52
「うーん……」
座卓の上に広げた分厚い書物を前に、私は思わず深い溜息を漏らした。
指先で眉間を揉み解してみるけれど、紙面に並ぶ難解な漢字の羅列は、いくら見つめても私の脳内にすんなりと入ってきてはくれない。
…これも、これも、全然分からない。現代で使っていた文字とは微妙に形が違うし、何より専門用語が多すぎる。薬草の名前なのか、それとも症状を表す言葉なのか。前後の文脈から推測しようにも、独特の言い回しが壁となって立ちふさがっていた。
「……やっぱり、独学じゃ無理があるのかな」
がくりと肩を落としたその時、背後の襖が静かに開き、心地よい足音が近づいてきた。
「リサさん、何してるんですか?そんなに眉間に皺を寄せて」
顔を上げると、そこには洗濯済みの衣類を抱えたアオイさんが立っていた。
彼女は私の手元にある、およそ素人が読むには場違いなほど分厚い本を一瞥し、不思議そうに首を傾げた。
「あ、それ…。しのぶ様の医学書じゃないですか。もしかして、何か調べ物ですか?」
「そうなんです。しのぶさんに言って借りてて…。不眠に効く食べ物とか、その……どうしても眠れない人を、こう、すんなり寝かしつける方法とか、そういうのを勉強しておこうかなって……」
正直に答えると、アオイさんは一瞬目を丸くした後、私の顔と本を交互に見つめた。
そして、何かを察したようにふっと優しく微笑むと、抱えていた洗濯物の山を足元に置く。
「…なるほど。そういうことですか」
アオイさんは私の横に膝を立てて座り込むと、座卓の上の分厚い本を、慣れた手つきでぱらぱらと捲り始めた。
「この本は確かに名著ですけど、言葉が古すぎて実用的じゃない部分もありますから。……そうですね、例えば寝不足の方には、まずは胃に優しいものが一番ですよ。生姜を効かせた温かいお粥や、神経を落ち着かせる薬湯……あとは、そう。香りのいいお茶を淹れてあげるのもいいでしょうね」
彼女の細い指が、ある頁で止まる。そこにはいくつかの薬草の図解と、身体の各部位を記した絵が描かれていた。
「食べ物も大事ですけど、あとは……ここ。手のこのあたりにあるツボをゆっくり押してあげると、昂った気が静まって眠りにつきやすくなるんです」
アオイさんは私に分かりやすいように、自分の手の甲を見せて、親指と人差し指の付け根あたりを指し示してくれた。
「文字で読むより、実際にやってみた方が覚えられますよね?とみ……あ、いえ、"不眠症の誰かさん"にやってあげる前に、私の手で練習してみますか?」
少しだけ悪戯っぽく、けれどどこまでも親身になってそう言ってくれるアオイさんの優しさが、今の私にはとても心強かった。
「ありがとうございます…!ぜひ、教えてください」
難解な漢字の羅列に絶望していたさっきまでの時間が嘘のように、アオイさんの解説はすんなりと胸に落ちてくる。
なるほど、そういうことか。こうすればいいのか。薬を作ることはできなくても、これなら私にもできる。
一筋の光が見えたような気がして、私はさっきまでの重い溜息を忘れ、前のめりになってアオイさんの言葉に耳を傾けた。
「この親指と人差し指の付け根が合わさるあたり。
私は緊張で少し指先を震わせながら、そっと自分の親指をアオイさんのその場所に添える。
「…ここ、ですか?」
「そうです。そこをただ押すんじゃなくて、骨のキワに向かってじわりと力を入れる感じです」
教えられた通り、ゆっくりと圧をかけていく。アオイさんの肌は温かくて、微かに薬草のような清々しい香りがした。
「……なるほど、すごい!こうするんですね!あ、すみません、アオイさん手が少し赤くなっちゃいました」
「いいんですよ。これくらい刺激がないと効かないですから」
アオイさんは手を引っ込めると、少し照れくさそうに指先をさすった。
「…そのツボは万能なんです。頭痛や肩こりにも効きますよ」
「そうなんですね!絶対に覚えます。ありがとうございます、アオイさん」
今の感覚、絶対忘れないようにしなければ。私は自分の指先を見つめ、何度も今の力加減を頭の中で繰り返した。
もし次に冨岡さんに会えたら、その時は勇気を出してこれを教えてあげてもいいかもしれない。
そもそも、私がこうして付け焼き刃のような医学の知識を必死に頭に詰め込んでいるのは、他でもない――冨岡さんを、どうしても放っておけなかったからだ。
一度、私がいたあの夜に彼は眠れたらしい。けれど、それは彼が抱える「不眠」という大きな問題の、ほんの表面をなぞっただけに過ぎない。
冨岡さんは今も夜を徹して鬼と戦い、自分の身を削り続けている。私がここでこうして平穏な朝を迎え、皆に守られて過ごしている間も、彼はどこか冷え切った闇の中で、孤独な戦いを続けているのだ。
以前、しのぶさんのところへ相談しに行ったこともあった。けれど、彼女ですら「冨岡さんが不眠になった明確な理由までは知らない」と言っていて。
彼女にさえ明かしていない、彼自身の心の奥底に根ざした何か。そんな不可侵の領域に、踏み込もうとするなんて、思い上がりも甚だしいのかもしれない。
けれど、あの帯留めをもらってしまったから。あんなに不器用で、けれど真っ直ぐな想いが込められた贈り物を、彼は私にくれた。
私だって、冨岡さんに何かを返したくなったのだ。彼が私に、凍えていた心に灯を灯すような温もりをくれたように。私も彼の張り詰めた心に、ほんの少しの安らぎを届けたい。
たとえそれが、この小さな指先一つでできる、ささやかな抵抗だとしても。
「……少しは楽になってくれるかな」
ふと零れた独り言に、隣で洗濯物を仕分けていたアオイさんが、少しだけ驚いたように顔を上げた。
「リサさん、何か言いました?」
「あ、いえ。なんでもないです。あの、アオイさん、他にも教えてほしいことがあるんですけど」
私は決意を新たにするように、ギュッと自分の手を握った。
*
アオイさんとの練習を終え、私は確かな決意を胸に、しのぶさんの診察室へと足を向けた。
廊下を歩くたび、腰元で小さな硝子の花が揺れる。それが、今の私にとっては何よりの勇気の源だった。
診察室の前に立ち、深呼吸を一つ。木製の扉を、控えめに三回ノックする。
「しのぶさん、失礼します」
「はい、どうぞ。入ってください」
中から響いたのは、いつもの穏やかな声。扉を開けると、そこには机に向かって何やら書類を整理しているしのぶさんの姿があった。
窓から差し込む午後の光が、彼女の紫色の瞳を宝石のように縁取っている。
「あら、リサさん。どうかなさいましたか?」
しのぶさんは顔を上げ、花が綻ぶような微笑みを向けた。私は手に抱えていた重たい書物を、大切に机へと置く。
「あの、お借りしていた本を返しにきました。…ありがとうございました」
「あら、もういいのですか?まだ数時間しか経っていませんが」
しのぶさんは少し意外そうに目を細め、細い指先で書物の表紙を撫でた。私は少しだけ気恥ずかしくなり、視線を落とす。
「あ、はい…。読み進めようとはしたのですが、私にはあまりに難解すぎて。……実は、アオイさんに噛み砕いて教えていただいたんです」
正直に白状すると、しのぶさんは「ふふっ」と小さく、楽しそうに笑った。
「いいんですよ。専門家になるわけではありませんから、まずは身近なところから知るのが一番です」
「は、はい…!本当に助かりました」
専門的な治療は私にはできないけれど。私にしかできない寄り添い方が、どこかにあるのかもしれない。そう思うことができただけで、大きな成長だ。
しのぶさんはそんな私を横目に、受け取った本を棚に戻そうとして、ふと動きを止めた。
その鋭い視線が、私の腰元――着物の帯に添えられた一点を、逃さず捉えたのを感じる。
「…………」
彼女の沈黙が、今の私にはどんな追及よりも雄弁に響いた。
私は無意識に、帯留めを隠すように右手を添えた。指先に触れる硝子のひんやりとした感触。
しかし、しのぶさんはゆっくりと棚に本を置くと、椅子から立ち上がり、私の方へと歩み寄ってきた。その足音は驚くほど静かで、まるで獲物を追い詰める蝶のよう。
「素敵なものをつけていらっしゃいますね。前からそんな可愛らしいもの、持っていましたか?」
しのぶさんの声は、相変わらず穏やかで、慈愛に満ちている。けれど、その瞳の奥にある好奇心と、すべてを見透かしているような鋭い光を、私は隠し通せる自信がなかった。
「あ、これ、は……。ええと、その……」
「そんなに顔を赤くして。ふふ、どうやらこれは、ご自分で選んだものではなさそうですね?」
核心を突かれ、心臓が大きく波打つ。
隠したい。けれど、しのぶさんの前で嘘をつくことは、彼女への敬意を欠くことのようにも思えた。
「贈り物、ですか?」
しのぶさんは私の顔をじっと見つめ、確信に満ちた笑みを深める。
その問いかけは、単なる質問ではない。何かを察している頬笑みだ。
ここから逃げ出したい衝動に駆られる。けれどしのぶさんなら、この硝子の細工がどの町のどの職人が作ったものかさえ知っていそうだった。その筋を辿って、割り出してくるのではないだろうか。
「実は、その……冨岡さんが、お礼にと、くださったんです……」
意を決して白状すると、しのぶさんは一瞬だけ意外そうに眉を上げ、それから一層深みのある艶やかな笑みを浮かべた。
「あらあら、冨岡さんが?あの方が女性にお礼として帯留めを選ぶなんて、一体どんな天変地異の前触れかしら。…お礼とは、何に対する?」
「それは……その、色々ありまして。……本当に、色々…」
私は視線を泳がせながら、どうにかそれ以上の追求を逃れようと言葉を濁した。けれど、しのぶさんの紫色の瞳から逃げ切れるはずがないことは、自分でも痛いほど分かっている。
…勘弁してほしい。これを初めてつけて帰った日、三人娘にも同じように尋問されたっていうのに。
あの日、色めき立って「誰からですか!?」と詰め寄ってきた三人娘を、「違うから!彼はただ親切心で!」となだめるのにどれほどの労力を費やしたか。あの純粋な好奇心だけでも手強かったというのに、蝶屋敷の主であるしのぶさんを相手に、これ以上の言い逃れができるわけがなかった。
きよちゃんたちの時は勢いで誤魔化せたけれど、しのぶさんの前では、私の心なんて透き通った硝子細工と同じだ。
逃げ場を失った私の様子を、しのぶさんは楽しそうに見つめている。そして彼女は、私の腰元で静かに光る硝子の花に、細い指先を近づけた。
「……帯留めというものは、面白いものですね。帯のちょうど中心に位置して、一番よく見える場所にある。着物全体の印象を、たった一つで決めてしまうほどに」
しのぶさんの指先が、直接触れない程度の距離で帯留めの輪郭をなぞる。
「首輪のように繋ぎ止めるものではないけれど、その目立つ場所に自分の選んだものを置かせるというのは……。その人との繋がりを、周囲に語っているようなものですよね」
「え…っと、」
しのぶさんの言葉に含まれた、少しだけ毒の含みを持った響きに、私の頭には小さな疑問符が浮かんだ。
繋がり。お礼にいただいたものなのだから、繋がりがあるのは当然だ。けれど、しのぶさんの言い方は、まるでそれ以上の…もっと別の、何か深い意味が込められているような気がしてならない。
「…身に着けるものというのは、食べ物や花とは違います。それは形として残り、他人の目にも触れ、そして何よりあなたの中心で輝き続ける」
形として残る…。確かに、この間のあいすくりんのように食べて消えてしまうものではない。
けれど彼女が言うと、ただの贈り物がまるで重い鎖か何かのように聞こえてしまう。
「彼は、無意識にでもそんな印を求めたのでしょうか」
しのぶさんはくすりと笑い、さらに距離を詰めてくる。
「まあ、あの方のことですから、そこまで理屈で考えてはいないのでしょうけれど」
繋がりだとか、印だとか。
あまりに抽象的で、それでいてどこか熱を孕んだしのぶさんの言い回しは、今の私の理解を遥かに超えていた。まるで、知らない言語で書かれた詩を聞かされているような、そんな感覚。
「でも、だからこそ不思議ですね。理屈ではなく無意識なのだとしたら」
はて、と首を傾げる私を見て、しのぶさんは一層楽しそうに目を細めた。その紫色の瞳の奥で、悪戯っぽい光がちろちろと揺れている。
「ふふ、リサさんによく似合っていますよ。その帯留めを誇らしくつけて、これからも頑張ってくださいね」
「あ、ありがとうございます」
釈然としないままお辞儀をすると、しのぶさんは満足そうに手を引き、椅子に座ると再び机の上の書類へと視線を落とした。もう追及はおしまい、という無言の合図だ。
私は、逃げるように診察室を後にする。廊下に出ても、腰元にある小さな硝子の花は、先ほどよりもずっと重く、そして熱を持っているような気がしてならなかった。
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