51


「あの、冨岡さんこれは……?」

差し出された手のひらの上を見つめたまま、私は思わず瞬きを繰り返した。


事の始まりは、昨日届いた一枚の手紙だ。蝶屋敷の裏庭で洗濯物を干し終え、ちょうど籠を抱えて縁側へ戻った時のこと。
バサリと羽音を立てて屋敷の欄干に降り立ったのは、冨岡さんの鎹鴉である寛三郎さんだった。
高齢ながらも、一生懸命に嘴で咥えて運んできてくれた手紙には、冨岡さんらしい達筆な文字で、「明日、出納帳の整理を手伝ってほしい」という旨が記されていた。
今となっては冨岡さん一人でも十分にこなせるはずなのに。こうして今でも折に触れて声をかけてくれる。
彼なりに私を気遣ってくれているのか、あるいは単に慣れた作業だからと頼りにしてくれているだけなのかは分からないけれど、その些細な頼み事が、私は嬉しかった。

健気に首を傾げてこちらの様子を伺う寛三郎さんと少しだけ会話を交わし、あの嵐の時のお礼にと、蝶屋敷の裏手で実っていた黒紫色の桑の実をいくつか掌に乗せて差し出した。
寛三郎さんは嬉しそうに目を細めながら啄んでくれた。

「美味しかったですか?冨岡さんにもよろしくお伝えください」と笑いかけると、寛三郎さんは満足げにひと鳴きして飛び立っていった。

そうして私は後日、あんなに喜んでくれたのならと、小さな竹籠にたっぷりと摘んだ桑の実を携えて水柱邸を訪れたのだ。
桑の実には、不眠やイライラを和らげる効果が期待できると、この間本で読んだばかりだった。
「寛三郎さんにどうぞ」と差し出したそれは、縁側で休んでいた寛三郎さんだけでなく、冨岡さんも見事口に運んでくれ、私の目論見も達成された。

その後は、いつものように座卓を挟んで向かい合い、彼が几帳面に揃えた帳簿に目を通す静かな時間が流れた。
紙が擦れる音と、墨の微かな匂い。時折、風が庭の木々を揺らす音だけが響く静けさの中、案の定、数字は何の狂いもなく正確に合っていて、確認の作業はあっさりと滞りなく片付いた。

「これで全部終わりました。数字もぴったり合ってます」

ほっとして笑いかけ、私は散らばった筆や硯を巾着へと片付け始める。
早く蝶屋敷に戻って、午後の調合を手伝わなければ。そう思ってそそくさと帰り支度をしていた私を横目に、冨岡さんがふと席を立ち、部屋の隅にある棚の方へと向かったことには気づいていた。
何か別の書類でも探しているのだろうと、大して気に留めることもなく片付けを続ける私の目の前に、彼はあの小箱を差し出したのだ。

「お前にだ」

私は思わず冨岡さんの顔を凝視する。

「わたし、に?どうして……」
「あの晩の……、礼だ」
「え?お礼?私、何かしましたっけ」

あの晩、と言われてどう振り返っても、私の方こそ勝手を言って迷惑をかけた記憶しかない。

「お礼を言わなければいけないのは私の方ですよ。冨岡さんにだって事情があるのに色々ずけずけと……」

挙句の果てには朝まで同じ布団のすぐ隣で過ごし、翌朝にはなぜか泣き出す始末。冷静になった今振り返っても、穴があったら入りたいほど恥ずかしく、たくさん心配と迷惑をかけた。

「あの夜は、よく眠れた」
「え……」
「これはその礼だ」
「でも……」
「開けてみろ」

小箱を受け取り、言われるままに封を切る。
お菓子か何かかな、と想像しながら箱の蓋をぱかっと開けて、中の物を取り出した瞬間。
私は思わず息を呑んだ。

「……これ、」

掌の上に乗ったのは、透き通るような薄紅色の帯留め。

「硝子でできてる」

ひらりと舞い落ちた桜の花弁を五枚そのまま形にしたような精巧な硝子細工。素人目に見ても、それが相当に高価なものであることはすぐに分かった。

「っこれ、そんな……わたし……」

言葉がうまく繋がらず、私は硝子の桜を両手で包み込むようにして見つめた。
こんなものを受け取ってしまって、本当にいいのだろうか。光に透かしてみると、中にも桜が埋め込まれてる。
どこかの町へ、足を運んで買い求めてくれたのかな。いつも任務や鍛錬ばかりで、忙しいはずの冨岡さんが、わざわざ。あの手で、こんなにも小さくて繊細な硝子を吟味している姿を思い浮かべると、それだけで胸がきゅっと締めつけられるように熱くなる。
…すごく、可愛い。すごくすごく、綺麗だ。私が好んで着ている着物の色と驚くほど合っていて、たくさん悩んで選んでくれたのだと、その色と形から伝わってくる。

「……冨岡さん」
「うん」
「ありがとう、ございます。すごく、すごく嬉しいです……」
「うん」

ただ純粋に、どうしようもなく嬉しい。温かいものが胸いっぱいに満ちて、視界がじわじわと滲み始める。
私はその帯留めを胸の前でぎゅっと抱きしめるようにして、顔を上げた。

「……大切にします。ずっと、大切にしますね」

潤んだ瞳のままなんとかそう伝えれば、私を見つめる双眸が揺れる。そして一度閉じた瞼が開かれた時には逸らされていた。

「……お前は、その顔をあまりしない方がいい」
「え?その顔……?」
「それだ」
「それ?」

何のことだかさっぱり分からず、首を傾げる。

「泣きそうな顔、ですか?」

そう思って問いかければ、冨岡さんはそっぽを向いたままわずかに口元を引き結んだ。
そのまま諦めたようにひとつ息を吐くと、羽織の懐へすっと手を差し入れる。取り出されたのは、真っ白な懐紙。
座卓越しにそれがすっと差し出され、私は瞬きを繰り返した。

「な、なんですか……?」
「紫になってる」
「えっ」
「ここだ」

冨岡さんは人差し指で、自身の唇の端をトントンと軽く押さえてみせる。

「あっ、さっきの、桑の実食べたから……」

一気に頭に血が上った。さっき縁側で、寛三郎さんと一緒に一つ二つ口に放り込んだのを、すっかり忘れていた。
私は差し出された懐紙を慌てて受け取ると、言われたあたりを必死に擦った。
恥ずかしい。恥ずかしすぎる。そんな間抜けな口元のまま、さっきまで感動して泣きそうになっていただなんて。
「その顔はしない方がいい」というのはそういうことか。口元を紫に染めたまま感極まっている顔なんて、確かに見苦しいにも程がある。自分のあまりのみっともなさに、顔から火が出るどころかそのまま消し炭になってしまいたかった。

「……取れましたか?」

真っ赤になったままおそるおそる懐紙を離して顔を上げると、冨岡さんはじっと私の口元を見つめてから、短く頷いた。
私はいたたまれなさを誤魔化すように、手元の小さな包みを指す。

「あっ、あの……今、つけてみてもいいですか?」

上目遣いに伺いを立てると、彼は瞬きをして頷いた。

「……ああ」

冨岡さんが座布団へと腰を下ろし、姿勢を正したその無言の了解を見届けてから、私は震える指先で贈られたばかりの帯留めを手に取った。
高価なものを落としてしまっては大変だと意識すればするほど、手元が狂いそうになる。
一つ深く息を吐き、膝の上で一度紐を通してから、慎重に位置を整えて帯に添える。
手元を見下ろせば、自分の装いに加わったその小さな贈り物に、先ほどのみっともない失敗も忘れて自然と笑みがこぼれていた。

「すごく、綺麗です……」

そう零しながら顔を上げると、真っ直ぐこちらを見つめていた冨岡さんの瞳が、ほんの少しだけ柔らかく細められる。

「お前は、とりあえず眉間に力を入れているといい」
「こうですか?」
「……ああ。そうして、誰にも笑うな」

そんな無理な注文があるだろうか。
アオイさんやすみちゃんたちと顔を合わせれば自然と頬が緩んでしまうのだ。眉間にしわを寄せたまま一日中過ごすなんて、できるはずがない。
なのに、その頑なな言葉が堪らないと思ってしまうのだから、本当にどうしようもない。

「……そんなの、無理ですよ」

言われた通りの顰め面を保ちきれなくなって、私の口元からは、どうしても困ったような笑みが零れ落ちてしまった。









そろそろ蝶屋敷へ戻らなければならない時間になり、立ち上がった私を冨岡さんは何も言わずに門の外まで見送ってくれた。
見上げるほど高い門扉の脇、向き合いながら私は胸元の帯留めへ無意識に指先を伸ばす。

「気に入ったか」
「はい!とっても」

帯の上にちょこんと乗った、透き通る硝子。指の腹で触れると、私の熱を吸い取ってかすかに温かい。
手元を見下ろすだけで、胸の奥がきゅっと音を立てて甘く軋み、自然と口元が緩んでしまう。
…ああ、やっぱり好きだ。こんな嬉しいことをされたら、諦められるわけがない。好きなのをやめられるはずがないのだ。

「……好きか?」

唐突に、頭の上から静かな声が降ってきた。

「へ?」

反射的に顔を上げると、冨岡さんはいつもの無表情のまま真っ直ぐに私を見下ろしている。

「え、あ……え?」
「好きか」
「な、なにがですか……?」
「なにがとは」
「えっ、だから、何の話ですか……?」
「何の話とは」

会話がまったく噛み合わない。私は何か聞き逃してしまっただろうか。
まさか、気持ちがバレた?私が必死に引いてきたはずの線なんて最初から透けて見えていて、すべてがバレてしまった?そう思い至って青ざめる。
どくどくと嫌に鼓動が早まる私に対して、冨岡さんは首をほんの少し傾げた。

「あいすくりんは好きか」

あいすくりん。

「あ、ああ……なんだ。びっくりした……」

冷たくて甘い、あの南蛮渡来の菓子。
私の、早とちり。帯留めをもらって、浮かれているにも程がある。てっきり気持ちが全部ばれてしまったのかと思って、寿命が縮むかと思った。
情けないため息をひとつ吐き出しながら、私は胸元に当てていた手をゆっくりと下ろす。

「……好き、ですけど。なんでですか?」
「何時までに蝶屋敷に戻らなければならない」
「え?っと……」

突然の問いかけに、私は頭の中で今日の予定を慌てて振り返る。

「帰ったら午後の調合を手伝おうとは思ってますけど、絶対に私がいなければならないわけではないので、特には……決まってないです」
「そうか」

冨岡さんは短く頷くと、踵を返して歩き出した。

「……あの、冨岡さん?」
「来るんじゃないのか」
「えっ」
「あいすくりんだ」

すたすたと離れていく大きな背中を見て、私は慌てて万年筆やインクの入った巾着袋を両手で抱え直す。

「えっ、もしかして奢ってくださるんですか!た、食べたいです!ここに来てからアイス、全然食べてなくて……!」

置いていかれないように小走りで追いかけると、冨岡さんは振り返りこそしないものの、ほんの少しだけ歩幅を緩めてくれた。







「っ、ん〜〜!!」

匙を口に運んだ瞬間、思わず声が漏れてぎゅっと目を閉じた。
舌の上に乗ったひんやりと冷たい塊が、熱ですうっとほどけていく。濃厚な乳の甘みと、氷菓子特有のさらりとしたまろやかさ。
暑さで火照りきっていた身体が芯から解きほぐされていくようだった。

「美味しい!幸せの味がします……っ!」
「……本当に、甘いものが好きなんだな」
「はい!大好きです!」

もう待ちきれなくて、すぐさま二口目を口へ運ぶ。
とろける甘さにたまらなくなって、思わず片手を頬に当てた。美味しいものを食べた時って、どうして自然と顔が緩んでしまうんだろう。

「昔は毎日のように食べてたんです」
「……毎日?」
「はい!学校帰りに友達と食べたり、バイトの帰りにコンビニに寄っ、……お店に寄って食べたりよくしてましたよ」

冨岡さんに連れてこられたのは、大通りから少し外れた路地裏にある、小さな甘味処だった。
店先には涼しげな暖簾が揺れていて、表の喧騒が嘘のように静かな空間。ガラガラと引き戸を開けて入った店内は薄暗く、木製の丸テーブルがいくつか並んでいるだけのこぢんまりとした素敵なお店だ。ふわりと甘い蜜の香りが漂っている。
ガラスの器にまあるく盛られたそれは、ほんのり黄色みを帯びた色をしていて、底にはほろ苦いカラメルが少しだけ忍ばせてある。
冷たさと甘さと香ばしさが重なって、スプーンが止まらなくなるくらいに美味しい。

「ん、そういえば……どうして私が甘いものが好きって知ってたんですか?」

器に残るあいすくりんをつつきながら、真正面に座る冨岡さんを見つめて尋ねてみる。
すると、まさに今、二口目を口へ運ぼうとしていた冨岡さんの手がぴたりと空中で止まった。

「……昔に、お前が言っていた」
「ええっ、私、冨岡さんには言ったことないですよ。冨岡さんとの会話は全部覚えてるので」
「……詮索する暇があるなら味わって食べろ」
「美味しいですよ?」

別に深い意味があって聞いたわけじゃないのにな。ただ、他人なんて気にしない冨岡さんがどうして私の好みをぴったりと言い当てたのか、純粋に気になっただけなのに。
まあ、美味しいからなんでもいいのだけれど、とスプーンの背で器の底に残るカラメルを掬う。

「じゃあ、どうして急に甘味処なんかに連れてきてくれたんですか?」
「……好きかと思った」
「え、それだけですか?」
「それだけだ」

淡々と言い切られ、あっさりと丸め込まれてしまう。
またそれですか、と口を尖らせたくなったけれど、さっきの帯留めに続いての甘味処。きっとこれもお礼の一環なのだろう。
私としては、あの晩だって大したことはしていなくて、それどころか、本で読んだ知識を活かして力になれるのはまだまだこれからの予定なのに。
他人への関心が薄いように見えて、冨岡さんは意外なほど義理堅い人だ。

「ん、そうだ。しのぶさんから聞きました。あの……暴漢たちこと」

義理堅い、でふとあの嵐の翌朝にしのぶさんから聞いた話を思い出した。
私を襲ったあの二人組の暴漢が、別の町で押し入り強盗をしようとしたところを現行犯で警官に捕まったこと。
そして、わざわざ隠の人に指示を出して、未決監までその男たちの顔を確認しに行かせてくれたのが、目の前にいる冨岡さんだったということ。

「隠の方に指示を出して、顔を確かめに行かせてくださったんですよね。鬼殺隊のお仕事でもないのに……。だからお礼を伝えておきたくて、ありがとうございました」

告げた瞬間、冨岡さんはいつもの平然とした面持ちのまま、視線だけをわずかに器へと落とす。

「……野放しにしておけば、またどこかで厄介を起こすだろう」
「それでもです。すごく救われました」

一般の治安維持のため、だなんて。それだけが理由じゃないことくらい、私にだってちゃんと分かってる。
誰にも言わず、見返りも求めず、ただ私が怯えずに暮らせるようにと、当たり前のような顔をして裏で手を回してくれていたのだ。
一言くらい恩を着せてくれたっていいのに。感謝の言葉を受け取ることすらどこか居心地が悪そうに、こうして無骨な理屈で覆い隠してしまう。
でも、それが冨岡さんだということも、私もよく分かってる。

私は小さく息を吐いて笑みを零すと、器の端に添えられていたビスケットを指先でつまみ上げ、さくりと端を齧った。
冨岡さんも同じように匙を置き、ビスケットをつまみ上げていた。それを両手の親指と人差し指で挟み込んだかと思うと、滑らかな動作で半分に割った。
一口大になったそれは薄く開かれた形の良い唇の元に運ばれ、消えていく。
そんなに大きくないサイズのビスケットをわざわざ半分に割ってから食べる人って珍しい。
女の人であれば、口が小さいだとか、食べこぼしが嫌だとかでよくそうする人は見かけるけれど。

「どうした」

口元を凝視し過ぎていたのか、冨岡さんはビスケットの片割れを指先でつまんだまま首を傾げた。

「冨岡さんって、お口が小さいですよね……」
「……そう、か?」
「はい。まだまだ冨岡さんについて知らないことだらけです」

人の心や習慣なんて、本当に不思議なものだと思う。
少しずつ会話を重ねて、隣にいる時間が増えて、彼という人間を一つ知ることができたと思っても。
その先にはまた、私の知らない新しい輪郭が何重にも広がっている。
まるで、一枚の薄紙をめくった途端に、その下からもっと分厚い書物が現れるみたいに。

「……俺だってお前のことを何も知らない」
「冨岡さんが一番私のこと分かってくれてますよ」
「いや、分からない」

軽く笑いながらそう返すと、彼は少しだけ眉をひそめて、驚くほど生真面目な顔でこちらを見つめてきた。

「じゃあ例えば、私がこのあと何を食べたいか分かりますか?」
「……握り飯か」
「当たりです。ほら、やっぱり分かってるじゃないですか」
「勘だ」
「当てておいて勘って言い張るの、冨岡さんくらいですよ」

相変わらず表情をほとんど変えないまま、お茶をすすってそっぽを向く彼を見ていると、やっぱりこの人は面白い。
分からないと言い張りながらも、どこか的外れではないその距離感が心地よくて、私は小さく肩をすくめて笑った。




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