6
その日、私は胡蝶さんに初めておつかいを頼まれた。
「暗くなる前には帰ってくるんですよ。寄り道はせずに」
玄関から差し込む光に照らされながら、胡蝶さんがやわらかい声で念を押してくる。その表情は笑っているのに、細い眉尻はどこか心配そうに下がっていた。
「場所はわかりますね?」
「は、はい」
「変な輩に絡まれたら?」
「『私は蝶屋敷でお世話になっている者です』って言う、ですよね?」
「そうです」
こくりと頷く胡蝶さん。けれど視線はまだ不安を拭いきれないまま、私の顔色を探っている。
やっとこの屋敷に馴染んできた今日この頃。隊士の看病で手が離せないアオイさんの代わりに、私は胡蝶さんからおつかいを頼まれることとなった。
けれど、たかがおつかいだ。何度かアオイさんと一緒に町へ食材の買い出しに行ったことはあるし、道に迷うほど方向音痴でもない。
たしかに一人で町へ行くのは初めてだが、今日の用事はすぐ近くの藤堂さんという方がやってる薬屋で、胡蝶さんが書いてくれたメモを渡して、調合に必要な材料を買ってくる。
それだけだ。手順は至って簡単。それなのに、どうして胡蝶さんはこんなにも心配そうに見送ろうとするんだろう。
「やっぱり、アオイあたりに同行を頼んだ方が……」
「だ、大丈夫ですよ。アオイさんも今は看病で忙しいですし。あの、私だって何かあったら……走れますから!」
思わず胸を張ってみせたが、まるで理屈になってないなと自分で自分を心の中でつっこんだ。
それよりも、転んで荷物をぶちまける姿のほうが容易に浮かんでしまう。
「そうですか?でも、祭りの時は変な輩が湧きやすいんです。それに、転んだりでもしたら――」
まさに今、頭の中で思い描いていた情けない姿を、胡蝶さんに見透かされたみたいでどきりとした。思わず笑って誤魔化したけれど、胡蝶さんの心配は優しさからくるものだと知っている。
それにしても、年下の少女にここまで気を揉ませる自分って、一体どうなんだろう。
「胡蝶さん、ありがとうございます。ちゃんと気をつけますから」
真っ直ぐにそう伝えると、胡蝶さんはやっと安心してくれたようでふわりと目を細めた。
この心配を無駄にしないためにも、無事にお使いを済ませて帰ってこなくては。
「迷子になったら、とりあえず女性に場所を聞いてくださいね。男性はだめですよ」
「はい!わかりました」
念を押す言葉に、私はコクコクと頷く。
「くれぐれも気をつけてくださいねー!」
「はい……!」
胡蝶さんの声が背中にかかる。玄関から見送られるなんて、なんだか幼子になった気分だ。
でも、嫌じゃなかった。こんなふうに気にかけてもらえるのは、やっぱり心のどこかで嬉しい。手を振る胡蝶さんに、私も大きく腕を振って返した。
変な輩に絡まれる心配よりも、正直なところ、これを落とさないようにする方がよっぽど不安だ。歩くたびに、巾着の重みが揺れる。
大丈夫。行って帰るだけ。そう自分に言い聞かせて、私は蝶屋敷の門をくくった。
*
町に降りてからは、言われた通りまっすぐ薬屋を目指して歩いた。
けれど、足を運ぶたびに目に飛び込んでくる景色がすべて新鮮で、視線は自然と左右に揺れてしまう。
木造造りの家、赤や青に染められた暖簾、道端に積まれた籠いっぱいの大根や白菜。どれも時代劇でしか見たことがなかったようなものばかりで、まるで物語の中に入り込んでしまったみたいだと思う。
「さぁいらっしゃい!ウチ自慢の煎餅だよ!」
「お嬢ちゃん、枝豆はどうだい?安くしとくよ!」
客を呼ぶ店主、商品を売り付けては客寄せをする子供、立ち止まる町人。
往来には着物や袴姿の人々が行き交い、手をつないだ子供が飴をねだって駄々をこねる。
みんな顔が生き生きとしていて、ここは温かい空気に包まれている。
文明が大きく発展する時代とはいえ、未来と比べればまだ不便も多いだろうに、誰も不満そうな表情を浮かべていない。
未来は便利で何でも手に入るけれど、きっとそれだけが幸せではないのだろうと、ふとそんなことを思った。
しばらく歩いて大通りに差しかかったところで、異様な人混みに足が止まった。屋台が並び、賑やかな声が飛び交うそこでは、どうやら祭りごとの準備をしているらしい。
そういえば、胡蝶さんもそんなことを言っていた気がする。冬なのにお祭りなんて珍しいな、と歩いていくも、布を張った屋根や飾りが道を狭め、前に進むのもやっと。
「……どうしよう」
人波に呑まれるように押され、薬屋のある方向すら見えなくなる。このままでは、どんなに頑張ってもたどり着けないだろうと、しばらく迷った末に、私は横の薄暗い路地へと足を向けていた。
けれど道筋は細かく入り組んでいて、今自分がどこにいるのかさっぱり分からなくなる。さっきまで目印にしていたはずの店も、見失ってしまった。
「ええと、薬屋は……こっち?」
半ば自分に言い聞かせるように呟き、足を向ける。
それでも胡蝶さんに一応、と手渡された地図をなぞれば、この道を抜ければ目的地に出られるはずだと信じて歩みを速めた。
大通りの賑やかな喧騒が少しずつ遠のいていく。自分の足音だけが響く中、角を曲がろうとしたところで、ふと後ろから声がかかった。
「そこの、薄紅の着物のお嬢さん」
自分のことだろうか。
思わず足を止め、手元の地図を持ったまま、私は不思議に思いながら振り返った。
そこに立っていたのは、どこにでもいそうな町人風の男性たちだった。
ひとりは紺色の着流しを着て、もうひとりは茶色の羽織を羽織っている。どちらも人の良さそうな、柔らかな笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「急に呼び止めてすまないね。手元の紙と周りを交互に見比べて困っているようだったから、もしや道に迷ったのかと思ってね」
「祭り前で大通りがごった返してるからさ。抜け道を使おうとして、この辺りで迷子になっちまう人が多くてね」
羽織の男が気さくに相槌を打ち、ふたりで親身そうに眉を下げてみせる。物腰の柔らかい態度に、思わず強張っていた肩の力がふっと抜けた。
「よかったら、どこに行きたいのか教えてくれないかい?俺たちでよければ案内するよ」
親切そうに首を傾げながら歩み寄ってくるふたりに、私は手元の地図を握り直す。
しかし、そこで出がけに念を押された胡蝶さんの言葉が、ふと脳裏をよぎった。
『迷子になったら、とりあえず女性に場所を聞いてくださいね。男性はだめですよ』
無意識のうちにすっと後ろへ身を引く。
二人は、ぽかんとしたように目を丸くしたあと、顔を見合わせてくすくすと肩を揺らした。
「ずいぶんと警戒心の強い嬢ちゃんだ」
「取って食いやしないよ。ただ親切で声を掛けただけなのに、そんなに怖がられちゃ傷つくなぁ」
「いえ、少し道を間違えたみたいで。すみません、すぐ戻ります」
ぺこりと頭を下げ、踵を返して早足で引き返そうとする。
せっかくの親切を無碍にして申し訳ないとは思うけれど、見知らぬ男性二人と狭い路地に長居するのは、どう考えても分が悪い。胡蝶さんの言いつけは絶対に守りたいから。
とにかく大通りへ戻ろうと思った。しかし、足早に曲がり角を抜けた先で、私は息を呑んで立ち尽くす。
目の前に立ちはだかったのは、高く積まれた木箱と古びた板塀。完全な行き止まりだった。
「だから言っただろう、お嬢ちゃん」
狭い路地の出口を塞ぐように、先ほどの二人がゆっくりと歩み寄ってきていた。
さっきまでの親しみやすい口調は消え去り、どこか嫌な笑みを口元に浮かべている。
「素直に俺たちの言うことを聞いておけば、こんな行き止まりに迷い込まずに済んだのによぉ」
くすくすと喉を鳴らしながら間合いを詰めてくる男たちに、私はじり、と背中を板塀へ押し付けた。
胡蝶さんが言っていたのは、こういうことだろうか。こういう人たちがいるから、あんなにも心配をしてくれていたのだろうか。
「ほら、出口まで連れてってあげるから。素直においで」
声すら出せずに足をすくませたその瞬間、ぐいっと無遠慮な力で手首を強く掴まれた。
「……痛っ!は、放して!」
骨がきしむほどの痛みに悲鳴を上げながら、私は必死に足を突っ張って踏ん張る。ずるずると引きずられそうになる体を必死に堪えるけれど、男の人の力には到底敵わない。
「おいおい、そんなに暴れるなって。せっかく親切にしてやろうってのに」
「そうそう。大人しく言うことを聞いてついてくれば、痛い目には遭わせないからさぁ」
掴まれた手首にさらにギリギリと力が込められ、もう一人の男が逃げ道を塞ぐように背後へ回り込んでくる。
「高そうな着物着て、懐もずいぶんあったかそうじゃねぇか。お嬢ちゃん、どこから来たんだい?ちょっと蕎麦屋でもゆっくり話を聞かせてくれよ」
下卑た笑い声を交わし合いながら、二人はまるで品定めするような視線で、必死に抵抗する私を見下ろしていた。
怖い。どれだけ力いっぱい振り払おうとしても、男の指はびくともしない。女性の力じゃ、男の人には敵わないんだ。
大通りの賑やかな音はこんなにも近くで聞こえているのに、私の叫びは誰にも届かない。最悪の想像ばかりが頭を巡る。
「おいおい、そんなに怯えちゃって。泣きそうじゃねぇか」
「……へえ。君、泣きそうになるとずいぶんいい顔をするねぇ」
ねっとりと肌を撫でるような声に、寒気が走った。
「や、やめて……っ」
かすれた声で訴えることしかできない自分が悔しくて、情けなくて、目元にじわりと熱いものが込み上げてくる。
けれど、その涙さえも男たちを喜ばせる燃料にしかならないのだと悟り、必死に堪えようとする。
怖い。誰か。だってこんなの、知らない。こんな理不尽な目に遭うなんて、一度もなかった。
ずっと平和な世界で生きてきて、男の人に力づくで捕まるような本当の怖さなんて、何一つ知らなかったのに。
「嫌だ……っ!嫌っ!!」
なりふり構わず首を横に振って必死に身を捩る。
その激しい拒絶に、それまでニヤついていた男の表情が一変した。苛立ちを隠そうともせず、舌打ちを響かせる。
「うるせぇな、ギャーギャー騒ぐんじゃねえよ!」
ドン、と胸元を強く突かれ、私は為す術もなく湿った石畳の上へと押し倒された。
「痛っ……!」
背中を強打し、肺の空気が一気に吐き出される。
息を吸い込む間もなく、倒れた私の両肩に男の重い手が容赦なくのしかかってきた。
「おい、足バタつかせねぇようにしっかり押さえてろ」
「まったく、大人しくしとけば可愛がってやったものを」
後ろにいたもう一人の男が、乱暴に私の両足を押さえつけ、地面に縫い止める。四肢の自由を完全に奪われ、冷たい石畳の上で身動きすら取れなくなっていた。
首をふるふると振り、溢れ出そうになる涙を奥歯を噛み締めて必死に堪える。
すると、男は空いた片手を懐へと滑り込ませると、小さな紙包みを取り出した。手慣れた仕草で折り目を解くと、中には白い粉状の何かが入っている。
「……っ、ん……っ!」
それを私の口元へと無理やり押しつけようとしてきて、直感的に危険なものだと悟り、私は唇を強く引き結んで顔を背けた。
男は苛立ちを露わにしながら、もう片方の手で私の顎を乱暴に掴み、強引にこちらを向かせようとする。
「暴れんなって。ほら、楽にしてやるって言ってんだよ!」
あれは何だろう。眠らせる薬?それとも、麻薬?まさか、毒?
顎を万力のように締め上げられ、無理やりこじ開けられそうになる口元。
もう逃げられない。このままこの薬を飲まされたら、されるがままになってしまう。
誰か…誰か…!ぎゅっと硬く目を閉じ、届くはずのない救いを求めて心の底で叫ぶ。涙が睫毛の隙間からこぼれ落ちそうになった、その時だった。
「……その手を退けろ」
押し殺されたその一言だけで、狭い路地の空気が一瞬で張り詰める。
震える瞼をわずかに持ち上げると、薄暗い路地に、見覚えのある羽織の紋様が見えた。
*
「大丈夫か」
逃げていく男たちを追うことなく、冨岡さんは膝をつき私の隣にしゃがみ込んだ。
石畳から、なんとか腕に力を入れて上体を起こす。けれど、肘ががくがくと震えてうまく力が入らない。
視線を落とせば、両手は自分の意思とは関係なく小刻みに震えていた。袖から覗く手首には、男の指の形そのままの赤黒い鬱血が残っている。
「すみ、ません……っ、わたし、わたし……っ」
あと少し遅かったら、どうなってしまっていたんだろう。申し訳なさと、遅れて押し寄せてきた恐怖で頭がぐちゃぐちゃだった。
「呼吸を合わせろ」
肩を包み込むように回された腕に、そっと頭ごと胸元へと引き寄せられる。
トクン、トクンと規則正しく刻まれる鼓動に縋るようにして、私は乱れきった息を必死に重ねた。
あの男たちは、冨岡さんの腰に差された刀を見るや否や、警官と間違えたのか顔色を変えて一目散に逃げていった。
もしあのまま誰も来なかったら、抵抗も虚しく連れ去られていたに違いない。
『変な輩に絡まれたら?』
『私は蝶屋敷でお世話になっている者ですって言う、ですよね?』
私は出がけに交わした胡蝶さんとの言葉を、その時にやっと思い出したくらいだ。それくらい、何もできなかった。
「蝶屋敷へ寄ったら、お前の帰りが遅いから何かあったんじゃないかと胡蝶が」
「え……?」
「まさか、暴漢に絡まれていたとはな」
来てよかった、と吐き出されたため息とともに、背中に回された手のひらが、ぽんぽんとぎこちなく叩かれる。
そう、この人が助けに来てくれた。
良かった。冨岡さんが来てくれて、本当に良かった。
張り詰めていた糸がぷつりと切れたように、目頭から熱いものが溢れ出す。差し出された温もりに縋りつくようにして、冨岡さんの羽織をぎゅっと握りしめた。
冨岡さんはそれ以上何も言わなかったけれど、私が落ち着くまで、ずっとそのままでいてくれた。
前へ 次へ
目次へ戻る