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なんだか、誰かに見られているような気がする――。そう確信に近い違和感を覚えるようになったのは、いつだっただろうか。
それは決まって冨岡さんの屋敷に行った日に感じる。更には、冨岡さんの屋敷から出たときに限って、その視線は鋭さを増すような気がする。
…上手く、表現できないけれど。それは肌にぴりぴりと刺さるような、射抜かれるような熱を持った視線なのだ。

その日も、私は冨岡さんの帳簿のお手伝いを終えて、静かな屋敷を後にした。
夕刻の陽光が竹林の隙間から斜めに差し込み、長い影を地面に落としている。門を閉め、私はいつものように緩やかな坂道を下り始めた、その時だった。
ふと、どこからか視線を感じ後ろを振り返る。けれど、そこには風に揺れる竹の葉がざわざわと鳴っているだけ。
気のせいだ、と自分に言い聞かせて前を向くが、首筋から背中にかけて、ぴりぴりと刺すような視線がまとわりついて離れなかった。
しのぶさんに相談してみようかな、とも思ったけど。これくらいのことで騒ぎ立てるのも、なんだか違う気がすると放っておいた結果。
その視線の熱量が、日に日に大きくなってしまった。

幸いなことに、今日に至るまでこれといって何か実害があったわけではない。背後から襲いかかられたり、帰り道に不審な人に声をかけられたりしたこともない。
ただ、見つめられている。それだけのことなのだ。
それでもやっぱり、誰かにじーっと見られながら歩くのは、日常の風景としては少しばかり異様で、居心地が悪いものだった。
けれど、そのしつこい視線の正体を探るために血眼になるより、今は次に冨岡さんに持っていくお菓子のことでも考えているほうが、よっぽど有意義だ。
私は、そのうちほとぼりが冷めるのを待とうかなぁなんて、どこまでも呑気に考えていたのである。







週末の朝。私は蝶屋敷の賑やかさを背にして一人町へと降りていた。
この時代にはアスファルトの照り返しはないものの、土の地面から立ち上がる熱気は相当なもので、手拭いで何度も額を拭う。
目的地は、以前から目をつけていた小さな文房具店だ。万年筆のインクが切れていたのをずっと忘れていて、ようやく冨岡さんの屋敷に向かう前に新しいものを調達しに来たのだ。冨岡さんにこれ以上貸してもらうのは、少し申し訳ない。

「…いらっしゃい。何かお探しかな」
「あ、こんにちは。万年筆のインクを……」

引き戸を開けると、穏やかな店主が私を向かい入れてくれた。店内の奥、陽光が届かないひんやりとした棚に、色とりどりの小瓶が並んでいる。
店主は「どれも書き味は変わりませんから、お好きなものをどうぞ」とのんびりした口調で言ったけれど、いざ選ぶとなると迷うものだ。冨岡さんにも、『お前が書きやすいもので構わない』なんて言われちゃったしな…。
私はいくつか並んだ瓶を手に取り、光に透かしてみる。今まで使っていたのは、ごく普通の紺だった。けれど、ふとあの手紙の文字を思い出す。
寛三郎さんが運んできた、冨岡さんの実直な文字。あの真っ直ぐな線が描くのは、ただの黒ではなく、もっと深く静かな色のような気がした。

「……これにします」

私が選んだのは、「月夜」という名の深い蒼。店主に試し書きをさせてもらうと、黒に近いけれど掠れた瞬間に青みが顔を出す、不思議な色合いだった。
これなら帳簿を書くときも、少し穏やかな気持ちでペンを滑らせることができる気がする。

「ありがとうございました」

新しく買ったインク瓶を大切にたもとに収めて、店を後にした。
通りには威勢のいい声が飛び交い、じりじりと焼けるような暑さの中でも、町は活気に満ち溢れている。

「はい、らっしゃい!採れたての瑞々しいあじだよ」
「そっちの姉ちゃん、うちの冷たい西瓜すいかはどうだい?安くしとくよ!」

左右から飛んでくる威勢のいい呼び込みを、私は軽く会釈で受け流しながら歩みを進める。
…西瓜と言えば、この間の事件が脳裏をよぎった。結局、アオイさんには全部お見通しだったみたいだけど、善逸くんの無遠慮なツッコミをピシャリと撥ね退けた彼女の言葉を思い出し、私は思わず口元を緩めた。
それよりも、私は今、西瓜よりももっと実用的なものを探している。
インクは買った。あとは…。一軒の八百屋さんの前で足を止める。店先に並んだ籠の中に、特有の芳香を放つ、土のついた瑞々しい生姜が山積みになっているのを見つけた。

「姉ちゃん、いい生姜だよ!薬味にもいいし、夏風邪予防にもいいよ。どうだい、一塊?」

店主のおじさんに声をかけられ、私は視線を上げた。
…うん、風邪予防にもなるなら一石二鳥だ。今日のお土産はこれにしよう。

「これ一ついただけますか?」
「まいど!いい生姜だよ、おまけもつけとくね」
「わぁ、ありがとうございます……!」

受け取った生姜は、新聞紙に包まれていてもなお、ピリッとした力強い香りを放っている。
一応、だけど。そんな言葉を自分への言い訳にするようにして、私は生姜の入った包みを大切に抱え直した。




町を抜け、緩やかな坂を登り詰めると、そこには見事な『千年竹林』が広がっている。真っ直ぐ伸びる竹が重なり合い、空を細く切り取っているその景色は、冨岡さんの屋敷がもう近い証拠だ。
じっとりと首筋を伝う汗を拭いながら、ようやく竹林の切れ目に佇む大きな門を見つけ、私は縋るような思いで声を上げた。

「と、冨岡さーん!お邪魔します」

少しだけ声を張って呼んでみると、静寂に包まれていた屋敷の奥から、微かに衣擦れの音が聞こえてきた。
やがて、重い門が内側から静かに開かれる。そこに現れたのは、いつもと変わらぬ冷静な面持ちの冨岡さん。茹だるような外気に晒されていた私の姿を見つめると、わずかにその眉を下げたような気がした。

「暑かっただろう」
「はい……。流石に溶けちゃうかと思いました。冨岡さんがすぐに門を開けてくださって良かったです」

へら、と力なく笑って見せれば、彼は何も言わずにわずかだけ脇へ寄り、私を招き入れるように道を開けてくれた。
言われるがままに屋敷へ上がると、ひんやりとした木の廊下が火照った足裏に心地良い。
外の蝉の声も竹林が吸い込んでくれているのか、ここは驚くほど静かだ。
案内されたいつもの居間で私が扇子をぱたぱたと仰いで待っていると、冨岡さんが一度奥へ下がり、すぐにお盆を持って戻ってきた。
何も言わずにコトリと目の前に置かれたのは、透き通ったガラスの器。麦茶だろうか。表面には、小さな水滴がびっしりと付いている。

「わぁ…!いいんですか?」
「ああ、井戸水で冷やしてある」
「ありがとうございます。いただきます…!」

手に取ると、指先から熱が引いていく。口に含めば、冷たい感触が喉を通り、身体の奥の熱をさらっていった。
冨岡さんは私の向かい側に正座すると、庭の緑を眺めながら、ぽつりと呟く。

「…夏の間だけでも、手伝いは休んでいい」
「え?」
「これほどの猛暑だ。無理をしなくてもいい」

あ、れ。もしかして、心配してくれてる…?無愛想な物言いの奥に透けて見える、彼なりの不器用な気遣い。
その優しさに触れ、私の胸の奥は夏の陽射しとはまた違う熱を持ち始める。

「無理なんてしてませんよ。私が、来たいから来てるんです。…それに、これを早く届けたいなと思って」

呼吸を整え、私はたもとに忍ばせていた新聞紙の包みを、しれっと彼の前へ差し出した。

「……なんだ、これは」

冨岡さんが不服そうに眉をひそめる。
その、なんとも言えない困惑の表情に、私は少しだけ可笑しくなりながらも、努めて平然と答えた。

「生姜です」
「…だから、なぜ生姜なんだ」
「お粥に入れると、安眠できるみたいですよ。アオイさんに教わったんです」

私の答えを聞いた瞬間、冨岡さんは深い、深い溜息を吐いた。
片手でぐっと眉間を揉み、それからどこか呆れたような瞳で私を見据える。

「……言ったはずだ。帯留めの礼は、もういいと。渡した意味がなくなるだろう」

…やっぱり、また言われてしまった。
あの美しい帯留め。私には勿体ないほどの贈り物を貰ってしまったから、お返しをするのは当然の道理だ。
そういう名目のもとに、最近私はこの屋敷を訪ねるたびに、眠れないという彼のために安眠グッズや食材を持ち込むようになった。
けれど、本当は。お礼にかこつけて、ただ彼のことが心配でたまらないだけなのだ。

「…迷惑でしたら、言ってください。でも冨岡さんにたくさんお世話になっている分、私もお返しをしたくて……」

冨岡さんは一瞬、言葉を探すように黙り込んだ。それから困ったように視線を逸らし、何も言わずに新聞紙の包みを自身の方へ引き寄せる。
…あ、受け取ってもらえた。

「…お前のおかげで、食材に困ることはなくなった」
「それなら良かったです」

内心で、よし、と小さく拳を握りしめる。正直なところ、最初は不安もあった。冨岡さんの私生活にまで首を突っ込むなんて、お節介が過ぎるんじゃないかって。
迷惑がられたらどうしよう、嫌な顔をされたらもうここには来られない。そんな不安を抱えながら、毎回おずおずと彼の顔色を伺うようにして差し出していた。
けれど、冨岡さんはいつだって、深い溜息を吐きながらもそれを受け取ってくれる。
私が持ってきたものでお茶を飲み、勧めたお香を焚いて。拒絶されるどころか、彼は私の差し出すお節介を、不器用ながらも丸ごと受け止めてくれている。
そう気づいてからは、なんだか私の方も、彼を気遣うことが少しずつ楽しくなってきてしまったのだ。
次は、何を持ってこようかな。あそこのお店の干菓子、冨岡さん好きそうだったな…。なんて、町を歩きながら彼の喜ぶ顔を想像して。彼のために何かを選ぶ時間は、今の私にとってかけがえのない、柔らかな楽しみになっていた。

そのまま、冷えた麦茶をゆっくりと啜りながら、私たちは流れる雲を眺める。
そろそろいつものようにお手伝いを始めようかな、とも一瞬考えたけれど、今のこの静かな空気まで動かしてしまうのがなんだかもったいなくて。
ただこうして、竹林を抜けてくる風の音を聴きながら、二人で並んで座っている。…そんなふつうの時間も悪くない。

「……冨岡さん」
「なんだ」
「その生姜、アオイさんが、細く切って少しだけお塩を入れるのがコツだって言ってました」
「…分かった」

冨岡さんは視線を庭に向けたまま、短く応じる。相変わらず口数は少ないけれど、その横顔には、さっきまでの困惑はもう残っていなかった。

「…お前は、いつも誰かのことばかり考えているな」
「そうですか?…ただ、冨岡さんには、ちゃんと眠ってほしいなって思ってるだけで」
「……」

言い直せば言い直すほど、なんだか気恥ずかしさが込み上げてくる。
彼は何も言わずに、また一口、麦茶を口に含んだ。その喉仏が小さく動くのを、私はなぜだか目を離せずに見つめてしまう。

「……今夜、試してみる」
「え?」
「…お前がそこまで言うのなら、効果があるのだろう」

…そうやって時々、私の言葉を真っ直ぐに、疑いもせずに受け入れてくれる。
そんな彼の不器用な誠実さに触れるたび、私はまた、彼のために何ができるだろうかと考えてしまうのだ。

「冨岡さんの好きな食べ物ってなんですか?」
「……また、何かを持ってくるつもりか」
「え?…えっと、その、一応今後の参考に……」

図星を突かれて少しだけ声を上ずらせれば、彼は困ったように眉根を寄せる。それから庭の木立を見つめたまま、ぽつりと答えた。

「…鮭大根」
「しゃけ……え?」

聞き慣れない響きに、思わず間の抜けた声が出た。
鮭大根。…しゃけ、だいこん?鮭と大根を、一緒に食べるのだろうか。焼き鮭の横に大根おろしを添えるとか、そういうことではなく?
頭の中でその二つの食材を並べてみるけれど、どうにも完成図が浮かばない。煮物だろうか、それとも何か特別な郷土料理なのだろうか。

「……あの、それはどういったお料理なんですか?鮭と大根を……煮るんですか?」

正直に尋ねると、冨岡さんはゆっくりとこちらを振り向いた。
見開かれた瞳が「…本気で言っているのか?」と雄弁に物語っている。表情筋はほとんど動いていないのに、彼が今、天変地異でも起きたかのような衝撃を受けているのが手に取るようにわかった。

「食べたことがないのか」
「す、すみません、私の故郷の方ではあまり馴染みがなくて……」

申し訳なさに小さくなると、冨岡さんは何か重苦しい決断を下すかのように一度目を閉じ、それから静かにこちらへ向き直った。

「…今度、一緒に食べに行くか」
「え、本当ですか?」
「ああ」
「わぁ、嬉しいです!ありがとうございます、楽しみにしてますね」

弾むような声で答えると、胸の奥が温かな期待でいっぱいになる。
鮭大根が一体どんな味なのか、今はもう二の次だ。
冨岡さんと一緒に過ごす約束がまた一つ増えたこと。ただそれだけのことが、今の私には飛び上がりたいくらいに、純粋に嬉しかった。



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