯びた。
そんなものを相手に、生身の人間が刀一本で立ち向かうだなんて……。考えただけで足元が揺らぐ。
アオイさんはそんな私の顔色を察したのか、静かに言葉を添えた。

「だからこそ、人間は特別な呼吸を身につけて戦うんです。呼吸法によって身体の力を極限まで引き出し、鬼に立ち向かえるよう鍛錬を積みます」




あのとき、アオイさんは淡々と話してくれたけれど、その横顔を今も忘れられない。厳しく、でもどこか祈るような目をしていた。
アオイさんもかつて、その選別に参加したという。「私は運良く生き残っただけだ」と呟いていたけれど、その胸の奥ではきっと、選別を控えた仲間の無事を願い続けているのだろう。
今、目の前で汗を流すカナヲさんも、その試練を受けたくて、見よう見まねで鍛錬をしているらしい。
だが――胡蝶さんが、それをなかなか許さないのだという。

「しのぶ様に止められても、毎朝こうして来るんですよ」

アオイさんが小さく笑って、手ぬぐいを絞った。

「心配されてるの、分かってるんでしょうけどね」

その声には、どこか優しい諦めが滲んでいた。師弟でも姉妹でもない、けれど確かに家族のように繋がっている人たち。その距離の温かさに、なんだかそういうのいいなと思った。
私は、鬼を斬る刀も、特別な呼吸も持っていない。お茶を運び、汚れた床を拭き、三人の少女たちと一緒に「がんばれ」と声を枯らすことしかできないけれど。
この温かな場所を守るために、自分にできることが一つでもあるのなら。ここにいる意味を、少しだけ感じられる気がした。









冬の陽射しは不思議だ。刺すように冷たいはずなのに、どこか包み込むような柔らかさもある。琥珀色に染まった石畳を眺めながら、私は洗い物の籠を抱えて中庭を横切った。
すると、光の真ん中にぽつんと二つの影が並んで座っているのが見える。

「あ、カナヲさん……」

それと、小さな毛玉――子猫だろうか。
カナヲさんはよくこの中庭で、一人静かにシャボン玉を吹いている。透明な球体が空へ溶けていく様子を、彼女はただ黙って見つめているのだ。けれど今日は、その隣に愛らしい客人がいた。
ふわふわとした三毛の子猫が、宙を舞うシャボン玉を夢中で追いかけている。
カナヲさんがそっと息を吹き込むたび、それを子猫が短い前足で「ぱしっ」と叩く。手応えなく消える虹色の粒に、子猫は不思議そうに首を傾げていた。

…可愛いな。今の彼女はただ静かに、小さな命との時間を楽しんでいるだけの女の子だ。
…本当は、こういう時間がもっとたくさんあっていいはずなんだよね。本来ならこんな年端もいかない年齢で、鬼狩りになりたいだなんて考えることもないはずだ。
アオイさんの手も、三人娘の小さな笑い声も、胡蝶さんの柔らかな仕草も、本来はもっとのんびりと日々の瑣事さじに笑い合うためにあるものだろう。
学校の帰り道に寄り道をしたり、好きな服を選んだり、何でもないことでお腹を抱えて笑ったり――そういう普通のことをまだこれからしていいはずの年齢なのに。
そんな「当たり前」が許されない時代。ひとつ生まれる時代が異なると、こうも違うなんて。
鬼の存在を、私はまだよく知らない。姿を見たわけでも、戦いを目の当たりにしたわけでもない。
けれど、こうして幼い子たちや年若い少女までもが日常を奪われ、刀を手にする世界を作り出しているのだとしたら。それだけで、胸の奥に熱いものが込み上げてくる。
……憎い。理由も理屈もいらなかった。ただ、この子たちにそんな生活を強いているものが鬼だというのなら、私は心の底から鬼を憎まずにはいられなかった。

「……隣、お邪魔してもいいですか?」

声をかけると、カナヲさんは小さく瞬きをしてこちらを見上げた。彼女は何も答えなかったけれど、拒絶するように目を逸らすこともしなかった。
私はそっと隣に腰を下ろし、子猫の背中を撫でてみる。

「ふわふわ…」

この子はどこから来たのだろう。
首輪がないから野良猫なのかな。

「カナヲさんは、この子と仲良しなんですね」

問いかけに、カナヲさんは答えなかった。ただ、新しく作ったシャボン玉を、一つだけ子猫の鼻先に飛ばして見せる。その仕草が答えの代わりなのかもしれない。
私は小さく笑って、もう一度子猫の背中をそっと撫でた。

「…あら。お二人で日向ぼっこですか?」

ふわりとした声が背後から降ってくる。
顔を上げると、一段高い縁側に胡蝶さんが立っていた。

「……あ、胡蝶さん」

見上げる私の隣で、カナヲさんも動きを止める。
子猫は、新しく現れた人影を不思議そうに見上げ、小さく欠伸をした。

「お二人とも、仲良くしておられるようで何よりです。リサさんも、最近は笑顔が増えてきましたね。いい兆しです」
「私、ですか……?」
「ええ。ご自分では気づかれてませんでしたか?」

胡蝶さんは縁側の柱にそっと手をかけながら、くすりと笑う。
意識して笑ったつもりはなかった。けれど、言われてみれば最近、固まっていた表情筋がよく動いている気がする。

「でも、そんなに焦らなくてもいいのですよ。貴女はここに来てから、ずっと何かしらのお手伝いを探しては、忙しなく立ち働いていますけれど……。そんなに頑張らなくても、貴女を追い出したりなんてしませんから。今はただ、何も考えずにここで羽を休めてくださいね」

見透かされたような言葉に、私は思わず視線を泳がせた。
一度死んで、この時代に落ちてきた。そんな得体の知れない自分を拾ってくれたこの屋敷で、ただ居候として座っているのは、どうにも落ち着かないのだ。

「リサさんが今、一番必要としているのは安心ですよ」
「……安心」
「ええ、そうです」

胡蝶さんはそんな私の考えを見透かしているのか、言葉が不思議と胸の奥まで届く。
でも、おかげで少しだけ肩の力が抜けた気がする。

「…さて。カナヲ、こちらへ」
「……はい」

隣にしゃがんでいたカナヲさんが呼ばれる。彼女は小さく頷くと立ち上がり、胡蝶さんの方へ足を運んでいった。

「リサさんも、体を冷やさないようほどほどにしてくださいね」

胡蝶さんは私にひとつ微笑みを残し、軽やかにカナヲさんを連れて去っていく。
たしかに、今日は特段冷え込みが激しい。私も早く屋敷に入ったほうが良さそうだ。
そう思って子猫から手を離し立ち上がったとき、先を歩いていた胡蝶さんがふと思い出したように振り返った。

「…あ、そうだったわ。リサさん。もう一つよろしいですか?」
「は、はい。何でしょう」

何か頼まれごとかな、と意気込む。

「もし今後、冨岡さんにお会いすることがあれば、伝言をお願いできますか?」
「え……?冨岡さんに、ですか……?」

戸惑う私に、胡蝶さんはこめかみに指を軽く当て、どこか困ったように笑う。

「はい。……まったく、あの方。どういうつもりなのかしら。人の様子が気になるなら、私に遠回しに聞かずに、さっさと自分で来ればいいんですよ」

小さなため息をこぼす胡蝶さんは、何だかとても怒っているように見える。
どうして私なんだろう。そんな姿に、これはただ事ではないなと察する。

「ですから、リサさん。冨岡さんにお会いする機会があったら、こう伝えてください。『そんなに様子が気になるなら、私に遠回しに聞いたりせず、ご自分で様子を見に来たらどうですか。この、根暗さん』……と。強めに言っていただけると助かります」
「え、っと……あまりよくわからないですけど、あの、はい。承知しました」

胡蝶さんは「お願いしますね」とだけ言い残し、軽やかな足取りで去っていく。
一人残された中庭で、私は今の言葉を反芻する。言葉の意味はよくわからなかったけれど、胡蝶さんがそこまで言うなら、何か事情があるのだろう。とにかく、自分で様子を見に来るよう、冨岡さんに伝える。しっかり覚えておかないと。

「……根暗、さん」

足元では、子猫が「にゃあ」と一鳴きして、私の足に頭を擦りつけてきた。




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