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それにしても驚いた。
まさか、本当に自分に熱があったなんて。
自分の部屋の布団に深く沈み込みながら、私は朦朧とする意識の中で、情けなさと申し訳なさでいっぱいになっていた。
あの後、アオイさんたちと一緒にお煎餅をいただき、お茶の香ばしさにホッと一息ついたところまでは良かった。それから屋敷の掃除を終え、夕餉の準備に取り掛かろうと立ち上がった時、ふと喉の奥に小さな棘が刺さったような違和感を覚えた。
少し乾燥しているのかな、くらいに思っていたけれど、階段を上がる足取りは鉛のように重く、視界の端がぐにゃりと歪む。
一応、診てもらおう。
そう思って這うようにしてたどり着いた胡蝶さんの診察室で体温を測った瞬間、彼女の眉がぴくりと跳ねたのだ。
「リサさん、これは立派な発熱ですよ。すぐに休んでください」
その宣告を受けてから、私は流れるように手に持っていた用具を奪い取られ、すぐに布団に沈め込まれていた。
「すみません……。せっかく、お手伝いも慣れてきたところだったのに」
掠れた声でこぼすと、傍らに座っていた胡蝶さんが、冷たい水で絞った布を私の額にそっと当ててくれた。ひんやりとした感触が、燃え上がるような熱を少しだけ鎮めてくれる。
「謝る必要なんてありませんよ。この一ヶ月、あなたは本当に一生懸命でしたから」
胡蝶さんは優しい母のような手つきで私の髪を整えてくれる。
「慣れない土地で、身体が悲鳴をあげるのは当然のことです。……疲れが出たんですよ。今は何も考えず、ただ休むことだけを考えてください」
彼女の穏やかな声を聞いていると、張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れたような気がした。
今の今まで気づかなかったけれど無理、してたんだなあ。慣れって、本当に怖い。
思えば、今朝からずっと顔が熱かったのも、お煎餅を食べていた時にふわふわと浮き上がるような感覚があったのも、すべては冨岡さんに顔を赤くしたせいではなく、熱のせいだったのだ。
熱に浮かされた頭の片隅で、昼間の出来事が鮮明に蘇る。あの時の冨岡さんの、有無を言わせぬ強引な手のひら。
「顔色が悪い」と言って、私の額に触れたあの瞬間、彼はすでに気づいていたのだ。胡蝶さんでさえ診察するまで分からなかった私の不調を、彼は一目で見抜いていた。
『自覚がないのか』あの低い声が、耳の奥でリフレインする。
…恥ずかしいな。冷たい布の下で、再び頬が熱くなるのを感じる。それは知恵熱なのか、それともまた別の熱なのか、今の私には判別がつかない。
「……胡蝶、さん……」
「はい。ここにいますよ」
「……ありがとう、ございます……」
震える声で感謝を伝えると、胡蝶さんは細い指先で私の手を優しく包み込んでくれた。今の私には、その手さえどこかひんやりと感じて心地よい。
「何か食べられそうなものはありますか?少しでもお腹に入れておいた方が、お薬の効きも良くなりますが」
そう問いかけられたけれど、今の私には何かを咀嚼するイメージすら湧かなかった。内側から焼かれるような熱のせいで、胃のあたりもむかむかしている。
「なにも……」
「そうですね、後でアオイにお粥を作らせましょう。一口でもいいですから、目が覚めた時に召し上がってくださいね」
胡蝶さんは私の顔を覗き込むと、安心させるように微笑んだ。
「後で私が調合した薬湯を持ってきます。少し苦いですが、それを飲んでぐっすり眠れば明日の朝にはずいぶん楽になりますよ」
「……はい。ありがとうございます……」
少し苦い、という言葉が気にかかったが、彼女が差し出してくれるものはどんな薬よりも信頼できる気がする。
「さ、お薬を持ってくる間、少し目を閉じていてくださいね」
胡蝶さんの静かな声に促されるように、私は重たいまぶたをゆっくりと下ろした。枕元で衣擦れの音がして、彼女が部屋を出ていく気配がする。
意識がぷつりと途絶えるその瞬間、私は少しだけ未来にいる母のことを思い返していた。
*
「……体が重い」
ゆるゆると微睡みの淵から引き上げられ、目を覚ましたのは、日もすっかり沈みきった夜中だった。行灯の頼りない光が壁に長い影を落とし、静まり返った屋敷の静寂が、余計に今の自分の孤独を際立たせている。
喉が焼けるように渇いていた。枕元には、胡蝶さんの言った通りアオイさんが用意してくれたのであろうお粥と、例の薬湯が置かれていた。少しでもお腹に入れなきゃ——そう思って上体を起こしたのだけれど。
これがびっくりするほどに食べられないのである。
レンゲを持つ手すら震えて、体が食べ物を受け付けることを全力で拒否しているような感覚。恐らくほんのりと塩で味付けされているはずなのに、熱で麻痺した舌には何の味も感じられない。
胡蝶さんに「一口でも」と言われた通り、必死に飲み込もうと努力はしたのだが、結局三口が限界だった。…これは、自分で思う以上に重症かもしれない。
「…気持ち悪い」
さっきよりは意識がはっきりしている分、かえって苦痛が鮮明だった。
割れるような頭痛に加えて、胃の奥からせり上がってくるような渦巻く吐き気。熱はもう、計るだけ無駄な気がして放っておいた。
なんとか例の苦い薬湯を飲み下したものの、この気持ち悪さではとてもではないが再び眠れる気がしない。どうしよう。吐き戻すほど酷くはないけれど、胸のあたりがむかむかして、世界がぐるぐると回る。
こういう時って、氷を口に含むと少しは楽になるんだっけ…。それは妊婦さんだっけ、それとも三半規管をやられた時だっけ。霞がかった頭では、もう正しい知識すら引き出せない。
とにかく…冷たいものが欲しい。火照った体に冷気を取り込みたくて、私はふらふらと立ち上がった。足元がおぼつかず、壁を伝いながら、冷たい氷を求めて夜の台所へと向かう。
ようやく辿り着いた台所で私は手探りで氷を探し、小さな器にいくつか移し替えた。それを持って、また自分の部屋へと引き返す。けれど、あまりの気怠さにふと廊下の途中で足が止まった。
…こんな姿を誰かに見られたら、きっと怒られるだろうな。
病人なんだから寝ていろと、胡蝶さんあたりにきつく叱られるのが目に見えている。いや、でも。こんな夜更けに、しかも誰かと鉢合わせる可能性なんてほとんどないはずだ。もし誰かに見つかったら、その時は全力で謝って、大人しく布団に戻ればいい。
…まさかその誰かが、この屋敷の人以外にもなり得る可能性を考えていなかったのは、間違いなく発熱で脳が茹だっていたせいだと思いたい。
「何をしてる」
「…へ?」
自分の部屋まであと半分というところで声をかけられてのろのろと振り返れば、そこには少し驚いた様子の冨岡さんが立っていた。
…いやなんでこの人がここに。お昼に胡蝶さんの診察を終えて、すぐに帰ったのではなかったのか。なぜ、こんな時間に?いや、鬼殺隊って夜が主な活動時間だったんだっけ。
「…こんばんは、冨岡さん」
「………」
掠れた声で、なんとかそれだけを絞り出した。
冨岡さんは何も言わずに、視線が私の顔から足元へと落ちる。
「具合が悪そうだが」
冨岡さんは私をじっと見つめたまま、一歩距離を詰めてきた。昼間の彼の言葉を、いまさら私が証明してしまった形だ。気まずさと熱のせいで、また別の意味で顔が熱くなっていく。
「……はい」
返す言葉もなかった。
「やはり体調を崩していたのか」
「はい、その……熱が出たみたいで……。気持ち悪かったので、何か口にできそうな氷を、取りに来たんです……」
「…氷?」
冨岡さんは私の手元にある器を一瞥したけれど、どこか納得のいっていないような、煮え切らない表情を浮かべた。氷を食べるのが正解なのか、彼にも判断がつかなかったのかもしれない。
「……冨岡さんこそ、どうしてこんな時間に蝶屋敷へ……」
私が掠れた声で問い返すと、彼はわずかに視線を落とし、不自然に左腕を少しだけ前に出した。
「今夜の任務で負傷したところを、無理を言って胡蝶に診てもらった」
「え……怪我、ですか?大丈夫ですか……?」
「大丈夫ですか、ではないだろう。誰が誰の心配をしている」
「あ……そう、ですよね……」
「歩けるか」
はい、と返事をしようとしたらぐらりと視界がぶれた。咄嗟に冨岡さんが手を伸ばして支えてくれる。
「…高熱だ」
「……はい」
私の腕を支える彼の手へ、その熱さが伝わったのだろう。
「そんな身体で歩き回るものじゃない」
「……はい、すみません」
「早く横になれ」
私がこくりと頷くと、冨岡さんは小さく息を吐いてから、私を支えながらゆっくりと歩き出した。
わけもわからず、彼の大きな体に半分預けられるような形でよたよたと歩く。途中、部屋の場所を聞かれ、私は熱に浮かされたぼんやりとした頭で自分の部屋を指差した。
彼は私の案内に従い部屋の前まで辿り着くと、片手で静かに戸を開けた。
促されるまま部屋に入り、促されるまま布団に身体を滑り込ませる。冨岡さんは私が横になるのを見届けてから、私の手に握られていた氷の器を奪い取ると枕元の盆の上へと置いた。
「すみません……」
布団の中から再び謝りながら、猛烈な気まずさに襲われる。寝巻き姿で、髪も乱れ、それにきっと汗臭いのに。それをよりにもよって、この人に見られてしまうなんて。
私は顔を半分ほど布団に埋めて冨岡さんを見上げた。
「こういう時は、次からは誰かに声をかけるといい」
「……はい」
なんだか、いけないことをして親に諭されているような子供っぽくて、むず痒い気持ちになる。
冨岡さんが氷の器を差し出してくれたので、私はそこから氷を一つ取って口に含んだ。
「昼間、無理をしていたのはわかっていた。疲れが出たんだろう」
なぜだか、胡蝶さんに続いてこの人には隠し事ができる気がしない。それに、胡蝶さんに心配された時とは違う。また違った気恥ずかしさが込み上げてくる。
冨岡さんは腕を組んで傍らに立つと、じっと私を見つめてくる。
「……あの、冨岡さんは、まだ、帰られないんですか……?」
「またお前を徘徊させるわけにもいかないだろう」
「うっ、すみません……。でも、冨岡さんもお怪我をされているのに……」
「大したことはない。二針縫っただけだ」
「縫っ」
私が彼の左腕へ視線をやると、冨岡さんは感情の読めない瞳で自分の包帯を一瞥し、事も無げに言った。
さらりと言うけれど。二針。それは、一般的に見れば「大したこと」以外の何物でもないはずだ。
お礼を言わなきゃいけないのか、それとも今すぐ彼を休ませるべきなのか。けれど、茹だった脳みそではその優先順位すら正しく導き出せない。
「……縫うって、どんな怪我をしたんですか。麻酔とか、したんですか……?」
「いや」
「……とっても痛そう」
皮膚を針と糸で縫い合わせるなんて、想像しただけで自分の胃がキュッと縮こまるような心地がする。
「お前は自分の心配だけしていればいい」
「……でも」
「黙って寝ろ。これ以上喋ると熱が上がる」
ぶっきらぼうに遮られて、私はそれ以上言葉を返すことができなくなった。
相変わらず突き放すような物言いだけれど、その根底にあるのは私への純粋な気遣いなのだと、私にはよく分かる。
それにしても、いつまでここにいるつもりなのだろうか。
「それとも胡蝶を呼んでくるか」
「大丈夫……です。このまま……眠れそうです」
「そうか」
胡蝶さんが来れば、もっと怒られることが目に見えてる。慌てて否定すれば、冨岡さんは腕を組んで少しだけ私から視線を逸らした。
「粥はそれだけしか食べられなかったのか」
「……すみません。なんだか喉を通らなくて」
せっかく用意してもらったのに、という罪悪感から私は布団の中で身を縮める。
「無理に食べることはない。だが、水分は取れ」
「……はい」
「薬湯は飲んだのか」
「飲みました……。すごく、苦かったですけど」
思わず顔をしかめてそう言うと、冨岡さんはほんの一瞬だけ目元を緩めたように見えた。気のせいかもしれないけれど。
それに、なんだか口うるさい。まるでお母さんみたいだ。
「胡蝶の薬は確かに酷く苦いが、…よく効く」
「冨岡さんも、いつもあの苦いお薬を飲んでいるんですか……?」
「俺は、滅多に体調を崩さない。怪我の時だけだ」
どこか誇らしげに告げる彼に、私は小さく息を漏らした。熱で朦朧とする頭の片隅で、なんだか少しだけ可笑しくなってしまった。たぶん、この人はどこかちょっとズレている。
そういえば、幼い頃も熱を出して寝込むたびに、母がこうして枕元に座ってずっと傍にいてくれた。何も言わなくても、ただ誰かが寄り添ってくれているだけで、得体の知れない恐怖から守られているような安心感があったのだ。
今、私の傍らにいるのは優しく髪を撫でてくれる母ではなく、口数の少ない剣士だけれど。彼が纏う静けさは、あの頃の温かな記憶とどこか深く重なって私の心を穏やかな凪へと導いてくれる。
「……冨岡さん」
「なんだ」
「……その、ありがとうございます。少しだけ、昔のことを思い出しました……」
この時代に来てから、ずっと忘れていた大切な記憶を。思い出すと、なぜそんな大切なことを忘れていたのだろうと不思議に思う。
「私の母のことです……」
「…お前の母親は、優しかったのか」
「はい。とても。熱を出すと、ずっとそばにいてくれました」
「そうか」
冨岡さんはそれ以上深くは踏み込まず、ただ静かに頷聞いてくれた。その淡々とした相槌が、かえって心地よい。
お母さん、お父さん。…元気かな。急に死んでしまった私を思って、二人はどれだけ泣いただろう。今も絶望の中にいないだろうか。
私がまさかこうして生きているなんて思ってもいないだろうから、せめて無事だけは伝えられたらいいのに。
「…俺の姉も、そうだった」
ぽつり、と溢された声に、私は静かに冨岡さんの方を見上げた。珍しい、彼から話題を振ってくれるなんて。
「お姉さん……?」
「俺が幼い頃、熱を出した時は姉がずっと傍にいてくれた」
「そう、なんですか。…素敵なご姉弟ですね」
冨岡さん、お姉さんがいらっしゃるのか。
面倒見がいいから、冨岡さんには勝手に兄のようなイメージを持っていたけれど、お姉さんがいると言われるとなんだか納得する部分もある。
「きっと、冨岡さんと同じように、とてもお優しい方なんでしょうね……」
なんとなく告げた私の言葉に、冨岡さんは一瞬だけ驚いたように目を見開いた。それからすぐに視線を落とし、何かを堪えるように口元を引き締める。
「…ああ」
どんなお姉さんなんだろう。
きっと今の冨岡さんと同じように、静かで、それでいて深い慈しみを持った人に違いない。そんな素敵な人に守られていたから、彼もこうして誰かの痛みに寄り添える人になったのではないだろうか。
なんだか、彼に対する印象が少しだけ変わったような気がする。今まではどこか近寄りがたくて、何を考えているのか分からない、くらいに思っていたけれど。
ただの無愛想な人ではなく、誰かの温もりに守られそれを誰かに返そうとする、温かな血の通った人なんだと。
熱に浮かされた頭でそんなことをぼんやりと考えていると、不思議とうとうととしてくるのが分かった。
「冨岡さん……もう、大丈夫です。お帰りください……」
まぶたの裏に心地よい眠気が染み込んでくるのを感じながら、私は消え入るような声でそう告げた。怪我人である彼をいつまでも引き止めておくわけにもいかない。
「眠れそうか」
本当は、まだ少し気持ち悪さが残っていて、一人になるのは心細かった。だから、その問いかけに対して「大丈夫です」と答えることはできなかった。
「……冨岡さんの手、さっきすごく冷たかったです……」
支えてもらった時の、少しひんやりとした彼の体温を思い出して私はうわごとのように呟く。
「任務で外を歩いていたからな」
「……いいなぁ。……今の私、すごく熱いから、ちょっとだけ羨ましいです」
ふふ、と力なく笑う私を見て、冨岡さんは少しだけ困ったように眉を寄せた。
それから彼は組んでいた腕を解き、少しだけ躊躇うような素振りを見せたあと、大きい手のひらをそっと私の額に近づける。
「……っ」
ひたり、と冷たい感覚がして驚いて目を開けた。
触れるわけじゃなく、ただそこに置いてある感じ。でもなんだかそれが不思議なくらい安心して、同時にどうしようもなく嬉しくて。
冨岡さん、お姉さんにもこうしてもらってたのかな。うっすらとした意識の中で、そんなことがふと頭をよぎった。
「もうゆっくり休め」
「はい……ありがとう、ございます」
安堵からか、それとも限界だったのか。
「ありがとう」という言葉と同時に、急激に意識が遠のいていく。
明日の朝には…少し、楽になってるといいな。口の中で小さくなった氷を最後の一欠片まで飲み下すと、私はゆっくりと重たいまぶたを閉じた。
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