55


「…それでは、お邪魔しました。また伺います」
「ああ、また」

玄関先で軽く頭を下げると、冨岡さんに別れを告げてその日のお手伝いは終了となった。
夕日の傾く門の外へ踏み出し、振り返って扉をゆっくりと閉じると、ゴトリと重厚な音が響く。
さて、帰ろう。すっかり長居をしてしまった。まだ外は明るいけれど、急がないと夜になってしまう。
冨岡さんが「近くまで送る」と言ってくれたけれど、今夜に任務を控えているという彼に、これ以上の手間をかけさせるわけにはいかないから。

…私は浮かれていたんだと思う。とても。
次に冨岡さんに会える日のことや、まだ見ぬ鮭大根の味に想いを馳せて、坂道を下る足取りは羽が生えたように軽かった。
じりじりと肌を焼く不快な暑さも、竹林を揺らす風の音も、すべてが祝福のように感じられて。
…浮き足立ち、現実が見えなくなるほどに。

「ちょっといいかしら」

背後から凛とした声が響き、私は足を止めた。振り返った先にいたのは、思わず息を呑むほど美しい女性。
私と同い年くらい、だろうか。鮮やかな紫紺の袴をきれいに着こなし、その立ち姿は気高く、完成されている。髪も肌も指先まで丁寧に手入れされていて、すごく美容に気をつけているんだろうなということが窺える。
そして、はっきりとした見覚えというものはない。けれど、どこかで会ったことがあるような既視感が胸の端に引っかかった。

「……えっと、私に何か……?」

声をかけられる心当たりもなく、私が困惑して首を傾げると、彼女は何も言わずにじっと私を見つめた。
射抜くような、強い眼差し。次の瞬間、彼女は迷いのない動きで私の手首を掴んだ。

「っ、え、あの……!」

ぎょっとして声を上げが、彼女は細い指からは想像もできないほど強い力で私の腕を引き、そのまま無言で歩き出す。
人気のない小道から外れ、さらに奥、竹林がより一層濃く生い茂る場所まで連れていかれたところで、ようやく彼女は私の腕を離した。
真正面から見据えられた彼女の顔は、どこかきゅっと眉が吊り上がっていて。穏やかな話ではなさそうなその空気に、私は小さくたじろぐ。

「ねえ」
「…あっ、えっと、はい」
「あなた、冨岡様の何なの」
「えっ?」

思ってもみなかった問いかけに一瞬きょとんとしてしまったが、それと同時に先程彼女に感じた既視感のようなものがはっきりしてくる。
…そうだ。いつか伊之助くんと町を歩いていたとき、私の不注意でぶつかってしまった相手の女性だ。
あの時も、彼女は目を惹くほど綺麗だったから記憶に残っていた。けれど、なぜそんな人が私にこんな問いを投げかけてくるのだろう。

「前から見てたんだけど。どうしてあなたみたいな人が、冨岡様の屋敷に平然と出入りしているの?」

…前から見ていた。そこで唐突に、数週間前から私にまとわりついていた、あのぴりぴりと刺すような視線の正体を理解した。
彼女だったんだ。竹林の影から、町の角の向こうから、ずっと私を監視していたのは。

「聞いてるの?冨岡様の高潔な静寂を、あなたのような人が濁していることに、いい加減気付きなさいよ」
「……え?」

私の狼狽を嘲笑うように、彼女は自らの名を「ミヨコ」だと名乗った。

「あなたがいると目障りなの」

ミヨコさんは、そこから自分と冨岡さんとの間に起きたことを、一つ一つ紐解くように丁寧に説明してくれた。まるでそうすることに正当な権利があるのだと、私に突きつけているかのように。
彼女はかつて町外れで鬼に襲われ、絶体絶命の恐怖を味わったところを、任務中の冨岡さんに助けてもらったのだという。
そして、無駄のない動きで鬼の首をはね、一瞥いちべつもくれずに刀を納めるその姿を見て、ひどく感動したのだと。
震える声で礼を口にした彼女に対し、冨岡さんは視線すら合わせることなく、「するべきことをしたまでだ」とだけ短く言い捨てて、夜の闇へと消えていったそうだ。

「あんなに、つれなくて…冷たいほどに真っ直ぐな瞳を、私は他に知らない。甘い言葉で着飾る男たちとは、魂の純度が違ったわ」

その瞬間に奪われた心は、どれほどの時間が経っても消えなかったそうだ。
それからは、ミヨコさんは冨岡さんの背中をもう一度追うためだけに、手がかりを求めて町を歩き回り、足が棒になるまで聞き込みを続けた。彼女は自嘲気味に、けれど誇らしげに語る。
ようやくこの竹林の屋敷へと辿り着いたとき、彼女はどれほど胸を高鳴らせたことだろう。
けれど、焦がれた場所で彼女を待っていたのは、温かな再会などではなく、固く閉ざされた重い門だった。

「何度も、何度も訪ねたわ。身なりを整えて、精一杯の誠意を持って。でも、返ってくるのは『帰れ』という、あまりにも無機質な拒絶だけ。……それなのに」

言葉が、憎悪に近い熱を帯びて震え始める。

「絶望して、最後にもう一度だけと思って立ち寄ったあの日に……。門の向こう側から、当たり前のような顔をして出てくる、あなたの姿を見つけたの」

彼女にとって、その門はどれほど手を伸ばしても届かない絶壁のような境界線だったはずだ。
その聖域とも呼べる場所から、大した身なりでもない、何者でもない私が現れた。
その光景が、どれほど彼女のプライドと恋心を無惨に切り刻んだかは、想像するに余りあった。

「どうせ、あなたが無理を言って部屋に入れてもらったんでしょ?いい迷惑だわ」
「それ、は……」
「冨岡様は誰にでもお優しい方だわ。でも、その優しさを自分に向けられた特別なものだって勘違いしているなら、あまりにも滑稽よ。身の程を知りなさい」
「…あ、えっと…はい。それは私も、本当にそう思います」
「はぁ?何それ、馬鹿にしてるの?」

思ったまま答えたのだけど、彼女にとって納得のいく答えではなかったらしい。
冨岡さんの底知れない優しさに甘えているなんて、きっと私自身が誰よりも理解していると思う。冨岡さんは優しくて、あたたかくて。でも、自分を「取るに足らない存在」だと律している人だから、私の図々しいほどのお節介も拒めずに、まるごと受け止めてくれているだけ。
そのことにいつも申し訳なさや感謝を感じているし、だからこそ私に出来ることはなんでもやろうと思っているけど…結局は彼に助けてもらっている自覚は、十二分にある。

「お願いだから、冨岡様に軽率に近づかないで。見ていてすごく不愉快なの。冨岡様だって、あなたみたいな女に付き纏われて心底迷惑しているわ」

ミヨコさんは、最後に吐き捨てるようにそう言った。
私は、冨岡さんに恋をした時には、幸運にも既に彼の傍にいた。彼への想いに悩んではいるけど、それでも彼に比較的近い距離にいることができた。
だから、想像してみようと思った。あの日、私が冨岡さんに拾われず、どこか別の場所に拾われていたとして。その町で、見たこともないかっこいい人がいて、その人に一目惚れをして。
当然、彼の家や何をしている人なんて分かるはずもなく、ならば彼との接点を持つためにはどうするか。その人の屋敷に通い詰めるしかないのである。
この女性も、私と同じ。いや、私以上に必死に冨岡さんに恋をしている。少しでも彼に相応しい自分でありたいと、髪を整え、袴を選び、一生懸命に自分を磨いて。慣れない山道を何度も往復して、あの屋敷に通っているのだろう。
「今日は門を開いてくれた」「今日は会話ができた」
そんな些細な一つ一つに喜びを見出そうとする中で、私みたいな存在が、我が物顔で屋敷から出入りしていたら。
……不愉快になる。当然だ。私は、冨岡さんが好きだ。彼の隣に胸を張って立つような自信はないけれど、彼を想う気持ちの強さなら誰にも負けないと信じていた。でも。
先程彼女に言われた「冨岡様も迷惑してる」という言葉を聞いた時、「そうかもしれないな」と一瞬考えてしまった。

「彼から離れてちょうだい」

冷たい声が夕暮れの竹林に吸い込まれていく。
ミヨコさんは一歩、私との距離を詰め、手入れされた綺麗な手で私を指さした。

「おかしいと思わない?私があんなに努力しても、あの人は見向きもしてくれない。町じゅうの男たちが、私のたった一度の微笑みを求めて劇場に列を作るっていうのに。……新派劇の主役を務めるこの私が、たかが町外れの邸の門をくぐるだけで、どれほどの苦労をしていると思っているの?」

…新派劇。聞いたことがある。
誰だっただろうか。そうだ、きよちゃんだ。みんなでお料理をしている時に「今、町ですごく流行ってるんですよ」って、目を輝かせて教えてくれたっけ。
そんな華やかな舞台で主役を張るような女優さんが、そんなすごい人が、私と同じように…必死に、冨岡さんに片想いをしている。

「私を差し置いて、あなたが彼の特別だなんて、道理が通らないわ。……私がこれほど想っているのに、なぜ、あの方はあなたを選ぶの?」

ミヨコさんは、震える手で自身の胸元を強く握りしめた。その瞳には、主演女優としてのプライドと、それ以上に深い絶望が混ざり合っている。

「……違います」

震える声を、どうにか形にして吐き出した。
ミヨコさんき気圧されそうになりながら、私はぽつりと、自分に言い聞かせるように言葉を継ぐ。

「……彼とは、何も、ありません。色々とお手伝いはさせていただいて、お世話になってはいますけど……本当に、何もないんです」

嘘ではない。彼が帯留めをくれたのも、お礼を受け取ってくれるのも、それは彼が底知れず優しい人だからであって、私が「特別」だからではない。
そんなことは、自分が一番よく分かっているはずだった。

「ちゃんと、身の程はわきまえています…。ミヨコさんが仰るように、私みたいなのが彼の隣にいるなんて、おかしいってことも…」

うつむくと、足元の土の乾いた色が視界に入る。
新派劇の主役を務める彼女の、白く美しい指先。それに比べて、私の手は蝶屋敷でのお手伝いで小さな傷が絶えず、お世辞にも綺麗とは言えない。
彼女が必死に磨き上げた"想い"と、私の"幸運"を並べた時、どちらが尊いかなんて考えるまでもなかった。

「だから……そんなに、怒らないでください」

蚊の鳴くような声でそう言うのが、私には精一杯だった。

「はあ?何をそんな被害者みたいな顔をして。何もありません、ですって?笑っちゃうわ」

彼女を否定する言葉なんて、一つも持っていない。ただ、彼女の絶望を目の当たりにして、私は自分がどれほど無防備に彼の優しさに甘えていたかを突きつけられ、立ち尽くすことしかできなかった。
ミヨコさんは苛立たしげに自身の袴の裾を払うと、ふと、竹林の合間から見える空を仰ぎ見た。

「……もうこんな時間じゃない」

彼女の瞳に、先ほどまでの怒りとは別の、本能的な恐怖の色がよぎった。
日が暮れれば、ここから町までの道は街灯一つない暗闇に包まれる。そして、暗闇はこの世界において、何よりも忌むべき"鬼"が出てくる時間だ。

「こんな気味の悪い場所、日が暮れたら何が出るか分かったものじゃないわ。…今日はもう帰るわよ。女優の私が、こんな山道で怪我でもしたら一生の不覚ですもの」

ミヨコさんは自分に言い聞かせるように早口でまくし立てると、最後に私を射抜くような視線を向ける。

「いい?今日の言葉、忘れないことね」

そのまま一度もこちらを振り返ることなく、足早に坂道を下っていった。
残されたのは、ざわざわと鳴る竹の葉の音と、急速に色を失っていく夕闇。
そして私の胸の中に深く突き刺さったままの、鋭い棘のような言葉だった。








「……身の程、か」

思考が濁ったまま、私はただ足を動かした。
早く蝶屋敷に帰らなければ、アオイさんや三人娘が心配するだろう。夜道を歩く私を、しのぶさんにだって叱られるかもしれない。
分かっている。分かっているのに、どうしても今の顔でみんなの待つ"家"に帰ることができなかった。

足元の土の色が、いつの間にか硬い石畳に変わっている。ぼんやりと顔を上げれば、そこには夕闇を押し返すような電灯の明かりと、家路を急ぐ人々の賑わいが広がっていた。
無意識のうちに、私は竹林の坂を下り切り、町にまで降りてきてしまっていたらしい。
どうしよう…。今から戻っても、夕餉には間に合わない。
立ち止まった私の横を、笑い合う家族連れが通り過ぎていく。どこかから漂ってくる煮物の匂いが、胸の奥をきりりと締め付けた。

何を今更。そんなこと、ずっと前から分かっていたはずだった。
私が冨岡さんの隣に並ぶ資格なんてないことも、ただの偶然と幸運で、分不相応な場所に座らせてもらっているだけだということも。
ミヨコさんのように正面からぶつかる覚悟もないまま、ただ"お手伝い"という都合のいい名目に逃げ込んで、彼の底知れない優しさに甘えていただけ。
今まで見ないふりをして蓋をしてきた自分の臆病さを、今日、彼女に真っ向から暴かれただけなのだ。
それなのに、どうしてこんなに視界が滲んで、足元が頼りないのだろう。

帰らなきゃ。帰って、また明日の仕事をしないと。
自分に言い聞かせても、重くなった足は一歩も前へ進もうとしない。
賑やかな通りの中で、私はただ一人、流れていく時間に取り残されたような心地で立ち尽くしていた。

「…あら、もしかしてリサちゃん?」

その時、ふいに弾むような声が降ってきて私は振り返った。そこに立っていたのは、夜でも一際鮮やかに映える桜色の髪――。

「やっぱりリサちゃんだぁ!まさかこんなところで会えるなんて、嬉しいわ!」
「甘露寺、さん…?」

絞り出すような声でその名を呼ぶと、彼女は大きな瞳をさらに見開いて、ぱあっと花が綻ぶような笑顔で笑った。
甘露寺さんとは、以前しのぶさんに紹介してもらった時に一度挨拶をしたきりだ。けれど、とても嬉しそうにこちらに駆け寄ってきてくれる。

「元気だった?しのぶちゃんのところで毎日一生懸命頑張っているんですってね」

甘露寺さんはそう言って、私の目の前で止まると、迷わずそっと私の両手を包み込む。

「今日は町にお買い物?それとも、誰かと待ち合わせかしら。…あら、少しぶりだけど、なんだか前よりずっと可愛くなったみたい!」

一人で何役もこなすような賑やかさで、甘露寺さんは次々に言葉を紡いでくれる。
私もなんとか失礼のないように、失礼のないようにと、精一杯の返事を紡いだ。
けれど、その言葉がちゃんと意味をなしているのか、今の私の顔がどんな風に彼女の目に映っているのか、さっぱり分からなかった。

「任務でなかなか行けなかったんだけど、また会いたいなってずっと思ってたの!本当よ?」

私が無理に作ったであろう微笑みを返すと、握られていた手のひらに、きゅっと力がこもる。
甘露寺さんはふと、その大きな瞳をさらに近づけて、私の顔をじっと覗き込んだ。

「リサちゃん……」

花が咲いたようだった彼女の表情から、みるみるうちに色が引いていく。

「元気……じゃないわね」
「え?そうですか…?」
「うん。今のリサちゃん、なんだか心がどこか遠くへ行ってしまっているみたい。…それに、すごく悲しそう」
「そう、でしょうか…」

そう言われて、ようやく自分が傷ついているのだと知った。ミヨコさんに言われたことが、逃れようのない事実として胸にのしかかっているのだと。
…なんだ。本当に、身の程をわきまえられていなかった。その通りじゃないか。
何を一丁前に傷ついてるんだ。最初から分かっていたでしょう。冨岡さんが向けてくれる優しさは、私だけのものじゃないと。それをどのかで私だけの特等席だと勘違いして、無邪気に喜んでいた自分の浅ましさが露呈しただけ。
彼女のように死に物狂いで彼を追い求めている人がいる一方で、私は"手伝い"や"お礼"という名の免罪符を盾にして、彼の静寂を侵食していただけなのに。
一度そう思ってしまうと、繋がれた甘露寺さんの手の温もりさえ、今の自分には不相応なものに感じられてしまう。
悲しいというより、自分の愚かさがたまらなく恥ずかしくて、消えてしまいたい。

「……ちゃん。ねえ、リサちゃん?」

名前を呼ぶ声が微かに聞こえるけれど、指先一つ動かすことができない。感情が飽和して、心が思考を完全に止めてしまった。
私の反応がぷつりと途絶え、ただ立ち尽くすだけの状態になったことに、甘露寺さんが目に見えて慌て始める。

「どうしましょう、顔色が真っ白だわ…!私、何か気に障ることを言っちゃった!?ごめんなさい、そんなつもりじゃなかったの、本当に!…あっ、誰かに意地悪されたの?それとも、具合が悪いの?」

ぶんぶんと頭を振って私の顔を覗き込む彼女の気配は伝わってくる。けれど、私はそれに応える術を持たない。ただ、虚空を見つめて立ち尽くす人形のように、固まってしまった。
甘露寺さんはしばらく焦っていたが、私の様子がただ事ではないと察したのだろう。
努めて優しく、包み込むようなトーンに声を落とした。

「ねえ、リサちゃん。…お腹、空いてない?」


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