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「美味しいものを食べるとね、元気がでるの。私がとびきりのお店に連れて行ってあげるね!」
彼女は私の返事を待たず、けれど決して無理強いはしなかった。
手を引かれ町を進む。賑やかな大通りを抜けて角を曲がった先にあったのは、白塗りの壁に赤い煉瓦が映える、モダンな外観の建物。
中に入ると、バターや香ばしいソースの香りが鼻をくすぐる。
「さあ、座って!ここ、何を食べてもほっぺたが落ちちゃうくらい美味しいの!」
向かい合わせに座った甘露寺さんは、私の顔色を伺いながら、次々と運ばれてくる料理を私の前へ並べていく。
つやつやと輝くデミグラスソースがたっぷりかかったオムレツに、こんがりと焼けた厚切りのカツレツ。そして、食後用にと運ばれてきた、見たこともないほど山盛りの生クリームが乗ったプリン。その他にもたくさん。
「……あの、甘露寺さん。私、こんなに……」
「いいのよ、いいの。食べられそうなものだけで。ね?残りは私が食べちゃうわ。ほら、このオムレツ卵がふわっふわなの!」
彼女はそう言って、驚くほどの勢いで料理を頬張り、本当に幸せそうに頬を緩める。
私も震える手でスプーンを取り、一番手前にあった温かいビーフシチューを一口、口に含んだ。じわりと喉を通る熱が、冷え切っていた内臓を叩き起こしていく。
「……美味しい、です」
ぽつりと零れた言葉に、甘露寺さんは「でしょお!」と、今日一番の笑顔で応えてくれた。
「ここの料理人、とっても腕がいいのよ。リサちゃんは洋食好きかしら?」
「はい。…はい、好きです」
私は頷きながら、もう一口シチューを口に運ぶ。
…そう。とても好きだった。この時代に来るずっと前から、私は洋食が大好きだった。
以前の私なら、ただ純粋に「美味しい」と笑って、この贅沢な時間を楽しんでいたはずなのに。
なのに…どうして私は、今こんなことになっているんだろう。かつて私が生きていた場所では当たり前だったはずの味が、今はひどく遠い異国のもののように感じられる。
「…よかったぁ!リサちゃん、少しだけお顔に赤みが戻ってきたわ。美味しいものを食べると、心に元気が湧いてくるでしょう?」
「はい、本当に。……あの、甘露寺さんは食べることがお好きなんですか?」
目の前で、まるで魔法のように次々と料理を平らげていく彼女の姿に圧倒されながら、私はふとそんな問いを口にしていた。
「大好きよ!もう、生きていてよかったぁって思うくらい大好き!」
甘露寺さんはフォークを持ったまま両手を頬に当てて、幸せそうに身悶える。
「美味しいものを食べているときって、なんだか生きてるって感じがしない?お口の中に幸せが広がって、心まであたたかくなって……。私、美味しいものを食べるためなら、どんなに厳しい任務だって頑張れちゃうわ!」
そう言って彼女は、再び活き活きとした動きでカツレツを切り分ける。彼女のその迷いのない食欲を見ていると、自分の悩みがいかにちっぽけで、贅沢なもののように思えてくるから不思議だ。
「…本当に、美味しそうに召し上がりますね」
「そう?うふふ、嬉しいわ!私ね、昔から食いしん坊だって言われてきたけれど、今はこれが私の強さの源なんだって胸を張って言えるの。だからリサちゃんも、遠慮しないでどんどん食べてね」
胸を張って言える、という言葉が眩しかった。
自分の特徴を、それが世間からどう見られようと"強さ"だと肯定できる彼女の潔さ。
私には、そんなもの何ひとつない。自分のやっていることが正しいのかさえ分からず、誰かに否定されればすぐに足元が崩れてしまう。
彼女の明るさは、ただ性格が良いというだけではなくて、自分を信じているからこそ放たれる光なのだと思う。
その光に当てられて、私の弱くて不確かな自尊心が少し揺らいだ。
「その、甘露寺さんは……とっても強くてお優しいですね」
彼女のように、誰に対しても真っ直ぐに愛を注げる優しさと動じない強さ。それに比べて私は…。
甘露寺さんは持っていたフォークをそっと置いて、私の顔をじっと見つめた。
「…そうかしら?私はね、リサちゃんの方がずっと優しいと思うわ」
予想外の言葉に、思わず瞬きを繰り返す。
「……私が、ですか?」
信じられなくて聞き返すと、彼女はいたずらっぽく微笑んで顎に手を当てた。
「うん。実はね、いま鬼殺隊士たちの間で噂なのよ?蝶屋敷に、すっごく優しくて可愛い女の子がいるって」
「え……、絶対それ私じゃないです」
そんなの、凛としていて美しいしのぶさんか、あんなに可愛くて才能あふれるカナヲさんのことに決まっている。
私がそんな華やかな噂の主になるなんて、天地がひっくり返ってもあり得ない。
「うふふ、ううん、違うわ。みんな口を揃えて言うのよ。"薄紅色の着物に、鮮やかな橙色の帯を締めた女の子"だって。…それって、今のリサちゃんそのものじゃない?」
甘露寺さんは、まるで自分のことのように嬉しそうに声を弾ませた。
薄紅色の着物に、橙色の帯。それは今日、私が着ているお気に入りの組み合わせだ。でも…。
「私…、そんな、噂になるようなことなんて何も……」
「そうかな?」
甘露寺さんは、私が食べていたシチューの湯気を目線で追うようにしながら、楽しげに話を続けた。
「ひそひそ話をしている鬼殺隊の子たちを捕まえて、私少し詳しく聞いちゃったのよ。そしたらね、蝶屋敷に怪我をすると出会える天使様がいるんですけど、甘露寺さん知ってますか?なんて言うからびっくりするじゃない?それでね、私ね、」
「……甘露寺さん。そんな、あり得ません。だって、私、アオイさんの指示通りに汚れた布を替えて、お薬を塗っているだけです。特別なことなんて何一つしてないのに」
思わず甘露寺さんの言葉を遮って、必死に否定してしまった。
だって、あり得ない。私にできることなんて、せいぜい清潔な布を用意して、言われた通りに手当をするくらいだ。
傷を治すのはしのぶさんやアオイさんの的確な処置と薬の力であり、鬼を倒して人々の命を守っているのは、紛れもなく目の前の甘露寺さんや鬼殺隊士のような、強く気高い人たち。
…私はただ、彼らの痛がる顔を見るのが辛くて、せめて少しでも痛くないようにって、それだけを考えていただけ。
そんなのは"治療"ですらなく、ただの、私の弱さからくる気遣いでしかない。だから、そんな素敵な噂の主が私だなんて、どうしても信じられなかった。
それどころか、その"気遣い"こそが、相手にとっては余計なことなのかもしれないと言われてしまった。
「私のは、ただの迷惑、かもしれないんです……」
ぽつりと、自分でも驚くほど乾いた声が出てしまった。
ミヨコさんに「冨岡様も迷惑してる」と吐き捨てられたとき、心臓を直接掴まれたような衝撃を受けたのは、それが私の最も恐れていた最悪の図星だったからだ。
目の前の人の役に立ちたい。その気持ちの裏を返せば、相手がそれを望んでいるかどうかを確認もせず、自分の「優しくありたい」という欲求を押し付けていることになると。
特に、あの孤独で、静寂を愛する冨岡さんに対して。
「リサちゃんの言う『迷惑』って、なんだろう?」
ふいに、甘露寺さんが首を傾げた。さっきまでの楽しげな雰囲気とは少し違う、真っ直ぐな瞳が私を射抜く。
「少なくとも私は、そうは思わないな。誰かを想って動くことが迷惑だなんて……そんな悲しいこと、私は信じたくないわ」
「でも、迷惑だ、って言われたんです……」
「だって私、隊士たちから聞いちゃったのよ?」
甘露寺さんは私の言葉を優しく包み込むように、再び身を乗り出した。
「怪我が酷くて不安な時に、手当てをしてくれるリサちゃんの手がとっても優しいんだって。痛くないようにずっと声をかけてくれたり、うなされている時にずっと隣で手を握っていてくれたり……。そんなリサちゃんのあたたかさに、救われたどころか、好きになっちゃったって言ってた子だっていたわ。…もう、きゅんきゅんしちゃうわよね…っ!」
「え……?」
甘露寺さんの口から飛び出した言葉に、一瞬、思考が真っ白に染まった。あまりの突拍子のなさに、恥ずかしさや照れを感じる余裕もなかった。
ただただ、聞き間違いではないかという疑念と、そんなはずはないという強い拒絶感が、頭の中を埋め尽くしていく。
「誰に対しても優しく、分け隔てなく接する。それって、実は一番難しいことなんじゃないかな?」
「……そう、なんでしょうか」
「うん!少なくとも私はそんなリサちゃんがすごいなって思うし、好きになる人がいるのも納得したなぁ…」
甘露寺さんはそう言うと、スプーンで山盛りの生クリームが乗ったプリンを大きく掬い取り、ぱくっと一口で口に含んだ。
「んん〜っ!幸せ!」
まるで、宝石を見つけた子供のような顔で幸せそうに頬を緩める。
…そうか。そんな風に、私のお節介受け取ってくれる人もいたのか。
世界中の人たちが、みんな甘露寺さんの話してくれた隊士たちみたいに。そんな風に、好意的に受け取ってくれる人ばかりだったら、どんなにいいだろう。
そうすれば、誰かのために動くたびに「身の程知らずだ」と自分を責めることも、「迷惑なんじゃないか」とおろおろと怯えることもなくて済むのに。
…冨岡さんは、どっちなんだろう。結局、思考はそこに戻ってしまう。
「ほら、リサちゃんもたくさん食べて!元気がない時は、お腹いっぱい食べるのが一番なんだから!」
甘露寺さんは、私が少し顔を上げたのを見て、さらに元気よく皿をこちらへ寄せた。
そう言って、彼女自身は山盛りのカツレツやオムライスを次から次へと口に運んでいく。
そんな細い身体のどこに入っていくのか。見ているこちらが圧倒されてしまう。
「…ふふ」
こぼれ落ちた小さな笑い声に、甘露寺さんがぱっと顔を上げた。
「あ!やっと笑ってくれた!」
彼女は頬をリスのように膨らませたまま、大きな瞳を輝かせて私を覗き込んだ。
「やっぱりリサちゃんは、笑っている顔が一番可愛いわ!さっきは本当にお顔が真っ白だったから、私、心配で心臓が止まるかと思ったんだから」
ごくり、と一口飲み込んで、彼女は本当に安心したように胸をなでおろす。
私なんて自分のことで精一杯だったのに、こんなにも全力で心配してくれるなんて。駄目だな、私。人に心配をかけて。しっかりしないと。
「…はい、本当に美味しくて…元気が出ました」
私はスプーンを握り直し、今度はしっかりとビーフシチューを掬った。
*
お店を出ると、昼間のうだるような暑さは影を潜めていた。街灯の明かりが、石畳に二人の長い影を落としている。
「ふふっ、本当に美味しかったわね!あそこのプリン、今度は桶いっぱいに食べてみたいわぁ」
「桶、ですか……。甘露寺さんなら本当に食べられてしまいそうで、少し怖いです」
「もう、リサちゃんたら!でも、元気が出て本当によかった。やっぱり女の子は、美味しいものを食べて、たくさんお喋りするのが一番の養分よね」
竹林を揺らしていたあの風よりも、町の夜風はずっと穏やかで、遠くから聞こえる虫の声がどこか心地よい。
もちろん、さっきの言葉が完全に消えたわけではないけれど、今の私には隣で笑ってくれる彼女の熱の方が、ずっと確かなものになっていた。
「……あの、甘露寺さん。今日はご馳走になって、本当にありがとうございました。お忙しいのに、こんなに遅くまでお付き合いいただいて」
「いいのよ、気にしないで!私の方こそ、可愛いリサちゃんとお出かけできて、任務の疲れなんて吹っ飛んじゃったわ」
甘露寺さんはそう言って、私の腕に自分の腕を絡めるようにして距離を縮めてきた。
私は思わず頬を赤く染めてしまう。彼女から漂う、甘いお菓子の香りと花の匂い。その心地よさに身を任せていると、彼女がふと思いついたように私の方を向き直した。
「ねえねえ、リサちゃん。…さっきの続きじゃないんだけど、一つ聞いてもいい?」
「はい、何でしょうか」
「あのね、……リサちゃんって今、好きな殿方はいるの?」
「……えっ!?」
唐突すぎる問いかけに、足がもつれそうになる。
「わ、私ですか…?」
「ふふ、だってね。さっき隊士の子たちの噂話をしたとき、リサちゃんどこか申し訳なさそうなお顔をしていたから…。あんなに熱烈に好かれているのに、ちっとも浮き立ってない様子だったし、もしかしてって私ピンときちゃったの…っ!」
…当たっています。当たっています、甘露寺さん。さすがは恋の呼吸を司る『恋柱』というべきか。
もちろん、真っ先に頭に浮かんだのは冨岡さんの顔だ。けれど、それを彼と同じ柱である甘露寺さんに伝えてしまうのはどうなのだろう。
なにより、面と向かって「好きです」と認めるのがたまらなく恥ずかしい。
私が言葉を探して黙り込んでいる間に、隣を歩く甘露寺さんの気配が目に見えて華やいでいく。
「あら…!ふふ、ふふふっ!その反応、やっぱりいるのね!?」
「え、あ……それは……っ」
「いいのよ、隠さなくても!今のお顔の赤さが全部教えてくれたわ。もう、どうしましょう!きゅんきゅんしちゃう!」
甘露寺さんは、私の返事なんて待つ必要もないといった様子で、一人で頬を染めて胸を弾ませている。
一度火がついた彼女の好奇心は、すぐには収まらない。
「ねえねえ、どんな人なの?やっぱり鬼殺隊の人?それとも、蝶屋敷に来る誰かかしら?ああ、もう気になるわぁ!」
甘露寺さんは鈴を転がすような声を弾ませながら、私の腕を軽く揺らしたり、自分の頬を両手で押さえたりして、まるで夢見る少女のように上機嫌だ。
私はただただ、火照った顔を隠すように俯くことしかできない。
甘露寺さんは一度足を止めると、夜空に浮かぶ三日月を見上げるようにして、さらに声を一段と明るくした。
「…実はね、私にもいるの!とっても素敵で大好きな人が!」
「えっ……!?」
まさかの告白に、今度は別の意味で心臓が跳ねた。
こんなに強くて、美しくて、誰からも慕われていそうな甘露寺さんにも、そんな風に想いを寄せる相手がいるなんて。
「本当ですか…?」
「本当よ!その人のことを考えるだけでね、胸がいっぱいになってごはんもいつもの倍くらい食べられちゃうの!」
彼女の口から語られる「好きな人」という言葉には、隠しきれないほどの熱量と、純粋な想いが詰まっていて、聞いているこちらの胸まで熱くなってしまうほどだった。
甘露寺さんをこんなにキラキラさせる人。一体、どんなに素敵な方なんだろう。
私には、その方の正体など想像もつかなかったけれど。けれど、恋心を語る彼女の横顔は、とても誇らしげに見えた。
「だからね、リサちゃん。好きな人を想う気持ちは誰にも止められないし、とっても尊いことなのよ。迷惑だなんて、そんな悲しいこと言わないで?」
甘露寺さんは再び歩き出しながら、私の手を優しく、けれど力強く握りしめた。はっとして、繋がれた手を見つめる。
ああ、そうか。甘露寺さんは、最初から全部わかっていたんだ。私が今日、ボロボロになって、自分のすることを「迷惑だ」なんて卑下して閉じこもっていた理由。その根底にあるのが、ただの悩みではなく恋なのだと。
ただ元気づけるためだけじゃなく、このままならない想いごと救い上げようとしてくれていた事実に、胸の奥がじんわりと熱くなった。
「……ありがとうございます、甘露寺さん」
声が少しだけ震えてしまったけれど、今度は俯かずに彼女の真っ直ぐな瞳を見つめ返して言えた。
「ふふ、いいお顔になったわね!やっぱり美味しいものは正義ね!」
甘露寺さんは満足そうに頷くと、繋いだ手をさらに前後に大きく振って歩き出した。
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