55


屋敷の影に入った瞬間、じりじりと肌を焦がす熱気がすっと引いていく。
深い竹藪に囲まれた水柱邸は、蝉の声さえどこか遠くに聞こえるほど静かだった。
門の前で足を止める。息を整えて声をかけようとした矢先、ことり、と内側から鍵の外れる音が響き、戸が静かに開いた。

「……暑かっただろう」
「冨岡さん」

気配だけで私が来たと分かっていたのだろうか。そんな些細なことすら、この人らしくて何だか嬉しい。

「こんにちは。本当に、少し歩くだけで溶けちゃいそうでした」

思わず笑って零すと、冨岡さんは短く「入れ」と促しすっと身体を引いてくれた。
一歩足を踏み入れた屋敷の中は、外の猛暑が嘘のようにひんやりと澄んでいる。涼やかな空気に撫でられ、強張っていた肩の力がふうっと抜けていくようだった。
それでも、冨岡さんもさすがに暑いようで、いつも着ている羽織は居間の奥にある衣桁いこうに掛けられており、隊服の詰襟のボタンも一番上がひとつだけ外されている。

「冷たい水を持ってくる。座っていろ」
「あ、ありがとうございます。……あ、そうだ、冨岡さん」

奥へ向かおうとする彼の背中に慌てて声をかけ、私は大事に抱えていた巾着袋へ手を伸ばした。
底から取り出したのは、以前町で手に入れたあの紙包みだ。

「これ、寛三郎さんにどうぞ。途中の町で見つけたんです」

両手で差し出すと、冨岡さんは足を止め、不思議そうに包みと私の顔を見比べる。

「……寛三郎?」
「はい。乾燥させたなつめです。あ、もちろん冨岡さんが食べても大丈夫ですよ」

言葉を添えながら手渡すと、冨岡さんは大きな手のひらで紙包みをそっと受け取ってくれた。
無下に断られたらどうしようかと少しだけ身構えていたから、胸の内でそっと安堵の息を漏らす。
もちろん、寛三郎さんに、というのはただの建前でしかない。途中の町で見つけて、というのも今日は別に町には寄っていないから嘘だ。
もちろんあのおじいちゃん鴉にもお腹いっぱい美味しいものを食べてほしいし、元気でいてほしいけれど、一番休んでほしいのは目の前のこの人だ。
最近だってろくに眠れていないんじゃないかと心配でならなくて、少しでも身体を休めてほしくて、本を読んでこの棗を見つけたのだ。
けれど、堂々と冨岡さんに差し出す勇気もない私は。散々考えた挙句に、寛三郎さんを口実に渡すことにした。寛三郎さんには申し訳ないけれど、優しいおじいちゃんだからきっと分かってくれるはずだ。
冨岡さんは包みの結び目を解くと、中に入った赤褐色の実をじっと見つめる。

「寛三郎も、喜ぶと思う」

しかし、低くそう呟いてから、冨岡さんはどこか不満げに視線を上げて私を見据えた。

「だが、次からは何も持ってこなくていい」

拒絶とも取れるその言葉に、心臓がきゅっと冷たく縮む。
ああ。やっぱり。迷惑、だったかな。おそるおそるうかがった冨岡さんの眉間には、不服そうな皺が寄っていて、決して穏やかな気持ちではないことが分かる。余計なことをしてしまったかもしれない。

「すみません……」

怒らせてしまったかもしれない恐怖から、消え入りそうな声で頭を下げた。
すると、冨岡さんは居心地悪そうに息を詰まらせる。

「お前は、俺のためにものを選んでいるだろう」
「……え、気づいてたんですか」
「……普通、気づく」
「寛三郎さんに、って持って来てたのに」

思ってもいなかった理由に、私は小さく目を見開いた。
以前、同じように寛三郎さんへと差し入れた桑の実のことも、すべてお見通しだったらしい。

「……もしかして、私の心でも読んでますか?」
「読んでない」
「じゃあどうして全部分かるんですか」
「お前は分かりやすい」

何の迷いもなく即答されてしまい、私は思わず口ごもる。
分かりやすい、と言われても自分ではちっとも自覚がない。一体どこでそんなに気持ちが漏れ出てしまっているのだろうか。

「気づいてたなら言ってくださいよぅ……!」

拒絶されたわけじゃないと分かった安堵も手伝って、情けない声を上げながら座布団の上に座り込んだ。
穴があったら今すぐ飛び込みたい。寛三郎さんを隠れ蓑にして、あれこれ策を立てていた自分が急に恥ずかしくなってくる。
冨岡さんは小さく息を吐くと、すっと奥の部屋へと向かい、すぐに戻ってきた彼の手には水の入った湯呑みが握られていた。

「ほら、飲め」

目の前にことりと置かれた湯呑みから、ひんやりとした気配が伝わってくる。

「……すみません、いただきます」

両手で受け取って一気に飲み干すと、冷たさが染み渡って、ようやくカッと火照っていた頭が冷えていくのを感じた。
冨岡さんは座卓を挟んだ向かい側に、静かに腰を落ち着ける。

「もう、冨岡さん相手に隠し事なんてできる気がしません……」
「隠す必要がないだろう」
「それはそうですけど……恥ずかしいじゃないですか」

空になった湯呑みを両手で包み、唇を尖らせてぼやくと、冨岡さんは淡々と「そうか」とだけ返した。
どこまでも平然としたその態度に、これ以上じたばたしても敵わないのだと思い知らされる。

「じゃあ、冨岡さんって食べ物だと何党なんですか?」
「……また何かを持ってくるつもりか」
「いえっ、その、一応今後の参考までに……」

どうせ策がバレていたのなら、もう小細工なんて要らない。恥を捨てて開き直った私は、空になった湯呑みを机に置き、ぐっと身を乗り出した。
前にも彼に直接伝えたが、私は冨岡さんのことを何も知らないのだ。こういった機会がないと聞くにも聞けない。
甘いお菓子が好きな甘党なのか、それともお酒の肴のような塩辛いものを好む辛党なのか。あるいは、お酒そのものを好む左党なのだろうか。

「あまり考えたことがない」
「じゃあ、お誕生日はいつですか?」
「二月八日だ」
「冬生まれなんですね。じゃあ、一番好きなお料理は?」
「……鮭大根」
「しゃけ……え?」

聞き慣れない単語に、思わず間抜けな声が漏れる。
鮭大根。鮭と大根。頭の中で二つの食材を並べてみるけれど、どうにも完成図が浮かばない。焼き鮭に大根おろしを添えるとか、そういう話ではないはずだ。煮物だろうか。それともどこかの郷土料理なのだろうか。

「あの、それってどういうお料理ですか?鮭と大根を……一緒に煮るんですか?」

そう言いながら、私は巾着袋に手を入れて手帳と万年筆をがさごそと探し始めた。貴重な情報を聞き逃して忘れるわけにはいかない。

「……食べたことがないのか」

ゆっくりとこちらを見据えてくる瞳が、「本気で言っているのか?」と雄弁に物語っている。表情筋はほとんど動いていないのに、彼がまるで天変地異でも起きたかのような衝撃を受けているのがありありと伝わってきた。

「は、はい。私の故郷ではあまり馴染みがなくて……。変、ですか?」
「いや。……変ではない」

どこか納得のいかない様子で、冨岡さんはわずかに視線を逸らす。
けれど、鮭大根という響きはやはり聞いたことがない。いかにもこの人らしい好物だな、とは思う。

「覚えておきます、鮭大根。今度私も食べてみますね!」

彼の好物を一つ知ることができた嬉しさに、つい調子が戻ってくる。
尋ねれば意外にもぽんぽんと素直に答えてくれる。この勢いなら、もう少し踏み込んだことまで聞けるかもしれない。

「ちなみに、好みの女性はどんな人ですか?」
「……お前がそれを聞いてどうする」
「うっ」

低く落とされた声と、すっと温度を下げた双眸がこちらを射抜き、見事に撃沈した。流れに乗っていけるかと思ったのに、残念だ。
でも確かに、それを知ったところで私に何ができるわけでもない。ただの興味本位で踏み込みすぎてしまったと反省する。
居心地の悪さを誤魔化すように、私は座卓の上に置かれていた紙包みへ手を伸ばした。

「あ、そ、そうだ。……棗、ひとつどうですか?」

中から艶やかな赤い実をひとつ指先で摘み上げ、差し出してみせる。

「どうしてもそれを食べさせたいのか」
「だって冨岡さん、言わなきゃ食べてくれないような気がして」

隠せているつもりなのかもしれないけれど、青白い肌に落ちる隈も、時折見せる張り詰めた疲労の色も、ずっと見ていれば分かってしまう。
自分を労るのがきっと下手な人なんだ。こうして目の前で押し付けでもしない限り、自分から口にしてくれない気がした。そんなお節介な気持ちが、差し出した指先にぎゅっと詰まっていた。
冨岡さんはしばし無言のまま、どこか諦めを滲ませた瞳で私を見つめ返す。なかなか受け取ってもらえないので、棗苦手だったかな、と諦めかけたその時。
彼はふう、と目を伏せて息を吐き出した。

「あ、食べてくれる気になりましたか?これ、私も一粒食べたんですけどすごく甘くて美味し……っ、」

目の前に影が落ちる。突然、間近に迫った端整な顔立ちに息を呑んだ瞬間。
私の指先から、赤い実が直接パクリと咥え取られていた。

「……っ」

ふに、と柔らかい感触が指先に触れる。
座卓越しに身を乗り出していた冨岡さんは、ゆっくりと元の場所に腰を下ろすと、もぐもぐと咀嚼を始めた。
…どこまでが無自覚で、どこまでが計算なのだろう。もしこれが無自覚なのだとしたら、タチが悪すぎる。
手で受け取るものだとばかり思い込んでいたから、予想もしなかった距離の詰め方に頭の中が真っ白になった。
当の本人はといえば、何事もなかったかのように平然とした顔で棗を味わっているのだから、余計に心臓に悪い。

「……甘いな」
「お口に……合いましたか……?」

熱くなった指先を膝元にぎゅっと引き寄せ、上ずりそうな声を何とか絞り出す。
冨岡さんは私の耳まで真っ赤に染まった顔を、深い青色の瞳でじっと見つめていた。

「よく熟れてる」
「えっ」
「棗の話だ」

微かに口元を緩め、からかうようにそう呟いた彼に、私は今度こそ完全に息が止まりそうになった。









さらさらと、白い画用紙の上に描き足されていく細い線。
すごく手際がいいな、と私は隣で作業する雪くんの手元を見やった。

日陰になった蝶屋敷の縁側。私は茣蓙ござの上に広げた薬草を黙々と選別し、その隣で雪くんは熱心に木炭を走らせている。
隊士としての鍛錬はしなくていいのだろうか、アオイさんに見つかったらまた怒られるんじゃないか、と気になるところではある。けれど、紙の上で息を吹き込まれていく繊細な風景画を見ていると、思わず小言も引っ込んでしまう。まるで本物の画家みたいだ。
過酷な任務や厳しい訓練に追われる日々だ。たまにはこんなふうに、ただ好きなことに没頭する静かな時間があってもいいのかもしれない。

「雪くん、絵すっごく上手だね」
「父が画家だったんで」

へへ、と人懐っこく笑いながら木炭を動かす彼の手先は、驚くほど無駄がない。
結局、あれから私は雪くんの機能回復訓練にほぼ毎回付き合わされるようになっていた。
その時から薄々気づいてはいたけれど、彼は「痛い」「もう無理」と甘えて駄々をこねているだけで、本質的にはとても器用で要領がいい。筋もいいし、訓練の飲み込みも早い。私の手伝いなんて、本当は最初から必要なかったのだと思う。
それでも、訓練が終わるたびに子犬のような目で「いてほしいんです」と真っ直ぐ頼み込んでくるものだから、無下にもできず、気づけばこうして空き時間まで一緒に過ごすようになってしまっていた。
絵を描く彼の横顔は、訓練中に泣き言を言っている時とはまるで別人のように落ち着いている。
器用で、どこか計算高くて、けれど憎めない。

「リサさん」
「うん?」
「あの、ちょっと聞きたいことがあって」

さらさらと動いていた木炭の音がふっと止まり、雪くんが腕を下ろした。
ようやく鍛錬に戻ってくれる気になったのかもしれない。早くアオイさんのところへ行ってほしい一心で、前傾姿勢で続きを待った。

「リサさん、昨日どこ行ってたんですか?半日くらいいなかったですよね」

予想もしなかった問いかけに、思考が一瞬止まる。
てっきり訓練の相談をされるものとばかり思い込んでいたから、質問の意図が呑み込めなかったのだ。

「えっと、昨日?は冨岡さんのお屋敷に出納帳の手伝いに行ってたんだけど……」
「冨岡さん?へえ……」

別段名前についてはどうでもいいらしく、雪くんはやや雑に相槌を打った。

「……男ですか?」
「う、うん。知らない?水柱の冨岡義勇さん。雪くんも水の呼吸の使い手だし、てっきり知ってると思ってたんだけど」
「柱?」

ぽつりと呟いた雪くんの声が、先ほどまでの人懐っこい声色から一段低く沈む。
伏せられた睫毛の影で、微かに温度の違う光が揺れたような気がした。

「まさか、恋仲とかじゃないですよね」

じっとこちらを見上げてくる瞳。
内心、炭治郎くんと同じようなことを言うなと思いつつも、私はあくまで冷静に首を横に振った。

「ううん、全然違うよ」

どうして皆、揃いも揃ってそんな突拍子もないことを口にするのだろう。
普通に考えて、鬼殺隊を支える最高戦力である柱と、一介の非戦闘員に過ぎない私とでは立場が違いすぎる。住む世界すら違うのだから、そんな関係になるはずがない。

「良かった。そうですよね。その人はリサさんには絶対つり合わないですもん」
「うん?」
「有り得ませんよね。リサさんは純粋ですし、真っ白なのに」

早口でそうまくし立て、雪くんは顔を上げた。その口角が、すっと引き上がる。
浮かんだ笑みに冷たい違和感を覚えて、胸の奥がきゅうとざわついた。
何だろう。いつもと決定的に何かが違う。いつもだったらもっとこう、青空が冴え渡るように清々しく笑って見せてくれるはずなのに。

「いいんです、僕ちゃんと分かってますから。リサさんは誰にでも優しいのに、それを勘違いするやつが悪いんです」
「雪くん……?」
「大丈夫ですよ、リサさん。そのまま真っ白なままでいて下さい」

彼の瞳には、光が一切宿っていなかった。どこか盲信的な響きをはらんだ言葉に、私はひどく戸惑う。
一体彼が何の話をしているのか、最初から最後までまったくついていけなかった。

「うーんと……とりあえず私はこれからもというか、変わることはないだろうし……」

必死に首を捻って当たり障りのない答えを模索していると、

「尊いです……」

突然、雪くんが両手で顔を覆ってしまった。
尊いって。それって何か、芸能人とかに使う単語な気がするけれど…。

「いや、そんな崇めたって何も出てこないよ?」
「いいんです。リサさんから何か貰おうなんてそんな、図々しいこと思ってませんから。ただそこにいるだけでいいんです……」
「そ、そっか」

理解し難い。思想の歩み寄りを完全に諦めて、私は小さく息を吐いた。
落ち着きを取り戻したのもあって、そういえば、とさっき引っかかったことが浮かび上がってくる。

「あのね。さっき雪くん、冨岡さんのこと私に釣り合わないって言ってたけど、違うよ。私の方が釣り合わないというか……、まあ、とにかく会ってみたら雪くんも素敵な人だって分かると思う」

確かに彼の表面だけを見てしまうと誤解しがちだ。
でも私は彼のそうじゃない部分を知ってしまったから、このまま誤解されっぱなしは嫌だった。

「私、身寄りがなかったんだけど、冨岡さんが私をここに連れてきてくれてね。言葉数は少ないけど、すごく思慮深くて、優しい人なんだよ。それに柱だからとっても強いし……」

それとね、と話を続けようとしたところで、雪くんが声を上げた。

「リサさん。その人の名前、何でしたっけ?」
「え?冨岡さんだよ。冨岡義勇さん」

私が答えるや否や、彼は眉間に皺を寄せる。

「冨岡、義勇さん……」

ぽつりと呟いた雪くんの目が酷く虚ろで、少し心配になった。



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