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しのぶさんの顔色、か…。
気のせいならいい。見間違いであってほしい。けれど、いつも誰よりも近くで彼女を支えているアオイさんが心配そうに漏らしていたのだから、ただの杞憂で済む話ではない気もする。
けれど、こういうとき一体誰に頼ればいいのだろう。普段なら真っ先に頼るのがしのぶさん本人なのに、その本人が抱えているかもしれない問題となると、急に行き場を失ってしまう。
カナヲさんに水を向けるのは違う気がする。余計な動揺をさせてしまうかもしれない。冨岡さんも…なんだか違う気がする。
隠の人たちに打ち明けたって、柱の事情に軽々しく首を突っ込めるはずもないだろう。となると、同じ女性の柱である甘露寺さん…?
いや、あの一度きりしか顔を合わせていない私が、いきなり相談を持ちかけるのも唐突すぎる。
答えの出ない堂々巡りに、頭を抱えそうになったその時。
「リサさーん。考え事ですか?」
視界の横から、ひょこっと栗色の髪の毛が現れる。柔らかそうなその表面に、夏の強い日差しが反射していた。
彼の指摘通り、私はどうやら物思いにふけっていたらしい。
その証拠に、膝の上に乗せた両手はさっきアオイさんからもらった藤の香り袋を大事そうに包み込んだまま、微動だにしていなかった。
「あ……うん、ちょっとね。どうかしたの?」
ぼーっとしている間も背筋を伸ばし、きちんと座れていたようだ。自分は随分とお行儀よく縁側で静止できていたことが確認できる。
目の前で屈み込み、無邪気な笑顔を覗き込ませてくる雪くんに、私はようやっと我に返った。
「どうかしたの、じゃないですよ!探したんですからね」
そう言って、雪くんは少し唇を尖らせてみせる。二週間前の痛々しい怪我を感じさせないほど身軽な動きで、私の隣へとすとんと腰を下ろした。
「今朝の訓練、来てくれなかったじゃないですか。約束したのに」
「ごめんね。お風呂に入ってたら、すっかり時間過ぎちゃってて……」
「もう、アオイさんにめちゃくちゃ絞られましたよ。体が引きちぎれるかと思いました」
大袈裟に両手を広げてみせる仕草があまりにも子供っぽくて、思わずふっと笑ってしまう。
けれど、こうして軽口を叩けるほどに回復してくれたことが、何よりも嬉しかった。運ばれてきた夜の血の匂いと、痛みに耐えていた青白い顔が嘘のようだ。
「でも、ちゃんとやり切ったんでしょ?偉かったね」
「……子ども扱いしないでください。これでも隊士なんですから」
照れくさそうにそっぽを向いた雪くんの視線が、ふと私の手元へと落ちる。
「それ、藤の花の香り袋ですよね。さっき隠の人たちが抱えてるのを見ました」
「うん。アオイさんと一緒に作ってたの。ひとつお守りにもらっちゃった」
手のひらを開いて見せると、雪くんは鼻を近づけて小さく息を吸い込んだ。
「リサさんからいつもする匂いと同じだ」
「え、私そんな匂いする?」
「しますよ」
屈託のない笑顔でそう言われて、少しだけ気恥ずかしくなる。
ずっと蝶屋敷で暮らしているから、自分では気づかないうちに身体の奥まで藤の香りが染み付いてしまっているのかもしれない。ましてや、さっきまで大量の花びらを相手に黙々と作業をしていたのだから、なおさら余計に匂い立っているのだろう。
「僕、リサさんの匂いが好きなんです。安心します」
真っ直ぐな瞳でそう言われてしまうと、悪い気はしないのが年上というもので。
彼は特に私に懐いてくれているようで、その様子を「ご主人様に尻尾を振る忠犬」だと揶揄されることもしばしばある。分からなくもない、と言ったら怒られるだろうか。
でも雪くんはいつも私を見かけたら満面の笑みで手を振ってくれるし、褒めてあげると物凄く嬉しそうに目を輝かせる。
素直で可愛いなあ、と常日頃思わずにはいられない子なのだ。
「あ、そういえば雪くん。ここにはもう慣れた?」
「はい!怪我をして良かったとさえ思ってます」
「ちょっと、縁起でもないこと言わないでよ」
思わず眉を寄せて窘めると、雪くんは悪びれる様子もなくへへっと笑った。
命からがら運び込まれて、あの痛ましい傷口を縫合した時の苦痛を思えば、良かったなんて言葉は冗談でも出てきてほしくない。怪我なんてしないに越したことはないのだから。
「……今朝は約束破っちゃってごめんね。明日の朝の回復訓練は、絶対に見に行くから」
今日のお詫びも兼ねてそう伝えると、雪くんは目を丸くしてぽかんと私を見つめた。
「…………リサさんから、言ってくれるなんて」
呆けたように小さく呟いた雪くんに、「うん?」と首を傾げる。
彼はハッとしたようにゆるく首を振ると、顔を輝かせていつもの人懐っこい笑みを浮かべた。
「いえ、ありがとうございます!明日も回復訓練があると思うとめっちゃ不安なんで、見に来てくれたらすごく心強いです……!」
「うん。私にできることであれば、いくらでも協力するよ」
私が微笑みかけると、雪くんはつぶらな二重をじわりと潤ませた。
「リサさん……まじ女神……」
「えっ?いやいや、大袈裟だよ」
ただ訓練を端っこで見守るだけなのに。
思わず苦笑が漏れて視線を合わせると、彼の瞳孔が微かに縮み、まるで眩しい太陽を直視してしまった時のように、パチパチと頼りなげに瞼が伏せられた。
恥ずかしそうに頬を染める少年の仕草に、思わず見入ってしまう。
「大袈裟なんかじゃないです。……僕は本当に、リサさんを尊敬してるんです」
噛み締めるようにそう告げた雪くんに、私はさらに首を傾げた。
私の疑問を置き去りにしたまま、雪くんは勢いよく立ち上がると、細められていた瞳をきらきらと輝かせた。
「じゃあ明日!絶対に来てくださいね!待ってますから!」
「あ、うん……」
たじたじになりながら頷き返すと、彼は満足そうに満面の笑みを浮かべ、縁側をパタパタと小走りで駆けていく。
二週間前までベッドの上で生死の境を彷徨っていたのが嘘のように身軽な後ろ姿を、私は見送った。
やっぱり、弟みたいで可愛いな。そんな感想を心の中で抱きながら、私は手元にある紫の香り袋へ優しく指を滑らせた。
*
「疲れた……」
ぐだ、と廊下の壁に背中を預け一人深くため息をついた。
まだ朝日が差し込んできたばかりの早朝だというのに、すでに一日の体力を使い果たしてしまったような気だるさだ。
原因は、他でもないあの少年のせいだ。
約束通り翌朝、機能回復訓練を見学しに行った。私を見るなり雪くんはぱっと顔を輝かせて、とても嬉しそうに手を振ってくれて。そんな可愛らしい姿に癒されつつ、皆を応援しつつ、私は隅の畳の上に座って訓練を静かに見守っていたのだが。突然、なぜか雪くんが駄々をこね始めた。
それも目の前で構えるアオイさんに怖気づき「リサさんじゃないと嫌です!」とまで言って。「私は見学だけだよ」と窘めたものの、必死にすがりつくような目で懇願され、呆れたアオイさんからも「じゃあやってあげてください」と丸投げされてしまったのが運の尽きだった。
硬くなった筋肉を解すための柔軟体操から、関節をぐいぐいと伸ばす柔軟まで、文字通り手取り足取り付き合わされる羽目になった。
「痛い痛い!」「無理です折れます!」と騒ぎ立てる雪くんを宥め、逃げ出そうとする手足を必死に押さえつけ、励まし、時にはきよちゃんたちの指示通りに体重をかけて引っ張る。
力加減の分からない元気な男の子の面倒を全力で見るのは、思っていた以上に重労働だった。
見守るだけのはずが、気づけば私も汗だくだ。
「リサさん、もう行っちゃうんですか!」
訓練が終わって私が立ち上がった途端、彼は露骨に眉を下げて駄々をこね始めた。周囲の隊士たちや三人娘から「またか」と呆れ顔で見守られている。
雪くんの幼児退行は見慣れている。
「ごめんね、明日もまた付き合うから」
「絶対約束ですよ!」
ぷくっと頬を膨らませる仕草があまりにも幼子そのもので、反射的に手を伸ばしかけてしまった。けれど、いくら年下とはいえ相手は鬼殺の隊士だ。子ども扱いしすぎるのも失礼かと、触れる寸前で慌てて手を止める。
すると、雪くんは不満そうに口を尖らせた。
「……撫でてくれないんですか?」
寂しそうに視線を落とされると、なんだかこちらが酷いことをしたような罪悪感に駆られる。
仕方なくおそるおそる髪に触れようとした瞬間、待ちきれなかったのか、雪くんは自ら私の手の平へすり寄るように頭を押し付けてきた。
「リサさぁん……」
とろけそうな甘い声で名前を呼ばれ、予想以上の懐き方に一瞬息を呑む。
柔らかい栗色の髪が手のひらをくすぐり、大型犬にすり寄られているような感覚に戸惑っていると。
「はい、あなたはこっち。リサさんお疲れ様でした」
「あ、はい……お疲れ様です……」
背後からぬっと現れたアオイさんが、雪くんの襟首を容赦なく掴んで引き剥がした。猫のように大人しく回収されていく彼に手を振り、私はようやく解放されたのだ。
かくして、こうして無事に壁にもたれて休息を確保できたわけだが。
「毎日これをこなしてるアオイさんたち、凄すぎない?」
天井を見上げながら、改めて蝶屋敷の少女たちへの尊敬が込み上げてくる。
我が儘を言う負傷者たちを宥め、時には厳しく叩き直し、毎日この体力を削る訓練を何人も相手に回しているのだ。アオイさんはもちろん、カナヲさんや三人娘の底知れない強靭さを思い知らされた気がした。
だらりと脱力した腕をさすりながら、私は深く息を吐き出し、辺りの静けさに身を沈めた。
*
「はい、らっしゃい!採れたての瑞々しい
「そっちの姉ちゃん、うちの冷たい
その日の午後。
いてて、と痛む肩をおさえながら、左右から飛んでくる威勢のいい呼び込みを、軽く会釈で受け流しながら歩みを進める。明日は身体中が筋肉痛になっていることだろう。
頭上から降り注ぐ夏の陽射しと、行き交う人々の熱気。道端に並ぶ屋台からは香ばしい焼き魚や熟した果物の匂いが漂い、蝶屋敷の静けさとは打って変わった賑やかさに、少しだけ目が回りそうになる。
籠を腕に掛け直し、私は目的の店を探して視線を走らせた。
今日ここへ来たのは、屋敷の買い出しのついでに、どうしても手に入れておきたいものがあったからだ。
人間が食べても害がなく、鎹鴉のような鳥でも口にできて、なおかつ不眠や日々の疲労に効くもの。
――そう、乾燥させた
「ええと、確かこの通りの奥に乾物屋さんがあったはず……」
人の波を縫うように歩きながら、軒先に並ぶ看板をひとつずつ確かめていく。
ふわりと鼻をかすめる匂いに引かれるようにして、私は小さな間口の店の前で足を止めた。
「いらっしゃい。何をお探しだい?」
奥から顔を出した店主のおじいさんに、私は小さく会釈をして尋ねる。
「あの、乾燥させた棗は置いてありますか?」
「ああ、棗ならちょうど上等なのが入ってるよ。粒が大きくて甘みもしっかりしてるやつだ」
そう言って店主が棚から下ろしてくれた木箱の中には、艶のある深い赤褐色の棗がぎっしりと詰まっていた。指先でひとつ触れてみると、しっかりと乾燥していながらも実が引き締まっていて、質が良いのがよく分かる。
「これなら、そのまま食べてもお湯に浸してお茶にしても美味しくいただけますよね」
「ああ、滋養強壮にもいいし、心が落ち着いてよく眠れるようになるよ。お嬢さん、お疲れかい?」
「あ、いえ……少し疲れが溜まっている知り合いに、差し入れようと思って」
「そうかい。なら味見してみな、美味いから」
店主は笑いながら木箱から一粒つまみ上げると、気前よく私の手のひらに乗せてくれた。
「あ、ありがとうございます」
言われるがまま口に運んで噛みしめると、ぎゅっと凝縮された素朴な甘みが、じわりと広がる。
皮は柔らかく、えぐみもなく食べやすい。これなら甘いものが苦手な人でも重たく感じないはずだ。
「ん、美味しいです……!」
「だろう?」
「はい!これにします、包んでいただけますか?」
夜遅くまで任務や鍛錬に追われて、まともに休息を取れていないであろうあの人の姿が脳裏をかすめる。これなら鴉に対して贈ることもできるし、鴉自身がおやつとして口にしても安心だ。
紙包みに丁寧に包まれた棗を受け取り、代金を支払って籠の底へそっと収めた。
「ありがとうございました」
店を出て、再び午後の賑やかな通りへと足を踏み出す。
これで一番の目的は果たせたけれど、頼まれていた屋敷の買い出しはまだ半分も終わっていない。
八百屋で新鮮な野菜を選び、乾物屋で出汁用の昆布を買い足し、薬屋でしのぶさんが頼んでいた生薬を受け取る。
次々と籠を満たしていく生活の品々に、腕にかかる重みが増していく。それでも、みんなが待つ屋敷へ帰るための大切な仕事だと思うと、足取りは自然と軽やかだった。
けれど、次の店へ向かおうと大通りを横切った時。
ちくり、と。首筋のあたりを撫でるような、かすかな視線を感じて足が止まった。
「……?」
違和感を拭えずに足を止め、ふと振り返って雑踏を見渡してみる。
けれど、視界に飛び込んでくるのは夕餉の買い出しを急ぐ町人たちや、元気に走り回る子どもたちの姿ばかりだ。誰かがこちらを見ている様子もなければ、怪しい影も見当たらない。
「……気のせい、かな」
小さく首を傾げる。
腕の籠を持ち直し、私は残りの買い出しのために再び歩き出した。
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