6


それにしても驚いた。
まさか、本当に自分に熱があったなんて。

自分の部屋の布団に深く沈み込みながら、私は朦朧とする意識の中で、情けなさと申し訳なさでいっぱいになっていた。
あの後、アオイさんたちと一緒にお煎餅をいただき、お茶の香ばしさにホッと一息ついたところまでは良かった。それから屋敷の掃除を終え、夕餉の準備に取り掛かろうと立ち上がった時、ふと喉の奥に小さな棘が刺さったような違和感を覚えた。
少し乾燥しているのかな、くらいに思っていたけれど、階段を上がる足取りは鉛のように重く、視界の端がぐにゃりと歪む。

『体調が、優れないのではないか』
『身体が熱い』

火照る頭の片隅で、昼間、廊下ですれ違ったときに掛けられた冨岡さんの声が、不意によみがえってきた。
一応、診てもらおう。そう思って這うようにしてたどり着いた胡蝶さんの診察室で体温を測った瞬間、彼女の眉がぴくりと跳ねたのだ。

「リサさん、これは立派な発熱ですよ。すぐに休んでください」

その宣告を受けてから、私は流れるように手に持っていた用具を奪い取られ、すぐに布団に沈め込まれていた。



「すみません……。せっかく、お手伝いも慣れてきたところだったのに」

掠れた声でこぼすと、傍らに座っていた胡蝶さんが、冷たい水で絞った布を私の額にそっと当ててくれた。ひんやりとした感触が、燃え上がるような熱を少しだけ鎮めてくれる。

「謝る必要なんてありませんよ。この一ヶ月、あなたは本当に一生懸命でしたから」

そう言って胡蝶さんは優しい手つきで、私の髪を整えてくれた。

「慣れない土地で、身体が悲鳴をあげるのは当然のことです。……疲れが出たんですよ。今は何も考えず、ただ休むことだけを考えてください」

彼女の穏やかな声を聞いていると、張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れていくような気がした。
今の今まで気づかなかったけれど無理、してたんだなあ。慣れって、本当に怖い。
思えば、今朝からずっと顔が熱かったのも、お煎餅を食べていた時にふわふわと浮き上がるような感覚があったのも、すべては熱のせいだったのだ。
熱に浮かされた頭の片隅で、昼間の出来事が鮮明に蘇る。あの時の冨岡さんの、有無を言わせぬ強引な手のひら。
私に触れたあの瞬間、彼はすでに気づいていたのだ。胡蝶さんでさえ診察するまで分からなかった私の不調を、彼は一目で見抜いていた。
『自覚がないのか』あの低い声が、耳の奥で反芻する。
…恥ずかしいな。それは熱なのか、それともまた別の熱なのか、今の私には判別がつかない。

「こちょう、さん」
「はい。ここにいますよ」
「……ありがとう、ございます……」

震える声で感謝を伝えると、胡蝶さんは細い指先で私の手を優しく包み込んでくれた。今の私には、その手さえどこかひんやりと感じて心地よい。

「何か食べられそうなものはありますか?少しでもお腹に入れておいた方が、お薬の効きも良くなりますが」

そう問いかけられたけれど、今の私には何かを咀嚼するイメージすら湧かなかった。内側から焼かれるような熱のせいで、胃のあたりもむかむかしている。

「なにも……」
「そうですね、後でアオイにお粥を作らせましょう。一口でもいいですから、目が覚めた時に召し上がってくださいね」

胡蝶さんは私の顔を覗き込むと、安心させるように微笑んだ。

「後で私が調合した薬湯を持ってきます。少し苦いですが、それを飲んでぐっすり眠れば明日の朝にはずいぶん楽になりますよ」
「……はい。ありがとうございます……」

少し苦い、という言葉が気にかかったが、彼女が差し出してくれるものはどんな薬よりも信頼できる気がする。

「さ、お薬を持ってくる間、少し目を閉じていてくださいね」

胡蝶さんの静かな声に促されるように、私は重たいまぶたをゆっくりと下ろした。枕元で衣擦れの音がして、彼女が部屋を出ていく気配がする。
意識がぷつりと途絶えるその瞬間、私は少しだけ未来にいる母のことを思い返していた。







「……体が重い」

ゆるゆると微睡みの淵から引き上げられ、目を覚ましたのは、日もすっかり沈みきった真夜中だった。
行灯の頼りない光が壁に長い影を落とし、静まり返った屋敷の静寂が、余計に今の自分の孤独を際立たせている。
喉が焼けるように渇いていた。枕元には、胡蝶さんの言った通りアオイさんが用意してくれたのであろうお粥と、例の薬湯が置かれていた。
少しでもお腹に入れなきゃ、そう思って上体を起こしたのだけれど。

これが、びっくりするほどに食べられないのである。
レンゲを持つ手すら震えて、体が食べ物を受け付けることを全力で拒否しているような感覚。恐らくほんのりと塩で味付けされているはずなのに、熱で麻痺した舌には何の味も感じられない。
胡蝶さんに「一口でも」と言われた通り、必死に飲み込もうと努力はしたのだが、結局三口が限界だった。
…これは、自分で思う以上に重症かもしれない。

「……気持ち悪い」

さっきよりは意識がはっきりしている分、かえって苦痛が鮮明だった。
割れるような頭痛に加えて、胃の奥からせり上がってくるような渦巻く吐き気。熱はもう、計るだけ無駄な気がして放っておいた。
なんとか例の苦い薬湯を飲み下したものの、この気持ち悪さではとてもではないが再び眠れる気がしない。
どうしよう。吐き戻すほど酷くはないけれど、胸のあたりがむかむかして、世界がぐるぐると回る。
こういう時って、氷を口に含むと少しは楽になるんだっけ…。それは妊婦さんだっけ、それとも三半規管をやられた時だっけ。霞がかった頭では、もう正しい知識すら引き出せない。
とにかく…冷たいものが欲しい。火照った体に冷気を取り込みたくて、私はふらふらと立ち上がった。

足元がおぼつかないなか、壁を伝いながら、冷たい氷を求めて夜の台所へと向かう。ようやく辿り着いた台所で私は手探りで氷を探し、小さな器にいくつか移し替えた。
それを持って、また自分の部屋へと引き返す。けれど、あまりの気怠さにふと廊下の途中で足が止まった。
…こんな姿を誰かに見られたら、きっと怒られるだろうな。
病人なんだから寝ていろと、きつく叱られるのが目に見えている。いや、でも。こんな夜更けに、しかも誰かと鉢合わせる可能性なんてほとんどないはずだ。
…まさかその誰かが、この屋敷の人以外にもなり得る可能性を考えていなかったのは、間違いなく発熱で脳が茹だっていたせいだと思いたい。

「何をしてる」
「……へ?」

自分の部屋まであと半分というところで声をかけられてのろのろと振り返れば、そこには少し驚いた様子の冨岡さんが立っていた。
…いやなんでこの人がここに。お昼にすぐに帰ったのではなかったのか。なぜ、こんな真夜中に?いや、鬼殺隊って夜が主な活動時間だったんだっけ。

「とみおか、さん」
「………」

掠れた声で、なんとかそれだけを絞り出した。
冨岡さんは何も言わずに、視線が私の顔から足元へと落ちる。

「具合が悪そうだが」

冨岡さんは私をじっと見つめたまま、一歩距離を詰めてきた。
昼間の彼の言葉を、いまさら私が証明してしまった形だ。気まずさと熱のせいで、また別の意味で顔が熱くなっていく。

「……はい」

返す言葉もなかった。

「やはり体調を崩していたのか」
「はい、その……お恥ずかしいことに、熱が出たみたいで……。気持ち悪かったので、何か口にできそうな氷を、取りに来たんです……」
「氷?」

冨岡さんは私の手元にある器を一瞥し、どこか煮え切らない表情を浮かべた。
氷を食べるのが正解なのか、彼にも判断がつかなかったのかもしれない。

「冨岡さんこそ、どうしてこんな時間にここへ……」

私が掠れた声で問い返すと、彼はわずかに視線を落とし、不自然に左腕を少しだけ前に出した。

「今夜の任務で負傷したところを、無理を言って胡蝶に診てもらった」
「え……怪我、ですか?大丈夫、ですか……?」
「大丈夫ですか、ではないだろう。誰が誰の心配をしている」
「あ……そう、ですよね……」
「歩けるか」

はい、と返事をしようとしたらぐらりと視界がぶれた。咄嗟に冨岡さんが手を伸ばして支えてくれる。

「…高熱だ」
「……はい」

私の腕を支える彼の手へ、その熱さが伝わったのだろう。

「そんな身体で歩き回るものじゃない」
「……はい、すみません」
「早く横になれ」

私がこくりと頷くと、冨岡さんは小さく息を吐いてから、私を支えながらゆっくりと歩き出した。
わけもわからず、彼の大きな体に半分預けられるような形でよたよたと歩く。途中、部屋の場所を聞かれ、私は熱に浮かされたぼんやりとした頭で自分の部屋を指差した。
彼は私の案内に従い部屋の前まで辿り着くと、片手で静かに戸を開けた。

促されるまま部屋に入り、促されるまま布団に身体を滑り込ませる。
冨岡さんは私が横になるのを見届けてから、私の手に握られていた氷の器を奪い取ると枕元の盆の上へと置いた。

「すみません……」

布団の中から再び謝りながら、猛烈な気まずさに襲われる。

「こういう時は、次からは誰かに声をかけるといい」
「……はい」

なんだか、いけないことをして親に諭されているような子供みたいな気分だ。
冨岡さんが氷の器を差し出してくれたので、私はそこから氷を一つ取って口に含んだ。

「昼間、無理をしていたのはわかっていた。疲れが出たんだろう」

口に含んだ氷がパキリと小さな音を立てて砕け、冷たい水になって喉へと流れ落ちていく。

「はい。助かりました。ありがとう、ございました……」
「もう遅い。ゆっくり休め」

冨岡さんはそう言って、衣擦れの音を響かせながら、そのまま立ち去ろうとした。その羽織が、私の視界から消えそうになる。

「あ……」

その瞬間、火照った頭は正常な判断力を完全に失っていた。
このまま彼が部屋を出て、元の静まり返った暗闇に一人きりで取り残されるのだと思った途端、せり上がってきた孤独に、耐えきれなくなってしまったのだ。
咄嗟に布団から手を伸ばし、彼の羽織の裾を、指先でぎゅっと掴み取っていた。

「……」

冨岡さんが少しだけ驚いたように振り返る。

「あ、えっと、その……」

いや、何をしているのだろ。冨岡さんだって怪我をしているのに。
でも、ここにいて欲しい。怖い。寂しい。一人は嫌だ。お母さんにだって会いたい。
一ヶ月が経って、どれだけこの場所に馴染んだつもりでいても、慣れない土地で熱を出してしまった心細さは、思った以上に私の心を脆くさせていた。

「あの、その……」
「ここにいる」
「え……?」
「だから、目を閉じろ」

このまま出て行ってしまうと思ったのに、冨岡さんは枕元に置かれていた丸椅子を引き寄せ、静かに腰を掛けた。
申し訳なく感じつつも、言われた通り瞼を閉じる。

「苦しいか」
「すこし、だけ……。でも、大丈夫、です……」
「昼間もそうやって、大丈夫だと言っていたな」
「すみません。嘘を、ついたわけじゃ、ないんです……。ほんとうに、気づかなくて……」

掠れた声で一生懸命に弁明する私に、冨岡さんは小さく息を吐いた。

「怒っているわけじゃない。ただ、自分のことに関して疎いな」
「そう、ですか……?」
「ああ。自分のことより、周りに合わせることを優先しているように見える」

そう、だったかもしれない。
誰も知り合いのいない。故郷もない。ここで生きていくために、私は嫌われたくなくて、役に立ちたくて、なんとか馴染もうと必死だった。

「怖かった、んです。自分が、どこにも属していないみたいで……。みんな優しくしてくれるけど、いつもどこか不安で……」

元の世界に戻れることはなくて、ここにも本当の居場所があるわけじゃない。
奇跡的に拾われて、こうして温かい布団で眠らせてもらっているけれど、明日目覚めたら「もう十分でしょう」と、放り出される可能性だってあるのだ。

「わたし、ここにいてもいいのかなって……っ、」

その時、私の額にひんやりとしたものが触れた。
驚いて薄く目を開けると、額用の布を冨岡さんが新しく取り替えてくれているところだった。

「お前がどこから来たのかは知らないが」
「え……?」
「あの夜、お前をここに連れてきたのは俺だ。だから、そんなふうに怯えなくていい」

大きな手が、私の前髪をそっと避けるようにして、手拭いを当ててくれる。
いいのかな。何もできなくて、役に立つどころかこうして迷惑ばかりかけているけれど。

「いいん、でしょうか。わたし、迷惑ばかりかけてます……」
「胡蝶はお前を迷惑がってはいない」
「ほんとう、ですか……?」

胡蝶さんも、アオイさんも、みんなすごく優しい。
でも、やっぱり本当は無理をしているんじゃないかって。考えなかったわけではない。

「冨岡さんも、無理してここにいてくれてるんじゃないですか……?」
「俺が居たくてここにいる」

迷いのない返答に、思わず息を呑む。
そんなに真っ直ぐにものを言う人だっただろうか。

「勝手なこと、ばかり言って……すみません」
「胡蝶を呼んでくるか」
「大丈夫、です……冨岡さんが……いて、ください……」

冨岡さんがいてくれたら、なんだかすごく安心する。
居場所なんて、どこを探してもないと思っていた。この世界に突然放り出されて、どこへ行っても自分は異物なのだと、心のどこかでずっと諦めていた。
けれど、違ったのだ。誰かに許されるのを待つのではなく、この人たちが差し出してくれている温もりを、ただ素直に受け取ればよかったのかもしれない。
息をするのすら苦しかったはずの胸が、少しだけ楽になっていく。

「冨岡さん、怪我は……?」
「三針縫っただけだ」
「ぬっ」

縫っただけ、というけれど。
そんな何でもないことのように。

「よく怪我をされるんですか?」

掠れた声で尋ねると、冨岡さんは少しだけ眉を寄せ、心外だとでも言いたげな顔をした。

「今回はたまたまだ。雪で足元が、一瞬狂った。滅多にしくじることはない」
「……そうですか。冨岡さんでもしくじる
ことがあるんですね……」
「どういう意味だ」
「ふふ、いえ……」

とても静かな人だと思っていたけれど。いや、それは今も変わらないのだけれど。
この人はなんだかすごく温かい人なんだろうなってことが、熱でぼんやりとした頭の隙間からじんわりと伝わってくる。
伸ばしていた指先からそっと力を抜くと、冨岡さんの羽織が手から滑り落ちた。

「とみ岡さん、あの……」
「分かったから、もう喋らなくていい。眠るんだ」
「はい……」

少しだけぶっきらぼうで、けれどどこか包み込むような低音。
その声に守られるようにして、私は今度こそ深い意識の底へと沈み込んでいった。



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