52


「暑いねえ……」

じっとりと肌にまとわりつくような熱気の中、私は縁側に腰を下ろして、庭へ向けて長いため息を零した。

「すっかり蝉が鳴き出したね」

蝉の声がこれでもかと降り注ぐ午後。普段なら庭の真ん中、ぽかぽかと陽の当たる特等席を陣取っているはずの三猫、にゃー吉も、今日ばかりは庭の隅にある大きな木の木陰へ避難していた。
涼しい木陰の土の上で、無防備にコロンとひっくり返ってお腹を丸出しにしている。
私がしゃがみ込んでその柔らかい毛並みに指を沈めると、にゃー吉は目を細めて喉をゴロゴロと鳴らした。あまりの暑さに警戒心すら溶けてしまっているらしい。

「あ、これ気になる?」

にゃー吉がふと前足を伸ばし、私の帯のあたりをぽすんと片手で軽くパンチした。
視線の先にあるのは、数日前に冨岡さんからいただいたばかりの、あの桜色の帯留めだ。
木漏れ日を吸い込んで、硝子細工がちかちかと小さく光を反射している。
猫も、やっぱりこういうきらきらと光るものが気になったりするのかな。にゃー吉は寝転がったまま、琥珀色の瞳をまん丸にして、今にももう一度爪を立てて飛びつきそうな構えを見せている。

「ごめんね、これは傷つけたくないから、触るのはなしね」

慌てて帯留めを手のひらでそっと覆い隠すと、獲物を隠されたにゃー吉は不服そうに「みゃあ」と短く鳴いた。

今日は七月七日、七夕だ。
年中行事など気にする余裕もないはずの鬼殺隊にあって、蝶屋敷の屋敷内だけは、今朝からどこか浮き足立った空気に包まれていた。
怪我人たちの治療や薬の調合といったいつもの慌ただしい業務の合間にも、廊下の向こうから三人娘たちの弾んだ笑い声が聞こえてくる。
夕方になったら、屋敷の皆で集まって中庭で短冊の飾りを吊るす約束になっているらしい。
きよちゃん、すみちゃん、なほちゃんたちが何日も前から色紙を器用に折って、網飾りや提灯をせっせと作り溜めていた。
では、私はこんなところで何をぼんやりとしているのか。理由は簡単。

「早く来ないかなあ、ね?にゃー吉」
「にゃあ」

笹の葉を、待っているのだ。
七夕の飾りに使う大きな笹竹を、冨岡さんが自身の屋敷の近くから切り出して届けてくれることになっている。
あの水柱様が、わざわざ竹を担いでやってくる姿を想像するとなんだか少し可笑しいが、毎年冨岡さんにお願いしているのだとアオイさんが教えてくれた。
最近、蝶屋敷では滅多に会えることがないから、これ幸いにと早急に用事を終えてこうして玄関の近くで彼を待つことにしたのだ。

「リサさん!短冊、何色にしますか?」

庭の角から、五色の短冊の束を両手に抱えたなほちゃんがパタパタと駆け寄ってきた。
赤、青、黄、緑、そして紫。鮮やかな紙の束を差し出され、私はにゃー吉を撫でる手を止めてふっと目元を緩める。

「うーん、どうしようかな。なほちゃんはどれにしたの?」
「私は緑です!」
「ふふ、リボンと同じ色だもんね」

願い事、か。
鬼のいない平和な世界が来ること。蝶屋敷の皆が明日も笑って過ごせること。怪我をした隊士たちが一人でも多く無事に回復すること。
叶えたい願いなんて数え切れないほどあるはずなのに、いざ一枚を選ぼうとすると難しい。
もっと日常のささやかなことでいいのなら、それこそ山ほど思い浮かぶ。
次は失敗せずに薬が煎じられますように、とか。
にゃー吉がもう少しだけ爪切りでおとなしくしてくれますように、とか。
あとは…そう、彼が夜、少しでも深く心地よい眠りにつけますように、とか。
もっと言うなら、帳簿の手伝いだけじゃなくて、もっとたくさん会えますますように、とか。
そんな個人的すぎる願いを短冊に書いていいものだろうかと苦笑いしながら、私はなほちゃんの手元から、夜空のような深い青色の短冊を一枚、そっと引き抜いた。

「あ、そうだ。水柱様の分もリサさんにお渡ししておきますね!」

なほちゃんはそう言うと、手元の束の中から同じ青色の短冊をもう一枚抜き取って、私の手のひらにちょこんと乗せた。

「え、どうして私に?」

不思議に思って尋ねると、なほちゃんは私の胸元あたりへと一度視線を落とし、いたずらっぽく笑みを浮かべる。

「だって、水柱様を待ってるんですよね?」
「そ、そうだけど……」

図星を突かれて言葉に詰まる私を見て、なほちゃんは「ふふっ」と満足そうに笑うと、くるりと踵を返した。

「帯留め、すっごくお似合いです!」
「あ、なほちゃん……っ!」

呼び止める間もなく、なほちゃんはパタパタと軽やかな足音を立てて縁側へと駆け上がっていってしまった。
一人残された庭で、私は両手に残った二枚の青い短冊を見つめる。
あの時、炭治郎くんと一緒になほちゃんたち三人にも私の気持ちがすっかりバレてしまってるから…。からかわれてしまった。
恥ずかしさで熱くなった頬を冷ますように、にゃー吉の柔らかい顎の下を指先でくすぐる。

「私ってそんなに分かりやすいかなあ」

喉をゴロゴロと鳴らしながら、前足をだらりと伸ばしてお腹を丸出しにする猫に向かって、ため息混じりに零した。

「……警戒心のかけらもないな」
「え?」

ふいに、頭上から降ってきた声に驚いて振り返ると、そこには立派な笹竹を片手で軽々と抱えた冨岡さんが立っていた。
蝉の声にかき消されて、足音にまったく気づかなかった。見上げるほどの長身が、さらさらと擦れ合う笹の葉の影を背負って、じっとこちらを覗き込んでいる。

「えっと、にゃー吉のことですか?」
「……にゃー吉という名前なのか」
「一応?みたいです。みんながそう呼んでるので」

冨岡さんは笹竹を抱えたまま、私の手に気持ちよさそうに撫でられ、無防備にお腹を空へと向けているにゃー吉をしばらくの間じっと凝視した。
何を考えているのか読めない、真剣すぎるほどの視線。そして、ふっと短く息を吐く。

「……お前にそっくりだ」
「誰がですか」
「その猫が」

猫にそっくり。

「えぇ?」

思わずにゃー吉と目を合わせて、一緒に首を傾げる。

「にゃー吉は男の子です」
「知ってる」

そう言って冨岡さんはにゃー吉のお腹のあたり、というか無防備に晒された下腹部のあたりを、なんの悪びれもなく真剣な顔で見つめた。

「……最低です」

私はにゃー吉みたいに誰にでも警戒を緩めたりしないもん、と思いかけて、この子も冨岡さんの前だからこんなに安心しきっているのかなと考える。
だとしたら、確かに私とこの子は似ているかもしれない。冨岡さんの前だと安心して気が抜けちゃうんだよね。分かる。

「笹はどこへ置けばいい」
「あ、笹ですね。裏庭のほうです!飾り付けがしやすいように場所を作ってあるので、案内しますね」

私はにゃー吉の頭を最後に一度撫でてから立ち上がり、着物の裾を軽く整えた。
手元にはまだ、なほちゃんから渡された二枚の青い短冊をしっかりと握りしめたまま。

「こっちです、どうぞ」

歩き出した私の少し後ろを、さらさらと涼やかな葉音を立てながら冨岡さんがついてくる。
なんだか、新鮮だ。いつも足早に先を行く彼の背中を追いかけることばかりだったから。後ろに冨岡さんの気配を感じながら案内している状況が、なんだか少しくすぐったい。
庭でじっと汗を流しながら待っていた甲斐があったというものだ。

「ここです!あそこの樽の中に立てかけてもらえますか?」

裏庭の開けた場所へ案内し、あらかじめアオイさんたちが用意してくれていた大きな水桶のあたりを指差す。
なほちゃんたちが後から飾りを吊るしやすいようにと、縁側のすぐ近くにスペースが作られていた。
冨岡さんは短く応じると、抱えていた笹竹を慣れた手つきですっきりと樽の中へ収めてくれた。
ぐらつくこともなく、青々とした葉を茂らせた大きな笹が、夏の空へ向かってしゃんと真っ直ぐに背を伸ばす。

「すごい……!立派な笹ですね。毎年冨岡さんが持ってきてくれてるって、アオイさんから聞きました」

枝振りの良い綺麗な笹を、わざわざ選んで切り落としてくれたのがよく分かる。

「そうだ。これ、なほちゃんから預かったんです。冨岡さんの分です」
「……短冊か」
「はい。せっかくですから、何か願い事書いていきませんか?」
「俺は毎年決まってる」

そう言って、冨岡さんは縁側の端に用意されていた硯と筆の元へ迷いなく歩いていった。
短冊を受け取ると、立ったまま慣れた手つきで筆先を整え、さらさらと墨を走らせていく。
毎年決まってるって、なんだろう?気になって、私は彼の大きな背中の横からそっと覗き込んだ。
青色の紙の上に躍る、力強い筆跡。

「……悪鬼滅殺?」

思わず声に出して読み上げてしまった。短冊には、ただそれだけが寸分の狂いもない達筆で記されている。
鬼殺隊士としてはあまりにも正しすぎる四文字。

「……え、つまらないです」
「つまらないとはどういうことだ」

あまりに素直な感想が口をついて出てしまい、筆を置いた冨岡さんが心外そうに眉を寄せた。

「だって、そんなの鬼殺隊のみんなが願ってることじゃないですか。それはもう他の誰かが願ってくれてますから、冨岡さん個人の願いじゃないと勿体ないですよ」
「願いに個人も何もない。鬼を滅ぼすこと以上に願うことなどないだろう」

…たしかにそうなんだけど。
至極真っ当な顔をして言い切ると、冨岡さんは青い短冊の端についた細いこよりを指先でつまみ上げた。
そして、長身を活かして腕をすっと伸ばすと、笹の一番高いこずえのあたりへ慣れた手つきで結びつけてしまう。
風に揺れる『悪鬼滅殺』。名前もないから誰が書いたのかも分からないけれど、高く真っ直ぐな場所にその願いは掲げられた。

「名前も書かないんですか……」
「皆の願いなんだろう」

取り付く島もない返事に、私は思わず唇を尖らせる。
どこまでも自分を前に出さない人だ。星に届ける願い事にすら、自分の名前を残すつもりがないなんて。

「……お前は何を書くんだ」

ふいに視線を戻した冨岡さんが、私の手元に残されたもう一枚の短冊へと目を落とした。同じ青の紙を握りしめていた手が、思わずきゅっと強張る。

「わ、私ですか?」
「人の願いをつまらないと言ったのだから、それ相応の願いがあるのだろう」

真っ直ぐな瞳でじっと見つめられ、私は心臓が跳ね上がるのを感じた。さっき考えていた願い事の数々が頭をよぎる。
『彼が夜、少しでも深く眠れますように』
『もっとたくさん会えますように』
そんな、彼のことばかりを詰め込んだ個人的すぎる願いを、本人の目の前で書けるわけがない。

「え、ええと……私は、その……」

焦って視線を泳がせながら、縁側に置かれた筆をそっと手に取る。
冨岡さんは縁側の端に立ったまま、私が何を書くのか静かに見守っている。その視線が背中に刺さるようで、余計に指先が震えそうだった。
まずい。人の短冊に偉そうに文句をつけておいたくせに、肝心の願い事が一つも決まってない。
見られている、ものすごく真剣な眼差しで見られている。早く書かなければいけないのに、緊張で手が震える。
私はどうにかこうにか言葉を絞り出すと、冨岡さんに見られないよう身体で文字を隠すようにしながら短冊へと筆を滑らせた。

『蝶屋敷の皆と大切な人が、明日も無事で笑っていられますように』

鬼を滅ぼすこと、という彼の大きな願いの足元で、私はただ、自分の手の届く範囲の平穏を祈る。
そして、その『大切な人』の中に、目の前の水柱様も含まれているのだと心の中でだけそっと付け足した。
自分よ名前まで書いてふう、と小さく息を吐き出して筆を置くと同時に、冨岡さんが首を傾げて覗き込もうとしてくる。

「何と書いた」
「えっと……」

おそるおそる文字が書かれた面を彼へと向けると、冨岡さんはそれをしばらくの間黙って見つめた。

「……ひどい字だな」
「なっ!前に言ったじゃないですか!私、筆と墨が苦手だって……」
「ああ、いつもと違うな」
「怒りますよ」
「……冗談だ」

平然とした顔でそう返され、私は思わず「むう」と唇を尖らせた。
人をからかって誤魔化すだなんて。冨岡さんでも、そんな風に冗談を言ったりするんだ。
少し前なら想像もできなかったようなやり取りに、悔しいやらおかしいやらで、怒るに怒れなくなってしまう。

「だが、お前らしいな」
「あ……」

何を言い返す間もなく、私の指からすっと短冊が抜き取られる。冨岡さんは腕を伸ばし、さっき彼自身が結んだばかりの短冊のすぐ隣、いちばん高い梢へと結びつけた。
風が吹くたび、二枚の深い青色が寄り添うようにさらさらと擦れ合う。
自分の書いた不恰好な文字が、あの『悪鬼滅殺』の隣に並んでいる光景は、なんだか嬉しくて、そしてたまらなく恥ずかしい。

「お前は鬼に遭うな」
「え……?」

見上げた横顔は、笹の向こうのどこか遠い場所を見つめていた。
この人の瞳には今、何が映っているのだろう。私には想像もつかないほど遠い過去の景色だろうか。それとも、これから切り拓こうとしている、気の遠くなるような戦いの果てだろうか。
時々、冨岡さんは私たちとは違う何かを見つめていると思う時がある。それはいつも、消えてしまいそうなくらい儚げな色をしている。

「冨岡さ、」
「あー!リサさんたち、抜け駆けですかーっ!」
「飾りつけ今からなのに!」

その時、縁側の向こうから三人娘たちの元気いっぱいの声が聞こえてきた。
きよちゃん、すみちゃん、なほちゃんが色とりどりの飾りを抱えて廊下をタタタッと駆け寄ってくる。
その後ろからは、大きな竹籠を抱えたアオイさんや、穏やかな笑みを浮かべたしのぶさん、さらには屋敷で休養中だった隊士たちまでがぞろぞろと庭へ顔を出した。

「あら、冨岡さん笹を今年もありがとうございました」

しのぶさんが楽しそうに目を細めて、梢で並んで揺れる二枚の青い短冊を見上げる。

「ああ」

冨岡さんは短くそう返すと、しのぶさんの立つ縁側のほうへと向かってしまった。
二人並んで、視線を合わせながら何事かを低く話し始めている。鬼の動向か、それとも次の柱合会議のことか。
きっと私には立ち入れない、柱同士としての話をしているのだろう。
少しだけ取り残されたような気持ちになりながら視線を戻すと、目の前にぱっと鮮やかな色紙の飾りが差し出された。

「リサさん、一緒に飾り付けしましょう!」
「これ、私たちが作った輪飾りです!」
「あっちの枝に結びたいです!」

みんなに囲まれて両手に紙飾りを押し付けられ、私は「ありがとう」と笑って受け取った。
そのすぐ隣では、休養中の隊士たちが縁側に群がり、短冊を前にして男子校の休み時間のような騒ぎを繰り広げている。

「おい、お前何書くんだよ!」
「俺?決まってんだろ。『次の昇格で壬から己まで一気に飛び級できますように』だ!」
「強欲すぎるだろ。織姫様も呆れるわ」
「じゃあ、お前こそ何書いてんだよ見せろ」
「えへへ……『可愛いお嫁さんがもらえますように』」
「隊士の願い事かよそれ」
「いいだろ別に!」

わいわいと小突き合いながら硯を奪い合う隊士たちの姿に、アオイさんが「あ!墨をこぼさないよう気をつけてくださいね」と注意を飛ばしている。
炭治郎くんたちも、ここにいれば良かったのになあ。お祭りのような賑やかなそんな光景が目に浮かぶようで、私は思わず小さく吹き出してしまった。
遠くで戦うみんなの無事をそっと祈りながら、私は手元の飾りを笹の枝へと結びつけた。




***




「ふふ、あんなに可愛らしい顔をされては断れませんねえ」

羽織の袂を揺らしながら歩み寄ると、隣に並んだ彼は視線すら寄越さず、ただ前を向いたまま押し黙った。
表情の抜け落ちた横顔。けれど、その頑なな沈黙こそが何より雄弁だ。
梢を見上げる。高い風に揺れる二枚の青い短冊。寸分の乱れもない達筆な『悪鬼滅殺』のすぐ隣に、少し拙く、けれど丁寧に結ばれたもう一つの願い。
庭の真ん中では、なほたちに囲まれた彼女が、困ったように眉を下げて笑っている。その胸元で陽光を吸い込んだ硝子がちかちかと小さく瞬いていた。

「リサさんは本当に健気ですね」

わざとらしく吐息を混ぜて言葉を落とすと、冨岡さんの眉間がほんのわずかに寄った。

「……何の話だ」
「何の話でしょうね。あ、そういえばリサさんの帯留め綺麗ですよね」

とぼけてみせながら、私は視線だけを庭の彼女へと戻した。
胸元で光る、あの桜色の硝子。誰が贈ったかなんて訊くまでもない。
髪飾りなら、まだいい。解けば外れるし、気分で付け替えることだってできる。
けれど帯留めは違う。着物の真ん中、その人の身体のいちばん中心に結び留められ、誰の目にも真っ先に飛び込んでくるものだ。
『この人は私のものだ』と無言で周囲に誇示しているようなもの。本人がそれに無自覚なあたり、髪飾りを贈るよりもよほど性質が悪いと私は思っている。

「……別に、他意はない」
「あら、他意って何のことです?私はただ綺麗だと言っただけなのに」

完璧な笑顔で返してあげると、彼は気まずそうにすっと視線を逸らした。

「今年は代筆を頼まないのですね、冨岡さん」

私は笹を見上げながらそう言った。
毎年、笹を切り出して届けてくれること自体は、この人の律儀な性格そのものだ。けれど用件を終えれば、いつも長居をすることはなかった。
七夕の準備に浮き足立つなほたちから「水柱様も何か書いていかれませんか?」と声をかけられても、困ったように視線を泳がせるだけで、
『…悪鬼滅殺でいい』
とだけ言い残して、代筆を頼みそのまま屋敷を後にするのがいつもの流れだった。

けれど、今年は。リサさんに短冊を差し出されて、そのまま筆を執ったのだろうか。
てっきり今年も代筆を頼んでさっさと帰ってしまうと思っていたから、梢に並ぶ文字を見たときは少し驚いてしまった。
言葉足らずで不器用だから、周りからは冷たいだの何を考えているか分からないだのと誤解されることも多い人だけれど。彼女と出会ってから、この人も少しずつ変わってきたようだ。
頑なに閉ざしていた心の隙間に、リサさんの真っ直ぐな存在が入り込んでいるのがよく分かる。

「どんな顔をされたんです?」
「どうもされてない」

けれど、その頑なな心が、いつかこの人自身にとって取り返しのつかない仇にならなければいいと思う。
人の心も命も、決して永遠に留まってはくれない。伝えたいと思ったときに言葉を惜しめば、その空白はあっという間に別の何かで埋まってしまうか、二度と手の届かない場所へ零れ落ちていく。
明日何が起こるか分からないこの世界に身を置いているなら、なおのことだ。

「きちんと見ておかないと、誰かに取られてしまうかもしれませんよ?」

視線を庭のほうへと向ける。
笹の前では、休養中の若い隊士の一人が、頬を少し染めながらリサさんに話しかけているところだった。
誰に対しても分け隔てなく接する彼女だ。好意を抱く人間が周りに現れるのは、当然のことだろう。
少しばかりの意趣返しを込めて様子を窺うと、冨岡さんは庭の二人へと視線を投げることもなく、淡々と私を見下ろした。

「そんな顔色の悪い奴に言われてもなんの説得力もない」
「……え」
「任務の報告がある」

言葉に詰まりら思わず押し黙ってしまった。足早に縁側を歩き去っていくその広い背中。引き留めることもできず、私はただ、遠ざかる足音を聞いていた。
…顔に出ていただろうか。体内に少しずつ巡らせている、藤の花の毒。完璧に塗り隠していたつもりだったのに。

「……何ですか」

ぽつりと零した言葉は、さらさらと擦れ合う笹の葉音にかき消された。




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