51
日輪刀を鞘に納める、乾いた音が辺りに響いた。足元では、首を断たれた鬼の体が炭のような塊へと変わり、風にさらわれてさらさらと崩れ落ちていく。
鬼の気配が完全に消えたことを確認し、ようやく俺は肺から熱い呼気を吐き出した。衣服にこびりついた血の匂いも、夜明けの空気が少しずつ薄めていく。
「あの…!ありがとうございました、お侍様…!」
背後から、震える声が聞こえた。振り返ると、物陰にうずくまっていた若い女が、幼い子供を抱きしめたままこちらを見上げている。その瞳には、恐怖の名残とそれ以上の深い感謝の色が浮かんでいた。
何度も何度も頭を下げる彼女たちの姿に、どう言葉を返せばいいのかいつも迷う。
「…怪我はないか」
「はい、おかげさまで。本当に、なんとお礼を申し上げたらよいか……」
「礼には及ばない。それが俺の役目だ」
突き放すような物言いになったかもしれないが、それ以上の言葉は浮かばなかった。
助かってよかった。そう思ってはいる。だが、それを上手く表現する術を俺は持たない。
立ち去ろうとする俺の背に、子供の「ばいばい、青い目のお兄ちゃん!」という小さな声が投げかけられた。
わずかに足を止めたが、振り向かずにそのまま闇の先へと歩を進めた。
――夜明け。東の空が白み始め、世界が色彩を取り戻していく頃。任務を終えた俺は自分の屋敷、水柱邸の門をくぐった。
ふいに目の奥が焼けるように熱く、鈍い痛みを訴え始める。数日の任務にわたる不眠が、ここにきて限界を告げているようだった。
俺は一度足を止め、瞼を閉じて指先で眉間のあたりをきゅっと強く揉み込んだ。そうしたところで、鉛のような疲労が消えるわけではないが、そうせずにはいられなかった。
ふと、庭の方で小気味よい音が聞こえてくる。竹箒が地面を掃くような、規則正しい音。
「――あ、冨岡さん!お帰りなさいませ!」
聞き慣れた快活な声が響き、俺はゆっくりと目を開けた。
そこには、俺が留守の間に屋敷の管理を任せている、隠の男が立っていた。他の隠たちは、俺の無口さを「何を考えているか分からない」と敬遠する者も多い。
だが、この男だけは妙に物怖じせず、こうして任務明けの俺にも屈託なく声をかけてくる。
「…まだ早朝だぞ。何をしている」
「何って、冨岡さんが留守の間に庭の雑草が目立ってきてたんで。ついでに縁側も拭いときましたよ。あ、あと、台所に新しい薪も積んどきましたから」
男は屈託のない笑みを浮かべ、手に持った箒を立てかけた。頼んでもいないことまでこなしている。
俺は「そうか」とだけ短く応じ、縁側に腰を下ろした。
「酷い顔して帰ってくるんじゃないかと思いましたが。…案の定、酷い隈ですね。少しは寝なきゃ体に障りますよ、本当に」
男は心配そうに眉を下げ、こちらに向き直る。
「蝶屋敷の方々からも、きつく言われてるんですよ。『無理にでも寝かせてくれ』って。これも無理やり持たされたんです。……はい」
そう言って男が懐から取り出したのは、布に包まれた薬の入った小瓶と、その上に添えられた小さな文だった。
…まだ、前の分がだいぶ残っているのだが。念のため、といった所だろうか。
「…手間をかけた」
「いいんですよ。あ、その文には胡蝶様からの伝言が入ってるはずですからね。俺はこれで失礼します。……いいですか、さっさと寝てくださいよ、水柱様」
男はそれだけ言い残すと、軽く頭を下げて忙しなく屋敷を去っていった。
再び静寂が戻る。手元に残ったのは、小瓶と、見慣れた筆跡で書かれた名前。
包みを解き、中の紙を広げる。そこには案の定、胡蝶の整った、けれどどこか棘を含んだ文字が並んでいた。
"薬ちゃんと飲んでくださいね。
悪化したら面倒なので、私が。"
その先を読み進め、俺は無意識に眉間に刻まれた皺を深くした。
"先日、リサさんが私のところへ、あなたの状態を尋ねにきました。
彼女に余計な心配を増やさせないでください。
あと、泣かせたら許しませんからね。"
そんな彼女をついこの前、抱きしめて眠ってしまったと知ったら、胡蝶はどんな顔をするだろうか。わざわざ言うつもりもないが。
確かにあの時は酷い寝不足で、判断が鈍っていた。いや、最早それが現実の出来事だったのかすら、今の俺には危うい。それほどまでに、俺にとって「眠り」という行為は日常から切り離され、遠いものと化していた。
いつからだろうか。夜を徹して刀を振るい、鴉の鳴き声に急かされて次の地へ向かう。目の奥の痛みも、鉛のような体の重さも、あって当たり前の"背景"になった。
眠れないことに苦痛を感じる段階はとうに過ぎ、ただ、意識を繋ぎ止めて刃を振るい続ける。それこそが柱としての、俺の日常だった。命を削っているという自覚すら、摩耗して消えていたのだ。
――あの夜、彼女に腕を引かれるまでは。
『今すぐ寝ましょう。……いいえ、寝かせます!』
こちらの抵抗をもろともせず、俺を見据えて彼女は大声を上げた。普段の穏やかな彼女からは想像もつかない、必死で、それでいてひどく不器用な叫びだった。
『不愉快でも何でもいいです!嫌われてもいいですから、今はとにかく寝てください!』
啖呵を切ったはずの彼女が、次第に気圧されたように俯いていく。俺はただ、呆然と立ち尽くすしかなかった。
不安げに揺れる瞳。けれどその奥には、譲れないという強い意志が灯っている。いつもほんのり色づいている頬が、その時は熱を帯びてより赤く見えた。
正直に言えば、意味が分からなかった。
なぜ、こんな俺を。ただの懐中帳を、俺がどれだけ眠っていないかを記しただけの無機質な記録を見た、たったそれだけの理由で。
どうしてこれほどまでに心を痛めるのか。どうして、嫌われることを恐れず、俺の領域に踏み込もうとするのか。
分からない。高月を見ていると、自分の内側にある理屈が通用しなくなる。
俺にとって彼女は、静かだった日常に"温度"を持ち込む存在で、ただそれだけのはずだった。
誰からも好かれるような、おおらかな性格。放っておけばどこか危ういことを平気でしでかす、危なっかしい娘。
だから、ほんの少しだけ気掛かりで……最初は本当に、妹のような感覚で接していたつもりだった。
『自分の体を一番労わってあげられるのは自分だけなんです。毎日頑張っている分、今日はお休みをあげてもいいんじゃないですか?』
飼い犬に手を噛まれるような、そんな衝撃を受けた。予防線を張ったつもりが、いとも容易く壊された。
真面目で純情で、鈍感。大体そんなところだろうと打算をしていたら、酷い目に遭った。
とんでもない。彼女の方が何枚も上手だった。下手な俺の自衛になんて目もくれず、丸ごと包み込んでしまう。時折、驚くほど大人びているのに、いざとなるとへっぴり腰ですぐに萎縮する。
そんな矛盾だらけの彼女を、俺はあの時、衝動的に抱き寄せた。なんてことないように話すくせに、それが的を得ているから、縋りたくなった。
腕の中に収まった高月は、驚くほど脆く、そして温かくて。
その温もりが、張り詰めていた俺の意識をいとも容易く解かし、泥のような眠りへと引きずり込んでしまった。
……心配、か。胡蝶の文を再び見つめる。
あの夜のことは、彼女にとってどんな記憶として残っているのだろうか。俺が一方的に縋り、彼女を困惑させてしまったというのに。
彼女はこうして今も俺のことを気遣い、胡蝶の元へまで足を運んでくれている。
俺は文を畳み、薬の小瓶を傍らに置いた。縁側の隙間から、朝日が容赦なく差し込んでくる。静まり返った屋敷に、蝉の初鳴きが響き始めた。
…何もしないと言っておきながら、俺は彼女に触れた。「休みをくれるんだろう」などと、もっともらしい言葉を並べて、その実、彼女の温もりに縋りついた。
柱として、男として、あるまじき失態だ。彼女の純粋な善意と心配に付け込み、守るべき対象であるはずの彼女を、俺の勝手な癒やしの道具にしてしまったのではないか。
差し込む朝日が、その不甲斐なさを暴き立てるようで、胸の奥がじりじりと焼けるように痛む。
……申し訳ない、と思った。あの日、深く穏やかな眠りから目覚めた時、腕の中にいた彼女の体温を思い出すだけで、指先が微かに震える。
その謝罪の気持ちと、それ以上に、言葉では到底足りないほどの感謝を形にしたかった。
だから、あの帯留めを選んだのだ。彼女は信じられないものを見るような顔をした後、花が綻ぶように笑った。その笑顔を見た瞬間、俺の中の罪悪感が少しだけ、氷が溶けるように解けていった気がした。
「………」
味を占めた、と言えば聞こえが悪いが。彼女を喜ばせることで、己の中の不甲斐なさを薄めたいという身勝手な欲が、確かにそこにはあった。だからこそ、今度は町にある甘味処にまで彼女を連れ出したのだ。
あの日、店の中で"あいすくりん"を前にして、子供のように目を輝かせていた彼女。きっと彼女にとって、あの味やあの空間は、俺の知らないを故郷を繋ぎ止めるための
分かってはいた。彼女が見つめているのは俺ではなく、その先に透けるかつての日常なのだと。それでも、その瞳に俺を映していてほしいと、その時、柄にもなく願ってしまった。
そんな俺の独りよがりな願いを、彼女はいとも容易く、そしてあまりに鮮やかに打ち砕いた。
目に涙を溜めて、顔を真っ赤に染め上げて。震える声で、彼女はこう言ったのだ。
『あのおにぎりのおかげで、私は今ここにいられるんだって思うと、なんだか一番特別な食べ物になっちゃって。だから、好きなんです』
『…………』
その瞬間、思考が真っ白に染まった。心臓を直接掴まれたような、あるいは、最も深い場所にある"凪"を強引に掻き乱されたような。
任務で負う傷よりも深く、けれど恐ろしいほどに熱い衝撃が全身を駆け抜けた。
彼女が「好きだ」と言ったのは、食べ物そのものではなかった。行き場を失っていた彼女に、俺が無造作に投げ与えただけの、あの冷えた握り飯。
俺自身すら忘れかけていた、その取るに足らないはずの過去を、彼女は"救い"として、何よりも大切な"特別"として、その胸に抱き続けてくれていたのだ。
……自覚がなかったのは、俺の方か。
俺が彼女を妹のように思い、あるいは
「好きなんです」というその一言に込められた、あまりに純粋で、あまりに重い
それを突きつけられて、平常心でいられるはずがなかった。
耳の付け根が焼けるように熱い。視線を窓の外へ逸らしたものの、網膜には今も、潤んだ瞳で俺を見つめていた彼女の顔が焼き付いて離れない。
その時の俺には、彼女に返せる言葉が見つからなかった。「そうか」と短く応じるのが精一杯で、己の余裕のなさに嫌気がさした。
だが、その時確信した。俺はもう、彼女を単なる"守るべき対象"として見ることはできない。
下手な自衛も、打算も、彼女の真っ直ぐな言葉の前では何の意味も持たなかった。
廊下を抜ける風が、僅かに火照った顔を撫でる。俺は手元の小瓶を見つめ、胡蝶の書いた「泣かせたら許さない」という一文を、もう一度心の内でなぞった。
ああ、分かっている。誰よりも彼女を泣かせたくないのは、俺自身だ。
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